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第364回 邪馬台国の会
人文データサイエンス入門(第3回)
岡村秀典著『鏡が語る古代史』を読む
中国の燕の国と倭(燕史倭伝)


 

1.岡村秀典著『鏡が語る古代史』を読む

・「2000個を越す桃の種の年代測定はどうなった?」は省略します。

■はじめに
『鏡が語る古代史』は、京都大学教授の書いた本である。岩波書店から刊行されている。おもに、青銅鏡にみえる「銘文」を読んだものである。
しかし、その内容は、誤読、誤訳、勝手読みのオンパレードである。
京都大学と、岩波書店の名が泣く。
なぜ。こんなことになるのか。
「三角縁神獣鏡=魏鏡説」に、こだわりすぎるから、このようなことになるのである。 


■「青祥(せいしょう)」は、吉祥なのか
この本の奥付の著者の紹介に、つぎのように記されている。
「岡村秀典(おかむらひでのり)
1957年生、京都大学文学部卒業、文学博士。京都大学助手、九州大学助教授を経て、
現在-京都大学人文科学研究所教授。東アジア人文情報学研究センター長
専攻-中国考古学
著書-『三角縁神獣鏡の時代』(吉川弘文館、1999)
     『夏王朝』(講談社、2003)
     『中国古代王権と祭祀』(学生社、2005)
     『中国文明』(京都大学学術出版会、2008)
     『雲岡石窟の考古学』(臨川書店、2017)ほか」

岡村秀典氏は、北京大学への留学もされた方である。京都大学で、文学博士の学位もとっておられる。
そして、この本 『鏡が語る古代史』は、学術出版社の代表格ともいえる岩波書店から、新書の形で出されている。
にもかかわらず、この本は、誤読、誤訳、勝手読みの氾濫といってよい。これは、どうしたことか。

さっそく、例をあげることからはじめよう。
この本では、非常に多くの鏡の銘文の訳が示されている。
この本の79~80ページに、つぎのような文かある。(傍線を引いたのは安本。)
「岐阜県城塚(しろつか)古墳の出土と伝える『尚方作』獣帯鏡(五島美術館蔵)が制作された。径二十センチ、「永平七年」鏡と同じように四神を含む七体の瑞獣が内区にあらわされている。その銘文は整った七言八句で、次のようにいう。

尚方作竟大毋傷。
  尚方鏡(しょうほうかがみ)を作(つく)るに、大(おお)いに傷(きず)なし。
巧工刻之成文章。
  巧(たくみ)なる工(こう)は之(こ)れを刻(きざ)み、文章(ぶんしょう)を成(な)す。
左龍右乕辟不羊。
  左龍(さりゅう)と右虎(うこ)は不祥(ふしょう)を辟(しりぞ)く。
朱鳥玄武順陰陽。
  朱鳥(しゅちょう)と玄武(げんぶ)は陰陽(いんよう)を順(ととの)う。
子孫備具居中央。
  子孫(しそん)備具(びぐ)し、中央(ちゅうおう)に居(お)らん。
長保二親楽富昌。
  長(なが)く二親(にしん)を保(たも)ち、楽(たの)しみ富(と)み昌(さか)えん。
壽敝金石如矦王。
  寿(いのち)は金石(きんせき)とともに敝(つ)き 侯王(こうおう)の如(ごと)くあらん。
青盖爲志何巨央。
  青盖(せいしょう)の志(こころざし)を為(な)すや、何(なん)ぞ央(つ)きん。」

「カールグレンが考証したように、その『盖』(安本注。「青盖(せいしょう)」の「盖」)は『羊』に「皿」を加えた字で、『祥(しょう)』の仮借(かしゃ)であり、『青祥』は緑色の吉祥なる金属をいう。有志鏡工たちは『青盖』を雅号とするグループを 『尚方』工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」

安本注:かしゃ【仮借】〔名〕①漢字の分類法である六書(りくしよ)の一つ。ある意味を表わす漢字がない場合、意味は違うが同じ発音の既成の漢字を借用する方法。
たとえば、供物を盛る祭器を意味する「豆」という文字を、同音の植物を表わす文字に借用するようなもの。(『日本国語大辞典』小学館刊)
とあり、「『盖』は『羊』に「皿」を加えた字で、『祥(しょう)』の仮借(かしゃ)」としているが、仮借ではない。

この『青盖(せいしょう)』の読みと意昧とは正しいのか?

岡村秀典氏は、「青盖」は「青祥」で、「青祥」は「緑色の吉祥なる金属」と記す。
ところが、辞書を引いてみると、「青祥」という語には、「吉祥」的な意味がのっていないのである。「災禍を予兆するもの」「わざわい」というような意味しかのっていない。
収録漢字数世界最大級といわれる『漢語大詞典』(中国、漢語大詞典出版社刊)を引いてみる。

そこには、「青祥(せいしょう)」という成句がのっている。意味は、「青眚(せいせい)」のことであると記されている。そこで、「青眚」を引いてみる。すると、「青色の物によって、生みだされる(もので、)災禍をよく予兆する(あらかじめ知らせる)怪異現象をさす。」とある。このようなものが、グループの「雅号」などになりうるであろうか。
わが国で出されている漢和辞典に、諸橋轍次著の「大漢和辞典」(大修館書店刊)がある。この辞典は、説明文などをふくめた量において。世界最大とされている。
『大漢和辞典』にも、つぎのようにある。
「眚(せい)」については、「災(わざわ)い」「ふいに生じる災い」「疫病の流行など」とある。
「青祥(せいしょう)」については、「木神のわざわい」とある。
「青眚(せいせい)」については、「貌(ぼう)[外にあらわれる姿]を恭(うやうや)しくしないためにおこるわざわい。」とある。
いずれも、良(よ)い意味はない。
これらは、「吉祥」的なものとはいえない。
どこで、岡村氏は、誤りをおかしているのであろうか。
ここには、何重もの誤りが重なっているのである。

(1)岡村氏は、「祥」をかならず、「吉(よ)いきざし」の意味をさすものとしてしまっている。しかし、「祥」は、「吉いきざし」のみをさすとはかぎらない。「惡いきざし」もさす。
たとえば、藤堂明保編「学研 漢和大辞典」では、『春秋左氏伝』の「これなんの祥(きざし)ぞや、吉凶いづくに在(あ)りや」の文を引き、「祥」を、「吉凶にかかわらず、神の意向や、今後の運勢があらわれたもの。」と説明している。

(2)「盖」は、たしかに、「羊」に略されることがある。「祥」も、たしかに、「羊」に略されることがある。
だからといって、「盖」が、「祥」になったり、[祥]が「盖」になったりするわけではない。 「盖」と「祥」とが直接通じるというのなら、せめて、そのように使用されている事例をあげなければならない。 364-01
「盖」は。「漢語大詞典」は、①に、「蓋」と同じ、と記し、②に、「蓋」の字の簡化字(簡体字)である、としている。「蓋」は、ふつう「ガイ」と読み、「ふた」や「かさ」をさす。さらには、「きぬがさ(貴人にさしかざすかさ)」や「天蓋」などをさす。

「岡村秀典」氏を、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。「安本美典」のことも、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。しかし、だからといって「安本美典」が、 「岡本秀典」氏をさすことになるわけではない。
たとえば。藤原鶴来編「書源」(二玄社、1970刊)で、「蓋」の字を引けば、右図のようになっている。

そこには、各時代の「蓋(盖)」の字がみられるが、ここには、「祥」の字はない。

(3)辞書には、「青蓋(せいがい)」という熟語が、「青祥(せいしょう)」とは、別にのっている。「青盖(せいがい)」は、「青蓋(せいがい)」の意味にとるべきである。「青祥」の意味にとるべきではない。
諸橋轍次の『大漢和辞典』で、「青蓋」を引くと、「漢制(漢の制度で)、王の車に用いる青色のおおい。青蓋車を見よ。」とある。
「青蓋車」を引くと、「青色のおおいのある車。古く、皇太子・皇子または王の乗用としたもの。」とある。
「漢語大詞典」で、「青蓋」を引くと、「青色の車蓋。漢の制度で、皇太子や皇子の乗る車。」とある。また、「かりに、帝王を指す。」とも記されている。

駒沢大学の教授であった三木太郎氏は、「青羊作」という鏡の銘に関連し、つぎのようにのべる。(傍線は、安本)
「『青羊』の『羊』が『蓋』の省画体であることは、各種『青蓋』と鏡と『眚羊』鏡を比較すれば、暸然である。
「では、『青羊』が『青蓋』と同一だとして、どういう意味になるのであろう。『古鏡拓影』解説は、『青蓋』を『まさに人の姓名であろう』と推測し、根拠として『鄭樵の『通志』では青氏は名をもって氏となしたもので(注では古の天子名とある)、あるいは青陽氏の後という。晋の趙襄子の参乗の青荓(せいけん)が予譲の友であると『呂氏春秋』にみえている』と記す。しかし、『青盖陳尹(ちんい)作竟(=鏡)(青蓋の陳尹が作る鏡)』『青羊畢少郎作(青蓋の畢少郎が作る)』などの事例は、人名説と相入れない。とすれば『青蓋』が、皇太子や皇子の乗る車に用いる青色のおおいを意味し、転じて『故に王を青蓋車と曰う』 (『後漢書』志第二十九『輿服』上)とあることから推せば、王の機関のことか、との推量を可能にする。・・・・・(下略)」(『古鏡銘文集成』新人物往来社刊)

また、宮崎公立大学の教授であった奥野正男氏は、つぎのようにのべる。
「『青蓋』とは漢代天子の車にかける青色の覆いである。転じて天子の意とされるから、意味としては『尚方作』と同じであろう。」(『邪馬台国の鏡』梓書院2011年刊。205ページ)

さらに、岡山県都窪郡山手村宿の寺山古墳から出土した盤竜鏡では、「黄羊作竟」の銘がある。「黄羊」についても、三木太郎氏は、「王室の一機関と推定できる。」とする。
「黄蓋」という熟語も、辞書類にのっている。
「漢語大詞典」には、つぎのようにある。
「黄色の傘(かさ)、あるいは、黄色の車蓋。つねに、皇帝の車駕をさすのに用いる。」
「大漢和辞典」にも、「黄色のかさ」とある。さらに、「三羊作鏡」という銘のある鏡もある。

「三蓋」という熟語も、辞書にのっている。
諸橋轍次氏の「大漢和辞典」では、「三蓋」の項に、「三つのおおい。三蓋車を見よ。」とある。「三蓋車」の項では、「漢代の車の名。三蓋(三層の傘)があるので名づける。
天子親耕のとき[天子が、親(した)しく(あるいは、みずから)、農耕にたずさわるとき(これは、天子が、民に農業をすすめる儀式とみられる)]これに乗る。」とある。
「青蓋」「青羊」「黄羊」「三羊」などは 王室の機関名に由来するとみられる。
「呂氏」「張氏」「田氏」などのような「氏」がついていないことも、「青蓋」などが職人名ではないことを思わせる。
「青蓋」「黄蓋」「三蓋」は、いずれも、たがいに関連する意味をもつ。熟語として、いずれも、辞書にのっている。
以上から、「青蓋」「黄蓋」「三蓋」は、およそ、つぎのような意味内容をもつものと判断される。

「天子の御物(ぎょぶつ)[もちもの]を作ることをつかさどった役所に、『尚方(しょうほう)』があった。
その『尚方』のなかに、つぎのようなグループがあったとみられる。
(1)[青蓋(せいがい)]おもに、皇太子や王族のもちものの製作を担当したグループ。
(2)[黄蓋(こうがい)]おもに、皇帝のもちものの製作を担当したグループ。
(3)[三蓋(さんがい)]おもに、天子が。親しく農耕にでかけるときのもちものの製作を担当したグループ。」

なお、『時代別国語大辞典上代編』(三省堂刊)にのせられている「きぬがさ(蓋)」の説明を、つぎに示しておく。
この説明文のなかに、「身分によって色を変える」とあることに注意。
「きぬがさ[蓋](名)絹または織物で張った長い柄のかさ。神体・仏像の渡御や天皇・貴人の行列の際、後からさしかけ、左右に綱を引張って支える。儀制令によれば、貴人に用いる場合には、身分によって、色や四隅の錦・ふさなどを変えた。」

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■岡村秀典氏の解釈
以上のような理解に対し、岡村秀典氏はのべる。
「六〇年代に有志の鏡工たちが立ちあげた『青盖』工房は、しばらく獣帯鏡や盤龍鏡の制作をリードしていた。しかし『池氏』や『杜氏』ら個人工房の作品と比べると、マンネリ化は否めなかったためか、七〇~八〇年代に『青盖』は『青羊(せいしょう)』『黄盖(こうしょう)』『三羊(さんしよう』などの小工房に分裂した。
「盖(しょう)」は「羊(よう)[=祥(しょう)]」の仮借(かしゃ)で『青』と『黄』は銅を象徴し、『三』は鏡の原料となる三種の金属をいうから、いずれも同系の吉祥語である。

この解釈がよくないのは、つぎのようなことからいえる。
(1)「青祥」や「黄祥」という熟語があるが、いずれも、「吉祥句」とはいえない。「青祥」については、すでにみてきた。
「黄祥」という熟語については、『漢語大詞典』に、「災祥(わざわいのきざし)を、予示する黄色の物象。」「土の色の黄、黄眚(こうせい)、黄祥あり。」と記されている。「黄眚(こうせい)」の項に、「災異を予示する黄色の物象。」とある。

(2)「青蓋(せいがい)」「黄蓋(こうがい)」「三蓋(こうがい)」は、たがいに関連した意味をもつ熟語として、辞書にのっている。しかし、「青祥(せいしょう)」や「黄祥(こうしょう)」「三祥(さんしょう)」のほうは、「青祥」「黄祥」は、「わざわいのきざし」として辞書にのっているが、「三祥」という熟語は、辞書にのっていない。岡村氏の「三祥」の「三」は、「鏡の原料となる三種の金属をいう。」などは、岡村氏の想像的解釈というべきである。

総じて、岡村氏の訳読については、つぎのようなことがいえる。
(1)きちんと。一語一語辞書類をしらべることを行なっていない。

(2)三木太郎氏や奥野正男氏などの先人の説を参照していない。

さきに「青蓋」について、岡村氏は。スエーデンの東洋学者、カールグレンの説を引用する。しかし、そのカールグレンの説については、すでに中国の考古学者、王仲殊氏による批判がみられる。(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社、1992年刊」168ページ、「『青羊』とは」の文章」)

以上のようにみてくると、岡村秀典氏の、つぎのような訳読や説明は、いずれも誤りとみられる。(傍線は安本)
(1)「三羊宋氏作竟善有意。
  三羊(さんしょう)宋氏(そうし)鏡(かがみ)を作るに、善(よ)き意(おもい)有(あ)り。
良時日家大富。
  時日(じじつ)良(よ)ければ、家(いえ)は大(おお)いに富(と)まん。
宦至三公中常侍。
  仕(つか)うれば三公(さんこう)・中常侍(ちゅうじょうじ)に至(いた)らん。
長宜。
  長(なが)く宜(よろ)し。」

「『宋氏』はつづいて『青羊』と合作し、『青羊宋氏作』画像鏡を制作する。その銘文はやや特殊だが、図像文様には『宋氏』の個性があらわれ、作鏡者は『宋氏』であったのだろう。『青盖』の分解に端を発する工房間の再編成は、『青盖陳氏』や『三羊宋氏』『青羊宋氏』のように作鏡者名から追跡できる合作のほかに、銘文としてはのこらない鏡工や工房の吸収合併も少なくなかったと思われる。」(以上、岡村氏の著書の、108ページ。)

ここにみられる「三羊(さんしょう)」「青羊」などは、「三蓋(さんがい)」「青蓋(せいがい)」などと読むべきものとみられる。

(2)「黄盖作竟甚有畏、
  黄祥(こうしょう)鏡(かがみ)を作(つく)るに、甚(まこと)に威(おごそか)なり。
國壽無亟、 下利二親。
  国寿(こくじゅ)は極(きわ)まり無(な)く、下(しも)は二親(にしん)に利(よろ)し。
尭賜女爲帝君。
  尭(ぎょう)は女(むすめ)を賜(たま)い、帝君(ていくん)と為(な)す。
一母婦坐子九人。
  一母婦(いちぼふ)坐(ざ)し、子(こ)は九人(くにん)
翠盖覆貴敬坐盧、
  翠蓋(すいがい)は貴(き)を覆(おお)い、敬(つつし)みて盧(ろ)に坐(ざ)す。
東王父西王母哀萬民兮。
  東王父(とうおうふ)・西王母(せいおうぼ)は万民(ばんみん)を哀(いつく)しむ。

作鏡者の『黄盖』は『黄祥(こうしょう)』の仮借であろう。淮派の『青蓋』は一世紀末に『青羊』『黄羊』『三羊』など『盖(祥)』字の雅号を共有する小工房に分解したが(一〇五頁)、その一部は四川に移って広漢派の周辺で盤龍鏡などを制作していた。『黄蓋』や建寧(けんねい)二年(一六九)獣首鏡を制作した『三羊』は、その流れを引く小工房であろう。その鏡には広漢派と共通する文様が多ものの、『広漢西蜀』が四言の銘文を主に用いたのに対して、それらの鏡は七言を主とする銘文を用いたところに淮派の影響がのこっている。」(以上、岡村氏の著書の、157・158ページ。)

「黄盖」は、文字どおり、「黄盖(こうがい)」と読むべきであろう。「黄盖(こうしょう)=黄祥(こうしょう)」と読んだのでは、すでにみたように、「災祥を予示する物象」(『漢語大詞典』)になってしまう。
そもそも同じ銘文のなかに「黄盖(こうしょう)」のほかに「翠盖(すいがい)」ということばが、銘文のなかで、あきらかに、「貴(とうとい人)を覆(おお)い」という形ででてくる。それなのに、「黄盖」のほうは、「こうがい」と読まずに、「こうしょう」と読むのは、不自然である。また、「青盖(せいがい)」「黄盖(こうがい)」「翠盖(すいがい)」のように、色を意味する「青(せい)」「黄(こう)」「翠(すい)」と、「かさ」を意味する「盖(蓋)」とが結びついているのである。したがって、これらは、いずれも、本来、貴人にさしかける「蓋(かさ、おおい)」であると、なぜ、統一的に理解しないのであろうか。

 

■『全唐文』の「銅鏡鉗文」について
別の例をあげよう。
岡村秀典氏は、『鏡が語る古代史』のなかで、『全唐文』という文献の一部を引用し、つぎのようにのべる(岡村氏の本の224ページ。つぎの引用文に傍線を引いたのは、安本)
「それから六〇〇年ほど経った唐の文宗(ぶんそう)(在位八二七~八四〇)のとき、朝廷では卑弥呼への下賜品が話題になった。相次ぐ戦乱によって唐王朝はいちじるしく衰退していたところに、チベットの吐蕃(とばん)国が馬を要求してきたのである。その対応をめぐって朝廷では激論が戦わされ、数多くの軍功をあげていた王茂元(おうもげん)[安木注。これは「王茂元(おうぼうげん)」とカナをふるべきである。なぜなら①「元」を、漢音の「ゲン」で読んでいる。「茂」の漢音は、「ボウ」である。②漢音は唐代の長安音を写したもの(『広辞苑』)である。]は次のように上奏した。

むかし魏は倭国に酬(むく)いるに銅鏡・紺文(こんぶん)に止(とど)め、漢は単于(ぜんう)に遺(おく)るに犀毘(せいび)・綺袷(きごう)に過ぎず、ともに一介の使もて将に万里の恩とす。(「奏吐蕃交馬事宜状」) 364-03

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



この原文は『魏』と『漢』、『倭国』と『単于』、『銅鏡』と『犀毘』、『紺文』と『綺袷』が対句になっている。魏が倭国に贈った『銅鏡』は『魏志』倭人伝にみえる『銅鏡百枚』、『紺文』は『紺地句文錦』ほか各種の絹織物を二字に省略したものであり、漢が匈奴に贈った『犀毘』は『史記』匈奴伝などにみえる黄金の帯金具、『綺袷』は『服繍(ふくしゅう)袷綺衣・長襦(ちょうじゅ)・錦袍(きんぽう)」など各種の絹織物を二字に縮約したものである。要するに、魏は倭王に対して銅鏡と絹織物を与え、漢は匈奴単子に対して帯金具と絹織物を贈ったが、万里のかなたにある蛮夷に対して、それ以上の厚遇は前例がない、と王茂元は論じたのである。」

これは『全唐文』684巻にのっている文章である。
ここに岡村氏が引用している「全唐文」の文章は、魏から卑弥呼に与えられた鏡に関連して、以前問題になったことがある。2011年7月に刊行された『季刊邪馬台国』110号でも、とりあげられている。そのことについては、あとでのべよう。            
問題は、つぎのような点にある。岡村秀典氏が「全唐文」のなかの、「奏吐蕃交馬事宜状」として引用した文のなかにみえる「紺文(こんぶん)に止(とど)め」の「紺文」が、『全唐文』の原文では、上図にみられるように、「紺文」ではなく、「鉗文」になっている。

原文では、「金へん」の「鉗」になっているものを、岡村氏は、なんのことわりもなく、「糸へん」の「紺」に晝きかえている。その上で「魏志倭人伝」の「紺地句文錦」と結びつけているのである。勝手な書きあらためというべきである。岡村氏の本には、原文の写真などは示されていない。岡村氏の本だけを読む人には、そのように岡村氏によって書きかえが行なわれていることはわからない。
文字を、原文の「鉗」から「紺」へ書きあらためたのなら、そのように書きかえたことや。その理由を一言(ひとこと)のべるべきであろう。

たんに、原文の「鉗文」は「紺文」の誤字であると判断されたのか。それとも「鉗」は「甘」と省略されうるだろう、「紺」も「甘」と省略されうるだろう、よって、「鉗」は「紺」に等しいという論法によられているのか。(この論法は、すでに紹介した「盖」は「羊」に省略される、「祥」も「羊」に省略される、よって、「盖=祥」が成立する、という論法とほぽ同じである。さらには、「岡村秀典=安本美典説」も成立しそうな論法である。)
上図の左図にみえる「欽定」は、「君主の命による選定」(「広辞苑」)の意味である。「欽定」であるから、そうとう、ていねいに校正されているはずである。
また、上図の右図にみられるよう『全唐文』の他のテキストでも、この部分は、「鉗文」となっている。「紺文」の誤植の可能性は、低いようにみえる。

では、原文の「鉗文」が正しいとして、「銅鏡鉗文」は、どういう意味なのであろうか。『全唐文』のこの部分の記事が最初に問題になったのは、2011年のことである。聖徳大学(千葉県)の山口博教授か、「三角縁神獣鏡=特注説」(「三角縁神獣鏡」は、魏が倭に贈るために、特別に注文してつくった竸であるとする説)をとなえ、その根拠として、『全唐文』のこの記事をとりあげた。そして、その見解が『週刊新潮』の2011年の6月16日号に紹介されたのである。

そして、本誌、『季刊邪馬台国』の110号(2011年7月刊)において、この「鉗文」の意味について、私は、およそ、つぎのように論じている(今回、多少、加筆、訂正している)。
「『全唐文』のなかの『問題の記述』はつぎのようなものである。
〈昔、魏ハ倭国ニ酬(はなむけ)スルニ、銅鏡ハ鉗文(けんぶん)ニ止(とどめ)メ 漢ハ單于ニ遺(おく)ルニ犀毘綺袷(さいびきごう)ヲ過ゴサズ 並ビニ一介ノ使、将二万里ノ恩トス〉

この文で、ややわかりにくいのは『鉗文(けんぶん)』ということばと、『犀毘綺袷(さいびきごう)』ということばである。
とくに重要なのは、 『鉗文』の解釈である。これが、問題の核心である。
  『鉗文』について、山口博氏は、『これは倭国にとって禍々(まがまが)しい模様や銘文を刻むのをやめて、彼らの好むような銅鏡を作ってあげたと読める。いわば特注品を贈ったとあるわけです。』という。
ウーム。この解釈は正しいのであろうか。山口氏の独自の解釈というか、『特注説』を前提とした、いわぱ勝手な解釈のようにみえる。

『鉗(けん)』は『くびかせ、くびかせをつける、くつわをはめる』の意味である。
山口氏は、『くびかせ』は『禍々しい』ことなので、『鉗文』は『禍々しい模様や銘文』と解釈されたようである。
しかし、これは『超訳』というか、連想訳というべきである。というよりも、ほとんど誤読といってよい。その理由を、すこしくわしくお話しよう。
『鉗』には『禍々しい』などという意味はない。原義どおりにとるべきで、『鉗文(けんぶん)ニ止(とど)メ』は『文(ぶん)を鉗(けん)するに止(とど)め』で『文様』や『銘文』にくびかせをつける、つまり、あるていどの制限。制約をつけるにとどめ、ほどの意味とみられる。
つまり、多少粗悪な鏡も、特に立派でない鏡も、大きな鏡も、小さな鏡も、とくべつに制約条件はつけず、あるものを(かき)集めて与えた、というほどの意味のようにうけとれる。

ちなみに、中国のばあい、日本と異なり、鏡が、一つの墓のなかから、まとまって出土することは、かなりまれである。死者生前の使用物をうずめたからである。
『洛陽焼溝漢墓(らくようしょうこうかんぼ)』のばあい、総数95基の墓から、118面の銅鏡が出土している。一つの墓からの出土は、一、二面ていどである。
『洛陽晋墓』のばあいは、総数54基の墓から、24面の銅鏡が出土している。
一度に100面の鏡を集めるのは、なかなか大変であったことを思わせる。

『全唐文』の文のなかに、酬(はなむけ)したこと、酬(むく)いたこと、つまり、贈ったとは書いてあっても、『作ってあげた』『特注品を贈った』ことなどは、書いてないのである。『特注説』という前提をもっていないかぎり、山口氏のようには読めない。

たとえば、江戸時代の本居宣長が、藤貞幹(とうていかん)[藤原貞幹]の論文『衝口発(しょこうはつ)[口を衝(つ)いて発す]』を批判した著名な論文に、『鉗狂人(けんきょうじん)』がある。『鉗狂人』という文献名は、『広辞苑』にも一項目としてのっている。これは、藤貞幹が「口を衝いて発す」といっているから、本居宣長は『自由に言葉を発することができないように、くつわ(口輪の意昧)をはめる、制約する』といっているのである。
「鉗口令(かんこうれい)」(このぱあいの「鉗口(かんこう)」は、「鉗口(けんこう)」の慣用読み)といえば、あることがらについて、他人に話すことを禁ずる命令のことである。

[鉗狂人]を『禍々しい狂人』などと訳しては、たんに藤貞幹を罵倒していることになり、本居宣長の真意は伝わらない。
藤堂明保氏の『学研漢和大字典』(学習研究社刊)をみても、『鉗』には、「くびかせ」『くつわ』のような名詞の意味や、『くびかせをかける』『くつわをはめる』のような動詞の意味はのっていても、『禍々しい』のような形容詞の意昧はのっていない。
『鉗狂人』の『鉗』も『くつわをはめる』の、動詞の意味で用いられていることに注意。」


■「出土」と「採集」
岡村秀典氏が、原文をことわりなく書きあらためている例を、いま一つあげておこう。
岡村秀典氏は、『鏡が語る古代史』の214ページで、つぎのようにのべる。(傍線を引いたのは安本)。

「三角縁神獣鏡の成立
日本の古墳から大量に出土する三角縁神獣鏡にも、239~240年の魏の年号をもつ鏡がある。それも青龍二年鏡と同じように後漢鏡の模倣によって成立した。
そのうち景初(けいしょ)三年(239)『陳是(ちんし)[氏]作』に三角縁神獣鏡のモデルになったのは、190年ごろの画文帯同向式神獣鏡である。洛陽市吉利(きつり)区の出土例は、径一五センチ、鈕の右に西王母、左に東王公があり、外区の画文帯は時計回りにめぐっている。」
この文章の傍線部で、岡村秀典氏は、「出土例」と記す。
ところが、中国で出されている『洛鏡銅華上』(中国・科学出版社、2013年刊)の188ページをみると、この洛陽市吉利区の鏡は、「采集(採集)」と記されている。

364-04

つまり、この鏡は、「出土品」ではない。「採集品」なのである。
このような、微妙なことばのおきかえがある。「採集」品のばあい、贋造鏡がまじる可能性がある。中国では、贋造鏡がきわめて多い。そのことについては、拙著『邪馬台国大戦争』(勉誠出版、2017年刊)のなかで。かなりくわしく、多くの例をあげてのべた。
しかも、この中国で刊行された『洛鏡銅華』の本は、ほかならぬ岡村秀典氏の監訳で、わが国でも、『洛陽銅鏡』(科学出版社東京、2016年刊)として、出版されている。
そこでは、ちゃんと、「採集」と訳されている(翻訳本の、194ページ)。「出土」とは記されていない。
岡村氏の、この種の大ざっぱさは、かなり気になるところである。

2.中国の燕の国と倭(燕史倭伝)「倭は燕に属す」

■刺客、荊軻(けいか)
戦国時代の紀元前300年頃に北京から遼東半島の方に広がる燕という国があった。 364-05
燕の国といえば、燕が、滅びる数年まえに、燕の太子が、刺客の荊軻をおくり、秦王政(始皇帝)を殺そうとした話は、司馬遷の『史記』に記されている。よく知られた話である。
荊軻については第310回燕国の影を参照

 

■『山海経』のなかの「倭」
中国に『山海経(せんがいきょう)』という文献がある。
『山海経』は、古代中国の神話と地理のことを書いた本である。山や海の動植物のことや、金石のこと、また、怪談などを記す。十八巻からなる。
著者は不明である。古代中国の伝説上の聖王であった禹(う)が書いたともいい、また、禹の治水を助けた伯益(はくえき)が書いたともいう。もともと、ひとりの人が、ある特定の時代に書いたものではないとみられる。
『史記』を書いた司馬遷が読んでいる。前漢時代の学者の劉歆(りゅうきん)[紀元前53~紀元後21]が校定し、叙録(じょろく)(大まかな内容を記したもの。解説文)を書いている。
したがって、漢代にはすでに存在していた。戦国時代~秦・漢代の著述とみられる。

その『山海経』の第十二の「海内北経」のなかに、「倭」についての、つぎの文がある。「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」
この文は、現在、ふつう、つぎのように読み下されている。
「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」
燕は、中国の戦国時代の国の名である。
本田済(ほんだわたる)・沢田瑞穂(さわだみずほ)・高馬三良(こうまみよし)訳の『抱朴子 列仙伝・神仙伝 山海経』平凡社、1973年刊)では、この部分は、つぎのように日本語に訳されている。
「蓋国(がいこく)は強大なる燕(えん)の南 倭(わ)の北にあり、倭は燕に属す。」

史礼心・季軍注の『山海経』(中国・華夏出版社、2005年刊)では、「蓋国」などについて注をつけている。日本語に訳すと、つぎのようになる。
「蓋国(がいこく)郝懿行(かくいこう)[清代の学者、1757~1825]の注に、つぎのようにある。
『三国志』の『魏志』の『東夷伝』にいう。
『東沃沮(とうよくそ)は、高句麗の蓋馬大山(がまたいざん)の東にある。』
『後漢書』の『東夷伝』にも、同じ文がある。」
「李賢(唐の高宗の子。『後漢書』の注を行なった)の註にいう。
『蓋馬は、県名である。玄莬郡(げんとぐん)に属す。』
  いま考えるに、『蓋馬』は、もと蓋国であった疑いがある。
『鉅燕』は、大燕国のことである。」364-06

中国語学者の藤堂明保訳の『倭国伝』(学習研究社、1985年刊)では、「蓋馬大山(がいまたいざん)」に注をつけ、「蓋馬(けま)高原(注:右地図参照)全体を指すか。」と記している。
なお、『山海経』の「海内北経」には、朝鮮について、つぎのように記している。
「朝鮮は、列陽河の東にある。海の北、山の南である。列陽河は、燕に属す(朝鮮在列陽東、海北山南。列陽属燕)。」
さきに紹介した史礼心・李軍注の『山海経』には、つぎのようなことが記されている。
「郭璞(かくぼく)(276~324。晋の時代の詩人、卜筮家(ぼくぜいか)。『晋書』に伝がある)の注にいう。
『朝鮮は、今、楽浪郡にある。箕子(きし)の封ぜられたところである。列は水(川)の名である。今、帯方にある。帯方は列水の河口の県である。』」
『山海経』は、また第十三の「海内東経」において、つぎのように記す。
「[中国の海内(かいだい)(国内)のうち、]強大なる燕は、 北の隅(すみ)にある。(鉅燕在東北陬)」
地図をみれば、燕の国が、中国の戦国時代において、中国の東北のすみにあったことがわかる。

364-07


■『山海経(せんがいきょう)』の文章の別の読み方
さきに、『山海経』のなかにある
「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」
の読み方として、つぎのようなものを示した。
「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」
現代中国の学者たちも、このように読んでいる。これは、スタンダードな読み方である。ただし、中国の学者のこの部分の読み方は、現代日本人の学者の標準的な読み方の影響をうけているかもしれない。
『山海経』のさきの文章については、別の読み方も成立しうる。
別の読み方が、江戸時代中期の国学者、松下見林(まつしたけんりん)[1637~1704]の著書『異称日本伝』のなかにみえる。
『異称日本伝』は、おもに、中国の諸書のなかの日本に関する記事をあつめて編集した本である。
その『異称日本伝』の冒頭(ぼうとう)で、松下見林は『山海経』の文章を紹介している。
松下見林はつぎのように読んでいる。
「南倭北倭属燕」
すなわち、さきの文章は、つぎのように読むべきだとしている。
「蓋国は鉅燕にあり。南倭北倭は燕に属す。」
この読み方でも、倭が燕に属していることには、変わりがない。
ただ、「南倭北倭」とは、なんだろう。
ひとつの解釈として、つぎのような考え方がなりたつ。

前の地図 をみればわかるように、『三国志』の時代、朝鮮半島の南部にも、「倭」はいた。これが古代的状況であるとしよう。すると、
「南倭北倭」
は、海の北の「倭」も、海の南の「倭」も、の意味に理解することができる。
『三国志』の「東沃沮(とうよくそ)伝」には、
「東沃沮は、高句麗の蓋馬大山(がいまたいざん)の東に在り。」
と記されている。
通説のように、「蓋国(がいこく)」を、高句麗の蓋馬大山のあたりとすると、地図をみればわかるように
「蓋国は鉅燕の東、朝鮮(または、諸韓国)の北にあり。」
とならなければ、地理的に、すこしあわないようにみえる。高句麗の蓋馬大山のあたりと「倭」とは、はなれすぎているようにみえる。
なお、「蓋国在鉅燕」の「蓋」は、「けだし」「おもうに」「全体を大まかに考えると」の意味もある。したがって、「蓋国在鉅燕」は、「大まかに考えると、国(くにぐに)で、鉅燕にあるのは、……(以下、倭のこと、朝鮮のことなどを記す。)」の意味にとれないこともないように思う。 「国」には、むかしは、「諸侯などの領地」の意味があった。


■『漢書』「地理志」のなかの「倭」
『漢書』は、前漢の歴史を記した本である。後漢の班固の撰。西暦82年ごろに成立した。
『漢書』の「地理志」の下の巻の燕地の条に、つぎのような文章がある。
「楽浪の海のかなたに、倭人がおり、百余国に分かれ、歳時(季節)ごとに来て、物を献上し見(まみ)えた[見(まみ)える]、という。(楽浪海中有倭人分為百余国、以歳時来献見云)」
この文章の問題点は、二つある。一つ目は「燕地」の条に記されていること、二つ目は、おしまいが「云う」と伝聞になっていることである。
したがって、「献上し見えた」対象が、「燕」であるとも「漢」であるとも読める。
すなわち、つぎの二とおりの読み方が成立しうる。

(1)かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見(まみ)えたという話だ。

(2)かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に、)やって来て、漢に対して物を献上、見(まみ)えると聞いている。

ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、つぎのように記されている。
「倭は、韓の東南大海の中にある。(倭人は、)山島によりて居(すまい)を為(つく)る。およそ、百余国である(あるいは、百余国であった)(前)漢の武帝が[衛氏(えいし)朝鮮を滅ぼしたのち、漢に通訳と使者を派遣してきたのは、三十ヵ国ほどである。」
また、『魏志倭人伝』の冒頭には、つぎのように記されている。

「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島(しま)のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十ヵ国である。」

これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十ヵ国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。
つまり、さきの『漢書』「地理志」の倭についての記事は、燕の時代のことの伝聞のようにみえる。
もともと、『漢書』の「地理志」の燕地の条の記載は、各地の伝統的風俗を述べている部分の一つとして、かつての燕の地で行なわれていたことを述べている部分に記されているものである。 364-08


■細形銅剣の原料は、燕から?
倭がかつて燕に属し、燕と倭とが関係をもっていたことを、あるていど示す考古学的事実もある。
それは、わが国の甕棺から出土する細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈の原料が、燕から来ているのではないかとみられる事実があるのである。
表をご覧いただきたい。表は、2011年になくなった考古学者、橋口達也著の『甕棺と弥生時代年代論』(雄山閣、2005年刊)にのせられている表の一部である。ただし、表中の太ワクは’安本が付した。
表をみれば、甕棺から出土している副葬品が、甕棺の時期によってかなりはっきりと、つぎの二つにわかれていることがわかる。

(1)初期の甕棺では、細形銅剣(16例)、細形銅矛(5例)、細形銅戈(3例)、多鈕細文鏡などが出土している。

(2)それよりあとの甕棺では、「昭明鏡」「清白鏡」「日光鏡」などの、いわゆる前漢鏡や鉄が出土しはじめる。

そして、細形銅剣などと、昭明鏡・清白鏡・日光鏡などとは、銅の原料が、異なっているとみるべき根拠がある。
細形銅剣などの原料は燕の地から来た可能性があり、昭明鏡などの原料は、華北の洛陽あたりから来た可能性が強い。
銅の生産地や青銅器の製作年代を、あるていど知ることができる研究に、銅の中に含まれている鉛についての研究がある。
鉛には、質量(乱暴にいえば地球上ではかったばあいの重さ)の異なるものがある。鉛は、四つの、質量の違う原子の混合物である。その混合比率(同位体比)が産出地によって異なる。鉛には、質量数が、204、206、207、208のものがある。つまり、四つの同位体(同じ元素に属する原子で、質量の違うもの)がある。鉱床の生成の時期によって、鉛の同位体の混合比率が異なる。いわば、黒、白、赤、青の四種の球があって、その混合比率が、産出地によって異なるようなものである。
鉛同位体比研究の重要な意味は、青銅器に含まれる鉛の混合率の分析によって、青銅器の製作年代を、あるていど推定する手がかりが与えられることである。
とくに、質量数207の鉛と206の鉛との比(Pb-207/Pb-206 Pbは鉛の元素記号をあらわす)を横軸にとり、質量数208の鉛との比(Pb-208/Pb-206)を縱軸にとって、平面上にプロットすると、多くの青銅器がかなり整然と分類される。

それによって、青銅器の製作年代などを考えることができる。
すなわち、古代の青銅器は、大きくつぎの三つに分類される(図参照)。

36-09

(1)「直線L」の上に、ほぼのるもの
もっとも古い時期のわが国出土の青銅器のデータは、この直線の上にほぼのる。「直線L」の上にのる青銅器またはその原料は、雲南省銅あるいは中国古代青銅器の銅が、燕の国を通じて、わが国に来た可能性がある。細形銅剣、細形銅矛、細形銅戈、多鈕細文鏡などは、「直線L」の上にのるグループに属する。

「直線L」の上にのる鉛を含む青銅器を、数多くの鉛同位体比の測定値を示した馬淵久夫氏(東京国立文化財研究所名誉研究員、岡山県くらしき 作陽大学教授)らは、朝鮮半島の銅とするが、数理考古学者の新井宏氏は、くわしい根拠をあげて、雲南省銅あるいは中国古代青銅器銅とする。(新井宏著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』[大和書房、2007年刊]および、『季刊邪馬台国』74号の新井宏氏の論文「鉛同位体比による青銅器の鉛産地をめぐって」参照)。

(2)「領域A」に分布するもの
甕棺から出土する前漢・後漢式鏡、箱式石棺から出土する「長宜子孫」銘内行花文鏡、小形仿製鏡第Ⅱ型、そして、広形銅矛、広形銅戈、近畿式・三遠式銅鐸などは、「領域A」に分布する。弥生時代の国産青銅器の多くも、この領域にはいる。

(3)「領域B」に分布するもの 三角縁神獣鏡をはじめ、古墳から出土する青銅鏡の大部分は「領域B」にはいる。ほぼ、西暦300年ごろから400年ごろに築造されたとみられる前方後円墳から出土する鏡の多くは、この領域にはいる。

客観的な事実は、以上のようなものとみられる。

 

■細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈の鉛同位体比
わが国から出土するもっとも古い青銅器とみられる「細形銅剣」「細形銅矛」「細形銅戈」などの鉛同位体比をみてみよう。
馬淵久夫氏らが、すでに発表しておられる諸論文から、「細形銅剣」に関するデータをすべてとりだす。
その、Pb-207/Pb-206とPb-208/Pb-206との値を示せば、下表のようになる。 364-10

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



上表のデータをグラフ上にプロットすれば、下図のようになる。

364-11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




上図をみれば、細形銅剣についてのデータが、ほぼ「直線L」の上にのる形で、広い範囲に分布していることがわかる。

上図をみれば、甕棺から出土した細形銅剣も、甕棺出土以外の細形銅剣も、ほぼ同じように「直線L」にのっているようにみえる。
「直線L」の上にのる形で、広い範囲に分布するものとしては、つぎのようなものがある①細形銅剣  ②細形銅矛  ③細形銅戈  ④多鈕細文鏡   ⑤初期銅鐸

おそらく、これらは、ほぼ同時期に製作されたものであろう。

馬淵久夫氏らが、朝鮮半島産とした「直線L」上にほぼのるものを、新井宏氏は殷・周などの、中国古代青銅器につながるもので、中国の雲南省産のものであろう、とする。
この新井宏氏の指摘は、きわめて重要な指摘である。そこで、私も新井宏氏が用いられたのと別のデータによって、チェックしてみた(下図)。

364-12

たしかに、上図でも、新井宏氏が示すデータでも、朝鮮半島のもの(下図)よりも、殷代の青銅器や、中国奥地の四川省の広漢市の三星堆遺跡出土の青銅器のほうが、はるかによく直線Lの上にのっている。

364-13

しかし、四川省は、日本からはるかに遠くはなれている。なぜ、こんな現象がおきているのであろうか。

 

■新井宏氏提出の仮説
新井宏氏は、この現象について、その著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)のなかで、有力な仮説を提出している。

すなわち、新井宏氏は、つぎのように述べる。
・「燕国将軍・楽毅(がっき)が斉から奪った宝物類が原料
(このような現象が起きたのは、)おそらく中国の中原地方などで宝物類として伝世された青銅器が、なんらかの理由で再溶解された状況を想定するのが、最も理解しやすい。
貴重な青銅器なら五百年以上伝世された可能性が十分にあるのは、奈良時代の青銅器が多数残っているのをみればよくわかる。
そのように考えると、その入手時期として最も可能性の高いのは、『史記』が伝える燕の昭王二十八年(前284年)の斉・臨澑(りんし)(蓄)の攻撃である。これは燕が楚と三晋(さんしん)(晋の後継者とみられる戦国時代の越、魏、韓の国)と秦と連衡し、一時的に都臨澑を陥落させた事件であるが、その際に伝世の宝物類を戦利品等として入手している。
『史記』はその『楽毅列伝』において、燕国の将軍・楽毅が斉の首都臨澑を陥とし、斉の宝物類を根こそぎ奪って昭王のもとに送り届けたことを『楽毅攻入臨蕾、尽取斉宝財物祭器輸之燕(楽毅は臨澑に攻めいり、斉の宝財物をことごとく取って、これを燕にはこんだ)』と伝えている。また同じく『史記』の『田敬伸完世家』も、莒に逃れた斉の湣王(びんおう)を救援にきた楚の淖歯(とうし)が、逆に淖王を殺した際に、燕の将(楽毅)と宝物を山分けにしたことも伝えている。おそらく、その前々年(286年)に斉は安徽省・河南省にあった宋を滅ぼし併合しているので、そのときの戦利品もそこには含まれていたに違いない。このような理解は、全体的にみて、整合的であり、無理がない。すなわち、貴重な伝世の青銅器の入手であるなら、この昭王の時以外を想定することは困難である。
逆にいえば、商周期の鉛同位体比をもつ青銅器が、五百年以上もたってから燕や朝鮮半島、日本に現れた現象を説明できる仮説は、現在のところ前記の想定以外には全く見出すことが困難なのである。」

ここでも、戦国時代の燕が登場してくる。
新井氏の提出した仮説が正しいとすると、わが国で、細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈が登場するのは、西暦紀元前284年以後でなければならないことになる。

燕の貨幣といわれる明刀銭(めいとうせん)が、朝鮮半島南部や、わが国の沖縄県那覇市から出土している(確実さに欠けるが、広島県三原市からも出土したといわれる)。これも、燕の文化の伝播を物語っている。

ただ、「直線L」上にほぼのる青銅器が、殷・周などの中国古代青銅器につながる理由として、新井宏氏とはやや異なる以下のような仮説も考えることができる。

 

■考古学者、甲元真之(こうもとまさゆき)氏の論文
古代の燕の国の都の薊(けい)は、現在の北京ふきんにあった(前の地図参照)。
現在、熊本大学名誉教授の考古学者、甲元真之氏の論文に、「燕の成立と東北アジア」(田村晃一編『東北アジアの考古学』【六興出版、1990年刊】所収)がある。
この論文のなかで、甲元真之氏は、つぎのようにのべる(傍線を加えたのは、安本)。

「北京市内には墓の他に殷末周初の青銅器を出土する埋納遺跡がある。」
「いずれの器種も殷の伝統を強く残すもので、……」
殷の余民を率いて北方に進出した燕は、埋納遺跡の分布にみられるように大凌河の下流域まで到達した(成王の頃)。ところが、河北省の北部、内蒙古南部、遼寧省西部の各地で数多く発見される有柄式銅剣にみるように、やがて燕山山脈より撤退を余儀なくされた。そこで燕侯の支配下にあった殷の余民は、白浮村墓にみられるように、自らを武装化して再度北方に進出し、大凌河の上流域に達した(康王期)。
埋納遺跡に二時期あり、康王期の燕の墓の副葬品に武器の多くなることは、こうした状況を反映しているものと思われる。大凌河の上流域が燕と北方民の接点であったことは、西周の後期頃になり、南山根遺跡に代表される北方的要素を備えた新しい青銅器文化がこの地で開花したことでも知ることができよう。」
ここに名のみえる「成王」「康王」は、いずれも、古代中国の周王朝の王名である。
図の周王朝と燕王朝の系譜をご覧いただきたい。
(1)この系譜中の、「文王」の子の「武王」は、前王朝の殷の国を滅ぼした人である。
(2)「文王」の子の「召公爽(しょうこうせき)」(~紀元前1053年)は、燕の最初の支配者である。司馬遷の『史記』の「燕召公世家(しょうこうせいか)」に、「周の武王が紂(ちゅう)(殷朝の最後の王)を滅ぼすと、召公を北燕(北方の燕)に封(ほう)じた。」とある。

甲元真之氏は、さきの論文のなかで、また記す。
「1975年の『考古』第五期に掲載された晏琬(あんえん)氏の『北京、遼寧出土銅器与周初的燕(北京、遼寧出土銅器と周初の燕)と題する論文は、北京市琉璃河遺跡で発見された銅器の銘文から、周初における燕の実在を論証した画期的なものである。晏氏はこの中で、琉璃河の年代を成王・康王の時期のものとし、 匽(えん)侯の銘文に示すものは初代の燕侯である召公奭(せき)の子の召公旨であり、旨が北京地方に赴いて、銅器の銘文にみられる攸(しゅう)や?(き)、復と主従関係にあったことを示した。さらに遼寧省喀左(かくさ)県北洞村や馬廠溝出土の銅器の銘文より、燕の支配地域が彼の地にまでおよんだこと、伝説にいう孤竹国の実在などにも言及したのである。」 364-14

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

王建新氏の著書や、甲元真之氏の論文などを読むと、燕の国の青銅器文化には、殷の国の遺民が関係しており、燕の国では、もともと、殷の国系の青銅器をもっていた可能性も、うかびあがる。
また、さきの甲元真之氏の論文では、北京市の北郊の昌平県にある自浮村の西周時代の墓から、鏡とともに、多くの甲骨や卜骨が伴出したことが記されている。北京市の北郊といえば、燕の国の都、薊(けい)の近くである。
『魏志倭人伝』には、倭人は、「骨を灼(や)いて卜(ぼく)し、吉凶をうらなうとある。『古事記』の神話にも、鹿の肩の骨でうらなった話がみえる。そして、わが国の、弥生時代後期の遺跡から、鹿の肩甲骨(けんこうこつ)に焼けたあとのある卜骨が出土している。
あるいは、古代殷(いん)の国の遺風が、燕の国をへて、わが国に伝わったものであろうか。

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