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第288回講演会
卑弥呼がもらった鏡


 

1.「証明」は数学と同じように、一歩一歩確実に

鏡のことを通じて、邪馬台国畿内説は成立し得ない。九州説は成立すると云うことを「証明」してみたいと思う。

証明の仕方という意味では、畿内説の学者は、往々にして次のような論理を展開する。

Aということが成り立ちそうである。Aが成り立つんではないかと考える。そうするとそこからBが成り立ちそうである。

Bが成り立つとすれば、Cが成り立ちそうである。それが成り立てば、Dが成り立ちそうである。Dが導かれたのでDが正しい結論である。

しかしこれは、ひとつひとつの段階がきちんとした論理的な証明になっていない。「Aであるとすれば」という仮定が、いつのまにか、「Aは正しい」と言う前提になっていく。

仮定や想像を何段階も重ねて得た結論は、大変危ういものになる。

安本先生のロジックはどうか。

Xという結論は、Aからも導かれるし、Bからも導かれる。Cからも、Dからも導かれる。そして、A、B、C、D は互いに無関係で独立である。

Aからも九州説が導かれる、Bからも、Cからも、Dからも九州説が導かれる。独立したさまざまなアプローチが同じ結論を指し示す。だから九州説は確かなのだという議論である。

写真で太陽の動きを写して見れば、太陽は東の地平線から昇って西の地平線に沈む。一見、太陽が地球の周りを回るという天動説が正しいように見える。

しかし、地動説の立場でも、このような動きは説明できる。そして、太陽の動きをはじめ、さまざまな観測事実を天動説よりも確実に説明できる。

だから、現在は、地動説が正しいとされている。

異なる立場で考えてみて、どちらの立場がより正確に説明ができるか検証することが大事である。

地動説を称えたガリレオは、自分の望遠鏡を覗いてみてほしいといっていた。しかし、天動説の立場に立つ人々は、それを拒否したそうである。

天動説の人たちは、他の立場に立って考えることをせず、自分たちの論理だけで天動説に固執した。

これは邪馬台国論争でも同じ事が言える。畿内説の研究者は、自分たちの世界の中だけで独断的に結論を出し、九州説の主張について触れようとしない。

異なる立場から見たときには、うまく説明ができないと言うことを確かめなければ、自分の主張が正しいとは言えない。

異なる立場のほうが、より整合的に説明ができた場合には、自分の主張を修正するなり、なんらかの対処が必要になるからである。

畿内説の学者の議論では、土器編年をはじめ、根拠のあげ方が不透明である。

前提が良く分からないのに、自分は正しいと断定的に言い切る学者が多いのも問題である。


2.複数のアプローチによる証明

これまでにも解説したが、いくつかの独立したアプローチから、邪馬台国は九州であり、畿内説は成立しないことを具体的な根拠を挙げて説明する。

■ 文献学的年代論

文献から見ると、古代の天皇のおよその在位期間を知ることができる(下図)。崇神天皇は4世紀後半の人である。

『日本書紀』によれば、箸墓は崇神天皇の時代の倭迹迹日百襲姫の墓である。すなわち、卑弥呼の時代よりも100年ほど新しい4世紀の古墳である。

文献を忠実に読めば、箸墓を卑弥呼の墓と主張する畿内説の学者の論理は成り立たない。

『古事記』『日本書紀』を後世に大和で創作されたものだとし、倭迹迹日百襲姫の伝承も真実ではないとする主張がある。

しかし、記紀が大和で創作されたのならば、伝承の舞台が大和であってしかるべきだが、実際の記紀神話の舞台は、九州や出雲である。

記紀神話が後世の創作ではなく、神話伝承が九州や出雲で起きた実際の出来事を伝えていると考えられるのである。



■ 炭素14年代

橿考研の発表したホケノ山古墳出土の小枝試料の推定西暦年分布のデーターでは、ホケノ山古墳の築造年代が確率分布で表現されている。

このデータは、81.5%の確率で、ホケノ山古墳の築造年代が西暦320年から420年の間であることを示している。つまり、「ホケノ山古墳の築造が320年〜420年である」と言った時、これが当たっている確率が81.5%であることを意味している。

「明日、晴れる確率が80%である」というのと同じ程度の確率で、ホケノ山古墳の築造年代を判断することができる。

ホケノ山古墳の築造が320年〜420年だとすると、ホケノ山よりもあとの築造とされる箸墓古墳は4世紀以降の古墳と言うことになり、邪馬台国の時代には持って行けない。

この結論は、上の文献学的年代論で得た結論と同じである。文献学的年代論と炭素14年代は全く独立の方法であり、無関係のアプローチであるが、このように同じ結論を得ることができるのである。

歴博はこのあたりの年代をごまかしている。自分の都合の良いデータだけを取り上げて自分たちの結論を導いている。

畿内で最も古いお墓のひとつであるホケノ山古墳が4世紀だとすると、3世紀の邪馬台国時代の畿内には、お墓らしいお墓がなにもないことになる。畿内説は成立しない
 

3.卑弥呼がもらった鏡

きょうの本題。鏡の分析からも、上記と同じような結論が得られることを説明する。

第279回でも説明したが、中国の洛陽焼溝漢墓と洛陽晋墓出土の鏡が、鏡の絶対年代を与えてくれる。

■ 洛陽焼溝漢墓の鏡

・洛陽焼溝漢墓の第1期から第6期の鏡
推定実年代BC118-74
前漢中期
BC73-33
前漢中期
BC32-6
前漢晩期
7-39
王莽
40-75
後漢前期
76-146
後漢中期
147-190
後漢晩期
流行時代第一期第二期第三期 第四期第五期第六期
前期後期
鏡型
  草葉文鏡1
  星雲鏡43
  日光鏡385
  昭明鏡3106
 @変形四蠣文鏡92
 A四乳鏡312
 B連弧文鏡1
 C規矩鏡432
 D雲雷文鏡4
 E鳳文鏡1
 F長宣子孫鏡15
 G四鳳鏡1
 H人物画像鏡1
 I変形四葉鏡2
 J三獣鏡1
  鉄鏡7
注 日本での鏡名
@四爬鏡E鳳鏡
A四乳四禽鏡、八禽文鏡、四獣鏡、方格四乳鏡などF長宣子孫銘内行花文鏡
B日光鏡、昭明鏡を除く異字体銘の連弧文「日有喜」銘鏡、
連弧文「精白」銘鏡の類
G四鳳鏡
H人物画像鏡
C方格規矩(四神)鏡I獣首鏡鏡
D雲雷文内行花文鏡J盤竜鏡


洛陽焼溝漢墓の第6期(後漢晩期)に属する墓の陶器に、西暦170年(建寧3年)、190年(初平元年)にあたる年を、朱で記したものがあった。

これから、洛陽焼溝漢墓の最後の時期はおよそ190年ごろと云えるだろう。これは考古学者の与える土器の年代よりもはるかに確実な情報である。

この時期の洛陽焼溝漢墓からは、長宜子孫銘内行花文鏡が多く出ている。

長宜子孫銘内行花文鏡が日本のどの地域から出土しているかを調べると、福岡県など圧倒的に九州が多く、奈良県からの出土はない。

長宣子孫銘内向花文鏡の内向花文というのは、内側に向かって付いている花びらのような模様のことで、「長宣子孫」の文字が入っているので「長宣子孫」銘内向花文鏡と呼んでいる。

長宣子孫銘内向花文鏡を詳しく見ると、真ん中の鈕のまわりの「四葉紋」が時代により変化する。

この文様は、はじめはスペードのような形であったが、新しくなるに従って肩がもり上がり、そこが蝙蝠のような形になって、最後は、糸巻きのようなところに4つの蝙蝠が付くかたちになる。

四葉紋の部分が蝙蝠のようなタイプVのものを蝙蝠鈕座内向花文鏡と呼んでいる。また、タイプWの糸巻き型のほとんどは内行花文鏡とは別のタイプの鏡である。

「四葉紋」鈕座の変化を上図のように4タイプに別けているが、その具体例を示す。

鈕座
タイプT雲雷文内向花文鏡:
中国名「雲雷紋連弧文鏡」、後漢中期、直径19cm
雲雷文があり、初期のものである。
雲雷文は外区の何重もの円圏のような文様のなかに、8個の小さいカッコ文様があり、 そのカッコ文様のなかに、小さい円があるものをいう。四葉座のまわりも、円がかこんでいる。
日本では前原市の平原遺跡と岡山市の備前車塚古墳から出土している
タイプU「長宜子孫」銘内向花文鏡:
後漢後期鏡、直径19.2cm
四葉座、雲雷文は失われている。四葉の葉っぱの両端がもりあがったような 形になる。四葉座のまわりを、円が囲んでいる。
タイプV「長宜高官」銘内向花文鏡:
後漢後期鏡、直径13cm
蝙蝠鈕座。
この鏡の銘は「長宜高官」であるが、報告書『洛陽焼溝漢墓』の筆者は 「長宜子孫」銘連弧文鏡のグループにいれている。
福岡県行橋市の前田山遺跡(弥生後期後半〜終末)の石棺から素環頭刀1本とともに出土。
タイプW「暫定的に「変形四葉紋鏡」と名づけられたもの
後漢後期鏡、直径8.3cm
4文字の銘文があるが、「高」の字だけがよみとれる。


■ 洛陽晋墓の鏡

洛陽晋墓は、西晋の時代(265〜316年)の墳墓であり、ここから24面の鏡が出土している。

ここからは墓誌が3つ出土しており、いずれも西暦300年ごろの年代が記してあるので、鏡の年代を知る手がかりになる。

蝙蝠鈕座内行花文鏡は、洛陽焼溝漢墓からも洛陽晋墓からも出土している。そうすると、西暦190年ごろから300年ぐらいまで、洛陽の都では蝙蝠鈕座内行花文鏡が使われ続けたことになる。

すなわち、蝙蝠鈕座内行花文鏡は邪馬台国の時代に中国で行われていた鏡である。

卑弥呼が魏からもらった鏡は、当時の都の洛陽で行われていた蝙蝠鈕座内行花文鏡のような鏡であろう。そして、その鏡は、日本では九州を中心に出土し、奈良県からは全く出ない。

中国と交流した邪馬台国は九州にあったと考えるべきである。畿内説は成立しない。

洛陽焼溝漢墓からも洛陽晋墓からも出土する蝙蝠鈕座内行花文鏡であるが、詳しく見ると文様に少し違いがある。洛陽晋墓の鏡には円がひとつ多いのである。

日本からは、洛陽晋墓のタイプも洛陽焼溝漢墓のタイプも両方出土している。洛陽晋墓のタイプが邪馬台国時代の遺跡から出土した鏡と考えられるのである。

洛陽晋墓タイプ
西晋(265〜316)時代の鏡
洛陽焼溝漢墓タイプ
後漢晩期(147〜190)時代の鏡
特徴焼溝漢墓タイプに比べると蝙蝠鈕座の外側に円がひとつ多く描かれている。蝙蝠鈕座と内向花文の間に円がない
洛陽出土
洛陽晋墓出土の蝙蝠鈕座内行花文鏡。直径12.1センチほど。

洛陽焼溝漢墓出土の蝙蝠鈕座内行花文鏡。直径13センチ。
九州出土


これこそ邪馬台国時代の遺跡から出土している鏡と考えられる。
福岡県前原市の三雲寺口遺跡(弥生後期終末)出土の蝙蝠鈕座内行花文鏡。
直径15.5センチ。箱式石棺から鉄鏃一個と共に出土。

同種のものは、福岡県筑紫野市御笠地区、福岡県宗像市久原遺跡などからも出土している。

福岡県行橋市の前田山遺跡(弥生後期後半〜終末)出土の蝙蝠鈕座内行花文鏡。
直径9.85センチ。石棺墓から素環頭太刀一本とともに出土。

同種のものは、福岡市の野方中原遺跡、福岡県粕屋郡の上大隈平塚古墳などからも出土している。


蝙蝠鈕座内行花文鏡は、前述のように九州から多数出土するが、福岡県では、邪馬台国時代の墓と考えられる、箱式石棺から出土するものがある。これも、蝙蝠鈕座内行花文鏡が卑弥呼の鏡であることを支持する。



蝙蝠鈕座内向花文鏡は、魏があった中国の北方の黄河流域から出土している。いっぽう、画文帯神獣鏡や平縁の神獣鏡は、神獣鏡は中国の南方の揚子江流域から出土する。(下図参照)三角縁の神獣鏡は中国からは一枚も出土していない。







■位至三公鏡

位至三公は鈕座を挟んで上下に「位至」と「三公」の文字が配されている。

「位、三公に至る」とは、三公(大臣などの高い地位)にまで出世するようにといった意味の吉祥句である。

位至三公鏡についても、蝙蝠鈕座内向花文鏡と同じようなことが云える。

すなわち、後漢晩期から西晋の時代に行われ、洛陽付近で19面が出土するなど中国北方に分布し、日本では九州で多数出土する。

中国社会科学院考古研究所の所長をされた徐苹芳氏は、位至三公鏡について次のように述べている。

「日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」

徐苹芳氏はまた、卑弥呼が魏と西晋から獲得した鏡について、次の5種類である可能性が高いと述べる。
  • 方格規矩鏡
  • 内行花文鏡
  • 鳳鏡
  • 獣首鏡
  • 位至三公鏡
北京図書館出版社の『洛陽考古集成』「秦韓魏晋南北朝巻」上下巻に記載される位至三公鏡は全部で19面である。

これらの鏡の年代については、1面が後漢晩期とされ、3面が魏の晩期から西晋早期、残りの15面は西晋時代とされ、圧倒的に西晋の時代(265年〜316年)の鏡が多い。

時代年代出土地(直径)
西晋285年山東(記載なし)
西晋285年江蘇(9.8cm)
西晋287年浙江(8.3cm)
西晋289年遼寧(8cm)
中国の位至三公鏡の中には、墓誌によってその年代が明らかにされているものがある。すべて西晋の時代である(右表)

西晋は、卑弥呼の時代よりも後の時代である。

位至三公鏡は、九州の福岡県や佐賀県から多数出土している(下表)。

これらのことは、卑弥呼の時代のあとの西晋の時代まで、中国と交流のあった日本列島の中心勢力は北部九州にあったことになる。

すなわち、邪馬台国は九州にあったと考えられるのである。



■画紋帯神獣鏡

三角縁神獣鏡は崇神天皇の時代の4世紀型古墳から多数出土している。

画文帯神獣鏡は、古い方ではホケノ山古墳から出土し、新しい古墳では、群馬県の八幡観音塚古墳から馬具と一緒に出土するなど、5世紀、6世紀の古墳からも出土している。

三角縁神獣鏡に比べると、画文帯神獣鏡の方が出土する年代の範囲が広い。

しかし、全体的な傾向を見れば、三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡を一緒に出土している古墳もあることなどから、大まかに言えば、三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡は同じ時代に行われていたと考えられる。

画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳も、4世紀の古墳と思われる。



近畿地方を中心とする分布のしかたもよく似ている。





■ まとめ

以上みてきたことをまとめると、次のような法則性がある。

蝙蝠鈕座内行花文鏡・位至三公鏡など、福岡県を中心として分布するのは邪馬台国時代の遺跡・遺物であり、三角縁神獣鏡・画文帯神獣鏡・巨大前方後円墳など、奈良県を中心に分布するのは古墳時代の遺跡・遺物である。

詳細な内容を整理すると、

福岡県を中心に分布するもの奈良県を中心に分布するもの
  • 蝙蝠鈕座内行花文鏡
  • 位至三公鏡 以上二つは西暦190年前後から西暦300年前後まで中国で行われていた。
  • 「長宣子孫」銘内向花文鏡
  • 王仲殊氏、徐苹芳氏ら、中国の考古学者が「魏晋鏡」で卑弥呼がもらったとする 一連の鏡。1,2 以外に鳳鏡、獣首鏡などを含む。
  • 『魏志倭人伝』に記載のある鉄鏃
  • 矛(鉄の矛・銅の矛)
  • 5尺刀にほぼあたるとみられる長い刀
  • 刀子その他の鉄製品
  • 勾玉(硬玉製・ガラス製)
  以上のうち4,5,6,7,9,10などは『魏志倭人伝』に記載がある。
  • 全長80メートル以上の前方後円墳
  • 全長百メートル以上の前方後円墳
  • 三角縁神獣鏡
  • 画紋帯神獣鏡
  • 竪穴式石室
  • 壁玉製製品
  • 円筒埴輪T・U式の出土する古墳
  • 布留式土器の出土する古墳


以上、説明してきたように、つぎのような独立な根拠に基づいて検討した結果、いずれのアプローチでも邪馬台国は九州であるという同じ結論が得られた。
  • (a)天皇の1代平均在位年数にもとづく統計的年代論、
  • (b)炭素14年代法にもとづく年代論
  • (c)『魏志倭人伝』の記述
  • (d)墓誌などにもとづく、中国鏡の年代



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