『景行天皇と日本武尊―列島を制覇した大王』(原書房・2015)の本は、河村哲夫と 志村裕子の著者である。
今日は河村が書いた部分の景行天皇とヤマトタケルの九州について述べたい。
1.1 歴史家の本から
景行天皇の九州遠征として、上田正昭氏の『私の日本古代史(上) 天皇とは何ものか――縄文から倭の五王まで』(新潮社・2012)に掲載された地図がある。
・この本は『日本書紀』・『風土記』の記述と違っている。
この本では景行天皇の九州遠征が八女で終わっている。しかし『日本書紀』では岩瀬川・夷守(宮崎県小林市)まで行っている。
『風土記』では五島列島・平戸・唐津などへも遠征している。更に「高羅の行宮」を拠点に肥前(佐賀県)地方を細かく巡幸し、日田を経由している。
・現地調査が行われていない
子湯(宮崎県)から熊(熊本県人吉市)へまっすぐ西に進むことは不可能である。険しい九州山地が屹立しており、椎葉村、五家荘を横断して人吉に進めるはずがない。このコースは不可能。『日本書紀』のコースとも違っている。
各地域の伝承がまったく調査されていない。
このように、歴史家が書いた本でも、問題がある。
1.2 現在の学界においては、「非実在説」が多数
(1)岩波『日本史辞典』では下記のように書かれている。
景行天皇:記紀系譜上の第12代の天皇。
名は大足彦(オオタラシヒコ)尊。父は垂仁天皇。成務天皇・日本武尊の父。宮は纒向日代(まきむくのひしろ)宮から志賀高穴穂宮に移る。日本武尊を派遣して倭国の支配領域を九州・東国に拡大した天皇として知られているが、実在が疑われている。
このように景行天皇の存在が疑われている。
(2)非実在説の性格
①敗戦後の主流
戦後の潮流のなかで、日本の歴史――とりわけ古代史の破壊行為が行われた。その代表が「欠史8代」――すなわち、初期天皇抹殺論である。
②特定のイデオロギーにより机上でつくられた
唯物史観史学はもとより、民主主義論者を含め、時代の潮流のなかで、初期天皇非実在説が唱えられた。
③学界の重鎮が旗を振る
上田正昭氏や直木孝次郎氏など、京都学派が戦後の古代史界をリードし、現在では重鎮として君臨している。
(3)景行天皇「非実在説」の根拠
①景行天皇の九州巡幸記事は『日本書紀』には記載されているが、『古事記』にはまったく記載されていない。
②『日本書紀』の記事は、天皇制度を正当化するための虚構の物語であり、歴史を反映したものではない。「タラシヒコ」という称号は12代景行天皇・13代成務天皇・14代仲哀天皇の3天皇が持ち、時代が下って7世紀前半に在位したことが確実な34代舒明天皇・35代皇極天皇(37代斉明)の両天皇も同じ称号をもつことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであり、12,13,14代の称号は後世の造作であり、景行天皇の実在性には疑問がある。
(4)記紀の記事は多くが日本武尊の物語で占められ、残るのは帝紀部分のみになり史実性には疑いがある。
・このため、九州・西日本地域に残されたおびただしい景行天皇伝承および中部・関東・東北方面に残されたヤマトタケル伝承が学問的研究の対象から除外、もしくは無視された状態となっている。
1.3 『景行天皇と日本武尊―列島を制覇した大王』に掲載された巡幸地図は下記となる。
1.4 景行天皇とヤマトタケル伝承の探究の効果
(1)伝承も貴重な情報源である
日本各地に残された膨大な伝承は、『日本書紀』『古事記』「風土記」などを、見事に補完している。
(2)初期天皇は実在した
全国各地の伝承は、『日本書紀』『古事記』「風土記」に登場する初期天皇や豪族の実在を前提にしており、実在しないとする伝承は一件も見当たらない。
大和朝廷から命令を受けてこしらえたとする伝承もまったく存在しない。
各地域が相互に連絡を取り合って虚構の伝承をこしらえたとする伝承もまったく見当たらない。
(3)4世紀後半の古代史
「景行天皇とヤマトタケル」の実像に迫ることによって、4世紀後半の古代史に迫ることが可能となる。
1.5 『日本書紀』による景行天皇の時代
(1)生没年:垂仁天皇17年(紀元前13年)~紀元後130年(享年143)
この143歳はありえないし、年代が古すぎる。
(2)在位期間:紀元後71年~130年(60年間在位)
これも長すぎる。
1.6 安本美典先生の「統計的年代論」
・『日本書紀』は年代を誤っているのではないか。
・神武天皇が紀元前660年に即位されたとする記事がその代表例。
その当時は、いまだ縄文時代で、中央集権的な国家をつくれる段階には到達していない。
・天皇の在位年代は、適正に合理的に補正して用いる必要がある。
・統計的に処理した年代論によれば、下記となる。
これからみると、景行天皇の活躍年代は、おおよそ370~385年となる。
4世紀後半の人物である。
1.7 景行天皇の九州遠征
(1)景行天皇12年
・熊襲が背いたので、これを征伐すべく、8月天皇自ら西下。周防国の娑麼(さば、山口県防府市)から豊前(行橋市)に渡り、行宮(かりみや)を設ける。神夏磯媛(かむなつそひめ)から賊の情報を得て誅殺。碩田(おおきた、大分市)からで土蜘蛛を誅して、日向国に入る。熊襲梟帥(くまそたける)をその娘に殺させ、熊襲を平定した。日向高屋宮に留まること6年。
(2)『日本書紀』の記事
ここで、終わりのほうに豊前国の京都(みやこ)郡のことがでてくる。
(3)邪馬台国時代の「トヨ」
①豊の国の中心地は京都郡であった
安本美典氏は、「京都という地名は、景行天皇の時代よりも、もっと早くからあったとみてよいであろう。とすれば、この地が極めて古い時代に、ほんとうの都であった可能性もでてくる」とし、「卑弥呼=天照大神」で、「台与=万幡豊秋津師比売(よろずはた・とよあきづしひめ)」とする。
卑弥呼=天照大神の死後、邪馬台国の中心地は、北部九州・筑後川流域から東方の豊国に移り、京都郡が都とされ、その次の代にさらに南下して日向に都を移したとする。
②江戸時代の多田義俊の説――京都郡は天照大神の都であった
「『豊前国風土記に言う。『宮処(みやこ)の郡、古(いにしへ)、天孫(あまみま)、此(ここ)より発ちて、日向の旧都に天降りましき。けだし、天照大神の神京(みやこ)なり』」(『中臣祓気吹鈔』1733)――ただし、偽作とする説強し。
③『魏志倭人伝』の「投馬国」を「豊国」とみる説あり
(一)説「投馬」は「東」の意味である
安本美典氏は「『太平御覧』には「於投馬(アツマ)国」と記されている。遠賀川流域から豊前国一帯の地をさす」とする。
(二)説「投馬」は「投与」=「豊」のことである
天雲伝氏は「『馬』の崩し字が『与』に似ていたので『投馬国』に誤られた」とする。
1.8 京都郡の伝承
(1)神夏磯姫
豊前では貫川流域を拠点とする女性首長の神夏磯姫(かむなつそひめ)を服属させた。
注:夏磯=貫[貫川(ぬきがわ)]ではないか
(2)長峡(ながお)宮
長峡川流域の長峡宮(行橋市長尾)を拠点にした。
注:長峡宮が京都郡のおこり
注:御所ヶ谷とする説もあり。
(3)御所ヶ谷神籠石(国指定遺跡) 福岡県行橋市大字津積・京都郡みやこ町勝山大久保・犀川木山
①年代推定及び築造目的
発掘調査で出土した土器などから7世紀の後半に築かれたと推定されている。663年、白村江の戦いの後に整備された大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制の強化を行った。この一環として、御所ヶ谷神籠石も築かれたとみなされている。
②構造
標高246.9mのホトギ山から西に伸びる尾根の主に北斜面に広がる。城の外周は3㎞で、2㎞以上にわたって版築工法で土をつき固めて築いた高さ3~5mの土塁をめぐらせている。谷を渡る石塁には排水口が造られている。7つある城門のうち中門には、花崗岩の切石を巧みに積み上げて排水口を設けた巨大な石塁が残っている。また、城内には建物の礎石や貯水池らしき遺構、未完成の土塁などもある。
(4)高羽の川(彦山川)上流の「麻剥(あさはぎ)」
①高羽
田川(田川市郡)のことである。田河とも書かれ、『和名抄』では多加波と書かれる。
②高羽の川
彦山川のこと。田川郡添田町から直方市に流れる一級河川で、直方で遠賀川と合流する。
③麻剥
麻剥という名からして、麻の皮を剥いだ衣を身にまとう風習をもった部族であったかもしれない。『魏志倭人伝』にも、「紵麻(ちょま)を植え、細紵(さいちょ)つくる」とあり、邪馬台国時代の倭人が麻の繊維を利用して糸をつむぎ、布を織っていたことが記されている。
(5)緑野の川(深倉川・緑川)上流の「土折猪折(つちおりいおり)」
①緑野の川上
・彦山川上流には支流の深倉川があり、田川郡添田町落合には深倉峡とよばれる渓谷がある。そのあたりを流れる深倉川は緑川ともよばれるが、それは土蜘蛛の麻剥が景行天皇に討伐された際、この川が血みどろになり、このため「血みどろ川」とよばれ、それがなまって「緑川」になったという伝承が残されている。
②土折猪折
一般的には「土折」とは「土に居り」という意味で、土の上に直接座っているさまをあらわし、「猪折」とは、やはり座っているさまをあらわすとされている。土に座る者への蔑称であろう。山奥の洞窟にでも住んでいたのであろうか。
(6)御木の川(山国川)上流の「耳垂」
①御木
・「御木」とは、上毛郡と下毛郡のことをさす。そこを流れる最も大きな川は山国川で、古くは「御木(みけ)川」とよばれ、「毛国(けのくに)」あるいは「木国(きのくに)」とよばれていた。
②耳垂(みみたり)
・『魏志倭人伝』には「投馬国」の官職として「弥弥(耳)」と「弥弥那利(耳成あるいは耳垂)」が記されており、『古事記』上巻にも「天の忍穂耳(おしほみみ)」「須賀の八耳(やつみみ)」「布帝耳(ふてみみ)」と記されている。
・これからみると、「耳」は邪馬台国時代の官職名に由来するもので、それが人名のなかに継承されものと考えられる。
(7)宇佐の川(駅館川)上流の「鼻垂(はなたり)」
①宗像三女神の故地
・『日本書紀』巻一に、宗像三女神の記事に関する伝承として、「日神(天照大神)が生まれた三柱の女神を葦原中国(あしはらのなかつくに)の宇佐嶋に降らせられたが、いまは海北道中(うみのきたのみちのなか)(朝鮮への航路)の中においでになる。名づけて道主貴(ちぬしのむち)という」とある。
・宗像三女神とは、田心姫、湍津姫、市杵島姫のことである。『古事記』によると、天照大神と素戔鳴命(すさのおのみこと)との誓約によって生まれた神。
『日本書紀』には、「これすなわち胸形の君らがいつき祭る神なり」、つまり、「宗像の君らの氏神である」と書かれている。
②宇佐氏
兄の五瀬命らと船で日向を出発した磐余彦(神武天皇)は、筑紫国宇佐に至り、宇佐津彦、宇佐津姫の宮に招かれて、宇佐津姫を侍臣の天種子命と娶せた。
天種子命は天児屋命(あめのこやねのみこと)の孫で、中臣氏の遠祖。
③鼻垂
妻垣八幡宮などの社伝をはじめ、鼻垂が安心院を拠点にしていたという伝承が残されている。
④宇佐一族との関連
・景行天皇の西征に際して宇佐国の末裔である宇佐一族は非協力的な態度を取り、そのために鼻垂という蔑称で記録にとどめられてしまったのかもしれない。
1.9 筑前における景行天皇伝承
(1)『筑前国続風土記附録』・・御陵の宝満宮(福岡県大野城市中1丁目)
宝満山は神功皇后の時代は三笠山、その前は釜山と言われた。
宝満山には玉依姫を祭っている宝満宮がある。
(4)甘木朝倉地域における神功皇后と景行天皇伝承
・蜷城(ひなしろ)(朝倉市林田) ――日代(ひのしろ)
大庭村の蜷城は十二代景行天皇が日代宮(奈良県桜井市の纏向)から周防・豊前などの国を経て、筑前国に入られたときに滞在されたところから地名となったという。神功皇后もこの地で官軍の陣列を閲兵し、羽白熊鷲を討伐後、太刀を捧げて祈ったという。
(5)景行天皇の浮羽の行宮
『日本書紀』景行天皇18年7月に高田の行宮(かりみや)から八女県(やめのあがた)、更に的邑(いくはのむら)[浮羽と名づけた]へ行った記事がある。
浮羽の行宮は神功皇后、景行天皇が行幸されたところ。
矢部(川)、八女と発音が近い。昔は同じではないか。
浮羽の行宮の伝承地は現在の若宮八幡神社で、住所は「うきは市吉井町若宮366-1」である。
1.10 装飾古墳について
(1)圧倒的な九州の分布
日本全国に600基ほどあり、その半数以上に当たる約340基が九州地方(うち熊本県は186基)に、全国の38%にも及ぶ数を有している。約100基が関東地方に、約50基が山陰地方に、約40基が近畿地方に、約40基が東北地方にあり、その他は7県に点在している。
古墳や横穴の内璧などに装飾として同心円文、蕨手文(わらびてもん)、人物、船、家などが描かれているが、そのうち船が描かれている装飾古墳は全国に89基あって、その分布状況については次のとおりである。
宮城1、茨城5、千葉5、埼玉1、神奈川4、大阪3、鳥取11、島根1、福岡16、佐賀3、熊本31、大分3、長崎5
(2)浮羽郡の装飾古墳
(3)日の岡古墳(福岡県うきは市吉井町若宮)
6世紀半ばの前方後円墳で船があり櫓(ろ)がある。
(4)珍敷塚(めずらしづか)古墳(うきは市吉井町大字富永字西屋形)
6世紀後半の円墳。
靫(ゆき)[矢を入れる道具]が描かれており、矢が上を向いている。靫(ゆき)が3個あり、この船は準構造船である。
上図の赤四角で囲った部分を拡大した図が下記の左図で鳥が描かれている。
この絵はエジプトのセン・ネジェム墳墓(紀元前14世紀)の下図右絵と同じ構図である。
死者を祀る行為は共通性があることが分かる。
(5)原古墳(うきは市吉井町大字富永字原)
6世紀後半の円墳。
この絵でも船があり、櫓があり、弓を持った人がいて、馬が船に乗っている
(6)筑紫野市の五郎山古墳(筑紫野市原田)
6世紀半ばの円墳であり、
筑紫神社の近くにある。
馬に乗って矢を射ろうとしている。その下では
白い着物を着た人がいる。
白い着物を着た人の前に建物がある。この建物が筑紫神社で、白い着物を着た人は神官ではないかという説もある。
1.11 浮羽の「的(いくは)氏」について
(1)鳥船塚古墳(うきは市吉井町大字富永)
・6世紀後半の円墳。
上に大きな盾が描かれ、下に的(まと)が描かれている。船がが描かれ、鳥が二羽描かれている。
以下にある話から、浮羽の豪族に祖先に対し盾と的を描いたのではないかとの説がある。
(2)『日本書紀』の記事
『日本書紀』の仁徳天皇12年の記事に「百寮(つかさつかさ)を集(つど)へて、高麗(こま)の献(たてまつ)る所(ところ)の鉄(くろがね)の盾(たて)・的(まと)を射(い)しむ。諸(もろもろ)の人、的を射通(いとは)すこと得ず。唯(ただ)的臣(いくはのおみ)の祖(おや)盾人宿禰(たてひとのすくね)のみ、鉄の的を射て通しつる。・・・・名を賜ひて的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)と曰(い)ふ。」とある。
(3)的氏は武内宿禰(たけうちのすくね)の子の葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の末裔とされる。
①葛城襲津彦
・『日本書紀』神功皇后摂政五年の春三月七日
新羅王の質、微叱旱岐(みしこち)の見張りとして襲津彦を新羅に使わすが、対馬にて新羅王の使者に騙され微叱旱岐に逃げられ、怒った襲津彦が蹈鞴津(たたらつ)から草羅城(くさわらのさし)を攻撃して捕虜を連れ帰った。
・応神天皇十四年
百済の弓月君(ゆつきのきみ)が応神天皇に対し、百済の民人とともに帰化したいが新羅が邪魔をして加羅から海を渡ることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、三年なんの音沙汰もなかった。
・応神天皇十六年八月
天皇は平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)・的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢を恐れて逃げ去った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。
・仁徳天皇天皇四十一年三月
紀角宿禰(きのつのすくね)に無礼をはたらいた百済の王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させた。
・神功皇后摂政六十二年
『日本書紀』に引用された『百済記』によると、沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を使って新羅を撃たせようとしたが、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼしてしまう。百済に逃げた加羅王家は天皇に直訴し、天皇は木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻めさせる。沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると自殺した。
②的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)
仁徳天皇12年高句麗から贈られた鉄の盾と的を、ただひとり弓で射とおしたので仁徳天皇からこの名をあたえられた。仁徳17年新羅に朝貢をうながす使節として派遣された。
盾人宿禰 ⇒的戸田宿禰
結論:①景行天皇の時代(370~385)に浮羽郡の的氏は朝廷との結びつきを強めた。
②神功皇后の時代(390~410)に朝鮮出兵に従軍した。
③応神天皇の時代(410~420)に葛城襲津彦と的氏との間に婚姻など特別の関係が生じた。
④仁徳天皇の時代(420~430)に的氏は近畿大和で朝廷に仕え、九州の的氏は朝鮮に対する軍事作戦に従事した。
1.12 佐賀県における景行天皇とヤマトタケルの伝承
(1)『肥前国風土記』による景行天皇伝承地
『肥前国風土記』はよく残っているが、景行天皇とヤマトタケルの伝承である。
昭和28年に筑後川で、大水害があった。この水害で昔の地形が出てきた。吉野ヶ里遺跡付近も水浸しであった、宝満川も水浸しとなっている。
基肄(きい)郡、三根郡、養父郡、佐嘉郡、神埼郡などである。このあたりが景行天皇が行ったところである。
①基肆(きい)郡(三養基郡基山町)
②基肆郡の「長岡の神の社」(鳥栖市永吉町) ――永世(ながよ)神社
③ 基肆郡の酒井の泉(鳥栖市曽根崎町)
④養父郡の由来
⑤養父郡曰理(わたり)郷(鳥栖市)
⑥養父郡狭山郷(鳥栖市村田町)
⑦三根郡(三養基郡みやき町)
⑧三根郡米多郷(三養基郡上峰町前牟田字米多)
⑨神埼郡(神埼市)
「むかし、神埼の郡に荒ぶる神があった。往来の人が多数殺害された。景行天皇が巡狩されたとき、この神は和平(やわらぎ)なされた。それ以来二度と災いを起こすことがなくなった。そういうわけで神埼郡という」
⑩神埼郡船帆郷(神埼市千代田町)
「船帆の郷は郡役所の西方にある。おなじ天皇が巡幸なされたとき、もろもろの氏の人たちが、村中こぞって船に乗り、帆をあげて三根川の津に参集し、天皇のご用にお仕え申し上げた。それで船帆の郷という」
⑪神埼郡蒲田郷(神埼市千代田町)
⑫琴木(ことき)の岡(神埼市千代田町餘江)
⑬神埼郡宮処郷(佐賀市千代田)
1.13 肥前におけるヤマトタケル伝承
(1)熊襲の反乱
九州巡幸を終えて近畿に帰った景行天皇のもとに九州の熊襲がふたたび反乱を起こしたという報告が届いたため、再度九州へ軍を派遣することとした。
このため皇子のヤマトタケルを総大将として派遣することとした。『日本書紀』によると、このときヤマトタケルは十六歳であったという。
(2)九州へ出発
熊襲討伐を命じられたヤマトタケルは、人材を集めることとし、宮戸彦という者に命じて、美濃国の弓の名手として知られる弟彦公(おとひこのきみ)を招いた。すると、弟彦公は、伊勢の石占横立や尾張の田子稲置、乳近稲置などの豪族を引き連れてやってきた。
ヤマトタケルは彼らを引き連れて、その年の十二月に熊襲国に到着した。
(3)熊襲を偵察
そして地形や人の暮らしぶりを観察した。熊襲の首長は「川上魁師(たける)」といい、名は「取石鹿文(とろしかや)」といった。『古事記』では、「熊曾建(くまそたける)」と記す。
(4)川上魁師(たける)の取石鹿文の拠点はどこか
①大隅半島
常識的に考えれば大隈国の贈於郡あたりを根拠とした部族のようにもおもわれる。大隈国肝属郡には「川上大明神」も祀られている。
②肥前地方に残された伝承
『肥前国風土記』によると、肥前地方にヤマトタケルの伝承が多く残されている。
(5)『肥前国風土記』の記事
・佐嘉郡・小城郡・藤津郡
ヤマトタケルが巡幸したとき、樟の茂り栄えたのをみて栄の国といったので「佐賀」の名となったといい、小城郡条に、皇名にしたがわず堡をつくって隠れた土蜘蛛がおり、これをヤマトタケルがことごとく滅ぼしたので「小城」の名ができたといい、藤津郡条に、むかしヤマトタケルが行幸したときこの津にきて日没となったため停泊し、翌朝遊覧して船のとも綱を大きな藤につないだので「藤津」という名が生じたという。
結論
有明海の西から嘉瀬川、次に筑後川、筑後川から分かれて宝満川がある。
景行天皇が嘉瀬川と宝満川の間を制圧し、その後ヤマトタケルが嘉瀬川の左側、更にその後神功皇后が宝満川の右側の朝倉地方を制圧した。