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第364回 邪馬台国の会(2017.11.26 開催)
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1.岡村秀典著『鏡が語る古代史』を読む
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・「2000個を越す桃の種の年代測定はどうなった?」は省略します。 ■はじめに
岡村秀典氏は、北京大学への留学もされた方である。京都大学で、文学博士の学位もとっておられる。 さっそく、例をあげることからはじめよう。 尚方作竟大毋傷。 「カールグレンが考証したように、その『盖』(安本注。「青盖(せいしょう)」の「盖」)は『羊』に「皿」を加えた字で、『祥(しょう)』の仮借(かしゃ)であり、『青祥』は緑色の吉祥なる金属をいう。有志鏡工たちは『青盖』を雅号とするグループを 『尚方』工房の中に立ちあげ、「尚方作」の本鏡を試作したのである。」 安本注:かしゃ【仮借】〔名〕①漢字の分類法である六書(りくしよ)の一つ。ある意味を表わす漢字がない場合、意味は違うが同じ発音の既成の漢字を借用する方法。 この『青盖(せいしょう)』の読みと意昧とは正しいのか? 岡村秀典氏は、「青盖」は「青祥」で、「青祥」は「緑色の吉祥なる金属」と記す。 そこには、「青祥(せいしょう)」という成句がのっている。意味は、「青眚(せいせい)」のことであると記されている。そこで、「青眚」を引いてみる。すると、「青色の物によって、生みだされる(もので、)災禍をよく予兆する(あらかじめ知らせる)怪異現象をさす。」とある。このようなものが、グループの「雅号」などになりうるであろうか。 (1)岡村氏は、「祥」をかならず、「吉(よ)いきざし」の意味をさすものとしてしまっている。しかし、「祥」は、「吉いきざし」のみをさすとはかぎらない。「惡いきざし」もさす。 (2)「盖」は、たしかに、「羊」に略されることがある。「祥」も、たしかに、「羊」に略されることがある。 「岡村秀典」氏を、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。「安本美典」のことも、「典ちゃん」と略す人がいるかもしれない。しかし、だからといって「安本美典」が、 「岡本秀典」氏をさすことになるわけではない。 そこには、各時代の「蓋(盖)」の字がみられるが、ここには、「祥」の字はない。 (3)辞書には、「青蓋(せいがい)」という熟語が、「青祥(せいしょう)」とは、別にのっている。「青盖(せいがい)」は、「青蓋(せいがい)」の意味にとるべきである。「青祥」の意味にとるべきではない。 駒沢大学の教授であった三木太郎氏は、「青羊作」という鏡の銘に関連し、つぎのようにのべる。(傍線は、安本) また、宮崎公立大学の教授であった奥野正男氏は、つぎのようにのべる。 さらに、岡山県都窪郡山手村宿の寺山古墳から出土した盤竜鏡では、「黄羊作竟」の銘がある。「黄羊」についても、三木太郎氏は、「王室の一機関と推定できる。」とする。 「三蓋」という熟語も、辞書にのっている。 「天子の御物(ぎょぶつ)[もちもの]を作ることをつかさどった役所に、『尚方(しょうほう)』があった。 なお、『時代別国語大辞典上代編』(三省堂刊)にのせられている「きぬがさ(蓋)」の説明を、つぎに示しておく。
(2)「青蓋(せいがい)」「黄蓋(こうがい)」「三蓋(こうがい)」は、たがいに関連した意味をもつ熟語として、辞書にのっている。しかし、「青祥(せいしょう)」や「黄祥(こうしょう)」「三祥(さんしょう)」のほうは、「青祥」「黄祥」は、「わざわいのきざし」として辞書にのっているが、「三祥」という熟語は、辞書にのっていない。岡村氏の「三祥」の「三」は、「鏡の原料となる三種の金属をいう。」などは、岡村氏の想像的解釈というべきである。 総じて、岡村氏の訳読については、つぎのようなことがいえる。 (2)三木太郎氏や奥野正男氏などの先人の説を参照していない。 さきに「青蓋」について、岡村氏は。スエーデンの東洋学者、カールグレンの説を引用する。しかし、そのカールグレンの説については、すでに中国の考古学者、王仲殊氏による批判がみられる。(王仲殊著『三角縁神獣鏡』「学生社、1992年刊」168ページ、「『青羊』とは」の文章」) 以上のようにみてくると、岡村秀典氏の、つぎのような訳読や説明は、いずれも誤りとみられる。(傍線は安本) 「『宋氏』はつづいて『青羊』と合作し、『青羊宋氏作』画像鏡を制作する。その銘文はやや特殊だが、図像文様には『宋氏』の個性があらわれ、作鏡者は『宋氏』であったのだろう。『青盖』の分解に端を発する工房間の再編成は、『青盖陳氏』や『三羊宋氏』『青羊宋氏』のように作鏡者名から追跡できる合作のほかに、銘文としてはのこらない鏡工や工房の吸収合併も少なくなかったと思われる。」(以上、岡村氏の著書の、108ページ。) ここにみられる「三羊(さんしょう)」「青羊」などは、「三蓋(さんがい)」「青蓋(せいがい)」などと読むべきものとみられる。 (2)「黄盖作竟甚有畏、 作鏡者の『黄盖』は『黄祥(こうしょう)』の仮借であろう。淮派の『青蓋』は一世紀末に『青羊』『黄羊』『三羊』など『盖(祥)』字の雅号を共有する小工房に分解したが(一〇五頁)、その一部は四川に移って広漢派の周辺で盤龍鏡などを制作していた。『黄蓋』や建寧(けんねい)二年(一六九)獣首鏡を制作した『三羊』は、その流れを引く小工房であろう。その鏡には広漢派と共通する文様が多ものの、『広漢西蜀』が四言の銘文を主に用いたのに対して、それらの鏡は七言を主とする銘文を用いたところに淮派の影響がのこっている。」(以上、岡村氏の著書の、157・158ページ。) 「黄盖」は、文字どおり、「黄盖(こうがい)」と読むべきであろう。「黄盖(こうしょう)=黄祥(こうしょう)」と読んだのでは、すでにみたように、「災祥を予示する物象」(『漢語大詞典』)になってしまう。
■『全唐文』の「銅鏡鉗文」について むかし魏は倭国に酬(むく)いるに銅鏡・紺文(こんぶん)に止(とど)め、漢は単于(ぜんう)に遺(おく)るに犀毘(せいび)・綺袷(きごう)に過ぎず、ともに一介の使もて将に万里の恩とす。(「奏吐蕃交馬事宜状」)
これは『全唐文』684巻にのっている文章である。 原文では、「金へん」の「鉗」になっているものを、岡村氏は、なんのことわりもなく、「糸へん」の「紺」に晝きかえている。その上で「魏志倭人伝」の「紺地句文錦」と結びつけているのである。勝手な書きあらためというべきである。岡村氏の本には、原文の写真などは示されていない。岡村氏の本だけを読む人には、そのように岡村氏によって書きかえが行なわれていることはわからない。 たんに、原文の「鉗文」は「紺文」の誤字であると判断されたのか。それとも「鉗」は「甘」と省略されうるだろう、「紺」も「甘」と省略されうるだろう、よって、「鉗」は「紺」に等しいという論法によられているのか。(この論法は、すでに紹介した「盖」は「羊」に省略される、「祥」も「羊」に省略される、よって、「盖=祥」が成立する、という論法とほぽ同じである。さらには、「岡村秀典=安本美典説」も成立しそうな論法である。) では、原文の「鉗文」が正しいとして、「銅鏡鉗文」は、どういう意味なのであろうか。『全唐文』のこの部分の記事が最初に問題になったのは、2011年のことである。聖徳大学(千葉県)の山口博教授か、「三角縁神獣鏡=特注説」(「三角縁神獣鏡」は、魏が倭に贈るために、特別に注文してつくった竸であるとする説)をとなえ、その根拠として、『全唐文』のこの記事をとりあげた。そして、その見解が『週刊新潮』の2011年の6月16日号に紹介されたのである。 そして、本誌、『季刊邪馬台国』の110号(2011年7月刊)において、この「鉗文」の意味について、私は、およそ、つぎのように論じている(今回、多少、加筆、訂正している)。 この文で、ややわかりにくいのは『鉗文(けんぶん)』ということばと、『犀毘綺袷(さいびきごう)』ということばである。 『鉗(けん)』は『くびかせ、くびかせをつける、くつわをはめる』の意味である。 ちなみに、中国のばあい、日本と異なり、鏡が、一つの墓のなかから、まとまって出土することは、かなりまれである。死者生前の使用物をうずめたからである。 『全唐文』の文のなかに、酬(はなむけ)したこと、酬(むく)いたこと、つまり、贈ったとは書いてあっても、『作ってあげた』『特注品を贈った』ことなどは、書いてないのである。『特注説』という前提をもっていないかぎり、山口氏のようには読めない。 [鉗狂人]を『禍々しい狂人』などと訳しては、たんに藤貞幹を罵倒していることになり、本居宣長の真意は伝わらない。
「三角縁神獣鏡の成立 つまり、この鏡は、「出土品」ではない。「採集品」なのである。 |
2.中国の燕の国と倭(燕史倭伝)「倭は燕に属す」 |
■刺客、荊軻(けいか)
■『山海経』のなかの「倭」 その『山海経』の第十二の「海内北経」のなかに、「倭」についての、つぎの文がある。「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」 史礼心・季軍注の『山海経』(中国・華夏出版社、2005年刊)では、「蓋国」などについて注をつけている。日本語に訳すと、つぎのようになる。 中国語学者の藤堂明保訳の『倭国伝』(学習研究社、1985年刊)では、「蓋馬大山(がいまたいざん)」に注をつけ、「蓋馬(けま)高原(注:右地図参照)全体を指すか。」と記している。
前の地図 をみればわかるように、『三国志』の時代、朝鮮半島の南部にも、「倭」はいた。これが古代的状況であるとしよう。すると、
(1)かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見(まみ)えたという話だ。 (2)かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に、)やって来て、漢に対して物を献上、見(まみ)えると聞いている。 ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、つぎのように記されている。 「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島(しま)のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十ヵ国である。」 これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十ヵ国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。
(1)初期の甕棺では、細形銅剣(16例)、細形銅矛(5例)、細形銅戈(3例)、多鈕細文鏡などが出土している。 (2)それよりあとの甕棺では、「昭明鏡」「清白鏡」「日光鏡」などの、いわゆる前漢鏡や鉄が出土しはじめる。 そして、細形銅剣などと、昭明鏡・清白鏡・日光鏡などとは、銅の原料が、異なっているとみるべき根拠がある。 それによって、青銅器の製作年代などを考えることができる。 (1)「直線L」の上に、ほぼのるもの 「直線L」の上にのる鉛を含む青銅器を、数多くの鉛同位体比の測定値を示した馬淵久夫氏(東京国立文化財研究所名誉研究員、岡山県くらしき 作陽大学教授)らは、朝鮮半島の銅とするが、数理考古学者の新井宏氏は、くわしい根拠をあげて、雲南省銅あるいは中国古代青銅器銅とする。(新井宏著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』[大和書房、2007年刊]および、『季刊邪馬台国』74号の新井宏氏の論文「鉛同位体比による青銅器の鉛産地をめぐって」参照)。 (2)「領域A」に分布するもの 客観的な事実は、以上のようなものとみられる。
■細形銅剣・細形銅矛・細形銅戈の鉛同位体比
上図をみれば、甕棺から出土した細形銅剣も、甕棺出土以外の細形銅剣も、ほぼ同じように「直線L」にのっているようにみえる。 おそらく、これらは、ほぼ同時期に製作されたものであろう。 馬淵久夫氏らが、朝鮮半島産とした「直線L」上にほぼのるものを、新井宏氏は殷・周などの、中国古代青銅器につながるもので、中国の雲南省産のものであろう、とする。 たしかに、上図でも、新井宏氏が示すデータでも、朝鮮半島のもの(下図)よりも、殷代の青銅器や、中国奥地の四川省の広漢市の三星堆遺跡出土の青銅器のほうが、はるかによく直線Lの上にのっている。 しかし、四川省は、日本からはるかに遠くはなれている。なぜ、こんな現象がおきているのであろうか。
■新井宏氏提出の仮説 すなわち、新井宏氏は、つぎのように述べる。 ここでも、戦国時代の燕が登場してくる。 燕の貨幣といわれる明刀銭(めいとうせん)が、朝鮮半島南部や、わが国の沖縄県那覇市から出土している(確実さに欠けるが、広島県三原市からも出土したといわれる)。これも、燕の文化の伝播を物語っている。 ただ、「直線L」上にほぼのる青銅器が、殷・周などの中国古代青銅器につながる理由として、新井宏氏とはやや異なる以下のような仮説も考えることができる。
■考古学者、甲元真之(こうもとまさゆき)氏の論文 「北京市内には墓の他に殷末周初の青銅器を出土する埋納遺跡がある。」 甲元真之氏は、さきの論文のなかで、また記す。
王建新氏の著書や、甲元真之氏の論文などを読むと、燕の国の青銅器文化には、殷の国の遺民が関係しており、燕の国では、もともと、殷の国系の青銅器をもっていた可能性も、うかびあがる。 |
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