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第327回 邪馬台国の会
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1.魔鏡について |
■読売新聞の記事 魔鏡と確認されたのは、愛知県犬山市の東之宮(ひがしのみや)古墳(4世紀初め)で出土した2面(直径21~23センチ、重要・文化財)。立体物を精巧に再現する3Dプリンターで復元模造品を作り、実験した。この日の記者発表でも、鏡に光を当てると、神像がうっすらと映し出された。 魔鏡は江戸時代中期以降、隠れキリシタンが所持し、十字架やマリア像を浮かび上がらせ、礼拝の対象にしたことで知られる。 魔鏡との共通性に着目した村上部長は、「薄い部分は割れやすく、なぜこれほど厚みの差があるのか謎だったが、像を投影するため、意図的に作ったことが明らかになった」と話す。
■魔鏡についての問題 2)「魔鏡」は、どのていど、特殊な現象なのか。「三角縁神獣鏡」に「魔鏡」があるとしても、それは意図的なものなのか。凸面鏡で、鏡身が薄く、模様の部分の厚みの差が大きければ、魔鏡を意図しなくても、魔鏡になるのではないか。 3)「三角縁神獣鏡」のような中国南方系の鏡も、「昭明鏡」のような中国北方系の鏡も、「魔鏡」でありうるとすれば、魔鏡になりうるのは、あるいは、ありふれた現象なのではないか。 4)「画文帯神獣鏡」ではどうなのか。「長宜子孫銘内行花文鏡」ではどうなのか「鼉(だ)竜鏡」など、明白な鏡ではどうなのか。「位至三公鏡」ではどうなのか、など中国・日本出土の広汎な鏡についての魔鏡現象についての調査がなければ、「魔鏡」が、どのような意味をもつのか、わからない。 5)鈕の穴の鋳バリを完全に鋳ザラていないものが多く、かつ、ほとんど墓からしか出土しない「三角縁神獣鏡」は、丁寧に研磨されていたのか?
■魔鏡現象は何故生じるか ①研削過程 鏡面を磨くため、やすりや鏟(せん)による研削を繰り返すと、鏡背肉厚部の鏡面はよく削れるが、鏡背に模様のない薄肉の基地部は研削の時の逃げが大きく研削量も少ないことが想像される。事実。削り終えた段階で、鏡の断面を精密に測定してみると、肉厚部は大きく削られ凹みを生じていいた。これらの結果を綜合すると、鏡面全体として凸面鏡となり、鏡背の模様(鋳物断面の肉厚)に応じて、部分的に凹み(凹面鏡)を形成することが知られる。このように、鏡背の模様に対応してきわめてわずかで、肉眼ではほとんど確かめられないが、鏡面に凹面を呈する部分が出現する結果、光を当てるとその反射面は収斂し、他の部分は散乱して、明暗の像を作り、魔鏡現象が出現する。 ②鋳造過程 このように二つの考えがあるようである。
・葛洪について 「鏡と神仙」 これはまだ修業中の道士が、鏡の威力で神仙の姿を見、それによって千里眼や、将来を予知することが記されている。 本文・・・九寸以上の明鏡を用いて自分の顔を写し、七日七晩の間冥想していると、そこに神仙の姿が見えてくる。その神仙は、男であったり、女であったり、或いは老人や若者であることもある。一度神仙の姿が示されると、自然に心が開けてきて、千里眼が得られるようになり、また将来のことも予知できるようになる。 [注]これは、葛洪が鏡に威力で仙人になることについて書いたものである。魔鏡現象が関係したようにも思える。
■魔鏡現象についてその他記事 ・野崎準「中国と日本の魔鏡」(『Boundary』1998年.vol.14、No12)
■考古学者が三角縁神獣鏡を魏鏡とする考えに対する見解 魏鏡説賛同 このように、畿内説の学者も含め、6割以上の学者が三角縁神獣鏡は魏からもらった鏡ではないとしている。 各学者の述べている例を示す。 ・「邪馬台国=畿内説」の考古学者、石野博信氏は、1998年の『歴史と旅』四月号所載の「”卑弥呼の鏡”ではない」のなかで、つぎのようにのべている。 ・ 石野博信氏は、『邪馬台国研究 新たな視点』(朝日新聞社1996刊)のなかで、つぎにまとめられるような見解をのべておられる。 ・奈良県立橿原考古学研究所所長菅谷文則著『日本人と鏡』(同朋社出版1991年刊) ・大阪府立近つ飛鳥博物館館長白石太一郎著『古代ヤマトと三輪山の神』(学生社2013年刊) ・考古学者原口正三氏(『邪馬台国と安満宮山古墳』吉川弘文館、1999年刊)「あくまであれ(三角縁神獣鏡)は魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 ・岡村秀典氏(京都大学教授)(『三角縁神獣鏡の時代』吉川弘文館、1999年刊) 「陸統」とまあ、見てきたような。 ・王仲殊氏はのべている。 神獣鏡系の鏡を卑弥呼の鏡とみることはおかしい。 また、『大炎上「三角縁神獣鏡=魏鏡説」』を贈呈したときの礼状でも、王仲殊氏は同じようなことを述べていた。 マスコミ宣伝ばかりがあって、実質的内容がない。「三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡」説は、学会においても、多数意見とはいえない。
原田大六氏が示した大型鏡の上位10面を見ても、30.6~46.5センチと大きい。これらの鏡は日本製と考えられる(下図左)。
前表の⑧の勾玉文の鏡は右図で、勾玉文の鏡など明らかに日本製である。
■真の「卑弥呼の鏡」は? これは正しいと思う。 もし、邪馬台国の都が、纒向のふきんにあったのなら、纒向遺跡のあたりの庄内期の遺跡から、あるいは奈良県から、卑弥呼が魏からもらったのにふさわしい鏡が、なぜ、多量に出土しないのか。卑弥呼が魏からもらったのにふさわしい鏡でたしかなものらしいのは、寺沢薫氏のデータで奈良県出土のものは、四葉座鈕連弧文鏡(内行花文鏡)の鏡片、しかも、倣古鏡とみられるものが、一面あるのみではないか。
天皇1代10年説から、崇神天皇の没年は360年頃となり、4世紀中頃となる。しかし白石太一郎氏は崇神天皇は3世紀中頃としている。崇神天皇の時代が卑弥呼の時代とすると『魏志倭人伝』の記述と合わないことが多い。 前方後円墳の築造年代推定からも、崇神天皇の墳墓は4世紀と考えられる。 下図から三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も出土する前方後円墳を調べると、三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も4世紀の古墳から出てくる。つまり三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡は崇神天皇の時代と言える。また、崇神天皇は4世紀頃の天皇と言えるのである。
寺澤氏の庄内式土器に出土する鏡について、3世紀中頃の卑弥呼の時代に絞り、県別グラフにすると下記となる。福岡県が圧倒的に多い。
そして、その時代の鏡の種類について分布をみると、下記となる。内行花文鏡、方格規矩鏡が多い。
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2.三角縁神獣鏡はメイドインジャパンである |
■「三角縁神獣鏡」は「画文帯神獣鏡」と「三角縁画像鏡」とを足して、2で割ったような鏡である。 「画像鏡」は下記の右のような鏡で、面径は大きく、物語を表している。下図の鏡は呉王、伍子胥(ごししょ)画像鏡で呉越の故事を描いたもの。
中国では三角縁神獣鏡は出土しないが、画文帯神獣鏡と画像鏡は出土する。これらを足して2で割ると三角縁神獣鏡となる。 画文帯神獣鏡を三国時代の領域で分けると下記となる。また、年代別に分類すると200~300年の間が多い。250年以前に出土したものでも、墓自体は西晋早期や、東晋時代のから出てくる。 「画文帯神獣鏡」も「画像鏡」も基本的に、中国南方系、揚子江流域系の鏡である。
■「三角縁神獣鏡」について 樋口隆康氏による「三角縁神獣鏡」を規定する六つの条件
「三角縁神獣鏡」の周圏帯は右記となる。 ・「三角縁神獣鏡」の内区の文様は、「画文帯神獣鏡」から 「画文帯神獣鏡」も「画像鏡」も基本的に、中国南方系、揚子江流域系の鏡である。
鏡の直径が20cm以上であるものの割合について、中国出土の「画文帯神獣鏡」は1%程度であったものが、日本出土の「画文帯神獣鏡」は29.6%となり、「三角縁神獣鏡」は97.5%となる。日本では鏡が大きくなるのである。
■日本各地で製作された鏡
鏡が現地で鋳造されたことを示すのが、以下にのべるような事実である。 つぎに、三つほど典型的な事例を示す。 [Ⅰ]奈良県の佐味田宝塚古墳や京都府の椿井大塚山古墳その他から出土している「天王日月」銘唐草文帯四神四獣鏡 最大のものと、最小のものとでは、7ミリ違う。 この①~⑦を観察すれば、つぎのようなことがわかる。 [Ⅱ]奈良県黒塚古墳出土の「王氏作徐州」銘四神四獣鏡 [Ⅲ]大阪府紫金山古墳などから出土している獣文帯三神三獣鏡。 このような事例は、数多くあげることができる。 測定誤差などを考慮し、1ミリ以内の面径の差は、誤差範囲とみなすとどうなるか。つまり、1ミリ以内の面径差は、「一致」の範囲に入れて同様の計算をすると、つぎのようになる。 同じ形式のものが、あるていどの期間のなかで(私、安本は、350年ごろから400年ごろまでの50年間ぐらいと考えるが)、くりかえし踏み返されているとみられる。(以上のような議論について、くわしく『季刊邪馬台国』68号所載の拙稿参照)。
■中国出土の鏡
私は、洛陽晋墓出土の變鳳鏡、半円方形帯神獣鏡(画文帯神獣鏡)、長宣子孫連弧文鏡(蝙蝠鈕座内行花文鏡)などは、むしろ晋代の鏡とすべきであると思う。杉本氏らの表の分類には、多少異論がある。ただ、前代の鏡が、かなり埋納されていることは読みとれる。
このように、洛陽で出てくる鏡は北九州から出土する鏡に多い。
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3.四世紀崇神天皇時代の諸天皇の陵 |
崇神天皇陵古墳について、東京大学の考古学者、斎藤忠氏は、つぎのようにのべている。 「今日、この古墳の立地、墳丘の形式を考えて、ほぼ四世紀の中頃、あるいはこれよりやや下降することを考えてよい。」 景行天皇陵について、『古事記』『日本書紀』ぱ、つぎのように記す。 崇神天皇陵の候補としては、崇神天皇陵古墳(行燈山古墳、ニサンザイ古墳)と、景行天皇陵古墳(渋谷向山古墳)の二つ以外には考えられないことについては、斎藤忠氏のくわしい考察がある(「崇神天皇に関する考古学上よりの一試論」『古代学』13巻1号)。 (1)図の「前方後円墳築造時期推定図」をみれば、崇神天皇陵古墳は、景行天皇陵古墳よりも、あきらかに、古い形式をしている。崇神天皇陵古墳を景行天皇陵にし、景行天皇陵古墳を崇神天皇陵にすれば、第十代の天皇で古い時代の崇神天皇の古墳が新しい形式をもち、第十二代の天皇で新しい時代の景行天皇の古墳が古い形式をもつことになってしまう。 (2)『日本書紀』は、崇神天皇の時代に、吉備津彦を西の道(のちの山陽道)につかわし、丹波(たにわ)の道主(ちぬし)の命を、丹波(後の丹波・丹後。大部分は現京都府)につかわしたと記している。いわゆる「四道将軍」派遺の話の一部である。 また、京都府の竹野郡丹後町には、神明山(しんめいやま)古墳といわれる前方後円墳がある。日本海側で、一、二の規模を誇る古墳である。この古墳も、崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほとんど相似形である。私は神明山古墳は、丹波の道主の命の墓である可能性もあると思う。 このような「相似形古墳」の概念を導入するとき、崇神天皇陵古墳、中山茶臼山古墳、神明山古墳は共通性があり、現在の崇神天皇陵古墳を、崇神天皇の墓とするとき、『日本書紀』に、崇神天皇と同時代に活躍していたとされている人びとの墓と推定される古墳と形式がほぼ同じものとなる。現在の景行天皇陵古墳を崇神天皇の墓としたのでは、中山茶臼山古墳などと、形式がちがってくる。 『陵墓要覧』は、宮内省諸陵寮の職員の執務の便のために編纂されたものである。 |
4.『魏志倭人伝』を読む |
次回と一緒にまとめる予定。
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