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第308回 邪馬台国の会
原人たちの移動
古田武彦説の検討
『魏志倭人伝』動植物の記述


 

1.原人たちの移動

■原人、旧人、新人
原人とは
原人(げんじん)[ホモ・エレクトス](Homo erectus)とは1891年、オランダの解剖学者デュボワにより、ジャワ東部のソロ川流域で最初に発見された化石人類。 150万年前から20万年前の人類で、猿人よりは新しく旧人よりも原始的なかたちをしている。中国の周口店遺跡では、原人が火を使った跡が発見されている。握斧をはじめとする、多彩な石核石器を使用。

旧人(きゅうじん)[ホモ・サビエンス-ネアンデルターレンシス](Homo sapiens-neander-thaJensis)とは1856年、ドイツのネアンデルタールにある石灰岩の洞窟から発見された化石人類。発見地にちなんでネアンデルタール人、原人よりも進化しているが、新人よりも原始的なかたちの人類。 20万年前から4万年前の人類で、この旧人から死者の埋葬や剥片石器の使用が始まった。

次が、我々の直接の祖先の新人[ホモ・サピエンス](Homo sapiens)である。

これら人類の発生について、二つの極端なモデルがある。
①ノアの箱舟モデル(新人アフリカ起源説)
現在、有力な説となっている。現代人は全て、新人から分かれたものとする。
②教会燭台モデル(多地域進化説)
各地域に原人がいてそこから、別々に進化して現代人になったとする。
藤村氏による旧石器ねつ造事件は岡村氏のこの説を根拠としていた。

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人類の系統発生概念図からも、説明されている。他の原人は滅んでしまい、新人だけが残ったとされている。しかし最近では現代人にネアンデルタール人の遺伝子が少し入っているとの説もある。

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■原人の移動
原人の移動については下記の説がある。
河合信和著『ネアンデルタール人と現代人』文春新書1999年刊による移動経路。河合さんは邪馬台国の会で講演して頂いている。

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最近では印藤道子著『人類大移動』朝日新聞社2012年刊で最初の「アウト・オブ・アフリカ」の証拠として説明しており、もう少し細かく年代が入っている。
およそ120~140万年前のオーダーで描いている。


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■新人の移動
第2次アウト・オブ・アフリカは新人の移動であって、根井正利著『人間集団の起源 遺伝的、言語的、考古学的なデータ(The Origins of Human Populations;genetic,Linguistic,and Archeological Data)』(『DNAからみた現代人の起源と経歴(The Origin and Past of Modem Humans as Viewed from DNA)』(World Scientific 1995年刊)所収によるもので「化石、考古学データ、遺伝学的データにもとづき推論された現代人の分布の経路」で示されており、10~15万年前の移動となる。


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その他の資料
・篠田謙一著『日本人になった祖先たち』(NHKブックス、2007年刊)
「推定される新人の世界拡散の経路とその時期

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・スティーブン・オッペンハイマー著『人類の足跡・10万年全史』(草思社、2007年刊)

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・『朝日新聞』2005年5月24日(火)の記事

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・印藤道子著『人類大移動』による新人の移動の説明。

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これらでの違いのポイントは
①ユーラシア大陸から北アメリカ大陸へ渡る時期が1万数千年、2万数千年などの違いがある。
②アフリカ大陸からユーラシア大陸へ移動するにアラビア半島の付け根かアラビア半島の先を通るかの違いがある。
③アジアへ渡るのに、インドを伝わる説がある。これは大野晋(すすむ)氏の日本語の起源はインドのタミル語(ドラビダ族の言語)とする説と関係するのか?これについては今後の「日本語の起源」で講演する予定。

■細石器文化
縄文時代が始まる前の石器文化として、「荒屋型彫器」とか「細石刃(さいせきじん)文化」とか呼ばれている。
荒屋型彫器は角鑿(かくのみ)形彫器の1型式で、新潟県荒屋遺跡の出土例を標式とする。周辺調整の槍先形尖頭器に似た素材からつくり出されている。先土器時代の細石器文化と一体となって東日本一帯を中心として発達したが、同時期の周辺大陸にも類例が知られている。
細石器文化は15000年前ごろ、それまでの槍先形尖頭器文化と交替して、細石刃文化があらわれる。東日本から北海道にひろがる細石刃は、遠くシベリアからアラスカにまで広がりをもつ。これについて、元千葉大学教授の加藤晋平氏は、『日本人はどこから来たか』(岩波新書、1988年刊)のなかで、「[12000年~13000年まえ]に、東日本を覆ったクサビ型細石核をもつ 細石刃文化を担った人類集団の技術伝統は、バイカル湖周辺から拡散してきたものである。」と述べている。


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ここで細石刃とは、幅が5ミリ、長さ3センチていどの、両側の緑が平行になっている薄くて細長い剝片である。日本列島の細石器文化は東日本と西日本とに分かれる地域差をもっており、南北2つの窓口から流入伝播したものとみられる。

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しかし、細石刃文化は縄文時代には受け繋がらなかった。



■縄文時代年代の繰り上げ
青森県東津軽郡外ヶ浜町蟹田の大平(おおだい)山元遺跡から出土した土器片などをもとに、炭素14年代測定法により測定した結果、16500年前のものという結果がでたという。これは、マスコミで、大きく報道された。
この年代であれば、世界最古の土器で、従来の縄文土器の始原12000年ていどまえという年代観を、大きく打ちやぶるものである。

もし、縄文時代の年代を繰り上げた場合、その前の細石器文化の年代はどうなるのか、そのことには触れていない。

しかし、ここでも、土器付着炭化物が、年代決定の主要な試料とされている。土器付着炭化物は軒並み、古い年代となることが分かっている。
発表されているデータから、同じ遺跡から出た土器付着炭化物とクルミ・桃核と比較したデータからも分かる。

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土器付着炭化物とクルミ・桃核が同じ年代だとするなら、45度の直線(y=1)となるはずだが、測定値から、y=0.897となる。

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このことから補正すると。

もっとも若いもての----13000年
もっとも古いもの----15500年

となる。

おおまかに言って古くても14000年前とすれば、細石器文化とつじつまがあうのではないか、16500年前は古すぎる。




2.古田武彦説の検討

前回は本居宣長について述べたが、本居宣長は卑弥呼は九州の女酋であるとした。古田武彦氏は本居宣長の流れをくんでいるので、その考えを更に進め、九州に王朝があったとしている。また、東北にも王朝があったとしている。

古田武彦説の主張を検討してみる。
(a)邪馬壹(壱)国(やまいちこく)説
古田武彦氏は『魏志倭人伝』に出てくる女王国は「邪馬台国」ではなく「邪馬壹(壱)国」であったと述べている。
その証拠は現存の版本の『三国志』「魏志倭人伝」に「壹(壱)」と書かれていると主張し、これは卑弥呼の宗女の「台与(とよ)」についても同様で、「壹與(壱与)[いよ]」だとしている。

しかし現存版本は12世紀に成立したもので、それ以前のテキストでは「臺(台)」であった。例えば、『翰苑』がよい例である。『翰苑』は唐の張楚金の撰で、、雍公叡の注である。大宰府天満宮にあり、平安初期9世紀に書写され、そのまま今日に伝来した。

このことは、原文を対照してみればすぐわかる。
すなわち、宗女台与について、つぎのとおりである。
『翰苑』原文
「更立男王国中不服更相誅殺復立卑弥呼宗女壹與年十三為王国中遂定其国官有伊支馬次日弥馬升次日弥馬獲次日奴佳鞮」
「魏志倭人伝」原文
「更立男王国中不服更相誅……復立卑弥呼宗女臺與年十三為王国中遂定」「官有伊支馬次日弥馬升次日弥馬獲支次日奴佳鞮」

さきの引用文は、はじめ『後漢書』の文を引き、後半においては、「魏志倭人伝」の文を引いている。そして、『翰苑』の文をよく見られよ。そこでは、現存版本の 「魏志倭人伝」には、「壹與(壱与)」とある卑弥呼の宗女の名が「臺與(台与)」と記されている!

しかも、そればかりではない。雍公叡の記した注ではなく、張楚金の正文の方も、この宗女の名を、「臺與(台与)」と明記しているのである。『後漢書』には、もともと、宗女「臺與(台与)」あるいは「壹與(壱与)」の名は、一切見えない。したがって、雍公叡の注や、張楚金の正文中の「臺與(台与)」の名が、『後漢書』から来たのではないことは、明らかである。『後漢書』によって、『三国志』の中の字が改定されたという「『後漢書』主義」によっては、説明がつかない。では、どこから来たか。当然、雍公叡が引用しているが如く、7世紀の雍公叡や9世紀の張楚金のそれぞれが目にした『三国志』「魏志倭人伝」から来たのである。

張楚金や雍公叡には、彼らが目にした『三国志』に「壹與(壱与)」とあったものを、とくに、「臺與(台与)」と改変しなければならない理由があったとは思えない。
   現存する『三国志』の版本の最古のものは、12世紀のものにすぎない。南宋の紹興年間(1131から1162年まで)に印刷された紹興本がそれである。それにつぐのは、南宋の紹煕年間(1190から1194まで)に印刷された紹煕本である。この紹煕本は、北宋の時代、咸平5、6年(1002、3年)に印刷された北宗咸平監本の復刻ではないかといわれている。

太宰府天満宮伝来の『翰苑』の書写の時期は、紹興本、紹煕本の刊行の時期より、およそ、3世紀古い。 そして、『翰苑』引用の『三国志』「魏志倭人伝」は、卑弥呼の宗女の名を、壹與(壱与)ではなく、「臺與(台与)」と記しているのである。

古田氏は、「邪馬壹(壱)国」とともに、卑弥呼の宗女の名も、現存の版本通り、「壹與(壱与)」が正しいとされた。古田氏の主張の、重要な一角が、ここでも、破れている。

それ以外にも『魏志倭人伝』の「対馬国」「一支国」についても、現存の版本の『三国志』「魏志倭人伝」にあるように「対海国」、「一大国」が正しいとするが、『翰苑』では、「對馬国(対馬国)」、「一支国」となっている。

(b)魏晋朝短里説
「魏晋朝短里説」では、『三国志』全体が、「短里」によって書かれていると、古田武彦氏が、『「邪馬台国」はなかった』で主張した。

この説は、現在、ほぼ否定されているとみてよい。篠原俊次氏の詳細な研究によれば、『三国志』のなかの、中国本土内の二地点間の距離の記載は、すべて、標準里によって説明される(『季刊邪馬台国』35号所載、「『魏志』『倭人伝』の里程単位」参照)。

1982年に、中華人民共和国の地図出版社から、譚其驤主編の、『中国歴史地図集-三国・西晋時期-』が出版されている。
『魏志』は、魏郡鄴県から、洹水(えんすい)までを50里、陽平亭までを、17里と記している。 譚其驤氏の『中国歴史地図』をみれば`魏郡鄴県、鄴水、陽平亭の三つの場所は、地図 のように描かれている。この地図から、求めれば、鄴から洹水(安陽市のあたり)までが、約20キロ、陽平亭までが、7キロほどである。ここから、一里の長さを求めれば、鄴から洹水までのばあいで、400メートル、鄴から陽平亭までのばあいで、412メートルとなる。

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これらの値は、直線距離によって求めたものであるが、1里を434メートルとする標準里で、十分説明できる。直線距離のように、小さめの値ででるような測りかたでも、1里は、100メートルていどには、とうていならない。道路の屈曲その他を考えれば、1里を、実測値よりも長めにすることは可能であるが、直線距離で求めたものよりも、短かめにすることはできない。

他の事例も同様であって、譚其驤氏の『中国歴史地図』によってチェックしてみると、篠原俊次氏ののべるとおり、『三国志』のなかの、「韓伝」「倭人伝」以外の中国本土内のニ地点間の距離の記載は、すべて、標準里で説明できると考えるべきである。

 

(c)『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』
『東日流外三郡誌』は、奥州の豪族・安部氏の末裔とされる津軽安東氏の歴史を、古代までさかのぼってまとめた謎の古文書で、発見者の和田喜八郎氏は、先祖らが江戸末期に編纂したと主張した。原本は未発見で、見つかった古文書は写本とされるが、発見の経緯や筆跡をめぐっての真偽論争となったもの。

古田武彦氏はこの古文書は本物と主張し、寛政原本も出て来たとしている。


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しかし、これらの古文書は全くの偽物と考えられる。

これは、「自説は正しいのであるから、少々の不正は許される」とする感覚で、現代は諸種の情報が野ばなしの状況なので、情報の質を検討する力が必要である。

「東日流外三郡誌」論争について、安本先生と古田武彦氏+和田喜八郎氏の対談の形式で、1993年にNHKのナイトジャーナルでテレビ放映された。第308講演会では、その録画を観賞した。

「東日流外三郡誌」について調査し、本を書いた斎藤氏の記述。
斎藤光政著『偽書「東日流外三郡誌」事件』(新人物往来社2006年刊)
斎藤の言葉が終わりきらないうちに、それまで二人の様子をじっと見守っていたキヨエが毅然とした表情で話し始めた。
「本当に、はんかくさい(おかしいの意:筆者注)。私が最初から言っているじゃないですか。すべて、喜八郎さんの作り話だと。もともと、この家には何もなかったんです。古い巻物とか書き物なんか、一切伝わっていなかったんです。それも、よりによって何千巻もだなんて……。
それなのに、なんで、頭のいいはずの学者たちがコロッとだまされたんでしょうか。不思議でしかたがありません。いいですか、聞いてください。古文書が落ちてきたという1947年ごろ、私はこの家に暮らしていましたが、そんな出来事は一切ありませんでした。原田さんの言うとおり、1947年にはまだ天井板を張っていませんでした。ありもしない古文書が、ありもしない天井板を突き破って落ちてきたなんて。本当にもう、はんかくさい話ですよ」

・和田喜八郎氏のいとこ:和田キヨエさんの証言
和田喜八郎氏のいとこの和田キヨエさんは、『東日流外三郡誌』についてたずねてくる人への、説明の労をはぶくために、つぎのような文書を配布している。問い合わせに対する説明文書



3.『魏志倭人伝』を徹底的に読む

①道順が、「(帯方)郡から倭に至るには」となっている。対馬国→一支国と、むこうから、こちらに来たかたちになっている。「倭から、(帯方)郡に至るには」となっていない。魏から倭にきた使が書いたから、こうなったのであろう。

②『魏志倭人伝』は、倭地の植物として、「豫樟(よしょう)」をあげている。くすのきの類である。くすのきは、日本列島の暖地や、台湾、中国大陸の暖地に分布する。「くすのき」を「木へん」に「南」、つまり「楠」と書くとおりである。
「くすのき」は、朝鮮半島にはない。朝鮮半島だけで育った人に、ある木がくすのきであることの弁別がつくかどうか。

③『魏志倭人伝』に「橘[きつ](たちばな)は、倭地にあるけれども、滋味(じみ)となすことを知らない。」と記している。たべられる柑橘類は、中国の揚子江流域など、亜熱帯あるいは熱帯アジアが原産地とみられる。当時の倭人は、食べられる柑橘類があるということすら知らなかったとみられる。このような食べられる柑橘類との比較は、倭人にはできなかったようにみえる。また、朝鮮半島だけで育った人にも、このような記述が、できるかどうか。(食べられる柑橘類は、のちに、中国の江南地方からもたらされたとみられる。)

④また、当時の倭人は、「抒(ちょ)・豫樟(よしょう)・揉(じゅう)・櫪(れき)・橿(きょう)・烏合(うごう)・楓香(ふうこう)・薑(きょう)・橘(きつ)・椒(しょう)・蘘荷(じょうか)・紵麻(ちょま)」などを目にし、その植物の日本名はしっていたとしても、中国名のどの植物にあたるかを、弁別しえたかどうか。

⑤『魏志倭人伝』は、たとえば、「鵲[じゃく](かささぎ)」がいない、など、朝鮮半島や中国にはいても、日本列島には、いない動物名を記している。倭人には、日本列島に存在する動物を中国人にのべることはできても、いない動物を告げることは、むずかしいであろう。
ちなみに、「鵲」は、朝鮮半島や遼東半島、あるいは中国東北地方(旧満州)においては、カラスと同じていどに、ありふれた鳥である。あちらから来たのであれは、「いないこと」が異様に思えても、こちらがわでは、「いないこと」が普通なのであるから、わざわざいない、みたことのない動物名を、倭人があげることはないであろう。(現在、佐賀県の佐賀平野にいるかささぎは、佐賀藩の藩祖・鍋島直茂が、秀吉の朝鮮侵略時に、朝鮮からもって帰ったものの子孫といわれている。

⑥「獮猴[みこう](大ざる)」「黒雉」なども、実物をみないと、書けそうにない。




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