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第329回 邪馬台国の会
4世紀崇神天皇時代の諸古墳
4世紀垂仁天皇時代の諸古墳
鉛同位体比について


 

1.4世紀崇神天皇時代の諸古墳

前回は崇神天皇時代の四道将軍の墳墓についての話だったので、今回はその他の墳墓について説明する。

a.椿井大塚山古墳

京都府南部の、相楽(そうらく)郡山城町の椿井大塚山古墳から、方格規矩鏡1面、内行花文鏡2面、画文帯神獣鏡1面のほかに、32面にのぼる三角縁神獣鏡が出土している。この古墳は、副葬品の多かったことで著名である。
36面余の銅鏡のほか、素環頭大刀、鉄刀、鉄剣、鉄槍、銅鏃、鉄甲、刀子、鉄斧その他が出土した。

『古事記』『日本書紀』は、つぎのようなことを記している。
第十代崇神天皇のとき、山背(やましろ)の国(現京都府南部)にいた武埴安彦(たけはにやすひこ)[第八代孝元天皇の子]が、反乱をおこした。崇神天皇は、討伐のために和珥(わに)の臣(おみ)の遠祖、彦国葺(ひこくにふく)を遣わした。武埴安彦は、木津川で、彦国葺をまち、さえぎった。京都府相楽(そうらく)郡木津町のこととみられる。
両軍は川をはさんで対陣した。彦国葺は武埴安彦を射殺し、さらに、武埴安彦の軍兵を京都府相楽郡精華町の祝園(はふりその)で、斬り葬った。
逃げることのできなかった軍兵は、京都府綴喜(つづき)郡田辺町河原[迦和羅(かわら)]付近で降伏した。大阪府枚方市楠葉(くすば)で、屎(くそ)を褌(はかま)におとして、怖(お)じ、にげた話ものっている。

椿井大塚山古墳は、全長約190メートルで、山城の国最大の古墳である。当時の天皇の后妃陵(平均約200メートル)なみの大きさである。
京都大学の考古学者、小林行雄氏は、大塚山古墳と武埴安彦との関係について、つぎのようにのべている。
「山城大塚山古墳の被葬者は、あるいは武埴安彦のように、大和の最高統治者の地位を争う資格のあったほどの人であったかも知れない。あるいはまた山背(やましろ)の大国不遅(おおくにふち)[「垂仁紀」34年)のような重々しい名を負うた外戚の一人であったかも知れない。それはなお明らかにすべくもないことであるが、この一族が全国的な(三角縁神獣鏡の)同笵鏡の分配にはたした重要な役割は、かならずや大和政権の統治力の伸長に役立つものであったろう。初期の大和政権の構成に、南山城のこのような一勢力が、かくも大きな比率を占めて加わっていたことは、従来の政治史的考察の上にはあまり考えられていなかったことではあるまいか。初期の大和政権の構成の問題もまた、これらの面からさらに考えて見る必要があろう。」(「古墳発生の歴史的意義」『論集日本文化の起源1 考古学』所収 平凡社)

邪馬台国大和説の立場にたつ徳島文理大学教授の、石野博信氏は、つぎのようにのべる。
「前方後円墳の中で有名な京都の椿井大塚山古墳では、三角縁神獣鏡を三十数面持っている。これは、大和政権が服属の証(あか)しに政権側から各地域の王に渡したが、その渡す役割をやった人の古墳だといわれている。この古墳は非常に古いといわれているが、ここからは土器が出ていて、土器からすると、どう見ても四世紀の中ごろから四世紀後半ぐらいのものではないかと思われる。
三角縁神獣鏡は女王卑弥呼がもらった鏡で、それを隠しておいて、ある時期になってからお墓に入れるようになったという三角縁神獣鏡の伝世論というのがあるが、そういう難しいことを考えなくても、素直に、この鏡は新しくて、その中枢を握ったといわれている椿井大塚山古墳も、土器が示すように新しい時代であると考えることができる。
そのように考えると、椿井大塚山古墳の三角縁神獣鏡と同じ型でつくった鏡を、Aの古墳からB、C、Dなどの古墳まで、それぞれ分有していることは事実だと思うが、そういう事実ができあがった段階は四世紀中葉であると考えると、前方後円墳が、東北から九州まで全国的に広まった段階と一致してくるのではないか」(『邪馬台国研究』朝日新聞社、1996年刊)

・椿井大塚山古墳は武埴安彦の墓と考えるのが妥当であろう。考古学から椿井大塚山古墳が四世紀の古墳となり、記紀の武埴安彦と崇神天皇の記述から崇神天皇は四世紀の時代と考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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b.東大寺山古墳

武埴安彦(たけはにやすひこ)の反乱を平定した彦国葺(ひこくにふく)の墓について考えてみよう。彦国葺は、和珥の臣(わにのおみ)の遠祖である。

和珥氏(丸邇氏とも書く)は、第五代孝昭天皇の皇子、天押帯日子(あめおしたらしひこ)の命[天足彦国押人(あめたらしひこくにおしひと)の命]を祖先とする氏族である。奈良県天理市檪本(いちのもと)町和爾(わに)の地を本拠としていた。
和爾の地には、式内社和爾下(わにした)神社(和爾下古墳がある)があり、その東側に、東大寺山古墳がある。
東大寺山古墳は、1961年~1966年に発掘調査が行なわれた。主軸全長140メートル、後円部径84メートル、前方部幅50メートル前後。

四道将軍の墓の大きさ(平均約100メートル、最大120メートル)をこえる。

『日本古墳大辞典』は、つぎのように記す。
「1961年春に大規模な盗掘によって碧玉製鍬形石19・同車輪石15・同石釧(くしろ)2・同鏃形石製品10・滑石製台付坩(るつぼ)形石製品1・同坩形石製品5とそれらの破片が掘り出され、この盗掘を契機に発掘調査が実施された。調査時には棺床の朱の上から硬玉製勾玉5・同棗玉(なつめだま)3・碧玉製管玉(くだたま)30からなる一連の装身具と鍬形石・車輪石・坩形石製品各1が、攪乱された粘土中から多数の硬玉製勾玉・碧玉製管玉・同鍬形石・同車輪石・同筒形石製品・同鍬形石製品・滑石製坩形石製品が出土している。これらの石製品類はすべて棺内遺物と考えられ、鍬形石は27、車輪石は26、坩形石製品は12、鏃形石製品は40余を数える。
また、棺外遺物として銅鏃260余・鉄鏃多数・鉄刀20・鉄剣9・鉄槍10・巴形銅器7・碧玉製鍬形石製品3・竪矧(たてはぎ)式漆塗革製短甲2・同草摺1が出土。鉄刀のなかには環体に鳥首形や家形をつけた銅製三葉環頭5と素環頭6があり、三葉環頭を装着した一振の刀背には、後漢末の中平(184~188年)の年号で始まる銘文が金像嵌されている。多数の石製品類や優秀な武器武具類をもち、奈良盆地東辺の古墳群中で数少ない内容の明らかな前期古墳の一つとして重要である。四世紀中葉から後半頃の築造と考えられる。」

・東大寺山古墳は和珥氏の祖先の彦国葺の墓と考えてもよいのではないか。『日本古墳大辞典』から四世紀の墓とされている。同じように崇神天皇の時代が四世紀と考えられる。


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c.黒塚古墳

大和古墳群に含まれる古墳の一つで,奈良県天理市柳本町字クロツカにある。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mの西面する前方後円墳である。
竪穴式石室は下部を川原石、上部を大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石小口積みで構築し、内法長さ約8.3m、北端幅約1.3m、南端幅約0.9m、高さ1.7mを測る。

入念にベンガラを塗布した粘土棺床をしつらえ、クワ属の巨木を使用した長さ6.2m、最大径1m以上の割竹形木棺を安置する。棺内は中央部の長さ2.8m分のみを刳(えぐ)り抜き、前後の部分は刳りを残していたと考えられる。

副葬品は画文帯神獣鏡1・三角縁神獣鏡33、鉄刀・鉄剣・鉄槍25以上、鉄鏃170以上・刀子状鉄製品1・鉄小札600以上・棒状鉄製品9・U字形鉄製品1組・Y字形鉄製品2・鉄斧8・やりがんな・漆膜(盾?)・土師器など豊富である。棺内副葬品は画文帯神獣鏡・鉄刀・鉄剣・刀子状鉄製品各1のみで、その他はすべて棺外副葬品である。三角縁神獣鏡はいずれも木棺側に鏡面を向け、西棺側に17、東棺側に15、棺北小口に1を、棺の北半部をコの字形に取り囲んで配列していた。
京都府山城町椿井大塚山古墳出土鏡との間に10種の同范(型)鏡を分有する。

奈良大学の考古学者、水野正好氏は、黒塚古墳のすぐ南西、JR柳本駅に接して、「大海(おおかい)」という地名のあることから、黒塚古墳の被葬者の候補として、崇神天皇の妃の、大海媛(おおしあまひめ)とその子の八坂入彦(やさかいりびこ)の命、大入杵(おほいりき)の命などの名をあげる(『サンデー毎日』臨時増刊1998年3月4日号)

崇神天皇の時代をやや下るという意味で、時代的には、大略合致しているといえるだろう。大海媛の子の渟名城入姫(ぬなきいりびめ)の命も、候補のなかにいれられるかもしれない。『日本書紀』によれば、渟名城入姫の命は、日本(やまと)の大国魂(おほくにたま)の神を、穴磯(あなし)[穴師兵主(あなしひょうず)神社のあるところ]や、大市(おほち)[箸墓のあるところ]にまつったという。

・黒塚古墳は系図からも崇神天皇妃の尾張大海媛(おはりのおおしあまひめ)か、その子の墓と考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)


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2.4世紀垂仁天皇時代の諸古墳

■日葉酢媛(ひばすひめ)[比婆須比売]の陵

『古事記』に、こんな話がのっている。第十一代、垂仁天皇の時代の話である。
皇后の沙本姫(さほひめ)は、兄の沙本彦(さほひこ)にそそのかさて、反乱をくわだてる。垂仁天皇が、皇后の膝を枕にして寝ているときに、皇后の沙本姫は、天皇の首に小刀(ナイフ)をふりおろそうとする。しかし、心やさしい沙本姫にはそれができない。目ざめた垂仁天皇に問いただされて、沙本姫は、反乱の計画を白状する。天皇は、ため息をつくが、沙本彦討伐のための軍隊をさしむける。ところが、やさしい沙本姫は、兄の沙本彦を見捨てることもできない。沙本姫は、宮殿からぬけだし、兄の沙本彦のところへ逃げこんでしまう。
天皇は、沙本彦も、沙本姫も、ともに反乱者として、討ちはたさなければならない。しかし、天皇は沙本姫を深く愛していた。沙本姫をとりもどそうと必死の努力をするが、ついに失敗する。沙本彦と沙本姫のこもっている城に、火をかけるまえに、天皇は、沙本姫に最後のといかけをする。「お前が、かわいく結んでくれた下紐は、だれに解かしたらよいだろうか」もはや、お前を失わなければならないのなら、お前の推薦してくれた女性に、お前の役をしてもらおう、というのである。滅んでゆく沙本姫への思いやりである。
沙本姫は、自分の姪の二人の女性を推薦する。

日葉酢媛の墳墓は垂仁天皇陵の北にあり、成務天皇陵古墳の近くである。
(下図はクリックすると大きくなります)

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日葉酢媛の墳墓は大正年間に大規模な盗掘にあう。
『大阪朝日新聞』1917年(大正6年)3月8日(木)の記事から、
・皇陵発掘の陰謀団
「垂仁天皇皇后陵および応神天皇皇子大山守(おおやまもり)の命の御墓を訐発(かんぱつ)す。[「訐」は、あばくこと]
大正5年(1916年)6月奈良県下において、おそれ多くも、皇陵を発掘して埋蔵品を獲得せんとしたる暴逆不軌の賊現われ、ただちに逮捕せられたるも、事態すこぶる重大なるより、これを詳道(しょうどう)するの自由を有せず。今日においてようやくその機を得たれば、当時の事情を縷述(るじゅ)して、読者とともに逆賊輩の所業を憎まん。
訐発されたるは、奈良県生駒郡平城(へいじょう)村字山陵(みささぎ)垂仁天皇皇后日葉酢媛の「狭木(さき)の寺間(てらま)の陵(みささぎ)」および応神天皇皇子大山守の命那羅山(ならやま)御墓なり。垂仁皇后陵は前方後円式にして、南面し、後円の絶山顛(ぜつさんてん)に石棺を奉埋(ほうまい)せり。・・・・・」

その結果、いろいろ発掘されるが、また埋め戻された。

その中で、直弧文縁変形内行花文鏡と流雲文縁変形方格規矩四神鏡が出土した。

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また、車輪石(腕飾りの一種)、管玉(短い棒状のもの。竹管状の玉。多数連ねて装身具とする)と石釧[いしくしろ](輪の形のもの。腕輪)、鍬形石(腕輪の一種)などもあった。

日葉酢媛の墓のとなりに称徳天皇陵古墳があるが、円筒埴輪Ⅱ式が出土している。称徳天皇は8世紀の天皇で、宮内庁では称徳天皇陵としているが時代があわない。
(下図はクリックすると大きくなります)

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■前方後円墳築造年代推定
崇神・垂仁天皇時代の陵について、古墳の分類図から下記に示す。
崇神天皇時代の東大寺山古墳、黒塚古墳は古墳分類図から、4世紀中ごろまでの古墳群の中に入る。椿井大塚山古墳は垂仁天皇陵に近くなる。

垂仁天皇時代の日葉酢媛陵は崇神天皇陵に近くなる。

まとめれば、これらの陵は4世紀中~後半の中に入る。


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3.鉛同位体比について

銅の生産地や青銅器の製作年代を、あるていど知ることができる研究に、銅の中に含まれている鉛についての研究がある。
鉛には、質量の異なるものがある。鉛は、四つの、質量の違う原子の混合物であり、その混合比率(同位体比)が産出地によって異なる。鉛には、質量数が、204、206、207、208のものかある。つまり、四つの同位体(同し元素に属する原子で、質量の違うもの)がある。鉱床の生成の時期によって、鉛の同位体の混合比率が異なる。いわば、黒、白、赤、青の四種の球があって、その混合比率が、産出地によって異なるようなものである。

■日本出土青銅器の鉛同位体比分布について下記の考え方がある。

(1)銅鐸の銅原料は、ほぼすべて、中国から来たとみられる。

(2)出雲系(大国主の命系?)銅鐸と、北九州系(饒速日の命系?)銅鐸とでは、銅原料にやや違いがみられる。

(3)出雲系銅鐸の銅原料は、中国古代殷代の銅に貨泉などのまじったものか。

(4)北九州系銅鐸の銅原料は、おもに貨泉を溶かしてまぜあわせたものか。

グラフの分析について
直線L:雲南省銅あるいは中国古代青銅器銅
領域A:華北の鉛(前漢鏡、弥生式小形仿製鏡、銅鐸)
領域B:華中・華南の鉛(神獣鏡、画像鏡、古墳時代出土仿製鏡) 329-09

細形銅剣は直線L上にある。

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細形銅矛、細形銅戈、多鈕細文鏡(日本で最初に現れる鏡)は直線L上にある。329-11


初期銅鐸は直線L上にある。

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この直線Lの青銅器について、昔は朝鮮半島産の銅だとされていたが、朝鮮半島の鉛鉱石の鉛同位体比は直線Lの上に乗らない。

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■直線Lの青銅器について、新井宏氏は、つぎのように述べる。
燕国将軍・楽毅が斉から奪った宝物類が原料。 (このような現象が起きたのは、)おそらく中国の中原地方などで宝物類として伝世された青銅器が、なんらかの理由で再溶解された状況を想定するのが、最も理解しやすい。
貴重な青銅器なら五百年以上伝世された可能性が十分にあるのは、奈良時代の青銅器が多数残っているのをみればよくわかる。
そのように考えると、その入手時期として最も可能性の高いのは、『史記』が伝える燕の昭王28年(前284年)の斉・臨澑(りんし)[蕾]の攻撃である。これは燕が楚と三晋(さんしん)[晋の後継者とみられる戦国時代の趙、魏、韓の国]と秦と連衡し、一時的に都臨澑を陥落させた事件であるが、その際に伝世の宝物類を戦利品等として入手している。
『史記』はその『楽毅列伝』において、燕国の将軍・楽毅が斉の首都臨澑を陥(お)とし、斉の宝物類を根こそぎ奪って昭王のもとに送り届けたことを『楽毅攻入臨蕾 尽取斉 宝財物祭器輸之燕(楽毅は臨澑に攻めいり、斉の宝財物をことごとく取って、これを燕にはこんだ)』と伝えている。また同じく『史記』の『田敬仰完世家』も、莒(きょ)に逃れた斉の湣王(びんおう)を救援にきた楚の淖歯(とうし)が、逆に湣王を殺した際に、燕の将(楽毅と宝物を山分けにしたことも伝えている。おそらく、その前々年(前286年)に斉は安徽省・河南省にあった宋を滅ぼし併合しているので、そのときの戦利品もそこには含まれていたに違いない。

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このような理解は、全体的にみて、整合的であり、無理がない。すなわち、貴重な伝世の青銅器の入手であるなら、この昭王の時以外を想定することは困難である、逆にいえば、商周期の鉛同位体比をもつ青銅器が、五百年以上もたってから燕や朝鮮半島、日本に現れた現象を説明できる仮説は、現在のところ上記の想定以外には全く見出すことが困難なのである。

殷代青銅器資料が分布する鉛同位体比領域は直線L上にある。329-13

三星堆出土青銅器の鉛同位体比は直線Lの上に乗る。燕が滅ぶのは紀元前222年で、楚が滅ぶのは紀元前223年であり、1年くらいの差である。そこで、燕の青銅器材料が日本に来たのならば、楚が滅んだことにより、三星堆出土青銅器が揚子江を渡って日本まで来たという仮説も考えられる。しかし、直線Lにのる多鈕彩細文鏡は燕から遼東半島、満州、朝鮮、日本と分布して出土する。このことから考えて、三星堆出土青銅器の可能性は低いと思われる。

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■北九州と畿内の青銅器材料の共通性
前漢と後漢の間の新の時代に発行された貨泉の鉛同位体比は前漢鏡と同じ領域となる。
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前漢鏡の鉛同位体比は貨泉と同じ分布となる。329-19

北九州から出土する 小形仿製鏡Ⅱ型(箱式石棺とからの出土が多い)と、畿内を中心として広い範囲から出土する三角縁神獣鏡の鉛同位体比について、小形仿製鏡Ⅱ型は「昭明」「日光」「清伯」「日有喜」鏡主要分布の狭い範囲(たまご型)に集中し、三角縁神獣鏡もその下の比較的狭い範囲に集中する。

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上図の拡大図

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画文帯神獣鏡の鉛同位体比は三角縁神獣鏡と同じ分布の範囲となる。
画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も古墳時代であり、同じ原材料となる。329-22

北九州から中心に出土する西晋時代のいわゆる「魏晋鏡」の鉛同位体比について、位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、蝙蝠鈕座内行花文鏡、變鳳(きほう)鏡のいわゆる「魏晋鏡」は三角縁神獣鏡と同じ分布となる。
いわゆる「魏晋鏡」は北九州から出てくるが、三角縁神獣鏡と同じとなる。
これは、中国の北の方の国であった魏では銅が枯渇していたが、280年に呉が滅ぶので、中国の南方の銅が入って来るようになる。そのため「魏晋鏡」に中国南方の銅(上図の浙江省産鉛鉱石を参照)が使われたと考えられる。
いわゆる「魏晋鏡」と画文帯神獣鏡は左下に少しはみ出る。329-23

たまご型の領域は「昭明」「日光」「清伯」「日有喜」鏡などの前漢鏡、貨泉、雲雷文「長宜子孫」銘内向花文鏡が分布する。そしてグループB[注:領域Bとは別]は、たまご型の領域から更に狭い領域で、小形仿製鏡Ⅱ型、広型銅矛・戈、近畿・三遠式銅鐸、小銅鐸が分布する。
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拡大図でグループBの狭い領域の小形仿製鏡Ⅱ型、広型銅矛・戈、近畿・三遠式銅鐸、小銅鐸の鉛同位体比の分布をみる。

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国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者の故佐原真は、その著『祭りのカネ銅鐸』(講談社、1996年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「銅鐸のうち、新段階の三遠式・近畿式銅鐸や、日本製の小形鏡(小形仿製鏡Ⅱ型)の大多数などの鉛同位体比は、ひじょうにせまい範囲にまとまっており、『まったく等しい』といってよいほどなので、同一の鉱山の鉛か、あるいは銅・錫・鉛を溶かして作った、同一の地金を使った可能性が大きい。」

しかしこれらの青銅器は日本製と思われ、同じ鉱山とは考えられない。存在した青銅器を集めて溶かしたため、同位体比が狭い範囲なったのではないか。

小形仿製鏡Ⅱ型、広型銅矛、広型銅戈は北九州から出土し、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸は近畿から静岡県の範囲で出土する。しかし同じ原材料が使われているということは、近畿式銅鐸、三遠式銅鐸の原材料は九州からもたらされたと考えられるのではないか。


■出雲系の青銅器の鉛同位体比
荒神谷遺跡の中細型銅剣は直線Lの上に乗っているようで、領域Y(グループB)を中心として集中しているように見える。しかし領域Y(グループB)から大きくはみ出している。329-26

外縁付鈕式1式銅鐸は直線Lの上に乗り、 外縁付鈕式2式銅鐸は領域Aの方に移っている。これは古い銅鐸は細形銅剣と同じ鉛同位体比であり、少し新しくなった銅鐸は貨泉や、前漢鏡と同じ鉛同位体比に移ったように見える。
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更に新しくなった扁平鈕式銅鐸の鉛同位体比は、たまご型の領域に集まる傾向がある。 出雲系の青銅器は最初直線Lの上にあり、その後、グラフの上の方に移動して領域Aの範囲になり、更に、領域Y(グループB)の範囲にまとまるように移動して行くように見える。しかし、近畿式・三遠式銅鐸までは狭い範囲にはならない。
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■加茂岩倉遺跡出土銅鐸入れ子関係(入れている銅鐸とはいっている銅鐸)
加茂岩倉遺跡出土銅鐸は埋めるとき、大きい銅鐸の入っているのは外縁付鈕1式で、入れているものは外縁付鈕2式か扁平鈕式である。
このように入れ子となっている銅鐸は年代が違う。しかし埋めた年代は同じである。それではどのくらいの間、使われたのであろうか。洛陽焼溝漢墓の例からの昭明鏡でも300年位、使われている。
銅鐸も同じように200年~300年は使われていたのではないか。329-29

 

■以上まとめると、古い順に記せば、
①北九州から出雲へ
・長宜子孫銘内向花文鏡など→外縁鈕2式銅鐸、扁平鈕式銅鐸
②北九州から近畿、中部へ
・小形仿製鏡Ⅱ型、広型銅矛、広型銅戈→近畿銅鐸、三遠式銅鐸
③北九州から近畿、その他へ
・位至三公鏡などいわゆる「魏晋鏡」→画文帯神獣鏡など

となり、北九州から20~30年遅れて近畿や出雲やその他にもたらされたと考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)

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