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第283回講演会
埼玉稲荷山鉄剣の時代  かささぎ


 

1.箸墓古墳についての続報

歴博が考古学協会の総会で「箸墓=卑弥呼の墓説」を発表し、新聞などで華やかに報道されたが、そのときの会場の雰囲気と新聞報道との間に大きな落差を感じた。多くの参加者もそのように感じたのではないか。

たとえば、当日の参加者で考古学の専門家と思われるオモイカネ氏(インターネットのハンドルネーム)は総会の雰囲気を次のように記している。
  • 発表時間は16:45までだったがちょっとオーバーして、その後、質疑となったのですが、最初の質問は、福岡市埋文センターの久住猛雄さんからで
    • Q: 「土器付着炭化物の由来は燃料の薪であり、土器の年代より古い年代にならないか?」
        「古墳祭祀に伴うような木製品の方が試料として適切ではないか?」
      A: 薪でも大丈夫、大きな誤差はない

    次の質問者の方はお名前がわかりませんが、のっけから激昂されており、
    • Q: 「ホケノ山はいつ頃なんだ?」
      A: 3世紀前半、橿考研の木棺片の炭素年代測定データから
      Q: 「3世紀前半?…それじゃあ、お話にならない」
        「ホケノ山からは銅鏃が出ているんだ!銅鏃(の年代)はどうなるんだ?」
      A: ……

    二番目の質問者の方がしつこく食い下がる中、 事務局の北條芳隆さん(東海大)が「質疑は測定年代のグラフのみにしてください」と制止して 三番目の方が質問をはじめ…
    • Q: 「昨年のデータでも指摘したが、較正年代のグラフがかなり太い帯状である」 「箸墓の辺りは急激に谷状になっている」   「ピンポイントで年代は決められないのではないか?」
      A: 大丈夫

    このあと、協会事務局を代表して北條さんが新聞記者を牽制・注意し、「考古学協会は捏造事件を経験していることを充分ご理解いただきたい」 と話されていたのが印象的でした。

    今回のスクープ事件は、またも朝日が(約束破って)すっぱ抜いたことによるようです。この新聞社はどうしようもないですね(私も以前被害に遭いました)。

    こうして、少々混乱の内に、箸墓の炭素14年代の研究発表は17:00過ぎに閉会となりました。

    岡安光彦さんもブログ(考える野帖)にお書きになっていますが、 「さて箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の二の舞にならなければいいけれど。何か決定的なものが出土して、物語が崩壊する可能性もある。「出したい結果」が見え見え。もう少し「野心」を押さえたほうがよい」

    物語が崩壊する可能性…会場にいた多くの方々が同じものを感じたと思われます。

    (mixiブログ「偽史学博士さんの日記」へのオモイカネ氏のコメント)
オモイカネ氏も記したように、当日の司会者である日本考古学協会理事の北條芳隆氏(東海大学教授)が、報道関係者に次のように異例の呼びかけを行っている。
  • 「考古学協会は(旧石器)捏造事件を経験していることを十分ご理解いただきたい」
    「(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」
前々回の講演会記録でも紹介したが、北條氏はご自身のブログでも、歴博の発表が信用できないことを述べておられる。

北條氏は、もともと邪馬台国畿内説の立場で、箸墓は卑弥呼の墓と考えておられる。にもかかわらず、歴博の発表を強く批判するのは、歴博の研究の内容について大きな問題意識を持っておられるからだと思う。

当日、歴博の直前の発表者だった考古学者の岡安光彦氏は、ご自分のブログで次のように述べて歴博の発表を批判している。
  • さて箸墓の築造年代に関する問題の発表は、例によってAMSの結果をかなり恣意的に使っていて、危うい感じがした。脂肪酸分析の二の舞にならなければいいけれど。何か決定的なものが出土して、物語が崩壊する可能性もある。「出したい結果」が見え見え。もう少し「野心」を押さえたほうがよい。
    (6月1日)

    学会で正式な発表をする前に、まずはマスコミに情報を流す。このため、発表会場には記者や一般の古代史ファンが詰めかけ、異様な雰囲気に包まれる。

    考古学協会の質疑応答は5分程度しかないから、十分な議論などできようはずがない。結局は、発表者がその主張を宣言する場になってしまう。そして翌日の新聞には、「科学に導かれた新しい有力な学説!」が記事になって踊るわけだ。

    学界で深く議論される前に、ある一つの主張、特定の成果が世の中で一人歩きしだして、定説であるかのように羽ばたき始める。抗うのが次第に困難になる。  

    こういうパターンに覚えがある人は多いだろう。そう、例の旧石器遺跡捏造の過程で進んだのと同じパターンだ。あの時も考古学の大戦果が次々に大本営発表され、それにマスコミが乗っかった。「科学」が標榜されるところもそっくりだ。
    (6月6日)
ホケノ山古墳の築造は、箸墓古墳と同時期か、あるいはやや早い時期で、寺沢薫氏によると庄内3式の土器の時代とされる。今回の歴博の発表では、箸墓の年代を240〜260年にするために、ホケノ山の庄内3式を200〜210年付近としている。

ところが、橿考研が発表した最新の報告書『ホケノ山古墳の研究』では、ホケノ山古墳の年代は95.4%の確率で250年〜420年の範囲に入ることがデータで示されている(下図)。明らかに今回の歴博発表と矛盾している。

歴博の研究費は3年間で4億2千万円。歴博は、この巨額な税金を、自分たちの誤った仮説を実証し、それをマスコミに宣伝するために使っている。黒い霧というか、白い巨塔というか、大変おかしな話である。

前々回の講演会でも、「歴博発表についての六つの大疑問」としてこの問題を取り上げた。

また、 季刊邪馬台国100号季刊邪馬台国101号季刊邪馬台国102号で、今回の歴博発表の問題点を詳しく取り上げ、また、『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』と題する新書本を宝島社新書から出版し、歴博の発表の問題点を糾弾した。




2.群馬県の太田天神山古墳の被葬者 (埼玉稲荷山鉄剣の時代)

稲荷山古墳の北方、群馬県太田市にある太田天神山古墳は、全長210mの東日本最大の前方後円墳である。

太田天神山古墳は、岡山県の造山古墳(350m)や、宮崎県西都市の女狭穂塚古墳(174m)とほとんど正確な相似形古墳なので、この三つの墓は恐らく同時代に築造されたものであろう。

太田天神山古墳のある群馬県は古代の大豪族である上毛野(かみつけの)氏の本拠地であった。

■ 上毛野氏に関する情報
  • 『日本書紀』によると、第10代崇神天皇は皇子の豊城(とよき)の命をして東国を治め させた。豊城の命は上毛野(現群馬県)の君、下毛野(現栃木県)の君の 始祖であるという。

  • 『日本書紀』によれば、第11代垂仁天皇の時代に、狭穂彦が反乱を起こしたとき、上毛野の 君の遠祖、八綱田(やつなだ)を将軍として、狭穂彦を討たせたという。八綱田はその 功により、倭日向武日向彦八綱田(やまとひむかたけひむかひこやつなだ)と名づけられた。

    『新撰姓氏録』の「和泉皇別」の「登美(とみ)の首」の条、および、「摂津未定雑姓」の「我孫(あびこ)」の条に、八綱田は豊城入彦の命(豊城の命)の 子であると記されている。

  • 第12代景行天皇は日本武の尊の東征ののちに、豊城の命の孫の彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)を、東山道十五国の都督(かみ)に任じた。

  • 彦狭嶋の王が、赴任の途中で没したので、景行天皇は彦狭嶋の子の御諸別王(みもろわけのみこ)に命じて、東国を治めさせた。御諸別は、東国に行って良い政治を行った。また、蝦夷を鎮定した。

  • 『日本書紀』は、彦狭嶋王を、上毛野の国に葬ったと記している。また、御諸別王の子孫は「今に(『日本書紀』の編纂当時)東の国にあり。」とも記されている。

    おそらく、御諸別の王の墓も上毛野の国につくられたのであろう。御諸別の王の活躍 した時代は、景行天皇の時代であるとすれば、御諸別の王の墓が築かれたのも、 大略四世紀で、三角縁神獣鏡が、墓にうめられていた時代であったであろう。

    備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡が出土した群馬県富岡市の北山茶臼山古墳や、三本木古墳は、おそらく、彦狭嶋王や、御諸別王とほぼ同時代のものであろう。

    これに対し、造山古墳や女狭穂塚古墳と相似形をしている太田天神山古墳は五世紀代、 あるいは、それに近い時代のものと見られる。応神天皇の時代に近いものであろう。 太田天神山古墳は、おそらくは、御諸別の王の子孫の上毛野氏の人の墓であろう。
■ 五世紀を中心とする時代の上毛野氏の動向
  • 『日本書紀』によれば、神功皇后の49年春3月、荒田別(あらたわけ)、鹿我別(かがわけ)を将軍として、新羅討伐のため遣わしたという。荒田別らは新羅を打ち破り、朝鮮の七つの国を平定し、50年の春2月に日本に帰ったという。

  • 『日本書紀』では、応神天皇の15年の条で、荒田別、巫別(かんなぎわけ)を、 上毛野の君の祖としている。「神功皇后記」に名がみえる鹿我別と巫別とは同一人物 ではないかとも言われている。

    応神天皇15年秋8月に、荒田別と巫別とは、百済に遣わされ、博士(ふみよむひと)の王仁(わに)をつれて帰ったという。

    『続日本紀』の、延暦9年(790)7月17日の条の百済王仁貞(にんちょう)の 上表に、王辰爾(おうじんに)系諸氏の祖先伝来説をのべ、そのなかにも、 「応神天皇の時代に、上毛野氏の遠祖の荒田別に命じ、百済に遣わし、有識者をさが した。百済の国主貴須王は、宗族のなかからえらび、孫の辰孫(しんそん)王(一名 智宗王)を日本に遣わした。天皇は喜び、皇太子の師とした。」とある。

    また、『新撰姓氏録』には、止美(とみ)の連、広木津(ひろきつ)の君、田辺 (たへ)の史(ふびと)、左自努(さじぬ)の公、大野(おおぬ)の朝臣、伊気 (いけ)などの条に、豊城入彦の命の四世の孫の(大)荒田別の命とある。

    諸種の文献に現れる上毛野氏の系譜をまとめると上図のようになる。

  • 『日本書紀』の仁徳天皇の53年5月の条に、上毛野の君の祖の竹葉瀬(たかはせ) と、その弟の田道(たぢ)とを、新羅討伐に遣わした、とある。

    55年には、蝦夷がそむき、田道を遣わしたが、敗れて、上総の国または陸奥の国かと いわれる伊峙(いし)の水門(みなと)で死んだという。

    『新撰姓氏録』の「左京皇別」の、上毛野の朝臣、桑原の臣、川合の公、商長 (あきおさ)の首(おびと)などの条に、豊城入彦の命の五世の孫として、「多奇波世 (たかはせ)の君」という名がでてくる。「竹葉瀬」と同一人物とみられる。 「多奇波世(たかはせ)」の「奇」の字は、推古遺文では、「止与弥挙奇斯岐移比売 (とよみけかしきやひめ:元興寺丈六光銘、元興寺縁起)」のように「か」と 読まれている。

    また、『弘仁私記』(813年に行われた『日本書紀』の講義の筆記ノート)に、 「田辺の史、上毛野の公、池原の朝臣の祖先の思須美(しすみ)・和徳(わとこ)の 両人は、仁徳天皇の時代に、百済から来て帰化して言う。私たちの祖先は、貴国の将軍 の上毛野の公の竹合(たかはせ)です。」とある。 竹葉瀬が現地で生んだ子の子孫であろう。

    『新撰姓氏録』の「左京皇別」の止美の連の条に、「豊城入彦の命の四世の孫の荒田別 の命の子の田道の公が、百済の国に遣わされ、止美の邑の呉(江南の宋をさす。朝鮮 半島の漢人)の女性と結婚し生んだ子が持君(もちぎみ)で、その三世の孫の熊次 (くまつぎ)と新羅とが、欽明天皇の時代に渡来した。」とある。朝鮮半島にわたった 将軍などが、現地で子をつくることがかなりあったようである。

  • 6世紀の記事としては、『日本書紀』の安閑天皇の元年(534)の閏12月の条に、 武蔵の国造の笠原の直使主(あたいおみ)と、同族の小杵(おき)とが国造の位置を あらそい、小杵が上毛野の公の小熊(おくま)に助けを求めたという記事がある。
■ 太田天神山古墳の被葬者

次のような理由から、上毛野氏の荒田別である可能性がかなりおおきい。
  • 太田天神山古墳のある群馬県太田市はかつて、新田郡の郡役所のあるところで あった。のちに源義家の孫の源義重がこの新田郡の地で開発を行い、新田氏を称した。

    鎌倉末期、南北朝時代に、新田氏の嫡流の武将、新田義貞がここからあらわれ、北条氏 をほろぼし、足利尊氏と対立した。

    吉田東伍氏の『大日本地名辞書』によれば、この 「新田(にった)」はもと「新田(あらた)」で、上毛野の君の「荒田別」にもとづく のであろうという。

    そして、吉田東伍氏は『地理志科』に、次のような考証を紹介している。

    「『新撰姓氏録』をあわせ考えると、『日本書紀』の神功皇后紀に名がみえる荒田別と 鹿我別とは、御諸別の王の子である。ところで、上野の国において、新田郡と足利郡の 二つ郡は、となりあっている。新田は、はじめ荒田(あらた)であって、のちに良い字 として、『新』の字をあてたものであろう。『足利』の、『足』の字も、『利』の字も ともに、『かが』と読める字である。『足利』は鹿我別の『鹿我』である。」

    このように、太田市の付近は荒田別の本拠であった可能性が多分にある。

  • 太田天神山古墳は岡山県の造山古墳、宮崎県の女狭穂塚と相似形である。

    造山古墳の 被葬者として、応神天皇の時代に活躍した人をあてはめるならば、太田天神山古墳の 被葬者としても、応神天皇の時代に活躍した人をあてはめるべきである。

  • 太田天神山古墳は、東日本最大の古墳である。この古墳は、中央において、巨大古墳 が築かれた頃に造られたとみるべきであろう。

    この古墳は仁徳天皇陵よりは、形態的に 古い特徴を持っている。従って、仁徳天皇よりも前の時代に活躍した人のなかから、 被葬者をもとべるべきである。

  • 当時の豪族が、かなり広範囲に活動しているところからみて、群馬県、岡山県、 宮崎県などのようなはなれた地域の豪族が、古墳の設計などについて、共通の知識を 持つことは、十分ありうるように見える。

  • 荒田別は、「神功皇后紀」にも「応神天皇紀」にも名がでており、活動期間も比較的 長く、朝鮮半島での軍事的功績もあり、活動量も大きかった人物であると伝えられて いる。

    このように、時代と場所とが一致し、地名と人名とがほぼ一致し、古墳の規模も、 文献に記されている事績にふさわしい。

    神功皇后非実在説のような旧説にとらわれなければ、太田天神山古墳の被葬者として 浮かび上がるのは、荒田別の名である。


3.鵲(かささぎ)

『魏志倭人伝』では、牛・馬・虎・豹・羊・鵲などの動物は、倭(日本)にはいないと記されている。

鵲は、中国や朝鮮では、スズメやカラスと同じようなありふれた鳥である。この文章が中国人によって書かれたため、故郷のいたるところで見かける鳥がいないと特記されたのであろう。

著書『動物から推理する邪馬台国』で、実吉達郎氏はカササギについて次の様に記している。

「鵲は豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、鍋島藩が朝鮮から連れ帰り、それが増えて、現在、 佐賀県と、長崎県の佐世保付近にいるだけである。鵲は留鳥で、住むところから離れない。

歴史のなかでは、推古天皇のころ、吉士磐金が新羅から連れ帰って献上した記録がある。しかし、その後は増えなかったようである。

カササギはつぎのように昔の和歌に詠まれている。

大伴家持 「鵲の渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜更けにける」
菅原道真 「彦星の行あいをまつかささぎの 渡せる橋をわれにかさなむ」

秀吉の朝鮮侵略まで、日本ではカササギはいなかったようなので、これらの和歌は詩的空想で詠んだものであろう。

辞書は、かささぎの橋について次のように説明している。

「陰暦7月7日の夜、牽牛、織女の二星が会うときに、鵲が翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋」

実物を見ていなくとも、中国の文献を読んでいれば、上のような歌は詠めるのである。

鵲はヨーロッパにもいたようであり、作曲家のロッシーニの作品にも「泥棒かささぎ」という 歌劇がある。

鵲はスズメ目、カラス科で利口で、やかましく鳴くことと、ものを集める性癖が特徴である。

日本では天然記念物となっている。

また、古来、コサギ(小鷺)やアオサギ(青鷺)のことを笠鷺と呼んでいた。

笠鷺の「笠」を鳥の冠羽を示すものと考えて、冠羽を持つこれらの鳥を笠鷺と呼んだのではないか。



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