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Rev.2 2021.1.9

第324回 邪馬台国の会
「息津鏡(おきつかがみ)」と「辺津鏡」


 

1.「息津鏡(おきつかがみ)」と「辺津鏡」

注:「安本が卑弥呼の『親魏倭王』の金印を発掘した」と「『東日流外三郡誌』についての、ちょっとした話」は省略し、「神武東遷」は次の会にまとめて掲載する。

[丹波(たんば)における邇芸速日命(にぎはやひのみこと)系氏族の活動。元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)の鏡]

■元伊勢籠神社
京都府宮津市字大垣に、「元伊勢籠神社」がある。この神社は、丹後の国の一の宮(各国の由緒あり、信仰のあつい神社で、その国の第一位のもの)である。丹波国から和銅6年(713)に丹後国が分離した。
いわゆる「式内社」で、『延喜式』の神名帳の与謝郡の筆頭に、「籠神社」と記されている。
現在の神社がある場所の西側は、丹後の国の国府の所在地で、古代・中世を通じて、丹後の国の中心地であった。日本三景の一つの天の橋立が、眼のまえにある。
この神社は、別名を、与謝宮(よさのみや)、吉佐宮(よさのみや)といい、「お伊勢様のふるさと」といわれている。

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『元伊勢籠神社御由緒略記』には、およそ、つぎのように記されている。
「神代の昔から、今の奥宮の地の真名井原に匏宮(よさのみや)といって、豊受大神[伊勢神宮の外宮(げぐう)の祭神]が鎮座していたが、崇神天皇の時代に、天照大神が、大和の国の笠縫邑から遷座し、豊受大神とともに祭った。天照大神は、与佐の宮に、四年間鎮座し、つぎの垂仁天皇の時代に、伊勢の国の五十鈴川川上に遷宮した。豊受大神は、第21代雄略天皇の22年に、伊勢の国度会(わたらい)郡の山田原に遷った。」

伊勢神宮の外宮(げくう)の旧鎮座地が、丹後の国を分出する以前の丹波の国であったことは、早くから諸書にみえる。古くは、延暦23年(804)の『止由気太神宮儀式帳(とよけだいじんぐうぎしきちょう)』に、雄略天皇の時代に、天照大神の託宣によって、「丹波国比治乃真奈井爾坐我御饌都神(たんばのくにひじのまないにますのがみけつかみ)[豊受大神のこと]」を、伊勢の山田原に遷宮し、天照大神の朝夕の御饌(みけ)[食事]の神としたとある。鎌倉時代に成立した『神道五部書(しんとうごぶしょ)』以来の伊勢神道は、伊勢外宮の旧地を、丹波の国与佐宮とする。
また、建武2年(1335)7月日付の「大谷寺衆徒勅願寺訴状」(『成相寺旧記』所引)に、「所謂豊受太神宮之本宮籠宮大明神(いわゆるとようけだいじんぐうのもとみやこのみやだいみょうじん)」とある。
天照大神が、与謝の宮に鎮座したことについては、神社に蔵されている「籠大明神縁起秘伝(このだいみょうじんえんぎひでん)」(天和年間[1681~1684]写)に、「夫当社籠大明神(それとうしゃこのだいみょうじん)ハ即豊受大神也(すなわちとようけのおおみかみなり)」とし、「人王(にんのう)十代崇神天皇ノ御宇(ぎょう)天照大神幸子与謝宮(よさのみやにいでます)、与謝宮ハ則是籠大明神也(すなわちこれこのだいみょうじんなり)」とある。

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■海部(あまべ)氏系図と伝世の鏡
元伊勢籠神社の神主家は、元初から、海部直(あまべのあたい)であり、同氏は、大化改新以前は、丹波の国の国造家であった。
この神社の祭神については、諸説あるが、現在は、天照大神・豊受大神・天水分神(あめのみくまりのかみ)で、海部氏の祖の彦火明(ひこほあかり)の神と氏神の住吉神とをあわせまつっている。
この神社は、貞観13年(871)から元慶(がんぎょう)元年(877)のあいだに記された日本最古の系図の、「海部氏系図(本系図)」一巻のあることで著名である。「海部氏系図」は、それに付属する江戸時代初期に書写された「海部氏勘注系図」一巻とともに、国宝に指定されている。
昭和62年(1987)10月31日に、突如この神社に伝世されている二つの鏡が発表された。(写真参照)
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この二つの鏡は、海部直の神殿の奥深くに神宝として安置されており、82代にわたって伝世されてきたものとされる。

このうち、息津(おきつ)鏡[直径17.5センチ 内区に「長」「宜」「子」などの文字が読みとれる。]は、後漢から三国時代のものである。辺津(へつ)鏡[直径9.5センチ「日而月内而」「明而光」などの文字が読みとれる。]は前漢時代のものである。

そして、この神宝の由緒が、国宝の「海部氏勘注系図」に、天祖からこれらの鏡をさずかったと書かれており、また、当主の代がわりごとに、口伝をもって、伝世されたものである。

息津鏡、辺津鏡は、ともに内行花文鏡である。息津鏡は雲雷文「長宜子孫」銘の内行花文鏡である。 辺津鏡は、内行花文昭明鏡、または内行花文明光鏡で、佐賀県の椛島山(かばしまやま)遺跡出土のものにやや近い。

いっぽう、『海部氏系図』によれば、海部氏の始祖の彦火明(ひこほあかり)の命は、瓊瓊杵(ににぎ)の尊の弟である。『古事記』や、『日本書紀』の一書なども、火明の命と瓊瓊杵の尊が兄弟であるとする伝承をのせている。
しかしながら、『古事記』は火明の命を兄としており、『日本書紀』では火明の命を瓊瓊杵の尊の子としており、『日本書紀』の一書では火明の命を兄としている。(下図参照)

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南九州に下った瓊瓊杵の尊とは別に、丹波に下った火明の命の系統があったとみられる。金久与市著『古代海部氏の系図』(学生社刊)によれば、海部家に所蔵されている『海部氏系図』の原本ともいわれる『籠大明神縁起秘伝』は、瓊瓊杵の尊の系統を、九州降臨系とし、火明の命の系統を、丹波降臨系としているという。

平安時代のはじめにできた『旧事紀(くじき)[先代旧事本紀(せんだいくじほんき)]』の『天神本紀』に、天照国照彦天の火明櫛玉饒速日の尊(あまてらすくにてらすひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が天下るときに、天神(あまつかみ)の御祖(みおや)[天照大神、または、天照大神と高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の二神]が与えた十種の天璽(あまつしるし)の瑞宝のなかに、『嬴都鏡(おきつかがみ)』と『辺津鏡』とがある。
ここに、『嬴都鏡』と『辺津鏡』とがでてくる。

『旧事紀』は、天の忍穂耳の命と万幡豊秋津師比売とのあいだにうまれた子、すなわち邇邇芸の命の兄として、饒速日の命(天の火明の命ともいう)の名を記す。饒速日の命は、神武天皇よりもさきに、畿内に天降ったという。すなわち、饒速日の命は、はじめ、河内の国(大阪府)の哮峰(いかるがのみね)に天降り、のち大和の国(奈良県)の鳥見(とみ)の白庭山(しらにわやま)[奈良県桜井市の外山の高見山か]にうつり、長髄彦の妹の御炊屋姫(みかしきやひめ)を妃とし、神武天皇東征のとき、長髄彦を誅して、天皇に帰順したという。饒速日の命は、物部氏の始祖と伝えられる。饒速日の命の名は、『古事記』『日本書紀』にもみえる。

『旧事紀』によれば、火明の命と、饒速日の命とは、同じ神であり、『海部氏系図』によれば、海部氏の始祖が、火明の命なのである。海部氏のまつる神社に、『嬴都鏡(息津鏡)』と『辺津鏡』とがあっても、ふしぎではない。

北九州から丹波に降臨した火明の命に与えられた鏡が、息津鏡、辺津鏡などの内行花文鏡であった。(もちろん、疑えば、鏡は古来のものではなく、のちの時代に、墳墓などからでた鏡が、なんらかの事情で、『元伊勢籠神社』におさめられた可能性もないとはいえないであろう。ただ、これらの鏡は、北九州の弥生墳墓出土系の鏡である。)

なお、『古事記』の「応神天皇記」によれば、新羅の王子の天の日矛がもってきた玉津宝(たまつたから)八種のなかに、「奥津鏡」と「辺津鏡」とがある。
ここでも、「奥津鏡」と「辺津鏡」とがでてくる。

そして、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」3年の条、および、88年の条によれば、新羅の王子天の日槍(あめのひぼこ)がもってきた宝物七種または八種のなかに、「日の鏡」がある。

『古事記』と『日本書紀』とをあわせ考えれば、「奥津鏡」「辺津鏡」とが、「日の鏡」であることになる。
そして、元伊勢籠神社に伝世されている「息津鏡」と「辺津鏡」が、内行花文鏡であることから、「日の鏡」が、内行花文鏡であることがうかがわれる。
内行花文鏡が、太陽の輝きをとらえた模様だと推定されているとする森浩一氏の推定は、正しいようにみえる。
なお、「息津(嬴津、奥津)鏡」の「息(嬴、奥)」は「沖」で、「辺津鏡」の「辺」は海岸の意味で、航海などと関係あるのであろうか。

■海部氏の詳細
海部氏に火明命(ほあかりのみこと)の系統のあることは、『新撰姓氏録』『先代旧事本紀』『海部氏系図(本系図)』の三つが記している。
『新撰姓氏録』「左京神別下」から 「但馬海直(たぢまのあたへ)(224-409)。火明命(ほあかりのみこと)の後(すえ)なり。」とある。
但馬海直について、「但馬海の氏名のうち、但馬は後の但馬国(兵庫県)の地名にもとづき、海はかつて海部の伴造氏族であったことにもとづく。」とある。しかし、但馬海直氏の一族の人名は、他の史料にみえない。

本条の但馬海直氏の同族に丹後国与謝郡の海直(海部直)氏があり、その一族に丹後国与謝郡の大領、海直忍立[天平10年(738)「但馬国正税帳」2-61)がおり、また同氏には『丹後国与謝郡籠神社海部系図』『丹後国与謝郡籠神社税(祝か?)部氏系図』があり、海部直都比(『海部系図』『日本古代人名辞典』1-100)・海部直県(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直阿知(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直刀(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直??(同上、刀の児)・海部伍佰道(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直愛志(同上、『日本古代人名辞典』1-99)・海部直干鳥(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直千足(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直千成(同上、『日本古代人名辞典』1-100)・海部直綿麿(同上、『日本古代人名辞典』1-101)・海部直雄豊(同上、綿麿の児)・海部直田継(同上、雄豊の児)・海部直田雄(同上、田継の児)らの名がみえる。

品部である海部は、丹後・但馬両国のほか諸国に設置されたので、海・海部を名乗る氏族は諸国に分布している。
ちなみに、海が海部とも表記されることは、海世宇(天平9年11月1日「写経校紙帳」7-117など)なる人物が、海部世宇(天平9年10月22日「経師用紙」7-162)・海部施宇(天平9年10月22日「写経校紙帳」7-118)などとしてみえ、また海秋麻呂(天平11年(739)7月「校生等啓」2-176など)が、海部秋麻呂(天平11年4月15日付「写経司啓」2-165など)とも記され、さらに海豊成(天平宝字2年7月5日付「千手千眼并新羂索薬師経経師等筆墨直充帳」13-358など)が、海部豊成(天平宝字2年9月5日付「造東大寺司解案」14-40)にも作られていることによって確かめられる。

火明命については、左京神別下の[222-400]終わり宿禰条の「火明命」の項を参照。
『旧事紀』天孫本紀に「六世孫建田背命(たけたせのみこと)。神服連(かむはとり)。海部直(あまべのあたい)。丹波国造(たにはのくにのみやつこ)。但馬国造(たじまのくにのみやつこ)等祖」とあるというところから察すると、原本には火明命の六世孫である建田背命の神名が記載されていたであろう。なお始祖を火明命とする丹後国与謝郡の『祝部氏系図』(『海部系図』)は、次のとおりである。
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凡海(おおしあま)氏にも、火明の命系のものがある。(『新撰姓氏録』「未定雑姓右京」の「凡海連」)[他に、安曇氏(あずみうじ)系のものも。安曇氏は、綿津見神の子孫。]「未定雑姓右京」のものの本拠は、丹波国加佐郡凡海郷(京都府舞鶴市大浦・西大海付近か)である可能性がある。

■樋口隆康氏の記事
また籠神社が長年、秘蔵し伝えてきた二枚の鏡が、昭和62年(1987)10月31日に公開され、学界に大きな衝撃を与えた。
鏡の発表に立ち会った日本でもっとも古鏡を専門とする樋口隆康氏(京都大学名誉教授・橿原考古学研究所長)は、たまたま公開された日に開催されたシンポジウム「日本出土鏡の諸問題」の席上、次のように発言している。
籠神社の鏡は、日本出土のものではございません。神社に代々伝わっていた鏡であります。(中略)
鏡は、二面あり、一面は小さく、一面は大きいものであります。小さい鏡の方が時代が古く、大きい鏡の方はそれよりも少し遅い時代のものであります。

小さい鏡は、径が10センチ足らず、正確にいえば、9.5センチとこういうことになります。たいへん美しく、少しネズミ色をしており、つややかで、鋳上がりも非常によいものであります。(中略)
年代から言いますと、紀元前1世紀後半、前漢時代の後期に作られたものであります。(中略)
弥生時代には、中国から渡来した鏡は、ほとんど北九州を中心にして分布しており、それ以外の地域にはあまり出土しません。
この鏡は名前で言いますと「連弧文(れんこもん)昭明鏡」あるいは「連孤文明光鏡」と呼んでいる前漢時代晩期のものであります。(中略)
もう一面の方は、もう少し大きな鏡で、径17.5センチあります(中略)銘文は、真ん中の四葉座の葉間に「長宜子孫(ちょうぎしそん)」という四つの文字が配置されています。(中略)
どちらも中国製でありますが、そのうちの一つは前漢後期(弥生中期)時代に属する鏡であることが注目されます。しかも、前漢鏡は、丹後はもちろんのこと、畿内全域にとってもこれまで出土した例がありません。(中略)
籠神社には昔から知られていて、日本で最も古いと言われる「海部氏系図」がございます。その系図の「勘注系図」というものの中に、鏡のことがきちんと記載されております。「天御祖(あまつみおや)のみしるしであるご神宝で、息津鏡、辺津鏡」という名前まで出ております。
しかも、二つの鏡があったことが記録されています。
このように、はっきり記録があり、しかも、その記録に該当すると思われる鏡がそろっているというのは、日本の他の神社の鏡を見ても、本当に稀有の例であります。その点でもたいへん注目されるわけであります。(後略)

■「勘注系図」は倭宿袮命について
「亦の名は天御蔭命(あめのみかげのみこと)、亦の名は天御蔭志楽別命(しからきわけのみこと)、母は伊加里姫命なり。神日本磐余彦天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の御宇に参赴(まいき)て、祖神より伝来(つたえきた)りし天津瑞(あまつたま)の神宝(かんだから)[息津鏡、辺津鏡是なり]を献じ、以て仕え奉る。[弥加宜(みかげ)社、祭神天御蔭命は丹波道主王の祭給うところなり]此の命、大和国に遷坐の時、白雲別神の女(むすめ)豊水富命(とよみつほのみこと)を娶り、笠水彦命(かさみつひこのみこと)を生む。[笠水介都(かさみつけつ)と訓(よ)めり](原漢文)」
倭宿祢命亦名天御蔭命を祀った祠が京都市舞鶴市行永の弥加宜(みかげ)神社である。
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■息津鏡、辺津鏡
息津鏡は九州の平原遺跡から出土した雲雷文連弧文鏡に近いものである。雲雷文は渦巻状・同心小円などの変異がある。雲雷文帯は、松葉文・同心円的平行線のものなどの変異がある。
辺津鏡は佐賀県杵島郡北方町大字芦原字西平・東平・北平にある椛島山(かばしまやま)遺跡1号石棺墓から出土した内行花文明光鏡と同じような鏡である。弥生時代後期とされている。

このように、息津鏡、辺津鏡は九州の遺跡から出土した鏡と同じである。

元伊勢籠神社の息津鏡、辺津鏡はいつ、東にもたらされたのか?
火明の命の東遷を260~270年ごろとみて、そのころでよいのか。

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・洛陽晋墓出土の明光鏡と雲雷文長期子孫銘内行花文鏡
洛陽晋墓からは、大康8年(287)、元康9年(299)、永寧3年(302)の墓誌が出土している。「洛陽晋墓的発掘」(『考古学報』1957年第1期)324-06

 

息津鏡、辺津鏡は洛陽焼溝漢墓からも出土している。

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息津鏡、辺津鏡と他の出土鏡との関係をまとめると下記表となる。。
両方とも、洛陽漢墓、洛陽晋墓から出てきており、息津鏡は平原遺跡、辺津鏡は椛島山遺跡から出土している。
ここで、辺津鏡を「明光鏡」といったり、「照明鏡」といったりするが同じものである。「明光」をとるか「照明」とるかの違い。

 

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このように息津鏡、辺津鏡は邪馬台国時代のものとしてもおかしくない。
何故但馬から出て来たのか。
丹後と大阪方面との関係はどうなるのかについて、考えてみる。

『先代旧事本紀』「天神本紀」(巻第三)
「天璽瑞寶十種(あまつしるしのみづのたからとぐさ)を授(さづけ)る。嬴都鏡一(おきつかがみひとつ)、邊津鏡一(へつかがみひとつ)、八握劔一(やつかのつるぎひとつ)、・・・・」とある。

ここにでてくる嬴都鏡と邊津鏡と元伊勢籠神社の息津鏡と辺津鏡との関係は?

『先代旧事本紀』「天孫本紀」(巻第五)
「復(また)、宇摩志麻治命(うましまちのみこと)、天神御祖(あまつかみのみおや)、饒速日尊(にぎはやひのみこと)に授(さづけ)たまふ天璽瑞寶十種壹(あまつしるしのみづのたからとぐさあまりひとつ)を以て天孫(あまつみまご)[神武天皇]に奉獻る。・・・・」とある。

天の火明の命は九州から来た。

『先代旧事本紀』「天孫本紀」(巻第五)
「磯城瑞籠宮(しきのみづがきのみや)に御宇天皇(あめのしたしらすすめらみこと)の御世(みよ)[崇神天皇]に大臣(おほまへつぎみ)に詔(みことのり)して、・・・・・・天(あめ)より受來(うけこ)し天璽瑞寶(あまつしるしのみづのたから)も同(おなじ)く共(とも)に藏齋(おさめ)て號(なずけ)て石上大神(いそのかみのおおかみ)と曰(まを)す。・・・・」とある。

嬴都鏡と邊津鏡は石上神宮におさめられたのか否か。

火明の命は尾張氏の祖先である。尾張氏の地域からは三遠式銅鐸が出土している。

■鏡の経緯
邇邇芸命が天孫降臨し、天照大神により八咫の鏡をもたらされ、神武天皇に伝えられる。そして神武天皇が東に移るとき大和に持って行く。
崇神天皇の時代に、八咫の鏡などが宮殿にあると心理的プレシャーを受ける。そこで崇神天皇は宮殿から出すようにと指示する。
崇神天皇から垂仁天皇の時代に宮殿の外のあちこちを探す。
その結果、八咫の鏡は倭媛が伊勢に移す。天皇の宮殿にあるものはレプリカとなる。

草薙の剣は崇神天皇の時代に持ち出したと書いてはいないが。景行天皇の時代に日本武(やまとたける)尊が伊勢皇大神宮で倭媛から剣を受けるとある。ゆえに、草薙の剣は八咫鏡と一緒に持ち出されたと考えるべき。

天照大神は邇芸速日命に「息津鏡」「辺津鏡」の鏡をもたらした。邇芸速日命はこれらの鏡をもって近畿に天下った。そして邇芸速日命が死んだ後に、宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)が降伏したとき、神武天皇に渡した。
崇神天皇は八咫の鏡を宮中から出した頃、これらの「息津鏡」「辺津鏡」も宮中から出され、籠神社へ移ったのではないか。邇芸速日命系であるから、天の火明の命の子孫が継ぐ籠神社に祀られることになったのではないか。

『元伊勢籠神社御由緒略記』には、およそ、つぎのように記されている。(このページ上部のものを再度掲載)
「神代の昔から、今の奥宮の地の真名井原に匏宮(よさのみや)といって、豊受大神[伊勢神宮の外宮(げぐう)の祭神]が鎮座していたが、崇神天皇の時代に、天照大神が、大和の国の笠縫邑から遷座し、豊受大神とともに祭った。天照大神は、与佐の宮に、四年間鎮座し、つぎの垂仁天皇の時代に、伊勢の国の五十鈴川川上に遷宮した。豊受大神は、第21代雄略天皇の22年に、伊勢の国度会(わたらい)郡の山田原に遷った。」
とある。
そこから「八咫鏡」は伊勢神宮へ、「息津鏡」「辺津鏡」は与佐の宮(籠神社)に残ったのではないかと考えられる。

■鏡を天の日槍(あめのひほこ)がもたらした説
『日本書紀』の「垂仁天皇紀」の3年3月の条に、新羅の王子の天の日槍が、近江の国の吾名(あな)の邑(むら)に住んだのち、近江から若狭の国(福井県の西部)をへて、西の但馬の国(兵庫県の北部)にいたって住むところを定めたことが記されている。
天の日槍は、そこで、但馬の国の出嶋(いずし)[出石]の人である太耳(ふとみみ)[前津耳(まえつみみ)または前津見(まえつみ)ともいう]のむすめの麻多烏(またお)と結婚し、但馬諸助(もろすく)を生む。諸助は、但馬日楢杵(ひならき)を生み、日楢杵は、清彦(きよひこ)を生む。清彦は、田道間守(たじまもり)を生んだという。天の日槍の子孫は、代々但馬にいたようである。

また、『日本書紀』の「垂仁天皇紀」88年7月の条に、天の日槍がもってきた神宝は、但馬の国にある、と記されている。
『古事記』では、天の日矛が持ってきたのは、八種の宝で、その八種の宝は、「伊豆志(いづし)の八前(やまえ)の大神(伊豆志は、但馬の国出石郡)」(つまり、八種の宝が、神社の神体)と記している。

『日本の神々 神社と聖地7 山陰』(谷川健一編、白水社刊)の「出石神社(兵庫県出石郡出石町宮内字芝地)」の項には、つぎのように記されている。
「豊岡市・出石町を中心とする北但馬の地域には、新羅の王子天日槍とその一族および従神を祀る古社が分布する。当社はその中核に位置し、式内名神大社、但馬一の宮として古代から崇敬を集めてきた。『延喜式』神名帳の但馬国出石郡二十三座(大社九座・小社十四座)の筆頭に『伊豆志坐(いづしにます)神社八座並名神大』とあり、天日槍が将来したという八種(やくさ)の神宝(かんだから)[『古事記』のいう珠二貫(たまふたつら)・振浪比礼(なみふるひれ)・切浪比礼(なみきるひれ)・振風比礼(かぜふるひれ)・切風比礼(かぜきるひれ)・奥津鏡・辺津鏡。ただし『日本書紀』本文は羽太玉(はふとのたま)一個・足高(あしたか)玉一個・鵜鹿鹿赤石(「うかかのあかし)玉一個・出石小刀(いづしのかたな)一口・出石鉾(いづしのほこ)一枝・日鏡(ひのかがみ)一面・熊野籬(くまのひもろき)の七種とし、一(ある)に云(いわ)くとして葉細珠(はほそのたま)・足高(あしたか)玉・鵜鹿鹿赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊野籬・胆狭浅大刀(いささのたち)の八種とする]を祭神『出石八前(やまえ)大神』とし、天日槍の御霊(みたま)を併せ祀っている。」

このように、この神社の祭神は、天の日槍と八種の神宝である。
出石神社は、中世から、但馬の国の一の宮(各国の、由緒があり信仰のあつい神社で、その国第一位のもの)とされている。
さて、地図をみればわかるように、出石神社の近くに、森尾古墳(兵庫県豊岡市森尾市尾)がある。

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森尾古墳は、円墳である。径約9メートル、高さ2メートルほど。
森尾古墳からは、「正始元年」銘の三角縁神獣鏡のほか、もう一面の三角縁神獣鏡と、方格規矩鏡とが出土している(計3面)。
森尾古墳からは、堅穴式石室が見いだされている。大塚初重氏らの『日本古墳大辞典』は、森尾古墳の築造年代について、「年代の決め手に欠けるが、4世紀末から5世紀初頭の年代を与えておきたい。」とする。
森尾古墳のすぐ近くに、中嶋神社がある(地図参照)。『延喜式』の神名帳にのっている神社である。

この神社の祭社は、田道間守である。天の日槍の子孫である。

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