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第348回 邪馬台国の会
仏教伝来年論争
王莽の新の国と倭


 

1.仏教伝来年論争

■欽明(きんめい)天皇
欽明天皇は、記・紀系譜による第29代天皇で、在位は539-571年。継体天皇の皇子で、母は手白香(たしらか)皇后。『日本書紀』によると、都は磯城嶋金刺(しきしまのかなさしの)宮。 348-01
朝鮮半島では新羅が勢力をのばして任那をほろぼし、釈迦仏や経論などを日本につたえた百済の聖明王も新羅との戦いで戦死。国内では崇仏をすすめる大臣の蘇我稲目が力をつよめた。欽明天皇32年4月死去。墓所は檜隈坂陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)(奈良県明日香村)。別名は天国排開広庭天皇(あめのくにおしはらきひろにわ)天皇、志帰島(しきしま)天皇。

■『日本書紀』の仏教公伝記述
『日本書紀』では、第二十九代欽明天皇の十三年(西暦552年)の条に、仏教が朝鮮半島の百済から伝わってきたとして、つぎのように書かれています。
「冬の十月に、百済の聖明王(せいめいおう[またの名は、聖王]、高官の怒唎斯致契(ぬりしちけい)らをわが国につかわして、釈迦仏の金銅(銅に金のめっきをしたもの)の像一体、幡(はた)や蓋(きぬがさ)[身分の高い人にさしかざす傘(かさ)]を若干、経や論(教理をのべたもの)若干をたてまつりました。別に上表して、仏教を広めることの功徳をたたえて、天皇に、つぎのように申しあげました。
『仏法は、多くの法のうちで、もっともすぐれたものです。……』
欽明天皇は、おどりあがらんばかりに喜ばれました。しかし、自分ひとりでは、決めかねる、として、群臣のひとりひとりにおたずねになりました。
『西のとなりの国のたてまつった仏の顔かたちは、おごそかで、今までにまったく見なかったものだ、礼拝すべきか、どうか。』」

天皇は、精巧で光り耀く仏像の背後に、高い文化の世界を感じとったようです。
蘇我(そが)の大臣(おおおみ)の、稲目(いねめ)の宿禰(すくね)は、仏教のうけいれに賛成します。
これに対し、物部の大連(おおむらじ)の尾輿(おこし)たちは、仏教のうけいれに反対します。
大臣と大連とは、大和朝廷の執政者で、現在でいえば、総理大臣のようなものです。
当時は、総理大臣にあたる人が、二人いたわけです。大臣は、多く天皇家の血すじを引く家がらの出身者でした。大連は、神々の子孫で、物部、大伴など、軍事などに関係した豪族からの出身者でした。

欽明天皇陵は下図を参照してください。(下図はクリックすると大きくなります) 348-02


■『日本書紀』とは違う仏教公伝記述
「仏教の公伝」の年を、西暦552年ではなく、西暦538年とする説が、最近では有力です。たとえば、岩波書店の『広辞苑』で、「聖明王」のところを引くと、つぎのように記されています。
「538年(一説に552年)欽明天皇の時、大和朝廷に釈迦仏金銅像・経論などを送り、仏教を伝えたとされる。」
552年説は、「一説」あつかいになっています。
また、角川書店刊の『日本史辞典』の付録の「年表」をみると、「538年」のところに、「百済聖明王、仏像・経論を献じる」と記されています。552年のところには、なにも記されていません。
東京創元社刊の『新編 日本史辞典』の「仏教伝来」の項には、つぎのように記されています。
「六世紀に百済の聖明王より日本の朝廷に仏像や経典などが贈られた事実をもって仏教の公伝とする。その年次については、『日本書紀』による552年(欽明十三)説と『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による538年(宣化三、欽明七)説などの諸説があり、後者が有力視されているが、この年次は仏教の末法思想あるいは五五百年(ごごひゃくねん)思想(五五百年は、五つの五百年で、二千五百年。釈尊の死後、二千五百年を五つにわけ、たとえば、第五の最後の五百年以後を、仏法のおとろえる末法の時期とするような考え)の影響により設定されたとする説もある。」
沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉共著『上宮聖徳法王定説注釈と研究』(吉川弘文館、2005年刊)
『元興寺縁起』・・・・「元興寺伽藍縁起并流(ならびに)記資財帳」[『寧楽遺文(ならいぶん)中巻』(東京堂出版、1962年刊)]

仏教の公伝を、538年とする説は『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』なとに記されています。

・『上宮聖徳法王帝説』
『上宮聖徳法王帝説』は聖徳太子についてのもっとも古い伝記です。『上宮聖徳法王帝説』には、つぎのように記されています。
「志癸島(しきしま)の天皇(すめらみこと)(奈良県の桜井市金屋ふきんに都をおいた欽明天皇)の御世(みよ)の、戊午(つちのえうま)の年(538年)の10月12日に、百済の国主の明王(聖明王)は、仏像・経教(きょうきょう)、あわせて僧(ほうし)らを、はじめて日本に伝えました。天皇は、勅(みことのり)して、蘇我の稲目の宿彌の大臣に授(さず)けて、仏教を興隆させました。」(参考『上宮聖徳法王帝説』吉川弘文館、2005年刊)

『日本書紀』の記す欽明天皇の在位期間中には、「戊午の年」は、存在しません。そこから、いろいろな説が、述べられています。

・『元興寺縁起』の記す538年
『元興寺縁起』は、現在奈良市にある元興寺の縁起(由来、来歴)を記したものです。
そこには、つぎのように記されています。
「大倭(おおやまと)(日本)の仏法は、斯帰島(しきしま)の宮で天下をおさめられた天国案春岐広庭(あめのくにおしはるきひろにわ)の天皇(すめらみこと)(欽明天皇)の御世(みよ)からはじまります。蘇我の大臣稲目(おおおみいなめ)の宿彌(すくね)が、天皇におつかえしていたとき、欽明天皇が天下をおさめらてから七年の戊午にあたる年の十二月に仏法が、わが国に渡って来ました。百済の聖明王のとき、[悉達(しつた)]太子(釈迦)の像、あわせて潅仏(かんぶつ)(釈迦像〔誕生仏〕に香水をそそぎかけ、釈迦の誕生をいわう)の器一具、および、仏教のはじまりを説いた書巻一篋(ひとはこ)をもたらして述べました。仏法は、まさに、この世で、この上のない法であると聞いています。」(参考『寧楽遺文』中巻、束京堂出版、1962年刊)
この文では、欽明天皇の七年が、戊午(つちのえうま)の年であると記されています。しかし、『日本書紀』による場合、欽明天皇の七年は、丙寅(ひのえとら)の年であって、戊午の年ではありません。
この前後では、欽明天皇のまえの第二十八代宣化天皇の三年(538)が、戊午の年です。

■三つの文献の、さまざまなくいちがい
『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の三つの文献の記述のあいだには、これまでにのべてきたことのほかにも、さまざまなくいちがいがあります。
(1)三つの文献のうち、仏教公伝の年を「欽明天皇の治世七年の戊午の年(538)」としているのは、『元興寺縁起』だけです。『上宮聖徳法王帝説』は、仏教公伝の年を、戊午の年(538)としていることでは、『元興寺縁起』と同じです。しかし、『上宮聖徳法王帝説』は、欽明天皇の没年を、欽明天皇の四十一年(571年の辛卯の年)としています。
そこから数えますと、538年の戊午の年は、治世八年目にあたります。『元興寺縁起』の記すような治世七年目になりません。
これは、前の天皇の宣化天皇の没年を、つぎの欽明天皇の元年とするか、宣化天皇の没年の翌年を欽明天皇の元年とするか、によって生じた一年の違いのようにみえます。
それはともかく、治世年の数え方が、『元興寺縁起』と『上宮聖徳法王帝説』とで、違っているのです。

(2)『日本書紀』では、仏教の公伝を、欽明天皇十三年(552)の十月のこととし、『上宮聖徳法王帝説』は、欽明天皇の戊午の年(538)の十月十二日とし、『元興寺縁起』では、欽明天皇の七年の戊午の年(538)十二月とします。月が、十月だったり十二月だったりします。日が、十二日と書かれているものと、日を書いていないものとがあります。

(3)『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』は、それぞれ独自の所伝を記しています。『元興寺縁起』では、もたらしたもののなかに、「灌仏(かんぶつ)の器(うつわ)一具(ひとそなえ)」や、「説仏起書巻(仏教のはじまりを説いた書巻)一篋(ひとはこ)」がありますが、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』には、それらのものはみえません。これは、『元興寺縁起』独自の所伝です。いっぽう、『日本書紀』の伝える「幡蓋(きぬがさ)」は、他の二つの文献には見えません。そして、『上宮聖徳法王帝説』では、「僧(ほうし)」をわが国にもたらしたと記しますが、他の二つの文献には見えません。

■『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の三つの文献で、共通する内容は、・・・・・
いっぼう、『日本書紀』『上宮聖徳法王帝説』『元興寺縁起』の三つの文献で、一致する内容もあります。
(1)三つとも、仏教の公伝は、欽明天皇(~554)の時代のことであったと記しています。
(2)三つとも、百済の聖明工(聖王。明王。~554)が伝えたと記しています。
(3)三つとも、蘇我の稲目の宿彌(~570)が、大臣であった時代だったと記しています。
三つの文献で一致するこれらの内容は、情報として、信頼度の高いものとみてよいでしよう。

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■『古事記』のもたらす情報は、・・・・・
さて、わが国の最初のまとまった史書である『古事記』は、仏教の公伝について、なにか情報をもたらしているでしょうか。 348-04
『古事記』は、直接的には、仏教の伝来について、なにも記していません。

しかし、『古事記』は、何人かの天皇について、その没年を、干支で記しています。その干支にあたる年を、西暦になおしたものを右の表にかかげました。
表の没年は、すべてが信用できるわけではありません。しかし、第十六代の仁徳天皇の没年の427年からあとは、他のさまざまな情報と照らしあわせて、歴史的な事実と、それほど大きなくいちがいはないだろうと考えられます。
右の表をみますと、第二十七代の安閑天皇の没年は、535年となっています。この年は、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺縁起』の記す仏教公伝の年、538年と、三年しか違っていません。
したがって、538年は、いかにしても『元興寺縁起』の記す欽明天皇の七年にはなりえません。
安閑天皇がなくなった年に、かりに欽明天皇が即位したとしても、538年は、欽明天皇の四年にしかならないのですから。『古事記』の没年干支にしたがうとき、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』の記す仏教公伝の年、「戊午の年」は欽明天皇の七年や八年にはなりえません。
つまり、『古事記』の記す天皇の没年干支は、『日本書紀』の年次を支持しているのです。
『古事記』『日本書紀』ともに、安閑天皇の没年を、「乙卯(きのう)[いつぽう]の年」と記し、没した月日を別とすれば、大略一致しています。すくなくとも、安閑天皇の没年以後は、『古事記』と『日本書紀』の年紀に、年代の矛盾はみられません。

 

■仏教の公伝は、538年でよいとする二つの説
文献によって、記載がいろいろと異なるので、さまざまな説があらわれました。
いま、仏教の公伝は、538年でよいとする代表的な説を二つほど紹介しておきましょう。
前に示した「諸説・諸文献の年次の比較」の表.をもう一度見てください。

(1)平子鐸嶺(ひらこたくれい)(1877~1911)の説。 348-05
平子鐸嶺は、明治時代の美術史家で、仏教史の研究者でした。三十五歳でなくなりました。平子鐸言は、つぎのように考えました。
第二十六代継体天皇の没年を『日本書紀』は、西暦531年とします。一方、『古事記』は、527年とします。
平子鐸霊は、『古事記』の記載により、継体天皇の没年を527年とします。そして、そのあと、継体天皇の皇子の安閑天皇、宣化天皇の治世がつづき、宣化天皇は、西暦531年に没したと考えるのです。
西暦531年は、『日本書紀』によれば、継体天皇がなくなった年です。それを、宣化天皇のなくなった年と考えるのです。
『日本書紀』には、西暦531年のところに、およそ、つぎのようなことが記されています。
「継体天皇の没年を、継体天皇の二十五年[531年、辛亥(かのと)[しんがい]の年]としたのは、『百済本紀』という文献によります。『百済本紀』によれば、辛亥の年に、日本の天皇と、皇太子、そして皇子が、ともになくなった、ということです。」
このように、もとになった『百済本紀』に記されている辛亥の年になくなった天皇は、「天皇」とだけあって、継体天皇のことだと明記しているわけではないのです。平子鐸嶺は、これを継体天皇のことではなく、宣化天皇の死を伝えるものであると考えるわけです。そうすると、531年の翌年の532年は、欽明天皇の元年にあてることができ、戊午の年は、欽明天皇の七年になり、538年にあてることができるというわけです。
うまくつじつまがあうようにみえます。
しかし、安閑天皇の没年を、『古事記』『日本書紀』ともに、「乙卯(きのう)[いつぽう]の年」としているのとあいません。527年~531年のころには、乙卯の年は、存在しないのです。

(2)喜田貞吉(きださだきち)(1871~1939)の説。 348-06
喜田貞吉は、明治時代から昭和時代のはじめごろまで活躍した人です。のちに、京都大学の教授になります。もともと、南北朝時代の両朝並立期などについて、独自の見解をもつ人でした。また、平子鐸嶺の法隆寺非再建論に対し、再建論を主張しました。
喜田貞吉は、およそつぎのように考えました。
「継体天皇は、『日本書紀』の記すとおり、531年になくなったと考えます。その翌年、継体天皇の皇子欽明天皇が即位しますが、欽明天皇とは、お母さんの違う、継体天皇の皇子、安閑天皇、宣化天皇は、欽明天皇と対立し、一時、両朝並立の時期があったと考えます(南北朝時代の話の応用です。欽明天皇は、532年に即位をしているので、仏教伝来の戊午の年(538)は、欽明天皇の七年となります。」
喜田貞吉説によると、たしかに、いろいろとうまく説明できます。しかし、『古事記』『日本書紀』ともに、538年(戊午の年)は、欽明天皇の七年にはならないとしているのを無視してよいものでしょうか。

平子鐸嶺説と喜田貞吉説とは、内容に違いがあります。しかし、仏教の公伝の年を、ともに、538年の戊午の年としているところは、共通しています。

■公伝の年は、552年でよいのではないか
私は、仏教公伝の年は、やはり『日本書紀』の記すように、552年でよいように思います。その理由は、以下のとおりです。
(1)仏教公伝の年を、欽明天皇七年、または、欽明天皇八年の戊午の年(538)とすると、欽明天皇の在位期間が、長くなりすぎるようにみえます。
『上宮聖徳法王帝説』によるとき、欽明天皇は、「天下を治められること、四十一年(571)、辛卯の年四月になくなられた。)と記されています。
『元興寺縁起』によるとき、欽明天皇の四〇年(571)、辛卯の年になくなったことになります。
しかし、長い在位年数の天皇が存在するようになったのは、明治天皇以後のことです。在位年数について、歴史的にばぽ確実といえる第三十一代用明天皇以後、第百二十一代孝明天皇(明治天皇のまえの天皇)までの九十一代の天皇のなかで、在位年数が40年に達する天皇は、一人もおられません。第百三代後土御門天皇が三十七年で、確実な在位の最長記録です。さかのぽって、やや不確かなものもふくめるならば、『日本書紀』によるばあい第二十一代雄略天皇から第三十代敏達天皇までの十天皇の在位年数もすべて、三十七年に達しません。

つまり、孝明天皇以前の百一天皇は、すべて、在位期間が、三十七年以下なのです。『日本書紀』の記す欽明天皇の在位期間三十二年は、まずは妥当な値のようにみえます。

(2)すでにのべましたように、『古事記』の記す諸天皇の没年干支は、『日本書紀』の年次を支持しています。『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』の記す年次と矛盾します。『古事記』の没年干支にしたがえば、仏教公伝の年の「戊午の年」は、欽明天皇の七年や八年になりえません(前に示した「諸説・諸文献の年次の比較」の表参照)。

(3)『古事記』『日本書記』は、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』にくらべ、史料価値が高いとみられます。『古事記』は721年の成立、『日本書紀』は720年の成立です。しかも、この二つは、一応は、勅選の歴史書といえるものです。

いっぽう『元興寺伽藍縁起』は、天平十九年(747)に記されたものです。『古事記』より遅く記されたものです。ただ、『元興寺縁起』の内容をみますと、天皇がお治めになったという意味の、「あめのしたしろしめしし」ということばを、「治天下」と記しています。これは、『古事記』をはじめ、金石文などにみられる古い表記のしかたです。『日本書紀』以後ごろの文献では、「あのしたしろしめしし」を、「御宇」と表記するようになります。

また、『元興寺縁起』では、地名の「はりま」を『古事記』と同じく、「針間」と表記します。これも「藤原宮出土木簡」「大宝戸籍」などにもみえる古い表記のしかたです。『日本書紀』以後ごろの文献では、「播磨」と表記するようになります。さらに、『元興寺縁起』では、「蘇我の馬子」の「馬子」を「馬古」と表記しています。これも古い表記です。『日本書紀』では「馬子」です。
表記法からいって、『元興寺縁起』の内容は、『古事記』と同じころまでさかのぼりうるようにみえます。
しかし、『古事記』と『元興寺縁起』とのどちらをより多く信頼するかということになると、やはり、『古事記』ではないでしょうか。
いまは、仏教の公伝、つまり、仏教がわが国の朝廷にいつ伝えられたかを問題にしているわけです。したがって、天皇家の「家記(家の記録)」的な色彩が強く、そしてまた、『日本書紀』の重要な基礎資料になったとみられる『古事記』のほうに、より多くの信頼をおきたいと思うのです。

(4)『上宮聖徳法王帝説』は、さまざまな時代に成立した資料をよせ集めたような文献です。一部に、表記法からいって、たしかに『古事記』『日本書紀』よりも古い時代に成立したとみられる資料をふくみます。しかし、全体のまとまりが、かなり悪い文献です。
仏教の伝来のことは、『上宮聖徳法王帝説』の「和銅(708~715)以降・平安初期以前の成立」(吉川弘文館刊『国史大辞典』の「上宮聖徳法王帝説」の項にみられる表現)の部分にみえる記事です。その表記法をみると、蘇我の馬子のことを、『日本書記』と同じく「馬子」と記すなど、やや新しさが目につきます。二次的な資料というべきではないでしょうか。
やはり、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』の記す年紀情報は、継体天皇の没年を531年とする『日本書紀』の記述をふまえた二次情報のように思われます。

(5)第二次世界大戦以前において、『古事記』『日本書紀』を過度に尊重したため、戦後は、その反動で、『古事記』『日本書紀』の記述は、まず疑ってかかるという風潮がさかんです。仏教の公伝の年について、戦後、538年説のほうが、552年説よりも盛んになったのは、そのような風潮とも関係がありそうです。

しかし、資料そのものをみると、『古事記』『日本書紀』以外の資料が、『古事記』『日本書紀』以上の高い価値をもつようには、私には思えません。もちろん、『元興寺縁起』などは、なかなか参考になる資料ではありますが。

■なぜ、異説が生じたのか
ここで、なぜ『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』にみられるような異説が生じたのかについて、私の考えをのべておきましょう。
話は、すこしさかのぼります。
第ニ十一代雄略天皇は、きわめて粗暴な性格の人でした。 348-07
雄略天皇は、兄弟や従兄などの皇親をふくめ、あまりにも多くの人を殺戮(さつりく)しすぎました[すでに紹介した『日本書紀』の引用する『百済本紀』が、「辛亥の年に、日本の天皇と、皇太子、そして皇子が、ともになくなった。」と記しているのは、継体天皇時代の531年のことではなく、それより六〇年まえの、雄略天皇の時代の辛亥の年(471年)のことの誤伝である可能性もありそうです。 埼玉県の稲荷山古墳出土の鉄剣の銘に、雄略天皇時代の「辛亥の年」があります]。
第ニ十五代武烈天皇には、皇子がいませんでした。そのため、武烈天皇がなくなると、すくない皇族のなかで、天皇にたてるべき人がいなくなってしまいました。
そこで『日本書紀』によれば、第十五代応神天皇の五世の孫という人を、越前の国(福井県)からむかえて天皇としました。それが、第二十六代の継体天皇です。ただし、『古事記』では、継体天皇を淡海の国(滋賀県)からむかえたとしています。
継体天皇は、すっかり成人してから、天皇の位についたとみられます。天皇になるまえに、すでに尾張の国(愛知県の西部)の豪族の娘、目子媛(めのこひめ)と結婚していました。そして、のちの安閑天皇になる人と、宣化天皇になる人とを生んでいました。

そして、継体天皇は、天皇の位についてから、仁賢天皇の皇女、手白香(たしらか)の皇女(ひめみこ)を皇后としてむかえ、のちの欽明天皇となる人をもうけます(系図参照)。今日では、あまり想像できないことですが、当時は、血統がはなはだ強くものをいう時代でした。
天皇家に近い血すじほど、血統が尊いとされたのです。
尾張の豪族の娘、目子媛と、仁賢天皇の皇女、手白香の皇女とでは、血統に大きなへだたりがありました。
継体天皇が、『日本書記』の記すように、531年になくなったものとしてみましょう。
血すじからいえば、皇后の手白香の皇女の生んだのちの欽明天皇が、天皇位につくべきです。

しかし、欽明天皇は、まだ幼かったのではないでしょうか。
そのため、すでに成人していた安閑天皇と宜化天皇とが、政務をとりましたが、これは、中つぎ的な人(幼年の正式の後継者が成艮するまで、一時的に政務とった人)で、正式な天皇としてみどめないという考えも あったのではないでしょうか。
安閑天皇と宣化天皇は、応神天皇の六世の孫にあたるわけです。天皇家の血の、はなはだ薄い人たちです。
『元興寺縁起』が記されたころの令の規定では、天皇の五世の孫までを皇親として認めることになっていました。そのため、安閑天皇や宣化天皇を、摂政的な人とはみとめても、天皇としてはみとめないという人たちもいたのではないでしょうか。
そこで、継体天皇のなくなった年、または、その翌年を、たとえ幼くても、欽明天皇の元年とみる人たちがいたのでしょう。このように考えれば、538年の戊午の年は、『元興寺縁起』の記すように、欽明天皇の七年になったり、あるいは、数え方によって、『上宮聖徳法王帝説』の記すように、欽明天皇の八年になったりするわけです。
ただ、以上のことは、『日本書紀』の記すように、継体天皇の没年を531年として、はじめて成りたつことです。『古事記』の記すように、継体天皇の没年を527年としたのでは成立しません(ただし、『百済本紀』の記事によって、継体天皇の没年を531年とする説を疑い、『日本書紀』の引用するある書にしたがい、継体天皇の没年を534年とする説は、なお成立することができます)。

つまり、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』の記事は、『日本書紀』の記す年代情報がとりいれられているようにみえます。
『日本書紀』の情報は、『百済本紀』の情報によっています。『百済本紀』は『日本書記』の編纂当時存在した文献で、現在残っていません。
したがって、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』は、『日本書記』の情報によったのではなく、『百済本紀』そのものの情報によったのだという意見もありうるでしょう。
しかし、『日本書紀』に紹介されている文でみるかぎり、『百済本紀』の記事は、あいまいです。そのあいまいな記事から出発して、継体天皇の没年を531年と定めたのは、『日本書紀』の編纂者なのです。

■「天皇」は、かならずしも、固定していない
なお、参考までに、ある立場の人たちが、天皇とみとめる人物を、他の立場の人たちが、天皇とみとめていない例を、いくつかあげておきましょう。
(1)672年に、第三十八代天智天皇がなくなると、古代最大の乱といわれる壬申(じんしん)の乱がおきます。天智天皇の皇子の大友(おおとも)の皇子(のちの弘文天皇)と、天智天皇の弟の大海人(おおあま)の皇子(のちの天武天皇)とのあいだの皇位継承をめぐる戦乱です。勝利した天武天皇がわの編纂した『日本書紀』では、弘文天皇を天皇としてみとめていません。大友の皇子が天皇の歴代のなかに加えられ、弘文天皇の名がおくられたのは、明治三年(1870)のことです。

天武天皇のお父さんは、舒明天皇、お母さんは、皇極天皇また斉明天皇として、二度天皇となった人。天武天皇の血すじは、最高です。
これに対し、弘文天皇のお父さんは、天智天皇ですが、お母さんは、地方豪族の娘で、はじめ采女(後宮の女官)でした。お母さんの血すじにおいて、天武天皇とは、大きなひらきがありました。むかしは、血すじのよい人ほど、人々の支持をえやすかったのです。
天武天皇が、壬申の乱で勝利したのは、血すじによる説得力もあったとみられます。

(2)第十四代仲哀天皇の皇后の、神功皇后は、『古事記』『日本書紀』ともに、天皇とはしていません。しかし、『常陸国風土記』は、「息長帯比売の天皇(おきながたらしひめのすめらみこと)」と記しています。
『扶桑略記(ふそうりゃくき)』は、神功皇后を、第十五代の天皇とし、「神功皇后」「女帝これより始まる」と記します。

(3)第十二代景行天皇の皇子、日本武の尊(やまとたけるのみこと)は、『古事記』『日本書紀』ともに、天皇とはしていません。しかし、『常陸国風土記』は、「倭武の天皇(やまとたけるのすめらみこと)」と記しています。

(4)第二十二代清寧天皇の死後、のちの仁賢天皇と、のちの顕宗天皇とが、皇位をゆずりあいます。そのため、『日本書紀』によれば、仁賢天皇と顕宗天皇の姉の、飯豊の青の皇女(いいとよのあおのひめみこ)が、一時、政(まつりごと)をおこないます。『古事記』『日本書紀』は、飯豊の青の皇女を、天皇とはしていません。しかし、『扶桑略記』は、第二十四代の天皇とし、「飯豊天皇」「女帝」と記します。1426年に成立した皇室の系図『本朝皇胤紹運録(ほんちょうこういんじょううんろく)』(『皇胤紹運録』ともいう)も、「飯豊天皇(いいとよのすめらみこと)」と記します。

■欽明天皇七年、戊午の年、西暦五三八年情報はどこからでてきたのだろう
以上が、仏教の公伝についての私の考えです。
しかし、なお問題はのこります。
つぎのような疑問をいだく方がおられるでしょう。
「では、なぜ、『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』は、仏教公伝の年を、欽明天皇七年(または八年)の、538年の戊午の年にしたのでしょう。『日本書紀』の情報を参考にしたのなら、『日本書紀』の記すように、仏教公伝の年を、552年のこととし、532(また531年)を欽明天皇元年とし、欽明天皇二十三年(または二十四年)の552年の千申(みずのえさる)(じんしん)の年にしてもよさそうなものでしょう。」

たしかに、そのとおりです。
ただ、これまでにのべてきたことは、情報全体を考えれば、552年説のほうが、538年説よりも可能性が大きいといえるでしょう、という話なのです。
継体天皇の没年でも、『古事記』は、527年のこととし、『日本書紀』は、『百済本紀』にもとづき、531年のこととし、さらに、『日本書紀』に記されているある本は、534年のこととします。
なぜ、527年という情報や、534年という情報が生じたのかをたずねても、現在では、わからない、というほかありません。
種々の情報を総合して、より可能性の大きい情報を求める以外に、方法はないのです。
私ののべていることは、仏教の公伝について、現在、538年説がさかんに説かれていますが、552年説にも、538年以上に根拠があるようにみえます、ということなのです。

『元興寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』が、仏教の公伝を、538年のこととしたのは、民間では、ずっと早くから仏教が伝わってきていた、というようなことが影響しているかもしれません。

そのことを、つぎにお話しましょう。

■民間での仏教の伝来
『扶桑略記(ふそうりゃくき)』という平安朝末期に成立した歴史書があります。
第一代の神武天皇から、平安時代後期の第七十三代堀河天皇までの歴史を漢文で、年代をおって記した本です。

比叡山のお坊さんの皇円(こうえん)(?~1169)の編纂したものです。のちに浄土宗をひらいた法然(ほうねん)は、皇円の弟子です。
皇円は、お坊さんですから、仏教の歴史には、関心があったとみられます。
その『扶桑略記』の欽明天皇十一年(551)の条に、つぎのようなことが記されています。
「日吉(ひえ)山(比叡山)の薬恒(やくこう)法師の『法華験記』が、延暦寺の僧、禅岑(ぜんしん)の記したものを引用してのべています。
≪第二十七代継体天皇の十六年(522)壬寅(みずのえとら)(じんいん)の年(安本註。これは『日本書紀』 の年紀とあいます)の春の二月に、大唐の漢人、案部(くらつくり)の村主(すぐり)の司馬達人(しばたっと)が、わが国に来ました。大和の国の高市郡の坂田原に草堂をむすび、本尊を安置し、帰依(きえ)し礼拝しました。
世のなかの人は、みな言いました。
『これは、大唐の神である。』
寺(坂田寺か)の縁起にでています。≫
世にひそむ隠者(いんじゃ)が、以上の文をみていいました。
『欽明天皇以前に、唐の人が、仏像をもって来ましたが、流布しなかったのでした。』」
この文によれば、538年や552年よりかなりまえの、522年に、仏教が伝来していたことになります。

司馬達人の孫の鞍作の鳥(くらつくりのとり)は、推古天皇の十四年(606)に、飛鳥寺(元興寺)の仏像をつくった功績により、近江の国坂田郡の水田を、あたえられています。
『元興寺縁起』にも、司馬達人の名は、按師首達等(くらつくりのおびとたつと)として出て来ます。娘の斯末売(しまめ)が出家したという話です。
元興寺には、仏法が古く伝わったという伝承があったのかもしれません。あるいは、わが国への仏教の伝来をより古いものとみる傾向が、元興寺関係者にあったのかもしれません。
さらにさかのぽれば、「三角縁仏獣鏡」と呼ばれる仏像を鋳こんだ鏡が、四世紀、五世紀ごろ築造とみられる古墳から出土しています。
つぎのようなものです(古墳の築造年代は、大塚初重他編『日本古墳大辞典』『続日本古墳大辞典』〔いずれも、東京堂出版刊〕によります。)
(1)岡山県岡山市一宮(いちのみや)天神山1号噴出土の獣文帯三角縁三仏三獣鏡。天神山2号墳の築造時期が、四世紀後半。

(2)奈良県北葛城郡広陵町(こうりょうちょう)の新山(しんやま)古墳出土の獣文帯三角縁三仏三獣鏡。古墳は、四世紀後半ごろの築造。

(3)京都府向日市(むこうし)寺戸(てらど)大塚古墳後円部出土の櫛歯文帯(くしはもんたい)三角縁三仏三獣鏡。古墳は、四世紀末から五世紀初期の築造。

(4)京都府京都市の百々ヶ池古墳(どどがいけこふん)出土の櫛歯文帯三角縁三仏三獣鏡。古墳は、五世紀前半の築造か。

■他の538年資料は、新情報をもたらしていない
教科書検定裁判で知られる日本史家、家永三郎(いえながさぶろう)氏の著書『上宮聖徳法王帝説の研究』(三省堂、1951年刊)に、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』以外に、仏教の公伝の年を、538年のこととする三つの文献をあげています。
しかし、それらは、いずれも、後代の二次、三次情報のようにみえます。
つぎのとおりです。
(1)「三国仏法伝通縁起(さんごくぶっぽうでんつうえんぎ)の引用する大安寺(だいあんじ)審祥記」
[家永氏紹介の記事]「宣化天皇即位三年歳次戊午年」「十二月」
〔安本の考え〕『三国仏法伝通縁起』は、1311年の成立。戊午の年(五三八)を、宣化天皇の三年とみるのは、『元興寺縁起』『上宮聖徳法王帝説』系の文献資料により、仏教公伝の年を、まず「戊午の年」と定めたうえで、さらに、『日本書紀』の年紀により、「宣化三年」としたもの(前に示した「諸説・諸文献の年次の比較」の表参照)。つまり、後代の考察にもとづく記述。「十二月」は、『元興寺縁起』による情報。

(2)「仮字本末追考(かなのもとすえついこう)の引用する最勝王聊(経か)簡略集」「家永氏紹介の記事」「志貴嶋宮天皇御宇七年戊午」「十二月廿二日」
[安本の考え]『仮字本末追考』は、『仮名本末(かなのもとすえ)』を書いた伴信友(ばんのぶとも)(1773~1846)の作でしょうか。あるいは、『仮名本末考』を書いた、堀秀成(1819~1887)の作でしょうか。確かめられませんでした。「御宇」という表記は、『日本書紀』以後ごろの表記。
時代的に古くない。「十二月廿二日」の「十二月」は、『元興寺縁起』と共通。廿二日は出所不明。『上宮聖徳法王帝説』にみえる「十月十二日」の、「十二日」を誤り記したものでしょうか。

(3)「古今目録抄(ここんもくろくしょう)の引用する建興寺縁起」
[家永氏の紹介する記事]「広庭天皇御世治天下七年」「十二月十二日」
[安本の考え]『古今目録抄』は、1238年か、1239年ごろの成立。「広庭天皇御世」「治天下七年」「十二月」の表記は、『元興寺縁起』と共通。「十二日」は、『上宮聖徳法王帝説』と共通。新情報をもたらすものではなさそうです。

以上のようにみてきますと、仏教の公伝538年説の根拠は、『元興寺縁起』と『上宮聖徳法王帝説』の二つに記されている情報に、ほぼつきています。
この二つは、『古事記』『日本書紀』という二つの日本古代の代表的史書の記す情報に、よく対抗しうるものでしょうか。

私たには、弱きをたすけ、強さをくじきたい気持があります。
しかし、歴史を構成するばあい、史料として弱いものは、そのことを公平率直にみとめなければなりません。
弱いものに、やたらに肩いれすると、歴史の全体像がおかしくなってしまいます。

 

2.王莽(おうもう)の新の国と倭

■王莽のたてた国「新」 348-08
前漢の時代と後漢の時代とのあいだに、短い期間であるが、新の国の時代があった。新の国は、王莽(紀元前45~紀元後23)のたてた国である。
王莽は、前漢の第十代の皇帝、元帝の皇后の、弟の子であった。宮廷内で、政治の実権をにぎり、みずから真皇帝と称し、漢の国を奪った。そして、国号を「新」とした。「新」の国は、西暦8年から23年まで、足かけ16年つづいた。
『漢書』の「王莽伝」に、「東夷の王が、大海を渡って、国の珍宝をたてまつった。」という記事がある。
この「東夷の王」を、倭の王であるとする説がある。「東夷の王=倭王説」は、新の国で鋳造された「貨泉(泉は銭に通じる)」が、わが国で出土していることなどと結びつけて、論じられる。

■貨泉(かせん)について
貨泉は、中国で、後漢のつぎの王莽のたてた新の国の時代に鋳造されたコインである。
だいたい、十円玉ぐらいの大きさである。
貨泉が、新の国で、はじめて鋳造されたのは、『漢書』の「食貨志(しょっかし)」によれば、西暦14年とされている。
また、『漢書』の「王莽伝」によれば西暦20年とされている。
『漢書』の「王莽伝」をみると、「東夷の王」についての記事がみえるのは、漢の平帝の元始五(西暦5)年のところである。

王莽が「真天子」の位につく西暦9年のまえである。貨泉などを鋳造するよりも、10年ていどまえのところの記事である。
貨泉は、わが国では、北は北海道、南は沖縄県の遺跡から出土している。
また、時代的にも、弥生時代から、鎌倉・室町時代にいたる遺跡から出土している。
中国では、一世紀の遺跡はもちろんのこと、十四世紀後半の明代初期とみられる遺跡からさえ出土している。

中国の陝西省(せんせいしょう)から、20,680枚、105キロの貨泉が出土した例がある。また、漢代の五銖銭(ごしゅせん)の、昭帝以後の前漢後期の年間平均鋳造量が、一億五三八〇万枚ほどという。
貨泉も、おそらく億の単位で鋳造されたものなのであろう(塩谷勝利「中国出土王莽泉に関する覚書(上)(下)」[『季刊邪馬台国』110号、111号、2011年刊]参照。貨泉の出土地などについては、前著『大崩壊「邪馬台国畿内説」』参照)。

貨泉は、わが国からも出土する。そこで、貨泉の出土した遺跡を、西暦14年または西暦20年に近いものとし、それを、上の年代とする。そして、下の年代として、須恵器が五世紀ごろに出現するので、それをとる。そして、この上下の年代差を、その間にふくまれる土器の様式数でわる。
大ざっぱにいえば、このようにして、ある様式の土器の年代をきめていこうとする考えがある。
しかし、「貨泉」が、朝鮮半島をとおり、九州をとおり、岡山県をとおり、近畿にくるまでに、どれだけの年月がかかっているかは、正確には、知りようがない。
中国でも、わが国でも、新の王莽の時代からずっとのちの、千年以上のちの明代や、鎌倉・室町時代の遺跡からも、貨泉は出土しているのである。 348-09

考古学者の高倉洋彰氏は、つぎのようにのべ、警鐘をならしている。
「(貨泉によって、)弥生時代とされているもののなかに時期判断に疑わしい例のあることに気付いた。」
「古代末以降中世の遺跡からの出土銭は、遺跡数と出土数の双方ともに、弥生~古墳時代出土のそれよりも多い。」
「貨泉の出土時期に輻があることと、中国そのもので長期に流通していることから、弥生時代の実年代資料としては、ごく一部の資料を除いて使用できないことを意味している。貨泉の活用にあたっては慎重さが求められるのである。」(以上、高倉洋彰「王莽銭の流入と流通」[九州歴史資料館『研究論集』14 1989年」)

考古学者の橋口達也氏は、つぎのようにのべている。
「北部九州での貨泉などの出方をみると、必ずしも(弥生時代)後期初頭ないし前半に伴うものはきわめて少なく、その多くは後期後半の土器に伴うものである。また重量を単位とする貨幣でありながら薄くて軽いものとか、径の小さいものとかがあり、これらの多くは後漢後半の経済混乱期にわが国に流入した可能性が強いからである。」『甕棺と弥生時代年代論』(雄山閣、2005年刊、222ページ)
ここでは、わが国出土の「貨泉」が、「後漢後半」のころに、「わが国に流入した可能性が強い」ことが論じられている。「貨泉」は、私鋳もされ、王莽の新の時代以後の後漢の時代にも、鋳造されたとみられる。
後漢(25年~220年)の後半といえば、西暦200年前後である。

貨泉が、最初に鋳造された西暦14年または西暦20年と、およそ200年近い年代差がある。
中国で行なわれた年代と、わが国で行なわれた年代とのタイム・ラグ(年代差)を考えるうえでの、一つの参考となるであろう。[第344回講演の「多鈕細文鏡」なども、燕の滅亡は、西暦紀元前222年であるが、わが国の多鈕細文鏡は、前漢鏡(異体字銘帯鏡)が出現する前漢中期の紀元前一世紀ごろまで用いられていたのではないか。]
さらにまずいことに、貨泉は、現在までのところ、大阪府からは出土していても、奈良県からの出土例がしられていない。
そのため、貨泉によって、奈良県出土の土器の年代をきめようとすれば、さまざまな「解釈」を加えなければならない。その分だけ正確さは失なわれる。
なお、貨泉については、拙著『大崩壊「邪馬台国畿内説」』(勉誠出版、2012年刊)のなかで、わが国出土の貨泉の一覧表を示し、ややくわしく論じている。

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■「貨泉」の鉛同位体比データ
わが国出土の貨泉について、鉛同位体比の測定されているものをまとめると、下の表(「貨泉」の鉛同位体比)と図(「貨泉」の鉛同位体比)のようになる。
貨泉の鉛同位体比の分布は、すでにしらべた「昭明」「日光」「清白」「日有喜」鏡などの前漢以後の鏡の鉛の同位対比の主要分布域のなかに、すべてがおさまる。「昭明」「日光」「清白」「日有喜鏡」や、貨泉の示す鉛同位体比の分布が、洛陽や長安(西安ふきん)などの華北で行なわれていた青銅器の鉛同位体比の分布を示すものと考えてよいであろう。
これらは、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」などの「神獣鏡」の鉛の同位体比とは、大いに異なる。
ただ、「貨泉」の鉛同位体比の「密集率」は、前漢鏡系の銅と、魏の時代のころの鏡とみられる「小形仿製鏡第Ⅱ型」の鉛同位体比との中間の値を示している。
これは、「貨泉」の鋳造された新の国の、歴史上の位置と一致する。下の表(「貨泉」の鉛同位体比)をもう一度みてみよう。
そこに示されている十三個の貨泉のうち、十一個は、岡山県の高塚遺跡から出土したものである。
高塚古墳からは、鉛同位体比が測定されていないものもふくめれば、二十五枚の「貨泉」が出土している。

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青銅器の年代を中国の王朝から推定すると下の表のようになる。348-13

 

銅鐸は土器と一緒に出土しないので、年代を決めにくい。しかし鉛の同位体比を使い、前漢鏡、貨泉などから大まかな年代が分かる。その結果が下のグラフである。前漢、新、魏の時代と結び付けて推定できる。348-15

 

中国の洛陽焼溝漢墓・西郊漢墓から出てくる鏡に、年代が入った鏡が出てくる。これにより年代が推定できる。方格規矩鏡に注目すると、貨泉の王莽の時代から出始める。

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方格規矩鏡と方格規矩四神鏡については、下図参照。(下図はクリックすると大きくなります)

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