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第277回講演会
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1.橿原考古学研究所『ホケノ山古墳の研究』 |
■ ホケノ山古墳の研究報告書
昨年11月に、奈良県立橿原考古学研究所からその研究成果として『ホケノ山古墳の研究』という報告書が刊行された。この内容について解説する。 30年前ごろは、佐原眞氏も石野博信氏も庄内式土器は300年以降の土器と考えていた(下図)。 纏向遺跡のホケノ山古墳の年代は、庄内式土器の中葉とされていたので、ホケノ山古墳や纏向遺跡の年代は300年以降であり、卑弥呼の時代とは結びつかないとされていた。 しかし、2001年に橿原考古学研究所から刊行された『ホケノ山古墳調査概報』で、ホケノ山古墳の中心の埋葬施設から出土した小枝と南西添え柱材についてAMS法による炭素14代測定を行った結果、これらは西暦50年〜150年ごろのものと報告された。 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。 しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。 これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と250〜300AD(13.9%)である。 南西添え柱材の試料の2σ暦年代範囲は210calBC〜50calBC(95.4%)である。 ホケノ山古墳の中心埋葬施設から出土した小枝は3世紀〜5世紀の樹木の小枝であり、南西添え柱材は紀元前3世紀〜同1世紀に該当する木材が使用されていた可能性が考えられる。 なお、小枝のデータは有効と考えられるが、南西添え柱材は部位がはっきりしないので参考程度と言うことである。 この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。 ■ ホケノ山古墳の年代 石野博信氏はホケノ山古墳について安本先生と討論を行った際、ホケノ山古墳から4世紀後半の小型丸底土器が出土したことを述べている。 小型丸底土器は庄内式土器末期から出現し、布留式土器の重要構成要素となっている器種である。 ホケノ山古墳からは庄内式土器も出ているが、それよりも新しい布留T式土器が出土したことになるので、考古学の常識で判断すれば、古墳の年代は布留T式の時代と言うことになる。 石野博信氏は「ショックだった」と感想を述べている。 報告書を記述した橿原考古学研究所の研究部長は、小型丸底土器は、発掘時に墓の上の方から落ちてきたのではないかと、苦し紛れに書いている。 これについて橿原考古学研究所の関川尚好氏に問い合わせたら「そんな馬鹿なことは絶対にありません。」ということであった。 また、石野氏はホケノ山古墳から箟被(のかつぎ)のついた銅鏃が出土したことも述べている。 このタイプの銅鏃は比較的新しい時代の物で、前期古墳の後半で布留T式以降と考えられている。 箟被(のかつぎ)つきの銅鏃が発見されたことにより、発掘当初から、ホケノ山古墳は新しいのではないかと見る専門家もいて問題になっていた。 ホケノ山古墳の年代を考える時、つぎのような新しい要素と古い要素とがある。
■ ホケノ山古墳や纏向遺跡の年代を4世紀後半とすることで説明できること ホケノ山古墳のある纏向には垂仁天皇の纏向の珠城の宮や、景行天皇の纏向の日代の宮があり、この地域に都があったころ纏向遺跡も作られたと考えれば、垂仁・景行天皇の時代(4世紀後半)にホケノ山古墳が作られたことと整合する。この地域に大市があり、市場の近くに大きな古墳を作ることで民衆の耳目を集め王権の偉大さをアピールする効果が期待できた。 纏向から各地の土器が出土する。これは、四道将軍や日本武尊の遠征によって各地の人々と共に土器が纏向に搬入されたと考えると、四道将軍や、日本武尊の活躍した4世紀後半に、纏向が開発されホケノ山古墳も築造されたとすることと整合する。 箸墓古墳の周濠から布留T式期の輪鐙(わあぶみ)が出土した。布留T式期に乗馬の風習があったことになる。 普通の人が乗馬をするようになるのは400年以降である。 箸墓を4世紀後半とすれば400年にかなり近い時期なので周濠から馬具が出てきてもおかしくない。 布留T式期の箟被(のかつぎ)つきの銅鏃がホケノ山古墳から出土したこととも話が合う。 『奈良県磯城郡誌』にホケノ山古墳が崇神天皇の時代の豊鍬入姫の墓ではないかという記述がある。どこまで根拠があるのかわからないが、豊鍬入姫の墓とすれば年代は整合する。 前方後円墳は新しいものほど前方部が発達する。崇神天皇陵と箸墓を比べると箸墓の前方部が発達しており崇神天皇陵よりも箸墓が新しいと言える。 箸墓が崇神天皇陵より新しいとする見解はかつて東京大学教授の考古学者・斉藤忠氏によって次のように述べられている。
「箸墓古墳は前方後円墳で、その主軸の長さ272mという壮大なものである。しかし、その立地は、丘陵突端でなく、平地にある。古墳自体の上からいっても、ニサンザイ古墳(崇神天皇陵古墳)、向山古墳(景行天皇陵古墳)よりも時期的に下降する。」
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2.戸数論争 |
■ 『魏志倭人伝』の対馬国と一支国の比較
対馬国と一支国の比較すると面積の大きい対馬の方が人口は少ない。
■ 一戸は何人か? 以下のようにいくつかの考え方がある。
奈良時代の推定人口のデータがあるので、奈良時代の人口の多い地域には倭人伝の戸数の多いところを割り振り、人口の少ないところには戸数の少ない国を充てるという操作をして、『魏志倭人伝』に記された国々を北部九州の中で大まかに割り振ってみた。 そして、『魏志倭人伝』の戸数と、奈良時代の推定人口によって、国ごとの1戸当たりの人数を計算すると4〜5人程度になる(下図)。 これは『魏志倭人伝』の「戸」が、日本の「郷戸」や「房戸」ではなく、中国の「戸」で記されている可能性が高いことを意味する。 なお、伊都国については、『魏志倭人伝』には「千余戸」と記されているので、一戸あたり41人になってしまうが、『魏略』では「戸万余」になっていて、他の国と同じレベルの4.1人になる。 茨城大学の及川昭文氏は、弥生時代の遺跡が存在する場所の、標高、河川に近いかどうかなど、さまざまな条件を分析し、これらの条件と遺跡の数の関係を調査した。 そして、ある一定の面積(メッシュ)を見たとき、その地域の条件からメッシュの中にどのくらい遺跡が存在するかについて確率(遺跡期待指数)を計算した(右図)。 及川昭文氏のデータから遺跡期待指数の高いメッシュ(右図の黒い部分)の数と、上図で割り振った国々の戸数との関係を調べると、概略比例しており、国々の割り振りがほぼ妥当であることを示している。 そして、一支国に3,000戸が入るのなら、『魏志倭人伝』に記された国々の全体が、北九州の範囲に収まることを意味している。
江戸時代の壱岐の人口は2万人ほどである。邪馬台国の時代に、壱岐に3000戸があって、1戸あたり5人とすると、15000人がいたことになる。この数字は、江戸時代の1500年前とすると、やや多いように思える。 しかし、『魏志倭人伝』の対馬と壱岐の戸数の記述などを見ると、壱岐の3000戸は信頼してよいのかなとも思う。 |
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