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第279回講演会
 邪馬台国の遺跡・遺物
 卑弥呼がもらった鏡


 

1.遺物

■ 『魏志倭人伝』

『魏志倭人伝』や『魏志韓伝』に、倭人について次ぎのような記述がある。
  • 兵(器)には、矛・楯・木弓を用いる。竹の箭(や)は、あるいは鉄の鏃、あるいは骨の鏃である。
  • (韓伝弁辰の条)国、鉄をだす。韓、、倭、みなこれをとる。
  • 五尺刀二口をたまう。(五尺の刀は長さから鉄の刀と思われる)
  • 倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらして刀をたまう。
  • 蚕桑(養蚕の桑)をうえ、緝績(つむぐこと)し、細紵(きぬ)、緜(めん)を出す。
  • 倭錦・(赤青色の絹布)を上献した。
  • 異文雑錦(異国のもようのある絹おりもの)二十匹を(朝)貢 した。
遺物の出土状況を福岡県と奈良県とで比較するとつぎのようになる。

 諸遺物福岡県奈良県
『魏志倭人伝』記載の遺物

大略西暦300年以前
弥生時代の遺物
弥生時代の鉄鏃398個4個
鉄刀17本0本
素環頭大刀・素環頭鉄剣16本0本
鉄剣46本1本
鉄矛7本0本
鉄戈16本0本
素環頭刀子・刀子210個0個
邪馬台国時代に近いころの銅矛・銅戈(広型・中広型)203本0本
絹製品出土地15地点2地点
10種の魏晋鏡37面2面
庄内期出土の鏡小山田宏一氏のデータによる45面0面
樋口隆康氏のデータによる5面0面
奥野正男氏のデータによる3面0面
ガラス製勾玉・翡翠製勾玉29個3個
古墳時代の遺物

大略西暦300年以後
三角縁神獣鏡49面100面
前方後円墳(80m以上)23基88基
前方後円墳(100m以上)6基72基


森浩一氏は、布目順郎氏の『絹の東伝』を引用して弥生時代の絹について次のように述べる。

「弥生時代にかぎると、絹を出土しているのは福岡、佐賀、長崎に集中し、前方後円墳の時代、つまり4世紀とそれ以降になると奈良や京都からも出土しはじめる。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだ。」

以前、新聞記事に奈良県の遺跡から「べにばな」の花粉が発見されたというニュースが掲載された。そして、「べにばな」は、絹を染めるのに使ったに違いない。そうすると絹は奈良県にもあったに違いない。だから邪馬台国は畿内にあったというような話が紹介されていた。

そもそも「べにばな」が見つかった遺跡は4世紀のものであり、時代が合わない。絹があったという直接的証拠がないのに、「絹を染めた可能性がある」とか「絹は奈良県にもあったに違いない」というような仮説の積み重ねだけで邪馬台国を畿内に持っていこうとする。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話である。

畿内説の学者は、「べにばな」に限らず、古墳や土器など『魏志倭人伝』にはまったく記されていない間接的なことばかり取り上げてマスコミに吹聴している。

間接的な物ではなく、魏志倭人伝に直接記述されている遺物を取り上げれば、福岡県から圧倒的多数が出土する。これらのデータを見れば、『魏志倭人伝』から出発するかぎり、邪馬台国は九州になることは明白である。

学問的な真実は証明によってもたらされるものであって、宣伝によってもたらされる物ではないのだが、邪馬台国畿内説の学者はこの辺のことを勘違いしているのではないか。

前回に紹介したが、纏向遺跡で発見された住居跡と柵について、あたかも『魏志倭人伝』に記される邪馬台国の城柵のように報道されていた。桜井市教育委員会の橋本輝彦氏に確認したら、建物の周りを区画するための柵でしょうということであった。倭人伝に記されるような防衛用の城柵ではない。

このようにマスコミを介した宣伝ばかりに熱心に見え、事実無視の議論がくり返し行われているのが現状である。

■ 鉄

鉄の鏃の出土数は、奈良県よりも京都府、兵庫県(淡路島を含む)や、大阪府のほうが多い。

これは神武東征の前に、饒速日命と共に物部氏が九州から畿内方面にくだったときに、その勢力の中心を大阪府におき、彼らが兵庫県や京都府に広がったことを示している。

鉄の分布はそれを反映しているのであろう。



2.卑弥呼がもらった鏡

■ 魏や晋の時代の鏡

中国の考古学者で、元中国社会科学院考古研究所所長の徐苹芳氏は、倭国の女王が中国に使いを出した魏や晋の時代に中国で用いられた鏡について次のように述べる。

「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行 した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡、内行花文鏡、獣首鏡、鳳鏡(きほうきょう)、盤竜鏡、 双頭竜鳳文鏡、位至三公鏡、鳥文鏡などです。

従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。

とりわけ、方格規矩鏡、内行花文鏡、 鳳鏡(きほうきょう)、獣首鏡、位至三公鏡の五鏡の可能性が強いのです。

位至三公鏡は魏の時代(220〜265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265〜316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。

日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」

中国の学者、王仲殊氏や徐苹芳氏が考える卑弥呼の鏡は下記の十種である。これらの鏡もまた九州から多数出土するが奈良ではほとんどでない。鉄鏃などと同じ傾向である。
  • 蝙蝠鈕座内行花文鏡(連弧文鏡)
  • 位至三公鏡
  • 双頭竜鳳文鏡
  • 方格規矩鳥文鏡
  • 漢鏡6期の方格規矩鏡
  • 鳳鏡
  • 獣首鏡
  • 三角縁盤竜鏡を除く盤竜鏡
  • 飛禽鏡
  • 円圏鳥文鏡

■ 三角縁神獣鏡

三角縁神獣鏡は魏の鏡ではない。中国からは一枚も出土せず、日本でも3世紀の遺跡からは出土しない。

三角縁神獣鏡の文様の分析では、中国の南方の鏡である画文帯神獣鏡の文様と、同じく南方の鏡で、三角縁の意匠がある画像鏡の縁のかたちを組み合わせると、三角縁神獣鏡ができる。

古墳時代になると三角縁神獣鏡の出土数が増えてくる。特に前方後円墳から多く出てくる。地域的には、奈良県など近畿に多くなる。

近畿地方では、盛んに銅鐸が行われた時代には鏡を副葬する習慣はなかったが、古墳時代になると増えてくる。これは鏡を副葬する習慣のある九州の勢力が近畿に進出して古墳を築いたとする東征説で説明ができる。

■ 年代の決め方

以前、討論会でホケノ山古墳の築造年代をどう決めるかということが話題になったとき、石野博信氏は次のように説明された。

上は、西暦14年の王莽の貨泉で決め、下は400年ごろから現れる須恵器によって決める。この期間に何形式の土器があるか、土器によって区分する。そうすると、ホケノ山古墳の庄内式土器は3世紀の前半になるということであった。

いっぽう、安本先生の年代論では、まず九州の状況を考える。そして、古い時代の手がかりを洛陽焼溝漢墓(190年ごろ)に求め、新しい時代については洛陽晋墓(300年ごろ)によって考える。

これらの墓所からは墓誌が出土しているので、年代がはっきりしている。

これらの墓所からは多数の鏡が出土しており、これらを手がかりにして、九州の鏡の年代を推理し、同じ鏡を出土する近畿など各地の遺跡の年代や土器に年代を探っていこうとするものである。

この2つのアプローチを比較すると、まず、年代の上限と下限の幅が違う。

石野氏の場合は、西暦14年から400年ごろなので、ほぼ400年の幅だが、安本氏の場合はおよそ190年から300年までなので、100年ほどの幅しかない。

さらに、洛陽焼溝漢墓と洛陽晋墓は墓誌によって年代が確定するのに対して、貨泉は、どのくらいの時間をかけて日本や近畿に伝わってきたのか判らないので、貨泉では年代が決められない。

また、土器が何形式存在するのかということも、信頼できる情報ではない。

かつて、畿内の遺跡の資料を年輪年代法や炭素14年代で測定したところかなり古い年代が出たことがあった。畿内説の学者がこれに合わせるように土器形式を増やしていったように見えるからである。

寺沢薫氏が土器を細かい型式に分けていくのを、橿原考古学研究所の中でも、「10点ほどの資料で一形式にしてしまうのはおかしい」と批判されたことがあった。

細かい型式に分けられた土器を炭素14年測定したデータが季刊邪馬台国101号に乗っているが、これらの型式は炭素14年では分離できずだんご状態になってしまう。

奈良県には年代を決めるための資料は土器しかないため、畿内説の学者は土器を重視するのだが、このような事情があるので土器では年代を決められない。

■ 洛陽焼溝漢墓の鏡

第六期の墓から年号を朱書きした物が2点発見されている。ひとつは、霊帝の建寧3年(170年)、もう一つは献帝の初平元年(190年)のものであり、いずれも後漢晩期のものである。

推定実年代BC118-74
前漢中期
BC73-33
前漢中期
BC32-6
前漢晩期
7-39
王莽
40-75
後漢前期
78-146
後漢中期
147-190
後漢晩期
流行時代第一期第二期第三期 第四期第五期第六期
前期後期
鏡型日本での鏡名
草葉文鏡1
星雲鏡43
日光鏡385
昭明鏡3106
変形四蠣文鏡四爬鏡92
四乳鏡四乳四禽鏡など312
連弧文鏡1
規矩鏡方格規矩鏡432
雲雷文鏡雲雷文内行花文鏡4
鳳文鏡鳳鏡1
長宣子孫鏡長宣子孫銘内行花文鏡15
四鳳鏡四鳳鏡1
人物画像鏡画文帯神獣鏡1
変形四葉鏡獣首鏡2
三獣鏡盤竜鏡1
鉄鏡7

■ 洛陽晋墓の鏡

洛陽晋墓からは西暦300年ごろの墓誌が出土している。したがって、ここから出土する鏡はおよそ300年ごろのものと考えられる。

洛陽晋墓からは28枚の鏡が出土しているが、その中で最も多いのは8枚出土した位至三公鏡である。つまり、300年頃の中国では位至三公鏡が盛行していた。

位至三公鏡は、上のグラフに示したように日本では九州から多数出土する。

また、3世紀の日本では、洛陽焼溝漢墓や洛陽晋墓から出土したような鏡は、九州の福岡県や佐賀県から一貫して多数出土しており、奈良県ではホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡のみである。

しかも、最新のデータに拠れば、ホケノ山古墳は4世紀の古墳となるので、3世紀の奈良県には鏡は一枚も存在しないことになる。



連弧文鏡(内行花文鏡)文鏡
方格規矩四神鏡鳳鏡(長宣子孫銘鳳鏡)
連弧文銘帯鏡(内行花文昭明鏡)蝙蝠鈕座内行花文鏡
画文帯環状乳神獣鏡10六禽鏡(円圏鳥文鏡)
連弧文鏡(内行花文鏡)11連弧文鏡(内行花文日光鏡)
方格鳥文鏡(方格八禽鏡)12位至三公鏡


3.墓の形式

鏡と共に、年代決定の重要な資料となるのが、墓の型式である。墓の型式は大まかに次のように遷移している。
  • 甕棺墓葬

    弥生時代前期から行われていたが、西暦紀元元年ごろを中心に、西暦180年ごろ までの、弥生時代中期に、北九州の中心部で盛行した。金印奴国の時代に対応する。

    二つの甕の口と口をあわせ、なかに屍体を入れて葬る合口(あわせぐち)甕棺が多い。 甕棺墓葬は、弥生時代後期前半を境に、急速に消滅する。甕棺墓は共同墓で、顕著な 封土をもたない。

    細形の銅剣・銅矛・銅戈は、甕棺から出土している例がかなりみられ、 甕棺墓葬の時代に対応している。甕棺墓葬は、弥生時代後期中頃には姿を消す。

    甕棺墓を西暦180年ごろまでとした根拠は、下表に示すように長宜子孫銘内行花文鏡が甕棺からほとんど出てこないことである。洛陽焼溝漢墓の最後の時期に長宜子孫銘内行花文鏡が出ているので、この鏡の年代は190年ごろとみられる。

    190年ごろ中国で盛行した鏡が甕棺からは出土せず、そのあとの箱式石棺から多数出土することは、甕棺の時代は180年ごろまでであり、200年ごろから箱式石棺が盛んに行われるようになったと考えられるのである。

     甕棺と箱式石棺から出土する遺物
    甕棺(金印奴国時代)箱式石棺(邪馬台国時代)
    細型の銅利器(銅剣・銅矛・銅戈)75本0本
    清白,精白,青白,日光,日有喜の銘鏡30面0面
    小形ボウ製鏡第U型0面35面
    長宣子孫銘内行花文鏡
    (長宣孫子、長生宣子などを含む)
    0面18面


  • 箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬

    西暦180年前後を境に、北九州の中心部の墓制は、甕棺墓葬から、箱式石棺墓葬・ 石蓋土壙墓葬・木棺墓葬へと、交替していく。

    箱式石棺墓葬では、平らな板石を長い箱形にくみあわせ、同じく板石でふたをした棺に 葬る。石蓋土壙墓は、土の墓穴の上に、石の蓋をしたもの。この箱式石棺墓葬・石蓋 土壙墓葬の時代が、大略、邪馬台国の時代にあたるとみられる。

    この時代の遺物として 代表的なものとしては、小形製鏡第U型、「長宣子孫」銘内行花文鏡、鉄剣、 鉄刀があげられる。これらは、きわめてしばしば、箱式石棺から出土している。

    そして、小形製鏡第U型と、「長宣子孫」銘内行花文鏡とは甕棺からの出土例が まずない。

    逆に、北九州中央部において、細形銅剣・銅矛・銅戈は、甕棺から出土する が、箱式石棺からの出土例はない。

    小形製鏡第U型、「長宣子孫」銘内行花文鏡、 鉄剣、鉄刀は、ほぼ同じ地域に分布し、九州の中央部において、箱式石棺から出土し、 また、同一遺跡からの出土例もしばしばみられるので、大略同一の政治的・文化的集団 の遺物とみてよい。

    箱式石棺が、甕棺より後出的なものであることを示す好例 としては、福岡県朝倉郡夜須町中牟田遺跡などの例があげられる。この遺跡では、 弥生中期の須玖式甕棺の地上に、小盛土をして、箱式石棺を埋没していたという。(原田大六著『日本国家の起源上』)

  • 竪穴式石室墓葬

    4世紀を中心とする時代に行われた。古墳の内部につくられた。長方形の穴を掘り、 その四壁に、扁平な割り口を小口づみにする。上部から棺をいれ、石材などで天井を おおう。

    これは、棺の形式ではなく、棺をいれる石室の形式である。竪穴式石室は、 前方後円墳の内部につくられることが多く、また竪穴式石室のなかには、木棺がいれられることが多い。

    箱式石棺は、板石を用いてつくるのにたいし、竪穴式石室は、いっぱんに、割り石を 積んでつくる。竪穴式石室は棺の形式ではないので、竪穴式石室のなかに、箱式石棺が おさめられることもある。

    この時代には、三角縁神獣鏡が盛行する。 三角縁神獣鏡は、おもにこの時代に新しくあらわれ付加される鏡である。

  • 横穴式石室墓葬

    5世紀ごろ、九州の一部で行われ、6世紀以後に、いちじるしい発達をとげた。

    遺骸を安置する玄室と、これに通じる通路としての羨道とを、石材で構築する。玄室は、広く 高い空間をもち、羨道は、棺その他をはこびいれることができる幅と、歩行することが できるていどの高さをもつ。
甕棺墓葬と、箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬は、おもに北九州に分布する。また、竪穴式石室墓葬と、横穴式石室墓葬とは畿内を中心に分布する。

出土物にあるていどの連続性・共通性がありながら、墓の分布の中心は北九州から 畿内へと動いている。

これは邪馬台国が北九州に存在し、のちに邪馬台国の後継 勢力が畿内にうつり、大和朝廷をはじめたと考えることによって説明できる。



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