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第328回 邪馬台国の会
吉備津彦の命の墓、大彦の命の墓、丹波の道主(たにはのちぬし)の命の墓、武渟川別(たけぬなかわけ)の命の墓


 

1.吉備津彦の命の墓、大彦の命の墓、丹波の道主の命の墓、武渟川別の命の墓

四道将軍の派遣と四道将軍の墓
前方後円墳は時代が新しくなると、前方部が発達してくる。また造出しがつくられるようになる。
そこで、横軸に、前方部幅/後円部径×100をとり、縱軸に、前方部幅/墳丘全長×100をとって、グラフにすると、下図のようになり、左下が古く、右上が新しい古墳と言える。これは川西宏幸氏による円筒埴輪の形式(Ⅰ~Ⅴ)からも表せ、古い形式Ⅰは左下、新しい形式Ⅴは右上になる。造出しがあるものが新しい古墳になる。

その中で、崇神天皇の古墳は左下より少し右にある。その付近に中山茶臼山古墳(吉備津彦の命の墓)、川柳将軍塚古墳(大彦の命の墓)、神明山古墳(丹波の道主の命の墓)などがある。
(下図はクリックすると大きくなります)

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記紀は、崇神天皇が四道将軍を各地に遣わしたと書かれている。
           『日本書紀』       『古事記』
吉備津彦の命   西道(にしのみち)  (吉備の国)
大彦の命      北陸(くぬぎのみち) 高志国(こしのくに)
丹波の道主の命 丹波(たには)
武渟川別の命   東海(うみつみち)  東の方十二(ひがしかた)道

そして、遣わされた地域に四道将軍が比定できる古墳がある。
吉備津彦の命   中山茶臼山古墳
大彦の命      川柳将軍塚古墳、御墓山古墳
丹波の道主の命 黒部銚子山古墳、 細野銚子山古墳
武渟川別の命   会津大塚山古墳


(下図はクリックすると大きくなります)328-02

 

 

(1)吉備津彦の命の墓
吉備津彦は考霊天皇の皇子であり、陵墓要覧には中山茶臼山古墳となっている。
吉備津彦は倭迹迹日百襲姫とはきょうだいである。

近くに吉備津神社と吉備津彦神社がある。

(下図はクリックすると大きくなります) 328-03


■中山茶臼山古墳
岡山県岡山市尾上並びに吉備津に所在する大形前方後円墳で、岡山平野の中央に位置する独立小山塊の吉備中山の山頂直下の南尾根筋上に立地する。墳丘は主軸全長約120m、後円部径約80m、同高約12m、前方部長約50m、同幅約45m、同高約12mを測り、後円部の背後に丘尾切断状態が明瞭に認められる。(崇神天皇陵古墳と共通)

前方部は南向きで、高まりをもって先端部が開いているが、先端が後世の作事のため判然と識別できない。これまでに退化した特殊器台形埴輪片(箸墓古墳と共通)が出土しており、築造時期が前Ⅰ期の後よりと推定される。(『日本古墳大辞典』赤字は安本先生による注

■吉備津神社
吉備津神社の社伝によれば、大吉備津彦の命は、吉備の中山のふもとに、「茅葺(かやぶき)の宮」をつくって住み、この御殿で、吉備の統治にあたったという。そして、281歳の長寿で、この宮に没し、吉備の中山のいただきに墓がいとなまれたという。
吉備津神社は、「吉備津造り」と呼ばれる建築様式をもつ。
本殿を外からみるとき、檜皮葺(ひはだぶき)の大屋根が、入母屋造(いりもやづく)りを二つ前後に連結した形であるところに特色がある。「吉備津造り」とも「比翼(ひよく)の入母屋造り」ともいわれる。
山陰を代表する神社が出雲大社であるとすれば、山陽地方を代表するのがこの吉備津神社と、安芸の厳島(いつくしま)神社である。                    
吉備津神社の本殿の建坪は、255平方メートルある。大建築である。高さにおいては出雲大社におよばないが、広さは出雲大社の本殿の二倍以上ある。
社伝によれぼ、吉備津神社は、大吉備津彦の命(吉備津彦の命)を主神とし、異母弟若日子建吉備津彦(わかひこたけきびつひこ)の命と、その子の吉備の武彦(たけひこ)とをあわせまつるという(以下、よく似たこの三人の名前が頻出するので区別すること。要注意)。
備中の吉備津神社は、大吉備津彦の命の一族、子孫などが、吉備の国の鎮守(その地を鎮め守る神の社)として、いつきまつった。
その後、吉備の国が、備前、備中、備後の三つの国に分かれると、備中の吉備津神社は、備前、備後の二国にもにも勧請(かんじょう)[神の分霊を請じ迎えてまつること)された。

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■浦間茶臼山(うらまちゃうすやま)古墳
岡山市に、「浦間茶臼山古墳」とよばれる古墳がある。
この古墳について、岡山県教育庁文化財課の宇垣匡雅(うがきただまさ)氏は、つぎのようにのべる。
「この浦間茶臼山古墳と同様な墳形をとる古墳は箸墓古墳である。この二つの古墳の規模の比較をおこなったのが下記の表であるが、浦間茶臼山古墳は箸墓古墳の墳丘諸元の1/2の数値をとるとみてよく、浦間茶臼山古墳の墳形が箸墓古墳の1/2の相似形をとることは確実である。そして墳丘の平面形だけでなく、立面についてもよく類似を示しており、両者がおなじ企画にもとづいて築かれたものと判断できる。」(「吉備の前期古墳-1 浦間茶臼山古墳の測量調査」[『古代吉備』第9集、1987年刊]) 325-05

東海大学教授の考古学者、北條芳隆(よしたか)氏も、浦間茶臼山古墳と箸墓古墳とを比較し、つぎのようにのべている。
「両墳の基本的な地割の枠組は、約1:2で共有されていたとみてよい。」(「墳丘に表示された前方後円墳の定式とその評価」[『考古学研究』第32巻、第4号、1986年3月」)

浦間茶臼山古墳は、箸墓古墳の二分一に設計されており、箸墓古墳と同じく、前方部が三味線のバチ形に開いている。
また、箸墓古墳からも、浦間茶臼山古墳からも、特殊器台形埴輪の破片が採取されている。
浦間茶臼山古墳は、岡山大学の教授であった近藤義郎氏を、団長とする発掘調査団によって発掘された。その報告書『岡山市浦間茶臼山古墳』(浦間茶臼山古墳発掘調査団、真陽社、1991年2月刊)が出ている。

その報告書によれば、浦間茶臼山古墳には、堅穴式石槨があり、「割竹形木棺を納めていたものと判断してよい」構造になっていた。
やはり、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述とあわない。
この浦間茶臼山古墳からは、また「篦被(のかつぎ)」のある銅鏃が出土している。
「篦被」のある銅鏃は奈良県のホケノ山古墳がらも出土している。

兵庫県立博物館館長の考古学者、石野博信氏は、2008年の本誌100号で「邪馬台国H畿内説」の方であるにもかかわらわらず、ホケノ山古墳に関係し、率直に、つぎのようにのべている。
「(ホケノ山古墳の)調査段階で問題になりましたのは、図(省略)の上の左側の二本です。銅鏃の下に突起みたいなもの(ホケノ山古墳の)が付いています。ふつう、このタイプの銅鏃が出ますと、前期古墳の中でも前半ではなくて、中ごろから後半だというふうにいわれている銅鏃です。そういう銅鏃が主だっていますから、この墳(ホケノ山古墳)は新しいんじゃないかということが調査中から問題になりました。銅鏃を専門に研究している人、あるいは専門ではなくても、いわば前期古墳に関心のある考古学をやっている人間にとっては、常識的に、このタイプがこんなに古いとき、こんな段階であるのだろうかと。」328-11

報告書『岡山市浦間茶臼山古墳』(浦間茶臼山発掘調査団、真陽社、1991年刊)に篦被のある銅鏃について、つぎのようなことが、記されている。 「有茎篦被柳葉式銅鏃を出土した古墳は20数例が知られている。このうち岡山県磐梨(いわなす)郡可真(かま)村[現・赤磐(あかいわ)郡熊山町〔現・赤磐市〕]出土例、兵庫県豊岡市森尾古墳出土例、京都府八幡市美濃山古墳出土例は浦間茶臼山古墳と同形同大品である。従来、箆被柳葉式銅鏃は月の輪古墳や新沢千塚500号墳など比較的新しい時期の古墳で出土することが多く、確実な最古型式の古墳からの出土例は確認されていなかった。」

ここの引用文のなかにみえる兵庫県の森尾古墳は、正始元年銘の三角縁神獣鏡の出土したことで知られる古墳である。
大塚初重・小林三郎編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版、1989年刊)は、森尾古墳の築造年代について、「四世紀末から五世紀初頭の年代を与えておきたい」と記す。正始元年鏡は、奈良県の桜井茶臼山古墳からも出土している。


(2)大彦の命の墓
大彦の命は、第八代孝元天皇の皇子である。第九代開化天皇の同母の兄である。第十代崇神天皇の伯父にあたる。大彦の命の娘の御間城姫(みまき)[『古事記』では「御真津比売の命」]は、崇神天皇の皇后となり、第十一代垂仁天皇を生んだ。
『古事記』によれば、大彦の命(『古事記』は、「大毘古の命」と記す)は、高志(越、北陸道)に遣わされたという。『日本書紀』では、「北陸(くぬがのみち)」に遣わされたという。

1978年、埼玉県埼玉(さきたま)古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣から銘文が発見された。そこに刻まれた115文字のなかに、この鉄剣をつくらせた「平獲居(おわけ)の臣(おみ)」の「上祖(かみつおや)」として、「意富比垝(おおひこ)」の名がでてくる。この意富比垝は、大彦のこととみられている。

大彦の命の墓については次の三つの比定地がある。

① 川柳将軍塚古墳(長野県長野市篠ノ井石川)
戦国時代の合戦場として知られる川中島の一画である。すぐ近くに、『延喜式』の式内社、布施神社がある。
この前方後円墳については、「崇神天皇十年、詔あって大彦の命、本村長者窪に本貫(本籍地)をうつし北国を鎮撫し、ついに本村にて薨ず。その埋葬せし墳墓を将軍塚という。」(『石川村誌』『布施五明村誌』)という伝承がある。

川柳将軍塚古墳は長野県長野市篠ノ井石川湯ノ入にある。千曲川をめぞむ標高480mの山頂上に立地した前方後円墳で前方部を東北に向ける。全長90m、後円部径42m、高さ8.2m、前方部幅31m、高さ6mあって地形を利用していとなまれており、葺石・円筒埴輪の存在が知られる。 1800年(寛政12)に地元民が発掘して多量の遺物の出土をみた。その後1893年(明治26)ごろ、やはり地元民の発掘があったが、内部主体の構造が判明して遺物の出土はなかったといわれる。江戸時代の発掘時に残された記録として『信濃奇勝録』『宝月楼古鑑譜』『小山林堂書画文房図録』『集古十種』などがあるが、学術的な調査としては、1929年(昭和4)の森本六爾の調査がある。森本の調査は、墳丘の測量と1893年(明治26)ごろの発掘の状態と石室の復原に関する聴取、さらに江戸時代に残された古記録からの出土遺物の集成であった。森本の伝聞調査によると、内部主体は後円部に主軸に沿ってあった割石小口積みの竪穴式石室で、数枚の天井石が架けられており、石室内は朱を見ることができたが石棺はなかったことを記している。また前方部にも主軸に沿って石室が存在していたことを記している。

出土遺物のうち、現在、将軍塚古墳出土として布制神社に蔵するものに、内行花文鏡3・?文鏡1・珠文鏡1・管玉102・棗玉1・勾玉3・小玉560・玉杖頭2があり、他に珠文鏡1・四獣文鏡1がある。さらに前記の古記録や、それをもとにした森本の報告によれば、鏡は総計27・銅鏃17・ 筒形銅器2・筒形石製品2・車輪石1・鉄刀・鉄剣・紡錘車2などがみえ、鏡の中には方格規矩四神鏡類や素文鏡・重圏文鏡の類などが見える。さらに近年発見された、江戸時代の古記録『万伝書覚帖』によれば、鏡は42面あったといい、玉類の中にも臼玉や切子玉がみえる。なお金環2が出土品中に含まれている古記録もあるが、おそらく他古墳の出土品の混入であろう。
築造年代の決め手を欠くが、4世紀末から5世紀初頭の年代が考えられる。
〔文献〕森本六爾『川柳村将軍塚古墳の研究』1929、岡書院、復刻版、 1978、信毎書籍出版センター。宮下健司「長野県川柳将軍塚古墳をめぐる古文献」信濃31-9、 1979。(『日本古墳大辞典』)

川柳将軍塚古墳を大彦の墓とする説については、志村裕子氏「大彦の墓」(『季刊邪馬台国』45号参照)

② 御墓山(みはかやま)古墳(三重県上野市)
御墓山古墳は三重県上野市佐那具字天王下の上野盆地北東隅、柘植川左岸平地に突き出た丘陵末端部に営造された前方後円墳である。前方部を北西方向に向けており、墳丘規模は主軸全長188m、後円部径110m、高さ14m、前方部幅80m、高さ10mと、三重県下最大の規模をもつ。墳丘には段築が見られ、墳丘くびれ部東側、後円部寄りには平坦な張出しがあって造出しと考えられる。墳丘全面には人頭大から拳大の葺石が覆い、円筒埴輪や形象埴輪の破片が散見される。後円部南側の墳丘周囲には弧状に周堀がめぐるが、前方部周囲には存在しない。周堀の囲繞はきわめて不定形である。後円部頂部には盗掘によるとみられる落ち込みがあるが、主体部の構造や副葬品については全く不明である。築造時期としては5世紀初頭が考えられる。なお、本古墳の東側に近接して一辺10mの方形の陪塚が2基ある。 1921年(大正10)国指定史跡。[文献]鈴木敏雄「史蹟御墓山古墳」三重県における主務大臣指定史蹟名勝天然紀念物1、 1936、三重県。(下村)(『日本古墳大辞典』)

御墓山古墳の近くに敢国(あえくに)神社(伊賀国一宮)がある。
これは、阿閉(あえ)氏と関係がある。
佐伯有清編『日本古代氏族事典』(雄山閣刊)には次のようにある。
「阿閉氏は大彦命後裔氏族の一つ。大彦命の子、彦背立大稲腰(ひこせたつおおいなこし)命を祖とする。伊賀国阿拝(あへ)郡(三重県阿山郡阿山町・伊賀町・島ヶ原村と上野市北部)を本拠とした地方豪族であるが、その一部は早くから中央豪族化した。・・・ 」

敢国神社については、(『伊賀国一宮敢国津社記』に次のようにある。
「当社の参道入口には南北に通じる県道が走り、それを南へ400メートルほど行った所に北寺田へ至る低い峠がある。その地点の道の東側を小字「大岩」と称し、かつては「大石(おおいわ)明神」と呼ばれる大岩(通称「黒岩」とも)があって弥勒(みろく)の像が刻まれていた(『三国地志』)。この大岩は明治の末から大正はじめにかけての採石によって消滅したが、『三国地志(誌)』の著者、上野城司の藤堂元甫(げんぽ)は、大石明神を昔の敢国神社の祭祀地ではないかと推測している。」

『日本の神々6』(白水社刊には次のよう書かれている。
「昭和6年の県道開削にともない、大岩池の西に通じていた古道に代わって池の東側に県道が通じ、池の東南に接していた大岩古墳が消滅した。内部構造は明らかでないが、須恵器・土師器の完形品が70~80個、破片だげでも12荷、ヒスイ勾玉2個、めのう勾玉数個、碧玉管玉1個が出土し(『史蹟御墓山古墳』)、またその工事に際して数個の祭祀用小形滑石製小形臼玉2個が出土した。前者は高坏3(高さ約6~9センチ、手捏(てごね)、2個に朱彩の痕がある)、盌(まり)3(手捏、4.5センチ前後、うち1個は楕円形を呈し捲上手法の痕をよく残す)、坩(かん)2個(小形丸底土器で高さ9センチ前後)であり、後者は径4ミリ・厚さ3ミリで坩のなかから出土したが、榊に掛けた臼玉が祭祀の終了後に土器の上に置かれ、やがて坩のなかに落ちたのであろう。したがって周辺の土を篩(ふる)えば、もっと多くの臼玉が発見されたのではないかと考えられる。」

③ 桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市)
塚口義信氏(日本古代史、堺女子短期大学大学学長教授)の説である。『季刊邪馬台国』108号、坂口義信『桜井茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者について』参照

また、志村裕子氏は、桜井茶臼山古墳の被葬者を崇神天皇の皇后で、大彦の命の娘の御間城(みまき)姫かとする。(『季刊邪馬台国』105号)

これらを考えると②御墓山古墳は造出しがあり、5世紀の可能性もある。③桜井茶臼山古墳は御間城姫の墓の方が妥当性と考えられ、その結果①川柳将軍塚古墳が有力となる。

 

(3)丹波の道主の命の墓
丹波の道主の命の系譜は下記となる。


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■丹波の道主の命の墓の比定地
地元で、丹波の道主の命の墓といわれているものに、つぎの三つがある。
神明山古墳、黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳、雲部(くもべ)車塚古墳。

① 神明山古墳
『日本の神々7山陰』(谷川健一編、白水社刊)の「竹野(たかの)神社」の項に、「神明山古墳について土地の人は、丹波道主(たにはちぬし)の命の墓とも竹野媛(たかのひめ)の墓ともいう。」とある。竹野媛は、竹野の里を国府としたという伝承をもつ丹波の大県主(おおあがたぬし)由碁理(ゆごり)の娘で、開化天皇の妃となったと『古事記』は記す。
神明山古墳は、京都府竹野郡丹後町字宮にある。日本海に注ぐ竹野川の河口に位置する。『日本書紀』の垂仁天皇十五年の二月の条に、つぎのような記事がある。
垂仁天皇は、日葉酢媛の命をはじめ、丹波の道主の命の五人の娘を、後宮にめしいれた。
ただ、そのうちの、竹野媛(たかのひめ)だけは、容貌がみにくかったので、「本土(もとのくに)」にかえした。
ところで、「竹野(たかの)」は、『和名抄』にもみえる丹後の国の郡名で、まさに、神明山古墳のあるところである。

第九代開化天皇の妃の一人も、丹波(なには)の竹野媛(たかのひめ)で同名である。それを参考にすれば、竹野は、地名とみてよさそうである。
神明山古墳は、前方部を北東に向け、全長190メートルの大型前方後円墳である。後円部径129メートル、高さ26メートル。前方部幅78メートル、高さ15メートル。円筒埴輪のほかに、家形埴輪・盾形埴輪・きぬがさ形埴輪などをもつ。後円部中央に散乱している板石の存在により、埋葬主体として、竪穴式石室の存在が考えられている。
日本海側では、同じ丹後地域の網野銚子山古墳とともに、一、二の規模を誇る。京都府の指定文化財となっている。

② 黒部銚子山(くろべちょうしやま)古墳
京都府竹野郡弥栄町字黒部小字弓木にある。竹野川に面する丘陵に築造されている。前方部を南東に向けた二段築成の前方後円墳で、全長100メートル。後円部径68メートル、高さ15メートル。前方部幅42メートル、高さ10メートル。外部施設は、埴輪・葺石が確認されているが、埋葬施設は明らかでない。丹後地域第五位の規模をもつ。京都府指定史跡。

③ 雲部(くもべ)車塚古墳
兵庫県多紀郡篠山(ささやま)町東本庄にある前方後円墳。(宮内庁の陵墓参考地に指定されている。宮内庁名・雲部陵墓参考地)全長140メートル。後円部径80メートル、高さ12.7メートル。前方部の長さ74メートル、幅89メートル、高さ5.8メートル。墳丘上に円筒埴輪片が散在する。1896年に、地元民によって発掘がされた。主体部が五枚の天井石をもつ竪穴式石室で、内部に組合式長持形石棺が安置されている。石室は後円部中心よりも、やや南側に位置しているため、もう一つの主体部の存在も推定されている。石棺内の副葬品は、未掘のため不明であるが、側壁と石棺の空間からは鉄刀・鉄剣・鉄矛・鉄鏃・小札鋲留衝角付胄・三角板変形衝角付胄・横矧板革綴短甲(よこはぎいたかわとじたんこう)・馬具類が出土している。副葬品のなかでは、全長2.09メートル弱のすべて鉄製の矛と、衝角部分が変形の胄が注目されている。五世紀代の築造と推定されている古墳である。(以上『日本古墳大辞典』による。)

1896年に発掘が行なわれ、そのさい考古学者の八十奘三郎(やぎそうざぶろう)氏らが、丹波の道主の命の墳墓と考えて、宮内省に陵墓として確認をもとめ、1900年に陵墓参考地となった経緯がある。
ちなみに、宮内庁が、天皇家にかかわる墳墓として管理しているのは、天皇陵・皇后陵・皇太后陵・皇子墓・皇女墓とともに、陵墓参考地・陪塚などである。
このうち、陵と墓とについては、皇室典範第二七条に規定されているが、陵墓参考地と陪塚については規定がない。皇室財産として管理されたという慣行があり、皇室財産法に法律上の根拠をもつ。
雲部車塚古墳は、もと、東本庄村共有の草刈り場で、洪水のための修復費用捻出のため、売却・開墾の危険性があったが、陵墓参考地に指定され、皇室財産として保護されることとなった。

 

■神明山古墳、黒部銚子山古墳、雲部車塚古墳の築造時期の推定
これら三つの古墳を、「前方後円墳築造時期推定図」のうえにプロットしてみると、下図 のようになる。

このような方法によるとき、バチ型前方後円墳は年代が新しく出がちになり、柄鏡型前方後円墳は年代が古くでがちになる。
(注:下図はクリックすると大きくなります)
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まず、「雲部車塚古墳」は、五世紀型古墳群に属し、問題外のようである。『日本古墳大辞典』にも、「五世紀代の築造と推定される」と記されている。竪穴式石室のあることなど、一部四世紀型古墳の特徴ももつが、古墳の型式、馬具類の出土していることなどから、やはり、五世紀代の古墳とみるべきであろう。また、場所も、兵庫県多紀郡篠山町で、丹波の道主の命がつかわされたとみられるところからややはなれるようである。

問題は、神明山古墳と黒部銚子山古墳である。この二つは、規模こそ違え、上図からうかがえるように、ほとんど相似形といってよい古墳である。また、崇神天皇陵古墳や、岡山県の中山茶臼山古墳とも、ほぼ相似形といってよい。
このことは、これらの古墳のあいだに、同時代性、あるいは、なんらかの関係があることをうかがわせる。
そして、崇神天皇は、丹波の道主の命に、四道将軍の一人になることを命じた人であり、中山茶白山古墳の被葬者と考えられる大吉備津彦の命は、丹波の道主の命と同じく、四道将軍の一人である。

黒部銚子山古墳の位置は、「青竜三年銘鏡」のでた大田南5号墳とも近い。
中古の郡家(こおりのみやけ)(郡役所)で、丹波の道主の命の故墟かとみられる峰山町の字丹波にも近いところからみて、黒部銚子山古墳が、丹波の道主の命の墓なのであろうか。
そして、神明山古墳のほうは、古い竹野郡にある竹野神社のそばにあるところからみて、ほぼ同時代の、開化天皇の妃となった竹野比売(たかのひめ)の墓であろうか。

『日本の神々7 山陰』の、「竹野神社」の項には、およそ、つぎのように記されている。
「(竹野神社は、)日子坐王(ひこいます)の命・建豊波豆良和気(たけとよはづらわけ)命・竹野媛命の三神を祀っている。(系図をみればわかるように、この三者ともに、崇神天皇のころの人である)。

地元の伝承なども、あるていど考慮するならば、たとえば、つぎのようなあてはめも考えられよう。
① 黒部銚子山古墳を、丹波の道主の命の墓と考える。
【理由】地元に、丹波の道主の命の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や、中山茶臼山古墳と、ほぼ相似形である。墳丘全長は100メートルで、大吉備津彦の命の墓と伝えられる中山茶臼山古賁(120メートル)に、規模が近い。丹波の道主の命の館跡と伝えられるところや、中古の丹波郡の郡家(こおりのみやけ)(郡役所)の近くである。

② 神明山古墳を竹野媛の墓と考える
【理由】地元に、竹野媛の墓とする伝承がある。崇神天皇陵古墳や黒部銚子山古墳などと、ほぼ相似形である。竹野郡の竹野川の河口に位置し、竹野神社のそばにある。「竹野媛」と地名とが合致する。竹野神社の祭神の一人が、竹野媛である。全長190メートで、規模が大きい。
竹野媛の父の大県主由碁理の本貫地(本籍地)は、この地(竹野村)とみられている。

③ 網野銚子山古墳を、阿邪美の伊理毘売の墓と考える。
【理由】「網野(あみの)」と「阿邪美(あざみ)の」とは、やや音が近い。「網野神社」の名は、『延喜式』にみえる。
この地に、「浅茂(あさも)川」が流れるが、「浅茂」も、「阿邪美の」に音が近い。ただし、網野神社の祭神は、彦坐(ひこいます)の命[日子坐の王(ひこいますのおおきみ)]である。『古事記』の崇神天皇記に、日子坐の王は、丹波の国につかわされ、玖賀耳(くがみみ)の御笠(みかさ)を殺したとある。なお、日子坐の命の墓は、『陵墓要覧』(宮内省、1915年刊)によれば、岐阜県稲葉郡岩村にある。
網野銚子山古墳は、全長198メートルて、日本海側第一位の規模をもつ。上図をみればわかるように、前方部が、日葉酢媛陵古墳よりは発達しているが、景行天皇陵古墳よりは、発達していない。おそらく、日葉酢媛陵古墳よりもあとでつくられ、景行天皇陵よりもまえにつくられたものであろう。とすれば、丹波の道主の娘で垂仁天皇の妃となり、皇子、皇女を生んだ人のうちで、もっとも年の若い人をあてるのが妥当か。
なお、神明山古墳は、葺石(ふきいし)と埴輪をもち、家形埴輪、盾形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪、円筒埴輪なが出土しているが、これらの形象埴輪は、丹波の道主の命の娘で、垂仁天皇の皇后となった 日葉酢媛の命の陵墓(奈良県奈良市山陵町にある)からも出土している。
古墳の造形といい、出土物といい、奈良の日葉酢媛陵古墳と、丹波の神明山古墳とが、同一の文化のもとに成立していることは、あきらかなようにみえる。
そして、ともに、天皇の后妃の墓という点でも、つながるようにもみえるのである。

 

(4)武渟川別の命の墓
武渟川別については、『古事記』の第八代孝元天皇の巻に、「大毘古の命の子の建沼河別(たけぬなかわわけ)の命は、阿部の臣等(おみら)の祖。」

『古事記』の崇神天皇紀は、また、つぎのように記す。
「(崇神天皇の時代に、)大毘古の命を、高志の道に遣わし、その子建沼河別の命は、東方の十二道に遺わして、したがわない人たちを平定させた。」
「大毘古の命は、(天皇の)ご命令のままに、高志の国に行った。そして、東方に遣わされた建沼河別とその父の大毘古の命とは、相津で行きあった。」
この相津は、のちの陸奥の国の会津郡(福島県南・北会津郡)の地とみられている。
この地には、「会津大塚山古墳」といわれる前方後円墳がある。会津大塚山古墳について、高橋崇氏の著『蝦夷』(中公新書)にのべられているところを、やや長くなるが、引用してみよう。

■東北最古の古墳
328-09 会津大塚山古墳は、現在確認されている東北最古のもので、福島県西部会津盆地の東南部の小独立丘陵頂上に造営された前方後円墳である(会津若松市)

この丘陵の標高は270メートル、周辺平地との比高30メートル、その頂上からは東西10キ ロ、南北30キロほどの盆地のすべてが目に入る。その最高所に、この古墳は後円部を置き、前方部は北方に張りだしている。主軸長90メート、前方部先端幅23メートル、前方部高さ3.5メートル、後円部直径45メートル、同高さ6メートル、というサイズで、後円部に比べ前方部の幅が狭い柄鏡(えかがみ)式前方後円墳で、葺石(ふきいし)や埴輪の存在などは確認されていない。
昭和39年(1964)に発掘調査が行なわれた。その結果、後円部の墳頂下、1.5~1.9メートルに主軸と直交する方向に割竹形木棺が二つ発見された。頭位は東であったとみられ、南棺(長さ8.4メートル、幅1.1メートル)、北棺(長さ6.5メートル、幅1メートル)と呼ばれることになる。南棺がより古く、副葬品は豊富で歯の一部分もあったというが、北棺はかなり散乱しており副葬品は数少なかった。副葬品には、東北地方では、はじめての出土品がいくつかあった。

もっとも注目されたものは、仿製(日本産)とみられる一面の三角縁神獣鏡(直径21.4センチ、縁の厚さ1.0センチ、重さ17.5グラム)であった。この鏡が注目された理由は、仿製鏡としては関東はもとより東北地方の出土であったからである。と同時に、この鏡と同じ鋳型から作られた同笵鏡が岡山県和気郡備前町の鶴山丸山古墳の出土品にも認められた。両鏡は傷跡まで一致するという。また鏡の唐草文にも特徴があり、同様の文様を有する鏡の存在が、畿内から西日本に分布していることから、会津大塚山古墳出土の鏡の製作地は畿内であるとする見方が支配的である。

次に注目されたのが素環頭大刀で、長さ1.2メートル、やや内反りの鉄刀である。これも東日本からは初出土とされ、こうした大刀は西日本に集中的にみられる。この大刀は、三角縁神獣鏡の上に重ねておかれていた。こうしたことから、この大刀と鏡とが、この古墳の被葬者にとって、極めて重要な意味をもつ副葬品、というより埋葬者生存中からの重要品であった、とみなすことができる。

その他、33個の銅鏃も分布の濃い西日本からもたらされたといわれ、この会津大塚山古墳の出土品の性格は、総じて古墳文化の中心地である畿内との関連が強いことが判明した。そして出土品や内部構造など古墳のもつ諸要素から考えて、この古墳の造営された年代は四世紀後半代と推定されている。
・・・・・『古事記』によると、崇神天皇の時代(絶対年代は不明)の、いわゆる『四道将軍』の派遣に関連して、高志(こし)道(北陸)へ向かった大毘古の命と、東方十二道(東海・東山)に行った建沼河別父子が落ち合ったところに『相津』、という地名が生じたという伝承がみえるからである。

■会津大塚山古墳と桜井茶臼山古墳
ここで、注目すべきなのは、会津若松市の会津大塚山古墳(全長90メートル)と、奈良県桜井市外山(とみやま)にある全国で第31位の大きさを誇る桜井茶臼山古墳(207メートル)とが、ほぼ相似形であることである。
桜井茶臼山古墳については、大塚初重他編『日本古墳大辞典』に、およそ、つぎのように記されている。
「丘陵端部に立地し、前方部を南に向けている。墳丘は三段築成で、典型的な丘尾切断形を呈し、周堀を有している。1949年~1950年に発掘調査が行なわれた。主軸全長207メートル、後円部径110メートル、前方部幅61メートルを測り、後円部は前方部より約5メートル高い。
葺石があり、後円部中央に墳丘主軸に平行して、扁平な割石を小口積みにした竪穴式石室が存在する。石室は内法長6.75メートル、幅1.1メートル前後、高さ1.6メートル前後の大きさで、床面は板石敷きの特異なものである。石室内からは内行花文鏡・神獣鏡・半円方格帯鏡などの鏡片若干、碧玉製の玉杖・玉葉3・五輪塔形石製品1・鍬形石片1・石釧(くしろ)片1・車輪石片2・異形石製品1組・用途不明石製品5・管玉6・硬玉製勾玉1・ガラス製管玉1・同玉類若干・鉄剣片3・鉄杖身5・鉄杖片1・刀子1・鉇(やりがんな)2・鐓(いしづき)形鉄製品1・鉄製利器1・用途不明鉄器1・同棒状品1・銅鏃2・鉄鏃多数などが出土した。神獣鏡片は、豊前赤塚古墳出土の天王日月四神四獣鏡と同笵鏡と考えられるものである。奈良盆地東南部の代表的な前期古墳の一つで、四世紀中葉ごろの 築造と考えられる。」

会津大塚山古墳も、桜井茶臼山古墳も、ともに、「柄鏡(えかがみ)式前方後円墳」である。柄鏡に形が似ているので、「柄鏡式」という。柄鏡は、室町以後江戸時代に普及した柄のついた円形の銅鏡である。
前方後円墳の形を、ごくごく大まかに、つぎの三つにわけることもできよう。
① 標準型前方後円墳
② 柄鏡式前方後円墳
③ 撥型(ばちがた)前方後円墳(前方部が、三味線の撥のように開いているもの)
  横軸に、(前方部幅/後円部径×100)をとり、縱軸に、(前方部幅/墳丘全長×100)をとって、上部最初の図の「前方後円墳の築造時期推定図」から、「柄鏡式前方後円墳」では、前方部の幅が大きくならない形式なので、「標準型前方後円墳」にくらべて、年代をやや古めに推定することになるようである。

会津大塚山古墳は、上部最初の図の「前方後円墳の築造時期推定図」では、崇神天皇陵古墳よりも、やや時代の古い場所に位置するが、会津大塚山古墳が四道将軍の大彦の命やその子の建沼河別の命、あるいは、その子孫の墓と関係するとすれば、崇神天皇陵古墳とほぼ同時期かそれよりむしろ新しい古墳とみるべきであろう。
とすれば、桜井茶臼山古墳の築造の時期も崇神天皇陵古墳の築造の時期と、それほど大きくは、へだたっていないであろう。

■阿倍氏の家系
氏族系譜研究家の宝賀寿男氏は、その編著『古代氏族系譜集成上巻』(古代氏族研究会刊)のなかで、およそ、つぎのようにのべている。
「阿倍氏族は、孝元天皇の皇子とする大彦の命から出ている。この氏族は、大和の国十市郡阿倍村(現、桜井市阿倍)より起り、同所の高屋阿部神社(今は桜井谷村の若桜神社境内に鎮座)を氏神としている。この氏族の分布は、四道将軍の伝承のある大彦の命、武渟川別の命父子の遠征経路とかなり良く一致している。大彦の命の遠征経路とみられる伊賀、近江、若狭、越前、加賀、越後を経て会津に至る路と、武渟川別の命の経路とみられる東海道の尾張、駿河から安房、上総、下総を経て那須から会津に至る路のそれぞれに阿倍氏族の分布がみられる。」

 

(5)四道将軍などの墓の寸法比較
四道将軍の墓は100メートルクラスである。それに対して、その頃の天皇の皇后クラスの墓は200メートルクラスである。また、その頃の天皇の墓はほぼ250メートルクラスである。
崇神天皇このころは中国では東晋(317年~420年)の時代である。晋尺は1尺=24~25cmとなるので、四道将軍の墓は晋尺で約400尺、皇后クラスの墓は約800尺であり、天皇の墓は約1000尺であると言える。

後の時代でも国造クラスは100メートルクラスである。

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『古事記』『日本書紀』に記されている場所に、四道将軍の墓があるのではないか。そして、それを裏付ける墓などが存在している。
また、箸墓古墳は桜井茶臼山古墳と垂仁天皇、景行天皇陵との中間形と言えるのではないか?



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