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第264回 特別講演会
高松塚古墳とキトラ古墳 佐古和枝先生


 

高松塚古墳とキトラ古墳(その国際性と独自性)      佐古和枝先生

1.七世紀という時代

高松塚古墳とキトラ古墳は7世紀後半から8世紀初頭の古墳。7世紀がどのような時代か見てみる。

■ 3世紀末〜6世紀 「古墳時代」

7世紀を古墳時代に含める研究者がいる。しかし、古墳時代とは前方後円墳の時代と考えるので、前方後円墳の築造が極端に減る7世紀は古墳時代に含めず、6世紀までを古墳時代と考える。

■ 7世紀前半 「飛鳥時代」 推古朝 

蘇我氏全盛期 推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の時代

新しい国造りをめざして、中国との外交を開始。

従来の外交相手はもっぱら朝鮮半島であったが、この時代から遣隋使・遣唐使を中国に送り、外交相手が中国へシフトして行く。

中国との交流によって国際社会を意識したとき、日本固有の墳墓の型式であった前方後円墳の築造をやめ、中国で広く行われていた円墳などの形式で墳墓が作られるようになったと考える。

645年に、大化の改新。蘇我の本家を滅ぼすクーデターが起こる。改新の詔の中にのちの大宝律令の内容が含まれていたりすることから、「大化の改新」はなかったという議論が続いている。

このころ朝鮮半島では王と家臣との間で事件が頻発主な出来事
  • 高句麗
    642年に有力な家臣である泉蓋蘇文が国王など100余名を殺害する事件が起こり、唐が朝鮮半島へ出兵する口実となる。

  • 百済
    642年に義慈王が有力家臣を殺害し、新羅に侵攻するなどする。

  • 新羅
    647年に真徳女王を補佐する金臾信が王の反対勢力を鎮圧。
    唐の年号・律令・衣服などを採用し急速に唐に接近して、女王中心の強力な政権体制作りをめざす。
朝鮮半島で、王室と家臣の確執が国家を滅ぼす事例を目の当たりにした中大兄皇子は、大化の改新(乙巳の変)を起こし、王室と張り合う蘇我本家を滅ぼしたと思われる。

■ 7世紀後半 「白鳳時代」 天智・天武朝

朝鮮半島情勢の緊迫
  • 660年: 百済滅亡
  • 663年: 白村江で百済・倭の連合軍の敗退     
    天智天皇は国土防衛のため、百済から亡命した人達の指導によって朝鮮式山城を 西日本各地に築造する。
  • 668年: 高句麗滅亡
  • 668年以降、新羅は頻繁に倭に使者を派遣
  • 676年: 新羅が朝鮮半島を統一
672年、壬申の乱に勝利して天武天皇が即位。
天武天皇は、厳しい国際環境の中で生き残れる強力な国家を作るため、つぎのようなさまざまな施策を実行し、律令国家の基盤を作った。
  • 官僚組織整備
  • 史書編纂(『古事記』『日本書紀』)
  • 伊勢神宮の整備
  • 仏教による鎮護国家体制
  • 藤原京造営(藤原京は平城京よりも規模が大きかった。)
  • 飛鳥浄御原律令の編纂
  • 軍備体制
  • 「天皇」「日本」の称号を制定
白村江の敗戦以降、日本は唐が攻めてくる可能性に怯えていた。新羅と組んで唐に対抗しても勝てないだろうという恐怖感が、国家体制整備を加速させた。

天武天皇の時代は遣唐使が中止されていたが、唐の制度を取り入れていた新羅からの使者によって、新羅経由で唐の情報が入っていたのであろう。


    2. 終末期の古墳

    ■ 終末期の古墳
    • 7世紀前半・・前方後円墳の造営は終わり、有力者は方墳(または円墳)

    • 7世紀後半・・横穴式石室の造営は終わり、横口式石槨(石室のような大きな部屋ではなく一人分の棺の収納施設。高句麗、百済の影響。)
    天智・天武朝の皇族・有力者は、藤原京の南域に墓を造営。使用した石は直方体にきれいに切り出して磨いた切石作りである。

    ■ 高松塚とキトラ古墳

    高松塚とキトラ古墳は、次のように多くの共通点がある。
    • 7世紀後半から8世紀初頭の構築で、この時代は「終末期古墳」の最終段階
    • 円墳
    • 「横口式石槨」と漆塗り木棺(外面黒色・内面赤色)これは7世紀後半に盛行
    • 壁面に漆喰を塗り、その上に壁画
    • 藤原京の南域にあり、ここは天武・持統朝を中心とする皇族・高官の墓域
    • 土は版築で突き固めてあり、シャベルが簡単に入らないくらい硬い。
      高松塚古墳 キトラ古墳
    墳形 φ=18m H=5m  φ=14m H=3.3m
    石槨 L=265.5cm、W=104cm、H=113.4cm
    9×3.5尺 平天井
    L=240cm、W=104cm、H=124cm
    8×4尺 刳り天井
    壁画 人物像、四神図、日月図、天文図 四神図、獣頭人身十二支像、天文図
    骨歯 熟年男性(40〜60歳) 熟年から老年男性
    遺物 棺金具、海獣葡萄鏡、銀荘唐様大刀関係、
    ガラス製粟玉、ガラス製丸玉、コハク製丸玉
    棺金具、木棺片、コハク玉、ガラス粟玉、
    微小ガラス玉、金象嵌鉄刀装具、
    銀製金具、金銅板片
    備考 木芯乾漆棺、外面に金箔


    ■ 高松塚古墳

    • 発掘状況
      カビで汚れてきているが、実物はきれいである。これ以上悪くしないで、保存すべき。
      石槨のなかに昆虫が入り、昆虫が死んでダニが発生し、そのダニが死んでカビが発生する。カビの状況はかなりひどくなっている。

    • 遺物など
      • 海獣葡萄鏡  
        中国 独弧思貞(どっこしてい)墓(689)・十里鋪337号墳出土の鏡と同型
        これらの墳墓はいずれも7世紀末のものなので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものか?
      • 漆喰は鉛の含有量が0.3%と多い。鉛白か(普通の漆喰は0.01%)。
      • 水銀朱は純度95%(他には岩屋山古墳、中尾山古墳のみ)。貴重品である。


    3. 壁画について

    高松塚壁画の人物の服装については、当初から、中国系、朝鮮系、あるいは、日本独自のものとする議論があった。女性の服装は、衿が左前になっていて裾が長い。

    ■ 中国
    • 漢代に出現、魏晋南北朝に盛行。
    • 墓主夫婦像が中心、待人待女、四神図、神話・伝説による図、日月星宿
    ■ 朝鮮半島

    《高句麗》  壁画古墳の集中地 
    • 5世紀は墓主夫婦像・四神図、仏像、中国の神話・伝説、天文図 
    • 6世紀以降は四神図が中心、人物像はない
    《百済の壁画古墳》 2基 6世紀から7世紀初頭

    《新羅の壁画古墳》 2基 6世紀から7世紀初頭

    ■ 日本

    《高松塚》
    • 人物像と人物の持ち物は隋・唐の壁画
    • 服装は朝鮮半島の影響を受けながらも日本特有
    • 墓主が描かれない
    • 日月図の雲気文は、唐代に類例なし(高句麗か)

    《キトラ古墳》
    • 四神図のみのスタイルは中国にない。
    • 獣面人身十二支像
      中国: 南北朝から隋・唐代に十二支像が盛行。  統一新羅: 7世紀後半の龍江洞古墳では墓室の四周に青銅製十二支像を配置。
      8世紀後半に、古墳基壇に十二支像浮彫石版を廻らす。
      立像・器物をもつ。これはキトラ古墳と共通。
    • 天文図
      最古の本格的な天文図。ただし間違いもあり、系譜をたどれない。
      星と星を赤線で結ぶ描き方は中国と同じ。
      観測点は畿内ではない。緯度の高い地域、高句麗か?

    ■ 類似の図

    キトラ古墳の玄武、高松塚古墳の青龍は、中国、朝鮮のものより、薬師寺金堂の薬師如来台座描かれたものに似ている。薬師寺金堂は高松塚やキトラ古墳と同じような時期に建立。

    4. 被葬者について

    ■ かなり高位の人物
    • この時期に古墳を築くのは皇族、三位以上
    • 飛鳥の地にある
    • 蓋(きぬがさ)が深緑色であるのは一位(大宝律令による)
    • 貴重なものを入手している(高松塚:海獣葡萄鏡、高純度の漆喰、水銀朱)
    ■ しかし、最高級ではない
    • 円墳、漆塗り棺(火葬ではない)、金銀鈿荘大刀ではない、壁画がある
    ■ この時期に亡くなった主な人物没年
    没年 名前 年齢 身分、亡くなった時の位など
    693 百済王善光 正広参(三位相当)
    696 高市皇子 太政大臣
    699 弓削皇子 天武の子
    701 大伴御行 56 正二位『竹取物語』のモデルの1人
    705 忍壁親王 知太政官事
    705 紀麻呂 47 大納言 正三位
    717 石上麻呂 78 従一位『竹取物語』のモデルの1人

    ■ 高松塚の築造年代の目安
    • 海獣葡萄鏡
      704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったもの?
      新羅経由の可能性もある(686年以降でいい)

    • 人物の服装から
      • 漆沙冠:682年以降
      • 白袴:690〜701年または706年以降  
      • 左衿:719年まで  
      総合すると690年〜701年、または706年〜719年

    • キトラの方が少し古いと考えられる。
    ■ 被葬者の候補
    • キトラ古墳     百済王善光(?〜693?)
      百済からの亡命王族。百済の最後の王である義慈王の王子(弟という説もある)。 兄の豊璋とともに来日したが、百済滅亡のため帰国せず、難波に居住。

      天武崩御の際、百済王族を代表して殯宮での誅を言上すべき地位にあったが、老齢のためか孫が代行。持統天皇から「百済王氏」と賜姓、同氏の祖となる。

    • 高松塚    石上麻呂(640〜717) 
      物部朝臣ともいう。壬申の乱で大海皇側につき活躍。天武5年(666年)、遣新羅大使となり、翌年帰国。天武崩御の際、殯宮で石上朝臣と称し、法官のことを誅した。持統3(689)年、大宰帥として筑紫に派遣された。704年に右大臣(従二位)、708年に左大臣(正二位)。

      しかし、藤原不比等の台頭 により、押され気味。710年の平城京遷都に際し、藤原京留守司とされ、当初は新京に行くことができなかった。717年に没、従一位を贈られる。天皇も百姓もその死を深く痛惜したという。



    高松塚古墳被葬者論争の現在      安本美典先生

    ■ 高松塚古墳の被葬者被葬者の有力候補は下記の3名に絞られる。
    候補 没年(年齢) 身分 主唱者
    石上朝臣麻呂 717(78) 左大臣正2位→従一位 岡本健一・秋山日出雄
    白石太一郎・勝部明生
    忍壁親王 705(?40代) 知太政官事 直木孝次郎・王仲殊
    高市皇子 696(43) 太政大臣 原田大六・大浜厳比古

    ■ 壁画からの時代推定
    • 襟元が左前になっている。壁画が描かれたのは左襟禁止令の出た719年以前。
    • 女子が褶(ひらみ:裳や袴の上につけた衣服)をつけている。褶の着用が許されたのは702年以降である。
    これらのことから被葬者は、702年〜719年に亡くなった人物であり、石上朝臣麻呂や忍壁親王はこれに該当する。


    ■ 遺物からの時代推定
    • 海獣葡萄鏡
      高松塚の海獣葡萄鏡の同笵鏡(同型鏡)が、中国の西安の唐代古墳である独弧思貞(どっこしてい)の墓から出土している。独弧思貞は697年に死去しているので、日本に運ばれるまでの時間差を考えると、高松塚には8世紀初頭に納められたと考えられる。そうすると、年代的に、忍壁親王、石上朝臣麻呂が被葬者の候補になる。

    • 銀装唐様大刀
      吉川弘文館の『国史大事典』の高松塚の項に「銀で外装されたこの太刀の持ち主は、三位クラスに限定できる」と記されている。そうであるなら、三位相当の知太政官事であった忍壁親王が該当することになる。しかし、『国史大事典』には根拠が記されておらず、真偽不明である。
    ■ 埋葬地域

    平城京遷都(710)以降は、身分の高い人は平城京の近くに墳墓を築き、藤原京の近くには埋葬されなかった。従って、藤原京近くの高松塚の被葬者は、平城京遷都の前になくなった人物であるというのが学会の大勢であった。そうすると遷都前に没した忍壁親王が有力になる。

    しかし、石上朝臣麻呂は、藤原不比等によって藤原京留守司とされたため、平城京遷都後も平城京に入れなかったので、藤原京の近くに埋葬されてもおかしくない人物である。

    ■ 官位

    壁画の蓋(きぬがさ)が深緑色である。大宝令によれば、これは被葬者が一位の人物であることを意味する。当時一位の人はいなかったが、石上朝臣麻呂は、没後に従一位を追贈されているので、有力な候補である。

    なお、王仲殊氏は、当時、有力者の墓は生前に造らる寿陵であったので、没後に昇進しても対応は難しいのではないかと述べる。しかし、殯(もがり)の期間を考えれば変更できる可能性があるとも考えられる。

    また、深緑色は青の範疇に入る色であることから、壁画は青い蓋を描いたものであるとし、唐のころには青蓋は皇族がつかうものといわれることから被葬者は皇族の忍壁親王とする説がある。

    しかし、高松塚の壁画は細部にわたり大宝令に従ったように見えるので、一位の人物であったと考える方が妥当とも思える。

    ■ 年齢

    発見された歯の分析では、被葬者は壮年という結果が出ているので、78才で没した石上朝臣麻呂は除外される。いっぽう、忍壁親王は年齢不詳だが、壬申の乱のとき幼少であったという記録があり、没年は40歳ごろと推定できる。そうすると、歯の分析結果は被葬者が忍壁親王であることを支持している。

    しかし、歯によって年齢を正確に判定するのはかなり難しいと考えられるので、石上朝臣麻呂の可能性もある。

    ■ 結論

    85%程度の可能性で、石上朝臣麻呂が被葬者であると考えている。昔は90%ぐらい確信を持っていたが、青蓋の説など、忍壁親王説を支持する情報がいくつか現れたので5%ほど遠慮した。



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