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第325回 邪馬台国の会(2014.1.26 開催)
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1.邪馬台国の条件
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(1)「倭人伝」が示す九州説の根拠 古代史上の論争としては、邪馬台国や卑弥呼の「政権」が、後のヤマト王権つまり古代律令国家形成の主体に直接結びついていくものなのか(近畿説)、或いは結びつかずに各地に、ツクシ・キビ・イヅモ・ヤマトなど地域国家(王国)成立し、その間の抗争を経て、最終的にとヤマトが古代国家成立の覇権を握ったとするのか(九州説)、大きく二つの論に分かれる。近畿説では、すでに三世紀、卑弥呼め政権は、西日本一帯に、広ければ関東まで及んでいたことになる。ところが九州説では、卑弥呼の政権は、せいぜい九州北半部に限られてくる。三世紀の列島社会の政治状況が近畿説と九州説とではまったく異なり、両説は古代史論争上の対極にあるといえる。 ②倭人社会には、卑弥呼の統治の及ばない倭人がいる。 卑弥呼は、魏の皇帝から「親魏倭王」称号を得たが、北部九州に存在した国々をはじめ二十九の国の地域を統括する倭王に過ぎない。「魏志倭人伝」は、女王国に属する二十九国以外の地域にも倭人がいることを記している。まず、「対馬、一大、末路、伊都、奴、投馬、邪馬台」など二十九国からなる女王卑弥呼政権が統括する地域、「女王国の南狗奴国有り、女王に属さず。・・狗奴国男王卑弥呼弓呼、素より和せず相攻伐・・」の地域、そして「女王国の東海を渡る千余里、皆倭種、国々をつくる」地域と、倭人は少なくとも三つのグループに分けて倭人社会を捉えている。したがって、卑弥呼が倭王として在位した時代は、少なくとも先述の三つの地域の倭人社会を統一する倭主権は存在していない。しかも狗奴国とは、もともと相攻撃する仇敵の間柄である。魏帝の認証を得ていないと思われるが、狗奴国王を僭称する男王卑弥弓呼は、女王卑弥呼とは、対等に倭王権を争う一方の政治勢力を構成していたと考えられる。三世紀、邪馬台国の時代というのは、列島各地に小「国」が生成し、それらが一定連合し政治勢力を構成、さらに「国」連合勢力間で次代のより広域的な政治勢力の再編成、広域に及ぶ王権の成立に向けての「相攻伐」の世紀であったと考えるのが自然である。つまり、邪馬台国時代の後、四・五世紀を中心に各地に、キビ、イヅモ、ツクシ、ヤマト、ケヌといった多くの国々を包摂した王権による地域王国が成立してくるのである。また最近、弥生時代後半期、列島各地に独自の王権の生成や政治勢力の存在を示す地城独特の集落形成、墳墓や祭祀の状況が考古学において明らかになってきている。これらは列島における王権の生成が多様・多元であったことを示しており、女王卑弥呼が都(御家拠)をおいた邪馬台国は、北部九州といった地域にあった女王国連合の有力な「国」の一つと考えるのが合理的である。 (2)考古学的に見た邪馬台国の条件 ②卑弥呼の都したところは環壕集落でなければならない。 こうした施設がまとまった形で、魏志倭人伝の記述と符合するような集落跡の全貌が判明しているのは、今のところ吉野ヶ里遺跡であるが、北部九州の「国」の拠点となるような環壕集落は、弥生時代後期(1・2・3世紀)に、吉野ヶ里遺跡同様もっとも拡大・充実することが判っている。 北部九州の弥生時代後期に筑紫平野一帯に発達する多くの環壕集落跡群の展開は、まさに、魏志倭人伝に見られる邪馬台国をはじめ三十近い「国々」の存在や攻防を反映したものであろう。近畿地方には、邪馬台国時代から古墳時代にかけてこの種の環壕集落跡は存在しない。纏向遺跡の中核は、邪馬台国時代のものではなく、4世紀以降のものである。共伴する土器の年代は、邪馬台国や卑弥呼が纏向遺跡に居たとする固い想念で邪馬台国代と推定されたもので、当該遺跡内にある一部の人が「卑弥呼の墓」とする箸中古墳の周濠から出土した鐙(日本では5世紀以降、中国・朝鮮半島でも騎馬戦の発達とともに4世紀後半以降採用された)の年代とは大きく隔たりがあり、矛盾する。また、大型建物の床束をもつ構造は、柱配置から見て5世紀以降に見られるもので、古くても4世紀以降と考えられる。さらに、建物配置は古墳時代中期以降にみられる家型埴輪並びにも共通し、それからみると水祭祀を行った祭殿であり、宮殿とは言いがたい。例え邪馬台国時代であったとしても、近畿地方の代表的な集落である奈良県唐古・鍵遺跡の環濠は、水濠で城柵とはならないし、纏向遺跡の大型建物を囲む柵は、土塁を伴わない。したがって、魏志倭人伝の「卑弥呼の都する邪馬台国」は、この時期に環壕集落が発達する北部九州にあったとするのが、遺跡考古学からして妥当である。 ③卑弥呼が都する邪馬台国は、国際性が豊かであらねばならない。 ④卑弥呼のような巫女王の出現過程が考古学的に説明できねばならない。 古代中国の「巫覡」は、『周礼』には「凡以神仕者」、「国語」には「在男日覡、在女日巫」とみえる。大陸における巫道は殷・周の王権に、つかえた「巫師」以来、秦・漢でも盛んであった。 弥生時代後半には、女王卑弥呼のような「鬼道」のような巫術を行う巫女王が出現した。巫女王卑弥呼は、血族・部族を超えた「国々」を、霊力・信仰でもって一定の政治的に統括する巫女に成長している。しかも、弟の政治的実務権力をも超える権力を有している。弥生時代後期後半(2・3世紀)、このような巫女王は、どのような歴史的過程を経て出現してくるのか、古墳時代の巫女埴輪・古代の巫女へのつながりを視野に入れて、巫女王出現の過程を明らかにする必要がある。弥生時代になると、精神社会に大きな変化が生まれてきた。それは農耕社会の確立するなかで、農耕生産を背景とした新たな「祖霊信仰」が生まれ支配的な信仰となっていったと考えられることである。やがて、首長制のもとに「国」といった政治的社会が成立し、「祖霊信仰」は、その社会と連携・融合し、政治的支配性を帯びた祭祀へと発展していった。祖霊や神霊と人々の間をつなぐ巫女は、「祖霊信仰」が社会の統一理念として発展してゆく中で、「祖霊」の託宣を告げる職能者-巫女-として、次第に政治性を帯び、「国」といった地域的政治社会の統治者としての地位を高めていったと考えられる。 ⑤卑弥呼の鏡と墓は? b.卑弥呼の墓は、径百余歩でなくてもよい。小型の周溝墓で良い。 卑弥呼の墓は、必ずしも邪馬台国にあるとは言えない。三十国で共立された王で、霊力に秀でた巫女で、三十国のどこかの国の出身である。邪馬台国にある確立は三十分の一である。死後埋葬されたとすれば、古代の大王がそうであるように、出自の地である。したがって、北部九州に存在の明らかな国に卑弥呼の墓があってよい。先述したように弥生時代後期後半と位置づけられる当時の伊都国である福岡県糸島市平原1号墳の被葬者は、女性と想定されており、他より抜きん出て四十面といった破鏡で封じ込められた強大な巫力・呪力を持つ人物ということになると、卑弥呼である可能性は、私は大きいと思う。 (3)日本列島における古代国家成立過程を見通すと邪馬台国は九州にあったと考えるほうが合理的である。 3世紀に日本列島の大部分を統括する政権は成立していない。卑弥呼の統括する三十国の政権は、北部九州といった地域的なものである。したがって、九州南部、中国、四国、近畿、山陰、中部、北陸、関東など成熟度の差はあっても、それぞれの地域での中心となる政権が存在する。それが、狗奴国との抗争に初見が見られるように、3~6世紀抗争、を通じて、ツクシ・キビ・イヅモ・ヤマトなど豪族を構成体とした地域王国が出現、それらが、列島の政治的覇権を賭けたさらなる抗争の結果、6世紀後半に、ヤマトが古代国家成立の主導権を確立するのである。そして、7世紀後半、「天皇」が豪族から実権を奪い、天皇を権力の頂点に置いた律令国家が確立したのである。
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2.邪馬台国は筑後川流域にあった
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![]() 下図の「弥生時代の遺跡の推定分布」は弥生時代の遺跡・遺物の出た土地と同じ条件(標高、土地の傾斜など)の土地を北九州の地域から見出そうとしたもの。そこから見ると、 筑後川流域、遠賀川流域、福岡平野が多いことがわかる。 弥生時代の人口密度が大きいところからも、筑後川流域が多いことがわかる。 ![]() 下図の「人口から見た『魏志倭人伝』諸国の位置から」、上の数字は奈良時代の人口で、下の数字は『魏志倭人伝』の戸数である。例として、末盧国を見ると、人口18,315人で1,000戸となる。そこで1戸当たりの人口は4.58人となる。もし1戸あたりの人口を4~5人としても、邪馬台国が7万戸であるとすると、奈良時代の人口から考えても、筑後川流域の多くの地域を入れないと7万戸にならない。
邪馬台国時代の鏡の分布とか、鉄器の分布を考えると、鏡では筑後川流域に広く多く分布していることがわかる。また糸島半島の平原遺跡から多く出土している。しかし鉄器を考えると筑後川上流の朝倉地域に分布している。 邪馬台国時代の遺物の出土状況を見ても、筑後川流域(吉野ヶ里遺跡を含む)と糸島半島の平原遺跡と福岡平野と遠賀川流域が多いことがわかる。 ・西南学院大学の高倉洋彰氏 ・考古学者の森浩一氏 ■甕棺と箱式石棺の鏡などの出土状況 福岡県の例だが、甕棺、箱式石棺、古墳時代で分類すると、前漢鏡[(清白・日光・日有喜・昭明)銘鏡]相当数が甕棺から出土し、後漢鏡の方格規矩鏡は甕棺、箱式石棺の両方から出土し、小型仿製鏡は箱式石棺の方が多くなり、長宜子孫銘内行花文鏡も箱式石棺の方が多くなり古墳時代にも出土する。西晋時代の鏡の10種の魏晋鏡は箱式石棺と古墳時代が半々になる。画文帯神獣鏡は古墳時代の出土となるが、なぜか甕棺墓から1面出土している。三角縁神獣鏡は古墳時代の鏡となる。 平原遺跡の鏡は長宜子孫銘内行花文鏡で邪馬台国時代と言える。
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3.高島忠平先生・安本美典先生対談 |
<安本> <高島> <安本> <高島> また、椿井大塚山など邪馬台国時代より新しいという古墳は九州説に有利になるので、4世紀という古墳を3世紀に遡らせたいという願望があり、弟子たちがこの30年くらいに努力して、そのようになっていったようだ。 <安本> <高島> <安本> <高島> <安本> <高島> <安本> <高島> |
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