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第309回 邪馬台国の会
ネアンデルタール人・縄文人
日本語の起源
日本古代史についての諸説


 

1.ネアンデルタール人・縄文人

■新人とネアンデルタール人の交雑
「種無しスイカ」や「ラバ」など。同じような種族でも遺伝子的に離れた種族の場合、子供ができるが、更にその子は生まれない。
今までは、ネアンデルタール人とヒトは接触がなかったと言われてきたが、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)とホモ・サピエンス(ヒト)は40~60万年前にホモ・ハイデルベルゲンシスから分かれたと言われており、両者の間では子供ができたのではないか。

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そのような記事がある。


・「ネアンデルタール人の血ヒトにも!国際チームがゲノム解析、5万年~10万年前。中東で交わる?」『朝日新聞』2010年5月7日

現生人類(ヒト)の一部は、ネアンデルタール人と交推し、その遺伝子を受け継いでいたらしい。独マックスブランク進化人類学研究所などの国際研究チームが、ネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)配列を解析し、突き止めた。7日付の米科学誌サイエンスでその概要版を発表する。
ネアンデルタール人はヒトに最も近い種の人類。約40万年前に現れ、欧州を中心に西アジアで生存、約3万年前に絶滅したとされる。約20万年前にアフリカで現れたヒトと同じ地域で生きていたが、両者の間に交雑はない、との考えが有力だった。
研究チームは、クロアチアの洞穴から発据された4万年ほど前の3人の、ネアンデルタール人女性の骨片を吸い、ゲノム配列を調べ、ネアンデルタール人のゲノム全体の約.6割を解明した。この情報とフランス、中国、パプアニューギニア、アフリカ南部と同西部の5人のヒトゲノムとを比べた。すると、アフリカ以外のヒトはゲノムの1~4%がネアンデルタール人由来と推測できた。子孫を残せるほど近い関係だったことになる。
同チームはヒトの移動時期を踏まえ、アフリカを出た初期のヒトは10万~5万年前の間に中東で、ネアンデルタール人に遭って限定的に交雑し、その後、欧州やアジアに広がったと考えられるとした。
また、認知機能や頭の骨の発達にかかわるとされる遺伝子は、両者の間で大きな違いがあることもわかったとしている。
国立科学博物館人類史研究グループの篠田謙一グループ長(分子人類学)は「人類の本質を探るための第一歩となる研究成果だ。未知の部分の多いヒトの遺伝子の働きについてさらに理解が深まれば、ネアンデルタール人についても同時にわかるようになるだろう。両者は分岐して数十万年しかたっておらず生物学的には交雑は可能と思っていたが、その考えがより強まった」と話している。

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■日本列島における縄文人の分布の片寄
古くから、縄文式文化は東北方に栄え、西南方では振るわなかった。これは縄文文化が西南方面では早くに終末に達し、東北方面では後半まで続いていた。それ故に遺跡が多いものと考がえられていた。しかし、この考えは考古学的に否定されてしまった。西南方面では東北方面とほぼ同じ段階が縄文晩期に至るまで発見されるのである。しかし遺跡の分布の濃淡は厳然たる事実であって、その解釈が要請されたのである。
山内清男「日本先史時代概説」(『日本原始美術Ⅰ』講談社1964年刊)

とあるように、縄文時代は弥生時代と逆に分布している。これは遺跡から出土する食糧などで分かる。

・縄文人が主食にしていた意外なもの
大塚初重著『考古学からみた日本人』(青春出版社刊)

縄文人が主食にしていた意外なもの
貝塚を含め、縄文遺跡からうかがい知れる縄文社会の食生活は、意外に豊かだった。
狩猟採集の生活というと、もっぱらイノシシやシカのような狩りの獲物を食べていたという印象が強いが、じつは彼らの主食は植物のほうだったのである。
地域によってもちがうが、千葉県の海辺に住んでいた縄文人は、総カロリーの80%を木の実に依存していたという調査結果もある。木の実というと、アーモンドやカシューナッツ、クルミ、ヘーゼルナッツなど、いわゆる酒のおつまみ用や健康食品としての木の実を思い出すかもしれない。
しかし、縄文人が主食としたのは堅果類(けんかるい)。いわゆる堅い木の実のことで、クルミ以外では、ドングリ、クリ、トチ、シイなどの実であった。これらの栄養的な特徴は、クルミなどおつまみ用の木の実は糖質が10~20%に対して、ドングリやシイでは60%以上、トチなどは70%以上が糖質で構成されていた。つまり縄文人が主食とした木の実の成分は、米や麦など穀物にちかいものがあり、栄養的にも十分に主食に耐えられる食材だった。しかも、東日本は落葉広葉樹林の一帯で、木の実が豊富に採集できたのである。
昔から「木の実時雨(しぐれ)」という季語があるほど、秋になると森ではドングリ類が雨のように降り、地面を埋め尽くした。まさに秋は恵みの季節で、短期間で大量の収穫が可能だった。狩猟とちがって的をはずすこともなく、その時期は家族総出で木の実をかき集め、蓄えていたのだろう。
木の実は長く保存がきくため、地面に掘った貯蔵穴などに保存し、冬の備えとした。安定的な食料確保ができ、栄養的にも「主食」としての役割を担っていた。
縄文時代が比較的早い時期から定住生活ができるようになったのも、土器の出現と、大いなる自然の恵みがあったからであろう。
もっとも、クルミやクリ、シイの実などは茄でたり、焼いたりすれば食べられるが、トチの実やドングリはアク(毒)抜きをしないと、苦くてとても食べられない。トチの実には有毒のサポニンやアロイン、ドングリにはタンニンが含まれているからで、一週間以上水にさらしたり、灰を加えて長時間煮詰めるなど、かなりの手間をかける必要があった。
実際、こうした作業をした遺構が埼玉や長野など各地の遺跡から見つかっている。谷川や水辺でアク抜き作業をする「水場(みずば)遺構」や、板材を囲ってつくる「水さらし場遺構」などがそれだ。
埼玉県川口市の赤山遺跡は、東京外郭環状道路建設の際に発掘された遺跡で、縄文晩期の水場遺構だった。トチの実を水でさらし、アク抜きをする場所だったようで、周辺からは何十万個というトチの実の割れた殻が出土している。
現在でも、日本の山村地帯ではトチモチなど木の実デンプン製の伝統的な食品があり、アク抜きのためのさまざまな方法が伝承されている。
いずれにせよ、縄文人たちは手間を惜しまず、大量の木の実を効果的に処理することで「主食」とした。それもまた煮炊きができる土器の出現が背景にあったことはいうまでもない。


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・縄文人の食糧
佐々木高明『日本の歴史1 日本史誕生』集英社刊
赤沢氏らは、千葉県の古作(こさく)貝塚(縄文時代後期、4000年前ごろ)から発掘された20体の人骨のコラーゲンの分析を行った。
古作縄文人たちは,蛋白質についてみれば、その約40パーセントを魚介類からとり、獣肉やC3型植物からそれぞれ約30パーセントずつを摂取し、かなりバランスのとれた食事をしていたことがわかる。熱量(カロリー)についてみると、蛋白質の場合と異なり、その約80パーセントを植物性の食料から得ていた。
しかも、その大部分はドングリなどの堅果類や野生のイモ類などのC3型植物からで、C4型植物、つまり雑穀の類はほとんど食べていなかったようである。大きな貝塚をつくった小作貝塚の縄文人たちにとっても、貝類は蛋白源としての役割をわずかに果たしていただけで、カロリー源のほとんどは植物性食料に頼っていたことになる。

・釣り針の出土
渡辺誠著『縄文時代の漁業』(雄山閣出版、1973年刊)
漁業は,縄文時代の生産基盤のなかでは最重要な位置を占めることはなかったのであり、狩猟についても同様であったと思われる。換言するならば、こうした漁業の専業化を促し得た全般的な安定性を提供した経済基盤は,植物食の獲得のなかにある。



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・このように、中部地方以北が近畿以南より人口が多かった。

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山内清男氏の「サケ・マス仮説」があり、北の方はサケ・マスが豊富で縄文人の人口が多かったとしたが、渡辺誠氏は中部地方に人口が多く、北海道で人口が少ないことに対する説明がつかないとして反論している。
それに対し、安本仮説は火山噴火があったのではないかと考える。南九州には姶良カルデラ(あいら)カルデラ(約2万5千年前)、阿多カルデラ(約9万年前)、鬼界カルデラ(約6400年前)、池田湖(約5500年前)、開聞岳(約4000年前)などがあり、火山灰が東方地方まで降ったと考えられている。この火山灰で太陽を覆い、土地も火山灰で農産物が出来にくくなる。

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■縄文人の主体はアイヌにつながる
・アイヌは北から移動したものではない(北海道大学 吉崎昌一氏)
「アイヌの祖先は、より南から来たものであり、時代的により新しく、クサビ型細石核をもつ細石刃文化を担った人類集団とは重なりあわない。」とする見解がある。
吉崎氏は、江上波夫他編『シンポジウ一ム北方文化を考えるアイヌと古代日本』において、およそ、つぎのような意見を、のべている。
(1)「アイヌ民族が、北方系であるという見解には、抵抗がある。われわれが常識として持っている北方的要素にうまく合致するものを、ほとんどもっていない。
たとえば,ことばとしても、橇(そり)やスキーがない。これらのものは、サハリンまでは分布している。橇やスキーは、冬期の移動や輸送に重要なものである。それが、かつて存在した痕跡もない。もし、非常に寒いところの生活に適応していたのなら、当然、冬の活動はかなり重要であったはずである。ところが、アイヌ民族の生活器具のなかには、北方的要素がないのではないかと思われる。
(2)海流と日常気象のデータを全部コンピュータにいれ、シミュレーション(模擬実験)をしてみると、北海道から本州に行くよりも本州から北海道に行くほうが楽である。航海可能な日数は、 一対四ぐらいの比率となる。
石器時代の文化の流れをみると、北海道系の文化遺物が、ストレートに本州に入っている場合もあるが、それよりも、はるかに強い流れで、本州の影響が、北海道南西部に現れている。
サハリンのアイヌも、北海道から渡ったと考えられる。

・アイヌや縄文人の医学的特徴(札幌医大教授の百々(どど)幸雄氏)
アイヌや縄文人の特徴について、百々氏は医学的立場から、「私が頭骨の形態小変異というものに取り組んで、もう20年以上になる。私たち日本人の形成の道筋をたどろうと、人類学の正統的研究法といささか異なる方法を採ったが、そのおかげでそれまで見えてこなかった重要な事実が、いくつか浮き上がってきたように思う。
図で示したのが、そうした小変異例である。例えば、眼球を納める眼窩という穴の上縁に、神経の通る小孔の形成されることがある。現代日本人のだいたい半数の人に、この孔、つまり「眼窩上孔(がんかじょうこう)」があるが、あと半分の人にはそれがなく、神経を通すわずかなへこみが見られるだけだ(図の7)。
「舌下神経管二分(ぜつかしんけいかんにぶん)」というのも、形態小変異の一つだ(図の5)。頭骨の底に、舌の運動を司る舌下神経の通る骨の通路がある。普通はこの管は一つなのだが、骨の板で管が二分される人もいる。現代日本人では、 およそ15%の人の管が、二分されている。しかしアイヌや縄文人ではこの比率は30%以上の高率になる。」と言っている。

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2.日本語の起源(1)言語年代学

日本語と他の言語との関係を、同じ意味の単語の発音の共通性から論じる人がいる。しかし、発音の共通性だけでは無意味である。言語が表現する単語は何万とあるのに対し、人が発音できる種類は数十しかない。どうしても発音が近い単語が出てくる。

・インドの原住民のドラビダ語族に属するタミール語
明治大学の言語学者、黒田龍之介氏は、『はじめての言語学』(講談社現代新書)のなかで、つぎのようにのべる。
「びっくり!日本語の起源
日本語の起源についてはよくわかっていない。でもときどき、そう十年に一回ぐらい『日本語の起源はこれだ!』というセンセーショナルな学説が発生する。マスコミはすぐに飛びつくが、言語学者たちは黙っている。保守的な業界ゆえに無視しているのではない。あまりにもひどいので呆れているのである。
だいぶ前のことになるが、インドのタミル語と日本語の関係を主張した、国語学の大御所がいた。タミル語はドラヴィダ語族に属するので、日本語もドラヴィダ語族ということになるのかな? とにかく、たいへんにユニークな説で、信じられないような音韻対応を発明し、言語学を勉強した人はみんなビックリしたが、御本人は自信満々であった。真面目なインド言語学者が何人か反論していた。でもこういう真面目な意見は面白くないのか、マスコミはあまり取り上げなかった。」
「わからないことをわかったという人のことを嘘つきという。それでも、センセーショナルな日本語起源論はこれからも出てくるだろう。そして面白いだけで飛びつく、言語学の知識がないジャーナリズムがそれを後押しする。やれやれ。でも言語学を学ぶと、そういのに騙されなくなる。」

・日本語は核に「古極東アジア語」
1972年7月20日(月)『読売新聞』朝刊の記事
日本語の起源と形成(安本美典:産業能率大学教授・計量言語学[1972年当時])
日本語は、どこからやって来たのだろうか。あるいは、どのようにして成立したのであろうか。
これは、古くから議論され、現在も、未解決の問題である。さて、最近「ラングウィッジ」など、外国の雑誌には、言語と言語との間の近さの度合いを、数字ではかる研究が、いくつか発表されている。確率論や、推計学、因子分析法などを基礎とするもので、一種の相関係数によって、言語間の距離をはかるものである。
私たちも、このような研究に刺激され、日本語と、250ほどの世界の諸言語との関係の度合いを、数字ではかってみた。調査したのは、「数詞」、手、口、鼻などの「人体語」、鳥、雲、水など、どのような人類集団でもそれにあたる語をもっているような項目からなる「基礎百語」および「基礎二百語」である。
大量のデータを処理するので、相関係数の算出などにあたっては、コンピューターの利用は、必須のこととなる。
方法と結果の詳細は、専門誌「数理科学」の2月号~9月号に連載したので、そちらにゆずることにし、結果だけをまとめれば、つぎのようになる。基本的に、日本語の形成をさぐる問題のむずかしさは、他の言語からの分離が古いために生じたむずかしさではなく、形成の過程の複雑さからくるむずかしさである。
数字ではかってみると、日本語と偶然とはいえない関係をもつ言語は、存在している。
まず、日本語、朝鮮語、アイヌ語の三つは、相互に、確率論的に偶然とはいえない関係を示し、ひとつのまとまりをみせている。私たちは、これらの言語を、「古極東アジア語」系の言語となづけた。古極東アジア語系の言語は、語彙の近さでまとまりをみせるばかりではない。語頭に濁音や二つ以上の子音が来ないこと、「r」と「l」の区別がないこと、二重母音をさける傾向があること、語の平均の長さはほぼ二音節であること、母音調和の現象があったらしいこと(アイヌ語の母音調和については知里真志保氏の研究がある)、基本的な語順が一致すること、日本語の「てにをは」にあたるものをもつことなど、音韻上、文法上の共通性をもつ。
「古極東アジア語」は、アルタイ系諸言語からきわめて古く分離したものらしく、アルタイ諸言語とのあいだには、かなり大きなみぞがある。日本語の形成にあたっては、「古極東アジア語」が核をなしているらしい。しかし、数詞、人体語などは、朝鮮語、アイヌ語では、うまく説明できない。ところが、ビルマ系の諸言語や、インドネシア語のなかには、これらにおいて、日本語と、あきらかに偶然とはいえない関係を示すものがある。数詞や人体語は、弥生時代のはじめごろ、どうやら稲作とともに、南方からもたらされたものらしい。

・言語年代学
「言語年代学」をきりひらいたスワデシュ(Swadesh Morris,1909-1967 アメリカ出身の言語学者。ニューヨーク市立大学、デンバー大学、メキシコ国立人類学歴史学大学などの教授)であり、わが国で最初に「言語年代学」を紹介したのが、服部四郎氏(1908-1995。言語学者で東京大学教授)である。

言語年代学の基礎語彙の例を示す。200単語のリストを作成する。この場合外来語は排除しなければならない。
・中期朝鮮語の場合は、東京外国語大学の梅田教授の論文「朝鮮語諸方言の基礎語彙統計学的研究」(1963年『朝鮮学報』27)および南広祐編『古語辞典』(東亜出版社刊、ソウル)によった。作成した基礎語彙表は、梅田博之教授にみていただいた。ただし、ハングル(朝鮮の国字)からの転写法は、私たちなりの方法にしたがった(コンピュータにいれるつごうも、若干考慮した)。日本語は,『古事記』『万葉集』の成立した8世紀ごろまでさかのぼれるが、朝鮮語は、ハングルの発明された15世紀中ごろの、中期朝鮮語までしかさかのぼれない。
・アイヌ語幌別方言の場合は、服部四郎氏編『アイヌ語方言辞典』(岩波書店刊)によって作成した。ただし、作成した基礎語彙表を、北海道大学の言語学者浅井亨氏にみていただき、その御教示によりあらためた部分がある。そのため、『アイヌ語方言辞典』にのっている形と異なる形のものが、ごくわずかある。


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この基礎語彙表から、一番単純な方法は第一子音が一致するか測ること。
このようにして、例えば日本語と沖縄首里方言では128語が一致する。これは1750年前ごろに分かれたことになる。現在日本語と現代朝鮮語は61語が一致する。これは6200年前ごろに分かれたことになる。
これらをまとめると次のグラフとなる。黒いゾーンは偶然以上の一致が認められるか否かのグレーゾーン。「2項検定法」または「シフト法」などによる調査を必要とする。

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この根拠は、祖語の変化は、1000年で80%残るとする。つまり20%は他の単語に変化するとしたもの。だから、2000年で0.8の2乗 0.64残り、3000年後0.8の3乗 0.512残ることになる。すなわちt千年後は0.8のt乗となる。

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・日本語の使用人口は、世界第6位
日本語は、日本列島以外では、ほとんど話されていない。しかし、日本語を使用する人口は、世界で第6位にあたる。(下宮忠雄「世界の言語」『ラルース言語学用語辞典』[1980年大修館書店刊]による。)日本語を話す人口は決して、少数ではない。

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3.日本古代史についての諸説

最近、「邪馬台国=畿内説」の本があいついで刊行されている。いずれも、国立歴史民俗博物館グループ(以下、「歴博研究グループ」と略す)の炭素14年代測定法の結果を、みずからの「邪馬台国-畿内説」の論拠または、補強材料としてとりあげている。

・白石太一郎「箸墓古墳と大市墓」(『天皇陵古墳を考える』学生社、2012年刊所収)
「最近、国立歴史民俗博物館の研究グループが実施した、箸墓古墳周辺の出土土器の付着物(おコゲや煤)の炭素年代測定の結果が報告されています〔春成ほか、2011〕。それによると、箸墓古墳の造営期にあたる布留0式土器の年代は、西暦240~260年代という数値がえられたということです。この年代は、さきに紹介した最近の大型前方後円墳の出現年代に関する多くの考古学研究者の想定と一致しており、こうした考古学的な年代想定が'自然科学的な年代決定法によっても支持されるものであることを示すものとして、私などはきわめて重要視しています。」

・大塚初重「東国の出現期古墳と大和政権」(『大美和』、2012年、第122号)
「最近、佐倉市の歴史民族博物館では放射性炭素14の年代決定によって240年から260年という年代を出しておりまして、それは図らずも『魂志倭人伝』の東夷伝の倭人条に出てくる正始八年前後に邪馬台国の女王卑弥呼が死んだという247年か248年という年代を想定すれば、奈良県桜井市の箸墓古墳は卑弥呼のお墓の可能性有りと、白石太一郎先生のこれまでのお考えと歴史民族博物館の皆さんのお考えが一致していることになります。」

・大塚初重「邪馬台国をとらえなおす」(講談社現代新書、講談社2012年刊)

・東潮(あずまうしお)著『邪馬台国の考古学』(株式会社角川学芸出版刊、2012年刊)
「箸墓古墳は、特殊器台から特殊器台形埴輪への変遷過程をみても、初期の前方後円墳といえる。倭王墓として仮定して、箸墓古墳を卑弥呼墓にあて、年代を三世紀中葉と推定する。箸墓古墳の木材の炭素14年代測定法の資料も補強する。箸墓古墳は33面の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳の前段階に位置づけられる。正始元年(240年)鏡があらたにみつかった桜井茶臼山古墳より築造開始年代は先行する。」

このような文章を読むと、あきれやいきどおりを通りこして、いささか、徒労感をおぼえる。それはつぎのような理由にもとづく。

(1)「邪馬台国=九州説」を説く人はいっぱんに「邪馬台国=畿内説」の人の書いた本もよく、読み、検討する傾向がある。これに対し、「邪馬台国=畿内説」の人は、はじめから自説は正しいと、きめてかかってしまう傾向がある。「邪馬台国=九州説」の本を、まったく読もうとしない姿勢や、反証については、無視する姿勢がめだつ。
「歴博研究グループ」の炭素14年代測定法の報告なるものは、日本考古学協会の会員であれば、だれでもが発表できる15分ほどの発表と、マスコミへの事前リークを行ったものにすぎない。その後、日本情報考古学会で行われた学界での公式のシンポジウムでは、歴博研究グループの発表は方法も結論も誤りであると、ほとんど全面的に否定されている。また、確実な反証が示されている。日本考古学協会の会員で、この方面の専門家であり、炭素14年代測定法についての論著も多い山岸良二氏は、2010年4月27日(火)付の『東京新聞』朝刊のコラムのなかで、「(歴博グループの炭素14年代測定について)学界では7対3の割合で測定結果に否定的」と、意見をのべている。このコラムは、インターネットで、容易にみることができる。「歴博研究グループ」の発表への反証などは、つぎの私の二つの著書でも、くわしく紹介している。
○『「邪馬台国-畿内説」「箸墓-卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書、2009年刊)
○『卑弥呼の著・宮殿を捏造するな!』(勉誠出版、2011年刊)
また、「歴博研究グループ」が、2011年刊の『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集に掲載した報告「古墳出現期の炭素14年代測定」については、私の編集している『季刊邪馬台国』111号(梓書院、2011年刊)を、参考にしていただきたい。そこでは、数理考古学者の新井宏氏により、歴博研究グループによる資料の改変、隠蔽などが、くわしく具体的にくわしく指摘されている。また、土器付着物の炭素14年代は、年代が古めに出るという「土器付着物問題」の無視が、とりあつかわれている。現在のところ、これらの諸指摘、反証に対して、「歴博グループ」の答えは、なされていない。

(2)白石太一郎氏は、かつて、国立歴史民俗博物館の副館長をしておられた。「歴博研究グループ」は、白石太一郎氏の「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」の影響をうけているとしか思えない。炭素14年代測定法の結果(事実)は、箸墓古墳の築造年代は「四世紀」である確率が、高いことを示している。「歴博グループ」の「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」は、確率論的・統計学的には、十分な安全さで、否定できるものである。(これについても、前著『卑弥呼の墓・宮殿を捏造するな!』で、くわしく根拠をのべた。)
「歴博研究グループ」の説を支持するのならば、そのまえに、まず拙著であげた根拠などに対する具体的な反証を、示していただきたい。「歴博研究グループ」は、ほとんど滅裂な論理で、白石太一郎氏の説にあうように箸著古墳の年代をくりあげ、西暦240~260年とする。すると、白石太一郎氏は、これで、自然科学的な年代決定法によっても、自説は、支持されたと考える。しかし、それは、自然科学的な方法によってえられた客観的事実をみているのではない。みずからの影をみているにすぎない。

(3)纏向古墳群のなかの、ホケノ山古墳の築造年代は、箸墓古墳の築造年年代よりも古いとみられている。考古学者の寺沢薫氏の年代論によれば、ホケノ山古墳は、庄内3式期のもので、箸墓古墳は、そのあとの、布留0式期のものである。2008年に、『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行)が、刊行されている。『ホケノ山古墳の研究』によれば、ホケノ山古墳出土の、「古木効果」がはいらないように慎重にえらばれた十二年輪の小枝の、炭素14年代測定法による測定値は、四世紀を主とする年代を示している。
これは、誤差の幅を考慮しても、「歴博研究グループの年代論」と矛盾する。統計学的には、歴博仮説は1パーセント以下の危険率で、棄却されることを示すものである。つまり、歴博仮説は、成立しないことを示すものである。「歴博研究グループ」は、このような、自説と矛盾するデータを無視している。「歴博研究グループ」には、統計学や確率論の専門家が加わっていないのではないか。その水準において、かなり以上の問題がある。
『ホケノ山古墳の研究』の示しでいる結果について、白石太一郎、大塚初重、東潮氏は、どのように考えられるのか。とくに、奈良県立橿原考古学研究所の所員でもあった東潮氏は、どう考えられるのか。「客観的事実」を、すべて、たんなる「意見」におきかえ、二つの意見があるが、私は、A意見に賛成だとのべるだけのような方法では、科学や、学問は成立しない。賛成なら賛成、反対なら反対の根拠をこそ、具体的にのべるべきである。

(4)炭素14年代測定法では、試料として、なにを測定するかによって得られる年代が大きく異なることがしられている。国立歴史民俗博物館グループは、炭素14年代測定法による測定にあたり、主として、「土器付着炭化物」を用いている。ところが、「土器付着炭化物」は、同じ遺跡から出土したクルミや桃の核(タネの固い部分)などにくらべ、系統的に、年代が古くでることが知られている。これまでにわが国で知られているデータをすべて示せば、つぎの表のとおりである。表の数字は、最終的な推定西暦年数を得るための途中段階の数字で、何年さかのぼるべきかを示すような数字ある。
(B)の、「土器着炭化物」を用いると、(C)の「くるみ・桃核」を用いたばあいにくらべ、③の箸墓古墳の年代で、77年(1825-1748=77〔年〕)ほど、古くでていることがわかる。
つまり、「歴博グループ」が示している年代を、77年ほど、あとに、ずらしてやらなければならなくなるのである。ここからは、箸墓古墳の築造年代は、主として四世紀と推定される数字がでてくる。表をみれば、現在しられている6遺跡統計44例のデータのすべてにおいて、法則的に、「土器付着炭化物」を用いると、年代が古くてる、という現象がおきているのである。ホケノ山古墳の十二年輪ほどの小枝のデータのばあいでも、まったく同じような年代のズレがおきている。
(B)の「土器付着炭化物」の平均値に対する相対的なズレの程度も、クルミ・桃核のばあいと、ほぼ同じである。
ホケノ山古墳の例を加えれば、7遺跡において、同じ現象がおきている。
数理考古学者の新井宏氏は、「土器付着炭化物」の年代が古くでる理由として、炭化物が、活性炭のような性質をもち、土壌に含まれるフミン酸やフルボ酸などの腐植酸を吸収しやすい傾向をもつことをのべておられる。そして、新井宏氏は、「(土器付着炭化物は、年代が、)古く出ているか否か」の問題は卒業して、土器付着炭化物を試料として用いると、「なぜ古くでるのか」の問題に、関心が集中する段階であるという。
名古屋大学年代測定総合研究センターの中村俊夫教授は、「クルミの殻」について、「クルミの殻はかなり丈夫で汚染しにくいので、年代測定が実施しやすい試料である。」とのべている(日本文化財科学会第26回大会特別講演資料)。歴博グループは、自説につごうの悪い年代を示している試料、他の機関が出している炭素14年代測定結果を無視してマスコミ発表をくりかえしているのである。
白石太一郎氏、大塚初重氏、東潮氏は、このような点に対して、どのように考えられるか、人まかせにせずに、みずからしらべ、みずからの回答を示していただきたい。とくに、東潮の、さきに紹介した文のなかの、「箸墓古墳の木材の炭素14年代測定法の資料も補強する。」などの表現は、はなはだいただけない。
「歴博グループ」が、箸墓古墳のばあい、炭素等代測定法のためにおもに用いている資料は、「土器付着物炭化物」である。東潮氏のいうような、「木材」ではない。箸墓古墳の「木材」のばあいの炭素14年測定法の結果は、東氏が、以前つとめておられた奈良橿原考古学研究所から出されている『箸墓古墳周辺の調査』に示されている。
その「木材」試料によれば、箸墓古墳築造年代の推定値は、西暦紀元前1紀を中心とし、西暦紀元後1世紀のはじめにかかるころ年代を示している。
それでも、やはり、東潮氏は、炭素14年代の「木材」試料の示す年代結果を信じられるのか。内容をよく検討しないで、自説につごうのよい数字だけをひろうのであれば、炭素14年代測定法によって、箸墓古墳の築造年代を、どこにでももって行ける。あとでも示すが、東潮氏の議論は、この種の不正確な議論のオンパレードである。
このような、いかなる反証の提出も無視して、くわしく検討した様子もなく、考古学のリーダーといわれる人たちが、率先して行なっている。非科学的・非学問的言説の横行を、考古学のために、あきれるとともに、はなはだなげかわしく思う。考古学とは、しょせんこのていどの学問なのか。



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■年代は、なぜ、古いほうへ、ひとり歩きするか
考古学者、森浩一氏は、のべておられる。
「最近は、年代が、特に近畿の学者たちの年代が、古いほうへ向って一人歩きしている傾向がある。」(『李刊邪馬台国』53号。梓書院、1994年刊)古代の年代が古いほうへ、古いほうへと、ひとり歩きして行くのは、つぎのような事情によるとみられる。
とくに畿内のばあい、年代のキメテとなるものが出土することは、まずない。
ある考古学者A氏が、みずからの発掘にもとづいて、ある遺跡について、考えられる年代を発表する。そのさい、当然のことであるが、みずからの発掘についてのそれなりの無意識の愛着が生ずる。考えられる年代のうち、もっとも古い年代を発表しがちになる。それは、
(1)古い年代ほど、マスコミが、とりあげやすい。記者も、みずから執筆した記事が紙面を大きく飾ることを、期待するところがある。記事を、センセーショナルにするためには、年代は古いほどよい。
(2)マスコミを大きく飾ったほうが、発掘継続や、保存のための費用を、獲得しやすくなる。(旧石器程造事件など、まさにそうであった。)
(3)考古学者B氏は、考古学者A氏が、年代をあそこまで古くみているのなら、ということで、みずから発掘した遺跡について、さらに、考えうるもっとも古い年代を発表する。
(4)大阪府立弥生文化博物館館長の考古学者、金関恕(ひろし)氏は、その編著の『古代の鏡と東アジア』(学生社、2011年刊)のなかでのべている。「考古学の議論はいきなりパンチを喰らわすのではなく(笑)、だいぶ断りをいれながら(爆笑)--。」このような傾向があるため、他の考古学者が、かなり無理な年代くりあげを行なっていても、それはその考古学者の考え、ということで、異論がはさまれることは、よほどのばあいをのぞいては、まずない。
客観的キメテがなく、かなりは、解釈にゆだねられているから、このくりかえしによって年代は、古いほうへ、古いほうへと、ひとり歩きして行く。
しかし、事実からは、かけはなれがちになる。矛盾が生じがちになる。それを、また、解釈でおぎなう。かくて、考古学は、具体的事物をとりあつかく学問でありながら、「解釈」が、氾濫する状態となる。かりに、Ⅹ氏が、年代を定めるキメテとなるような「事実」を提出しても、それは、Ⅹ氏の「意見」と考えられがちとなる。
このような状態では、「邪馬台国問題」の解決は、むずかしいことは、おわかりいただけるであろう。なにが示されても、それは、Ⅹ氏の「見解」となり、「事実」として定着しないのである。



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