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第310回 邪馬台国の会
稲作弥生時代の起源
日本語の起源(2)
日本古代史についての諸説
『魏志倭人伝』を徹底的に読む
燕国の影


 

1.稲作弥生時代の起源

歴史民俗博物館は弥生時代のはじまりを古くした。従来、西暦紀元前300年から400年前ごろとしていたのに対し、歴博グループは縄文晩期から弥生前期までの種々の土器付着炭化物を炭素14年代法で分析したところ、弥生時代は紀元前1000年ごろから始まったとした。その根拠は土器に付着した炭化物の炭素14年代法である。

弥生時代が何時始まったかについて二つの考え方がある。
①弥生時代は弥生式土器を使い始めた時期とする
②弥生時代は水稲耕作が始まった時期とする

この二つは同じ時期ではない。

・夜臼(ゆうす)式土器は弥生時代の土器か?
弥生時代のはじまりを議論するには夜臼式土器の問題がある。
夜臼式土器[『考古学研究』(第52巻第5号(通巻201号)2004年12月刊)]
北部九州に分布し突帯文系土器群に属する縄文晩期後半もしくは弥生早期の土器型式。福岡県夜臼遺跡を標式とする。当初は突帯文系土器群の一部をさしていたが、近年の板付遺跡での成果をもとに突帯文系土器群全体を夜臼式ととらえ1・2a・2b式に3細別する案が提示されている。夜臼1・2a式を縄文時代も範疇でとらえる意見と、水稲耕作が本格的に実施されていることを重視して弥生早期とみる意見とがある。2b式が従来の夜臼式に相当し、弥生前期の板付1式と共伴する。

水稲耕作が始まった時期とすると、夜臼1・2a式となり、弥生式土器を重視すると夜臼2b式となる。

歴博は当初、夜臼1・2a式を縄文時代としていたが、途中から、弥生時代からとして定義を変えた。つまり土器の定義も古くしている。そこに土器付着炭化物で分析した結果を使えば、弥生時代のはじまりは1000年くらい前になるわけだ。

・土器付着炭化物の分析の問題
土器付着炭化物の分析結果は同じ遺跡から出土したクルミや桃核の分析結果と比較すると古くでる。
名古屋大学の年代測定総合研究センターの中村俊夫教授は、2009年7月11日~12日に開催された日本文化財科学会の特別講演の「発表要旨」で、つぎのようにのべておられる。
「クルミの殻はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定が実施しやすい試料である」
炭素14年代測定の材料となるさまざまな試料は、いろいろな形での汚染(コンタミネーション)をうけやすいようである。
この点、クルミの殻や桃核は、他の試料にくらべ丈夫なので、汚染をうけにくいとみられる。
過去のデータをまとめると下記の表となる。
この表の中に④箸墓古墳も含まれており、土器付着炭化物はクルミや桃核から分析した結果より77年も古く出る。
このように、土器付着炭化物からの炭素14年代法で分析することは問題となる。
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炭素14年代法では空気中の炭素の量が時代で一定である仮定して分析している。しかし実際は地球環境の変化で時代とともに一定ではない。そこで、年輪年代法などを使って較正する必要がある。その較正を較正曲線によって行う。

下のグラフから歴博の主張は夜臼2a式で白い丸である。縦軸はBP2800年となり、較正するとBC900~800年となる。

同じ遺跡から出土したデータ数のある分析結果から、土器付着炭化物とそれ以外の炭化物の違いを修正すると、修正率は0.842となる。上記のBP2800年×0.842=約2400年 になり較正曲線で見るとBC400年になる。
さらに弥生時代のはじまりを弥生式土器重視で、夜臼2b式とすれば、BP2250年位になり、較正するとBC350年位になる。
これは従来の弥生時代のはじまりとしていた年代と変わらなくなる。

歴博は縄文時代のはじまりも、弥生時代のはじまりも、古墳時代のはじまりも、箸墓古墳のはじまりも古く見ている。注意を要することである。

 

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2.日本語の起源(前回から続き)

■主成分分析法の結果による諸言語の布置
・南方諸島語
太平洋にあるポリネシア、メラネシア、インドネシアは広い地域であるが、言語的には非常に統一されており、近い関係の言語である。
一番東のイースター島と西のマダガスカル島とでは地球の半周以上回っているくらい離れている。

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下記の表4はイースター島とマダガスカル島の言語の数詞の1~10までを比較したもので、7とか8は結構近いことが分かる。


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分布表からニューギニアやオーストラリアは圏外となっている。これはニューギニアやオーストラリアに先住民が居たため、それを避けて上陸しなかったことによると思われる。
彼らはこれらの離れた島へ、星を頼りにして行って、また帰って来たことができたようだ。だから言語が統一されていると思われる。
これに比較してインドネシア半島のベトナムとかマレーシアは言語が多層となっている。

インドネシア語派諸語の表3の中で、台湾の言語(高砂族)にパイワン語とピュマ語がある。台湾の言語は3重構造となっている。台湾はサツマイモのような形をしており、中央の高地には原住民のインドネシア系言語(パイワン語とピュマ語)があり、平野部に大陸から渡って来た中国人の福建語があり、最後に第二次大戦後の中国内戦で逃げ込んだ蒋介石軍の北京語(中国北方方言)がある。

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インドネシア語派の諸言語の表3、メラネシア語派の諸言語の表5、ポリネシア語派の諸言語表6の「語頭音」は、あとの表9などの「第1子音」と異なる。
母音も、子音も、細分化されている。異なる音は、できるだけ異なる音としてあつかった。それは、オーストロネシア諸言語は、相互にかなり近い諸語であるからである。数詞などでも、もとは、ほぼ同じものであった可能性が大きい。それが、すこしずつ変化していって、どのようにちがってきたのかをみるのが目的であるので、細分化した。あとでのべる「第1子音」などのように、大きくまとめすぎると、「インドネシア語派諸語」「メラネシア語派諸語」「ポリネシア語派諸語」などが重なりあってしまい、きれいに分類できない。

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各言語の語頭音の一致度を調べ、表7のようにまとめる。因子分析法で表7をコンピュータで分析しグラフにすると図2となり、南方諸島語の近さの度合いを示す。両極因子から縦軸は地図上の南北、横軸は地図の東西に対応するように配置した。分析結果から解釈すると、平面上にかなりきれいに分類できる。
数詞の1~10までしか分析していないが、きれいに分類できる。

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言語の一致度の平均値である表8を見ると、インドネシア語派、メラネシア語派、ポリネシア語派どうしでは言語一致度が高いことが分かる。

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・インド・ヨーロッパ諸言語
同じように、ゲルマン語派、イタリック語派、スラブ語派、インド・イラニアン語派を主因子法で言語の近さの度合いを示す。これらの言語は南方諸島語と違って、古くから分かれた言語なので第一子音の一致度を調べる。

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各言語の語頭の第一子音の一致度を調べ、表14のようにまとめる。因子分析法で表14をコンピュータで分析し、縦軸は地図上の南北、横軸は地図の東西に対応するように配置した。グラフにすると、インド・ヨーロッパ諸言語の近さの度合いを平面上にきれいに分類できる。この結果からゲルマン語派は少し離れていることが分かる。また、現代ギリシャ語やアルバニア語はラテン語派とインド・イラニアン語派のどちらにも属さない中間派的言語であることが分かる。

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■統計学による言語学
10円玉の例
戦国時代の織田信長は桶狭間の戦いのときに、戦いのまえに、軍勢を八幡さまの境内に集め、戦勝祈願をし。そのとき、織田信長がいった。
『本日の戦いの吉凶をうらなおう。いま、一文銭を投げさせる。表が多く出れば勝利ぞ。』
織田信長は、そういって、小姓に、用意した一文銭を10回個投げさせた。すると、10回とも全部表がでた。一同、どっと喜び、本日の勝利うたがいなし、と、鯨波(とき)の声をあげて出陣した。しかし、じつは、あらかじめ一文銭の裏を、ヤスリでけずり、表同士をはりあわせ、表しか出ないようにしてあった。
そこで、200人位の学生に、いま、ある人が、10円玉を10回なげて10回とも表をだしてみせるといって、ほんとうに10回つづけて表をだしてみせたとします。そこには、なにか、インチキがあると思う人は、手をあげて下さい。
すると、7割ぐらいの学生が手をあげた。3割ぐらいの学生は、インチキはないと考えたのです。このように、順に回数をふやして、手をあげさせた。すると、驚くなかれ、回数を、1万回にふやそうが、10万回にふやそうが、100万回にふやそうが、手をあげつづける学生が3人ほどいた。
私は、たずねた。
「どうして、インチキがないと思うのですか。」
学生が答えた。
「偶然で100万回表がでることだって、ありうると思います。」
私は、今度は、逆に、10回つづけて表をだせば、「インチキがあると思う」と答えた学生に質問した。
「9回つづけて表をだしたばあいはどうですか。」
「8回ではどうですか。」
以下、順に回数をへらしていくと、「3回つづけて表をだしたばあいに、インチキがあると思う人」のところで、手をあげる人は零となった。

推計学が、昔の統計学と異なるもっとも大きな特徴は、この10円玉のような問題に対して、確率の考え方にもとづき、判断を客観的に行なう論理と基準を提供したことである。
推計学では、このようなばあい、つぎのような仮説(帰無仮説という)をもうける。
「仮説この10円玉の投げ方には、インチキなしかけはないと考える。」
そして、この仮説のもとで、たとえば、10円玉が、10回つづけて表をだす確率を計算するのである。そして、計算した確率が一定の値より小さければ、もとの仮説を、捨てる約束にするのである。一定の値としては、ふつう、「5/100」か、「1/100」をとる。
じっさいに計算してみると、インチキはないという仮説のもとで、10円玉が10回つづけて表をだす確率は、1/1024(=1/2の10乗)となる。この値は、「5/100」、「1/100」のいずれよりも小さい。
したがって、もとの「インチキなしかけはない」という仮説はすてられ、「インチキがある」という判断をうけいれることになる。

極端な例として、「インチキなしかけはない」という仮説のもとで、10円玉が100万回つづけて表をだす確率は10の下に、零が30万個つく数分の一より小さい。明らかに、「インチキはない」と判断することはありえない。なぜなら、私たちは、日常においても、学問上においても、たえず、より可能性の小さい仮説はすて、より可能性の大きい仮説を、採択して行こうとしているはずである。私たちは、日常生活においても、「十中八九」正しいと思われる仮説は採択している。

・「有意」ということば
長らくニューギニアの諸言語の研究にたずさわり、計量的方法によって多くの業績をあげた言語学者コーワンは、以上のような手つづきについてのべている。
「私たちが必要としている方法は、ごくわずかな、しかし、具体的な、言語学的な証拠を、量的に測定しうるものでなければならない。そして、測定の結果が、言語間の関連について'十分な証明力をもちうるかどうかを、できるだけ人間の主観をはなれて決定しうるものでなければならない。
統計学的にいえば、これは、二つの言語のあいだにみとめられる一致の数が、偶然によるものかどうかの確率の計算をすることによってのみ可能となる。」
「二つの言語のあいだでみとめられる一致の数が、偶然によるものかどうかをしらべ、もし偶然である確率が、実際上無視しうるほどのものであるならば、偶然以外のなにものかが、そこに存在しているのである。このような確率の計算は、いわゆる『帰無仮説』をもうける手つづきによる。すなわち、まず、『そこでみとめられる一致は、偶然によるものである』という仮説をもうけ、それにもとづいて確率を計算する。もし、その仮説が正しければ、観察された諸事実は、その仮説で説明される範囲におさまるであろう。しかし、もし、その仮説が誤りであるならば、観察された諸事実は、その仮説で説明される範囲を、『有意に(significantly)』こえるであろう。なにをもって、『有意』とするか。統計学では、5パーセント (100回に5回)または1パーセン- (100回に1回)以下でしかおきないようなばあいは、偶然でおきうる範囲をこえているとするのがふつうである。このようなばあいは、『帰無仮説』は棄却される。そして、そこでみとめられる一致は、『偶然』だけでは、説明されえないことになる。」
どのように、可能性の小さいことがらをも認めるならば、議論は、はじめからなりたたない。推計学は、可能性じたいを、はっきりと計量し、比較する道をきりひらいた。現代統計学は、この方向でとくに大きく発展をとげてきた。したがって、その知識をもつ数理言語学者たちが、二つの言語の比較をするばあいには、二つの言語の一致の度合をしらべ、それが確率的におきにくいかどうか、推計学の手つづきにしたがって、計算すればよいではないか、と考えたのは当然である。
ここで、「有意」というのは、現代統計学で、しばしば用いられる専門用語である。いまとりあつかっている問題のばあいであれば、二つの言語の間の「有意の一致」は、「偶然をこえる一致」をさす。

・水かけ論の原因
客観的な基準をもうけずに議論をすると、さきの十円玉の例のように、意見は大きくわかれがちとなる。
日本語の起源を考えるばあいも、同じである。
客観的な基準のないばあいには、ある人は、「これほど、日本語とインドのタミル語との一致の例をあげたのであるから、日本語とタミル語との一致は偶然ではない。」と考える。ところが、別の人は、「いや、そのていどの一致は、偶然でもおきうる。」と考える。
これでは、水かけ論になるのは当然である。
いや、同じ人の判断でも、かならずしもあてにはならない。
たとえば、「日本語とタミル語」との一致度が、「日本語と英語」との一致度と、客観的にはほぼ等しくても、同じ人が、「日本語とタミル語」とのばあいは、偶然ではきわめておきえない一致がおきているように強く主張し、「日本語と英語」とのばあいは、偶然でも容易におきうるような一致であるかのように論じている可能性がある。
かくして、たしかに島影ともみえたものが、じつは審気楼であるというようなことがおきうるのである。

・「語彙統計学」こそが、確実な知識をもたらす
「言語年代学」も、「語彙統計学」も、「数理言語学的」、あるいは、「計量言語学的」な探究ではある。
しかし、すでにまえの章で紹介したように、言語学者のコーワンは、「言語年代学(glotochronology)」ということばと、「語彙統計学(lexicostatistics)」ということばとを区別している。
このうち「言語年代学」については、前回の講演で紹介した。
「言語年代学」は、大変興味のある発想にもとづいている。
「言語年代学」によって、参考となる多くの知識が得られることはたしかである。
しかし、「言語年代学」の結果は、なお、確実に主張できるとは、いえないところがある。
これに対し、「語彙統計学」は、確率論、および統計学の考え方のうえに立脚し、客観的で、確実に主張できる知識をもたらすものである。



3.日本古代史についての諸説の検討[那珂通世(なかみちよ)、笠井新也、白石太一郎の年代論]

■卑弥呼はどの天皇の時代の人か?
笠井新也、白石太一郎などの考えは一つの流れの中にある。笠井新也、白石太一郎は卑弥呼を倭迹迹日百襲姫としている。
卑弥呼を「わが古代史上のスフィンクス」と呼んだ笠井新也は述べている。
「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、その他へ考えおよぶのが、怜悧な研究法であろうと思う。」(『考古学雑誌』第12巻第7号所載「邪馬台国は大和である」、1922)

それでは、『魏志倭人伝』の伝える「卑弥呼」を、『古事記』『日本書紀』の伝える天皇の系譜の上に位置づけると、どうなるであろうか。卑弥呼はどの天皇の時代の人なのであろうか。おもな説としては、つぎの五つがある。
(1)卑弥呼=神功皇后説
『日本書紀』において示されている説である。『神皇正統記』をあらわした南北朝時代の北畠親房(ちかふさ)や、『異称日本伝』をあらわした江戸元禄時代の国学者、松下見林(けんりん)も、『日本書紀』の記述をうけて、神功皇后を卑弥呼にあてている。明治以後の学者でも、小中村義象、森清人など、「卑弥呼=神功皇后説」をとった学者は少なくない。
(2)卑弥呼=倭姫説
倭姫は、第十二代景行天皇のころの人である。「卑弥呼=倭姫説」は、明治のすえに、京都大学の内藤湖南[こなん](虎次郎)がとなえた。現代でも、坂田隆などは、「卑弥呼=倭姫説」をとっている。
(3)卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説
倭迹迹日百襲姫は、第十代崇神天皇のころに活躍したとされている人である。「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」は、大正時代に、笠井新也がはじめてとなえた。
現代でも、歴史学者の肥後和男、和歌森太郎、考古学者の原田大六、その他、『日本誕生の謎』を書いた井上赳夫、『倭日の国』を書いた熊本大学の藤芳義男、白石太一郎など、「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」をとる研究者はすくなくない。
(4)卑弥呼=天照大御神説
卑弥呼を、第1代神武天皇よく5代まえと伝えられる天照大御神にあたるとする説である。この説は、いずれも東京大学の教授であった白鳥庫吉、和辻哲郎が示唆し、その後、栗山周一が明確な形で主張し、林屋友次郎、飯島忠夫、和田清、市村其三郎、安本美典、鯨清、平山朝治などによってうけつがれている。
この説に立つとき、邪馬台国は九州にあったことになり、のち西暦300年前後の人と推定される神武天皇の時代に、東遷したことになる。いわゆる「邪馬台国東遷説」を主張することになる。
(5)卑弥呼=九州の女酋説
魏へ使をつかわしたのは、大和朝廷とは関係のない九州の女酋であるとする説である。この説は、江戸時代に、本居宣長が説き、その後、鶴峰戊申、星野恒、吉田東伍などによってうけつがれた。更に、古田武彦の九州王朝説に発展する。
(6)卑弥呼は不明とする説
『古事記』『日本書紀』は、8世紀に成立したものである。卑弥呼は、3世紀に存在した人である。その間に、500年ちかいへだたりがある。『古事記』『日本書紀』の伝える初期の諸天皇には、実在の疑われる人もあり、『古事記』『日本書紀』によっては、卑弥呼や邪馬台国は、さぐれないとする立場である。津田左右吉が、このような考え方を、体系的にまとめ、現在、この立場に立つ人は多い。

以上のうち、(1)の「卑弥呼=神功皇后説」、(2)の「卑弥呼=倭姫説」、(3)の「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」は、だいたい、「邪馬台国=大和説」となる。(4)の「卑弥呼=天照大御神説」、(5)の「卑弥呼=九州の女酋説」は、「邪馬台国=九州説」となる。
また、(1)、(2)、(3)、(4)は、卑弥呼を、皇室の系譜のうちから求められるとする説であり、(5)、(6)は、皇室の系譜のうちに求められないとする説である。

■天皇継承について
笠井新也の子の笠井倭人は那珂通世の父子直系のばあいの一世平均年数30年前後になることを根拠として倭迹迹日百襲姫は3世紀中頃と考えている。

慶応大学の教授であった橋本増吉は、大著『東洋史上よりみたる日本上古史研究』(東洋文庫、1956年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「父子直系のばあいの一世平均年数が、ほぼ25、6年ないし30年前後であることは、那珂博士の論じられたとおりであろうけれども、わが上代のおよその紀年を知るために必要なのは、父子直系の一世平均年数ではなく、歴代天皇の御在位年数なのであるから、那珂博士算出の平均一世年数をもって、ただちに上代の諸天皇の御在位平均年数として利用すべきでないことは、明白なところである。」
また、笠井新也じしんも、つぎのようにのべている。これは、那珂通世の議論の、基本的前提じたいを否定しているものである。

「わが国の古代における皇位継承の状態を観察すると、神武天皇から、仁徳天皇にいたるまでの16代の間は、ほとんど全部父から子へ、子から孫へと垂直的に継承されたことになっている。しかし、このようなことは、私の大いに疑問とするところである。なぜならば、わが国において史実が正確に記載し始められた仁徳以後の歴史、とくに奈良朝以前の時代においては、皇位は、多くのばあい、兄から弟へ、弟からさらにつぎの弟へと、水平的に伝えられているからである。かの仁徳天皇の三皇子が、履中・反正・允恭と順次水平に皇位を伝え、継体天皇の三皇子が、安閑・宣化・欽明と同じく水平に伝え、欽明天皇の三皇子・一皇女の四兄弟妹が、敏達(びたつ)・用明・崇峻・推古と同じく水平に伝えたがごときは、その著しい例である。したがって、この事実を基礎として考えるときは、仁徳天皇以前における継承が、単純に、ほとんど一直線に垂下したものとは、容易に信じがたいのである。

山路愛山は、その力作『日本国史草稿』において、このことに論及し、『直系の親子が縦の線のごとく相継いで世をうけるのは、中国式であって、古(いにしえ)の日本式ではない』。それは、『信ずべき歴史が日本に始った履中天皇以後の皇位継承の例を見ればすぐわかる』『仁徳天皇から天武天皇まで通計二十三例のあいだに、父から子、子から孫と三代のあいだ、直系で縦線に皇位の伝った中国式のものは一つもなく、たいてい同母の兄弟、時としては異母の兄弟のあいだに横線に伝って行く』『もし父子あいつづいて縦に世系の伝って行く中国式が古(いにしえ)皇位継承の例ならば、信ずべき歴史が始ってからの23帝が、ことごとくその様式に従わないのは、真に異常のことと言わなければならない。ゆえに私達は、信ずべき歴史の始まらないまえの諸帝も、やはり歴史後と同じく、多くは同母兄弟をもって皇位を継承したであろうと信ずる』と喝破しているのは傾聴すべきである」(「卑弥呼即ち倭迹迹日百襲姫」『考古学雑誌』第14巻、第7号、1924年[大正13年]4月、所収)

即位、退位の時期がはっきりしている用明天皇以後の天皇の一代平均在位年数を算出した。しかし、もし、父から子へという形で皇位の継承がおこなわれたばあいだけをとりだして、一代平均の在位年数を算出すれば、その値は、もっと大きくなるのではないであろうか。そこで、確実な歴史時代にはいってからの、父子継承のばあいの、一代平均在位年数をしらべてみよう。
いま、「父子継承」ということばを、「みずから皇位につき、その皇位を、自分の子にゆずったばあい」をさすこととする。
この場合、17~20世紀では28.36年だが、古い時代 ~12世紀では14.15年にしかならない。このように考えれば、父子継承だけ考えても、崇神天皇ごろの年数は30年前後との那珂通世の仮説は成り立たない。

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「兄弟継承」の場合、全体での平均在位年数は、10.5年であるが、とくに10世紀以前に即位した8人の天皇をとりあげれば、その平均在位年数は、わずか、6.75年である。
また、表15をみれば、2年とか、3年とか、5年とか、現代ではあまり考えられないほど短い在位年数の天皇も、何人か存在していることに気がつく。

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百済王の系譜をとっても、『日本書紀』と『三国史記』では系図が違っている。王の代は一致しているが、親子関係などは違っている場合がある。この結果は王の名は確実に伝えられるが、親子関係などは正確に伝わらないことを示している。

このように、父子継承としても、世代間の年数が違っていること、父子関係情報があてにならないことなどから、笠井新也、白石太一郎の説による年代論で崇神天皇(倭迹迹日百襲姫)の時代が3世紀中頃とすることはない。このように卑弥呼=倭迹迹日百襲姫が成り立たなければ、箸墓古墳=卑弥呼の墓は成り立たない。


4.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

■倭の国々
・倭人について
「倭人は、(朝鮮の)帯方(郡)(魏の朝鮮支配の拠点、黄海北道沙里院付近か、京城付近)の東南の大海のなかにある。山(の多い)島によって国邑[こくゆう](国や村)をなしている。もとは百余国であった。漢のとき(中国に)朝見するものがあった。いま、使者と通訳の通(かよ)うところは、三十か国である。」原文(「紹興本」による)

・朝鮮について
朝鮮の北部は、紀元前2世紀はじめ以来,燕国(戦国時代に、河北省方面にできた国)からの亡命者である衛満[えいまん](在位前194~?) のたてた王朝が支配していた(衛氏朝鮮)。前109年、漢の武帝は、大軍を発して、衛氏朝鮮を攻め滅ぼし、前108年、その故地に、楽浪郡、真番(しんばん)郡、臨屯(りんとん)郡、玄菟(げんと)郡の四つの郡を設置して、郡県統治を行なった。
前82年には、真番、臨屯二郡が廃止され、その一部が、玄菟、楽浪の二郡に吸収された。前75年には、玄菟郡が、遼東郡に吸収された。
前1世紀の中ほどは、高句麗が、建国された。
190年、公孫度(こうそんたく)は、南満州に独立し、その子の公孫康(こうえんこう)は、205年ごろ、楽浪郡をわけて、北を楽浪郡、南を帯方郡とした。
238年、司馬懿(しばい)仲達は、公孫康の子、公孫淵を滅ぼし、魏は、楽浪、帯方の二郡を接収した。
この地に、中国の郡県統治は、よみがえることになった。

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・どこから出発したか
『魏志倭人伝』は、 つぎのように記す。
「郡より倭にいたるには、海岸にしたがって水行する。」
この「郡より」の「郡」は、どこをさすのであろうか。これには、おもに、つぎの三つの説が
ある。
(1)帯方郡の郡治(郡役所)の所在地とし、その位置を、現在の京城(ソウル)付近とする説
東洋史学者の那珂通世、白鳥庫吉、池内宏、榎一雄、朝鮮史学者の今西竜(りょう)などの諸氏は、この説をとる。『漢書』「地理志」の楽浪郡の条に、「帯水、西して帯方に至って海に入る」とある。この帯水を漢江にあて、したがって、帯方を漢江の河口にある今日のソウル付近であるとする。

(2)帯方郡の郡治の所在地とし、その位置を、現在の黄海北道沙里院(さりいん)付近とする説
東洋建築史家の関野貞(ただす)、朝鮮史研究家の小田省吾、古代史研究家の白崎昭一郎、坂田隆などの諸氏はこの説をとる。沙里院駅の東北の一古墳から、「帯方太守張撫夷塼(ちょうぶいせん)」の銘が発見されている。帯方太守の墓かあるのであるから、 この地が、帯方郡治のあった場所であろうとする(地図5参照)。この(2)の説に対しては、墓のある場所が、郡治のあった場所とは、かぎらないとする反論がある。また、(1)(2)の二つの説を折衷する説に、帯方郡治は、はじめソウル付近にあり、のちに、帯方郡の南部が百済に侵されたため、沙里院付近に、移ったのであるとする説がある。

(3)『魏志倭人伝』 の「郡より倭にいたる」の出発点の「郡」は、帯方郡ではなく、洛陽郡をさすとする説
すなわち、魏の都洛陽からの道程を記すとみる。この説は、榧本杜人[かやもともりと]がとなえた。この説は、郡から狗邪韓国までの距離七千余里が、帯方郡からの距離としては、長すぎることをうまく説明する。しかし、『魏志倭人伝』の「郡より倭にいたる」の文は、あきらかに、その前の、「倭人は、帯方の東南の大海のなかにある」という文をうけているようにみえる。この「郡」は、やはり、帯方郡をさすとみるべきであろう。
郡を帯方郡としたばあい、 距離が長すぎるというが、距離が長すぎるのは、帯方郡から狗邪韓国までの距離だけではなく狗邪韓国以後の距離も、長すぎるのである。

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(2)説の「帯方太守張撫夷塼」について、森浩一氏の説がある。
・森浩一『倭人伝を読み直す』(ちくま新書、筑摩書房、2010年刊
1910年(明治43年)に日本は韓国を併合した。そのさいソウルに設置した統治機関としての朝鮮総督府は文化事業として『朝鮮古蹟図譜』と題する大冊の刊行の準備をおこない、第一冊を1915年(大正4年)に出版した。その本には楽浪郡と帯方郡の遺跡を扱っていて、黄海道鳳山郡智塔里にある帯方郡治とみられる土城跡の北方8キロの一方墳や出土した塼の写真が掲載されている。この発掘は和歌山県出身の谷井済一(やついせいいち)氏が担当した。

この方墳は一辺約30メートル、高さが約5メートルあって、墳丘内部に塼積の横穴式の墓室がある。塼とは煉瓦のことだが、その塼には「使君帯方太守張撫夷塼」と型押しされていた。これによって墓の主の地位と名が判明した。この古墳の年代は288年ごろとみられ、帯方郡滅亡の少し前に当る。
ところで張撫夷の撫夷という名は、親が子につけたとみると不自然であろう。撫夷の二字は、夷つまり東夷を鎮撫することである。撫民といえば人民をなで安んじることだから、ぼくが述べてきた張政の倭地での役割に撫夷はぴったりである。さらに通称とみられる称号を撫夷とするのであれば、東夷の鎮撫に成功したか努力した場合につけるだろう。

張撫夷の古墳の年代は帯方郡が濊や韓に滅ぼされる年に近い。すでに述べたように正始8年(247年)には帯方郡の太守弓遵が濊との戦で死んだ。濊は朝鮮半島の北東の日本海(東海)沿岸にあって、濊貊(かいはく)ということもあって扶余や高句麗とも親縁関係にあった。楽浪郡や帯方郡はその鎮圧に長年苦慮してきた。
このように考えると張政の倭地での鎮撫策の成功を濊や韓でもおこなわせたく、張政の抜擢となったのであろう。その頃に張政は自分の名を変えたというのがぼくの推理である。
仮に張政が倭に派遣されてきた正始8年に張政が30歳だったとみると、死んだのは50歳代ということになる

■公孫氏と明帝
後漢末から三国時代にかけての遼東の豪族に、公孫氏なるものがいた。遼東襄平[じょうへい](遼寧省遼陽市)出身の公孫度(こうそんど)にはじまる。公孫度は、はじめ、玄菟郡の役人となり、のちに、遼東の太守(郡の長官)となった。
公孫度は、東は高句麗、西は鳥桓(うがん)、南は海を渡って東萊(とうらい)の諸県を討って、大いに領土をひろげた。190年、南満州に独立して、遼東侯、平州牧と称した。
204年に、公孫度は病死し、子の公孫康(こうそんこう)があとをついだ。公孫康は、204年に、楽浪郡をにぎった。公孫氏は、楽浪郡をわけ、慈悲嶺山脈をさかいとして、その北を楽浪郡、南を帯方郡とした。
207年、公孫康は、遼東に逃れてきた袁尚・袁熙[後漢末の群雄の一人である袁紹(えんしょう)の子]を斬って、その首を、魏の曹操に献じ、襄平侯に封ぜられ、左将軍を拝した。
221年、公孫康が死ぬと、弟の公孫恭(こうそんきょう)が立ったが、康の子の公孫淵[こうそんえん](在位228~238)が成長すると、恭を脅して、位をうばった。魏は淵に来朝を命じたが、淵は、これに応じなかった。自立して燕王を称し、百官を設け、年号をたてた。
そのころ、魏は、諸葛亮孔明が病死し、蜀からの脅威が除かれていた。
238年、春正月、魏の明帝は、詔勅をくだし、司馬懿(しばい)仲達に命じて、遼東を攻撃させた。軍は、6月に遼東にいたり、9月10日、司馬懿仲達は、襄平において公孫淵を包囲し、大いにこれを撃ち破った。司馬懿仲達は、公孫淵父子の首を斬って、その首を、洛陽に送りとどけた。遼東の強力な地方政権は滅亡した。魏は、遼東郡、玄菟郡、楽浪郡、帯方郡の四郡をことごとく平定した。

238年12月8日、明帝は、病の床についた。239年の正月1日に、司馬懿仲達が、遼東から帰還した。明帝は、司馬懿仲達を、寝室にいれ、後事をたくした後、死去した。時に36歳であった。(宋の裴松之[はいしょうし]は、明帝はなくなったとき、34歳のはずであるという)。

このように、遼東の地で自立し燕王と称した公孫氏は滅んだが、公孫氏が遼東付近を支配していたころ、倭は魏に使いを出す時に、公孫氏に阻まれたはずである。公孫氏が魏により滅ぼされてから、使いを出し、魏の記録に残るようになったと考えられる。

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5.燕国の影

■刺客、荊軻(けいか)
秦の始皇帝が中国を統一する前、すなわち、燕が、滅びる数年前に、燕の太子が、刺客の荊軻をおくり、秦王政(始皇帝)を殺そうとした話は、司馬遷の『史記』に記されている。よく知られた話である。学習院大学教授の、鶴間和幸氏の著者『中国の歴史3ファーストエンペラーの遺産』(講談社、2004年刊)は、そのときのことを、つぎのように記している。

「『史記』刺客列伝には、暗殺を決行しょうとした刺客荊軻の行動がじつにドラマティックに措かれている。燕の太子丹の命を受けた荊軻は、秦王への土産として秦の樊於期(はんおき)将軍の首と、督亢(とくこう)という豊かな地図をもち、秦舞陽(しんぶよう)を連れて出発した。燕の易水[えきすい](地図参照)という川のほとりで見送られるときに、筑(ちく)という楽器に合わせて別離の悲しみを歌った詩はよく知られている。皆白い装束を着て見送った。易水のほとりまで来ると、道祖神を祀り、高漸離(こうぜんり)は筑を撃ち、荊軻はこれに合わせて歌った。見送りの者はすすり泣いた。荊軻はさらに歌った。

「風粛々(しょうしょう)として易水寒し、壮士一たび去って復た還らず。」

「一行は咸陽(かんよう)に到着し、秦王を襲うクライマックスに入っていく。後漢時代の画像石(がぞうせき)は、死者を祀る廟の壁画の石に刻まれたものである。荊軻が秦王を暗殺しょうとする場面が時間を凝縮して一場面に描かれている。いま『史記』刺客列伝の記述に従って画面を見てみよう。秦王から咸陽宮に迎え入れられた荊軻は、樊於期の頭を入れた函を持ち、秦舞陽は地図の箱を捧げて進んだ。いざ秦王の前に出ると秦舞陽は恐れ震え出したので、群臣は怪しんだ。画像石(図11)画面右下に伏せる秦舞陽の姿はその瞬間だ。荊軻は振り返って笑い、『北方の蛮夷のいなかものゆえ、天子にお目にかかったことがないのです』とわびた。秦王が『地図を取らせよ』といったので、荊軻は王に渡した。最後まで開くと、隠してあったヒ首(あいくち)が現れた。刑軻は左手で秦王の袖をつかみ、右手でヒ首を持って刺そうとした。しかし身に届かないうちに、秦王は驚いて立ち上がったので、袖がちぎれた。画像石の中央右、ちぎれた袖が宙に浮いている。秦王は剣を抜こうとしても、とっさのことで剣が堅くて抜けない。荊軻は秦王を追い回し、秦王は柱を回って逃げた。柱の左右に靴を残して逃げる秦王と髪を逆立てる荊軻が対照的に刻まれている。
群臣は急な事態に平静さを失った。秦の法律では、側近は殿上に上がる時には武器を携帯できなかった。このとき侍医の夏無且(かむしょ)が持っていた薬嚢(やくのう)を刑軻に投げつけ、ひるんだすきに、秦王は剣を背負ってようやく抜き、刑軻を撃った。刑軻はヒ首を投げたが、柱にあたった。画像石中央にその瞬間が描かれている。刑軻は結局左右のものに殺された。」


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■『山海経(せんがいきょう)』
中国に『山海経』という文献があり、『山海経』は、古代中国の神話と地理のことを書いた本である。山や海の動植物のことや、金石のこと、また、怪談などを記す。十八巻からなる。
著者は不明である。古代中国の伝説上の聖王であった禹(う)が書いたともいい、また、禹の治水を助けた伯益(はくえき)が書いたともいう。もともと、ひとりの人が、ある特定の時代に書いたものではないとみられる。
『史記』を書いた司馬遷が読んでいる。前漢時代の学者の劉歆[りゆうきん](紀元前53~紀元後21)が校定し、叙録「じょろく」(大まかな内容を記したもの。解説文)を書いている。
したがって、漢代にはすでに存在していた。戦国時代~秦・漢代の著述とみられる。
その『山海経』の第十二の「海内北経」のなかに、「倭」についての、つぎの文がある。

「蓋国(がいこく)は鉅燕(きょえん)の南、倭の北にあり。倭は燕に属す。」


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■『漢書』「地理志」のなかの「倭」
『漢書』は、前漢の歴史を記した本である。後漢の班固の撰。西暦82年ごろに成立した。
『漢書』の「地理志」の下の巻の燕地の条に、つぎのような文章がある。
「楽浪の海のかなたに、倭人がおり、百余国に分かれ、歳時(季節)ごとに来て、物を献上し見(まみ)えた、という。(楽浪海中有倭人分為百余国、以歳時来献見云)」
この文章の問題点は、二つある。一つ目は「燕地」の条に記されていること、二つ目は、おしまいが「云う」と伝聞になっていることである。
したがって、「献上し見えた」対象が、「燕」であるとも「漢」であるとも読めることである。
すなわち、つぎの二とおりの読み方が成立しうる。
(1)かつて、倭は燕に属していた。そのころ倭人は、百余国に分かれていた。季節ごとにやって来て、物を献上し、燕に見えたという話だ。
(2)かつて燕のあった地の楽浪の海のかなたに倭人がいる。百余国に分かれ、季節ごとに、(漢の武帝が、紀元前108年に今の平壌ふきんにおいた楽浪郡の官庁に)やって来て、漢に対して物を献上し、見えると聞いている。
ただ、『後漢書』の「倭伝」の最初のところに、 つぎのように記されている。
「倭は、韓の東南大海の中にある。(倭人は、)山島によりて居(すまい)を為(つく)る。およそ、百余国である(あるいは、百余国であった)。(前)漢の武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼしたのち、漢に通訳と使者を派遣してきたのは、三十ヵ国ほどである。」
また、『魏志倭人伝』の冒頭にはつぎのように記されている。
「倭人は、(魏の)帯方郡の東南、大海のなかにある。山島(しま)のなかに国ができている。旧(もと)百余国(むかしは、百以上の国があった)。漢のとき、来朝するものがいた。今、使者と通訳とが往来しているのは、三十ヵ国である。」
これらの記事をまとめると、「漢以後には、使者と通訳とを派遣しているのは三十ヵ国ほどで、それよりもむかしには百余国あった。」ということであるようにみえる。
つまり、さきの『漢書』「地理志」の倭についての記事は、燕の時代のことの伝聞のようにみえる。
もともと、『漢書』の「地理志」の燕地の条の記載は、各地の伝統的風俗を述べている部分の一つとして、かつての燕の地で行なわれていたことを述べている部分に記されているものである。

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このように、『山海経』はあまりあてになる文献とは言えないが、『漢書』の記載もあり、倭は燕とつながりがあったと考えられる。燕の名は公孫氏にまで使われる。



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