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第307回 邪馬台国の会
1.倭人の鵜飼・倭人の弓
2.「山片蟠桃と津田左右吉」(前回講演の続き)
3.本居宣長
4.『魏志倭人伝』のテキスト


 

1.日本民族の起源

■倭人の鵜飼

鵜飼は中国の揚子江流域で古くから行われており、その範囲は戦国時代からの楚の国の領域に重なる。遠く雲南の地域にまで広がっている。

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一方日本では、土井ヶ浜遺跡の弥生人に川鵜を抱いている女性が出土している。これは鵜を食べるためではなく、飼っていたと考えられる。

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『古事記』の「神武天皇記」には、奈良県の吉野川の下流で、神武天皇軍が贄持(にえもつ)の子という国つ神と出あうが、この贄持の子は、鵜飼部の祖先とされている。
また、『古事記』の「神武天皇記」には、神武天皇軍が「鵜飼で漁をする人々よ、助けに来てほしい」という歌もみえる。『日本書紀』では、「雄略天皇紀」の三年の条に、鵜飼の話がでてくる。
このように、『古事記』『日本書紀』に鵜飼の話が出てくる。

また、6世紀ごろの須恵器に、鵜飼の塑像がみられ、岡山県邑久(おく)郡国府の古墳から出土した須恵器の肩の部分に、三つの小さな小壹がはなればなれにつけられ、その小壷と小壷とのあいだの空間に、鵜飼をあらわす塑像がつけられている。


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さらに、「隋書」の「倭国伝」に、わが国の7世紀ごろの鵜飼のことを記した記事がみえ「首に小さい輪をかけて、ひもをつけた鵜を水にもぐらせて、魚を捕らえさせる。一日に、百余匹もとる。」とある。
また、8世紀成立の『万葉集』では、鵜飼のことが、かなり多く歌われている。


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・照葉樹林文化
照葉樹林というのは、カシ、シイ、クスノキ、ツバキ、サザンカなどを代表する常緑広葉樹を主とする樹林である。さきのような照葉樹では、葉が比較的厚く、テラテラとした光沢がある。
この照葉樹林帯に共通の文化があるとされている。雲南省付近は「東亜半月孤」として表記されている。

このように照葉樹林帯に共通文化が広がるのは、『周圏論』で説明できる。
柳田國男氏は『方言周圏論(ほうげんしゅうけんろん)』で「方言の語や音などの要素が文化的中心地から同心円状に分布する場合、外側にあるより古い形から内側にあるより新しい形へ順次変化したと推定するもの。見方を変えると、一つの形は同心円の中心地から周辺に向かって伝搬したとする。柳田國男が自著『蝸牛考』(かぎゅうこう、刀江書院、1930年)において提唱し、命名した。」


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■倭人の弓

日本の弓は世界的に見ると非常に特徴がある。
『魏志倭人伝』は「(倭人の)木弓は下が短く、上が長くなっている。竹の箭(や)は、あるいは、鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃[のもの」である。」と記している。
倭人の弓は上が長く、下が短い」と記している。古代の弓のこの特徴は銅鐸や埴輪の絵の弓の形からも分かる。
倭人の弓は、伝統的に、身長を、しばしば大きくこえる「長弓」であった。このような長弓は、ユーラシア大陸東部、南部では、まず見かけない。この長弓の伝統は、どこから来たのか。この倭人の弓の形は珍しい。

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『三国志』の「挹婁(ゆうろう)伝」には、「弓の長さ四尺(約96センチ)、矢には毒をほどこし、人にあたればみな死ぬ。」とある。(『後漢書』もほぼ近い表現。)
北方少数民族ツングース系のギリヤーク(ニブヒ)、オロッコ(ウイルタ)を含む、アイヌから沿海州の挹婁(ゆうろう)、更にはモンゴルにかけて毒矢を使った。しかも短弓である。
しかし日本では長弓であり、毒矢を使わなかった。

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それでは縄文時代の弓はどうであろうか?土器の絵から短弓のようで、アイヌの弓に繋がっているように思われる。
蝦夷がアイヌを指しているかは議論が多いところであるが、アイヌは蝦夷の部分集合と考え、アイヌでない蝦夷もいたことになる。
・神武天皇が奈良県に入ったとき「蝦夷は1人で百人にあたるがたいしたことはない。」と表現しているが、この蝦夷はアイヌではない。
・大国主命の子の事代主がいる。大国主は「大黒様」、事代主は「恵比寿(えびす)様」と呼ばれる。この「えびす」は「えみし」から来ているという説があり、出雲地方のズーズー弁が関係しているとの説もある。いずれにしても、アイヌは蝦夷の部分集合と考えられる。

平安時代に、東北の胆沢の蝦夷のアテルイが大和朝廷軍を破った。このアテルイの反乱を鎮静したのが坂上田村麻呂である。坂上田村麻呂が造ったお寺の清水寺に清水寺縁起絵巻があって、大和朝廷軍と蝦夷軍との合戦図がある。その弓の図をみると、両軍の弓は明らかに違い、大和朝廷軍は長弓で、蝦夷軍は短弓である。

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世界の各国の弓を調べると、朝鮮の高句麗の弓も短いし、中国の弓も短い、モンゴルの匈奴の弓も短い。どうみても馬に乗って弓を射るには短いアーチェリー型の方が扱いやすい。

匈奴は古くは「ふんぬ」と読み、漢の武帝によって中国の周辺から追い出され、その後西に移動して、ヨーロッパへ向かった「フン族」の移動としてヨーロッパの民族大移動を誘発させたと言われている。

ペルシャ(現在のイラン)の弓、ブータンの弓、タイの弓も短い。また、日本に来た蒙古も『蒙古襲来絵巻』から、短弓であることが分かる。

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アメリカのカリフォルニア大学教授のサクストン・ポープ(Saxton Pope)は弓の研究から、世界各地の34民族の弓について、長さ、飛距離、材質などを調べた。
その結果から、長い弓は日本が1位である。それ以外ではポリネシア、フィリピン、ソロモン諸島などである。
これらから、長弓の分布は太平洋側でスマトラ島とかセイロンなど広がり、ナレスシの分布と同じである。

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・「ナレズシ」
「ナレズシ」については佐々木高明著『日本史誕生』(集英社1991年刊)に、つぎのように要領よく説明されている。
「スシのもっとも古い形はナレズシとよばれるもので、魚を開いて軽く塩をしたのち、炊いたり、蒸したりした米の上に置き、魚肉(獣肉でもよい)と米とを桶や甕の中に交互に積み重ね、漬け込んだものである。いく日かすると米が乳酸発酵するのですっぱくなるが、その乳酸菌で他の雑菌の発生が抑制されるので、魚肉(獣肉)をかなり長期に保存できる。このようなナレズシは、いまもわが国では琵琶湖畔などでつくられるフナズシに、その姿をよく留めているが、実はきわめて古い食品なのである。
たとえば中国の3世紀ごろの古い辞書の中には、長江より南の江南の地にナレズシがひろく存在していたことが記されているし、現在でも、湖南省、貴州省や雲南省の少数民族、特に苗(ミャオ)族や伺(トン)族などのもとではナレズシが日常的につくられている。1980年の秋、私も貴州省台拱県施洞区の苗族の村でナレズシをたくさん御馳走になったことがある。13世紀ごろ以後、中国人(漢族)の中では失われてしまった古い食習慣が、少数民族の中でよく保持されてきたということができる。いずれにしてもナレズシは大変古い食品である。おそらく、それは稲作農業とともに長江の下流あたりから、九州へ伝わったものと考えられている。
現代、日本の食文化を代表するスシは、国際化の波にのってアメリカやヨーロッパに輸出され、人気を博しているが、その握り鮨の伝統はせいぜい近世後期ごろにまで遡りうるにすぎない。」

周圏論にあるように、ナレズシは中央部分が無くなり、周辺に残ったと言える。このことは、その周辺に長弓を使うところが重なる部分があると言える。

大宰府に残る『翰苑』という古い文献がある。この『翰苑』には「(倭人は、)文身鯨面して、なお太伯の苗(びょう)と称す。」と書かれている。また『魏略』を引用して、「その俗、男子は皆文身鯨面す。その旧語を聞くに、みずから太伯の後という。」とある。
これらは一種の周圏論で説明できる。雲南省と日本と繋がりがある。長弓、ナレズシがあり、納豆も同じである。

これらは、「日本語の起源」の講演でも話したいと思う。

 

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2.「山片蟠桃と津田左右吉」(前回講演の続き)

梅花短期大学の宮内徳雄教授は、「山片蟠桃から津田左右吉へ」という論文で、およそ、つぎのように述べている。
「だれが見ても、山片蟠桃と津田左右吉との古代史観が、まったく同じであるのに、津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』に、山片蟠桃についての記載が、まったくないのは、いかにも不自然である。津田左右方は、みずからの著書が、山片蟠桃の後塵を拝しているような印象を与えるのを嫌って、あえて山片蟠桃を無視したのではないか。極言すれば、江戸時代の書を読み、『夢之代』(蟠桃の代表作。1820年完成)の存在と、蟠桃の神代史創作説を知って、それをヒントに、『古事記』『日本書紀』の研究に入ったのであるが、その結論が、あまりにも一致していたために、かえって気がひけて言いだしにくくなったのではあるまいか。津田説を主流とする現代史学の常識とその埋由づけは、蟠桃によって集大成され、すでにことごとく、『夢之代』に盛られている。
津田左右吉より7歳年長で、若くして碩学の名を得ていた同じ東洋史学者の内藤湖南が、蟠桃の業績について、別にこだわらずに礼賛しているのと対照的である。
大正の中ごろ、突如として波間から出現した新島とも見える津田史観の底には、江戸・明治と海中で噴火を続けてきた海底火山の基底があった。古代史創作説の本格的な最初の噴出が、多田義俊らの合理的歴史観を継いだ山片蟠桃の『夢之代』であり、近代津田史学が新井白石(あらいはくせき)、本居宣長(もとおりのりなが)を批判否定した山片蟠桃に淵源(えんげん)しているという印象は、津田白身が無視したり、否定したりすればするほど濃くなる」(『季刊邪馬台国』30号所収。なお、『夢之代』の古代史研究部分の、宮内徳雄氏による現代語訳は、『季刊邪馬台国』34号にのせられている)

おもな例を三つほどあげてみよう。
①十九世紀の文献批判学者たちは、『イリアス』や『オデュッセイア』などを、ホメロスの空想の所産であり、おとぎばなしにすぎないとした。しかし、この結論は、学者としてはアマチュアの、シュリーマンの発掘によって崩壊した(ホメロスの叙事詩は、ゼウス、ポセイドーン、ヘルメス、アポロン、アプロデイテなど、オリンポスの神々が登場し、二つにわかれて、ギリシア側とトロヤ側とを助けるなど、十九世紀的な文献批判の方法によるとき、とうてい確実に信用できる文献とはいえない。和辻哲郎は、その著『ホメロス批判』のなかで、「神々のとりあつかい方が、全然神話的である」と述べている)。
②十九世紀から二十世紀にかけて、インド学が成立した。インド学は、言語研究の分野からはじまった。イギリスのウィリアム・ジョーンズ(1746~1794)は、1786年に、サンスクリット語が、ギリシア語、ラテン語などと源を同じくしていることを説いた。そして、ドイツの言語学者、フランツ・ボップ(1791~1867)は、インド・ヨーロッパ語族に属する諸語の比較文法を大成し、近代の学としての言語学が成立した。
サンスクリットを通じて、大乗経典に接した文献批判学者たちは、そこに記されているブッダ・ゴータマ[釈迦(しゃか)]の超人的な行動、たとえば、光を放ったとか、空中を飛翔(ひしょう)したなどという叙述に目をうばわれて、あるいは、ブッダ・ゴータマの歴史的存在を疑い、あるいは、それを、一種の太陽神話であろうとした。
  しかし、ドイツのオルデンベルグ(1854~1920)は、原始仏教をパーリ語聖典を通じて研究し、『大般涅槃経』(釈迦入滅の前後を歴史的に描いた経典)などのくわしい研究から、疑いをはさむ余地のない確からしさをもって、ブッダ・ゴータマを、地上の人物にひきもどした。そして、さらに、1898年にいたり、フランスの学者プッペは、ネパール南境のピプラーヴにおいて、仏陀の舎利瓶(しゃりへい)(遺骨を入れた壷)を発掘した・壷の外側には、「この世尊なるブッダの舎利瓶は、釈迦族が、その兄弟姉妹妻子とともに、信の心をもって安置したてまつるものなり」と記されていた。
これは、『大般涅槃経』に、ブッダの遺骨は、マガダ国、釈迦族、リッチャヴィ族その他の使者に平等に分配され、使者たちは、それを自領にもち帰って、舎利塔(遺骨をおさめた塔)を建てて供養したという、いわゆる「仏骨八分」の語り伝えと一致するものである。ブッダの実在は、それによって物的に証明された。

③中国においても、かつて、十九世紀的な文献批判学がさかんで、学者、政治家として著名な康有為(こうゆうい)(1858~1927)が、『孔子改制考』をあらわし、夏・殷・周の盛世は、孔子が、古(いにしえ)にことよせて説きだした理想の世界にすぎないと述べた。殷王統は、星体神話にすぎないともいわれた。
しかし、甲骨文字の解読、殷墟の発掘は、『史記』の「殷本記(いんほんき)」に記されていることが、王名にいたるまで、作為でも、創作でもないことをあきらかにした。康有為の知性よりも、『史記』の「殷本記」の記述のほうが、はるかに信頼できるものであることを示した。古人は、私たちが考える以上に誠実だったのである。最近の中国考古学界では、夏王朝の実在説も、さかんに主張されている。
  なぜ、このようなことが、おきるのであろうか。19世紀的な文献批判の方法は、テキストから、歴史的真実にせまる方法としては、なにか、大きな欠陥をもっているのではないであろうか。
  ドイツのニーブール(1776~1831)、ランケ(1795~1886)は、文献批判にもとづいて、歴史研究をおこない、史学は、ようやく近代的なものとなった。そして、ドイツのドロイゼン(1808~1884)、ベルンハイム(1850~1942)、フランスのラングロア(1863~1926)、セーニョボス(1854~1942)は、19世紀に、歴史学研究法、あるいは史料批判の方法を、概論的にまとめた。
19世紀の後半から、このような文献批判学は、わが国にも、紹介された。
ラングロアおよびセーニョボスは、史料のあつかい方について述べている。
  「歴史家は、著者のすべての先験的記事を信用してはならない。それが虚偽でも、過誤でもないと信頼できないからである」







3.本居宣長

本居宣長の著述で、後世にとくに大きな影響を与えたものとしては、つぎの三つをあげることができる。
  ①皇国史観
  ②「古事記」の注釈
  ③偽僣説
そして、宣長の考え方の根本をなしているのは、①の「皇国史観」である。他の二つは、ここからみちびきだされたものである。
宣長は、つぎのようにいう。
「現在ありえないことであるからといって、古代にもありえなかったと考えるのは、あて推量である。
  人間の知恵には限界があり、太古においてどのようなふしぎがあったかは、はかり知れない。したがって、古代のことは、『古事記』『日本書紀』などをもとにして知るべきである。『古事記』『日本書紀』に記されていることは、現代人の目からみてどのように不合理にみえようと、さかしら心(小賢しい心)によって判断せずに、そのままうけとるべきである。」

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本居宣長は、また、述べている。
「『古事記』『日本書紀』に記されている天照大御神は、現在、天上に輝いており、私たちが仰ぎみる太陽そのものであり、かつ、天皇家の祖先神であり、そのことは、『古事記』『日本書紀』にそのように記されているのであるから、疑いようがない。
  わが国は、伊邪那岐、伊邪那美のニ神の生んだ国である。また、天照大御神の生まれた国である。その天照大御神の子孫が治めている国であるから、わが国は万国のなかですぐれて尊く、万国の中心となるべき国である。他の国々はそうでないから卑しく、天地のあらゆる国々の王たちは、みな、天皇の臣となって仕えるべきである。
  天地のはじまりや神代のことは、『古事記』『日本書紀』の形で、わが国にのみ、正しい伝承が伝わり、外国は、さかしら心によって、この正しい伝承を失ってしまったのである。そのため、外国の人々は、どのようなわけで太陽が天にあり世界を照らしているのかを、しらないのである。
  また、外国が天皇に仕えないというようなことは、あってはならないことであるが、外国は正しいもとからの伝えを失ってしまったので、天皇に仕えるべきであるということを知らないのである-----。」

 本居宣長の考えは、江戸時代の当時においてすら、「雨月物語」を書いた大才、上田秋成(1734~1809年)から鋭い批判をあびている。
  上田秋成はいう。
  本居宣長氏を、中国、インドの両方の国に生まれさせて、日本・中国・インドの三国の事跡を見学させたならば、本居宣長氏のその後の覚悟がどのようなものとなるのか、とくと拝聴したいものである。オランダの地図でわが国をさがしてみれば、わが国は、広い広い池の面に、ささやかな一葉を散らしたような小島である。
  それなのに、異国の人に対して、「この小島こそ、万国に先立って開けたのである。全世界を照らす日月がここで姿を現したその本国である。万国でわが国の恩恵をうけていないものはない。したがって貢ぎものをもって、わが国に来朝しなさい」と教えたところで、一国もその言葉に服従しないのみならず、何を根拠にそんなことを言うのかと、疑問に思うであろう。そこで、わが国の太古の伝説によって、そうあるべきであると道理を示そうとすれば、他の国も、「そのような伝説は、わが国にもある。あの日月は、わが国の太古において出現したものである」と述べ、論争するようになる。そうすれば、いったいだれが裁断して、事実を判明させることができようか。
  本居宣長氏は「いっそう眼を高くすれば、私のいっていることの正しいことがわかる」というが、本居宣長氏のいっていることは、たんに、ふつうの人の人情であって、自分を前に出して、他人を後にするたぐいであり、べつに眼など高くはない。(以上、「本居宣長全集 第8巻」 [筑摩書房刊]所収、『呵刈葭』より。原文は文語文)




4.『魏志倭人伝』のテキスト

紹興本と紹煕本
『魏志倭人伝』を含む『三国志』のテキストとしては、つぎの二つが、よく知られている。
(a)紹興本
南宋(1127~1279)の初期の、紹興年間(1131~1162。わが国の平安時代末期)に刊行されたとみられるテキスト。このテキストは、『魏志倭人伝』を含む刊本としては、現存最古のものである(このテキストは、橋本増吉『東洋史上より見たる日本上古史研究』[東洋文庫刊]や、『季刊邪馬台国』18号[梓書院刊]などで、その写真版をみることができる。なお、橋本増吉氏の著書は、最近、原書房から、復刻版がでているが、この復刻版では、紹興本『魏志倭人伝』の写真の冒頭の部分が、落丁でぬけている)。

(b)慶元本[けいげんぼん](いわゆる紹煕本)南宋の、紹煕年間(1190~1194)に刊行されたと、しばしばいわれているテキスト。わが国の宮内庁書陵部に存在するもので、清朝から中華民国時代にかけての学者、張元済(ちょうげんさい)の編集した百衲(ひゃくのう)本二十四史の『三国志』のなかの『魏志倭人伝』は、宮内庁書陵部のものを、影印(写真印刷)したものである(このテキストは、「季刊邪馬台国」18号などで、その写真版をみることができる)。しかし、慶応大学の、この時代の書誌学の第一人者、尾崎康氏によれば、「紹興本」が、官刻であるのに対し、この「いわゆる紹煕本」は、南宋中期の建安(けんあん)で印刷された坊刻(ぼうこく)本(民間で刊行された本)で、「紹煕本」と呼ぶのは、まったく不適当であり、テキストとしては、あまりよいものではないという(『季刊邪馬台国』18号)。いわゆる「紹煕本」が紹煕年間に刊刻されたという根拠は、まったく存在せず、慶元年間(1195~1200)の刊本が存在しているだけである。したがって、慶元本と呼ぶのが妥当である。慶元本は、坊刻本であるためか、「俗字」や「略字」の使用がめだつ。たとえば、真(眞)、青(靑)など。

 また、現在、『三国志』全体の原文にあたるばあいの手にはいりやすい代表的なテキストとしては、たとえばつぎのようなものを、あげることができる。
①標点本『三国志』(中華書局刊) 現代における標準的なテキスト。段落をもうけ、固有名詞に傍線が付され、句点(マル「。」)や読点(テン「、」)などがはいっている。現代の中国人学者たちが判断した標準的なくぎり方を知ることができる。

②百衲本『三国志』(台湾商務印書館刊)清朝から中華民国時代にかけての学者、張元済が、いくつかの版本を集め、写真にとってまとめたもの。

③『三国志集解』(『二十五史7』芸文印書館刊) 清の考証家、盧弼(ろひつ)の撰になる。諸本の異同を、ややくわしく記している点に特徴がある。

④『和刻本正史 三国志』(汲古書院刊) 日本の出版社から出されており、ふつうの書店に注文すれば、容易に手にいれることができる。句読点、返り点、送り仮名がつけられている。




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