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第284回講演会
出雲神話の世界・日本国家の起源


 

1.炭素14年代論続報

2009.10.22の週刊文春は、ジャーナリストの河崎貴一氏による「箸墓古墳『卑弥呼の墓』にダマされるな」とする記事を掲載した。

記事の内容は、5月の日本考古学協会での歴博の発表を批評する立場から書かれていて、「歴博仮説が成立する可能性は1〜5%以下で、統計学上は成立しない。」とする安本先生のコメントや、「百年近く異なる土器付着物と、木の実などの炭素年代を区別せず議論していて、まったく容認できません。」とする新井宏氏のコメントを載せている。

筆者の河崎氏は、歴博の発表に対し、邪馬台国九州説はもちろん、畿内説の学者からも容認できないとの主張が多いとし、「百年の邪馬台国論争に終止符を打つにはまだまだ時間がかかりそうだ。」と結んでいる。

歴博の研究には、関係する学者が多く、文部省の予算も付いている。おまけに歴博の意見だけを発表する朝日新聞の渡辺記者が全面的に支援しているので、歴博は、都合の良いネタをどんどんマスコミに発表するなど、物量で反対意見を包囲する作戦を展開している。しかし理論的にはお粗末で、中心部分は空っぽのような感じがする。

歴博と戦うには、戦略的には少数勢力が大勢力に挑むときの戦い方で立ち向かうしかない。

季刊邪馬台国の100号、101号、102号、103号で、歴博の主張には根拠がないことを詳しく述べたり、宝島社から『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を突く』という本を急遽発刊したり、あるいは、今回のように週間文春に取り上げてもらったりしているが、大新聞のマスコミ攻勢に比べるとまだまだ局所的な戦いであり、歴博の暴走を押さえるのはなかなか大変である。

しかし、根拠のない説は、一時は勢いが盛んであっても、長い時間が経てば、いずれは崩れると思う。


2.出雲神話の世界・日本国家の起源

■邪馬台国

かつて、記紀の中には、おぼろげにでも邪馬台国のことが記されているとするなら、それはどの天皇の時代であろうかという疑問を持っていた。

しかし、古代の天皇の平均在位期間が約10年であることが判明し、ここから推論すると、初代の神武天皇の在位年代は280〜290年ごろになり、237年に魏に使者を送った卑弥呼の時代は、記紀では神武天皇以前の神話の時代ということになる。 『魏志倭人伝』に記述されたものの出土状況を福岡県と奈良県で比較してみると、圧倒的に福岡県に多い。つまり、邪馬台国は北部九州にあったと考えられる。

北部九州では、墓制が右表にように変化している。

墓の形式時期備考
甕棺紀元前 〜180年
箱式石棺180年〜300年邪馬台国の時代
竪穴式石室300年〜400年
横穴式石室400年〜600年


すなわち、箱式石棺の時代が卑弥呼のいた邪馬台国の時代である。

箱式石棺の時代に、北部九州で出土する遺物をみると、つぎの4地域に集中している。
  • 糸島半島
  • 博多湾沿岸
  • 朝倉市甘木地区
  • 吉野ヶ里遺跡の付近
糸島半島は伊都国、博多湾沿岸は奴国に比定されているので、朝倉市甘木地区や吉野ヶ里遺跡付近の筑後川流域が邪馬台国のあった地域ということになる。

そして、高天原は、かつて夜須川(天の安の河)と呼ばれていた小石原川が流れている甘木地区ではないかと思うのである。

■出雲神話

邪馬台国の後の時代については、出雲の国譲りの話がある。出雲の国は大国主命が治めていたと記される。

津田左右吉の影響で神話への批判が盛んだった戦後の時代には、出雲地方に大きな遺跡が発見されていなかったこともあり、出雲神話はまったくの作り話とされていた。

しかし、神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から大量の銅剣、銅鐸が発掘され、出雲地方が見直されてきた。出雲神話の背景には、この地域の歴史の痕跡が含まれているのではないか。

たとえば、出雲神話に稲佐(伊那佐)という地名が現れる。

高天原から建御雷男神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が大国主命と談判するために出雲大社の東側に位置する稲佐の浜へ行く話である。

ここで、天鳥船神とは船が擬人化されたものと考えられるので、建御雷男の神たちは、高天原から出雲の稲佐へ船で行ったことになる。

北部九州から出雲へは、船で行くことが可能だが、近畿から出雲へは船で行くのは難しい。

すなわち、高天原は近畿ではなく、北九州であると考えられるのである。

談判の結果、大国主命は高天原勢力に出雲の国を譲り、高天原から天菩比命(あめのほひのみこと)が遣わされて、出雲の国造の祖先となる。

神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から、大量の銅剣、銅鐸が出土した。これは、大国主命が高天原勢力に国譲りをしたとき、大国主命勢力のシンボルの銅鐸を地面に埋めてしまったのではないか。敗戦直後に日の丸の旗をタンスの奥深くに隠してしまった話を聞くが、同じようなことかも知れない。



大国主命は各地の女性と結婚し、国を拡大している。翡翠の産地である糸魚川地域の沼河比売を娶っているが、糸魚川産の翡翠が、出雲や北部九州から出土している。出雲は翡翠流通の中継点となっている。

大国主命の幸魂、奇魂は大和の三輪山(大神神社)に祀られている。大国主命は大和とも関係していた。

出雲から奈良県方面まで大国主命の支配地域になっていたようである。出雲に天菩比命を遣わしたように、近畿には饒芸速日命(物部氏の祖先)を遣わした。

饒芸速日命は東大阪の哮峰(いかるがのみね)天下ったとされ、饒速日命の墓は生駒市の鳥見にある。

近くの東大阪市や八尾市付近は物部氏の本貫地で、物部守屋の墓がある。この地域は、庄内式土器が集中して出土する場所で、また、最末期の銅鐸である近畿式銅鐸も出土する。

庄内式土器や、近畿式銅鐸は、物部氏と関係するもののようである。

■天孫降臨・神武東征

天孫邇邇芸命(ににぎのみこと)は九州の高千穂の峰に天下った。高千穂の峰の所在地について、戦前は高千穂論争といわれる大論争となっていたが、戦後の古代史の議論は、邪馬台国論争が中心で、高千穂論争はあまり関心が持たれていない。

邇邇芸命の墓所についてはさまざまな説があるが、現在、ほぼ定説となっている比定地は、鹿児島県川内市の可愛山稜である。

また、その子の山幸彦(火遠理の命)は、桜島の北の高屋山上陵に葬られているとされる。そして、山幸彦の子の鵜葦草葦不合命は大隅半島の吾平山上陵が墓所である。



神武天皇は宮崎神宮を皇居とし、美々津に移り、近畿へ東征した。

南九州で、邇邇芸の命から代が下るにつれ、活動する地域が西から東へ移っているようにみえる。

神武東征は、南九州から宇佐に立ち寄り、その後、岡田宮、多邪理宮、高島宮を経由して「浪速」にむかう。ここで長髄彦に敗れたので、南へ廻って、熊野から、奈良盆地へ向かうというストーリーである。

ところで、1800〜1600年前の大阪湾の地形は6〜7世紀の頃とは異なっていた。

神武東征の時期と想定される3世紀から4世紀の頃の大阪には河内湖という湖があり、上町台地が南から延びて大阪湾と河内湖の境界になっていた。

上町台地の北端と、千里丘陵との間に少し隙間があって、河内湖の水はこの狭い隙間を通って出入りしていた。そのため、ここは潮流がたいへん速く激しかったので、この付近は「浪速」と呼ばれた。

ところが、7世紀には上町台地と千里丘陵との狭い隙間が砂にうずもれてしまい、地形が一変してしまった。「浪波」の語源となった速い流れもなくなっていた。

8世紀初めに編纂された記紀の神武東征伝承に「浪波」と記されていることに関して、考古学者の森浩一氏は、著書『古代史おさらい帳』で、 「神武の東征の物語が、少なくとも大阪湾から河内潟にかけての土地についての古代の地形に即して語られていることが不思議である。」と述べている。

記紀が編集された頃とは違う古い地形のことが描かれているのは、神武東征伝承が、のちの時代に机上で創作されたのではなく、古い時代にあった本当の出来事が語り伝えられてきたと考えるべきであろう。





さて、銅鐸を初期・最盛期と終末期に別けて分布を分析すると、出雲などからは初期・最盛期の銅鐸が多数出土するのに対して、愛知県、福井県などでは初期・最盛期と終末期の銅鐸の両方が出土し、長野、静岡は終末期の銅鐸だけが出土する。

静岡は物部系が国造になっているところで、終末期銅鐸が物部氏と関係することを窺わせる。



また、三角縁神獣鏡の分布の北限を見ると、銅鐸の北限を超えて、関東から東北南部まで広がっている。

群馬、山梨、神奈川、千葉、福島は景行天皇の頃、日本武尊が遠征した地域であり、三角縁神獣鏡の分布がこの地域まで拡大していることは、三角縁神獣鏡が日本武尊伝承と関係しているように見える。

また、次のようなことも、日本武尊伝承と史実とが整合している例である。

『日本書紀』には日本武尊が海を渡るとき大きな鏡を掲げたと記されている。三角縁神獣鏡は中国の鏡に比べるとずっと大きな鏡である。

『日本書紀』には、日本武尊の遠征に吉備の豪族を伴ったことが記されているが、吉備と関東から三角縁神獣鏡の同笵鏡が出土している。

日本武尊が活躍した景行天皇の時代は、古代の天皇の平均在位年数を約10年とすると、西暦380年ごろに当たる。すなわち、三角縁神獣鏡が北限に達したのは、380年ごろと考えられるのである。

また、終末期銅鐸が物部氏と関係するならば、その分布の北限に達したのは280年ごろと推定される。

このように、安本年代論をもとにして考えれば、『古事記』『日本書紀』の伝承と遺跡・遺物などがある程度整合するストーリーとして描ける。

歴博のような年代論は、記紀の伝承を、机上で作成されたものとして一切無視することによってしか成立しない。

畿内説の人は、なにかきっかけがあれば、前後の脈絡無しに取り上げて畿内説の大宣伝するのが常である。かつては三角縁神獣鏡がそうであったが、現在は、これは卑弥呼の鏡ではないとする研究者が大勢である。

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