■ 邪馬台国と狗奴国の戦いでは、多くの鉄鏃が使われた。鉄鏃の多くは邪馬台国側からもたらされたのではないか。
-
『魏志』韓伝の弁辰の条に「国は鉄を出す。韓・倭などがこれをとった」とある。
この倭は、地理的な近さから言って
狗奴国がわとみるよりも女王国がわとみるべきだろう。
- 鉄鏃の多量出土地点を結ぶラインを、北九州勢力と南九州勢力の境とすれば、このラインの北からは鉄の武器などが多量に出土している。
それにくらべれば、南からは、はるかに貧弱な量しか出土していない。
■ 女王国は狗奴国よりも有利に戦いを進めた。
- 魏及びその出先機関はあきらかに女王国側にたっている。卑弥呼は魏王朝によって「親魏倭王」としてオーソライズされている。卑弥呼と狗奴国の男王との紛争がおきたとき、魏および帯方郡は卑弥呼側に権威を与える行動にでている
- 卑弥呼の死後の記録に狗奴国が勝利したとの記述はない。かえって、卑弥呼の宗女台与を立てて王としている。卑弥呼が国を滅ぼしたのならその宗女が王となることはないであろう。
- 鉄の武器、農業生産力、人口ともに、女王国がわのほうが狗奴国がわを上まわっていたとみられる。
- 九州にあった邪馬台国(やまとこく)と、のちに、畿内に存在した大和国とは名称が一致している。
これは、九州にあった邪馬台国が、のちに発展して機内に移り大和朝廷となったと解釈するとき、うまく説明できる。
邪馬台国が滅亡したのなら、大和朝廷がその名を受け継ぐことはないであろう。
■ 九州と畿内の鉄
古代においては、全国統一に大きな役割をはたしたものがあるとすれば、それは、おそらく、切れ味鋭く耐久力に優れた鉄の武器であろう。
大陸に近い九州は、弥生時代においては、政治力、軍事力、技術などにおいては、畿内よりも先進地帯であったのであり、文化のより大きな中心は九州のほうにあったと考えられる。このころの
鉄の出土数も畿内より九州のほうが圧倒的に多い。
古代においては、九州圏と畿内圏が戦えば、九州圏のほうが有利であることは、ほとんど自明のことのように思える。
橿原考古学研究所の寺沢薫氏は、その著『王権誕生』のなかで次のように述べる。
鉄器が弥生時代を通して九州で大量に出土する事実は変わらない。鉄器が腐食するとはいっても、近畿だけ錆びてなくなることはあるまい。
この(弥生時代後期)の段階で、近畿中枢部の首長が日本海の鉄製産を掌握したとか、北部九州が半ば独占的に確保していた鉄素材入手ルートが崩れ、近畿の首長が独自に交易や外交ルートを切り開き、新たな鉄素材の流通システムを作り上げた、といった近畿勢の巻き返し論にも同調できない。近畿勢力の巻き返しと独自の外交を想定し、その背景として北部九州以外での鉄器化を過大に評価することは、あまりに恣意的で短絡的な解釈と言うしかない。