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第301回 邪馬台国の会
倭の五王の時代 仁徳天皇陵の盗掘 
平原遺跡の年代


 

1.倭の五王の時代

天皇1代約10年説の根拠となる天皇の基準点として、基準点Tとする第21代雄略天皇が478年ごろとなり、第14代仲哀天皇の頃が402年ごろとなる。5世紀の始まりが仲哀天皇となる。仲哀天皇の皇后が神功皇后で、三韓征伐の伝承がある。

神功皇后が、新羅を征討したとする伝承は、『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』など主要な文献が、こぞって記し、また、『続日本紀』『古語拾遺』『新撰姓氏録』など、平安時代以後の諸文献も、昔あった事実であると受けとった書き方をしている。また、とくに九州を中心とする諸社の縁起、各地の地誌、あるいは伝記において、神功皇后と結びつけられたものは、きわめて多い。

また宋は倭王を「使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓(辰韓)慕韓(馬韓)六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」(『宋書』)としており、日本が新羅を支配下においているように見える。
そして中国側の史書と、朝鮮側の史書とが、ともに記しているのは、つぎのようなことである。
@日本軍は新羅の王城にまでいたった。
Aその後に、新羅の王子、未(みしきん)(これは、朝鮮側の史書の表記、『日本書紀』では、(みしこちはとりかんき)が日本に人質としてきた。
Bみしきんは倭をあざむいて、新羅に逃げて帰った。

また、高句麗の広開土王の碑文でも
407年、好太王は「軍令を下し、歩騎5万を派遣して」、「合戦して、残らず切り殺し、獲(う)るところの鎧ナ(がいこう)[よろいかぶと]一万余領であった。持ち帰った軍資金や器械は、数えることができなかったほどであった。」
とある。倭が朝鮮半島の北の方まで攻めたとある。

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前回述べた『宋書』の倭国伝でも、順帝に倭王武が東は毛人、西は衆夷、海を渡って海北を平らげたと奏上している。これは景行天皇の時代の日本武尊の活躍、神功皇后の新羅征討とを表したように見える。

国内の文献、海外の文献と内容の表記についてつじつまが合っているように見える。

4〜5世紀の東アジアの国際関係をまとめると下記のようになり、
「戦闘および不和」「その他」で各国の関係を分ける。例えば日本と新羅は『日本書紀』でも『新羅本紀』(『三国史記』)でも「戦闘および不和」の比率が高い。各国間の関係は各国の文献の表記で不仲か親しいか同じ関係を表現しているように見える。

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倭の五王の系譜について
倭の五王の系譜は中国側と日本側の表記が合わない。

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また、『日本書紀』による百済王の系譜と『三国史記』による百済王の系譜を比べると王の代は合っているが、親子兄弟関係は合っていないところがある。
倭の五王の系譜についても、これと同じといえるのではないか。王の代は正確に記録されるが、親子兄弟関係は正確ではないのではないか。

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天皇の代の長さを記録から調整して、一代約10年説で天皇の代の長さを推定する。『古事記』、『日本書紀』で天皇の没年が違うが、これらを加味して、安本案を作成し、これに中国の文献の表記による譛、珍についてあてはめると、応神天皇が譛、仁徳天皇が珍として考えられる。

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2.仁徳天皇陵の盗掘

天皇陵は古くから盗掘にあっている。今回は仁徳天皇陵についての考察。

仁徳天皇陵は5世紀中葉から後半にかけて築造されたものと見られ、全長486mで、最大の前方後円墳である。
この古墳の前方部の竪穴式石室から出て来た、鎧兜がある。

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これは税所篤(さいしょあつし)[当時、堺県令(知事)]が県令の権限で盗掘したとの説があるが、税所は台風が来て前方部が崩れて、そこを修復したら、出てきたといっている。

一方、ボストン美術館に仁徳天皇陵から出て来たと伝えられている素環刀の柄頭と鏡がある。

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森浩一氏はこの柄頭と鏡は百済の武寧王陵から出土した柄頭と鏡に似ている。武寧王は仁徳天皇より時代が新しいので、この古墳は仁徳天皇よりもっと新しい天皇の古墳ではないかと述べている。

しかし、ボストン美術館の柄頭と鏡は仁徳天皇陵から出て来たとははっきり言えない。
鏡については武寧王陵から出て来た鏡は中国の鏡の踏み返し鏡である(樋口隆康氏)。鏡が新しいとは言えない。柄頭も武寧王陵から出てきたものに似ていると一概に言えない。
これらから、一概に鏡や柄頭から仁徳天皇陵ではないとは言えないと考えられる。



3.邪馬台国はどこにあったと『思うか』

7月16日『邪馬台国研究大会』(早稲田大学)330名程度九州説6割、畿内説4割となる。

福岡県教育委員会が中心になって『福岡歴史ロマン発信事業』が三年間おこなわれてきた。平成22年3月に三回目を行い、『邪馬台国の候補地はどこでしょう』と全国にアンケート調査をしたところ、インターネットやはがきで約1千人から回答がありました。集計結果は、第一位が北部九州の福岡県甘木・朝倉地方(131票)、第二位は福岡県の博多湾沿岸(102票)、そして三位が佐賀県の吉野ヶ里遺跡(86票)第4位が福岡県の筑後三井郡地域(84票)と、上位4位までが北部九州に集中しました。そのほかか候補地は九州各県から全国に及んでいる。この結果に調査バイアスがあるともいるが一つの参考である。

現存研究者の検索件数(2011年8月17日調べ。グーグルのweb検索による)
"安本美典"で検索した。「"」を付ける方が検索結果が安定する。その検索結果が下記である。

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これらの検索結果について、 文献史学者は上位に行くが、考古学者は上位に行きにくい。
また、本を出版すると、上位に上がるようだ。


少し古いが(2007年3月14日)、NHK「その時歴史が動いた」の調査結果がある(上の表)。
これらの結果から九州説はそれなりに評価されているようだ。
ただし、これらの集計結果は参考値で、学問的には九州か近畿かを集計で決めることは意味がないと考えている。

 

4.平原遺跡の年代

糸島半島にある遺跡で、40面の鏡が出てくる。

平原遺跡の年代について、
岡村秀典氏 発掘された鏡は西暦50〜150年。
柳田康雄氏 発掘された鏡は西暦200年位に鋳造されたもの。
奥野正男氏 平原遺跡は250年の少し後くらい。
このくらい年数が違っている。

庄内式土器と一緒に出る鏡は「方格規矩鏡」「内行花文鏡」が多い。
これらは中国の北方の鏡である。鉄の鏃などと一緒に出てくる。弥生時代末期のもと考えられる。

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奥野正男氏のデータ

 

 

これに対し、三角縁神獣鏡と画紋帯神獣鏡は
@三角縁神獣鏡も画紋帯神獣鏡も、ともに神獣鏡である。中国華南系の鏡である。
A鉛同位体比の分布も、ほぼ同じ(華南系の銅原料)
Bともに、前方後円墳から、しばしば出土する。
Cともに、同じ遺跡から出土する。
D画紋帯(同向式)神獣鏡は、江田船山古墳(熊本県)など、あきらかに、5世紀代の古墳からも出土している。
E日本出土の画紋帯神獣鏡は、面径の大きなものがある。

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これらから言えることは
@ホケノ山古墳は、むしろ、4世紀後半を主とする。(箸墓古墳はそれ以後)
A平原王墓は3世紀前半ごろ。
B鏡もホケノ山古墳は、のちの時代につながる画紋帯神獣鏡であり、平原古墳は、前の時代(井原鑓溝遺跡出土鏡など)につながる方格規矩鏡などである。
C関東例は参考にならない。なにもでていない。
D280年の呉の滅亡以後、神獣鏡は江南から日本に伝わったとみられる。

 

 


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