■新人とネアンデルタール人の交雑
「種無しスイカ」や「ラバ」など。同じような種族でも遺伝子的に離れた種族の場合、子供ができるが、更にその子は生まれない。
今までは、ネアンデルタール人とヒトは接触がなかったと言われてきたが、ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)とホモ・サピエンス(ヒト)は40~60万年前にホモ・ハイデルベルゲンシスから分かれたと言われており、両者の間では子供ができたのではないか。
そのような記事がある。
・「ネアンデルタール人の血ヒトにも!国際チームがゲノム解析、5万年~10万年前。中東で交わる?」『朝日新聞』2010年5月7日
現生人類(ヒト)の一部は、ネアンデルタール人と交推し、その遺伝子を受け継いでいたらしい。独マックスブランク進化人類学研究所などの国際研究チームが、ネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)配列を解析し、突き止めた。7日付の米科学誌サイエンスでその概要版を発表する。
ネアンデルタール人はヒトに最も近い種の人類。約40万年前に現れ、欧州を中心に西アジアで生存、約3万年前に絶滅したとされる。約20万年前にアフリカで現れたヒトと同じ地域で生きていたが、両者の間に交雑はない、との考えが有力だった。
研究チームは、クロアチアの洞穴から発据された4万年ほど前の3人の、ネアンデルタール人女性の骨片を吸い、ゲノム配列を調べ、ネアンデルタール人のゲノム全体の約.6割を解明した。この情報とフランス、中国、パプアニューギニア、アフリカ南部と同西部の5人のヒトゲノムとを比べた。すると、アフリカ以外のヒトはゲノムの1~4%がネアンデルタール人由来と推測できた。子孫を残せるほど近い関係だったことになる。
同チームはヒトの移動時期を踏まえ、アフリカを出た初期のヒトは10万~5万年前の間に中東で、ネアンデルタール人に遭って限定的に交雑し、その後、欧州やアジアに広がったと考えられるとした。
また、認知機能や頭の骨の発達にかかわるとされる遺伝子は、両者の間で大きな違いがあることもわかったとしている。
国立科学博物館人類史研究グループの篠田謙一グループ長(分子人類学)は「人類の本質を探るための第一歩となる研究成果だ。未知の部分の多いヒトの遺伝子の働きについてさらに理解が深まれば、ネアンデルタール人についても同時にわかるようになるだろう。両者は分岐して数十万年しかたっておらず生物学的には交雑は可能と思っていたが、その考えがより強まった」と話している。
■日本列島における縄文人の分布の片寄
古くから、縄文式文化は東北方に栄え、西南方では振るわなかった。これは縄文文化が西南方面では早くに終末に達し、東北方面では後半まで続いていた。それ故に遺跡が多いものと考がえられていた。しかし、この考えは考古学的に否定されてしまった。西南方面では東北方面とほぼ同じ段階が縄文晩期に至るまで発見されるのである。しかし遺跡の分布の濃淡は厳然たる事実であって、その解釈が要請されたのである。
山内清男「日本先史時代概説」(『日本原始美術Ⅰ』講談社1964年刊)
とあるように、縄文時代は弥生時代と逆に分布している。これは遺跡から出土する食糧などで分かる。
・縄文人が主食にしていた意外なもの
大塚初重著『考古学からみた日本人』(青春出版社刊)
縄文人が主食にしていた意外なもの
貝塚を含め、縄文遺跡からうかがい知れる縄文社会の食生活は、意外に豊かだった。
狩猟採集の生活というと、もっぱらイノシシやシカのような狩りの獲物を食べていたという印象が強いが、じつは彼らの主食は植物のほうだったのである。
地域によってもちがうが、千葉県の海辺に住んでいた縄文人は、総カロリーの80%を木の実に依存していたという調査結果もある。木の実というと、アーモンドやカシューナッツ、クルミ、ヘーゼルナッツなど、いわゆる酒のおつまみ用や健康食品としての木の実を思い出すかもしれない。
しかし、縄文人が主食としたのは堅果類(けんかるい)。いわゆる堅い木の実のことで、クルミ以外では、ドングリ、クリ、トチ、シイなどの実であった。これらの栄養的な特徴は、クルミなどおつまみ用の木の実は糖質が10~20%に対して、ドングリやシイでは60%以上、トチなどは70%以上が糖質で構成されていた。つまり縄文人が主食とした木の実の成分は、米や麦など穀物にちかいものがあり、栄養的にも十分に主食に耐えられる食材だった。しかも、東日本は落葉広葉樹林の一帯で、木の実が豊富に採集できたのである。
昔から「木の実時雨(しぐれ)」という季語があるほど、秋になると森ではドングリ類が雨のように降り、地面を埋め尽くした。まさに秋は恵みの季節で、短期間で大量の収穫が可能だった。狩猟とちがって的をはずすこともなく、その時期は家族総出で木の実をかき集め、蓄えていたのだろう。
木の実は長く保存がきくため、地面に掘った貯蔵穴などに保存し、冬の備えとした。安定的な食料確保ができ、栄養的にも「主食」としての役割を担っていた。
縄文時代が比較的早い時期から定住生活ができるようになったのも、土器の出現と、大いなる自然の恵みがあったからであろう。
もっとも、クルミやクリ、シイの実などは茄でたり、焼いたりすれば食べられるが、トチの実やドングリはアク(毒)抜きをしないと、苦くてとても食べられない。トチの実には有毒のサポニンやアロイン、ドングリにはタンニンが含まれているからで、一週間以上水にさらしたり、灰を加えて長時間煮詰めるなど、かなりの手間をかける必要があった。
実際、こうした作業をした遺構が埼玉や長野など各地の遺跡から見つかっている。谷川や水辺でアク抜き作業をする「水場(みずば)遺構」や、板材を囲ってつくる「水さらし場遺構」などがそれだ。
埼玉県川口市の赤山遺跡は、東京外郭環状道路建設の際に発掘された遺跡で、縄文晩期の水場遺構だった。トチの実を水でさらし、アク抜きをする場所だったようで、周辺からは何十万個というトチの実の割れた殻が出土している。
現在でも、日本の山村地帯ではトチモチなど木の実デンプン製の伝統的な食品があり、アク抜きのためのさまざまな方法が伝承されている。
いずれにせよ、縄文人たちは手間を惜しまず、大量の木の実を効果的に処理することで「主食」とした。それもまた煮炊きができる土器の出現が背景にあったことはいうまでもない。
・縄文人の食糧
佐々木高明『日本の歴史1 日本史誕生』集英社刊
赤沢氏らは、千葉県の古作(こさく)貝塚(縄文時代後期、4000年前ごろ)から発掘された20体の人骨のコラーゲンの分析を行った。
古作縄文人たちは,蛋白質についてみれば、その約40パーセントを魚介類からとり、獣肉やC3型植物からそれぞれ約30パーセントずつを摂取し、かなりバランスのとれた食事をしていたことがわかる。熱量(カロリー)についてみると、蛋白質の場合と異なり、その約80パーセントを植物性の食料から得ていた。
しかも、その大部分はドングリなどの堅果類や野生のイモ類などのC3型植物からで、C4型植物、つまり雑穀の類はほとんど食べていなかったようである。大きな貝塚をつくった小作貝塚の縄文人たちにとっても、貝類は蛋白源としての役割をわずかに果たしていただけで、カロリー源のほとんどは植物性食料に頼っていたことになる。
・釣り針の出土
渡辺誠著『縄文時代の漁業』(雄山閣出版、1973年刊)
漁業は,縄文時代の生産基盤のなかでは最重要な位置を占めることはなかったのであり、狩猟についても同様であったと思われる。換言するならば、こうした漁業の専業化を促し得た全般的な安定性を提供した経済基盤は,植物食の獲得のなかにある。
・このように、中部地方以北が近畿以南より人口が多かった。
山内清男氏の「サケ・マス仮説」があり、北の方はサケ・マスが豊富で縄文人の人口が多かったとしたが、渡辺誠氏は中部地方に人口が多く、北海道で人口が少ないことに対する説明がつかないとして反論している。
それに対し、安本仮説は火山噴火があったのではないかと考える。南九州には姶良カルデラ(あいら)カルデラ(約2万5千年前)、阿多カルデラ(約9万年前)、鬼界カルデラ(約6400年前)、池田湖(約5500年前)、開聞岳(約4000年前)などがあり、火山灰が東方地方まで降ったと考えられている。この火山灰で太陽を覆い、土地も火山灰で農産物が出来にくくなる。
■縄文人の主体はアイヌにつながる
・アイヌは北から移動したものではない(北海道大学 吉崎昌一氏)
「アイヌの祖先は、より南から来たものであり、時代的により新しく、クサビ型細石核をもつ細石刃文化を担った人類集団とは重なりあわない。」とする見解がある。
吉崎氏は、江上波夫他編『シンポジウ一ム北方文化を考えるアイヌと古代日本』において、およそ、つぎのような意見を、のべている。
(1)「アイヌ民族が、北方系であるという見解には、抵抗がある。われわれが常識として持っている北方的要素にうまく合致するものを、ほとんどもっていない。
たとえば,ことばとしても、橇(そり)やスキーがない。これらのものは、サハリンまでは分布している。橇やスキーは、冬期の移動や輸送に重要なものである。それが、かつて存在した痕跡もない。もし、非常に寒いところの生活に適応していたのなら、当然、冬の活動はかなり重要であったはずである。ところが、アイヌ民族の生活器具のなかには、北方的要素がないのではないかと思われる。
(2)海流と日常気象のデータを全部コンピュータにいれ、シミュレーション(模擬実験)をしてみると、北海道から本州に行くよりも本州から北海道に行くほうが楽である。航海可能な日数は、 一対四ぐらいの比率となる。
石器時代の文化の流れをみると、北海道系の文化遺物が、ストレートに本州に入っている場合もあるが、それよりも、はるかに強い流れで、本州の影響が、北海道南西部に現れている。
サハリンのアイヌも、北海道から渡ったと考えられる。
・アイヌや縄文人の医学的特徴(札幌医大教授の百々(どど)幸雄氏)
アイヌや縄文人の特徴について、百々氏は医学的立場から、「私が頭骨の形態小変異というものに取り組んで、もう20年以上になる。私たち日本人の形成の道筋をたどろうと、人類学の正統的研究法といささか異なる方法を採ったが、そのおかげでそれまで見えてこなかった重要な事実が、いくつか浮き上がってきたように思う。
図で示したのが、そうした小変異例である。例えば、眼球を納める眼窩という穴の上縁に、神経の通る小孔の形成されることがある。現代日本人のだいたい半数の人に、この孔、つまり「眼窩上孔(がんかじょうこう)」があるが、あと半分の人にはそれがなく、神経を通すわずかなへこみが見られるだけだ(図の7)。
「舌下神経管二分(ぜつかしんけいかんにぶん)」というのも、形態小変異の一つだ(図の5)。頭骨の底に、舌の運動を司る舌下神経の通る骨の通路がある。普通はこの管は一つなのだが、骨の板で管が二分される人もいる。現代日本人では、
およそ15%の人の管が、二分されている。しかしアイヌや縄文人ではこの比率は30%以上の高率になる。」と言っている。