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第270回特別講演会
邪馬台国は畿内か?九州か?
(第2回)


 

1.古墳の年代                                安本美典先生

■ 歴博の発表した箸墓古墳の年代   (薮田紘一郎氏の報告)

5月に行われた日本考古学協会第74回総会で、国立歴史民族博物館(歴博)の研究グループが、箸墓古墳の溝から出土した布留0式の土器に付着した炭化物を、炭素14年代法により測定した結果、箸墓古墳はこれまで考えられた時代より数十年古い3世紀中頃と発表した。

朝日新聞は5月27日の夕刊で、歴博の発表内容を「奈良・箸墓古墳3世紀中頃か」 というタイトルで掲載した。

安本先生は、歴博の発表内容に疑問を抱き、内容を確認しようとしたところ、当会の会員でもある薮田紘一郎氏が総会に参加していたので、安本先生の持ち時間の中で薮田氏から歴博の発表「弥生時代の実年代」について紹介いただくことにした。

歴博の発表項目
  1. 列島各地の水田耕作の開始年代
  2. 弥生終末期〜古墳時代開始期の実年代
  3. 日本産樹木の炭素14年代による暦年較正
  4. 掲載図:日本列島各地の弥生水田稲作の拡散と奈良盆地(田原本町・桜井市)における弥生後期以降の年代(下図)


箸墓の年代に関する歴博の矛盾点

項目2の発表のレジュメに次のように記述してある。

「定型化した最古の前方後円墳である箸墓古墳の布留0式に付着する炭化物などを測定したところ、1800BP年頃に集中する結果を得た。(中略)日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線と照合すると、箸墓古墳の布留0式は3世紀中頃と考えるのが合理的である。」

しかし、掲載図の日本産樹木年輪資料の炭素14年代から構築した較正曲線を拡大して目盛り線を引いてみると、1800C14BP年は較正曲線と4カ所で交わり、3世紀中頃〜4世紀中頃にしか絞れない。歴博が3世紀中頃の1ポイントに絞るのはまったく根拠がない(下図)。

項目3の発表で、歴博準教授の藤尾慎一郎氏は次のように述べる。

「日本産樹木の炭素14年代は、BC2世紀以降については未だデータも少なくそのグラフも上下に暴れる不安定な状態である。

つまり、BC2世紀以降については、未だ実用の段階ではなく、現時点では、炭素14AMS法で箸墓の年代を推定することはできないことを意味している。

歴博は、いっぽうでは較正曲線が未完成なので、弥生終末期〜古墳時代開始期も実年代を決められる状況ではないことを認めていながら、片方においては、まさにその較正曲線を根拠にして古墳時代開始期の箸墓古墳の年代発表をするという矛盾した行為を行ったのである。

これらの点について、歴博との質疑応答で質問した。しかし、歴博からいろいろ説明された内容は、質問に正面から答える形のものではなく、納得できる回答ではなかった。


■ 箸墓古墳の年代についての安本先生のコメント

歴博の研究者は、240年から350年までの幅を持った値しか推定できないデータなのに、3世紀中頃というピンポイントで決めてしまい、それを新聞発表した。

歴博の発表は、箸墓古墳が3世紀中ごろの卑弥呼の墓という前提条件をもって行われた。研究自体は科学的方法を用いているが、発表はまったく科学的ではない。自分たちの先入観の確認のためにデータを都合良く利用しているだけだ。

畿内説の学者は、新聞発表に持ち込めば成功と考えている人が多い。新聞発表では証明したことにならないので、証明は別に行なわねばならない。

世間一般の人は国立機関の歴博ともあろうものが、いい加減な発表をするはずがないと思う。しかし、実体はそうではなく、かなりいかがわしい発表をしている。

前々回に講演して頂いた韓国慶尚大学招聘教授の新井宏氏も歴博の発表について次のように述べている。

今回の問題だけでなく、弥生中期や、弥生前期の板付Ua期の位置づけに関しても、歴博の発表に自己矛盾が数多くあり、歴博の論理性について、強い疑義を抱いている。

ここに言う自己矛盾とは、歴博の発表した前提条件や資料からは、歴博の主張する結論は得られないという極めて単純なことであり、考古学上の議論とは無関係な論理的な問題である。

土器付着炭化物と、炭化米やくるみの炭素14年代を比較すると、土器付着炭化物のほうが、炭素14の年代が古く出ることも注意が必要。これは、西田茂氏が江別市対雁2遺跡の例として土器付着炭化物では600年も古く出ると問題提起したものであるが、まだ、明快な解決に至っていない。

さらに、新井宏氏は、唐子・鍵遺跡でも下表に示すように、同様な問題が明らかになっていると指摘する。

  唐子・鍵遺跡の大和V・3期の炭化米と土器付着炭化物の炭素14年の比較
データ (すべて歴博『新弥生時代のはじまり』より)平均
炭化米の炭素14年2050年、2070年、2065年、2070年、2080年
2065年、2025年、2100年、2090年、2069年
2068年
土器付着炭化物の炭素14年2139年、2143年、2056年、2121年、2157年
2139年
2125年

同一地域、同一時期(唐子・鍵遺跡の大和V・3期)で、土器付着炭化物の炭素14年が平均で57年も古く出ているのである。このような事例の存在から見て、土器付着炭化物による年代推定では、日本樹木年輪の炭素14年よりも更に50年ほど古く出る可能性も考慮しなければならない。

すなわち、布留0式土器の年代は、藪田氏の指摘よりも更に50年くらい新しい時代、AD290年〜AD400年となる可能性もあると新井氏は述べる。

土器付着炭化物の炭素14年代が古く出る理由については現在のところ不明である。安本先生は、これは、もともと土器に含まれていた炭酸カルシウムなどの炭素の効果ではないかと推測している。

  年代測定結果の報告内容 『箸墓古墳周辺の調査』
試料補正炭素14年代暦年代
ヒノキ2080±60BC330、BC205−AD65
ヒノキ2120±60BC360−280、BC250−AD15
桃核1620±80AD245−620
桃核1840±60AD65−350
奈良県橿原考古学研究所発行の『箸墓古墳周辺の調査』に、布留0式土器の時代に出土したひのきと桃の種の炭素14年代の測定データがある。
 
このデータについて、新井宏氏は次のように述べる。

ひのきと桃の種で測定値に大きな差があるため寺沢薫氏は、データの信頼性に疑問を呈していると言うことだが、必ずしも棄却すべきデータではない。

木材は、年輪のどの部分を測定したものか、あるいは、風倒木や古材の再利用を視点に入れると、かなり古く出る可能性が高いからである。

いっぽうの桃実は、埋没と同時期の可能性が高く、年代測定には有意である。

さて、桃実の2件のデータの平均値は、1730±50BPである。これを歴博の日本産樹木の炭素14年代と比較すると、暦年推定値はAD230−AD390年である。桃実は土器付着炭化物のような問題は少ないと考えられ、箸墓造成時期の推定の重要なデータと考える。

なお、新井氏は、歴博の研究について、別の観点からも大きな問題があると次のように指摘する。

歴博は平成16年から20年の5年間にわたり、総額4億2千万円の「学術創成研究費」を得て、「弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-」の研究を推進している。

一般の科学研究補助金が古代史と考古学を合わせても年間4億5千万円程度なのと比較すれば、極めて重要視されている研究である。

その中で中心課題になっているのが炭素14年代分析関係であるが、炭素14年代の較正については、国際較正基準がそのまま特定地域に適用できるかという、いまだ解明されていない問題が残っている。

また、土器付着炭化物では年代が異常に古く出るという西田茂氏の指摘についても原因が解明されていない。

このような異論があるにもかかわらず、歴博は自らの主張してきたことのみに重点を置いて、研究を推進しているように見受ける。

炭素14年代に関する専門家も参与しているプロジェクトである。少なくともこれらの問題提起に対して、なんらかの説明あるいは対応が必要である。

旧石器捏造事件の時と同じように、研究費を配分する人と、研究費を使用する人たちが同じグループに入っている。

旧石器捏造事件では、研究費を配分する人があらかじめ自分の説を持っていて、自分の説を支持するところへどんどんお金をつぎ込むということをやった。研究者は配分者の説に沿うように成果を出さないと研究費がもらえなくなるので、ますます捏造が拡大し、とんでもないことになった経緯がある。

歴博の研究は、これとほとんど同じ構造になっている。

炭素14年代については賛成の人も反対の人もいる。研究費は反対の人にも配分しなければならない。都合の良い結果を出すところに集中して研究費を配分するというやり方は大きな問題である。

■ ホケノ山古墳

ホケノ山古墳は、奈良県桜井市にある初期の前方後円墳である。ホケノ山古墳は出土した土器の様式から、庄内期の古墳とされている。

小山田浩一氏は「弥生時代終末期〜古墳時代はじめごろの漢鏡7期の鏡」(別表)と題して、鏡を土器様式ごとに分類したデータをまとめている。

小山田氏だけでなく、樋口隆康氏や奥野正男氏の調査データも合わせて、庄内期の地域別の鏡の出土数を見ると、いずれのデータも、北九州地方が最も多いことで共通している。

庄内期(併行期をふくむ)の副葬鏡の地域別分布
小山田宏一氏の調査による
表2の「A段階」と「B段階」
樋口隆康氏の調査による奥野正男氏の調査による
北九州地方49
近畿地方
中国地方
四国地方
その他
551818


また、小山田氏のデータを整理すると次のようなことがわかる。
  • 遺跡数においても、鏡の数においても、「庄内期〜布留1式期」までは、分布の中心は北九州にある。

  • 布留1式期〜布留2式期になると逆転し、鏡は畿内を中心に分布するようになる。
    ただし、この場合、畿内を中心に分布するとといっても、奈良県が中心ではない。奈良県の周辺の、京都府、兵庫県などに、分布の重みがかかっているように見える。

  • 福岡県では、庄内期から布留2式期までのすべての時代で鏡が出土しているのに、奈良県では、庄内期のホケノ山古墳で出土して以降、布留1〜2式の桜井茶臼山古墳までとんでしまい、連続的に分布していない。
ホケノ山古墳から出土した画文帯神獣鏡と文様がほとんど同じ同デザインの鏡が4面見つかっている。

出土地直径時代備考
ホケノ山古墳φ19.1
石川県狐山古墳φ19.41〜19.565世紀後半ホケノ山の鏡と直径や銘文が近く、ホケノ山の鏡と親子鏡、兄弟鏡か?
愛知県大須二子山古墳φ19.43〜19.536世紀中葉
出土地不明φ18.0〜18.5
中国江蘇省(くい)県φ16.5眼眼眼胎紆県は呉鏡の分布する中国南方地域。


ホケノ山の画文帯神獣鏡は、直径も銘文も愛知県大須二子山や石川県狐山から出土した古墳時代のものに近い。

五世紀後半の築造と言われている熊本県の江田船山古墳出土の画文帯神獣鏡もホケノ山古墳のものと文様が近い。

ホケノ山古墳は庄内期と言われているが、このような鏡の分析からは、ホケノ山の鏡は、むしろ5〜6世紀の古墳時代出土の鏡に近く、ホケノ山古墳はそれほど古くないと考えられる。

仮に、ホケノ山古墳構築の年代が3世紀前半、邪馬台国時代にあたるとしても、つぎのような矛盾がある。
  • 鏡の文様が、呉鏡系で、魏鏡とは言えない。
  • 同じ時代に鏡は北九州(とくに福岡県)のほうが、畿内(とくに奈良県)よりも ずっと多く出土している。


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2.大和・ホケノ山古墳の年代                        石野博信先生

■ ホケノ山古墳とはどのような古墳か

ここでは、考古学は相対年代を中心に話し、最後に実年代の説明をする。なぜそのように考えられるかを説明する。

ホケノ山古墳は箸墓の100mほど東にある80mくらいの古墳で、長い突起が付いた円丘墓である。

埋葬施設の木棺は丸太の底を加工したもので、割形木棺とは言いがたく、U字底の組み合わせ木棺と呼ぶべきものである。

棺の周囲には、板囲いがあり、6本の柱で支えている。その外側に石積みがある。このような型式を石囲い木槨墓という。

ホケノ山とそっくりな物は見つからないが、棺の上に建物をたてるというもののルーツは弥生後期の第X様式土器が出土した島根の西谷遺跡にある。



■ 副葬品

副葬品には、まず、鏡がある。岡村秀典氏のいう漢鏡7期の鏡(2世紀終わりごろ)である。

また、40本ほど銅や鉄の鏃が出てきた。この中には、四世紀といわれる前期古墳の中頃から後半ごろの出土する比較的新しいタイプの銅鏃が含まれていた。

このことから、発掘中からこの古墳は新しいのではないかと言われてきた。

庄内式土器と銅鏃が出る遺跡は10カ所ほどあるが、ホケノ山と同タイプの新しい銅鏃が共伴する例は非常に珍しい。

滋賀県の遺跡での例がある。銅鏃一本で年代は決められないが、新しいと思われていた銅鏃が庄内期に遡る可能性もあると言うことである。

古墳の周囲の堀から深さ20センチほどの範囲で土器が出土している。その下層には布留0式土器(纏向3式C)、上層からは、布留1式の小型丸底土器が出ている。

土器は、棺の外側で石囲いの内側からも20個程度出土した。堀で見つかった土器よりも石囲いの内側の土器のほうが相対年代として古いのだが、堀で見つかったのと同じ布留1式の土器が、石囲いの内側の床の直上で発見されている。これはショックであった。



■ ホケノ山古墳の年代

ホケノ山古墳は250年±10年前後と考えている。

三角縁神獣鏡など鏡は、土器と共伴する事例が少なく、また、製作年代、輸入年代、埋葬年代が分からないので年代判断が難しい。

土器の年代を探る手がかりは、
  • 上限
    新の時代の貨泉が出土していることから考えて、弥生後期前半の第5様式の土器は西暦14年より前にならない。

  • 下限
    埼玉県稲荷山古墳の鉄剣の銘文が471年と読める。

    ただし、銘文鉄剣は、最初の埋葬施設ではなく第二次埋葬施設からの出土なので、古墳築造はそれよりも遡る時期と考えられる。

    したがって、出土したTK47型式の須恵器は、471年の少し前の450年ぐらいに相当する。
14年から450年の広い時間幅を、弥生第5様式、庄内式、布留式、須恵器で分割することになる。

さらに型式を細分すると、庄内式は1〜4形式、布留式は1〜3型式、須恵器は6〜7形式に分類される。須恵器の1形式を10年とすると、須恵器のはじめのTG232形からTK47式までの期間は380〜450年ごろになる。

布留1式のはじまりを、安本先生の言われるように350年とすると、布留式の行われた期間が50年に満たない短い期間になってしまう。これはおかしいと思うので、布留式は290年頃から始まったと考える。

そして、布留式が始まる前の庄内式の時代のホケノ山古墳の年代は250年ごろと考えている。


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3.討論                              石野先生 vs 安本先生

安本: ホケノ山古墳は庄内式土器だけでは年代が決まらない。 やはり鏡で決まるのではないか。中国には年代のわかる鏡があるし、九州では連続して出ているので、ここからホケノ山古墳の鏡の年代も推定できるのではないか。。

中国の洛陽晋墓では多くの鏡が出土していて、その内3つの墓から墓誌が出ている。墓誌に記された年代を見ると、287年、299年、302年であり3世紀末の墓であることが分かる。

洛陽晋墓出土の鏡の特徴は、基本的に3世紀末の同一年代のものであること、24枚の出土鏡のうち8枚が位至三公鏡であり最多数であること、後漢時代の洛陽焼溝漢墓にはなかった鳥文鏡が新たに加わっていることなどである。

位至三公鏡は北九州から一番多く出ている。奈良県からは1枚も出ていない。鳥文鏡もまた北九州を中心に分布している。

日本列島でのこれらの鏡の出土状況は、弥生時代と古墳時代の境目の時期に集中している。

そして、これらの洛陽晋墓出土の鏡の中に画文帯神獣鏡がある。

すなわち、ホケノ山古墳からも出土した画文帯神獣鏡は三世紀末の弥生時代と古墳時代の境目の時期のものと推測される。

石野:安本先生の鏡の話は方法論としては理解できる。しかし、結論については問題がある。

庄内期を九州の人は弥生終末期と呼んで、後期と終末期を別扱いにしている。

弥生後期を50年〜300年ごろとして、その後に終末期の庄内期を考えると、庄内期や布留期がたいへん窮屈になってしまう。

この考えかたで行くと、遺跡の数・古墳の数と合わなくなり、日本の歴史を考え直さなくてならない。

安本先生の方法については、同じ名前で呼ばれている鏡がほんとうに同型式と判断できるのか、あるいは、同型式の鏡での年代差がどのくらいあるのかという疑問があり、調べてみる必要がある。

安本: 石野先生の資料に岡村秀典氏の鏡の分類表が引用されているが、この表には大きな問題がある。

たとえば、位至三公鏡は岡村分類では漢鏡6期または7期とされ、二世紀前半から三世紀初めのものとされている。

しかし、わが国出土の位至三公鏡のリスト(安本資料)でみると、九州では弥生時代終末に出土するものもあるが、ほとんどが古墳時代に出土し、300年ごろの鏡である。岡本分類は、鏡の年代を150年ほど古く見ている。

また、福岡県平原遺跡の鏡は、岡本分類では漢鏡5期とされ、一世紀中頃から後半のものとされている。

しかし、柳田康雄氏が執筆した公式報告書では、この鏡は200年ごろのものと記されている。ここでも、岡村編年は、実際よりも150年ぐらい古く見ている。

さらに、岡村編年では三角縁神獣鏡を三世紀の鏡としているが、三角縁神獣鏡を出土する古墳は崇神天皇の時代を中心にした4世紀の古墳であり、ここでは三角縁神獣鏡を100年ほど古く見ていることになる。つまり、岡村編年は鏡の年代をことごとく100年から150年古く見ていることになる。

石野: この資料は岡村氏の資料である。弥生中期の墓の年代の指標として使った。三雲南小路、須玖岡本、井原鑓溝などの墳墓から出土する漢鏡3期や4期の鏡は手がかりとして使えると思っている。

しかし3世紀頃については、まだ、位至三公鏡などの製作年代と埋葬年代について証明されていないので何ともいえない。

とはいっても、安本説が正しいと言っている訳ではない。ただ崇神天皇陵は350年以降とは思っている。

安本先生が始めにコメントした歴博のC14年代、あるいは、年輪年代については、まだ、データ不足で信用できないと考えている。今日の資料にもC14年代を使っていない

たとえば、埋葬年代の明らかな太安万侶の墓から木簡が出ているが、このような物を資料にして、C14年代測定の精度の確認をなぜ早くやらないのかと思っている。歴博の年代観はまだまだ発展途上と思う。

安本: 石野先生の「三世紀中葉に副葬・廃棄された鏡」という資料で筑前の那珂八幡古墳について確認したい。

那珂八幡古墳からは三角縁神獣鏡が出ているが、石野先生は三角縁神獣鏡が三世紀中葉の鏡と考えておられるのか?

石野: 那珂八幡古墳からは布留1式土器が出土しているので、私の年代観では290頃の築造である。タイトルは「三世紀中葉前後・・・」と修正すべきであった。

また、那珂八幡古墳には埋葬施設が2つあって、布留1式土器は中心埋葬施設付近から見つかっている。三角縁神獣鏡が出土したのはもう一つの横にある埋葬施設である。ここの土器はもう少し新しい。

三角縁神獣鏡と一緒に出土する土器で最も古いのは何かと調べているが、庄内式土器と共伴する例はまだ見つかっていない。

三角縁神獣鏡が大量に出土した京都の椿井大塚山古墳は墳丘から布留1式、布留2式の土器が出るので、4世紀半ば以降の築造であろう。

安本: 今日は鏡のことが話の中心になったが、邪馬台国問題は、ほかの物を含めた全体のながれの中で考えるべきものである。

たとえば、魏志倭人伝には、魏は女王卑弥呼に5尺刀を与えている。5尺刀は鉄刀と思われるが、素環頭鉄刀は福岡県からの出土が非常に多い。

また、魏志倭人伝で墓は棺あって槨なしと記しているが、ホケノ山古墳には木槨がある。

ホケノ山古墳は邪馬台国時代より後の木槨がポピュラーになった時代の墓ではないのか。

そして、古墳の形を調べると、ホケノ山古墳は後円部の半径が前方部の長さにほぼ等しく、この墳形は崇神天皇陵にかなり近い。

これは、ホケノ山古墳が崇神天皇陵が築かれた4世紀頃の古墳であることを示しているのではないか。

石野: 素環頭鉄刀は3世紀の庄内併行期に出たものはそれほど多くはない。次の4本が庄内併行期の長い鉄刀として知られている。

福岡・前原110cm、鳥取県・宮内100cm弱、兵庫県・内馬山95cm前後、福井県・乃木山100cm近い。大阪のほうには素環頭鉄刀の出土は無い。

これらは、いずれも日本海側から出土したものであり、当時の貿易や外交の窓口が日本海側にあったことを示すものである。

ホケノ山古墳から木槨が見つかったことは確かだが、中国の3世紀の槨は教室くらいの大きなものである。それと比べるとホケノ山の木槨は槨とは言えない。

前方後円墳は、円丘に突出部が付いた楯突墳丘墓や萩原1号墳から始まり、2世紀の終わり頃には関東から福島地域までの各地域にこのような墳墓ができてきた。

これを巨大化して権力のシンボルに仕上げたのが大和王権である。

古墳時代を定型的な前方後円墳の出現した時期とするよりは、楯突墳丘墓のように円丘に突出部が付き始めた段階として考えても良いのではないか。それまでの円墳や方墳の伝統とは異なる新しい型式が現れたのだから。

安本先生は、倭人伝には土器は書いてないと言われるが、3世紀の日本列島史を考えるうえでは、魏志倭人伝だけが全てではない。魏志倭人伝に書いてない土器も含めてあらゆるものを使って考えてもいいのではないか。



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