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第269回講演会 
卑弥呼問題と邪馬台国問題


 

1.卑弥呼問題と邪馬台国問題                         

■ 邪馬台国と卑弥呼の関係

大正から昭和のはじめごろにかけて活躍した笠井新也氏は邪馬台国と卑弥呼の関係について次のように述べる。

「邪馬台国と卑弥呼とは 『魏志倭人伝』中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。 そのいずれかの一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。

すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋、あるいは、大和朝廷に関係する女性であるかの問題は、おのずからから解決する。

また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。」



笠井新也氏は、『日本書紀』の年代の分析から崇神天皇を邪馬台国時代の人物として、崇神天皇の時代に活躍した倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)が卑弥呼であるとした。

そして、『日本書紀』に、箸墓が倭迹迹日百襲姫の墓と記されることから、箸墓古墳を卑弥呼の墓と考えた。

笠井新也氏は、崇神天皇が邪馬台国時代の人であるとする当時の年代観に基づいて、邪馬台国問題と卑弥呼問題を一応同時に解決した。

その後の年代論の研究から、崇神天皇や倭迹迹日百襲姫の時代は邪馬台国の時代よりかなり後の時代であり、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫にあてはめるのは無理と認識されるようになった。

また、倭迹迹日百襲姫を卑弥呼とすると、『魏志倭人伝』に卑弥呼に夫がいないと記されることや、卑弥呼が女王と記されることと矛盾することが指摘された。

倭迹迹日百襲姫には三輪山の神という夫がおり、また、崇神天皇という男の王がいたからである。



■箸墓を卑弥呼の墓とする説

倭迹迹日百襲姫を卑弥呼とするのが年代的に難しいことがわかってくると、おかしな議論が現れる。

たとえば、考古学者の白石太一郎氏は、箸墓古墳は卑弥呼の墓である。しかし、 倭迹迹日百襲姫は卑弥呼ではないとする。

これでは、箸墓古墳が卑弥呼の墓であると決めた理由がはっきりしなくなってしまう。

笠井新也氏の説は、倭迹迹日百襲姫が卑弥呼であり、倭迹迹日百襲姫の墓が箸墓であるから、箸墓古墳を卑弥呼の墓であるとする。

笠井氏の説はいまから見れば年代論には問題があったが、すくなくとも論理は整っていた。

■ 安本先生のアプローチ

笠井新也氏の、邪馬台国と卑弥呼とは同時に解決されなければならないとする見解には同感である。

『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼は西暦237年に魏に朝貢しているが、卑弥呼の朝貢した237年はは何天皇の時代なのだろうか、というところから考え始めた。

第31代の用明天皇以降は年代がはっきりしてくるので、用明天皇以降の天皇の平均在位年数を調べてみた。

在位年数は、100年程度で平均してしまうと凸凹がでるが、400年くらいのスパンで平均すると凸凹は均一化され、明らかな傾向が見えてくる。

調査の結果では、天皇の在位期間は古い時代になるほど短くなる傾向にあり、17〜20世紀はおよそ22年だが、5〜8世紀は平均在位期間が10.88年にしかならないことが判明。

現代の我々は昭和天皇が64年間在位したことを知っているので、10.88年というのは非常に短いように感じる。しかし、昭和天皇のような長期間の在位は、世界の歴史を見た場合非常にまれなことである。

昭和天皇は日本の歴史上最も在位期間の長い天皇であるのはもちろんのこと、世界を見ても、ルイ14世、康煕帝、エリザベス女王に次いで4番目に当たる。



確実に年代が確定できる第31代の用明天皇以降の天皇の即位時期をグラフ上に描くと、図のように若干下側に湾曲した曲線になる。この図の実線を過去に向かって延長すると、初代の神武天皇でも卑弥呼の時代に届かない。

天照大御神は神武天皇の5代前の人物であるが、天照大御神を卑弥呼とした時に、グラフの上に自然に乗る。

卑弥呼を倭迹迹日百襲姫や、神功皇后、倭姫などにあてはめたのでは、このグラフに自然な形でのらない。

『古事記』には年代が記されていない。『日本書紀』編纂者は、中国の史書に年代が記されていることを知って、日本書紀を編纂する時に年代を書き加えた。その際に、卑弥呼を神功皇后とする誤りを犯した。

実際は400年ごろに活躍した神功皇后を、卑弥呼の時代の240年ごろとしたため、『日本書紀』に記された年代は著しく過去のほうに延長されたものとなった。

そのため、神武天皇の即位が紀元前660年という大昔になり、そのほかの古代の天皇の在位期間も大変長くなった。

この状態をグラフに記すと、グラフの傾斜が不自然に下方に折れ曲がり、年代が拡張されたことが良くわかる。

■諸天皇の推定年代

古代の天皇の平均在位年数を、約10年として、次のような評価によって各天皇の大略の活躍年代をすると下図のようになる。
  1. 『日本書紀』には、歴代の古代天皇の在位年数が記されている。この在位年数には、延長があるとみられる。しかし、事蹟が多く、在位の長かった天皇は、伝承上も在位が長いように伝えられがちであろう。そこで、『日本書紀』の在位年数の長さに比例させて、一代の平均値10年に増減を加える。

  2. 『古事記』には、各天皇の在位年数は記されていないが、各天皇の享年は記されてい る。長命な天皇は、在位期間も比較的長く、事蹟も多くなリがちであろう。そこで、『古事記』に記されている享年の長さに比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加える。

  3. 在位年数が長く、事蹟も多い天皇は、『古事記』『日本書紀』などに記されている記事の量も多くなるであろう。そこで、『古事記』『日本書紀』に記されている記事の量に比例させて、一代の平均在位年数に、増減を加える。


■「卑弥呼」と「天照大御神」の類似点

白鳥庫吉は『魏志倭人伝』の「卑弥呼」と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」との記述が酷似していることを論文にまとめた。和辻哲郎も同じように述べている。

卑弥呼と天照大御神は活躍時期が一致するだけでなく次のような点でも類似している。
      
  1. 卑弥呼も天照大御神もともに女性である。

  2. 天照大御神も卑弥呼も、ともに宗教的権威をそなえている。

  3. ともに夫を持たなかったようである。

  4. 卑弥呼には、弟がいたことになっている。天照大御神にも須佐之男の命、月読の命 という弟がいる。

  5. 『古事記』には、「天照大御神、高木神の命をもちて」などの記述がしばしば みられる。すなわち、高木神は、天照大御神といっしょに、しばしば、命令を下したり などしている。『魏志倭人伝』の、女王のことばを伝えるために出入りしている一人の 男と、高木神とが符号するように思える。

  6. 天照大御神と須佐之男の命の争いは、卑弥呼と狗奴国の男王との戦争に似ている。

  7. 白鳥庫吉や和辻哲郎が指摘しているように、卑弥呼の没後、大きな塚が作られ、 男王がたったが、国中が服さず、戦いがおこなわれ、宗女台与(壱与)がたって国中が おさまったという話は、天照大御神が、天の岩戸に隠れ、ふたたびあらわれた話と符合 する。

  8. 『魏志倭人伝』には、人が死ぬと、他人は、歌舞飲食につく、とある。これは天の 岩屋戸のまえで、天の宇受売の命が、歌舞をし、諸神が、「歓喜び咲(わら)い楽 (あそ)んだ」と一致する。

  9. 魏の天子は卑弥呼に、「親魏倭王」の称号を与えている。卑弥呼は「倭」の女性で あった。いっぽう、『古事記』には、神武天皇を、神倭伊波礼毘古の命と呼んだ ように、「倭」の文字がしばしばあらわれる。のちの時代、大和朝廷こそ「倭」で あった。したがって、卑弥呼にあてるべき人物は『古事記』『日本書紀』に記されて いる大和朝廷の関係者のなかから求めるべきであろう。とすれば、その関係者の なかで、まず、時代の合致する人が卑弥呼であると考えるのが、自然である。

  10. 天照大御神は大和朝廷の皇祖神であり、卑弥呼は邪馬台国の女王である。この大和と 邪馬台国の音が類似している。

  11. 卑弥呼の宗女、台与にあたる人物(万幡豊秋津師比売の命、豊目女)を、わが国の史料に求めうる。邪馬台国畿内説では卑弥呼にあてはまる女性がいない。
卑弥呼を天照大御神としたとき、我々は、邪馬台国の位置を決定するための新たな鍵を持つ ことになる。すなわち、天照大御神が活躍した場所についての『古事記』『日本書紀』 の記述である。中国の記述と、日本の記述とは、割符となって、一つの歴史事実を 物語っているようである。

■最高主権者的存在の変化

天の岩戸以前は、単独で行動していた天照大御神が、岩戸以後には、高御産巣日(たかみむすび)の神と行動をともにしたり、高御産巣日の神が単独で最高主権者としてふるまうことが多くなる。

これは、卑弥呼の跡を継いだ台与が年若く、高御産巣日のような後見人を必要としたことの反映と見られる。

『古事記』における最高主権者的存在の変化
天の岩屋戸
以前
天の岩屋戸
よりあと
天照大御神が
ひとりで行動
16622
高御産巣日の神と
ペアで行動
077
高御産巣日の神だけが
最高主権者的に行動
022
161531
『日本書紀』における最高主権者的存在の変化
天の岩屋戸
以前
天の岩屋戸
よりあと
天照大御神が
ひとりで行動
18119
高御産巣日の神だけが
最高主権者的に行動
01213
181331


■『古事記』神話の地名の統計

左図のように、『古事記』神話の地名の統計をとると、九州地方の地名の出現数が最も多い。

これは、神話の舞台が九州であったことを示すものである。







2.仏教の伝来                    

■日本での伝来

『日本書紀』によると、仏教は欽明天皇の13年(552年)に、百済(聖明王の時代)から伝わってきたことになっている。

しかし、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』では欽明天皇の時代の538年に、やはり百済から伝わったとされている。

現在は、仏教の渡来は538年が有力と見られている。

しかしこれは、大和朝廷が仏教に接した公伝の時期であり、仏教はもっと早くからが日本に伝わっていた可能性がある。

『扶桑略記』には、継体天皇の16年(522年)に渡来人である司馬達止(司馬達等:しばたっと)が仏像を拝んでいたことが記されている。

これは、欽明天皇の時代以前に仏教が入ってきていたことを示しているが、仏教は、一般には流布しなかったようだ。

■三角縁仏獣鏡

三角縁仏獣鏡と呼ばれる仏像を文様に鋳込んだ鏡が、4世紀後半以降と見られる古墳から 出土している。

仏教伝来の百年以上前に、わが国の古墳から仏像を鋳込んだ鏡が出土していることになる。

三角縁仏獣鏡は、中国の呉の時代のものも出土しているし、東晋の時代のものもある。

これらの鏡が輸入されたとすると、百済を経由してもたらされたのであろう。

なぜなら、倭王武の上表文に「道は百済を経て・・」という記述があり、このころの中国との往来は百済を経由して行われていたと思われるからである。

朝鮮半島への仏教の伝来については、『三国史記』によると、東晋から百済に仏法が伝わったのは384年であると記されている。

また、華北の前秦王の苻堅が、372年に高句麗に、仏教の僧の順道をつかわして、仏像と経文を伝えたという。高句麗では、375年に、仏寺を開設したという。

三角縁仏獣鏡が百済経由で輸入されたとすると、朝鮮半島に仏教がもたらされた4世紀後半を大幅にさかのぼるものではないだろう。

三角縁神獣鏡を魏の鏡とする直木孝次郎氏は、三角縁仏獣鏡の産地について、「魏で作ったものではなく、江南地方で作られ、日本に舶載された」と述べている。

しかし、三角縁仏獣鏡の鉛同位対比の調査データをみると、三角縁神獣鏡とまったく区別が付かない。

また、三角縁仏獣鏡の出土地が群馬県まで広がっているのも、三角縁神獣鏡と同じ傾向である。

三角縁仏獣鏡が魏の鏡でないのなら、三角縁神獣鏡も魏の鏡ではない。

また、三角縁仏獣鏡が4世紀後半の鏡とすると、三角縁神獣鏡もそのころの鏡と考えられるのではないか。

三角縁仏獣鏡は三角縁神獣鏡と同じように、中国での鏡の製作が下火になり、生活に困った東晋の工人が、百済経由で4世紀の後半に日本に来て製作したものであろう。

当時の日本人は、その鏡のデザインを、神仙などと同じく異国の像としてみたことであろう。





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