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第209回 特別講演会

特別講師 大塚初重先生


 古代日本の馬文化   「江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説を考える」           

■ 騎馬民族征服王朝説
大和朝廷の成立と日本列島の統一は、朝鮮半島南部の任那(加羅)を拠点として移動してきた東北アジア系の騎馬民族の征服によるものであり、 北部九州に到達した夫余系騎馬民族が、4世紀終わりから5世紀初めに畿内に至り、応神天皇の河内王朝を建てたとする説。    【概要】>>
昭和23年、お茶の水の喫茶店で、江上波夫、八幡一郎、石田英一郎、岡正雄が、コーヒーとサンドイッチだけで、三日連続で行った討論のなかで、江上氏がはじめて開陳した。

次のような理由で、考古学者からは不評だった。
  • 大陸から騎馬の文化が入ってきたことは、多くの考古学者が認めているが、それによって、新しい王朝が成立したことまでは、考古学的な現象として証明できない。
  • 騎馬民族の進出による、文化の急激な変化や、根本的な断絶は、弥生時代から古墳時代を通して、まったく確認できない。
江上説に反論するには、馬についての理解を深める必要があったので、これ以降、日本での馬の研究や、馬具の体系的研究が、大変盛んになった。

■ 騎馬民族
おもな騎馬民族とその活動地域



大塚初重先生
民族・国名主な領域・活動地域活躍した年代
スキタイ 黒海北岸 前7−前3世紀
サルマタイ 黒海東岸 前4−紀元前後
匈奴 モンゴル 前3−後3世紀
鮮卑 モンゴル〜遼寧 前4−後6世紀
烏桓 内モンゴル 前2−後3世紀
拓跋 モンゴル〜中国東北部 2−3世紀
突厥 北〜中央アジア 6−8世紀
ウイグル モンゴル〜トルキスタン8−9世紀
契丹 モンゴル〜中国北部 4−10世紀
蒙古 モンゴル 12−13世紀
高車 モンゴル 3−5世紀
吐蕃 チベット 7−9世紀
夫余 中国東北部〜朝鮮半島南部前2−後5世紀
高句麗中国東北部〜朝鮮半島北部前1−後7世紀
靺鞨 中国東北部〜沿海州7−8世紀
渤海 中国東北部〜朝鮮半島北部7−10世紀
女真 中国東北部〜沿海州10−13世紀

■ はみえだ轡(くつわ)と、馬冑(うまかぶと)の変遷

中国や朝鮮半島の馬具と、日本の馬具の間には、時間的な連続性や類似性が見られる。大陸の馬文化が、朝鮮半島南部の加耶地方を経由して、滔々と日本に流れ込んできたことを示している。

はみえだ轡
銜(はみ)が馬の口から横に外れないようにする装置,鏡板。   「はみえだ」→こんな字です。

中国出土の古式はみえだくつわ 韓国出土のはみえだくつわ
韓国出土のはみえだくつわ 韓国出土のはみえだくつわ
埼玉稲荷山古墳出土のF字型鏡板のくつわ 甘木市出土のはみえだくつわ

 

馬冑(うまかぶと)         馬のお面。 (^^;)        

中国出土の古い馬かぶと 韓国出土の馬かぶと 韓国出土の馬かぶと
韓国出土の馬かぶと 和歌山県出土の馬かぶと 埼玉県出土の馬かぶと

大陸の騎馬民族に使われたのと同じような鉄製馬かぶとが、和歌山や埼玉など、日本でも出土する。タテハギの鉄板を鋲で留める技法など、中国・韓国と同一形式、技法であることは明らか。
日本で制作したと考えるよりも、加耶の地域から到来したと考えるのが妥当であろう。

■ 日本の馬具の年代

学者により意見が異なり、確定するのは難しい。
古く見る学者は、4世紀後半。大多数の学者は5世紀前半と見ている。   

判断をむずかしくしている例として、たとえば、福岡市老司古墳出土の馬具 (横口式石槨のある前方後円墳)については、学者によって、【4世紀末】【 400年頃 】【5世紀初め】のように意見が異なっている
また、甘木市の池の上古墳出土のくつわを、日本でもっとも古いタイプと言い切れるかについても議論がある。  

■ 東国の馬

東国には4世紀後半に馬がいた。
馬は、北部九州に入ってから、かなりスピーディに東国まで伝搬したようだ。
  • 山梨県塩部遺跡(甲府工業高校のグランド)の方形周溝墓の溝から、馬の骨や歯がでた。
    布留式土器と同時代の土器(東松山の五領式土器)が出土したことから4世紀後半と判断。乗馬と結びつくかどうかはわからない。
  • 山梨県中道町の東山北遺跡の方形周抗墓からも、同様に4世紀後半の馬の歯が出土。
5世紀以降、東国の各地には、多数の乗馬用の馬がいた。
  • 従来、豪華な装飾を施したような特別な馬具が、研究の対象となっていた。 6世紀の実用的馬具を研究対象として調査すると、静岡、長野、山梨、群馬などの東国から、圧倒的な数の馬具が出土していることが判明した。
  • 高崎周辺地域には、積石塚古墳のような東アジアの大陸的な墓制が集中し、韓式形土器がたくさん出土する。 5世紀初頭のこのような遺跡から、鏡板つきの馬具が出土している。 朝鮮半島から、馬の飼育についての技術者集団が、早い時期に東国に来ていたのではないか。
  • 榛名山の火山灰の下から、馬の蹄の痕跡が沢山見つかった。牧場の跡ではないか。
  • 長野県新井原12号墳の土壙には、くつわ、鞍、鐙などの馬装を施して、馬が丁寧に埋納されていた。 馬具の形式から5世紀代と判断。
  • 水田耕作には適さないと思われる天竜川沿いの飯田市など、伊那谷地域に多数の前方後円墳があり、馬具が多く出る。この地域は、大和朝廷が東国を掌握するための重要な交通路と推定され、大和政権のバックアップがあって栄えたのであろう。
    伊那谷には、5世紀代、おそくとも5世紀後半には、馬がいて馬具が使用されていた。
■ むすび

講演中の大塚初重先生 馬文化の伝来についての考古学的な事実を元にした騎馬民族征服王朝説は、気宇壮大なおもしろさはあるが、考古学的にこれを証明するのはむずかしい。

江上氏いわく、「騎馬民族は侵入した地域の習俗になじんでしまう。」  そうだとすると、その痕跡を見つけるのはますますむずかしい。


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