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第283回講演会
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1.箸墓古墳についての続報 |
歴博が考古学協会の総会で「箸墓=卑弥呼の墓説」を発表し、新聞などで華やかに報道されたが、そのときの会場の雰囲気と新聞報道との間に大きな落差を感じた。多くの参加者もそのように感じたのではないか。
たとえば、当日の参加者で考古学の専門家と思われるオモイカネ氏(インターネットのハンドルネーム)は総会の雰囲気を次のように記している。
北條氏は、もともと邪馬台国畿内説の立場で、箸墓は卑弥呼の墓と考えておられる。にもかかわらず、歴博の発表を強く批判するのは、歴博の研究の内容について大きな問題意識を持っておられるからだと思う。 当日、歴博の直前の発表者だった考古学者の岡安光彦氏は、ご自分のブログで次のように述べて歴博の発表を批判している。
ところが、橿考研が発表した最新の報告書『ホケノ山古墳の研究』では、ホケノ山古墳の年代は95.4%の確率で250年〜420年の範囲に入ることがデータで示されている(下図)。明らかに今回の歴博発表と矛盾している。 歴博の研究費は3年間で4億2千万円。歴博は、この巨額な税金を、自分たちの誤った仮説を実証し、それをマスコミに宣伝するために使っている。黒い霧というか、白い巨塔というか、大変おかしな話である。 前々回の講演会でも、「歴博発表についての六つの大疑問」としてこの問題を取り上げた。 また、 季刊邪馬台国100号、季刊邪馬台国101号、季刊邪馬台国102号で、今回の歴博発表の問題点を詳しく取り上げ、また、『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』と題する新書本を宝島社新書から出版し、歴博の発表の問題点を糾弾した。 |
2.群馬県の太田天神山古墳の被葬者 (埼玉稲荷山鉄剣の時代) |
稲荷山古墳の北方、群馬県太田市にある太田天神山古墳は、全長210mの東日本最大の前方後円墳である。
太田天神山古墳は、岡山県の造山古墳(350m)や、宮崎県西都市の女狭穂塚古墳(174m)とほとんど正確な相似形古墳なので、この三つの墓は恐らく同時代に築造されたものであろう。 太田天神山古墳のある群馬県は古代の大豪族である上毛野(かみつけの)氏の本拠地であった。 ■ 上毛野氏に関する情報
次のような理由から、上毛野氏の荒田別である可能性がかなりおおきい。
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3.鵲(かささぎ) |
『魏志倭人伝』では、牛・馬・虎・豹・羊・鵲などの動物は、倭(日本)にはいないと記されている。
鵲は、中国や朝鮮では、スズメやカラスと同じようなありふれた鳥である。この文章が中国人によって書かれたため、故郷のいたるところで見かける鳥がいないと特記されたのであろう。 著書『動物から推理する邪馬台国』で、実吉達郎氏はカササギについて次の様に記している。 「鵲は豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき、鍋島藩が朝鮮から連れ帰り、それが増えて、現在、 佐賀県と、長崎県の佐世保付近にいるだけである。鵲は留鳥で、住むところから離れない。 歴史のなかでは、推古天皇のころ、吉士磐金が新羅から連れ帰って献上した記録がある。しかし、その後は増えなかったようである。 カササギはつぎのように昔の和歌に詠まれている。 大伴家持 「鵲の渡せる橋におく霜の 白きを見れば夜更けにける」 菅原道真 「彦星の行あいをまつかささぎの 渡せる橋をわれにかさなむ」 秀吉の朝鮮侵略まで、日本ではカササギはいなかったようなので、これらの和歌は詩的空想で詠んだものであろう。 辞書は、かささぎの橋について次のように説明している。 「陰暦7月7日の夜、牽牛、織女の二星が会うときに、鵲が翼を並べて天の川に渡すという想像上の橋」 実物を見ていなくとも、中国の文献を読んでいれば、上のような歌は詠めるのである。 鵲はヨーロッパにもいたようであり、作曲家のロッシーニの作品にも「泥棒かささぎ」という 歌劇がある。 鵲はスズメ目、カラス科で利口で、やかましく鳴くことと、ものを集める性癖が特徴である。 日本では天然記念物となっている。 また、古来、コサギ(小鷺)やアオサギ(青鷺)のことを笠鷺と呼んでいた。 笠鷺の「笠」を鳥の冠羽を示すものと考えて、冠羽を持つこれらの鳥を笠鷺と呼んだのではないか。 |
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