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第289回特別講演会
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1.文献からみた古代山城 安本美典先生 |
■ 直木孝次郎著『日本の歴史2 古代国家の成立』(中央公論)による概説
663年に白村江の戦いで大敗した後、中大兄皇子がとった外敵防衛策。
その他にも、大阪府の高安城、佐賀県の記夷城など多くの山城が知られている。 ■ 神籠石 『国史大辞典』5(吉川弘文館刊)によると、神籠石とは古代山城の遺跡であり、現在、福岡県に6箇所、佐賀県に2箇所、山口県に1箇所が確認されている。 岡山県の鬼ノ城や愛媛県の永納山城(えいのうざんじょう)もこの系統である。 神籠石が学会に紹介されて以降、その正体を廻って大正の初頭までいわゆる神籠石論争が展開された。
山口県の石城山の場合は、列石の上に版築による土塁がおおっており、列石が土塁の根止め石であることが明らかにされ、おつぼ山では、列石の前に外柵があり、これに横木が取り付けられていることがわかった。このようなことから神護石が山城であることが明らかにされている。 |
2.西日本の古代山城 古代山城研究会代表 向井一雄先生 |
■ 城の種類
中国 版築の城 版築の壁で囲った城で、漢字の「城」は土が成ると書く。 朝鮮 石の城 日本 堀の城 ■ 朝鮮半島の城 度重なる大陸勢力の侵略と戦乱のなかで、古代朝鮮の歴史と風土が創り出した 城郭と防衛システム。 日本の古代山城が朝鮮山城と呼ばれているのは朝鮮にある山城に似ているためで、百済の人が造ったからではない。 ■ 神籠石系山城 北部九州や瀬戸内の神籠石系山城については、いつ、誰が、何のために造ったのかわかっていない。
日本の古代山城は築造年代や性格が不明なため、歴史資料として活かされていない。 古代山城は、日本の古代国家形成史の解明の鍵をにぎる。 ■ 霊域説vs山城説 喜田貞吉らの霊域説を柳田国男が批判した。喜田は磐境説を撤回したが神籠石の名称は使い続けた。そのため、神籠石という名称が広く認知されてしまった。 神籠石とは、本来、列石のことではなく、「磐座(神体石)の一種」を指した名称であり、「皇后石」、「神護石」など多くの当て字がある。 最近発掘された神籠石系山城の学術的表記では、「神籠石」の名を付けない。 実質的には山城説優位で推移したが、大正3年、山城説・神域説、双方とも決め手を欠き、双方“痛み分け”で休戦状態に入る。 ■ 山城について今までの諸説、 原田大六 「神籠石愚城論」 583年、達率日羅の「要害の地に城を築け」という奏言が契機で神籠石を築造。ただし、朝鮮の城をよく知らないで築いたため、役に立たない城になった。原田はこれを「見かけ倒しの愚城」と評価。 その後、天智紀に新規に山城が築城された。 昭和38,39年におつぼ山、石城山が発掘調査され、列石の上に版築の土塁があり、列石の全面には柱列のあることが判明し、神護石は山城であることが確定した。 神護石の築城年代については、さまざまな意見が出た。
瀬戸内地域で、文献に記載のない山城が発見され、関心を集めるようになった。 研究者が、さまざまな見解を発表。
■ 近年の調査の成果 1990年代から新たな山城が発見された
九州の山城でも新しい時代の遺物が発掘されることがある。しかし従来の説で古いとされている山城の場合、従来の説と合わない遺物は発掘結果を発表しない場合があるようである。 対馬の金田城出土の土器編年から、2つの時期の土器の存在が明らかにされている。ひとつは須恵器の飛鳥V(7世紀中葉から670年位)で、もう一つは飛鳥W、X(680年位から8世紀初め)という形式である。これは遺構調査からの推定年代とも合う。 大野城は水害を蒙ったことを契機に大規模な発掘が行われ、従来知られていなかった列石や柱があることが分かった。これで、列石のある城が文献にない城で、列石がない城が文献にある城であるという説は崩れた。 鬼の城で城門の跡が調査されコの字型の礎石が出てきた。瀬戸内の山城は特殊な形で、鬼ノ城の四角い柱は瀬戸内と共通と考えられる。門の礎石については、大野城は丸い柱(一部四角い柱)で、近畿地方の平城京や藤原京も同じ。実際に門が据え付けられたのは鬼ノ城だけで他はない。 飛鳥の酒船石で丘陵を囲むように700mの石垣が見つかった。これが古代山城かどうかは不明。また、明日香の丘陵上の甘樫丘に蘇我氏の邸宅跡と言われる石垣がある。これも朝鮮式山城と言われているが、これは貼石で石垣でない。 飛鳥の南、和歌山方面に抜けるところに掘っ立て柱の遺跡である「森カシ谷遺跡」が ある。中央部分に大きな穴があり、ここで狼煙(のろし)をあげたと言われているが、狼煙の跡はない。また、山の上に砦的なものがあって、飛鳥を取り巻く羅城の存在を主張する人もいるが、一ヶ所しかないので飛鳥周辺にそのようなものがあったとは言えない。 ■ 分布論 古代山城の分布は一見、北部九州から瀬戸内海経由で畿内に向かう、敵の侵攻ルートに沿った縦深シフトと解釈できるが、
斉明天皇の築城説が根強いが、神籠石系山城の分布の中心は斉明天皇の朝倉宮ではなく、明らかに大宰府を中心としている。 従来、文献記録のあるものを朝鮮式山城、文献記録のないものを神籠石系山城とする見解があったが、この考えは成り立たなくなってきた。朝鮮式山城と神籠石系山城は、古代山城として一括して編年すべきで、文献記録ありなしによる定義は見直しの時期に来ている。 ■ 百済式山城という幻影 百済の人が作ったので百済式山城といわれるが、百済山城の実態は最近ようやく分かってきた(栢嶺山城、聖興山城など)。 日本の山城は朝鮮半島と異なる所が多く日本独特の特徴も多い。日本の山城は、朝鮮半島城郭のデッドコピーではない。日本式山城と言ってもよい。
■ 列石の役割 列石の役割は土留めとされてきたが、土塁基底部を雨水・霜の浸食から守るためのようだ。
古代山城を中心に半径11kmの円を描くと隣の山城と重ならない。また複数の地域中心地と等距離にある。地域の何らかの計画によって作られたのか。 例:鬼ノ城、大廻小廻山城/屋嶋、永納城、石城山 山口県方面以外では駅路に沿って配置されている。
■ まとめ
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