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第280回特別講演会
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1.土器からみたホケノ山古墳と箸墓古墳 関川尚功先生 |
2.ホケノ山古墳 安本美典先生 |
■土器の編年
現在の考古学者は、ホケノ山古墳は250年頃と言っているが、関川さんはホケノ山 古墳は300年以後であると述べており、年代が大幅にくい違っている。 土器の編年の流れを整理すると、1980年代の前と後で、多くの考古学者が土器の年代を古いほうにずらしてきていることが判る(表1、表2参照)。 たとえば、佐原眞氏の1968年のデータでは、庄内式は300年ごろで、布留式はそこから数十年後と見積もっている。 石野博信の1973年のデータでは、纒向2式の庄内1式が300年よりややあと、纒向4式の布留1式は、3百数十年と見積もっている。 しかし、1980年代の半ば以降を見てみると、多くの学者が庄内式を200年代前半にまで古くしている。 そして、寺沢薫氏の2000年のデータでは、庄内式が200年、布留式が2百年代末になっている。 また、柳田康雄氏の2004年のデータでも、庄内式が200年、布留式が240年ごろに持ち上がっている。 このような傾向に対して、森浩一氏は1994年の時点で「最近は年代が、特に近畿の学者たちの年代が古いほうへ向かって一人歩きしている傾向がある。」と述べている。森氏がこのようにのべた意味は、どうもこれはおかしいのではと、暗に言っているのである。 このように年代が古くなっていく現象は、多くの考古学者が、年輪年代や炭素14年代で得られた古い年代を、深く吟味せずにすぐに取り入れたことによると思われる。 年輪年代法は木の伐採時期が分かるのであって、古墳や建物の築造時期を表すものではない。 木は、水分や油分を抜くために長期間寝かせたり、数百年後に再利用されたりするので、伐採してから大分年数を経てから利用することが多い(下表)。 ■ホケノ山古墳 ホケノ山古墳については、2001年に『ホケノ山古墳 調査概報』が、2008年に最終報告である『ホケノ山古墳の研究』が、いずれも橿原考古学研究所(橿考研)から刊行されている。 注意しなければいけないのは、これらの報告書の内容は橿考研の統一見解ではないことである。各研究者の研究結果を重んじているので矛盾する内容が含まれている。 橿考研の河上邦彦氏は『調査概報』のまとめで次のように述べている。 ホケノ山古墳の年代を3世紀中頃とするのも整合性があると考える。 3世紀中頃の築造年代は推定できる。 関川尚好氏とは、100年も違う年代である。『調査概報』では、ホケノ山古墳の資料がC14年代測定されたデータが掲載されている。このデータが非常に古い時代を指していたので、さまざまな議論があった。 河上氏は、この中のAD30-245年というデータに注目し、ここからホケノ山古墳の築造年代を3世紀中頃とした(下表)。 しかし、同じ報告書の「木簡の炭素14年代測定」のところで、今津節生氏は、 C14年代測定値の信頼度は、現在の考古学年代の精度(土器や鏡の年代観)からすると、まだまだ不十分で参考程度にしかならない。 と述べ、炭素14年代測定の執筆者が、炭素14年代に簡単に飛び付くのは危ないと書いている。また、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏は、 (ホケノ山古墳の)構築の年代については土器以外には墓壙・棺内から副葬品が見られなかった ため、土器の年代に頼らざるをえないが、墳丘や周濠にともなって出土した土器の年代 と大きく齟齬することのない布留0式期新相から布留1式期にかけてのものと考えている。 この土器群は布留0式期新相から、布留1式期にかけてのものと考えられ、木簡直葬墓の周辺から出土していることや、時期が一致することなどから、あるいは墓壙の供献されたものかも知れない。 つまり、橋本氏は布留1式の物が含まれていると判断しているので、築造年代は古墳時代の布留1式期であることを意味している。昨年、最終報告の『ホケノ山古墳の研究』が橿考研から刊行されたが、この中で、河上邦彦氏は相変わらず次のように同じことを述べている。
ホケノ山古墳のこの年代(3世紀中頃)に対して、一部から実年代はさらに新しいのではないか、との指摘がある。
このデータは、ホケノ山古墳の築造が4世紀であることを示しており、関川尚好氏や橋本輝彦氏の主張と整合している。 『ホケノ山古墳の研究』のなかで、「ホケノ山古墳の時期的な位置づけと前方後円墳の出現」を執筆した水野敏典氏は、ホケノ山古墳の築造年代について次のように述べる。
鉄鏃、銅鏃型式の編年上の位置づけとともに個々の副葬品の類例や特徴を概観した。その結果、古墳時代前期に通有でない型式を多く含むが、類例は基本的に古墳時代初頭から前期前半に求められ、古墳時代の技術系譜の中で理解可能である。
また、石野博信氏は、ホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことを述べている。 このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。 箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて問題になっていた。 これも、ホケノ山古墳の築造を布留1式期の4世紀と見れば説明がつく。 以前、箸墓古墳の周濠から輪鐙(わあぶみ)が出土して話題になった。この輪鐙について桜井市埋蔵文化センター発刊の図録は「箸墓古墳の輪鐙は出土した層位から、布留T式期のものと考えていますが……」と記している。 馬具が出てくる時期は、400年以降である。布留T式の層で馬具が出たと言うことは、布留T式の時代は、あまり古くはできず、400年に近い時期と言うことになる。 |
3.対談 |
安本:
石野博信氏はホケノ山古墳は庄内式の中葉と述べた。また、寺沢薫氏はおそらく箸墓古墳を布留0式の古相とみておられる。 布留0式は布留1式の一つ前の段階なので人によっては庄内式ということになるかも知れない。 石野先生の見解についてどう考えるか? 関川: ホケノ山古墳からたくさんの庄内式の壷が出土したが、石野先生はこの壺から判断していると思われる。これらの壷は定形化する前の古いタイプとともに、庄内式の新しいものもあり、年代の幅が広い。数が多いことから石野氏は中葉と考えたのでしょう。 安本: 古いもの、新しいものなどいろいろの年代が出てきたのなら、新しい年代のもので 判断すべきとおもうのですが。 関川: 原則的にはその通りです。壺がこれだけきれいに出てきているので壺の問題を重視したいという思いがあったのでは。 安本: 非常に答えにくい質問だと思うが、河上先生の小形丸底土器がどこかからまぎれこんだという話はどう思いますか? 関川: 土器をやっているものからみてこの二つの土器が同時に出ることはそうそうあるもの ではない。河上さんの土器の常識から考え、これはちょっとおかしいのではないかと思うのは 分かる。 混入も考えられるのではないかと言ったのではないか。 ただ報告書を見ると、同時偏在であると担当者が言っているので、混入の可能性はない と見た方がよい。 安本: 年代を古く持っていく考古学者が多い中で、関川さんはたいへんオーソドックスに判断されていると思うが、寺沢氏の箸墓古墳は布留0式の古相という判断についてはいかがですか? 関川: 箸墓古墳の前方部の裾を調査したとき布留0式の土器がたくさん出た。その出方をみて、寺沢さんは箸墓古墳の築造時期にかなり近いと判断したのではないか。 私は周濠から出た土器しかなければこれで判断するが、墳頂に築造直後に供えられた土器もある訳だから、これで判断すべきだと考える。 会場からの質問A: 箸墓古墳から丸底土器が出たのでしょうか? 関川 箸墓古墳からは出ていません。 会場からの質問B: 最近の年輪年代測定のデータによると、須恵器が出てくる古墳の年代が早まっていて4世紀代の可能性さえあるように見える。30年ほど前の関川先生の著作を読んだが、須恵器が早まっていることに関連して、布留式、庄内式の年代について、そのころと現在では先生の年代観は変わっていないか。 関川: 須恵器は、土師器や弥生土器と違って、非常に細かい。須恵器が日本に伝わって5世紀の後半に定形化する。稲荷山古墳の時期から出てくるが、窯の数も少ない。須恵器は5世紀の前半といわれる古墳からほとんど出ないので、須恵器はそんなに古くないと思う。 安本: 須恵器と布留式土器は併行して使用されていたが、外来の須恵器の年代が繰り上がると、布留式土器の年代も繰り上がって古くなるのか。 関川: 須恵器が出る段階は、土師器も輸入される。日本の土師器ががらっと変わる。 須恵器の年代が古くなっても、布留式土器の年代は変わらないのではないか。 |
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