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第340回 邪馬台国の会
淡路島出土の銅鐸
中国で新発見の三角縁神獣鏡について再論
卑弥呼について


 

1.淡路島出土の銅鐸

■新聞記事から
2015年5月20日(水)『朝日新聞』朝刊の記事
砂置き場 銅鐸ザクザク 兵庫県・淡路島で7個
弥生時代前期末から中期初頭ごろ(紀元前3~紀元前2世紀)の最古級のものを含む銅鐸(どうたく)7個が、兵庫県南あわじ市(淡路島)の石材セメント製造会社の砂置き場で見つかった。県教委などが19日発表した。市内沿岸部に埋まっていたものが、砂ごと採取されたらしい。「第一級の価値がある」としている。
銅鐸の大量出土数としては、島根県・加茂岩倉遺跡(39個)、滋賀県・大岩山(24個)、神戸市・桜ヶ丘遺跡(14個)に次ぐ4番目。県教委は元の埋納場所の特定を急ぐ方針で、発見数は増える可能性がある。 340-01

7個は青銅製で、高さ約22~32センチ、重さ約1~2キロ(いずれも一部は不明)。
鈕(ちゅう)[つり手]の断面の分類によると、1個は全国で11個しか確認されていない「菱環(りょうかん)鈕式」で、6個は「外縁付(がいえんつき)鈕式」(弥生中期)だった。
銅鐸内部につるして鳴らす青銅製の「舌(ぜつ)」も3個(長さ約8~13センチ)確認された。銅鐸と青銅製の舌がセットで見つかるのは過去に2例(3個)だけ。ほかの4個は内側に砂が詰まっており、今後舌が見つかる可能性がある。7個のうち6個は、銅鐸内に別の小さな銅鐸をはめ込んだ3組の「入れ子」状態だった。
4月8日、石材セメント製造会社の副工場長の西田達(とおる)さん(51)が重機で砂をすくっている作業中に見つけた。西田さんは「はじめは半信半疑。教科書でしか見たことがないものが、目の前に出てくるなんて不思議です」と話す。(吉田博行)

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これらの銅鐸について、「菱環鈕式」と「外縁付鈕式」の違いは「外縁付鈕式」が外側にふちが付いていることで、この縁の違いを除くと「菱環鈕式」と「外縁付鈕式」は外観は比較的似ている。しかし大きさは「外縁付鈕式」の方が大きい。下図参照。
(下図はクリックすると大きくなります)
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ここで問題なのが銅鐸の年代をどう考えるかである。

新聞の年代は銅鐸の研究で偉大な業績を残した国立歴史民俗博物館の館長だった佐原眞氏の説を採用している。

佐原氏による銅鐸の分類は下記となる。
①菱環鈕式(りょうかんちゅうしき)
②外縁付鈕式(がいえんつきちゅうしき)[1式・2式]
③扁平鈕式(へんぺいちゅうしき)[1式・2式]
④突線鈕式(とつせんちゅうしき)[近畿式・三遠式]

鈕の部分の違いは下図参照。 340-04


佐原氏による銅鐸の分類の業績は素晴らしいものであるが、銅鐸に絶対年代を割り振った説には問題がある。
佐原氏は三角縁神獣鏡を邪馬台国時代であるとしたため、銅鐸の年代全体を古くしている。

銅鐸のはじまりの時期については諸説があり、一番古く考える小林行雄氏は紀元前250年頃、佐原眞氏は紀元前150年頃、藤瀬禎博氏が50年頃、一番新しく考える杉原荘介氏で100年頃である。 340-05


遺跡別に銅鐸の出土状況を示したものは下記となる。

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ここで、「菱環鈕式」銅鐸の出土状況についてまとめると、下記がある。新聞では「菱環鈕式」は全国で11個発見されていると書いてあるが、今回の発見を含むのであろうか? 福井県で3個発見されているので、含まないと考えられるようだ。
また、銅鐸の型も発見されている。
(下図はクリックすると大きくなります)340-08

 

今回の淡路島で発見された銅鐸の詳細は下表によるが、ここで気になるのは2号銅鐸が1号銅鐸の中に入っていたということである。これは「外縁付鈕1式」が「菱環鈕式」の中に入っていたことになる。このことは銅鐸の入れ子関係埋納ではじめて新しい年代の銅鐸が、古い銅鐸の中に入っていたことになる。

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今回より前に発見された埋納された銅鐸の入れ子状態は新しい時代の銅鐸に古い時代の銅鐸が入っていた。下記の加茂岩倉の例参照。

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■初期銅鐸の原料
鉛の同位体比から考えると、菱環鈕式銅鐸は多鈕細文鏡(日本で最初に現れる鏡)と同じとなる。これらは、細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈とも同じである。
細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈は北九州に出土する例が多い。

これらの銅の原料は燕の国から来たとの説がある。

『山海経』の第十二の「海内北経」のなかに、「倭」についての、つぎの文がある。
「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」
この文は、現在、ふつう、つぎのように読み下されている。
「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」
(下図はクリックすると大きくなります)

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『漢書』「地理志」のなかの「倭」
『漢書』は、前漢の歴史を記した本である。後漢の班固の撰。西暦82年ごろに成立した。
『漢書』の「地理志」の下の巻の燕地の条に、つぎのような文章かある。
「楽浪の海のかなたに、倭人がおり、百余国に分かれ、歳時(季節)ごとに来て、物を献上し見(まみ)えた[見(まみ)える]、という。(楽浪海中有倭人分為百余国、以歳時来献見云)」

この文章の問題点は、二つある。一つ目は「燕地」の条に記されていること、二つ目は、おしまいが「云(い)う」と伝聞になっていることである。
したがって、「献上し見(まみ)えた」対象が、「燕」であるとも「漢」であるとも読める。
すなわち、つぎの二とおりの読み方が成立しうる。
①かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見(まみ)えたという話だ。

②かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に、)やって来て、漢に対して物を献上し、見(まみ)えると聞いている。

ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、つぎのように記されている。
「倭は、韓の東南大海の中にある。(倭人は、)山島によりて居(すまい)を為(つく)る。およそ、百余国である(あるいは、百余国であった)。(前)漢の武帝が[衛氏(えいし)]朝鮮を滅ぼしたのち、漢に通訳と使者を派遣してきたのは、三十ヵ国ほどである。」

また、『魏志倭人伝』の冒頭には、つぎのように記されている。
「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十ヵ国である。」

これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十ヵ国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。
つまり、さきの『漢書』「地理志」の倭についての記事は、燕の時代のことの伝聞のようにみえる。

もともと、『漢書』の「地理志」の燕地の条の記載は、各地の伝統的風俗を述べている部分の一つとして、かつての燕の地で行なわれていたことを述べている部分に記されているものである。

 

■播磨の国の銅鐸
播磨の国は、現在の兵庫県南西部である。
播磨の国に、「伊和(いわ)神社」[兵庫県宍粟市(しそうし)一宮町須行名(すぎょうめ)]がある。

927年成立の『延喜式(えんぎしき)』の「神名帳(じんみょうちょう)」の「播磨の国」の条では、「伊和坐大名持御魂神社(いわのおおなもちみたまじんじゃ)」とされている。
この伊和神社は、播磨の国の「一の宮」であった。
「一の宮」は、その国で、由緒があり、信仰のあつい神社で、その国で第一位のものである。
宍粟市(しそうし)一宮町閠賀(うるか)の、伊和神社の裏山からは、明治四一年(1908)に、最盛期銅鐸の扁平鈕式銅鐸が出土している。
この銅鐸の出土地は、距離的に「伊和神社」のすぐ近くである。「伊和神社」の西にある。

考古学者の直良信夫(なおらのぶお)は、論文「閠賀(うるか)発見の銅鐸とその出土状態」(『考古学研究』2-2、1928年)のなかで、つぎのようにのべる。
「伊和大神鎮座の直後の山麓において、一個の銅鐸が発見されたことは、また注目すべき問題である……。」
伊和の大神の名は、『播磨国風土記』に、たびたびみえる。『播磨国風土記』では、宍禾郡(しさわぐん)の雲箇(うるか)[宇留加(うるか)]の里でも伊和の大神が活動したことになっている。
また、『播磨国風土記』の「伊和(いわ)の村(むら)」の条に、「もとの名は、神酒(みわ)である」と記されている。
さらに、『播磨国風土記』には「伊和の大神の子、伊勢津比古(いせつひこ)の命・伊勢津比売(いせつひめ)の命」ともある。
そして、『播磨国風土記』では、「大汝(おおなむち)の命」「葦原志許呼(あしはらのしこお)の命」の名も、しばしばみえる。

これらのことからみて、「伊和の大神」は、大国主神と、大略重なる神とみてよいであろう。
すなわち、つぎのとおりである。
①『延喜式』にみえる「伊和坐大名持御魂神社」の「大名持(おおなもち)」は、「大己貴[おお(あ)なむち]の命」「大穴持[おお(あ)なもち]の命」「大穴牟遅[おお(あ)なむじ]の神」「大汝[おおなむじ(ち)]の神」とも通じるもので、大国主の神の別名である。
②「伊和(いわ)」が「神酒(みわ)」に通じるとすれば、奈良県桜井市の三輪(みわ)にある「大神神社(おおみわじんじゃ)」の祭神が「大物主の大神」[大国主の命の和魂(にぎみたま)とされる]であることとむすびつく。
③伊勢津彦を、伊和の大神の子とすれば、伊勢津彦を大国主の神の子とする説と重なりあう。

帝国大学(のちの東京大学)教授であった栗田寛(くりたひろし)は、『国造本紀考(こくぞうほんぎこう)』という本をあらわし、その「相模(さがみ)国造」の項で、伊勢津彦の命を大己貴(おおなむち)(大国主)の命の子とする。
また、『播磨国風土記』では、伊和の大神は、葦原(あしはら)の志許乎(しこお)の命(大国主の命の別名)と、しばしば、ほとんど同じような行動をし、同じような神格をもつ神として描かれている。たとえば、「伊和の大神、国占(くにし)めましし時に」「葦原の志許乎の命、国占めましし時に」など。
播磨の国も、もともとは、大国主の命の勢力圏、影響下にあったのであろう。

 

「菱環鈕式」は初期銅鐸で、初期・最盛期銅鐸としてくくるとその出土分布は島根県から長野県まで全国にまたがっていることがわかる。
(下図はクリックすると大きくなります)340-12

 

■多段階埋納説
銅鐸の埋納については、加茂岩倉遺跡で初期・最盛期銅鐸の出土があったことから、2段階埋納説が有力となっていた。
神話と結びつけると、大国主の国譲りの時期に、初期・最盛期銅鐸(菱環鈕式・外縁付鈕式・扁平鈕式)が埋納され、神武東征の時期に終末期銅鐸(近畿式・三遠式銅鐸)されたとするものである。
しかし、今回の淡路島での銅鐸発見から、菱環鈕式と外縁付鈕1式をまとめたものとして埋納された時期があり、神話に関連させると、伊邪那岐、伊邪那美の時期にあたると考え、多段階で埋納されたとする説も考えられる。


2.中国で新発見の三角縁神獣鏡について再論

■今回の「中国で新発見の三角縁神獣鏡について」から感じられること
今まで、朝日新聞の塚本和人氏が書いた「三角縁神獣鏡がまたまた中国で新発見された」の記事についての論評をして来たが、同じ朝日新聞の東京本社の宮代栄一(みやしろえいいち)氏は塚本和人氏とは少し違うニュアンスで書かいた本を出した。
洋泉社編集部編『邪馬台国』(洋泉社、2015年5月刊)所収宮代栄一(朝日新聞編集委員)「邪馬台国研究入門」 340-13

「解決のための問題点を整理する。
最近、中国の河南省博物院の研究誌『中原文物』で報告された河南省洛陽(らくよう)出土とされる三角縁神獣鏡をめぐる問題について触れておきたい。
この鏡は河南省在住のコレクター王氏によって購入されたもので、日本のメディアでも報道されて、話題となった。
問題はこの鏡が、「中国国内、河南省・洛陽での購入品」(王氏による)で、出土地がはっきりしないものの、日本でいうところの「三角縁神獣鏡」の範中に間違いなく含まれる鏡だったことである。
直径は18センチ。三角縁神獣鏡としてはやや小型の部類に属し、外区に櫛歯文帯を持たないなどの点がやや特異だが、銘文や神仙と霊獣の文様や笠松文様などは、まさに日本の考古学者が見慣れた三角縁神獣鏡そのものだった。

しかし、この鏡の評価は、現在真っ二つに割れているといっていい。一つは出土地がはっきりしないことを認めながらも、今回の「発見」に一定の意味を見いだそうとするものだ。要するに王氏のいう通り、中国から出土したことを前提として考えるなら、三角縁神獣鏡は、やはり中国製の鏡とみていいのではないかとする意見である。
この場合、中国大陸で三角縁神獣鏡が出土したことになるので、卑弥呼に与えるためだけに特別に作ったという一部の研究者が唱えてきた「特鋳説」は根拠を失うことになる。

一方、今回の発見を否定的にとらえる見解もある。出土地のはっきりしない資料をもとに議論すること自体意味がないという意見や、日本から持ち込まれたものだとする意見、(まだ実物を見た日本の研究者はいないのだが)、精巧な贋作だとする意見などである。実際、安本美典さんは、この鏡について、明らかな贋作と断じており、講演会や雑誌(注:季刊邪馬台国125号)でその旨を主張している。
ただ、大切なことは、今回の「発見」が三角縁神獣鏡をめぐる論争に、新たな材料を提供しこそすれ、これだけでは所在地論争に決着をつける決定打にもなにもならないということだと思う。

この項でも書いてきたように、これまでに三角縁神獣鏡は卑弥呼がもらった鏡だとする説はあっても、それが証明されたわけではない。これを踏まえるなら、今回の「発見」の意義は、せいぜい、三角縁神獣鏡の製作地の候補として中国の洛陽も有力視できるようになった……ということに留まることがわかる。
「卑弥呼の鏡」と「邪馬台国の所在地」をめぐる問題で微妙なのは、鏡の分布から、邪馬台国の位置について発言しようとする場合、二重の前提条件をクリアする必要があることだ。
まず第一に、卑弥呼の鏡がどのような種類のものであったかがわからないといけない。そしてそのうえで、その分布の濃淡が邪馬台国の位置を示すという確証が必要なのである。

卑弥呼の鏡については、前に述べた富岡謙蔵の研究以来、考古学者の間では、いわゆる中国の「魏晋鏡(ぎしんきょう)」の中に見いだそうとする説が有力となっている。もちろん、三角縁神獣鏡もその候補の一つだ。

一方、絵画のような文様帯をもった後漢の鏡の中に見いだそうとする意見もある。
この場合の有力な候補とされるのが、花びらのような模様の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)や、霊獣を描いた方格規矩四神鏡ということになる。
一方、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)という鏡が卑弥呼の鏡とみる人もいる。二十年ほど前、奈良県天理市の黒塚(くろづか)古墳で三十三面の三角縁神獣鏡が発見された際、一部のメディアは「これで邪馬台国の位置が決まった」と大騒ぎしたが、結局は、三角縁神獣鏡が、倭王権と関連性の高い鏡であることがわかっただけだった。逆に、黒塚古墳では一面しかない画文帯神獣鏡が大切に扱われていたのに対し、三角縁神獣鏡は墓の主の周囲をとりまくように配置され、いかにも「大量生産品」という印象を与えた。これも画文帯神獣鏡=卑弥呼の鏡説の傍証といえるかもしれない。

また、本書にも執筆している、西川寿勝さんは「卑弥呼がもらったのは宝飾鏡で、三角縁は朝鮮半島の楽浪郡製鏡」であるとの説を唱えでいる。
要するに、鏡から邪馬台国の位置を推測しようとした場合、卑弥呼の鏡がどの鏡とみるかで、百八十度異なる結果が出る。そして、その前提条件というのは、富岡が最初にこの説を唱えた百年以上前からさほど変わっていないのである。」

このように、同じ朝日新聞でも宮代栄一氏は塚本和人氏と違って、バランスをとった発言をしている。


参考に、長谷部修一著『聖書考古学』(中公新書、中央公論新社、2013年刊)をあげる。
「2000年に「旧石器捏造(ねつぞう)事件」という日本の、そして世界の考古学界を震撼(しんかん)させる事件が明るみに出た。これは複数の遺跡において、外から持ち込まれた石器が、ある人物によってその遺跡で「発見」された結果、それらの遺跡が事実に反して旧石器時代にさかのぼる遺跡であると認定されてしまった一連の事件を指す。
その人物はどこかで古い石器を入手し、それをあたかもその遺跡の発掘現場で発見したかのようにふるまう、あるいは誰かに発見させるべく前もって埋めるなどしてこうした「捏造」を行ったとされる。
事件がマスコミによって明るみに出るまで捏造を指摘できなかった日本考古学界の未熟さは遺憾であるが、ここではこの問題は措(お)こう。一体なぜこの人物は捏造を行ったのか、その動機は何だったのだろうか。当人の言では、発見しなければいけないかのようなプレッシャーがあった、ということである。

実はこうした捏造事件は、パレスチナの歴史を学ぶ人間にも無関係ではない。2003年に、「イェホアシュ碑文」と呼ばれるヘブライ語の碑文が世界中のメディアを騒がせた。「イェホアシュ」とは、紀元前の九世紀後半から八世紀初頭にかけてエルサレムで王位にあったとされる、南ユダ王国の王である。
このイェホアシュがエルサレムの神殿を修復したことを記した碑文が骨董(こっとう)市場に出回っていたのである。イェホアシュが神殿を修復したことは列王記下十二章五~一七節に描かれている。つまり、もしこの碑文が本物なら、聖書の記述を歴史的に裏づける重要な発見であった。同時に、イスラエルやユダの王が記した碑文がはじめて見つかったことにもなったはずであった。碑文は上部がわずかに欠けているものの、文字の大部分が残っていた。1993年にテル・ダン碑文が発見されたことよりもセンセーショナルな出来事である。
イスラエルの考古局は直ちにこの碑文の真贋(しんがん)判定のためのチームを組織した。当初碑文の科学的な調査を行ったチームは、これがきわめて古い碑文であると指摘したが、その後別のチームの調査では同碑文が贋作であると結論された。碑文の書体、文法などの観点からもこの碑文が現代につくられたものであるという意見が出ている。
・・・・
昨今、少なからぬ良心的な研究者たちは、骨董市場に出回ったものを購入したり、研究対象にしたりすることを控えている。盗掘の助長につながるのを恐れる、ということもあるが、もう一つの理由として骨董品の真贋判定の難しさという問題もあるのだ。」
の記述である。

このように、考古学的分野での議論が混乱する理由の一つに、用語や推論の方法の不正確さ、無頓着さがある。用語や推理が不正確であるから、なんでもいえてしまう。みずからの好む任意の結論を導出できる形になっている。その中で生活しているから、不正確さや、無頓着さに気がつかない。

「考古学的発掘による出土」も、「骨董(こっとう)市で出現」も、同じく「発現(発見)」で、同等の証明価値をもつかのように、用語をきちんと定義しないまま議論するのでは、話になりません。

 

更に、下記の話も参考になる。
佐藤優(まさる)(1960~)もと外務省分析官『知性とは何か』(祥伝社2015年刊) 340-14

「反知性主義とは、「実証性、客観性を軽視もしくは無視して、白分か欲するように世界を理解する態度」である。裏返して言うと、実証性、客観性を重視する習慣を身につけることによって、反知性主義者とは別の形で世界を認識することができるようになるのである。
効率的に読書をする際のコツは、現時点で白分が理解できる本と、そうでない本を仕分けすることだ。読んで理解できる本については、特段の読書術は必要ない。読んで理解できない難解な本(あるいは論文)については、それを二種類に仕分けする必要がある。

第一は、言葉の定義がなされていない、あるいは定義が恣意(しい)的で、しかも論理の整合性が崩れている本だ。よく言えば、「独創的」な内容ということになるのだろうが、こういうテキストを読んでも、知力は向上しない。人生は短い。われわれの持ち時間は限られている。したがって、こういうでたらめなことを書いてある本を読書対象から排除することが必要だ。

第二は、積み重ね方式の知識が必要とされるものだ。例えば、金融工学の専門書を読み解きたいと思っても、偏微分に関する知識がなければ理解できない。高校数学の関数が理解できていない人が、偏微分の教科書を購入しても内容を理解できない。小中学校での四則演算に不安がある人は、高校教科書を理解することができない。

このような積み重ね方式で身につけなくてはならない知識が必要とされる本については、基礎知識が欠けていると理解できない。その場合は、自分に欠損している知識を埋め合わせる勉強をするか、あるいはそのために割く時間とエネルギーがない場合には、「この分野については、自分には理解できない。それだから、信頼できそうな専門家や有識者の意見に頼らざるを得ない」と見切りをつけることになる。」
の記述である。

この意見から、現在の考古学者は反知性主義者が多いように見える。

3.卑弥呼について

最近ベストセラーとして下記の本がある。
村井康彦『出雲と大和-古代国家の原像をたずねて』(岩波新書、岩波書店、2013年刊)340-15

「場所は同じ大和でも、邪馬台国と大和朝廷とは繋がらないというケースもありうるのではないか。これを邪馬台国・大和朝廷非連続説と呼ぶなら、私はこの立場をとっている。
そう考えるに至った根拠はただ一つ、邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』や『日本書紀』に一度として出てこないことにある。三世紀前半、使者を帯方郡、さらには洛陽にまで派遣して魏王から「親魏倭王」の称号を受け、銅鏡百枚ほか数々の品物を下賜された倭の女王が大和朝廷の祖先であれば、その人物を皇統譜に載せてしかるべきであるにもかかわらず、卑弥呼のヒの字も出てこない。卑弥呼は日本の神話歴史のなかでは完王に無視されているのである。
・・・・
大和の中心にある三輪山になぜ出雲の神様が祭られているのか?
それは出雲勢力が大和に早くから進出し、邪馬台国を創ったのも出雲の人々だったからではないか? ゆかりの地を歩きながら、記紀・出雲国風土記・魏志倭人伝を読み解き、古代世界における出雲の存在と役割にせまる。」
の記述である。

ほんとうに「邪馬台国や卑弥呼の名が『古事記』や『日本書紀』に一度として出てこない」のであろうか?

カオス状態のようにもみえる古代史を言語化することによって、脈絡をつけ復元する。そのためには、言語を正確に用いることが必要である。

安本美典『倭人語の解読』(勉誠出版、2003年刊)で下記のように示した。
「卑弥呼」は、ふつう、「ひみこ」と読まれている。基本的には、それでもよいと思われるが、よく考えると、むずかしい問題を、かなり多くふくんでいる。

「呼」の字は、任那(みまな)の地名「下哆呼利県(あるしたこりのあがた)」(『日本書紀』)のような、読み方に、やや不確実性をともなう事例をのぞいては、「こ」をあらわすための万葉仮名として、使用された例がない。
「呼」は、万葉仮名としての使用例があるが、それは、「瀬呼速見(瀬を速み)」などのように、ことごとく、「を」を表記するために用いられている。

では、「呼」は、「こ」を表記するためには用いられえないのであろうか。そんなことはない。
「呼」の上古音は、「hag」、中古音は、「ho」である。「は」や「ほ」に近い。しかし、上代の日本語では、「h音」が、音韻として存在していなかった。

さて、『日本書紀』の「神代上」の巻に「興台産霊(こごとむすび)」という神名がでてくる。この神名には、「許語等武須hi(こごとむすび)と云ふ」という註がついている。ところで、この「興」の字の音は、上古音も中古音も、「hɪəŋ」である。
つまり、「h音」を、「k音」に読み、「hɪə」を、「乙類のコ」に読み、末尾子音を活用させて、「hɪəŋ」を、「こ(乙)ご(乙)」と読んでいるのである。

「h音」を「k音」に読めば、「呼」は、「か」か、「こ(甲)」に読める。このように考えれば、「呼」は、たしかに、「コ(甲)」とも読める。
さて、「呼」は、「甲類のコ」であるとしても、「卑弥呼」についての説は、いくつかにわかれる。おもなものを、三つあげてみよう。
①日御子(ひみこ)説
新井白石は、『古史通或問(こしつうわくもん)』のなかで、「卑弥呼」を、「日御子(ひみこ)」であるとする。「日御子」 にあたることばとしては、『古事記』に、「多迦比迦流(たかひかる)、比能美古(ひめみこ)」(高光る、日の御子)という使用例が四例、「本牟多能(ほむだの)、比能御子(ひのみこ)」(品陀の、日の御子)という使用例が一例ある。
「日の御子」は、「ひ(甲)(の)み(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音と一致する。ただ、「日の御子」は、つねに、この形で用いられており、「の」を省略して、「日御子(ひみこ)」という形で用いられている例がない。また、「日(ひ)の御子(みこ)」は、直接的に、名前の一部として用いられているわけではなく、いわば、形容詞的に用いられている。ただ、「卑弥呼」が、天照大御神、つまり、「日の神」にあたるとすれば、「日(ひ)の御子(みこ)」という形容は、ほぼあてはまる。

②姫児(ひめご)説
本居宣長は、「卑弥呼」を、『古事記伝』や『馭戎慨言(ぎょじゅうがいでん)』のなかで、「火之戸幡姫児千千姫(ほのとはたひめごちぢひめ)の命(みこと)」「万幡姫児玉依姫(よろづはたひめごたまよりひめ)の命」などとある「姫児(ひめこ)」であるとした。ただし、これらは、本居宣長の読み方である。現在の、たとえば、岩波書店刊の日本古典文学大系の『日本書紀』では、「火之戸幡姫(ほのとはたひめ)の児千千姫(こちぢひめ)の命(みこと)」「万幡姫(よろずはたひめ)の児玉依姫(こたまよりひめ)」のように、「姫(ひめ)の児(こ)」と読まれている。
『肥前国風土記』の松浦郡の条に、「弟日姫子(おとひひめこ)」の名がある。この名は、「弟日姫子(おとひひめこ)」(五回)、「弟日女子(おとひひめこ)」(一回)、「意登比売能古」(一回)の、三通りの書き方で、七回あらわれる。
『旧事本紀』の「天孫本紀」に「市師(いちし)の宿禰(すくね)の祖(おや)、穴太(あなほ)の足尼(すくね)の女(むすめ)、比咩古(ひめこ)の命(みこと)」とある「比咩古(ひめこ)」も、「姫児」の意味であろう。

『播磨国風土記』では、「蚕(かいこ)」のことを、「蚕子(ひみこ)」といっている。「蚕(かいこ)」のことを古語で、たんに「蚕(こ)」ともいうが、養蚕や機織(はたおり)には、女性がたずさわることが多いので、「蚕子(姫子)」といったのであろう。

「姫子」「比咩古」の音は、いずれも、「ひ(甲)め(甲)こ(甲)」であって、「卑弥呼」の音に一致する。「姫子」は、古典にあらわれるひとつの熟語として、「卑弥呼」と完全に一致する。「卑弥呼」が、「姫子」であるとすれば、「姫」という語に、愛称または尊敬の「子」がついたものであろう。

「卑弥呼」を「ヒメコ」と読む説は、東京大学の教授であった日本史家、坂本太郎が、論文「『魏志』『倭人伝』雑考」 (古代史談話会編『邪馬台国』1954年9月刊のなかで説いている。
「卑弥呼」の「弥」の字は、

(ⅰ)等已弥居加斯夜比弥乃弥己等(とよみけかしやひめのみこと)(元興寺塔露盤銘、元興寺縁起)
(ⅱ)止与弥挙奇斯岐移比弥(とよみけかしきやひめ)天皇(元興寺丈六光銘、元興寺縁起)
(ⅲ)吉多斯比弥乃弥己等(きたしひめのみこと)(法隆寺蔵「天寿国繍帳記」『上宮聖徳法王帝説』)
(ⅳ)等已弥居加斯支移比弥乃弥己等(とよみけかしきやひめのみこと)(「天寿国繍帳」)
(ⅴ)践坂大中比弥(ほむさかおおなかつひめ)王(「上宮記」)『釈日本紀』十三述義九)
(ⅵ)田宮中比弥(たみやなかひめ)(「上宮記」)
(ⅶ)阿那爾比弥(あなにひめ)(「上宮記」)
(ⅷ)布利比弥命(ふりひめのみこと)(「上宮記」)
(ⅸ)阿波国美馬郡波爾移麻比弥(はにやまひめ)神社(『延喜式』神名帳)

などのように、『古事記』以前の表記法を伝えるとみられるもののなかに、「甲類のメ」をあらわすために用いられている例がある(文例は、坂本太郎の列挙による)。このような事例をみると、「姫(ひめ)」は、むかしは、「ひ(甲)み(甲)」といっていたのではないかと疑われるが、そうではないことは、「上宮記」において、「布利比弥命(ふりひめのみこと)」を「布利比売命(ふりひめのみこと)」とも記していることからわかる。「弥」は、あきらかに、「甲類のメ」に読まれているのである。
ただ、ふしぎなことに、「弥」を「甲類のメ」と読むのは、わが国の古文献においては、「比弥 (姫)」という熟語にかぎられている。さきの(ⅰ)の「比弥乃弥己等(ひめのみこと)」のように、「弥己等(みこと)」(命)のばあいは、「弥」を「甲類のミ」に読んでいる。そして、「卑弥呼」の「弥」は、まさに、「卑=比」の字のあとに用いられており、「卑弥」と読みうるケースである。

『万葉集』の167番の歌で、「天照(あまて)らす日女(ひるめ)の尊(みこと)(天照日女之命)」という語のすぐあとに、「高照(たかて)らす日(ひ)の皇子(みこ)(高照日之皇子)」という語がでてくる。「日女」は、「ひめ」とも読める。「卑弥呼」は「日女皇子(ひめみこ)」のような語をうつしたものであろうか。

③姫(ひめ)の命(みこと)説
江戸中期の国学者、松下見林は、『異称日本伝』のなかで、「卑弥呼」を、「姫(ひめ)の命(みこと)」の省略形とする。東大教授であった東洋史学者、白鳥庫吉も、論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、「姫の命説」をとる。しかし、「み(甲)こ(乙)と(乙)」の「こ(乙)」は、「卑弥呼」のこ(甲)」とやや異なる。この説は、おそらくあたらないであろう。

 

「卑弥呼」の意味
以上から、「卑弥呼」は、坂本太郎の説くように、「姫子(ひめこ)」の意昧にとるのが、もっとも穏当である。

『日本書紀』では、「女王」は、
「飯豊女王(いいどよのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
「忍海部女王(おしぬみべのひめみこ)」(「顕宗天皇即位前紀」)
「栗下女王(くるもとのひめみこ)」((舒明天皇即位前紀)」
などのように、「女王(ひめみこ)」(姫御子の意味)と読まれている。
『続日本紀(しょくにほんぎ)』では「女王」は単独で用いられるばあいは、「女王(じょおう)」と読み「伊福部女王(いほきべのひめみこ)」のように人名として用いられるばあいは「女王(ひめみこ)」と読んでいる(岩波書店刊、新日本古典文学大系『続日本紀』など)。

「卑弥呼」は、「ひめこ」と読み、「姫子」あるいは「姫御子」の意味とみられる。
『古事記』の「孝霊天皇記」に、「男王五、女王三」という記事かあり、これは、ふつう、
「男王五(ひこみこいつはしら)、女王三(ひめみこみはしら)」
のように読まれている。
また、『日本書紀』では、
「七の男(ななはしらひこみこ)と六の女(むはしらのひめみこ)とを生めり。」(「景行天皇紀」)
のように、「男」の字を、「ひこみこ(彦御子の意味)」と読んでいる例がある。

狗奴(くな)国の男王「卑弥弓呼(ひみここ)」は、「卑弓弥呼」の書き誤りと考えて、「彦御子(ひこみこ)」のこととする説がある。「卑弓弥呼」と記すべきところを、すぐ上に、「卑弥呼」の名があらわれるので、それにひかれて、「卑弥弓呼」と記したのであると考える。

もし、そうであるとすれば、『魏志倭人伝』の、
「倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。」
は、『日本書紀』流に読めば、つぎのようになる。

「倭(やまと)の女王(ひめみこ)、卑弥呼(ひめこ)、狗奴国(くなのくに)の男王(ひこみこ)、卑弓弥呼(ひこみこ)と素(もと)より和(あまな)はず。」

すなわち、「卑弥呼(ひめこ)」「卑弓弥呼(ひこみこ)は、そのまえの、「女王」「男王」という漢語の「大和(やまと)ことば」を、万葉仮名風に表記しただけのこととなる。

この可能性は、かなり大きいように思える。

のちの時代の話であるが、つぎのような例がある。
733年(天平5)に、唐にわたった遣唐副使の中臣名代(なかとみのなしろ)に、唐の玄宗皇帝が授けた勅書が、『文苑英華』(宋代の987年成立。詩文の選集)という本に収められている。そこには「日本国王主明楽美御徳(すめらみこと)(天皇)に勅す。」とあるこのばあい「主明楽美御徳」は天皇に実名ではない。「天皇」の日本でのよび方を示している。「卑弥呼」も実名ではなく、単に「女王」の日本でのよび方を示している可能性がある。

魏の人から、「女王」「男王」のことを、なんと言うかとたずねられて、倭人は、「ひめみこ」「ひこみこ」と答え、それを魏人が漢字の音で、表記したものであろうか。
あるいは、邪馬台国朝廷がわの官人が記したことも考えられる。
『魏志倭人伝』には、「文書、賜遺(しい)の物[賜(たまわ)り物]を伝送して女王(のもと)に詣(いた)らしめ」「倭王使いによりて上表す」などとある。

「上表」という句は、『日本書紀』にしばしば用いられており、そこでは、「上表(かみたてまつる)」と読まれている。
これらから、邪馬台国の卑弥呼の朝廷には、文字を読み書きできる人のいたことがわかる。
卑弥呼が、上表したとすれば、そこには、署名もあったであろう。署名では、「ひめみこ(姫御子)」の「御」は、尊敬語なのでいれず、「ひめこ(姫子)」のように記したのであろう。
「卑」の字は、「小韻の首字(同音字グループの代表字)」である。「彌(弥)」「呼」も、「小韻の首字」である。「卑弥呼」は、文字としては、ありふれたものばかりが用いられている。「小韻の首字」ばかりを用いたのは、誤読をさけるためであろうか。

なお、「卑弓弥呼(ひこみこ)」の「弓」の字の中国での中古音は、「kɪuŋ」である。
埼玉県の稲肩山古墳出土の鉄剣銘文では、「大彦(おおひこ)」にあたる人名を、「意富比垝」と記している。この「垝」の字の中古音は、「kɪuĕ」で、「弓」の音に、かなり近い。

また、『日本書紀』の「神功皇后紀」の、四十七年の条に、「千熊長彦(ちくまながひこ)」という名があらわれ、『日本書紀』の編者は、これを、『百済記』にいう「職麻那那加比跪(ちくまなながひこ)」のことかと、疑っている。
さらに、「神功皇后紀」の六十二年の条にも、『百済記』が引用されており、そこに、「沙至比跪(さちひこ)」という名が見える。『日本書紀』は、この「沙至比跪」が、「葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)」をさすとする書き方をしている。「沙至比跪」が「襲津彦」をさすと見てよいことについては、井上光貞が、「帝紀からみた葛城氏」(『日本古代国家の研究』岩波書店刊所収)のなかで、考証しているところである。
「跪」の中古音は、「gɪuĕ」である。やはり、「弓」の音に、かなり近い。
「彦(ひこ)」の「コ」の音については、『魏志倭人伝』の「卑狗」が「狗」(音は、上古音が、「kug」、中古音が「kəu」)の字で書かれている。

以上から、「彦」は、「ひく」に近い音で発音されたこともあったようである。(乙類の「こ」の音のばあいは、「ひきょ」に近い。)

いずれにせよ、「卑弓弥呼」は、「彦御子(ひこみこ)」「男王(ひこみこ)」を表記しているとみられる。
卑弥呼は、狗奴国男王、卑弥弓呼との争いの中で没するが、天照大御神は、弟の須佐之男(すさのお)の命との争いにより、天の石屋(あまのいわや)にかくれる。狗奴国は、熊本県、つまり、「肥[ひ(乙)]の国」と考えられるが、須佐之男の命が追放された出雲の国には、「肥[ひ(乙)]の河」が流れている。熊本県にも、「火川[ひ(乙)のかわ]」がある。「狗奴(くま)」と関係のありそうな出雲の「熊野神社」に、須佐之男の命はまつられている。あるいは、「須佐之男の命」が、狗奴国男王の「卑弥弓呼」で、出雲に追放されたさい、ふるさとの九州の狗奴(熊)地方の地名をもっていったのであろうか。

 

■「音韻」と「音声」
前のところで「音韻」の話がでたので、言語学の基本である「音韻」と「音声」について簡単に説明する。
言語学的には、「音韻」と「音声」とは、別ものである。
たとえば、「l(エル)音」と「r(アール)音」とは、音が異なる。しかし、日本語では、「理論」を、「lilon」と発音しようが、「riron」と発音しようが、意味は、異ならない。つまり、日本語では、「l音」と「r音」との、「音韻的区別」はない。「l音」と「r音」は、日本語では、「音声(発音)」は異なっていても、意味の違いをもたらさない。このようなばあい、「l音」と「r音」とは、日本語では、同じ「音韻」とみなされているという。

「山」を、男性が発音したばあい、女性が発音したばあい、子どもが発音したばあい、おとなが発音したばあい、それぞれ「音声」は異なる。しかし、同じ「音韻」を発音しているとみられるとき、同じ意味をうけとる。
「音韻」は、「音声」よりも、抽象的な概念である。

英語では、「l音」と「r音」とのあいだに、「音韻的区別」がある。同じ「コレクション」でも、「collection(収集)」と「correction(訂正)」とでは、発音も音韻も異なり、意味も異なるとみなされる。
英語では、「l音」と「r音」とでは、意味の違いをもたらし、異なる「音韻」である。
どのようなものを、その言語の「音韻」としてみとめるかは、言語ごとに、歴史的・伝統的にきまっている。集団での「約束」であるといえる。言語ごとに、その「約束」の体系、「音韻体系」が異なる。

フランス語では、「h音」を、「音韻」としてみとめない。そのため、「hotel」を、「オテル」と発音する。
つまり、「ho」と「o」とで、「音韻的区別」がないのである。
フランス語に、「h」という音がない、というと、では、フランス人は、笑うとき、「ハハハ(hahaha)と笑わないのか、などというのは、「音声」と「音韻」とを、ごっちゃにした議論である。
フランス人も、笑うときは、「h音」をだしている。しかし、それは、「音声」としてその音をだしているのであって、「音韻」としては、みとめない「約束」にしたがっているのである。

日本人が、「音声」としては、「l音」も「r音」もだしていても、それによって意味の区別をしない。それと同じように、フランス人は、「音声」としては、「ho音」も「o音」もだしていても、それによって意味の区別をしないのである。

「k」「t」「p」などの破裂音のあとに、激しい吐く息の音をともなうか、ともなわないかによって、意味の区別をする言語は多い。
唇のまえに下げた紙がゆれるような、激しい吐く息をともなった音は、「帯気音」とか、「有気音」とか呼ばれる。
朝鮮語、中国語、サンスクリット語、ギリシア語などには、「帯気音」と、そうでない「無気音(強く吐く息の音をともなわない意)とのあいだに、「音韻的区別」がある。つまり、「帯気音」か、「無気音」かによって、意味の区別をする。

いっぽう、「清音」と「濁音」の「音韻的対立」のない言語もある。
そのような言語では、「カギ(鍵)」と「カキ(柿)」、「マド(窓)」と「マト(的)」などが、同じ音とみなされるのである。個人は、無意識に、自国語の集団的「約束」をうけいれている。そのため、外国語を学ぶときは、一定の意識的学習を必要とする。新しい「約束」の学習を必要とする。そうしないと、「カギ」と「カキ」が、聞きわけられなかったりする。
以上を要するに、「音韻」とは、「意味の区別」をもたらす音の違いである。

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