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第208回 新春講演会
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1.韓国の前方後円墳 【最近の話題】
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前回も紹介したが、韓国・東亜大学校・沈奉謹(しんぼんぐん)教授らの発掘調査で、従来、前方後円墳とみられていた慶尚南道の松鶴洞一号墳が、重なり合った3基の円墳であることが明らかになった。
昨年11月15日の朝日新聞では、「前方後円墳ではなかったが」「古代の日朝交流、新たに判明」のタイトルで紹介された。今回はこの古墳について、さらに詳しく説明する。 松鶴洞一号墳について従来の見方
松鶴洞一号墳は前方後円墳である。全羅南道でも10基ほど前方後円墳が見つかったこともあり、日本の前方後円墳の源流が朝鮮半島にあることの証拠とされていた。
1983年に、「松鶴洞一号墳は前方後円墳である」と紹介されたことをきっかけに、その是非をめぐって激論が戦わされてきた。 ■ 松鶴洞一号墳は「近接して並んだ二基の円墳を、前方後円墳に見誤っている」とした学者
固城の松鶴洞墳をひと目みた瞬間に、私はこれは前方後円墳に間違いないと直感しました。しかも上位の前方後円墳なんですね。上位といいますのは形がきれいで見てすぐわかるということです。松鶴洞古墳は”みごとな”という形容詞をつけていいほどの上位の前方後円墳といえます。
森浩一氏の見解に対して、「いくら古墳に詳しい森教授といえども軽々に断定していいのか」など、学界から大きな反響があった。 たとえば、NHKの番組で、東京大学名誉教授の斎藤忠氏は、
かつて朝鮮半島にも前方後円墳があるとの話があったが、私が調べたところ、それらはみなそうではなかった。今回、嶺南大学の姜仁求(かんいんぐ)教授が、前方後円墳の起源は韓国にあるとして、その例証として挙げているほとんどすべての古墳について私は第二次大戦前に現地調査したことがあるが、それらは前方後円墳ではなかった。
固城の松鶴洞古墳について森教授は前方後円墳に間違いないとほぼ断定しておられるが、まだ実測もしていない段階からそのように言うのはどうか、特に森浩一教授は学界での影響が大きい学者であるだけに、発言は慎重であってほしい。 今回の発掘の成果を、新聞報道と、発掘を担当した沈奉謹(しんぼんぐん)教授の論文からまとめると、
松鶴洞一号墳は従来の 一部の学者の主張とは違って、前方後円墳ではなく、三基の円形墳が築造時期を異にしながら互いに連接・重複し ているものである。
当古墳は五世紀後半から六世紀前半にかけて使用されたものと推定される。 出土品は日本のほか、百済や新羅からもたらされたとみられる土器もあった。朝鮮半島各地と日本列島の交流を解明 するてがかりになる。日本との結びつきを示す特徴として次のようなことを確認。
松鶴洞一号墳が、前方後円墳ではなかったこと、および、全羅南道の前方後円墳も、すでに、日本の古墳よりも新しい時期のものであることが判明しているので、「前方後円墳の源流が朝鮮半島にある」とする根拠は消滅してしまった。
本件についての安本先生のコメント
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2.騎馬民族は来なかった。
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(1) 江上波夫氏の「騎馬民族説」の概要
江上波夫氏によれば、『古事記』『日本書紀』に語られる天皇家は、右図のように、騎馬
民族の系統のもので、邪馬台国は、中・南シナ原住民系統の人々のたてた傍流の国であったというのである。
(2) 騎馬民族説への批判佐原眞氏 (元国立民俗学博物館館長)
著書『騎馬民族は来なかった』や、江上波夫氏との共著『騎馬民族は来た!来ない!』で、江上氏と大論争。
騎馬民族が来なかった証拠として、
小林行雄氏 (京都大学教授の考古学者)
江上氏が、「古墳時代前期末(四世紀末から五世紀のはじめのころ)、応神天皇に率いられた騎馬民族が畿内に進出して、大和朝廷をうちたてた。」と主張することに対して、
田辺昭三氏 (考古学者)
次のような理由を挙げて、「騎馬民族の征服者たちが、馬にまたがって日本の原野を疾駆するといった情景を、五世紀の世界の中で想定するのは到底無理だ」と結ぶ。
(3) 倭人が朝鮮半島に進出していた証拠「騎馬民族説」では、朝鮮半島から日本に騎馬民族が進出してきたとされるが、4〜5世紀にかけての時期には、「騎馬民族説」とは逆に、倭人が朝鮮半島に進出していたことを示す証拠がある。■ 広開土王碑の碑文 広開土王碑の碑文によると
「倭人は、新羅の国境に満ち」ていた。西暦400年に、好太王は軍令を下し、歩騎五万を派遣して、新羅を救った。高句麗軍が、男居城から新羅の国城にいたると、倭がその中に満ちあふれていた。高句麗軍がいたると、倭賊は退却した。しかし、その4年ののちの404年に、「倭は不軌(無軌道)にも、帯方界(もと帯方郡のあった地域)に侵入」した。
帯方界といえば、現在の京城から、その北のあたりをさす。倭は、朝鮮半島の、そうとう奥地にまで侵入しているのである。
「好太王の軍は、倭の主力をたち切り、一挙に攻撃すると、倭寇は壊滅し、(高句麓軍が)斬り殺した(倭賊は)無数であった。」さらに、407年、好太王は、「軍令を下し、歩騎五万を派遣して」、「合戦して、残らず斬り殺し、獲るところの鎧ナ (よろいかぶと)一万余領であった。持ち帰った軍資や器械は、数えることができないほどであった。」
朝鮮に侵入した倭は、正規の高句麗軍五万と、くりかえし戦うカをもつ、万を超える大軍であった。
■ 倭王の爵号 五世紀後半に、倭王済や武は、客観的存在である中国の南朝の宋から、「使持節・都督 倭 新羅 任那 加羅 秦韓(辰韓) 慕韓(馬韓) 六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」という爵号を与えられている。 この爵号は、倭の軍事支配権が、朝鮮半島におよんでいたことを示している。とくに、新羅の名が入っていることが注目される。 そのころの日本は、このような爵号を与えられるだけの背景となるものを、もっていたとみられる。 中国は、百済、高句麗にも統治の地域を定めて爵号を与えている。客観的存在である中国のみとめた五世紀ごろの、倭、百済、高句麗の勢力範囲は右図のとおりである。 ■ 文献などの記録に現れる当時の日本と朝鮮の関係
このような背景の中で、「騎馬民族説」が主張するように、朝鮮半島から日本に、騎馬民族が大挙して侵攻したとは考えられない。 |
年賀状に誤記がありまして・・・(^^;)
会長陳謝、先生苦笑、皆様爆笑。 |
今年も熱心な聴講者で満員です。
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