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第346回 邪馬台国の会
「復習と補足「洛陽で新発見の三角縁神獣鏡について」
六世紀継体天皇の謎


 

1.復習と補足「洛陽で新発見の三角縁神獣鏡について」

1.1 捏造の土壌
■インターネット情報
森浩一著『ぼくの考古学』(日本放送出版協会、2005年刊)
考古学では何が重要かというと、出土地と出土状況の分かる資料が基本資料となる。出土地も分からない鏡は、考古学の材料というよりも単なる工芸品であり、単なる美術品にすぎない。出土地も分からない鏡を分析して、やれ邪馬台国がどうのこうのという人がいるが、それはほとんど意味ない仕事だ。確実な学問の材料にするためには、中国なら中国のどこの古墳から出たということがよく分かる資料に基づいて分析なら分析をして、そして比較をしなければ、ぼくは意味がないと思う。

このように、出土が分からないような物で議論することは意味がないことである。

中国の考古学者、王仲殊氏「正始五年作」の銘のある鏡について、(『三角縁神獣鏡の謎』(角川書店、1985年刊)
この鏡(「正始五年作」銘鏡)は出土品ではなく、今世紀(20世紀)の初めに、羅振玉(中国の著名な金石学者、1866~1940年)が北京の琉璃廠(ルリチャン)の骨董屋で買い入れて、間もなくそれを日本へ持ってきて売り渡したものなのです。羅振玉自身、『古鏡図録』『遼居雑著』などの本の中でこう言っております。「当時の北京の骨董屋の間では、古鏡を偽造することが流行(はや)っていた。とりわけ紀年鏡の値段が高かったので、紀年鏡の偽造には力が入れられた。骨董屋の偽造の技術は高く、本物と見分けがつかぬほどであった」というのです。こうした事情を勘案しますと、この銅鏡が贋物ではないと自信をもって言うことは出来なくなるわけでして、この鏡に対しては、態度を留保せざるを得ないのです。骨董屋から買った出処不明の一枚の異式鏡をもって、論証の重要な根拠とするのは、あまり妥当ではないというのが私の感想です。

このように、目で真贋を見分けようということは難しいことである。

インターネット上にこの件に関する情報が多くある。その一部を紹介する。
・王趁意(おうちんい)氏の言によれば、「2009年ごろ洛陽最大の骨董市で、市郊外の白馬寺付近の農民から譲り受けたもので、正確な出土地点はわからない」とのことだ。つまり、この古鏡は最近の学術的発掘調査で出土した遺物ではない。すでに今から6年あるいはそれ以前に見つかっているのだ。何故今まで話題にならなかったのか、その方が不思議だ。さらに、出土地点も不明、出土した経緯も不明となると、先ず本物かどうか疑ってみなければならない。王趁意氏が入手した場所が洛陽最大の骨董市となると、ますます疑念が湧いてくる。中国の骨董市場ほど贋作が横行する世界はない。
この「朝日新聞デジタル」の記事を読みながら、故森浩一氏がかつて指摘された言葉を思い出した。「出土地不明の鏡は、古美術品であっても、第一等の考古学資料ではない」、と。
今度見つかったとされる三角縁神獣鏡の鉛同位体比を調べて見れば、その製作地を特定することができるはずである。その上で三角縁神獣鏡が魏鏡かどうかを議論するのであれば学問的と言えるだろう。だが、話題の鏡は、中国の考古遺物のコレクターが骨董市で入手したたった一枚の鏡にすぎない。まずその出土地や出土状況を確認するのが先決であろう。そうした基本的な調査もしないで、マスコミ報道を信じて議論しても始まらない。そもそも、卑弥呼に100枚もの三角縁神獣鏡を下賜しておきながら、今まで三角縁の鏡が魏の都があった洛陽の魏晋墓から出土していなかった考古学的状況こそが問題なのだ。
(以上、Google「中国で発見された1枚の三角縁神獣鏡」)

・鉛同位体比の分析など、科学的な調査も踏まえて、適切な断言が求められるところである。考古遺物なら得体の知れないものを信用してはならないというのが、これまでの大きな経験則でもある。
(以上Google「中国洛陽付近出土の『三角縁神獣鏡』の奇怪」)

・河南省で作られた贋作は、主に北京市の潘家園(はんかえん)骨董市場に運ばれ販売されます。業者は潘家園骨董市場でこの市場で贋作の骨董を仕入れ、北京市内や各地の骨董品店のショーケースに本物としで並べられます。潘家園骨董市場では1日当たり1万点の美術品が売れているそうで、そのほぼ全てが贋作だという定評です。
中国骨董品の真贋の見極めは、中国人専門家でも難しいことが多く、ましてや素人の技量では判別できません。偽造鑑定書が横行するというのが中国骨董品ビジネスのルールですから、中国の骨董品を買おうと思った段階で詐欺に遭いに行くようなものです。中国だけでなく外国でも中国の骨董品を見たら偽物だと考えて「絶対購入しない」ことが騙されない最善策です。
(以上 Google「Skipper_John(石井良宗)の中国ビジネス・ブログ 2013.11.2)」

■中国広東省深圳市(しんせんし)の油画村(ゆがむら)
「NHK地球イチバン「世界一の油画村~中国」 2013 11 28 」の放送が参考になる。
中国は世界に冠たる「コピー大国」である。その規模はケタはずれで、日本人の想像を絶する。中国には、「造旧(ツァオチュウ)[にせの古物の製造]」ということばがあり、「造旧」が一つの産業分野をなす。あちこちに「造旧村」がある。河南省にもある。
「造旧村」の最大のものは、中国広東省深圳市大芬(だいふん)にある「油画村(ゆがむら)[あぶらえむら]」である。

また、『北海道新聞』2016年2月7日(日)の書評で 本の森書評 斉藤泰嘉 筑波大教授のものがある。
ゴッホ・オンデマンド 中国のアートとビジネス  W・W・Y・ウォング著(松田和也訳/青土社 2015年刊) でも紹介している。
・名画の複製村 内から分析
中国の深セン(しんせん)[広東省深圳市]に大芬(だいふん)という世界最大の油画村がある。ゴッホのひまわりが美術店に咲き乱れ、その花園でモナリザが謎めいた微笑を絶やさない。かつての寒村は8千人もの画家が年間500万点もの絵を生産する場所となり、名画の大量複製と大量販売で巨大芸術産業の町に変容した。
このチャイナドリームは、かつてNHKでも放送されたことがある。著者ウォング氏はマサチューセッツエ科大学で美術理論と美術史を専攻していた大学院生時代、研究のために大芬の油画工房で徒弟となって働いた体験を持つ。本書はそうした現地調査をもとに書き上げられた370ページの労作である。

この本がなぜこれほどまでの大著になったかといえばウォング氏が参与観察で得たインタビュー記録や写真などの研究資料を現代哲学(ポスト構造主義)や現代美術(コンセプチュアルアート)の視点から精緻に分析していることがあげられる。

こうした知的論述に加え、ウォング氏の興味深い体験談も随所にちりばめられている。ウォング氏は自分が働いた工房で模写の際、あまり「稿」(原画の写真)を見るなと親方から指導された。「個人的味道」が宿らなくなるというのがその理由である。親方は、徒弟たちに対し、印刷されたゴッホ作品よりも店で売っている完成作品(複製)をよく見るように指導したという。

本書の表紙を飾る写真にはゴッホの複製画(自画像)を広げて見せるゴッホ専門の画家の姿がうつっている。その絵のゴッホの顔がその男性に似ている。創造性とは無縁のはずの複製であっても、それが手描きの模写である限り、複製する者の個性がおのずと絵ににじみ出る。これはゴッホの絵なのか、それを模写した男性の絵なのか。機械による複製とは全く違う複製それは生命が生命を相手に自己を複製する行為に似ている。本書には、原画(親)と複製品(子)、そして生命について考える手がかりが満ちている。

このような現代美術(コンセプチュアルアート)の視点に立つことは、今回の三角縁神獣鏡でも言える。複製品でも前のものをそのまま模写するのではなく、複数のものを持って来て、一つのものを作ることである。

■「レコードチャイナ」から
中国関連のニュースを日本語で、日本国内に報道しているものに「レコードチャイナ」がある。インターネットで見ることができる。そこでつぎのような記事がある。
・2009年12月24日、北京科技報は記事「中国の贋作骨董ブーム、マーケットにあふれかえるニセモノ」を掲載した。

・北京市の骨董市場・潘家園骨董市場。この市場では骨董品の贋作が数多く販売されている。この市場で仕入れられた安値の贋作骨董品の多くは、骨董品店のショーケースに本物として並べられることになる。

・北京市で流通している贋作の多くは河南省で製造されたもの。河南省平頂山市宝豊県汝瓷研究所の馬聚魁(マー・ジュークイ)所長によると、同省には贋作作りを主要産業としている村がいくつもある。ある300世帯ほどの小さな村には20以上もの工場があり、加えて無数の小工房まであるのだとか。

346-01・もちろん本物の骨董品らしく見せる手法もすでに確立している。磁器の場合には完成後、2~3年土に埋めておき、最後に塩酸と無水アルコールを塗布する。こうすれば磁器に土がしっかりと張り付き、あたかも長年土に埋もれていたように見えるのだという。銅器の場合には分厚い手袋をはめた職人がへりを手でこすり、鉄の棒で叩いてゆがみをつくる。最後に使用した形跡をつくるため、化学薬品を塗って腐蝕層を作り上げる。

・北京大学文化財学院の李彦君(リー・イエンジュン)院長によると、中国骨董品市場の問題点は市場秩序が乱れている点だという。すなわち、最も怪しげに見える露店や個人商店がまだましで、正式な店舗の方がニセモノが多い。いや、それどころか、一番ニセモノが多いのは、正規の企業によるオークションだとか。なんと半数以上がニセモノだという。「真贋についてはオークション企業が責任を負わない」という条項があり、こうした無法がまかり通っていると明かした
(以上、翻訳・編集/KT)

これによると、河南省が贋作骨董を製作する地域であることが分かる。

今回の王趁意氏の「三角縁神獣鏡」に関連する地域を地図に示す。

■求めるものが出てくる構造
結婚詐欺は被害者が求めるものを詐欺をする者が出す構造である。同じように、偽造事件は求めるものが出てくる構造である。
・旧石器捏造事件(岡村道雄氏に対し藤村新一氏が出す)
・東日(つがる)外三郡誌(古田武彦氏に対し和田喜八郎氏が出す)
・STAP細胞事件(笹井芳樹・小保方晴子氏に対しチャールズ・バカンティ氏が出す)
・洛陽の三角縁神獣鏡(西川寿勝氏に対し王趁意氏が出す)
このように、求めている人の前に求めているものが出てくることが分かる。

1.2 捏造の証明
■目でみて、本物と偽物を弁別するのは不可能。
中国での捏造・偽造百年の歴史。
目でみて本物と鑑定できると主張するのは本人の主観にすぎない。客観的根拠をもたない。その主張が成立する実験考古学的な検証が必要。
そもそも、中国からも日本からも何千面もの鏡が出土年と出土地がわかる形で出土しているのに、そちらの全体的な傾向をみないで、骨董市で買った一枚の鏡に議論を集中させる。そのような議論は「三角縁神獣鏡=魏鏡説」を信奉する研究者の思いこみと、それにしばしば乗るマスコミとの、根本的な方向の誤りである。
学問や科学は、そんないい加減な、信憑性がとぼしいところから出発させてよいのか。

旧石器捏造事件がおきたとき、人類学者で、国立科学博物館人類研究部長(東京大学大学院理学系生物科学専攻教授併任)の馬場悠男(ばばひさお)氏がのべている。
「私たち理系のサイエンスをやっている者は、確率統計学などに基づいて『蓋然性が高い』というふうな判断をするわけです。偉い先生がこう言ったから『ああ、そうでございますか』ということではないのです。ある事実が、いろいろな証拠に基づいて100%ありそうか、50%か、60%かという判断を必ずします。どうも考古学の方はそういう判断に慣れていらっしゃらないので、たとえば一人の人が同じことを何回かやっても、それでいいのだろうと思ってしまいます。今回も、最初は変だと思ったけれども何度も同じような石器が出てくるので信用してしまったというようなことがありました。これは私たち理系のサイエンスをやっている者からすると、まったく言語道断だということになります。

経験から見ると、国内外を問わず、何ヵ所もの自然堆積層から、同じ調査隊が、連続して前・中期旧石器を発掘することは、確率的にほとんどあり得ない(何兆分の一か?)ことは常識である。
だからこそ、私は、東北旧石器文化研究所の発掘に関しては、石器自体に対する疑問や出土状況に対する疑問を別にして、この点だけでも捏造と判断できると確信していたので、以前から、関係者の一部には忠告し、拙著『ホモーサピエンスはどこから来たか』にも『物証』に重大な疑義があると指摘し、前・中期旧石器発見に関するコメントを求められるたびに、マスコミの多くにもその旨の意見を言ってきた。
しかし、残念ながら、誰もまともに採り上げようとしなかった。とくに、マスコミ関係者の、商売の邪魔をしてもらっては困るという態度には重大な責任がある。」(以上、『検証・日本の前期旧石器』春成秀爾編。学生社2001年刊)

考古学者は、旧石器捏造事件から何も学ばなかったのか。
捏造の指摘者、竹岡俊樹氏の発言を考慮し、藤村新一氏の「旧石器」の弱点を改良し、本物そっくりの「旧石器」を、意図的に埋める人が出てきたばあい、考古学者は、それをどうやって見破るのか、その方法を、なんら提出していない。方法的になんらの改良もくわえない。ただ素朴に信じるという方法で、不毛で、時間とエネルギーばかりを必要とする議論をくり返すつもりなのか。
現在多くの科学・学問の分野において、考えられる仮説のうち、どの仮説が妥当であるかを検証するための基本的な方法が確立している。計量し、測定し、できるだけ統計的にあつかい、確率計算に持ち込む。そして「百回に五回」、または「百回に一回」以下の確率でしか成立しないような仮説はすてる(棄却する)「約束」をもうける。このような形で、検証を客観化し、仮説を取捨し、先にすすむ。議論や推論の基本的な客観をはかる。

考古学の分野では「情報考古学」をのぞき、このような科学一般における基本的な「リテラシー(知識、方法、読み書きそろばん的なもの)が、いまだに一般化していないようにみえる。
ボールかストライクかを客観的に判断する基準がないまま、マスコミ発表することが、しばしば優先される。
ここに、邪馬台国論争などが混乱するもっとも大きな理由がある。
統計学者増山元三郎氏がのべるように、「(統計的)検定(確率計算)のない調査は、随筆に等しい。」随筆の範囲で議論しても、議論に決着がつかないのは当然である。水かけ論になるのは当然である。
現在のところ、今回の王趁意氏の提出鏡の真贋については、確率計算にうったえる以外に、有効な方法は存在しない。

■王趁意氏提出鏡には、以下にのべるように、確率的にみて何重もの不自然さがある。
①中国からは、これまでに2898面、鏡が、出土年と出土場所のわかる形で出土している。そのなかには「三角縁神獣鏡」は1面も含まれていない。そのような鏡が王趁意氏の手を経て十数面も出土するのはきわめて不自然である。中国で「三角縁神獣鏡」が出土する確率を大きめにみて、かりに(1/2898)としてみる。王趁意氏のところでのみ、このようなことがおきる確率は(1/2898)↑10とみて、1兆分の1よりもはるかに小さい。

②王趁意氏提出鏡の銘文が、前回のべたようにたった2冊の本で、すべてまかなえるのは不自然である。しかも、わが国で刊行されている『古鏡総覧(Ⅰ)』1冊で、銘文31文字中の30文字、97パーセントがまかなえる。世界の、どのような2冊をとってきても、このようなことは、不可能である。中国の20冊ほどの代表的な鏡の資料集ではできない。

③以上のべたことと同様の現象が、くりかえしおきている。
表は、私の調査結果をまとめたものである。
「三角縁神獣鏡」についていえたのと同じことがが、「北中国」出土鏡の(2)~(5)の調査項目についていえる。このような鏡が「北中国」から出土することはありえないといってよい。「北中国」のサビ、日本から持っていったものではない。
起きる可能性(確率)がどのように小さい事象もおきうるとするならば、議論は始めから成立しない。
宝くじを、買い続けるならば、確実に破産する。可能性の小さいこと、認め続ければ、その学説は破綻する。
西川利勝氏は鏡のキサゲ[削り方や砥(と)ぎ]あるいは、磨き方によって、現代鏡と古代鏡は「峻別できる」という。
このような議論は、あてにならない。西川氏が「峻別できる」(反証できる形になっていない)と思っているだけである。別に「峻別できる」という証明が必要である。(神の目構造)
見ただけで、「峻別できる」鏡が、骨董品市場で、価値をもちうるであろうか、鈴木勉氏、羅振玉など、金石学の専門家が見ただけでは、判別できないことをのべている。

西川氏がとりあげるキサゲにしても、サビにしても、一重と二重の笠松型文様にしても、王趁意氏がその論文のなかで、ウンチクをのべているものばかりである。私の立場からみれば、王趁意氏が、この点に特に留意して、鏡を作るよう指示しましたとのべているようにしか思えない。この鏡が、本物であるという西川氏独自の根拠をのべていない。専門家の目をあざむくために作ったかもしれないものを本物か贋物かをみわけるための議論をするのは、きわめて非生産的な議論で時間とエネルギーのむだである。


346-02

 

2.六世紀・継体天皇の謎

■5世の孫は本当か346-03
継体天皇は人名事典では下記のように書かれている。
継体天皇(けいたいてんのう)(?-531)
記・紀系譜による第26代天皇。在位507-531。父は彦主人(ひこうし)の王。母は振媛(ふるひめ)。『日本書紀』によると、応神天皇の5世の孫。武烈天皇に子がなく、その死後越前(えちぜん)三国から大伴金村らにむかえられて即位するが、大和入りにその後20年かかった。筑紫(つくし)の磐井(いわい)の乱をおさめ、朝鮮の新羅、百済などの争いに、近江毛野(おうみのけの)を派遣した。継体天皇25年2月7日死去。82歳。28年没説もある。墓所は三島藍野陵(みしまのあいのみささぎ)[大阪府茨木市]。別名は男大迹天皇(おおどのすめらみこと)、彦太尊(ひこふとのみこと)。

『古事記』にも「品太王 五世の孫袁本杼命」。
「継嗣令」皇兄弟子の条に「親王より五世は、王と名を得ると雖も皇親のかぎりに在らず」とあるが、『続紀』慶雲三年(西暦706年)二月庚寅条に「今より以後、五世王は皇親の限りに在らしめよ」とある。

 

『古事記』『日本書紀』には応神天皇から継体天皇までの5代において、途中の人の名前が書かれていない。『日本書紀』の別途あったと言われている系図にはあったかもしれないが失われたため、残っていない。(『日本書紀』から作成された系図は下図参照)

『日本書紀』から作成された系図では分からない、中間の人々について、『釈日本紀』の記す継体天皇の系譜には名前が書かれている。(下図参照)

ここで、継体天皇の母の振媛(ふりひめ)[布利比弥(ふりひめ)]は『上宮記』逸文の記載で、垂仁天皇の七世の孫にあたる。


346-05


五世の孫と言われているが、作り話との説もある。しかし応神天皇の五世の孫で正しいのではないか。

■出身地は近江説か越前説か
『継体天皇とその時代』(和泉書院、2000年刊)水谷千秋「継体天皇の出自とその即位事情」「継体の出身地  近江説と越前説」
継体の出身地は、近江か越前か。『古事記』の記事をもう一度見ますと、そこにははっきりと「近淡海国より上りまさしめて」と書いてあります。おそらく「帝紀」に基づくと思われる『古事記』の記事には、近江国と明記してあるのです。
一方、『日本書紀』には、継体の父である彦主人王(ひこうしのおう)は近江国にいて、そこで越前にいた振媛を呼び寄せて結婚した。彦主人王が早く亡くなったので振媛は幼い継体を抱いて実家のある越前に帰った。これ以降、ずっと継体は五十七歳になるまで越前で暮らしていたというふうに書いてあります。「上宮記一云」も同じような記事になっています。346-06

これをまとめますと、『古事記』ははっきり近江と書いている、近江としか書いていない。
一方、『日本書紀』では越前三国であり、少なくとも即位前は越前にいたというふうに書いてあります。
「上宮記一云」の記事を見てみますと、父の住んでいたのは近江国高島宮で、継体の生まれたのも近江である。しかし、毋の出身地は越前で、父が亡くなった後、幼い継体は毋に抱かれて彼女の実家である越前に入ったと書いてあります。
「上宮記一云」と『日本書紀』の記事を見れば、父方は近江、母方は越前というふうにも解釈できるわけです。特に近年、福井県では継体が大変熱く論じられています。
シンポジウムなどが盛んに開かれ、それが本になったりしています。それから、福井市に足羽山公園という公園がありまして、その中に継体天皇の石像がたっています。これは明治時代にできたものだそうで、別に歴史学的な根拠はないのですが、なかなか味わい深い石像です。ただ石像があるということが越前か近江かという論争の上で、何となく越前の方に有利になっているような、継体というと越前、というイメージ作りに役立っているような感じもします。


『継体天皇の時代』(吉川弘文館、2008年刊)和田萃(あつむ)「二人のホド王継体新王朝の歴史的背景」
ヲホド王、継体のお父さんである彦主入(ひこうし)王は、近江の息長(おきなが)王家の出身であったかと思われます。
そして、その別業があった近江国高嶋郡の三尾、現在の高島市今津の辺りに別の拠点をもっていた。
当然、琵琶湖水運を掌握した人物であったと思われます。息長王家の所在地は、近江国坂田郡ですから、現在の滋賀県の米原市から長浜市にかけての辺り。ちょうど湖東から美濃や尾張へ抜けていく道の首根っこというべき要衝の地を抑えていたことが注目されます。

ヲホド王、継体のおばあさんは美濃の出身ですから、やはり美濃も勢力基盤だったと考えられます。
また、お母さんの振媛は越前の出身ですから、その辺りが継体の血縁に結びつく最も勢力の中心基盤の地であったと思われます。お母さんの振媛の出身地は、明瞭に語られていませんが、越前の坂中井(さかない)・高向・三国(みくに)の地名が見えますので、三国国造家(こくぞうけ)の出身であったのではないかと思われます。そうするとヨホド王(継体)は九頭竜川(くずりゅうがわ)の水運、あるいは九頭竜川河口から若狭に至る海運等も支配下に収めていたと、そんな想像ができます。

このように、継体天皇の父親が近江で、母親が越前であったのではないか。そのために、『古事記』は近江、『日本書紀』は越前となったのではないか。

■継体天皇陵はどこか
1986年5月29日、『読売新聞』夕刊の記事
継体天皇陵は誤り
五世紀の埴輪発掘
没年と100年のズレ 陵墓公開論争に一石

・宮内庁調査
第二十六代継体天皇の陵墓として一切の立ち入りが禁じられている継体陵古墳(大阪府茨木市太田三丁目)で、外堤護岸工事に伴う事前発掘調査を進めていた宮内庁書陵部陵墓課は、二十九日、五世紀中期に同古墳が築造されたことを示す円筒埴輪(えんとうはにわ)の破片など約二千点を確認した。同天皇が亡くなったのは六世紀前半とされているため、この百年近いズレカら、同古墳が継体天皇の陵墓であり得ないことを宮内庁自らが裏付ける結果になった。同庁は現在、応神、仁徳陵などの巨大古墳をはじめ計二百四十基の古墳を、天皇家の祖先をまつる聖域として管理、主なものに古代の各天皇を被葬者としてあてているが、学界ではその大半を疑問視。日本考古学協会などではこれらの″天皇陵″を貴重な文化財として正しく保護・研究すべきだと、公開を強く主張している。今回の円筒埴輪の出土は、学界の積年の課題とされる天皇陵調査へ新たな一石を投じる形となった。

・外堤護岸工事事前調査で
今回の発掘成果は、日本考古学協会などの歴史関係十二学会代表二十四人に限った現地説明会という形で明らかにされた。
この日参加したのは、学会側か都出比呂志大阪大助教授、宮川渉(わたる)文化財保存全国協議会代表委員ら。宮内庁側は飯倉晴武陵墓調査官らが説明に当たり、さる六日から全長226メートル、最大幅147メートルの墳丘周囲の堀の外堤部で行われていた事前発掘の現場と、出土した埴輪などの遺物群を公開した。
それによると、外堤部内側で、約30メートルおきに幅3メートルのトレンチ(試掘溝)を入れ、26か所で発掘したところ、大半のトレンチで土器片を見つけた。ほとんどが円筒埴輪の破片で、中に盾形埴輪も含まれていた。円筒埴輪の表面には、横にハケを入れた跡がくっきりと残っており、考古学研究者の間で五世紀中期の埴輪と認められている特徴をはっきり示していた。
継体天皇は、日本書紀や古事記などによると応神天皇の五代目の子孫で、亡くなったのは西暦531年となっている。近江から越前にかけての地域を支配した部族集団が立てたリーダとの説も有力だが、没年はほとんど異論がなく、多少誤差はあっても、六世紀前半に入ることは確実。その陵については、明治初め、当時の宮内省が記紀の記載「三嶋藍野(みしまのあいの)陵」をもとに、地理的に妥当な現在古墳を選んだとされるが、今回の発掘で、築造が五世紀中ごろまでさかのぼると確認された結果、継体陵ではないことが実証されたことになる。
一方、継体天皇の本当の陵墓ではないかと、近年注目を集めているのが、同古墳から北東約1.5キロの今城塚古墳(高槻市郡家新町)。墳丘の全長が190メートルで、継体陵古墳とともに淀川流域では群を抜いて大きい。
築造時期は出土埴輪や形などから六世紀前半とされ、同天皇の没年に合致。
今城塚=継体陵説をとる研究者らは、継体陵が決定される際、同じ地の二つの大型前方後円墳のうち、中世に山城が造られるなどして荒れた今城塚を避け、元の姿のままの現在の継体陵を陵墓に選んだに過ぎない、としている。
今回のような学界、研究者への陵墓限定公開が始まったのは、さる54年10月の清寧陵古墳(大阪府羽曳野市)からで、これで八回目。そのつど、宮内庁専任研究官が説明に当たるが、被葬者の限定はもちろん、古墳の築造時期などについてはほとんど言及していない。
都出大阪大助教授(考古学)の話
「さる47年に大阪府教委が宮内庁管理地の御陵外の外堤の外側で、円筒埴輪の列を約21メートルにわたって発掘し、五世紀中期の築造と確認した。今回、外堤の内側でも同時期の埴輪が見つかったことで、本当の継体陵は今城塚(六世紀前半)の可能性がさらに強まった」
石部正志・奈良県立橿原考古学研究所指導研究員の話「淀川流域には、五世紀初めまでの有力古墳は林立しているが、五世紀中期になると、この陵しかなくなる。つまりこの陵の被葬者は、地元豪族で、天皇家ではないとみるのが妥当だと思う」

 

また、宇治の二子塚古墳について、京都橘女子大学の門脇禎二氏は、『継体天皇と今城塚古墳』のなかで、つぎのようにのべる。
「被葬者は[和珥(わに)]荑媛(はえひめ)とみる説もある。」
荑媛(はえひめ)は、継体天皇の妃となった女性で、『日本書紀』に、「和珥の臣(おみ)河内(かわち)の娘」と記されている。
かりに、宇治二子塚古墳を、継体天皇の妃の荑媛(はえひめ)の墳墓とし、断夫山古墳を、継体天皇の妃の目の子媛の墳墓とし、九州の岩戸山古墳を、継体天皇の時代に反乱をおこした筑紫の君磐井の墳墓とし、今城塚古墳を継体天皇陵とすると、これらの古墳が、きわめて似た設計によっていることはたしかである。

346-07

今城塚古墳が継体天皇陵でよいと言うことは、古墳の築造年代から言えることであり、そのことは円筒埴輪から分かることであるが、別の方法である前方後円墳の前方部の発達度合いからも言える。
縦軸:前方部幅を墳丘全体の長さで割ったもの、横軸:前方部幅を後円部径で割ったものとして、各古墳の分布をグラフにすると下図のようになる。今城塚古墳は分布図からも6世紀頃の古墳であることが分かる。
(下図はクリックすると大きくなります)

346-08

 

今城塚古墳は継体天皇妃の目の子媛の墓と言われている断夫山古墳や欽明天皇陵も同じ時期と考えられる。しかし、宮内庁が継体天皇陵とする太田茶臼山古墳は5世紀となってしまう。

継体天皇陵古墳(太田茶臼山古墳)と今城塚古墳の前方後円墳の前方部の発達の違いを図示すると下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります)

346-09

 

継体天皇は尾張の目の子媛を妃として、天皇の位につく前に生まれた子が安閑天皇、宣化天皇である。天皇の血が薄い人が天皇の位につくと、天皇の血の濃い人を嫁にもらい、血の濃い子に継いでいく。そこで、仁賢天皇の子である手白香皇女(てしろかひめみこ)を妃として、欽明天皇とする。しかし、継体天皇が亡くなった時、欽明天皇は幼かったので、安閑天皇、宣化天皇となった。346-10


■磐井の乱
継体天皇の時に九州の磐井の反乱がおきる。
古田武彦氏は3世紀中には磐井による九州王朝が存在していたとし、卑弥呼=甕依姫(みかよりひめ)と主張する。しかし、『日本書紀』では筑紫国造磐井は大彦命の子孫だとしており、九州王朝が磐井であるとすると、天皇が存在する時代に九州王朝が始まったことになり、時代的に合わない。

・磐井が大彦の子孫である記述
『日本書紀』「孝元天皇紀」
第一を大彦命(おおびこのみこと)と曰(もを)し、第二を稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおほびびのすめらみこと)と曰し、第三を倭迹迹姫命(やまとととびめのみこと)と曰す。一(ある)に云(い)はく、天皇(すめらみこと)の母弟(いろど)少彦男心命(すくなびこをこころのみこと)なりといふ。妃伊香色謎命(みめいかがしこめのみこと)、彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)を生む。次妃(つぎのひめ)、河内青玉繋(かふちのあをたまかけ)が女(むすめ)埴安媛(はにやすひめ)、武埴安彦命(たけはにやすびこのみこと)を生む。兄(え)大彦命は、是阿倍臣(これあへのおみ)・膳臣(かしはでのおみ)・阿閉臣(あへのおみ)・狭狭城山君(ささきやまのきみ)・筑紫國(つくしのくにのみやつこ)・越国造(えつのくにのみやつこ)・伊賀臣(いがのおみ)、凡(すべ)て七族(ななやから)が始祖(はじめのおや)なり。彦太忍信命は、是武内宿禰(たけうちのすくね)が祖父(おほぢ)なり。

『日本思想体系1』『古事記』(岩波書店刊)補注
竺紫君石井(二九六頁)紀では筑紫国造磐井。国造は姓(かばね)化しているが本来は職名で、君が姓。九州の国造級豪族には火君・大分君・阿蘇君(補中42)など君姓が多い。筑紫国造は紀の孝元七年条に大彦命を祖とするとあり・・・・

『筑後の国風土記』逸文
時に筑紫(つくし)の君・(きみ)・肥(ひ)の君ら占(うら)ふるに、筑紫の君が祖(おや)なる甕依姫(みかよりひめ)して祝祭(まつ)らしめき。こゆ以降(のち)、路行(みちゆ)く人、神に害(そこな)はるることなし。ここを以(もち)て筑紫の神と曰ふ。346-11

■百済へ四県割譲
大伴金村(おおとものかなむら)は5世紀末~6世紀前半の豪族で、大伴談(かたり)の子である。武烈天皇・継体天皇の即位実現に功があり、宣化(せんか)天皇にいたる4朝の大連(おおむらじ)となり、政権をにぎった。筑紫国造(くにのみやつこ)磐井(いわい)の乱の鎮圧、屯倉(みやけ)の増設などで功績をあげるが、欽明天皇元年(540)百済(くだら)(朝鮮)への任那(みまな)(朝鮮)4県割譲の責任をとわれ失脚した。

『日本書紀』「継体天皇紀」6年12月の条に四県割譲の記事がある。
冬十二月に、百済、使を遣(まだ)して調貢(みつきたてまつ)る。別(こと)に表(ふみ)たてまつりて任那國(みまなのくに)の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)、四県を請う。哆唎国守(たりのくにのみこともち)穂積臣押山奏(まう)して曰(まう)さく、「此の四県は、近く百済に連(まじは)り、遠く日本を隔(へだた)る。旦暮(あしたゆうべ)に通ひ易(やす)くして、鶏(にわとり)犬別(わ)き難し。
今百済に賜(たまは)りて、合(あわ)せて同じ國とせば、固く存き策、以て此に過ぐるは無けむ。・・・

ここで、四県は全羅道の殆ど全域に及ぶ地域である。

■継体天皇の没年は何年か
『日本書紀』「継体天皇紀」25年条
二十五年[西暦531年]の春二月(はるきさらぎ)に、天皇(すめらみこと)、病 甚(おほみやまひおも)し。丁未(ひのとのひつじのひ)、天皇、磐余玉穂宮(いはれのたまほのみや)に崩(かむあが)りましぬ。時に年(みとし)八十二(やそぢあまりふたつ)。

冬十二(ふゆしわす)の丙申(ひのえさる)の朔日(ついたち)庚子(かのえねのひ)に、藍野陵(あいののみささぎ)に葬(はぶ)りまつる。或本(あるふみ)に云(い)はく、天皇、二十八年[西暦534年]歳次甲寅(きのえとらにやどるとし)に崩(かむあが)りましぬといふ。而(しか)るを此(ここ)に二十五年歳次辛亥(かのとのいのとし)に崩(かむあが)りましぬと云(い)へるは、百済本記(くだらほんき)を取りて文(ふみ)を為(つく)れるなり。其の文に云へらく、太歳辛亥(かのといのとし)の三月(やよい)に、軍(いくさ)進みて安羅(あら)に至りて、乞乇城(こつとくのさし)を營(つく)る。是の月に、高麗(こま)、其の王安(こきしあん)を弑(ころ)す。叉聞く、日本(やまと)天皇及び太子(ひつぎのみこ)・皇子(みこ)、倶(とも)に崩薨(かむさ)りましぬといへり。
此(これ)に由(よ)りて言(い)へば、辛亥(かのとい)の歳は、二十五年に當(あた)る。後に勘校(かむが)へむ者(ひと)、知(し)らむ。

 

亡くなった年について、辛亥(しんがい)の年について25年(西暦531年)としているが、これは百済本記からとると25年になるのである。本当は甲寅(こういん)の年で28年(西暦534年)である。

百済本記に辛亥の年に日本の天皇が亡くなったとしたからである。これは『日本書紀』の編者が百済本記の年代を60年ずらして解釈したのだと思われる。

百済本記は雄略天皇が即位した頃を書いたものである。安康天皇が亡くなり、多くの皇子が殺された。

岩波書店文学大系本頭注に下記がある。
・安閑元年条末には「是年也太歳甲寅」とあって、書紀本文のように継体天皇が二十五年崩御とすると、次の安閑天皇との間に二年間の空位期間を生ずる。(補注参照)

補注は下記である。
継体・欽明朝の紀年(三四頁注一一)継体・安閑・宣化・欽明朝の四朝についての書紀の紀年については、いろいろ不可解な点がある。

・その第一は、書紀は百済本記により継体天皇は二十五年辛亥(しんがい)の年の崩とするが、次の安閑天皇は甲寅(こういん)[西暦534年]の年即位と明記していて、その間二年間の空位期間がある。しかも安閑紀では継体天皇崩御の直前に皇位を譲ったことになっていて、継体崩御と安閑即位とは同じ年の出来事であり、ここに矛盾がある。又、古事記は継体天皇の崩御を丁未(ていび)[西暦527年]の年のこととしており、一方、書紀も二十八年甲寅(こういん)崩御という一説をも挙げていて、諸説が一定していない。

・第二に、百済本記の文(四六頁一三行)は、辛亥(しんがい)の年に日本の天皇及び太子皇子がともに死んだという奇怪な記事であって、そこに何か不思議な事件があったように思われる。

・第三には、有名な仏教公伝の年の年は、書紀では欽明十三年(552年)壬申(じんしん)の年のことにしてあるが、帝説では欽明天皇の戊午(ぼご)年(538年)とし、又、元興寺縁起でも欽明天皇七年戊午(538年)の年のこととする。書紀紀年では欽明朝に戊午の年はなく、しかも書紀では欽明天皇の治世は三十二年間であるが、帝説では四十一年間とあって、食違いがある。

大体以上のような諸点で書紀紀年には大きな問題があるので。これらを合理的に説明しようとして、さまざまな試みが行なわれて来た。その中で平子鐸嶺の説は仏教公伝の年に関する帝説・元興寺縁起の説を生かし、継体紀には七年紀(513年)と二十三年紀(529年)に同じ事が重出しているから錯簡が多いとして書紀紀年を大幅に組替え、継体二十三年に薨じた大臣巨勢男人が、続紀では次の安閑朝にも大臣であったと見えているから、書紀の継体二十三年は実は既に安閑朝に入っていたとし、安閑・宣化の両両を書紀紀年の継体朝の末尾に繰入れて、辛亥の年は継体の崩御でなく、宣化崩御の年(539年)であるとした。

これに反し、喜田貞吉は、欽明天皇の治世は帝説の如く四十一年と見るべく、そうすればその元年は辛亥となり、継体の崩年と同じ年となる。そこで継体天皇の次には実は欽明の即位があったのであるが、これを認めない一派があって、二年を経た甲寅の年に安閑天皇が即位し、続いて宣化天皇が即位した、即ち、安閑・宣化朝と欽明朝の初年は並立したのであって、宣化天皇崩御の後、両朝は合一したのであろうと考えた。

この両朝並立の立場を推しすすめて、内外の情勢からこの期間を内乱の時期として説明しようとしたのが林屋辰三郎で、継体天皇は畿外から大伴氏に擁立されて立ち、反対勢力に妨げられて大和に入るまでに二十年を要する状態であり、半島では朝鮮経営が失敗し、多くの負担を受けて不満を抱いた族長たちの反乱が起こった。その一例が筑紫の磐井の乱であり、継体天皇の崩御に当ってば、辛亥(531年)の変ともいうべき内乱状態があったとした。

そして継体天皇の次には蘇我氏に擁立された欽明天皇が即位したが、一方、大伴氏らはこれに対して二年を経て安閑天皇を擁立し、宣化天皇の崩後、両朝は合一して内乱は収拾されたと推測した。以上の諸説は、継体・欽明朝の紀年の矛盾を合理的に説明しようとした見解であるが、他にも、原勝郎・坂本太郎以下諸種の論がある。


また、雄略天皇について、稲荷山鉄剣銘文に下記がある。
「銘文」の意味は、次のとおりである。
「辛亥の年の七月中旬に、これを記す。私オワケノオミの祖先は、名をオオヒコという。その子は、タカリノスクネ。その子の名は、テヨカリワケ、その子の名をタカヒシワケ、その子の名はタサキワケ、その子の名はハテヒ、その子の名はカサヒヨと続く。そして、私オワケノオミ(オオヒコから八代目)。代々武人の頭領として仕え、現在にいたる。ワカタケルノオオキミが、シキの宮におられたとき、私は、天皇が天下をおさめるのを助けた。この何回も練ったすばらしい刀をつくらせ、私がワカタケルノオオキミにお仕えする由来を記すのである。」

『日本書紀』「神功皇后紀」62年条に似たような話がある。
六十二年に、新羅(しらき)朝(もうでこ)ず。即年(そのとし)に、襲津彦(そつひこ)を遣(つかわ)して新羅を撃(う)たしむ。百済紀(くだらき)に云(い)はく、壬午年(みずのえうまのとし)に、新羅、貴國(かしこきくに)に奉(つかえまつ)らず。貴國、沙至比脆(さちひこ)を遣して討(う)たしむ。

注:葛城襲津彦(かずらきのそつひこ)は記・紀にみえる伝承上の人物。『古事記』によれば、建内(武内)宿禰(たけうちのすくね)の子とされ、玉手臣(たまてのおみ)、的臣(いくはのおみ)、生江臣(いくえのおみ)、阿芸那臣(あぎなみのおみ)の祖。『日本書紀』には神功(じんぐう)巻から仁徳(にんとく)巻に新羅(しらぎ)、加羅(から)、百済(くだら)など朝鮮に派遣されたことがしるされている。

ここで、『日本書紀』の神功皇后紀六十二年は西暦262年で壬午(じんご)年とされる。年代を新しく考えた場合、百済紀の壬午(じんご)年は382年ではなく442年である。

■継体とは
「継体の君」(『日本書紀』巻第十七、「継体天皇紀」二十四年二月条)
継體(ひつぎ)の君(きみ)に及(およ)びて、・・・・
継体とは、もともと皇位を嗣ぐ者の意の普通名詞。ここで「継体」という語の使われたことが、後に男大迫天皇の漢風謚号を継体とする縁となったのであろうが、ここでは、まだ普通名詞としての使い方である。古訓には、ヲホトノキミ、またはヨヨノアヒウクルキミとある。今、意をとってヒツギノキミとする。

ヒツギノキミと訓む。ここの「継体」は、第二十六代の継体天皇の意ではなく、皇位を嗣ぐ者の意、「継嗣」である。

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