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第399回 邪馬台国の会
日本神話と邪馬台国
三種の神器 草薙の剣の謎


 

1.日本神話と邪馬台国

■『古事記』『日本書紀』の神名・人名と、『魏志倭人伝』の人名・官名
いま、天照大神(あまてらすおおみかみ)以下、神武天皇に至る神々の系図を示せば、下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
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この系図をじっとにらんでみよう。
すると、『魏志倭人伝』にみえる「人名」や「官名」に結びつくように見える「神名」「人名」が、はなはだ多いことに気がつく。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼のあとをつぐ宗女(一族の娘)の名を、「台与(とよ)」と記す。
系図をみると、「トヨ」という音のはいる女性の神名に、「万幡秋津師比売(よろづはたとよあきづしひめ)」「吾田津姫(とよあたつひめ)」「玉姫(とよたまひめ)」などがある。
とくに、「万幡豊秋津師比売(よろづはたとよあきづしひめ)」は、高御産巣日(たかみむすび)の神(かみ)の娘で、天孫降臨をする瓊瓊杵(ににぎ)の尊(みこと)[邇邇芸(ににぎ)の命(みこと)]の母である。
天照大御神を「卑弥呼」にあて、万幡豊秋津師比売を「台与」にあてれば、世代的には、あう。
年十三で、卑弥呼のあとをついで女王となった台与(万幡豊秋津師比売)が、のち、成人して忍穂耳(おしほみみ)の尊(みこと)と結婚して、瓊瓊杵(ににぎ)の尊(みこと)を生み、その瓊瓊杵の尊が、皇室の祖先になったと、考えれば、よいわけである。

『魏志倭人伝』に、倭の国の「官名」として、「(み)(甲)(み)(甲)」が記されている。
系図をみると、「ミ(甲)ミ(甲)」という音をふくむ神名として、「忍穂(おしほみみ)の尊(みこと)」「八箇(やつみみ)」「溝橛(みぞくひみみ)の神(かみ)」「手研(たぎしみみ)の命(みこと)」「神八井(かむやいみみ)の命(みこと)」「神渟名川(かむぬなかはみみ)の尊(みこと)」などがある。

『魏志倭人伝』は、また、倭の国の「官名」として、「爾支(にき)」を記す。    
系図をみると、「ニキ」という音をふくむ神名として、「天爾岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸(あめにきしくににきしあまつひこひこほのににぎ)の命(みこと)」(『古事記』)、「天津彦彦火(あまつひこひこほ)の瓊瓊杵(ににぎ)の尊(みこと)」(『日本書紀』)、「櫛玉速日(くしたまにぎはやひ)の命(みこと)」がある。
さらに、『魏志倭人伝』は、倭の国の「官名」として、「多模」を記す。
「多模」の中国語上古音は、「tar-mag」であるから、「たま」と読める(これについて、くわしくは、藤堂明保編『学研漢和大辞典』、拙著『倭人語の解読』[勉誠出版刊]などを参照)。

系図をみると、「タマ」という音をふくむ神名として、「櫛饒速日(くしたまにぎはやひ)の命(みこと)」「豊彦(とよたまびこ)」などがある。
「弥弥(みみ)」「爾支(にき)」「多模(たま)」などは、原始的な「姓(かばね)」に近いものかと思われる。



■『古事記』の神話時代の神名・人名が、『魏志倭人伝』の人名・官名と、とくに、よく一致している
『古事記』にみえる「とよ」「みみ」「にき」「たま」を含む神名、人名について全数調査をすると、右下の表のようになる。 399-02

すなわち、「とよ」「みみ」「にき」「たま」を含む神名、人名は、『古事記』全体で、のべ122回あらわれる。
そのうち、過半の66回は、『古事記』上巻(神話の巻)にあらわれる。
また、中巻にあらわれる「とよ」「みみ」「にき」「たま」はのべ40回のうち、18回は、最初の、「神武記」にあらわれる。
したがって、「神武記」以前(上巻と「神武記」とを加えたもの)に、「とよ」「みみ」「にき」「たま」は、のべ、84回あらわれることになる。
じつに、「とよ」「みみ」「にき」「たま」の、三分の二以上、69パーセントは、「神武記」以前にあらわれる。
『古事記』の、上巻と中巻と下巻とでは、分量が異なる。
このことを考慮しても、結論はかわらない。いな、「とよ」「みみ」「にき」「たま」は、他の巻よりも、上巻に頻出するという傾向は、さらにはっきりとうかびあがってくる。

上の表には、各巻の総文字数も示しておいた。ここから、文字数一万字あたりの、「とよ」「みみ」「にき」「たま」の、出現率を計算する。
字数一万字あたりの出現率は、上巻で、42.0例、中巻で、21.2例、下巻で、14.4例である。上巻の出現率は、中巻の出現率の約二倍である。
そして、上巻から中巻へ、中巻から下巻へと、時代が下るにつれ、出現率は、減少してゆく。
以上をまとめれば、次のようになる。

(1)卑弥呼、邪馬台国の時代は、大略、『古事記』『日本書紀』の神話の時代にあたる。

(2)日本神話が語る「高天の原」は、北九州方面と考えられる。

(3)だから、『魏志倭人伝』中にあらわれる人名、官名などは、他の時代よりも、神話時代の神名、人名とより、よく一致することとなるのである。

1956年に『魏志倭人伝』の現代語訳を出した島谷良吉(しまやりょうきち)[1899~1980。高千穂商科大学教授などであった]は、その『国訳魏志倭人伝』の「前がき」の中で述べている。
「陳寿編纂『魏志巻三十』所載の東夷の一たる『倭人』の記述を見ると、まったく記紀神代の巻の謎を解くかのように思える。」

金子武雄氏の「邪馬台国東遷説」
金子武雄氏(1906~1983)は、上代文学の専門家で、東京大学の教授をされた方である。
金子武雄氏は、その著『古事記神話の構成』(桜楓社、1963年刊)のなかで、結論的に、およそ、つぎのようにのべる。
「『古事記』神話の資材となっている個別神話は、国家経営の神話が出雲地方で生育したものであるほかは、日向三代の神話はもとより、高天の原の闘争・国家譲渡の交渉・天孫降臨など、ほとんど大部分の史話が、筑紫(九州)特に北九州の地において生育したものである。」

「『古事記』の伝を虚心に見るならば、この神話を生んだ地は淡路島や近畿ではなく、はるかに西のほうにあったと考えられる。それは、筑紫であろう。」

「国譲りの神話の舞台は高天の原と出雲とであるが、出雲方の人々の立場からではなく、高天の原方の人々の立場で語られていることは明らかである。しかし高天の原方の立場に立つ人々というのは、近畿の人々なのか、それとも筑紫の人々なのか。『古事記』では、武御雷(たけみかづち)の神とこれに添えられた天(あめ)の鳥船(とりふね)の神とが、「出雲(いづも)の国の伊奈佐(いなさ)の小浜(をばま)に降(くだ)り到(いた)りて、十掬剣(とつかつるぎ)を抜きて、逆(さかさま)に浪の穂に刺し立て、その剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して」、とあり、その上で大国主神と談判したとある。「降(くだ)り到(いた)り」とあるから高天原から降ったという意である。しかし、本来そうだったのか。高天の原から降るというのなら、なぜ、わざわざ岸近くの海に降ったのか。おそらくは海路から出雲に行ったという事実が反映しているのであろう。「天(あめ)の鳥船(とりふね)の神」は船そのものか、あるいは船の操縦者か区別しがたいが、とにかくこの神が添えられたということがそれを思わせる。そして「天降った」というのは、高天の原との関係によって神話化せられたものと考えることができる。この出雲との国譲りの交渉の神話は、おそらくなんらかの史実を基盤としていると思われる。建御雷の神が船に乗って出雲の海岸に着いていることが、この神話の基盤になっている史実を反映しているものとすれば、その史実は、当然、近畿と出雲との間の交渉ではなくて、筑紫と出雲との交渉であったとみなければならない。近畿から出雲へは船で行くはずはないからである。こうしてこの国家譲渡の交渉の神話もまた、筑紫で生育したものであることを思わせる。」 399-03

やや比喩的に言えば、高天の原はほかならぬ筑紫の上にあったのである。……いわゆる高天の原系神話も、いわゆる筑紫系神話と同じく筑紫の地に生育したものと思われる。

「さらにまた、弥生時代の中期から末期にかけてさかんに用いられたものに、銅鐸・銅剣・銅鉾がある。その分布の状態は、かなり明確に二つに分かれているという。すなわち、大体、近畿・山陰・北陸、および四国の東部が銅鐸文化圏であり、九州および瀬戸内海沿岸が銅剣銅鉾文化圏である。しかもこの二つの文化圏の対立は次の古墳文化の成立とともに消滅している。
考古学の教える以上のような諸事実は、『古事記』の若干の神話の暗示するところを根拠として想定したところと大方合致する。このことは、これらの神話が多分に史実に立脚していることを思わせる。そして、筑紫の中心勢が近畿へ移動したとしたら、それは弥生時代の末期ごろではないかと推定される。これから言えば、『魏志倭人伝』に見える邪馬台国は北九州にあったものということになる。『大和(やまと)』というのも、この『邪馬台』と呼ばれた中心勢力の名であり、近畿へ移動した時にもこの名を負って行き、やがてその地の名ともなり、また、この勢力によって成立した国家の名ともなったのであろう。

「大和朝廷の人々は、どうして国史の最初の位置に筑紫や出雲に生育した神話を据え置くことになったのか。それは、このような位置に据えることのできるほどの神話を大和朝廷の人々は持っていなかったためであろう。それでは、大和朝廷の人々は、近畿の地で生育した独自の神話あるいは伝説を持っていなかったのか。私は『古事記』の中巻以下に見られる神話や伝説がこの人々の持っていたものであると思う。中巻のはじめには、神倭伊波礼毘古の命の東征のことが語られているが、大和朝廷の人々は、遠い昔、自分らの祖先が筑紫からはるばるとやって来たという伝承を持っていたのである。だから、自分らのこういう伝承の前に、筑紫で生育した神話を据えることには、ほとんど抵抗を感じなかったことであろう。『古事記』が神倭伊波礼毘古の命の日向の高千穂宮からの出発を境として、上巻と中巻とを分けたのも、主としてこういう事情によるものと思われる。」

「そして、上巻と中巻との連結には、『古事記』の編者が苦心したらしい跡が見られる。連結の役割をしているのは、直接には日向三代の神話と神倭伊波礼毘古の命の東征の神話とである。日向三代の神話は、それより前の諸神話にくらべて著しく体裁を異にしており、中巻以下の歴朝体とほとんど同じものになっている。もちろん内容も形式もよく整っていないところもあるがおそらく中巻以下の体裁にならって構成したものであろう。それは邇邇芸(ににぎ)の命を第一代の天皇とみることも可能であるような記述の仕方になっている。邇邇芸(ににぎ)命と木花(このはな)の佐久夜毘売(さくやびめ)との婚姻の条には、『故(かれ)、ここをもちて今に到るまで、天皇命等(すめらみことたち)の御命(みいのち)長くまさざるなり。』というような語句も用いられているのである。」

金子武雄氏の考察は、『古事記』神話を、要素にわけて分析し、その結果を総合するという科学的な方法の上にたっている。
畿内の大和朝廷の役人によって編集された『古事記』の神話の資材のほとんどが、北九州で生育したものであるという。この事実は、神話が、大和朝廷の役人によって「作られた」とする戦後の「作為説」の立場からは、説明できない。『古事記』神話は、古い時代の史実を伝えているとみるべきである。

皇学館大学の学長であった古代史家の、田中卓(たかし)も、記す。「皇室は、もともと北九州に発祥せられた。紀・記神代巻の高天原とはこれを指す。」[田中卓著作集2『日本国家の成立と諸氏族』(1986年、吉川弘文館刊)]



■どこを発掘するべきか 399-04
『古事記』神話のなかには、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐男(あわぎはら)」など、現実的な色彩をもつ地名が、122個ほどあらわれる。そのうちの70個(57パーセント)ほどは、「九州地方(西海道)」と、「山陰地方(山陰道)」との地名である。
『古事記』神話は、端的にいえば、天照大御神を中心とする「高天の原」勢力と、大国主(おおくにぬし)の神(かみ)を中心とする「出雲」勢力との争いという形で展開する。「出雲の国譲り」の話が、主要なモチーフとなっている。

吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な考古学者、高島忠平氏は、「吉野ヶ里史跡指定30年記念シンポジウム」において、つぎのように述べている。
「高島:吉野ヶ里遺跡が、現在発見されている集落の跡、弥生時代の集落としては、最も卑弥呼の都した所に、今のところ近い。
ところが、まだほかの遺跡が、特に九州の場合には、まだまだ発掘がされてない広大な面積を持つ遺跡がある。私は、吉野ヶ里遺跡は全体として300ヘクタールと見ておりますけれども、朝倉市の平塚川添遺跡を含める小田台地というのがありますけれども、それは約400ヘクタール。それから、奴国の中心と言われている比恵・那珂・須久遺跡は一本の道路でつなかっておりますが、この面積は800ヘクタール以上あるのです。
あるいは、三雲遺跡群は、今見るところ100ヘクタールくらいですが、ほかの関連した遺跡を含めると、もっと広大なものになる。そういうことから考えると、吉野ヶ里を掘っただけで、ここが邪馬台国だというふうにはなかなかまいらない。まだ、ほかにもこうした遺跡が、私は筑紫平野にあるのではないかと考えておりますので、もっともっと掘りましょうということであります。」(『季刊邪馬台国』138号、2020年177ページ)

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■大和にも、北九州にもある香山(かぐやま)
日本神話にあらわれる地名の「香山(かぐやま)」をとりあげよう。
日本神話に「香山」の名がしばしばあらわれることが、「高天の原=大和説」の、ひとつの根拠となっていた。

さて、古くは、大和の天の香山は、天にある香山がくだってきたものであると考えられていた。
鎌倉時化中期にできた『日本書紀』の注釈書、『釈日本紀』は、『伊予風土記』を引用して、つぎのようにのべている。
「伊予(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊予(いよ)の郡。郡家(こほりのみやけ)[郡役所]より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山(あめやま)と名づくる由(ゆえ)は、倭(やまと)に天香具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に天降(あまくだ)り、片端(かたはし)は此(こ)の土(くに)に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(このもと)なり。」

すなわち、「天の香具山は、天から天(あま)くだるときに、二つにわかれて、ひとつは大和に、ひとつは伊予に天降った。大和にくだったものが、大和の天の香具山であり、伊予にくだったものが、天山である。」という意味内容である(久松濳一校註の日本古典全書『風土記下』〔朝日新聞社刊〕には、これに近い内容の逸文が大和の国風土記逸文「香山」、阿波の国風土記逸文「アメノモト山」の条にみえている)。
『万葉集』巻三にも、鴨君足人(かものきみたりひと)の「天降(あも)りつく 天の芳来山(かぐやま)[天からくだりついた天の香具山]……」(二五七)という歌がのせられている。同じく巻三には、「天降(あも)りつく 神の香山……」(二六〇)という歌もみえる。

ここで、「天」を、「高天の原」であると考えてみよう。すると、大和にある天の香山は、「高天の原」すなわち、九州にある香山の東にうつった姿であることになる。そして、九州から大和への政治勢力の移動にともない、地名が移った可能性があらわれてくる。

では、北九州に、天の香山にあたるような山があるであろうか。もしあれば、『古事記』神話に五回あらわれる天の香山は、畿内の香山ではなく、北九州の香山をさしている可能性がでてくる。

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私は、以前、『邪馬台国への道』(筑摩書房、1967年刊)という本のなかで、北九州に「香山」という山は、ないらしい、と書いた。ところが、その後、福岡県朝倉郡旧志波村(現在は、朝倉市のなかで、大分県の日田市よりの地)出身で、当時、福岡県の小郡市(おごうりし)[朝倉市の西]に住む林国五郎氏から、朝倉市ふきんの地名などを、詳細に検討されたお手紙をいただいた。その中で、林国五郎氏はのべられる。
志波村に香山という山はございます。現在は高山(こうやま)と書いていますが、少年の頃、昔は香山と書いていたのだと、古老からよく耳にいたしました。

私はこの手紙を読んだとき、あっと思った。『万葉集』では、天の香山のことを、「高山」と記しているからである。
たとえば、かの有名な、「香山(かぐやま)は 畝火雄(うねびを)雄(を)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代より斯(か)くにあるらし……」(巻一、十三)の原文は、「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従如此余有良之……」で、「高山」と記しているのである。

『古事記』『日本書紀』は、「かぐやま」を、「香具山」とは記さず、「香山」と記している。私は、「高山」の存在を、地図の上で知っていながら、それを「たかやま」と読んでいたため、「香山」との関係に気がつかなかった。「高山」を「こうやま」とよむのは、重箱よみであるから、これは、あて字と考えられる。
藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)によれば「高」の上古音は、「kɔg」であった。『万葉集』が、「高」を、「カグ」の音にあてているのは、十分理由がある。
そして、さらに、江戸時代前期の元禄十六(1703)年に成立した貝原益軸(篤信、1630~1714)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にあたってしらべてみると、たしかに、「志波村の香山」と記されている。
香山は、夜須町や甘木市の東南にある。戦国時代に、香山に、秋月氏の出城があった。天正九年(1581)のころ、秋月種実が、大友氏との戦いにおいて、八千余人で「香山」に陣取ったことなどが、『筑前国続風土記』に記されている。香山には、現在、「香山城址」の碑が立っている。
林氏は、高山(香山)の比較的近くに、金山という山もあることを指摘されている[『古事記』神話に、「天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて」という記事がある。なお、高山の近くには多多連(たたら)という地名があるのも、おそらくは、製鉄と関係しているのであろう]。

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また、『伊予風土記』は、天から山が降(くだ)ったとき、伊予にくだった片端が天山(あめやま)であると記しているが、夜須町の比較的近くには、「天山」という山もある。伊予の天山も、夜須町の近くの天山も、比較的小さな孤立丘である。
『古事記』神話にあらわれる畿内の十一例の地名のうち、六例までは、昔の話ではなく、『古事記』撰録当時存在していた神社について記したものである。そして、神々の行動をいくらかともなっているようにみえる残りの五例は、すべて「天の香山(かぐやま)」という地名である。神々は、天の香山から、鹿や、波波迦(ははか)[朱桜(かにわさくら)]や、常磐木(ときわぎ)や、ひかげのかずらや、ささの葉をとってきている。この「香山」は、九州に存在し、おそらくは祭事などで重要な位置を占めたものであり、大和の香山は、北九州勢力の大和への進出とともに、名前が移されたものであろう。このように考えれば、『古事記』神話には、古くからの伝えと考えられる畿内の地名は一例もないことになってしまう。

さらに、『筑前国続風土記』によれば、北九州の香山(高山)のある旧志波村のふきんは、ふるくは、「遠市(とおち)の里」とよばれていた。いっぽう、畿内の天の香山は、『延喜式』に十市郡にあると記されていることからわかるように、ふるくは、「十市(とをち)郡」(「とをち」の読みは、『延喜式』による)に属していた。ただ『和名抄』の訓(よ)みは、「止保知(とほち)」(東急本)。角川書店刊の『古代地名大辞典』の、奈良県橿原市の「十市県(とおいちのあがた)」の項に、「トオチ・トウイチ・トヲチなどと訓まれ、遠市、藤市とも書かれた」とある。
『和名抄』にみえる「美濃国本巣遠市郷」が、藤原宮出土の木簡では、「三野国本須郡十市・・・」となっている例がある。
北九州の香山と大和の天の香山とは、その相対的位置からいっても、「遠市」「十市」に存在したことなどからも、たがいに対応しているということができよう[宮崎県西臼杵(うすき)郡の天の香山(かぐやま)は、後世の命名と思われる]。
なお、福岡県朝倉郡の「香山」の頂上には、現在、地元の実業家によって、観音様がたてられている。

これらの図をみれば、北九州の香山の所在が、畿内の天の香山の所在と、ほぼ同じく、三輪、朝倉の南方にあることに気がつくであろう。



■地名の拡散
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。
すなわち、下の表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、

(1)ヤマトを中心としている。

(2)海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩(近畿)となっている。
この場合、九州では志摩郡と郡レベルだが、近畿では志摩国と国レベルになっている。
元になっている地名の規模は小さいが、移った地名の方が大きくなる傾向がある。

(3)山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。
これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近どいうこと以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」」 399-08

ここで、鏡味完二氏は、九州の「日田(ひた)」と、近畿の「飛騨(ひだ)」(現在の岐阜県の北部で、正確には、近畿地方ではなく、中部地方)とを対応させる。そして、九州の「耳納(みのう)」の地名を、近畿の「美濃(みの)」(岐阜県南部)と対応させる。そして、岐阜県の本巣郡の地に、「遠市郷(とおちごう)」の地名がある。また、「飛騨」には、合掌造りの民家で有名な「高山(たかやま)」の地がある。

この「高山(たかやま)」は、九州の「香具山」をさす「香山」「高山」と関係があるのであろうか。
九州から、地名が、拡散して行っているようにもみえるが、あてはめた漢字によって、地名の呼びかたが変わる例がある。

墨江(すみのえ)→住吉(すみのえ)→住吉(すみよし)

この場合「江」を「吉」という漢字にしたが、その後、この「吉」の漢字により、「え」が「よし」に変わった。

同じように、「香山(こうやま)」が、「高山(こうやま)」に変わり、更に「高山(たかやま)」に変わったとも考えられる。



■北九州の安川と岩屋
北九州のまん中に、今も「安川」が流れている。そして、「安川」の近くに、「香山」という山もある。
また、北九州の「安川」の近くから、大環濠集落遺跡・平塚川添遺跡も出現している。
この地域は、遺跡と人口の密集地域である。ここは、「高天の原」の故地ではないか。

高天の原は、北九州にあると考えられる。では、天照大御神が直接住んでいたのは、北九州のどこであろうか。

それを定めるために、『古事記』上巻に記されている高天の原の環境を整理してみよう。するとつぎのようになる。

(1)高天の原には、「天(あめ)の安(やす)の河(かわ)」が流れている。その河原に、多くの神々が集まって、会議をひらくことができた。すなわち、「天の安の河」は小さな河ではない。

(2)田があり、田には畔(あぜ)があり、溝(みぞ)がひかれていた。天照大御神が、その田の新穀を召しあがる祭殿[大嘗(おおにへ)を聞こしめす殿]もあった。

(3)高天の原には、天の安の河の河上に、「天の岩屋(いわや)」があった。また天の安の河上から、堅(かた)い石[堅石(かたしわ)]や、鉄[天の金山(かなやま)の鉄(まがね)]をとってくることができた。さらに、「天の石位(いわくら)[高天の原なる岩石の御座]」ということばもあらわれる。すなわち、おもに天の安の河の河上には、岩石のある山があった。

(4)天照大御神時代の高天の原の記述には、海はあらわれない。このことは、高天の原が内陸に位置していたことを思わせる。

さて、私たちは、これらの条件をみたす場所を九州に求めることができるであろうか。
ここで注目されるのは、「高天の原」には、「天(あめ)の安(やす)の河」という河があった、とされていることである。『古事記』によれば、天照大御神とその弟の須佐(すさ)の男(お)の命(みこと)とは、天の安の河を中に置いて、うけい(誓約)を行なっている。神々は、天の安の河の河原で、会議をひらいている。天の安の河の河上に天(あめ)の岩屋(いわや)があった。

ヨーロッパの地名研究を行なって、先史時代の民族の分布を明らかにしたドイツのファスマーはのべている。
「古代住民についてなにもわかっていない地方では、地名研究は水名(水に関係する地名)からはじめるのが方法として正しいと思う。経験からみて、居住地名より意味がはるかに単純なので、水名は解釈しやすいからである。その上、水名は変わりにくく、住民が変わっても水名は変わらないことが多い。」

たとえば、アメリカのばあい、ニューヨーク(イギリスにヨークという都市がある)、ニューハンプシャー州(ハンプシャーは、イギリス南部の地名)、ニュージャージー州(イギリス王室属領に、ジャージー島がある)など、イギリスからもって行った地名がある。
いっぽう、ミシシッピ川の「ミシシッピ」は、アメリカインディアンの言語で、「偉大な川」の意味、コネチカット州の「コネチカット」は、アメリカインディアン語で、「長い川」の意味である。ミシガン州の「ミシガン」は、アメリカインディアン語の、「大きな湖」を意味する語のなまったものである。
水に関する地名は、原住民の語を、比較的よく残している。
北海道の地名の稚内(わっかない)・幌内(ほろない)などの「ない」は、アイヌ語で、「川」の意味であるという。北海道の言語がアイヌ語から日本語に変っても、川の名は、もとのまま残っている。

では、九州に「ヤス」とよばれる河、または、河のほとりの地名で「ヤス」とよばれるところがあるであろうか。
地図をひらいてみよう。たしかに、北九州のほぼ中央部に、「夜須」という地名がある(下の地図参照)。
(下図はクリックすると大きくなります)
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福岡県朝倉郡に夜須町(やすまち)とよばれる町があった[夜須町は、2005年に、三輪町と合併して、筑前町(ちくぜんまち)となった]。現在の、福岡県朝倉市の近くである。

「夜須町」の「夜須」は『日本書紀』の「神功皇后紀」に、「安」と記されている。『万葉集』に「安野(やすのの)」としてでてくる「安」も、「夜須町」の地をさす。また、『延喜式』にも、筑前の国夜須郡としてみえているから、かなり古くからの地名であることはたしかである。夜須町の「夜須」は、古くは一般に「安」と書かれ、おそらくは、元明朝の和銅六年(712)の「郡郷の名(地名)は、今後、好ましい漢字二字で表記せよ。」のいわゆる『風土記』撰進の勅以後、「夜須」と書かれるようになったのであろう。朝倉市を流れる筑後川の支流、小石原川は、夜須川とも呼ばれる

明治・大正時代の大地名学者、吉田東伍は、その著『大日本地名辞書』(冨山房刊)のなかで、つぎのようにのべている(原文は文語文)。
「小石原 今小石原村という。秋月の東四里(16キロ)、両豊(豊前、豊後)の州界(くにざかい)に接近し、夜須川の渡りである。この川を一名小石原川という。秋月に至り、南方に折れ、甘木(現在の朝倉市の地)を過ぎ、ついに筑後川に入る。長さ九里(36キロ)。」

「続風土記にいう。夜須川(一名小石原川。これは吉田東伍の註)は、夏月蛍が多い。楢原(ならばる)の林中に薬師堂がある。東光院と言う。長谷山には昔千手観音堂があって、和州(大和)の長谷になぞらえたが。天正十五年(1587)、秋月家が本郷(朝倉郡)を去り、日州(日向の国)におもむいたとき、その仏像をも、たずさえていったということである。」

「夫婦石 秋月と弥長(いやなが)村との間の夜須河辺にある。大石二つが、あい対している。夏月このあたりは、蛍が多い。」

「弥永(いやなが)のあたりで、夜須川から水苔(みずごけ)俗名川茸(かわたけ)をとって、食料につくる。寿泉苔(じゅせんごけ)、また秋月苔といって、本郷(朝倉郡)の名産とす。」(以上、下線は安本)

明治初期に、福岡県が編集した『福岡県地理全誌』でも「夜須川」と記されている。
なお、昭和二十九年(1954)に、朝倉郡の二町(甘木・秋月)、八村[安川(やすかわ)・上秋月・立石(たていし)・三奈木(みなぎ)・金川(かながわ)・蜷城(ひなしろ)・福田(ふくだ)・馬田(また)]が合併し、市政をしき、甘木市となるまで、安川村があった。「安川村」の名は、「夜須川」に由来する。2006年に、甘木市は、朝倉町・杷木町と合併し、朝倉市となった
『明治二十二年(1889)町村合併調書』(『福岡県資料第二輯』)には、つぎのようにある。「安川(小石原)という村名は、人々の希望するところで、合併村の中央を流れ、村内過半その川を引き、用水とする。よって安川村と改称する。」
これでみると、「夜須川」はまた、「安川」とも書かれたことがわかる。



■「八咫の鏡=鉄鏡説」の検討
『古事記』をよく読むと、奇妙な記事がある。
天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、弟の須佐(すさ)の男(お)の命(みこと)の乱暴に怒って、天(あま)の石屋(いわや)にかくれる。
そこで、八百万(やおよろず)の神は、天の安の河の河上の天(あめ)の堅石(かたいし)[鉄を鍛える金敷(かなしき)の石か]を取り、天(あめ)の金山(かなやま)の鉄を取って、鍛人(かぬち)[鍛冶(かじ)職、鍛人(かぬち)は、金打(かなうち)の省略]の天津麻羅(あまつまら)をたずね求め、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)に命じて、鏡を作らせた。

この話によれば、このときに作られた鏡は、鉄の鏡であったことになる。
それでよいのであろうか。
皇学館大学教授の国文学者・西宮一民(にしみやかずたみ)氏校注の『古事記』(新潮社刊、新潮古典集成)では、

(1)「天(あめ)の堅石(かたしわ)」を、「高天(たかあま)の原(はら)の堅い石。鉄を鍛える金敷(かなしき)の石」とする。

(2)「天(あめ)の金山(かなやま)」を、「高天の原の鉱山。砂鉄を含む山であった」とする。

(3)「鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)」を、「鍛冶職(かじしょく)。『鍛人(かぬち)』は、『金打(かなうち)』の約」とする。

(4)「伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)」を、「鏡作連(かがみつくりのむらじ)らの祖神」とする。

また、青木和夫氏他校注の『古事記』(岩波書店刊、日本思想大系1)では、「伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)」について、「補注」で、つぎのように説明している。

「コリは固まるの意、ドメは老女・石の鋳型に溶かした鉄を流し固まらせて鏡を作る老女をあらわす。」



■「天の金山の鉄」という表現は、あるいは妥当?
さて、ここで、『古事記』に、「天(あめ)の金山(かなやま)の鉄(くろがね)」とあるものが、文献の編纂される時代とともに、つぎのように変化している。

「天(あめ)の金山(かなやま)の鉄(くろがね)」(712年成立の『古事記』)
「天(あま)の香山(かぐやま)の金(かね)」(720年成立の『日本書紀』の一書)
「天(あめ)の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」(807年成立の『古語拾遺』)
「天(あま)の金山(かなやま)の銅(あかがね)」(830年ごろ成立かとみられる『先代旧事本紀』)
「天(あま)の香山(かぐやま)の銅(あかがね)」(830年ごろ成立かとみられる『先代旧事本紀』)

『古事記』では、鏡を作った状況を、次のように記している。
「天(あめ)の安(やす)の河原(かわら)の河上の、天(あめ)の堅石(かたしわ)を取り、天(あめ)の金山(かなやま)の鉄をとって、鍛人(かぬち)[金打(かねうち)をする人]天津麻羅(あまつまら)をさがしだし、伊斯許理度売(いしこりどめ)の命(みこと)に命じて鏡をつくらせた。」
この文によるとき、金床(かなどこ)[堅石]の上でトンテンカン、トンテンカンと鉄をきたえて鏡を作ったよかに読みとれる。

日本刀などを見ればわかるように、鉄は、よく磨けば、人の顔などがはっきりとうつる。『古事記』では、「天の金山の鉄」を取って鏡を作ったとあるが、『日本書紀』の編纂者は、「鉄」で鏡を作ったとするのは、穏当でないと考えたのであろう。「鉄」を、一般的な「金(かね)」にあらためている。
さらに、『古語拾遺』の編纂者の斎部(いんべ)の広成(ひろなり)は、鏡は、銅で作るものと考えて、「銅」にあらためたのであろう。
しかし、「天の金山の鉄」という『古事記』の表記が、妥当なのではないかと思われる、つぎのような根拠もあげることができる。

(1)『古事記』の神話は、おぼろげな形であるが、弥生時代のことを伝えているようにみえる。
銅のなかにふくまれる鉛の同位体比の研究によれば、弥生時代から古墳時代にかけての銅は、原材料が、すべて、中国産とみられる。「天の香山」や「天の金山」で、国産の銅がとれたとは思えない。[もっとも、早稲田大学の日本史家・水野祐は、「〔この所伝は、〕銅鉱を採掘して、精錬して銅をつくったのではなく、山地に銅剣や銅鐸のような銅器を埋めておいて、鏡などの必要な銅器を製作しなければならないときに、その銅器を掘りだして、鋳直し、使用した事実を反映しているとみればよい。」(学生社刊『勾玉』)とする。]

(2)卑弥呼が交渉をもった魏の国で、鉄の鏡が作られていたことは、中国の考古学者、徐苹芳氏が、つぎのように述べているとおりである。
「漢代以来、中国の主な銅鉱は、すべて南方の長江流域にあった。三国時代に南北が分裂して、魏の領域内の銅材が不足したことで、銅鏡鋳造業は少なからぬ影響を受けた。こうして魏の銅鏡鋳造業が不振となると、鉄鏡の製造が興ってきた。多くの出土例から見ると、鉄鏡の出現は後漢(ごかん)の後期からであり、後漢末から曹魏の時代にかけて盛んに製造されたが、その地域は北方に限られる。この鉄鏡はすべて菱鳳鏡(きほうきょう)であり、時には金銀で紋様が象嵌され、まことに華麗なものもあった。『太平御覧』が引く『魏武帝〔曹操〕の雑物を上(たてまつ)る疎(そ)[疎は、一条ずつにわけて意見をのべた上奏文]』には、曹操が後漢の献帝に捧げた物品の中に金銀で象嵌された鉄鏡が見える。西晋期にも鉄鏡が引き続き盛んにつくられており、洛陽の西晋墓から出土する鏡のうちで鉄鏡は位至三公鏡と内行花文鏡に次いで第三番目に位置している。北京市の順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関(かよくかん)の魏晋墓からも、すべて副葬された鉄鏡が出土する。魏晋時代の北方の地で、銅材の欠乏によって鉄鏡が盛行することは、注目しておいてよい事実である。」(三国両晋南北朝時代の銅鏡)王仲殊著『三角縁神獣鏡』学生社刊、所収)

この文のなかにみえる「雑物を上(たてまつ)る疎(そ)」(『曹操集訳注』による)に、つぎのようにある。
「皇帝の御物に、一尺二寸(約29センチ)ある金錯(さく)[めっき]鉄鏡一枚、皇后の雑物に純銀錯の七寸(約17センチ)の鉄鏡四枚、皇太子の雑物に純銀錯の七寸の鉄鏡四枚、貴人、公主にいたる九寸(約21.7センチ)の鉄鏡四〇枚(御物有尺二寸金錯鉄鏡一枚、皇后雑物用純銀錯七寸鉄鏡四枚、皇太子雑物純銀錯七寸鉄鏡四枚、貴人至公主九寸鉄鏡四十枚)。」

明治から昭和時代前期の考古学者・高橋健自(たかはしけんじ)が、その著『鏡と剣と玉』(富山房、1911年刊)のなかの、「八咫鏡考」で、「鉄鏡は隋時代以後」にはじめてみえる、としているのは、誤りである。 399-10

(3)そして、事実、魏代に近いころに作られたものかとみられる鉄製の菱鳳鏡(きほうきょう)[直径21.2センチ]が、岐阜県高山市国府(こくふ)の名張一之宮神社古墳(七世紀ごろの築造)から出土している。
また、大分県日田(ひた)市日向町ダンワラ古墳から、金銀錯嵌珠竜文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんきょう)(直径21.3センチ)が出土している。(右図参照)

この二つは、直径が、ほとんど一致している。魏の九寸鏡または、それを模したものである可能性がある。九寸鏡は、さきの文にあるように、貴人に与えられるものとすれば、卑弥呼に与えられたものとしてもおかしくはない。大分県日田市出土のものは、中国で出土例をみない紋様のようにみえるので、わが国で作られた可能性もある。そして、日田市の隣の福岡県朝倉市杷木(はき)に、香山や金山、岩屋神社という地名がある。また、これも日田市の隣の福岡県朝倉郡東峰村宝珠山(とうほうむらほうしゅやま)に岩屋神社、岩屋公園などがある。これらは、いずれも、日田市役所から、20キロ以内の地である。

2.三種の神器 草薙の剣の謎

草薙剣(くさなぎのつるぎ)
はじめの名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)。三種神器の一つ。宮中より大和の笠縫(かさぬい)を経て伊勢に安置し、景行天皇の世に日本武尊(やまとたけるのみこと)がこの剣を奉じて東夷征討に向かった。駿河(するが)の焼津(やいづ)にきて賊徒にあざむかれ、草原の中に火を放たれたが、この剣で草をなぎ払ってことなきをえた。これにちなんで名を草薙剣と改めたと伝えられる。後に尾張の熱田に祭る。すなわち熱田神宮の神体となった。 668年(天智7)新羅の僧道行がこれを盗み本国にのがれようとしたが、あらしにあって果たさなかった。 (黛 弘道)


■草薙の剣は、銅剣なのか、鉄剣なのか?
高天の原で乱暴をはたらきすぎた須佐の男の命は、神々によって、高天の原から追放される。
追放された須佐の男の命は、出雲の国の鳥髪(とりかみ)の地に降(くだ)る。須佐の男の命はこの地で、八俣(やまた)の大蛇(おろち)を退治する。大蛇の尾から、草薙(くさなぎ)の剣をうる。この剣は、現在名古屋市の熱田神宮(あったじんぐう)に存在している。

現在、私たちは、草薙の剣を、自由にみることはできない。しかし、草薙の剣を見た、という記録は、いくつか残っている。
明治三十年(1897)、東京帝国大学の栗田寛(くりたひろし)教授が、『神器考証』という本を書いている。この本は後に発禁本(皇室の尊厳をおかすため)となっているが、この中で栗田教授は、江戸時代において、垂加神道の学者・玉木正英(まさひで)(1736年没)がその著『玉籤集(ぎょくせんしゅう)』の裏書(吉田家蔵)に、熱田大宮司社家四、五人が志を合わせて、草薙の剣を見たということを記した記事を引用して、そのことを紹介している。

御神体についてこう述べている(傍線は安本)。
「御神体は長さ二尺七、八寸計(ばか)り、刃先は菖蒲(しょうぶ)の葉なりにして、中程はむくりと厚みあり、本の方六寸ばかりは、筋立ちて魚などの脊髄(せきずい)の如し、色は、全体白しという。大宮司 窺(うかが)ひ奉ること神慮に叶はざるにや、不慮の事にて流罪される。其の余も重病悪病にて亡び、其の内一人幸に免れて、此事を相伝せり。[神体は、長さ二尺七、八寸〔81センチ~84センチ〕ほど、刃先は、菖蒲の葉のような形で、中ほどは、むくりと厚みがある。本(もと)のほう〔つかのほう〕六寸〔18センチ〕ほどは、筋立っていて、魚などの背骨のようであった。色は、全体に白かったという。大宮司がうかがい見たことは、神のお心にかなわなかったのであろうか。不盧のことで、流罪となった。その他の人々も、重病や悪病でなくなり、そのうちの一人が、さいわいに生き残って、このことを、あい伝えた。]」

亡くなった刀剣研究家の川口陟(のぼる)が、『日本刀剣全史』(歴史図書社、1972年刊)のなかで、熱田の尾張連(おわりのむらじ)家の言い伝えを紹介している。
「御神代(みひろしろ)[草薙の剣をいれるうつわ]は、樟(くすのき)が自然木を横断したるものにして、長さ四尺、中をくり抜きたり、縁は約八寸、外面焼けたる如く黒く見ゆ、秘書に『焼け候也焼けず候也』とあれど、御神体火災にかゝりし記録もなければ、恐らく腐蝕を防ぐために燻(いぶ)したるならむ。 399-11
中には、泥を詰め、而して石の唐櫃(からびつ)を設け、その中に黄金の延板を置き、上に御神体を安置す。御神体長さ一尺八寸程、両刃にして剣づくりとなり、鎬(しのぎ)ありて、横手なし、御柄は竹の節(ふし)の如く、五節あり、 区(まち)、深くくびれたり。[神体のいれものは、くすのきの自然木を横に切ったもので、長さは四尺〔1.2メートル〕。中をくり抜いている。縁は、約八寸〔24センチ〕、外面は、焼けたように黒くみえる。秘せられた書に、『焼けたのか、焼けてないのか』とあるが、神体が火災にかかった記録もないので、おそらく腐蝕をふせぐために、いぶしたのであろう。中には泥をつめている。そして、石の唐櫃をもうけ、その中に黄金の延板をおき、上に神体を安置している。神体の長さは、一尺八寸〔54センチ〕ほど、両刃で、剣につくられている。鎬(しのぎ)〔以下、下図の「剣の部分名称」参照。両刃の剣の中間にある稜線〕があって、横手〔切先と刃の使用部とのさかいの横の線〕がない。柄(つか)〔手で握るところ〕は、竹の節のように、五つの節がある。区(まち)〔刃のねもと。刃と柄とのさかいの部分〕が、深くくびれている。」

この記事は、『玉籖集』に記されているものより一尺(30センチ)ほど短い。
そして柄は竹の節のようで、五つの節がある。また、区(まち)[柄のところと刀の身のところの境目]が深くくびれている、というのである。

2006年に刊行された石井昌国・佐々木稔共著『古代刀と剣の科学』(増補版、雄山閣刊)には、つぎのように記されている。
「終戦直前に熱田神宮に収められていた草薙剣は飛騨一ノ宮の水無(みなし)神社に移された。刀袋の上からの感触によれば、その寸法は二尺(60.6センチ)以内で、その重みからみると鉄ではなく、銅ではないかということである。

草薙の剣は、銅か鉄かという問題を、これまでにもっともくわしく検討したのは、NHK編『歴史への招待 第2集 古代史の謎に挑む①』(日本放送協会、1988年刊)である。
この本のなかに、刀剣研究家の石井昌国氏のつぎのような議論がある。
「・・・だいたい推理なさいますと、どんな形だとお思いになりますか。
石井 それがさきほどの江戸期の文献で申しわけないのですが、推理しますと、どうしても有柄の、弥生のだいたい中期ごろでしょうけれども、かなりの長寸の銅剣であるということに落ち着いていくような気がいたしますのですが。絶対にそうであるということは、拝見しておらないんですから、もちろんわかるはずはないんですが、非常にむくみがあってむっくりしているというのは、やっぱり銅剣ですよ。
それから魚の背骨のようなところがあるといっておりましたね。そうすると銅剣以外にそういうことは考えられません。
そうすると保存する場所と、刀の状態から文献的にいきますと、どうしても有柄式の細型銅剣で、区(まち)が深く柄は五節位あって、長さは一尺八寸(54センチ)から二尺(60センチ)ぐらいといったところに落ち着くわけです。有柄の例というのは非常に貴重なんです。同じ青銅剣でも少ないのです。日本にだいたいでている例でも十例とないんです。そういったものをお祀りするという考えは当然わいてくると思うのですね。しかし、これはあくまでも推理ですよ。

「では草薙の剣とはいったいどのような剣なのか。ここでわたしたちは、これまで述べてきたことをもとに、石井昌国さんに草薙の剣の推理をしてもらった。
長さおよそ一尺八寸の有柄式細型銅剣である。柄は、ハマチ[刃区(はまち)。区(まち)のうち、刃の方の部分]と握り手に三ヵ所、そして柄頭(つかがしら)に一ヵ所、計五ヵ所の節があり、柄頭は丸い。この様式は中国のもので、遼東半島や朝鮮半島から多く出土している。時代は前漢から後漢の境目といわれ、日本では弥生中期、西暦零年前後にあたる。もちろん日本製ではない。」

石井昌国氏は、この本のなかで、一方では、つぎのようにものべている。
「大蛇がずたずたに切れちゃうんですね。そういう恐ろしい刀というのは銅剣には望めない。」
「切れるというのはやはり鉄ですよね。全長一メートル四十センチの古墳時代の鎬造(しのぎづくり)大刀、この辺のものになりますと、百人位バラバラやってもビクともしない。ですから鉄の方が草薙の剣にふさわしいのですけれども、貴重性というか古さという点が、さきほどもいったように難しいところなんです。」

この文のなかで、「魚の背骨」のようなところがあるのは、「銅剣以外にそういうことは考えられません」とのべられている。
はたしてそうか。



■青銅柄付鉄剣があるが?
2005年の10月14日から16日にかけて、私の主催している「邪馬台国の会」の会員の人たちとともに、二泊三日の韓国旅行をした。
おもに韓国南部の旧新羅と、伽耶(かや)地域とを旅行した。
博物館をまわると、有柄式細型銅剣とほとんど変わらない形をした青銅柄付鉄剣二点にであった。
下の写真(左の剣)「韓国慶州市西面舎羅里出土の鉄剣」は、国立慶州博物館考古館の『展示および図録』(通川文化社、2002年刊)にのっているものである。

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なお、慶州は、新羅九百年間の都である。新羅時代には、金城・金京といわれた。
この鉄剣について、『展示および図録』には、つぎのように説明されている。
「慶州市西面舎羅里の低い丘陵に築造された舎羅里遺跡の130号木棺墓から銅剣と鉄剣が出土した。
銅剣と鉄剣は柄部、剣身、そして漆を塗った鞘(さや)からなるが木製鞘は腐ってなくなり、楕円形の剣鞘の付属具だけがそのまま残っている。
銅剣は剣身と鞘付属具がよく残っており、鉄剣は剣部分だけが鉄でつくられ、柄と鞘の付属具はすべて青銅製である。
この木棺墓では主人公が長期間使用した銅剣とともに新たに流行した鉄剣もいっしょに副葬された。」

また、上の写真(右のⅠからⅢの剣)「韓国慶尚南道金海市良洞里出土の青銅柄付鉄剣」は、同じく国立慶州博物館考古館の『展示および図録』にのっているものであるが、これは、旧枷耶地域の金海良洞里出土のものである。

こちらのほうの鉄剣については、つぎのような説明がつけられている。
金海良洞出土一括遺物 青銅柄付属鉄剣と青銅銜(がん)[くつわ、はみ]筒形銅器などがある。鉄剣に青銅柄をとりつけた例としてははじめてである。刃部は鋒部からほとんど直線をなし茎部で直角に屈折している。柄部は剣を差し込む握部が杏仁(きょうにん)形[うめばしの種(たね)の形]で、握部は段をなしながら急に狭くなって柄部にいたり、手で握る部分は竹のような形で表面に幾何学的文様が彫刻されている。」

なお、この説明文の「杏仁(きょうにん)形」は、杏子(あんず)の種(たね)の形のことで、飛鳥時代の仏像のぱっちり開いた目の形の形容などに用いられる。「杏仁豆腐(あんにんどうふ)」は、杏子(あんず)の仁(じん)を主材料にするもので、中国料理で、デザート的にでるものである。

さて、さきの良洞里出土の鉄剣の説明文をみると、「竹のような形」とある。これは、草薙の剣の、「竹の節の如(ごと)く」とあるのと合致するようにみえる。
また、慶州の舎羅里出土の鉄剣も、金海の良洞里出土の鉄剣も、区(まち)[刃のねもと、刃と柄とのさかいの部分]が深くくびれている。これも、草薙の剣についての説明と一致している。
青銅柄付鉄剣二点の長さは46.5センチと41.0センチで、「二尺(約60センチ)以内」である。

また、鉄剣に青銅の柄(え)などがついていれば、重さだけでは、鉄剣か銅剣か、判別はむずかしいであろう。
もともと、有柄式細形銅剣は、朝鮮半島からの輸入品と考えられる。
朝鮮半島で、青銅柄付鉄剣が出土している以上、それがわが国にももたらされていた可能性は十分にある。



■日本の新聞での報道は?
そのつもりになって調べてみると、韓国金海の良洞里出土の鉄剣については、1991年12月の日本の新聞にも報道されていた。

つぎのとおりである。
(下図はクリックすると大きくなります)399-13




■須佐の男の命(すさのおのみこと)神話
高天の原から追放された須佐の男の命は、出雲の国の鳥髪(とりかみ)の地に降(くだ)る。この鳥髪の地は、どこか。
須佐の男の命は、この地で八俣(やまた)の大蛇(おろち)を退治する。大蛇の尾から、草薙の剣をうる。この剣は現在、名古屋市の熱田神宮に存在している。

天の原を追放された須佐の男の神は、
出雲の国の肥(ひ)の河上(かわかみ)、名は鳥髪という地に天下った。
と『古事記』は記す。ここで、櫛名田比売(くしなだひめ)[奇稲田(くしいなだ)姫、稲田姫ともいう]をたすけるため、八俣(やまた)の遠呂知(おろち)という大蛇を退治する。

『日本書紀』の「神代紀」の第八段の一書(あるふみ)の第四に、
素戔(すさ)の鳴(お)の尊(みこと)は、その子五十猛(いたける)の神(かみ)をひきいて、新羅の国に天下ったが、さらに、埴土(はに)で舟をつくり、東に渡って、出雲の国の簸(ひ)の川上にある鳥上(とりかみ)の峰(たけ)にいたった。そこに人を呑む大蛇(おろち)がいた。」
と記されている。

鳥髪(鳥上)は、島根県仁多郡奥出雲町旧横田町の大呂(おおろ)[もと鳥上村]と鳥取県日野郡日南町(にちなんちょう)多里(たり)とのさかいにある船通山(せんつうさん)[1142メートル]の古名とされている。
肥(ひ)の河[簸(ひ)の川]は、いまの斐伊川である。

『出雲国風土記』の「仁多郡」の条に、つぎのように記されている。
鳥上(とりかみ)山 郡役所[郡家(こおりのみやけ)]の東南三十五里(約140キロ)にある。伯耆(ほうき)の国と出雲の国とのさかいである。

また、『出雲国風土記』の「出雲郡」の条に、つぎのようにある。
1717年に、松江藩主が、黒沢長尚(くろさわながひさ)に撰述させた『雲陽誌(うんようし)』の「仁田郡」の「大呂」の「鬼神大明神」の項には、つぎのように記されている。
「『素戔の嗚の尊は、その子の五十猛の神をひきいて、新羅の国から埴土(はに)をもって舟とし、乗って東にわたり、出雲の国の簸(ひ)の川上にある鳥上の峰(たけ)に到った』と、『日本書紀』に見えている。すなわち、ここに鎮座している。」

天保年間(1830~1844)、または、嘉永年間(1848~1854)の成立といわれる同じく渡辺彝(つね)著の『出雲稽古知今図説(いずもけいこちこんずせつ)』も、「仁田郡」の条でいう。
岩舟。鳥上の峰の半腹にある
『古事記』にいう(安本註。『日本書紀』の誤り)。
『素戔の嗚の尊は、その子五十猛の神をひきいて、新羅の曽尸茂梨(そしもり)のところに下った。すなわち、ことあげ(揚言)して、吾は、この地にいたくない、と。ついに埴土をもって舟をつくり、これにのり東にわたり、出雲の国の簸(ひ)の河上にある鳥髪の峰にいたった、云々。』
すなわち、この船である。今は、化して石になっている。」

島根県仁多郡奥出雲町の旧横田町の「大呂(おおろ)」という地名は、「大蛇(おろち)」と関係があるといわれる。
『出雲風土記鈔』は、横田に、稲田という地名があり、素戔の嗚の尊がたすけた稲田姫(『日本書紀』の表記)や、稲田の宮(『古事記』『日本書紀』)と関係があるのではないかとの説を紹介している。この地に、現在、稲田神社という比較的大きな神社があり、稲田姫がうぶ湯をつかったとされる池がある。

以上をまとめれば、島根県仁多郡奥出雲町の大呂の地に、鬼神大明神(鬼神神社)があり、ここに、五十猛の命を葬ったという伝承があり、大呂という地名からも、このあたりが、須佐の男の命がその子五十猛の命をひきいて天下った場所の伝承地とみるがよいようである。

(下図はクリックすると大きくなります)
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(下図はクリックすると大きくなります)
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『朝日新聞』の1999年2月12日(金)に、鳥取県仁多(にた)郡の奥出雲町の横田町大呂(おおろ)の「たたら製鉄」についての記事が載っている。
ここで、注目すべきことは、この横田町の大呂が『古事記』『日本書紀』などが伝える「八岐(やまた)の大蛇(おろち)伝承」の舞台であるということである。そして、「八岐の大蛇伝承」が、製鉄と関係があるのではないかとする根強い説があることは、注目すべきことである。

八世紀の「出雲国風土記」には仁多郡横田郷(現在の島根県横田町付近)の鉄について記されており、当時から一大産地だった。

『出雲国風土記』の記事
横田(よこた)の郷(さと) 郡家(こほりのみやけ)の東南(たつみ)のかた廾一里(さと)なり。古老(ふるおきな)の傳(つた)へていへらく、郷(さと)の中(うち)に田あり。四段(よきだ)ばかりなり。形聊(かたちいささ)か長し。遂(つひ)に田に依(よ)りて、故(かれ)、横田(よこた)といふ。即(すなわ)ち正倉(みやけ)あり。以上(かみ)の諸郷(さとさと)より出(いだ)すところの鐵(まがね)堅(かた)くして、尤(もと)も雑(くさぐさ)の具(もの)を造るに堪(た)ふ。

瀧音能之(たきおとよしゆき)著『古代の出雲事典』(新人物往来社刊)
中国山地は良質の砂鉄を産出することで知られ、現在でもたたらの技術で作る玉鋼(たまはがね)は、日本刀の原料として最良の鋼の評価を受けている。」

仁多郡は三処(みところ)郷をはじめとして、[布施(ふせ)、三沢(みさわ)、横田(よこた)の]四つの郷からなっており、これらの郷すべてのこととして、・・・・・・以上の諸郷より出すところの鉄、堅くして尤(もと)も、雑(くさぐさ)の具(もの)を造るに堪ふ。とあり。郡全域から最良の砂鉄が産出されていたことがわかる。399-16

神話学者の松前健は、『日本神話の形成』(塙書房刊)のなかで、つぎのようにのべる。
「大蛇の尾からの草薙剣(くさなぎのつるぎ)出現の物語が、この地方の砂鉄の精錬と、さらにこれによる刀剣の産出の事実と、関係をもっているという説は、かつて山田新一郎氏(「神代史と中国鉄山」『歴史地理』第二十九・三十巻)が唱えて以来、かなり有力な説となってきている。

『雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあめがふちのき)』(1711年以前の成立)に、この大蛇がすみかの淵窟から、八頭坂の長者すなわち手摩乳(てなづち)・足摩乳(あしなづち)の夫婦のもとに通ったという山路には、その長者が作ったという銕築地(てつちくち)[砂鉄精錬所]があったと伝えている。その土地でも古くから、この物語と冶金(やきん)業を結びつけて考える傾向はあったら しい。この大蛇の崇拝は、古く農耕や稲田と関係していたばかりでなく、この地の原始的冶金業者タタラ師の信仰とも結びついていたのである。出雲地方における古い製鉄の遺跡は仁多郡鳥上地方と能義郡井尻赤屋地方であり、特に鳥上地方から斐伊川の流域にかけ鉄滓の堆積する野ダタラの跡が数多く存する。『出雲国風土記』仁多郡や飯石郡の条にも鍛鉄のことが見える。
この地方の砂鉄精錬法は、山の清水とタタラすなわちフイゴによる火熱を利用して、砂と鉄とを選び分けたのであるから、水神・山神・火神・カマド神などの神々を祀っていたらしい。」

出雲地方の砂鉄採集の法は、鉄穴(かんな)流しといって、山砂鉄すなわち砂鉄を含んだ山の土砂を、鍬(くわ)や鶴嘴(つるはし)で水流のなか(ここを走りという)へと切り崩し、水の力でどんどん流し、軽い砂分を流し去って、砂鉄分だけを沈澱させるのである。

「もしかすると、この出雲の古代の鍛冶部(かぬちべ)は、もと帰化人系の部曲(かきべ)、すなわち韓鍛冶部(からかぬちべ)であり、素戔の嗚の尊の帰化人的・蕃神(ばんしん)的内性も、これと結びつけられるのかも知れない。」

素戔の嗚の尊が大蛇を殺した剣の名を、一名蛇韓鋤剣(おろちのからさひのつるぎ)というのは、韓鍛冶部の製作する鉄剣という意味であろう。カラサヒのサヒは、〈馬ならば日向の駒、太刀ならば呉(くれ)の真(ま)さび〉(推古紀)のサビと同じく、また火遠理(ほおり)の命(みこと)の紐小刀を賜わった一尋和邇(ひとひろわに)が、佐此持(さひもち)の神(かみ)と呼ばれている(神代紀)サヒとも同じく、刀剣を意味する語らしいが、砂鉄を意味する大陸語だとする説もあって、ますますこの剣の韓鍛冶起源の蓋然率を高める。」

「もともとこの剣自身、この簸(ひ)の川の砂鉄から生まれたものであるから、神話的に言えば、まさにその川の精たる大蛇の体から生まれたわけである。こうした複合的儀礼の意味が不明となり、これに加えて英雄神・人文神としての素戔の嗚の尊の崇拝が入ってくると、前の蛇体の水神は、この英雄神によって退治され、その体から霊剣が取り出される怪物とされてしまうのである。」

神話学者の大林太良(おおばやしたりょう)は、『日本神話の起源』(角川新書)のなかで、つぎのようにのべる。
ヤマタノオチ神話における宝剣出現という要素は、出雲地方が上代の主要な鉄産地であり、名剣が出雲産であるという古い伝承、あるいは神話編纂者の頭にあった固定観念の反映であることは、すでに多くの学者が考えていた。事実、『出雲国風土記』に、スサノオの子として都留支日子(つるぎひこ)の命(みこと)という神があげられているが、ツルギノミコトは出雲地方の鍛剣の業に従事した人たちの斎(いつ)きまつった神で、スサノオがヤマトノオロチから宝剣を獲得したことの民間の記憶から生まれた伝承であろう。」

『古事記』の研究家であり、干葉大学の教授などであった荻原浅男(おぎはらあさお)は、『古事記の世界』(秋田書店刊)のなかでのべる。
「肥の河の上流、鳥髪(とりがみ)[鳥上]の風土と歴史、これを考察すると、神話の背景と意義がより一層觧かになってくるような気がする。
鳥髪(とりがみ)の地は出雲の東南端、鳥取・岡山・広島の三県の境に接して、そそり立つ船通山(1142メートル)のふもとである。この山地は良質の砂鉄を含んだ花崗岩を産し、吉備方面から移動してきた鉄山族が住み、鉄器、鉄具を造っていた。砂鉄を採るには『かんな流し』といって肥の河の水を採鉱地に引いて来て、その水で切り崩した砂鉄を含む花崗岩を下流に流す。下流の谷にはかんなの流水から砂鉄を沈澱させる水槽があって、そこで砂鉄だけを採って、廃砂は赤褐色の濁流となって斐伊川に注ぐのである。
大蛇の腹は、『悉(ことごと)くに常に血爛(ただ)れつ』とか『肥の河血に変(な)りて流れき』という描写がぴったりくるような血の赤さなのである。

「山陰線の宍道(しんじ)湖からから木次(きすぎ)線に乗り、出雲横田で降り、斐伊川沿いの道をバスで5キロほどのぼって行くと、例の鳥上の大呂に着く。ここからさらに3キロばかり上流の竹崎の部落辺りまで来ると、川幅も3メートルほどの狭さになり、下流では余り濁っていなかった水が赤褐色に濁り、まさにオロチの流す凄惨な血の色を想わせる。この光景がみられるのは、上流で『かんな流し』をしている時期だけである。
『かんな流し』の赤濁の廃水を見た古代人でなければ、風土色豊かなこの神話は作れなかったであろうと思われる。

「八岐の大蛇伝承」が、製鉄と関係するというこれまでの説の根拠をまとめれば、つぎのようになる。
(1)製鉄のためには莫大な木炭を必要とする。近くのいくつもの山々が、ハゲ山になる。ハゲ山になると、洪水が起きやすい。また、砂鉄をとるために、大量の土砂を川に流すわけで、土砂の堆積によっても、洪水が起きやすくなる。
「八岐の大蛇伝承」は、洪水と関係があり、洪水が起きないようにするために、人身御供(ごくう)をささげていたのではないか。
斐伊川は、もともと、古来から、氾濫になやまされつづけてきた川であった。
また、『日本書紀』の「仁徳天皇紀」に堤(つつみ)をつくったが、堤がくずれてふせぐのがむずかしかったので、河の神に、男性の人身御供をささげた話がのっている。奇稲田姫(くしいなだひめ)が大蛇に取られることになっていた、という話は。川の神の蛇神または竜神の怒りを鎮めるためではないか、というのである。

(2)『日本書紀』の「一書(あるふみ)」に、つぎのようにある。
「(素戔の嗚の尊の子の)五十猛の神が[高天の原(北九州か)から]天下るときに、たくさん樹の種をもって下った。しかし、韓地に植えずに、ことごとく(日本に)もって帰った。筑紫からはじめて、大八洲(おおやしま)の国のうちに播(ま)いて植林し、青山にしないということはなかった。」
「五十猛の命の妹に、大屋津姫(おおやつひめ)の命と爪津姫(つまつひめ)の命とがいる。この三はしらの神もまた、樹木の種子をまいた。」
これらの記事は、素戔の嗚の尊の子や五十猛の神が植林をしたことを伝えている。
「八岐の大蛇伝承」は、須佐の男の命や五十猛の命にあたる人が、植林、治水を行なったため。いけにえが必要でなくなったことを語っているようにもみえる。

(3)素戔の鳴の尊が八岐の大蛇を切り散らしたところ、肥の河(斐伊川)が血に変わったという。これは、製鉄のさいの酸化鉄(鉄さび)が河に流れて、河が赤くなったことを言っているのではないか。

こういうことを考えると、どうも草薙の剣は鉄なのではないか、 鉄の産地と関係しているのではないかと思われる。

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