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第347回 邪馬台国の会
卑弥呼の宮殿について
古代の「市」
「邸閣国」とはなにか
卑弥呼上表


 

1.卑弥呼の宮殿について

■箱式石棺
・宮崎公立大学の教授であった考古学者の奥野正男氏は、つぎのようにのべている。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」
(『邪馬台国発掘』PHP研究所刊)

「前代の甕棺墓が衰微し、箱式石棺墓と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく・・・・。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)。

・畿内説の考古学者の白石太一郎氏(当時国立歴史民俗博物館。現、大阪府立近つ飛鳥博物館長)ものべている。
「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」
「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、さらに後期になるとふたたび土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」
(以上、「墓と墓地」学生社刊『三世紀の遺跡と遺物』所収)

九州では始めは土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓であったが、その後に甕棺墓が多くなり発展し、その後また箱式石棺墓になっていく。
橋口達也氏の地図から、甕棺墓は唐津のあたりから糸島半島に入り、福岡市までに広がる、内陸部では春日から甘木・朝倉地域、さらに筑後川流域の吉野ヶ里へと広がる。

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原田大六氏の地図でも、甕棺墓は玄界灘に面したところに広がり、奥地に広がって行く。この地図で、遠賀川河口付近に小さい四角印の箱式石棺墓があることが注目される。
この地域は神武天皇が東遷するとき、北九州によった遠賀川河口付近の岡田の宮である。

安本作成の地図でも同じことが言える。金印奴国の時代に絞ってみると、甕棺が隆盛の時代でも、白丸印の箱式石棺墓が行われている地域がある。そこは遠賀川流域などであり、このような地域から箱式石棺が勃興して、甕棺墓地域を征服していったその後に箱式石棺墓が甕棺墓を駆逐するのではないか。こうして、奴国の甕棺墓時代から、箱式石棺墓が邪馬台国時代となる。
(下図はクリックすると大きくなります) 347-02

最近の本である茂木雅博著の『箱式石棺』(同性成社2015年刊)が参考になる。
この本によると、箱式石棺に関し、都道府県別では福岡県が多く、市・町別では朝倉市が一番多く、次は北九州市である。これは人口の分布と一致している。

北九州では弥生時代の墓は甕棺とか箱式石棺なので、遺跡の跡が残る。しかし奈良県は土壙墓が多かったので、中の死体が土に返ると何も残らない。そこで、弥生時代の遺跡の墓が見られない。そこで、前方後円墳の時代を繰り上げ、古くもってくる傾向がある。
(下図はクリックすると大きくなります) 347-03


更に、地図上にプロットすると下図のようになる。 347-04


また、都道府県別でみると、箱式石棺墓は九州以外の山口県、広島県に多いのがわかる。
これを以前に示した下図の最末期の銅鐸(近畿式・三遠式)の分布の地図と比較すると、島根県、岡山県、鳥取県は銅鐸が出土しているのに、山口県、広島県は出土していない。つまり、箱式石棺墓と最末期の銅鐸はすみ分けしているように見える。これはある種の勢力関係を反映している。箱式石棺の地域は邪馬台国時代に邪馬台国のあった地域。九州の銅を持って来た饒速日の命(にぎはやひのみこと)の勢力圏である。
箱式石棺の出てくるところは鏡が出てくる。鏡と銅鐸のすみ分けとも言える。

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もうすぐ出版される安本の新刊『邪馬台国は銅鐸王国へ東遷した』からの表によると、福岡県、島根県、奈良県、静岡県の4県だけに着目する。鏡は後漢・魏系の鏡と西晋鏡、銅鐸は前期銅鐸、後期銅鐸に分け、この四県の出土状況を見比べる。

・奈良県は、西暦300年ごろに以前において、鏡においても、銅鐸においても、ほとんどみるべきものがないとみられる。
・「鏡の世界」と、「銅鐸の世界」は西暦300年前後に、「鏡の世界」に統一収斂(しゅれん)していく。

・後漢・魏系鏡以前と銅鐸は「北中国」系の銅原料、西晋鏡、画文帯神獣鏡・三角縁神獣鏡は「南中国」系の銅原料である。

ここで注目されるのは西晋鏡の文様は「北中国」系だが、銅原料は「南中国」であること。これは呉が滅んで、南中国の銅原料が北中国へも供給できるようになったためであろう。
(下図はクリックすると大きくなります)

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朝倉市付近から箱式石棺墓が多く出土している。朝倉市の中心部より南や東の方から箱式石棺が多い。宮野、須川は斉明天皇の時代に白村江を控え、朝鮮九州に大本営をおいたところ。山田の地名などは邪馬台国と関係があったものか?347-08

 

山田より東の地図から、記紀の神話に出てくる「岩屋神社」「金山」「香山」(香久山)などの名称がある。
恵蘇宿(えそのじゅく)は、古く豊後国府への官道の宿駅で、木の丸殿(きのまるどの)は斉明天皇崩御のさい、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)[天智天皇]が服喪した場所。そして、菱野の地の背後の山すそからは、かつて無数の甕棺と箱式石棺が出土したという。347-09


■鉄の矛、鉄の鏃、絹
・鉄の矛
『志倭人伝』には、つぎのように記されている。
「(倭人は、)兵(器)には、矛、楯、木弓を用いる。」
「宮室、楼観(ろうかん)・城柵(じょうさく)を厳(おごそか)に設け、つねに人がいて、兵をもち、守衛している。」
このような文からみれば、卑弥呼の宮殿は、矛をもった人によって、守られていたようである。
矛は、実用の兵器であった。

邪馬台国時代の矛が、「鉄の矛」であることについては、すでに何人かの研究者がのべている。
たとえば、考古学者、佐原真氏は、大阪文化財センターの考古学者、坪井清足氏などとの討論のなかでのべている。
「佐原・・・邪馬台国の時代には、矛はもう鉄矛ですね。
  坪井・・・鉄になっていると思います。
  佐原・・・鉄矛に違いないと思います。」(『邪馬台国が見える!』日本放送出版協会刊)

また、考古学者の、奥野正男氏ものべている。
「弥生後期の実用の矛はすでに青銅製から鉄製に変わっており、このほか鉄剣・鉄戈なども用いられていた。
鉄矛の総出土数は(甕棺などから出土したものを含めて)十六本で、すべて九州北部から出ている。」(『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社刊)

広島大学の川越哲志氏の編集された『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)によるとき、弥生時代の鉄の矛の出土地は、下の表のようになる。北九州からの出土が12例中9例をしめる。半数以上の7例は、福岡県からの出土である。近畿からの出土例は、みられない。

 

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・鉄の鏃(やじり)
『魏志倭人伝』は、記している。
「竹の箭(や)は、あるいは、鉄の鏃、あるいは、骨の鏃を用う。」
朝倉市・・・・・・・11個(福岡県全体では398個)
奈良県全体・・・・4個(弥生時代後期後半~古墳時代初期)

下図は弥生時代の鉄鏃の分布で、●印1個は、鉄の鏃5個をあらわす。
鉄の鏃3個、4個は5個に切りあげ、2個1個は切りすてている。つまり、2捨3入してある。1個~2個単独で出土したばあいは、特別に記されている。

 

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・絹
考古学者の森浩一氏は、その著『古代史の窓』(新潮文庫、1998年刊)のなかでのべている。
「ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)。 347-12
布目氏(布目順郎、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』小学館)がある。目次をみると、絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在等を探る』の項目がある。簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。
倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。 

『魏志倭人伝』には、「(倭人は、)養蚕をおこない、糸をつむぎ、細かな?(けん)や緜(めん)を作っている」と記されている。
また、魏に献じた品物のなかに、「倭錦(わきん)、絳青縑(こうせいけん)、緜衣(めんい)、帛布(はくふ)」などがある。
絹が、用いられていたのである。

■「みやこ」について
日本語の「みやこ」・・・「宮」+「場所を意味するコ」(ココ、ソコのコ)
     「宮」・・・「ミ(御)」+「ヤ(屋)」
     「みやこ」・・・「天皇の住んでおられる場所」「皇居のあるところ」

中国語の「都」・・・「人々の集まる大きな町」「国の中心ときめた大きな町」

「都」は、やや移動しにくいが、天皇の住む場所である「みやこ」はやや移動しやすい。
古代の天皇の「みやこ」はしばしば動いている。
『魏志倭人伝』には、つぎのように記されている。国名の読み方は、暫定的なものである。
ただ、伊都国については、女王国の北の国であっても、『魏志倭人伝』に、「世々王があり、みな女王国に属している」とあるから、女王国に帰属していたのであろう。

・『魏志倭人伝』の記述
「南(行)して、邪馬台国にいたる。女王の都するところである。(中略)七万余戸[2016年2月末の朝倉市の人口は55,199人)ばかりである。(中略)つぎに斯馬国(しまこく)がある。つぎに巳百支国(いはきこく)がある。つぎに伊邪国(いやこく)がある。つぎに都支国(ときこく)がある。つぎに弥奴国(みなこく)がある。つぎに好古都国(をかだこく)がある。つぎに不呼国(ふここく)がある。つぎに姐奴国(そなこく)がある。つぎに対蘇国(つそこく)がある。
つぎに蘇奴国(さがなこく)がある。つぎに呼邑国(こおこく)がある。つぎに華奴蘇奴国(かなさきなこく)がある。つぎに鬼国(きこく)がある。つぎに為吾国(いごこく)がある。つぎに鬼奴国(きなこく)がある。つぎに邪馬国(やまこく)がある。つぎに躬臣国(くじこく)がある。つぎに巴利国(はりこく)がある。つぎに支惟国(きいこく)がある。つぎに烏奴国(あなこく)がある。つぎに奴国(なこく)がある。これは、女王の教会のつきるところである。」

ここの文章は、さまざまな解釈が可能であるが、私は、つぎのように考える。
まず、この文章の最後の、「女王の境界」ということばに注目する。これは、「女王国の境界」の意味であると考える。                          
この文のはじめのほうの、「女王の都するところ」と、おわりの「女王の境界のつきるところ」とが、対応していると考える。『魏志倭人伝』の、「邪馬台国女王之所都」は、「邪馬台国は、女王の都するところである」とも読めるが、また、「邪馬台国は、女王の都(す)べる(統率する、支配する)ところである」とも読める。
「邪馬台国女王之所都」は、「女王の都(す)べるところ」という意味あいも、あるていど含んでいるものと考える。
「邪馬台国」が「女王の都(す)べるところ」であるとすれば、「邪馬台国」というのは、斯馬国以下、女王の境界のつきる」奴国までの二十一か国を含む総合名称であるという解釈がなりたつ。
この「邪馬台国」のなかに、卑弥呼の宮殿があり、その「総合名称」である「邪馬台国」全体の戸数が、七万余戸」であったと考える。
なお、『魏志倭人伝』の「女王国」ということばは、「女王国=邪馬台国」、すなわち、対馬国や一大(支)国や末盧国や奴国などをふくめない「邪馬台国」の意味で用いられている。
「女王国」を北九州のほぼ全域の意味にとる解釈があるが、そのような解釈をすると、「女王国より以北の国」とか、「女王国より以北には、とくに一大率をおいて」とか、「帯方郡より女王国にいたる里程」とかが女王国の一部をなす対馬国よりも北をさすことになり、意味をもたないものになってしまう。
「女王国」の意味を、北九州のほぼ全域といった広い意味に解釈することが無理であり、邪馬台国そのものの意味に解釈すべきであることについては、井上光貞も、『古代史研究の世界』(吉川弘文館刊)のなかで、ややくわしくのべている

ただ、伊都国については、女王国の北の国であっても、『魏志倭人伝』に、「世々王があり、みな女王国に属している」とあるから、女王国に帰属していたのであろう。


2.古代の「市」

■「陵」や「宮殿」と「市(いち)」
箸墓・・・・・・・・・・・・・・・・「大市(おおいち)」(『日本書紀』「崇神天皇紀」)
崇神天皇の宮殿・・・・・・「海石榴市(つばいち)」[桜井市金谷(かなや)]
           「歌垣」(『日本書紀』「武烈天皇紀」、『万葉集』にも「歌垣」でよまれた歌)
古市古墳群・・・・・・・・・・「餌香の市(えがのいち)」(『日本書紀』「崇神天皇紀」)
応神天皇の宮殿・・・・・・「軽の市(かるのいち)」
仁徳天皇の宮殿・・・・・・「難波の市(なにわのいち)」

古代の市のあった場所は下記の地図にある。
(下図はクリックすると大きくなります)347-13

■「市」でなにをおこなうか
①売買、②歌垣、③処刑、④世論調査、⑤雨乞(あまごい)、⑥乞食、⑦説法、⑧接待、⑨宴会、⑩威信を示す

・処刑の例
司馬遷の『史記』「呉王濞列伝(ごおうびれつでん)」
「御史大夫(ぎょしたいふ)の鼂錯(ちょうそ)を(漢の都の)長安の東の市で、礼服を着たまま、腰斬(ようざん)の刑に処した。」

『漢書』の「鼂錯伝(ちょうそでん)」
「鼂錯を腰斬(ようざん)の刑に処し、その父母、妻子、兄弟らも、年齢にかかわりなく、みな棄市(きし)[さらし首]にすべきである。」
『漢書』「劉屈氂伝(りゅうくつりでん)」「雋不疑伝(しゅんふきでん)」・・・天一坊のような事件。太子を詐称した成方逐という男が腰斬(ようざん)の刑になった。

陳寿の『三国志』の「諸夏侯曹伝」

夏侯玄(かこうげん)は度量大きく世を救う志をもった人物であったが、魏の都の洛陽の東の市場での斬刑に臨んでも、顔色一つ変えず、立居ふるまいは泰然自若としていた。時に四十六歳であった。(夏侯玄は魏の国の政治家、司馬氏を打倒しようとした)
『世説新語(せぜつしんご)』(五世紀なかば成立、知識人のエピソード集)
「夏侯玄が捕らえられたとき、鍾毓(しょういく)が廷尉(ていい)[刑罪をつかさどる官]であった。鍾毓の弟の鍾会(魏の国の政治家。蜀の国をほろぼした人)は、それまで夏侯玄と面識がなかった。
鍾会は夏侯玄に、気軽で、なれなれしい態度をとった。
そこで、夏侯玄はいった。
『たとえ刑をうけるものであっても、そのような言葉をうかがうほど、落ちぶれては、おりませぬぞ。 』
夏侯玄は拷問されても、終始一言も発しなかった。
(洛陽の)東の市(中国の洛陽城、長安城、わが国の平城京、長岡京、平安京などには、東の市と、西の市とがあった)で処刑されるさいに顔色ひとつ変えなかった。」

洛陽の東市は下図のように、漢魏洛陽城の東側にあった。 347-14


『日本書紀』「雄略天皇紀」十三年三月条
歯田根の命(はたねのみこと)が采女(うねめ)の山辺の小嶋子(やまべのこしまこ)と朝廷の許可なく、仲良くなったので、「餌香の市(えがのいち)」で家財を没収され市場公開された。

『日本書紀』「敏達天皇紀」十四年三月条
物部守屋仏教反対の言から、蘇我の馬子が出家させた尼の善信を「海石榴市(つばいち)」の駅舎(いまや)でむち打ち刑に処した。

・市場について『魏志倭人伝』に下記がある
女王国から北の地には、特に一人の統率者を置いて諸国をとりしまらせている。諸国もこれを恐れはばかっている。その統率者は、つねに伊都国に駐屯していて、中国の刺史(しし)のようなものである。
倭の王が使いを遣わして、魏の都や帯方郡、また、各韓国に行かせるときや、帯方郡の使いが倭国に行くときはみな、港で荷物をあらため、文書・賜り物などにあやまりがないか確かめて女王に差し出す。不足やくい違いは許されない。

・租税と市について、『魏志倭人伝』に下記がある
租賦(そふ)(租税とかみつぎもの)をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市がある(中華書局版『三国志』の句点にしたがえば、「邸閣の国があり、国に市がある」となる)。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。

收租賦有邸閣國國有市
交易有無使大倭監之

 

・接待
①『日本書紀』「推古天皇紀」十六年八月、唐からの客を「海石榴市(つばいち)」の巷(ちまた)で迎えた。
②『日本書紀』「敏達天皇紀」
日羅(?~584)という人を、「阿斗(あと)の桑(くわ)の市」につくった館にとどまらせた。日羅は、日本人系の百済の高級官吏。

・威信を示す
『万葉集』4261番
「大君は 神にしませば 赤駒(あかごま)の腹這(はらば)ふ田居(たい)を都となしつ」

『万葉集』4262番
「大君は 神にしませば 水鳥駒(みずとり)のすだく(あつまる)水沼(みぬき)を都となしつ」

『漢書』「高帝紀」
漢の劉邦(りゅうほう)の時代に、丞相の簫何(しょうか)が、長安に未央宮(びおうきゅう)を造営した。劉邦が長安にはいったときに、未央宮が、あまりに壮麗であるので、簫何に怒っていった。
天下がおののき、戦争に苦労すること数年、その帰趨もわからないのに、こんな度はずれた宮殿をつくるとは、どうしたことか。

蕭何か答えていった。
できるだけ壮麗に造り、威光を示さなければ、天下はしたがわず、平定することはできないのです。
テレビもマスコミもない時代、権力は視覚化される必要があった。人々の話の種となる材料が、必要であったのである。

古代の「市(いち)」は、制度的に、どのようなものであったか。
(1)わが国の『律令(りつりょう)』(「律」は刑法、「令」は行政法など)の「関市令(げんしりょう)」(関所や市についての規定における「市(いち)」に関する条)。
(2)中国の文献『周礼(しゅらい)』の「地官(教育・土地・人事などに関することをつかさどった役人)」の「司市」(市をつかさどる役人)の条。

注:『周礼』は中国春秋時代(紀元前770年~紀元前403年)に成立したとみられる。後世の律令の書。

「関市令(げんしりょう)」の「市(いち)」の規定
「関市令」のなかの「市」についての規定は、次のようになっている。
①市(いち)は、つねに午(うま)の時(正午をはさんだ前後の2時間)に集まること。日の入るまえに、鼓(つづみ)を三度うって解散すること。鼓は、一度ごとに九回うつこと。


②肆(し)[店(みせ)]ごとに、(絹の店、布の店のような)標識をたてて、商品名を記すこと。市(いち)の司(つかさ)(市場を監督する役所)は、商品の時価によって、上中下の三等級をつくること。十日ごとに一簿(いちふ)[実際に売買された価格の記録]をつくること。それは市場にいて、机にむかって書くこと。季節ごとに、それぞれ本庁[左右京職(きょうしき)(みやこの役所)]に報告すること。

③官と私とが売買するとき、(銭以外の)物をもって対価とするばあいに、その物の値段は中等の価格を基準とすること。現物がそこに存在しない盗品などのばあいもまたこのようにすること。

④ものさし(長さをはかる)、ます(量をはかる)、さお秤(ばかり)(重さをはかる)の、いわゆる度(ど)・量(りょう)・衡(こう)は、毎年二月に、大蔵省に行って、精度検査をうけ(合格の題印をしてもらって)、そののちに用いること。

⑤天秤(てんびん)ばかりを用いるにあたっては、みな格(きゃく)[掛(か)けさげておく横木のあるもの]に、かけておくこと。斛(こく)(容量一斛のます)をもちいるにあたっては、[縁(ふち)にそって平らにするための]「ますかき」を使うこと。米粉、麦粉は天秤ばかりではかること。

⑥奴婢(ぬひ)を売るばあいは、居住地の役所にとどけること。奴婢の主人の書いた売るという証文が必要である。そのような保証をとり、正式に役所を通じた文書をつくったうえで、価格をつけること。牛馬のばあいは、もち主からの保証は必要であるが、役所の判署を要しない。私的に証文をつくること。

⑦売るものは、欠陥のあるものを売ったり、品質が名目と異なるものを売ってはならない。横刀(たち)、槍、鞍(くら)、漆器(しっき)の類は、それぞれ製作者の姓名を記録すること。

⑧市で商売をするときは、男と女とは座席を別にすること。

⑨欠陥のあるものや、品質のまがいものを売買したばあいは、官に没収する。寸法が、公定の規格に足りないばあいは、持ち主に返すこと。

⑩官が売り買いをするばあいを除いては、みな市で売買すること。居ながらにして、物主を呼びつけて、時価にそむいた値段をつけてはならない。官私を問わず、たがいに時価をつけること。時価とかけ離れた値段をつけてはならない。

『周礼(しゅらい)』の規定
『周礼』の「地官」の「司市」についての規定は、つぎのようなものである。

①役人の「司市」は、市の治、教、政、刑、量、度、禁令をつかさどる。

②とりあつかうものごとに店[肆(し)]を別にし、とりあつかう商品をたがいに比較できるようにし、値段が騰貴しないようにする。

③政令をもって不相応なぜいたく品を禁じ、ぜいたく品と、そうでないものとの値段差が大きくならないようにする。

④商人をまねき、貨が内にあつまり、布が外に流れるようにし、市の政治がうまく行くようにする。

⑤量度(ますや、ものさし)を定めれば、物の値段が定まり、買う人が来るようになる。

⑥売買にあたっては、証書をつくって、信を結び、訴訟ごとがおきないようにする。

⑦役人が、あざむきごとや、いつわりのぞく。

⑧刑罰をもって、暴を禁じ、盗みを除く。

⑨「泉府」(「泉(せん)」は「銭(せん)」に通じる)という官をもうけ、民の売物が売れないときは、これを買いとり、民が急に求ればこれを貸す。

⑩「大市」は、午後二時ごろの市。すべての人が主となる。「朝市」は、朝の時の市。商人が主となる。「夕市」は夕(ゆうべ)の時の市。男女の商人が主となる。

⑪「市人(市の役人)は、うそいつわりを監察する。鞭(むち)や、ほこをとり、門を守る。市の役人たちは、その店の財貨の名と実(じつ)とがみだれていないようにし、売買、値段が極端にならないようにする。市の役人のものごとを処するところに旗を立てて、市(いち)に指令をする。役人の「市師」という役人は大きな問題、大きな訴訟をとりあつかう。役人の「胥師(しょうし)」「賈師(かし)」は次に位置して処理し、小さい問題、小さい訴訟をとりあつかう。

⑫役人の「質人」は、市の財貨、奴婢、牛馬、兵器、珍異なものの売買価が、極端にならないようにする。

⑬役人の「廛人(てんじん)」は税をとりおさめることなどをつかさどる。市(いち)にならんでいる店の税布、店をもたずに立って売っているものの税、そして、質布、罰布、廛布、などをとりおさめる。質布は、役人の「質人」が、犯罪を犯したものからとりたてたもの、罰布は市令に違反したもののおさめる銭、廛布は財貨や諸物、邸舎にかかる税である。

市の監督者について、
『周礼(しゅらい)』・・・・「司市」
『魏志倭人伝』・・・・・・・・・・「大倭」(に、市を監督させる)
『律令』時代・・・・・・・・・・・・「市司(いちのつかさ)」[市を監督した役所(役人)]

 

その他「市(いち)」でおこなわれたこと
①世論調査
『続日本紀(しょくにほんぎ)』の聖武天皇の天平十六年(744)の閏四月の四日の条に、つぎのような記事がある。
「都として、恭仁(くに)の京(みやこ)[現在の京都府に属する]と難波の京(みやこ)[現在の大阪府に属する]と、どちらがよいかを、、恭仁(くに)の宮(みや)の市(いち)において、人々の意見をたずねさせた。」

②雨乞(あまごい)
『日本書紀』の皇極天皇元年(642)七月の条に雨乞のために、市場を別のところにうつし、市の門をとじ、人をいれないで、祭りをおこなったことがみえる。『続日本紀』の文武天皇の慶雲(けいうん)二年(705)六月二十八日の条に市の店を出すことをやめさせ、そこでお坊さんたちに雨を乞(こ)わせたことがみえる。
なお、雨乞のために、市場を別のところにうつす話は『後漢書』の『礼儀志』の請雨(しょうう)条や、「郎顗(ろうぎ)伝」(列伝第二十下)にもみえる。[郎顗は後漢の順帝(在位125~144年)ごろの人]

③説法
平安中期の僧、空也(くうや)[903~972]は、民衆に念仏をすすめ、社会事業をおこなった。「市の聖(いちのひじり)」とよばれた。

④乞食
『続日本紀』の淳仁天皇の天平宝字三年(759)五月九日の条に、冬の三カ月のあいだに、市(いち)のあたりで、飢える人が多かった」とあり、同じく淳仁天皇の天平宝字八年(764)三月二十二日の条に「平城京の東西の市の付近に、乞食をする人が多かった」との記事がみえる。

文献にみえる古代の「市(いち)」は下記の表による。
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3.「邸閣国」とはなにか

『魏志倭人伝』に、つぎのような文章がある。
「收租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之」
ふつうのわが国での読み方
「租賦(そふ)[租税とかみつぎもの]をおさめる。(それらをおさめるための)邸閣(倉庫)がある。国々に市(いち)がある。(たがいの)有無を交易し、大倭(身分の高い倭人)にこれを監(督)させる。」

ところが標点本(句読点をいれた本)の『三国志』(中華書局版)では、
「収租賦。有邸閣國、國有市、交易有無大倭監之。」
と句読点をいれる。

日野開三郎氏は、論文「邸閣-東夷伝用語解のニ-」(『東洋史学』6、1952年をあらわし、『三国志』にみえる「邸閣」という語の用例についての調査結果を発表した。(この論文は、佐伯有清編『邪馬台国基本論文集』(創元社、1981年刊)にもおさめられている。
『魏志倭人伝』以外の十一例について、くわしく検討し、つぎのようなことをあきらかにした。
(1)大規模な軍用倉庫である。
(2)糧轂の貯蔵を第一とするが、戦具や絹その他の資財を収めているものがある。
(3)交通・軍事上の要地、政治・経済の中心地などにおかれている。
後漢末以来の戦乱のため、軍事が優先された結果、軍用倉庫の意味として定着したという。
『日本書紀』にも、「邸閣」の用例はある。
すなわち、「継体天皇紀」の八年三月の条に、つぎのような文がある。
「三月(やよい)に、伴跛(はへ)[任那の北部の代表的勢力]、城(さし)を子呑(しとん)・帯沙(たさ)に築(つ)きて、満奚(まんけい)に連(つ)け、烽候(とぶひ)、邸閣(や)を置きて、日本(やまと)に備(そな)ふ。」

岩波書店刊の「日本古典文学大系」の『日本書紀下』のこの個所には、つぎのような頭注がついている。
「魏志、張既伝『置烽候邸閣』による。トブヒは国境に事変があるとき、煙をたてて通信するノロシ。
烽候はノロシをあげる所。邸閣は兵糧を置く倉庫。」
『日本書紀』の用例も、軍用倉庫である。そして、「邸閣(や)」と読ませている。

「屯倉(みやけ)」(「三宅」「官家」「屯家」「屯宅」「三毛(みけ)」は本来、大和朝廷の直轄領から収穫した稲米を蓄積する倉庫→朝廷の直轄領そのものである。

福岡県の「三宅[三毛(みけ)]郡」、茨城県、千葉県、神奈川県、静岡県、愛知県、大阪府・・・の「三宅郷(みやけごう)」
などがある。



4.卑弥呼上表

3月2日(水)の毎日新聞に福岡県三雲・井原遺跡から弥生後期の硯が出土した記事があった。
(下図はクリックすると大きくなります)

347-16


倭王因使上表
倭(やまと)の王(おおきみ)、使(つかい)に因(よ)りて表(ふみ)を上(たてまつる)る。(倭王の卑弥呼)
「王」は、『日本書紀』に、「茅渟王(ちぬのおおきみ)」と読む例があるから、「おほきみ」と読んでよいだろう。
「上表」という句は、『日本書紀』にしばしば用いられている。たとえば、つぎのとおりである。
「新羅(しらぎ)の上表(ふみたてまつ)ること」(「推古天皇紀」『日本書紀下』)
「百済(くだら)の福信(ふくしん)、使(つかひ)を遣(まだ)して表(ふみ)を上(たてまつ)りて、・・・・(原文は、上表)」(「斉明天皇紀」『日本書紀下』)
「百済(くだら)、上表(ふみたてまつ)る。」(「天智天皇紀」『日本書紀下』)
「上表」は、「ふみたてまつる」である。すなわち、邪馬台国の卑弥呼の朝廷には、文字の書ける人がいたことになる。

『魏志倭人伝』に下記がある。
「親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
「詔書・印綬を奉じて、・・・」
「詔をもたらし・・・」

伊都国・・・・「倭の女王が使を遣わして、魏の都や帯方郡、また各韓国に行かせるときや、また帯方郡の使いが倭国にいくときはみな、港で荷物をあらため、文章・賜り物などにあやまりがないか確かめて、女王にさしだす。」

このように、弥生時代の後期から、日本では文字を書く人がいたことがわかる。

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