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第300回 邪馬台国の会
倭建の命伝承の虚実


 

1.倭建の命伝承の虚実

日本武の尊は第12代景行天皇の皇子である。古代史上の英雄である。九州の熊襲を征し、また、東国(あずまのくに)蝦夷を鎮定した。
日本武の尊は、東国からの帰途、近江の伊吹山の賊徒を征伐したさい、病を得て、伊勢の能褒野(のぼの)で没したという。
三重県亀山市田村町に、能褒野王塚古墳がある。日本武の尊の墓であるという伝承により、1879年(明治12年)に陵墓と治定された。全長90メートル、後円部径54メートル。円筒埴輪列をもち、鰭(ひれ)付きの朝顔形埴輪の特徴などから、鰭付きの朝顔形埴輪が能褒野神社に所蔵されている。
その埴輪の特徴などから、能褒野王塚古墳の築造時期は、四世紀末から五世紀初頭と推定されている。(大塚初重他編『日本古墳大辞典』)
能褒野王塚古墳について、京都大学文学部史学科卒業の毎日新聞記者、岡本健一氏は述べている。「四世紀代の畿内の古墳に多い鰭つきの朝顔形埴輪がここにも立てられている。地理的上も畿内から東国へ進出するさいのルートに当たる。しかも、県主神社が近くに祭られている。県主は畿内政権の地方官だから、いよいよこの古墳の被葬者と畿内政権との結びつきを示唆する(三重県・亀山市両教委「亀山の古墳」)。(『発掘の迷路を行く』下巻 毎日新聞社)
・能褒野王塚古墳のx座標、y座標
x=40/54×100=74
y=40/90×100=44
この値を古墳の築造年代推定図にプロットすれば、能褒野王塚古墳は、崇神天皇陵古墳よりごくわずか時代の下る特徴をもつ古墳で、四世紀中ごろから四世紀後半にかかる古墳とみてよい。
ところが、日本武の尊の墓とされるものは、大阪府にもある。大阪府羽曳野市軽里にある日本武尊白鳥陵古墳である。墳丘長190メートル、後円部径106メートル、後円部高さ20メートル、前方部幅165メートル、前方部高さ23メートル。造出しがある。
この古墳について、『日本古墳大辞典』の編者は、「五世紀後半を代表する整美な墳形を呈する。」とする。
・日本武尊白鳥陵古墳のx座標、y座標
x=165/106×100=156
y=165/190×100=87
この値を古墳の築造年代推定図にプロットすれば、この古墳はむしろ、「六世紀型古墳群」に属する。前方部がきわめて発達している。いずれにしても、この古墳は日本武の尊のものではないであろう。

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なお、日本武の尊について、『日本書紀』に、伊勢の能褒野、大和の琴弾(ことびき)の原、河内の旧市(ふるいち)[古市]の邑の三か所に陵を作ったと記されており、現在、それにあたる陵があるが、『延喜式』や、1915年(大正4年)に宮内省が編纂した『陵墓要覧』にのせられているのは、能褒野の墓一か所だけである。
『日本書紀』によれば、景行天皇の皇子の日本武の尊が、東夷を討ちに行くときに、若日子建吉備津日子の命の子の吉備の武彦(たけひこ)が景行天皇によって随従を命じられた。この吉備の武彦は、碓日坂(うすひざか)で、日本武の尊とわかれ、越の国にまわり、美濃で合流し、伊勢から天皇のもとに、復命に帰っている。また、『日本書紀』によれば、吉備の武彦の娘の吉備の穴戸の武媛(あなとのたけひめ)は、日本武の尊の妃になっている。



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考古学者の小林行雄氏によれば、三角縁神獣鏡の同じ鋳型でつくった鏡(同型鏡)は、関東に達しているものは、また、吉備にも多いという(『古墳の話』岩波新書)。湯迫(ゆば)の備前車塚古墳から発見された十三枚の鏡のなかには、三角縁神獣鏡の同型鏡が、八種九枚もあり、そのうち四面の同范鏡は関東に地方に分散して、発見されているものである。このようなことから、小林行雄氏はのべている。「同范(型)鏡の分配を考えるばあいに、ただ地方にあって分配をうけたもののほかに、積極的に分配に参加協力したものの存在をみとめる参考にはなろう。」
「こういう事実がある以上、吉備の豪族が東国の経営に参画したという伝承をもっていることも、もっともなことだと思われる。」



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@備前車塚古墳からでてきた三角縁神獣鏡のうち、四枚は、京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と、同范(型)関係にある。そして、椿井大塚山古墳が、崇神天皇のときに反乱をおこした武埴安彦と無関係でないであろうとは前回の5月の講演で論じた。
そして『古事記』『日本書紀』その他の文献の伝えるところによれば、吉備の武彦も武埴安彦もいとこ同士で、ともに、第七代孝霊天皇の孫にあたり、ほぼ同時代の人である。
A晋尺1尺は24cmであった。このモノサシではかるとき、次の四つの古墳の主軸長の長さには、一定の関係がみとめられる。
・崇神天皇陵古墳・・・・・242メートル(1000尺)・・崇神天皇
・椿井大塚山古墳・・・・・190メートル( 800尺)・・武埴安彦
・吉備の中山茶臼山古墳・・120メートル( 500尺)・・大吉備津彦
・備前車塚古墳・・・・・・ 48メートル( 200尺)・・吉備の武彦
これらが、一定の規格性、共通の文化のもとに築造されていることは、明らかであるように思える。そして、備前車塚古墳の被葬者を吉備の武彦とすれば、これらの古墳の被葬者たちは、大略同時代とみられる人たちとなる。
B『日本書紀』の記載によれば、吉備の武彦は、備前車塚のある地が属した吉備の上つ道の臣の祖である。
Cいま、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡の、中部および関東での出土状況を日本武の尊の東征経路にしたがう形で見てみよう。
まず、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡が、静岡県小笠郡小笠町の上平川大塚古墳から出土している。日本武の尊は、『日本書紀』によれば、吉備の武彦とともに、駿河の国に至っている。駿河の国は、静岡県の中部である。駿河の国にいたるためには、当然遠江の国を通ったはずである。地図にみられるように、上平川大塚古墳の、すぐそばの地を通ったはずである。上平川大塚古墳のある小笠町は、むかしは、遠江の国の城飼(きこう)郡に属していた。
なお、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の子の仲哀天皇の時代に、物部の連の祖の伊香色男(いかがしこお)の命の孫の因幡の足尼(すくね)が、久努(くぬ)の国造に任じられている。久努の国は、遠江の国山名郡の地で、上平川大塚古墳のある城飼郡の地である。
また、『新撰姓氏録』の「廬原(いほはら)の公」の条に、つぎのような記事がある。
「吉備の建彦の命は、景行天皇の御世に、東方につかわされて、毛人(えみし)また荒ぶる神たちを平定し、阿倍の廬原の国にいたり、復命をしたとき、廬原の国を与えられた。」
そして、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成天皇の時代に、吉備の武彦の子の思加部彦(しかべひこ)の命を廬原の国造に任じたという。
廬原の国は、駿河に国の廬原郡の地である。
このように、吉備の武彦の子孫が、東国と中国地方の吉備との両方で栄えたことは、文献的にもたどることができ、同范鏡の双方での出土というように、考古学的にも裏づけることができる。
さらに、『先代旧事本紀』によれば、やはり成務天皇の時代に、物部の連の祖、大新川(おおにいかわ)の命の子の、片堅石(かたかたいし)の命が、駿河の国造に任じられたという。
D備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同范鏡はまた、神奈川県平塚市大野町真土(しんど)の大塚山古墳からも出土している。『古事記』によれば、日本武の尊は、相模の国(現在の神奈川県の大部分)で、その地の国造を攻め滅ぼしたという。また、『古事記』『日本書紀』によれば、相模の国から東京湾口の浦賀水道をわたって、上総(かみつふさ)に船でわたろうとしたという。
駿河から、浦賀水道へ出ようとするばあい、大塚山古墳のある平塚市のあたりは、とうぜん経路となる。なお、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成務天皇の時代に、武刺(むさし)の国造の祖、伊勢都(いせつ)彦(出雲の臣族。天の穂日の命の孫)の三世の孫の弟武彦を、相模の国造に任じたという。
また、同じく『先代旧事本紀』によれば、成務天皇の時代に、茨城の国造の祖、建許呂(たけころ)の命(天津彦根の命の後裔)の子、意富鷲意弥(おほわしおみ)の命を、師長(しなが)の国造に任じたという。師長の国は、相模の国余綾(よろぎ)郡磯長(しなが)郷の地であるといわれている。
大塚山古墳のある平塚市は、師長の国にも近いが、古代は、相模の国に属していたと考えられる。
さらに、日本武の尊が、浦賀水道をわたろうとしてとき、暴風にあい、海神の心をしずめるために、日本武の尊の妻の弟橘(おとたちばな)媛が入水したという。『古事記』によれば、七日ののち、弟橘媛の櫛が海辺に流れよったので、その櫛をおさめて、陵(はか)をつくったという。
E備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡は、山梨県東八代郡中道町の甲斐銚子塚古墳からも出土している。日本武の尊は、甲斐では、酒折の宮にいたという。酒折の宮は、甲府市の酒折の地といわれ、甲斐銚子塚古墳の地にかなり近い。『先代旧事本紀』によれば、景行天皇の時代に狭穂彦の三世の孫の臣知津彦の公(おみしりつひこのきみ)の塩海の足尼(しおつみのすくね)が、甲斐の国造に任命されたという。景行天皇の皇子の日本武の尊の武威によって、この地にも、国造がおかれることになったとも理解できそうである。また、狭穂彦のように反乱をおこした人物の子孫が国造になったのは、それなりの功績があったからであるようにも思える。日本武の尊にしたがっていたのであろうか。
F備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡は、また、群馬県富岡市の北山茶臼山古墳や、同じく富岡市の三本木古墳からも出土している。
『日本書紀』によれば、日本武の尊は、碓日の坂にのぼっている。
吉備の武彦は、碓日の坂で日本武の尊とわかれて越の国におもむき、美濃の国で再開し、そのあと、日本武の尊の病気を景行天皇に奏上したという。碓日の坂は、現在の群馬県碓氷郡や安中市の地で、富岡市のすぐとなりの地である。
群馬県富岡市の地は、古代の上毛野(かみつけの)の国に属する。
『日本書紀』によれば、崇神天皇は、皇子の豊城(とよき)の命をして、東国を治めさせたと記している。豊城の命は、上毛野の君・下毛野の君の始祖であるという。
景行天皇は、日本武の尊の東征ののちに、豊城の命の孫の彦狭嶋(ひこさしま)の王(みこ)を、東山道十五国の都督(かみ)に任じている。
彦狭嶋の王が、任地におもむくまえに没したので、彦狭嶋の子の御諸別(みもろわけ)の王に勅して、景行天皇は、つぎのようにのべている。
「汝の父、彦狭嶋の王は、任地に向かう前に没した。よって、汝が東国を治めよ。」
御諸別の命は、東国に行ってよい政治を行ったという。なお、『日本書紀』は、彦狭嶋の王を上野(かみつけ)の国に葬ったとも記している。
『先代旧事本紀』では、崇神天皇の時代に、崇神天皇の皇子の豊城入彦の命の孫の彦狭嶋の命を、上毛野の国の国造に任じたと記す。崇神天皇が、曾孫を国造に任じたとするのは、やや時代があわないから、やはり、『日本書紀』の記述のように、景行天皇が、日本武の尊の東征ののちに、彦狭嶋の命を都督(かみ)に任じたとするのがよいであろう。
また、垂仁天皇の時代に、上毛野の君の遠祖、八綱田(やつなだ)に反乱をおこした狭穂彦を撃たせたとある。『新撰姓氏録』に、八綱田は、豊城入彦の命(豊城の命)の子とあるから、彦狭嶋の命の父であろう。
G以上のように、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡と同范の鏡が出土する中部・関東の五つの古墳は、いずれも、日本武の尊にしたがった吉備の武彦が歩いたとみられる経路の近くに存在している。
そして、それらの古墳の地を領していたとみられる国造などは、いずれも、日本武の尊のほぼすぐあとの時代に、任命されたことになっている。
備前車塚古墳の被葬者を、吉備の武彦とすれば、系譜上の年代からいって、ほぼ同時期の被葬者をもつとみられる備前車塚古墳と椿井大塚山古墳とから、三角縁神獣鏡の同型鏡が出土することになる。
また、備前車塚古墳から出土する三角縁神獣鏡の同型鏡が、吉備の武彦が足跡をのこした関東の地から見いだされる理由が納得できる。

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第13代成務天皇の時代

第十三代成務天皇については、『古事記』『日本書紀』ともに、比較的わずかな記事をのせるだけである。
事跡のすくなかった天皇のようにみえる。
しかし、『古事記』『日本書紀』ともにのせている記事がある。それは、成務天皇の時代に、国造、県主などを定めたという内容である。
まず、『古事記』の「成務天皇紀」は、つぎのように記す。
「大国・小国(おくに)の国造を定められた。また、国々の堺、そして、大県・小県の県主を定められた。」
『日本書紀』の「成務天皇紀」のほうは、つぎのように記す。
「五年の秋九月、諸国に命じて、国郡に、造(みやつこ)をたて、県や邑(むら)に稲置(いなき)をおく。ともに身分の表象(しるし)として、楯矛を与えた。山や河をさかいとして、国や県をわけ、東西南北の道にしたがって邑里(むら)定めた。」
『先代旧事本紀』の「国造本紀」に、たとえば、つぎのような記事がある。
「廬原(いおはら)の国造
志賀の高穴穂の朝(たかあなほのみかど)の御世(成務天皇の時代)に、池田の坂井(さかなゐ)の君の祖(みおや)・吉備の武彦の命の児(みこ)、思加部彦(しかべひこ)の命をもって、国造に定められた。」
『新撰姓氏録』の「右京皇別」に、「廬原公(いおはらのきみ)」は、吉備の武彦の後裔であると記されている。
すなわち、『新撰姓氏録』は、つぎのように記す。
「廬原公。笠の朝臣と同じき祖(おや)。稚武彦(わかたけひこ)の命の後(すえ)なり。孫(ひこ)、吉備の武彦の命、景行天皇の御世に、東方(ひがしのかた)に遣わされて、毛人(もうじん)また凶鬼神(あらぶるかみ)を伐(う)ちて、阿倍(あへ)(後の駿河の国安倍郡の地)の廬原の国に到り、復命日(かえりことをせしとき)、廬原の国を給ひき。」
景行天皇の時代に、廬原の国が、功績によって吉備の武彦に与えられ、景行天皇の次の成務天皇の時代に、吉備の武彦の命の児の、思加部彦が廬原国造に定められたというのは話として自然である。
西暦713年(和銅六年)、元明天皇は、次の趣旨のことをのべる。
「諸国、郡郷の名は、好ましい漢字二文字で記すように。」
野村忠夫氏によれば、国名については、すでに、大宝年間(701〜704)以後和銅六年までのころに、二文字の好ましい漢字で記すことは進んでいたという(野村忠夫「律令的行政地名の確立過程」)
ところで、『先代旧事本紀』の「国造本紀」をみると、三文字や、一文字で表記された国名がかなりあらわれる。それらは。いずれも、『日本書紀』以後では、二文字で記されているものである。(表に対照表をかかげる)
『先代旧事本紀』の三文字や一文字の国名は、713年よりもまえの国名を伝えているのではないか。そして、奈良時代には、「郡」になった地域が、なお「国」と呼ばれていた時代の記憶をとどめているのではないか。
『宋書』「倭国伝」で昇明2年(478年)、倭王武の上表文に「・・・東は毛人(蝦夷、アイヌか)を征すること、五十五国、西は、衆夷(熊襲、隼人などか)を服すること六十六国。渡って海北を平らげること九十五国。・・」とある。倭王武は雄略天皇と比定できるので、雄略天皇の頃、日本武の尊が国を切れ開いた話が伝承としてあったのではないか。国内における、55+66=121国は『先代旧事本紀』の「国造本紀」にある国の数132−6(倭王武以後と推定の国)=126とおおむね合う。

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2.週刊新潮の『卑弥呼の鏡』の新証拠の記事について

週刊新潮 2011年6月16日号で『邪馬台国』論争にケリをつける!? 『卑弥呼の鏡』の新証拠!で「邪馬台国は「畿内」と「九州」、どちらにあったのか。これまで延々と繰り広げられた論争はいまだに決着がつかないが、そこへ衝撃的の一石を投じた学者がいる。聖徳大学の山口博名誉教授が発見した中国の古文書に意外な事実が記されていたのだ。」として、聖徳大学の山口博名誉教授が『卑弥呼の鏡』に関する見解を述べた。
内容は、「清代に編纂された唐代の公文書の集大成「全唐文」は約1000巻からなる膨大な書物で、この中の巻684から始まる文書のなかに、その一文が埋もれていた。
文章には晩唐(9世紀半ば〜10世紀初め)の文宗の時代、唐と吐蕃(チベット)から馬を要求してきたとき、高官の王茂元が自分の意見を皇帝に述べるのに、魏の時代の倭へ送った銅鏡について書いてある。
魏が倭国にとって禍々しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。いわば特注品を贈ったとあるわけです。日本のために特別に作ったのですから、後に同じものが中国から出土しなくても不思議はない。」といっている。
しかし漢文のヨミから、「昔、魏ハ倭国ニ酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ノ鉗文ヲ止メ」とあり、「鉗文ヲ止メ」の文字の解釈から「禍々(まがまが)しい模様や銘文を刻むのをやめ」と解釈したが、鉗(ケン)は「くびかせ」の意味で、「鏡の文様に制限を加えることなく」と解釈できる。だから、銅鏡の特注品とは解釈できない。文様にこだわらず集めたと解釈するだけである。
インターネットのブログでも山口氏を批判しているものが多い。


3.庄内式土器と銅鏡の出土

『季刊邪馬台国』105号掲載の奥野正男氏のデータ「後漢鏡を伴う庄内期の遺構・墳丘墓」から、
・庄内式土器は福岡県(福岡県は圧倒的に多い)、佐賀県、大分県が多く、近畿は少ない。これは『魏志倭人伝』に出てく製品(鉄製品など)と同じ傾向。
・どこから出てくるか?箱式石棺や方形周溝墓から出てくる(表2)。これは小山田宏一さん(畿内説)のデータでも同じ(表7)
・庄内式土器と一緒にでる銅鏡は方格規矩鏡、内行花文鏡である(図2)。これは小山田宏一さん(畿内説)のデータでも同じ(表6)
・「清白」「日光」など銘鏡は甕棺から出てくるが、小形ぼう製鏡第U型、「長宜子孫銘内行花文鏡」などは箱式石棺から出てくる(表3)。
・小山田宏一さん(畿内説)のデータでも庄内期の鏡は福岡47面/55面で圧倒的に福岡が多い(表4、表5)。
このようなデータを見ると、どうして畿内説が成り立つのか?
近畿説では、「庄内式土器は九州でも畿内でも出てくる。これは卑弥呼の時代の土器である。だから、奈良県にホケノ山古墳がありそこから庄内式土器が出る。だからホケノ山古墳は卑弥呼の時代である。」とする。
安本先生は庄内式土器の九州と近畿では九州の方が古いと考える。
近畿から、庄内期の鏡が出土しない。
土器から絶対年代は出せない。相対年代だけである。絶対年代を出すには、その他の要素を考え推定する。特に鏡はその手掛かりとして重要である。」
福岡県から出てくる鏡から、年代を推定すると、後漢鏡が邪馬台国時代の鏡であることが推定できる(表8)。墓制では箱式石棺墓葬・石蓋土壙墓葬の頃である。
位至三公鏡は西暦300年頃に洛陽晋墓から出てくる。この鏡が北九州から出てくる。この鏡から、東晋と北九州と繋がりがあったことが分かる(第290回講演「位至三公鏡」の分布参照)
画紋帯神獣は4世紀の古墳時代であり、中国の南方と近畿から出てくる(第290回講演「画紋帯神獣鏡」の分布参照)。

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