■卑弥呼の墓=福岡県平原(ひらばる)王墓説
吉野ヶ里遺跡の発掘で著名な考古学者、高島忠平氏(1939~)は、「吉野ヶ里遺跡指定30年記念シンポジウム」において、卑弥呼の墓について、つぎのように述べておられる。
「高島:私は、ずばり、卑弥呼の墓は糸島の平原1号墳であっても構わないと考えています。というのは、卑弥呼の墓は邪馬台国にあるとは限らないのです。なぜかというと、卑弥呼は29の国によって、共に立てられた王でありました。」(『季刊邪馬台国』138号2020年177ページ)そして、高島氏は、卑弥呼の墓は、糸島の平原1号墳と考えられる理由を、当時の国際的状況などから説明しておられる。
なお、高島忠平氏は、同じシンポジウムにおいて、邪馬台国の場所について、つぎのように述べておられる。
「高島:吉野ヶ里遺跡が、現在発見されている集落の跡、弥生時代の集落としては、最も卑弥呼の都した所に、今のところ近い。
ところが、まだほかの遺跡が、特に九州の場合には、まだまだ発掘がされてない広大な面積を持つ遺跡がある。私は、吉野ヶ里遺跡は全体として300ヘクタールと見ておりますけれども、朝倉市の平塚川添遺跡を含める小田台地というのがありますけれども、それは約400ヘクタール。それから、奴国の中心と言われている比恵・那珂・須久遺跡は一本の道路でつながっておりますが、この面積は800ヘクタール以上あるのです。
あるいは、三雲遺跡群は、今見るところ100ヘクタールくらいですが、ほかの関連した遺跡を含めると、もっと広大なものになる。そういうことから考えると、吉野ヶ里を掘っただけで、ここが邪馬台国だというふうにはなかなかまいらない。まだ、ほかにもこうした遺跡が、私は筑紫平野にあるのではないかと考えておりますので、もっともっと掘りましょうということであります。」
■原田大六の、「平原王墓=天照大御神の墓」とする説
福岡県糸島市の有田にある平原遺跡を発掘した原田大六(1917~1985)は、1991年に、『平原弥生古墳-大日霎貴(おおひるめのむち)の墓-』(葦書房刊)をあらわした。
この本の副題の「大日霎貴(おおひるめのむち)」は、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」のことである。原田大六は、平原遺跡の墓を、卑弥呼の時代よりも、すこしまえのものとみて、天照大御神の墓としたのである。
原田大六は、平原遺跡出土の大鏡と、伊勢神宮におさめられた「八咫の鏡」とが寸法・文様において、一致がみられると考えた。
すなわち、つぎのように考えた。
(1)伊勢神宮におさめられた「八咫(やた)の鏡」は、天照大御神の霊代(たましろ)[神霊の代りとされるもの]である。「八咫の鏡」は、記録からみて、平原遺跡出土鏡ほどの大きさが十分あったと考えられる。[これについてくわしくは、拙著『日本神話120の謎-三種の神器(じんき)が語る古代世界-』(勉誠出版、2006年刊)参照]
(2)平原遺跡出土の大鏡の円周は、ほぼ、八咫(やた)の長さにあたる。
中国の考古学者の王仲殊は、つぎのようにのべる。
「平原王墓出士の大鏡の直径46.5センチは、まさに、後漢時代の二尺にあたる。八寸をもって『咫(し)』とするという確かな記載がある。大銅鏡の直径は二尺で、その円周は、八咫に近くなる。」(原田大六著『平原弥生古墳』[葦書房、1991年刊]、219ページ)
(3)「八咫の鏡」の文様について、「八咫花崎(やたはなさき)八葉形なり」という記録がある。これは、平原遺跡出土の大鏡の、「内行八花文(内むきの八つの円弧)と、「八葉座(紐[中央のつまみ]のところの八つの葉の文様)」にあたる。
原田大六は、のべる。
「神話の高天原の物語りのほとんどは、じつは北部九州の弥生時代の最後の史実によっている。また日本神話の実態を証明してきたのは、ひとえに平原弥生古墳によっている。ではこの古墳に葬むられた人物は神話の中の誰にあたるのであろうか。」
「神明造(しんめいづくり)の殯宮(もがりのみや)で、八咫の鏡を所持し、太陽の妻であり、祭日が神嘗祭に近い日で、神として祭られたというのが、平原弥生古墳の被葬者の本質的性格である。神話ではいうまでもなく、天照大御神に相当する。」
原田大六の、以上に紹介したような説明は、原田大六著の、『平原弥生古墳―大日霎貴(おおひるめのむち)の墓-』(葦書房、1991年刊)と、『実在した神話』(学生社、1966年刊)とに、ほぼ同文でのっている。
ただ、原田大六は、さきの引用文中にあるように、平原王墓を、「弥生時代の最後」のころのものとしながら、天照大御神を卑弥呼よりも、時代的に古い人(神)であると考えた。
■奥野正男氏らの「平原王墓=卑弥呼の墓」とする説
いっぽう、宮崎公立大学の教授であった考古学者、奥野正男氏(1931~2020)はのべる。
「平原出土の方格規矩四神鏡が後漢晩期のものであるとすれば、共伴の大形国産鏡の製作年代の上限もまた三世紀代におくことが可能である。この三世紀代はまさに卑弥呼の時代に相当し、一墳墓で副葬された鏡の数においても、日本最大の大形国産鏡という点でも、平原遺跡は日本の古代史上さいしょの女王である卑弥呼の墓にふさわしい。」[奥野正男著『邪馬台国はここだ』(奥野正男著作集Ⅰ、梓書院、2010年刊)209ページ]
奥野正男氏は、また、「卑弥呼の鏡は後漢鏡、その墓は平原である」(『季刊邪馬台国』第2号、梓書院、1979年刊)という論文も、発表しておられる。
福岡大学の考古学者、小田富士雄氏らも、『倭人伝の国々』(学生社、2000年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「平原(王墓)になると、これはもう邪馬台国の段階に入っています。」
原田大六氏の説と、高島忠平氏、奥野正男氏らの説とを、合体させると、次のような仮説となる。
■平原王墓は、卑弥呼=天照大御神の墓である
大分県の産婦人科の医師で、大分県考古学会の会員であった中尾七平(なかおしちへい)氏[1928~2010]の著書に、『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1997年刊)がある。
中尾七平氏は、この本のなかで、私とは、あげている根拠が異なるが、私と、ほぼ同じつぎの結論を、すでにのべている。
(1)天照大御神は、卑弥呼である。
(2)卑弥呼の墓は、糸島市の平原王墓である。
(3)邪馬台国は、朝倉市、小郡市、筑紫野市周辺である。
以下では、この仮説が、成立するかどうかをややくわしく追ってみよう。
■東洋史家、白鳥庫吉の説
これまで、卑弥呼のことが、神話化し、伝説化したのが、天照大御神なのではないかとする説が、すくなからぬ人々によって、となえられてきた。
このような説は、明治期に東京大学の東洋史の教授であった白鳥庫吉によって最初に示唆(しさ)された。
白鳥庫吉は、明治期の東京大学を、いやその時代を代表する史家であった。東洋史学の開拓者であり、数々の新研究を発表するとともに、多くの研究者を育成した。
白鳥庫吉は、また、邪馬台国北九州説を説き、畿内大和説を主張する京都大学の内藤湖南と、白熱の論争を戦わせた。邪馬台国の位置をめぐる諸説は、それまでにも出されてはいた。しかし、現代まで長く尾をひく、いわゆる邪馬台国論争は、このときはじめて、激しい沸騰をみせたといってよい。
白鳥庫吉は、明治四十三年(1910)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで、『魏志倭人伝』の「卑弥呼」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神」に関する記事内容とを比較している。そして、その二つの記事内容について、「その状態の酷似すること、何人も之(これ)を否認する能(あた)わざるべし。」とのべている。この指摘は、のちの「邪馬台国東遷説」の核心部と関係する。
白鳥庫吉は、すでに『古事記』『日本書紀』の神話を伝える天照大御神は、『魏志倭人伝』の記す卑弥呼の反映なのではないか、天照大御神がいたと伝えられる高天(たかま)の原は、邪馬台国の反映なのではないかとする考えを示している。
原文は、文語体であるが、口語体になおして、白鳥庫吉ののべているところを紹介する。
「すべて、神話伝説は、国民の理想をのべたものであって、当時の社会の精神風俗などは、ことごとくそのなかに包含されるものである。したがって、皇祖発祥の地である九州において、上古、卑弥呼をはじめとして、女子で君長であったものが多数いたとすれば、天照大御神が女王として天上に照覧するのも、また、なんの怪しむべきことがあろうか。」
「つらつら神典(『古事記』『日本書紀』)の文を考えると、天照大御神は、素戔鳴(すさのお)の尊(みこと)の乱暴な振るまいを怒って、天の岩戸に隠れた。このとき、天地は、暗黒となって、万神の声は狭蝿(さばえ)のごとく鳴りさやぎ、万妖がことごとく発した。ここにおいて、八百万(やおよろず)の神たちは、天の安の河原に神集(かんつど)って、大御神を岩戸から引きだし、ついで素戔鳴(すさのお)の尊(みこと)を逐(お)いやったので、天地はふたたび明るくなった。ひるがえって『魏志』の文を考えると、倭女王卑弥呼は狗奴国男王の無体を怒って、長くこれと争ったが、その暴力に堪えず、ついに戦中に死んだ。ここにおいて、国中大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国中これに服せず、たがいに争闘して数千人を殺した。しかるに、その後、女王の宗女壱(台)与を奉戴するにおよんで、国中の混乱は一時に治った。これは地上に起きた歴史上の事実で、かれは、天上に起きた神典上の事跡であるけれども、その状態の酷似すること、何人もこれを否認することはできないであろう。もしも神話が太古の事実を伝えたものとすれば、神典の中に記された天の安の河の物語は、卑弥呼時代におけるような社会状態の反映とみることができようか。」
いっぽう、白鳥庫吉は、「邪馬台国=北九州筑後山門説」をとなえている。
のちの時代に、畿内の大和に存在した大和朝廷のつたえる神話上の事跡が、北九州に存在した邪馬台国についての事実と「酷似する」というのである。
白鳥庫吉の所説は、大和朝廷の原勢力が北九州にあり、それがのちに畿内に移動したことを示唆しているといえよう。「邪馬台国東遷説」の萌芽が、そこにみとめられる。
■和辻哲郎の「邪馬台国東遷説」
白鳥庫吉の見解を受け継ぎ、大きく発展させたのは、東京大学の哲学者・和辻哲郎(わつじてつろう)[1889~1960]であった。
和辻は観察眼の広さと明晰な思考によって知られる。和辻は、ドイツの哲学者ニーチェやデンマークの哲学者キュルケゴールの研究から、さらに、日本文化の研究に進み、『日本古代文化』『古寺巡礼』『風土』などの数々の名著を著した。
和辻哲郎の「卑弥呼=天照大御神説」は、『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)のなかにみえる。『日本古代文化』は、和辻がまだ二十六歳という若さで著した著作である。
和辻が本書ではじめて「邪馬台国東遷説(とうせんせつ)」を明確な形で打ち出した。「邪馬台国東遷説」は、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受け継ぐものが東遷して「大和朝廷(やまとちょうてい)」になったとする説である。
和辻はその東遷説を展開する出発点として『古事記』『日本書紀』の神話と『魏志倭人伝』の記述との一致をやや詳しく指摘している。
「君主の性質については、記紀の伝説は、完全に魏人の記述と一致する。たとえば、天照大御神は、高天の原において、みずから神に祈った。天上の君主が、神を祈る地位にあって、万神を統治するありさまは、あたかも、地上の倭女王が、神につかえる地位にあって人民を統治するありさまのごとくである。
また天照大御神の岩戸隠れのさいには天地暗黒となり、万神の声さばえのごとく鳴りさやいだ。倭女王が没した後にも国内は大乱となった。天照大御神が岩戸より出ると、天下はもとの平和に帰った。倭王壱(台)与の出現も、また国内の大乱をしずめた。天(あま)の安(やす)の河原においては八百万(やおよろず)の神が集合して、大御神の出現のために努力し、大御神を怒らせたスサノオの放逐に力をつくした。倭女王もまた武力をもって衆を服したのではなく、神秘の力を有するゆえに衆におされて王とせられた。この一致は、暗示の多いものである。(・・・中略・・・)(『魏志』の記述と神代史が、)右のごとき一致を示すとすれば、たとえ伝説化せられていたにもしろ、邪馬台国時代の記憶が全然国民の心から、消失していたとは思えない。」
和辻哲郎は、ついで、大和朝廷の国家統一が、どのように行なわれたと考えられるかについて述べる。大和朝廷は、邪馬台国の後継者であり、『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征(じんむとうせい)」の物語の、「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろうとする。その後、和辻の「卑弥呼=天照大御神説」「邪馬台国東遷説」は数多くの人によって受け継がれ発展させられた[これについて、くわしくは、拙著『研究史邪馬台国の東遷』(新人物往来社、1981年刊)参照]
たとえば、学習院大学の教授であった飯島忠夫はその著『日本上古史論』(中文館書店、1947年刊)のなかで、およそつぎのようなことを述べている。
(1)天照大御神の時代は、卑弥呼の時代にあたる。
(2)九州の邪馬台国が、本州の大和に移動した。
(3)その移動の時期は西暦300年前後である(日本建国の年代は『日本書紀』に記されている年代から、約千年ほど、後世に引き下げて考えるべきである)。
(4)その移動の記憶が、神武天皇東征伝承であると考えられる。
■卑弥呼と天照大御神
中国の歴史は、二千年をこえる。その長い歴史において、女性の帝王は、ただ一人しか登場しない。その唯一人の女帝は、唐の高宗の皇后で、唐室を奪って皇帝となった則天武后(そくてんぶこう)[在位690~705]である。
わが国では歴史の冒頭から、卑弥呼という女性が登場する。中国からみれば、かなり特異なことであったはずである。そして、わが国の史書は、皇室の始祖は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)という女神であったと記す。わが国の古代人が、中国文化の影響をうけて、このような女神を創作したとは思えない。中国文化の伝統の中には、女性が統率者となる例が、まずみられないからである。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼のあとにも、壱与(台与)という女性が王となっている。
天皇の時代になっても、推古天皇、皇極天皇、持統天皇など、八人、十代の女帝が登場している。[重祚(ちょうそ)すなわち二度天皇となった人が二人いる。]女帝が登場するのは、古代からの伝統をひきつぐものであろう。
すでに、これまでにみてきたように、中国や日本の帝王・王・天皇などの、一代平均在位年数は古代においては、ほぼ十年である。これによって推定を行えば、卑弥呼の時代と天照大神の活躍年代とは、ほぼ重なる。(私の説に、多少の特徴があるとすれば、この点の指摘にある。)
卑弥呼と天照大神とが、ともに女性であることは、やはり偶然のことではなく、天照大神は、卑弥呼のことが伝承化した形とみるべきではないか。
卑弥呼女王に、中国の皇帝から「親魏倭王」の金印が与えられ、卑弥呼は、それによって、権威づけられた。それゆえに、その勢力が、わが国でとくに力をもち、その後継勢力が、日本で君臨するようになった。とみるべきではないか。
「邪馬台国畿内説」をとる人々は、なにゆえに、『古事記』『日本書紀』をはじめとする古文献・古伝承が、大和朝廷の起源は北九州にあったと記すのか。その理由を説明しなければならない。
「畿内説」は、古文献の記述などを、すべて無視することによってのみ成立するものである。
■平原王墓の出土品
平原王墓からの出土品は、断然、他を圧倒している。
まず、これまで、わが国で出土した青銅鏡は、ほぼ六千面(表では五千面)である。下垣仁志(しもがきひとし)著『日本列島出土鏡集成』(同成社、2016年刊)は出土都道府県が判明している日本列島出土鏡を5942面とする。
その六千面近くの青銅鏡の、面径の大きさのランキングのベストテンをとれば、下の右表のようになる。
ベストテンの半分の五面は、平原王墓がしめるのである。
また、一つの墓からの青銅鏡の、副葬数のランキングのベストテンをとれば、上の左表のようになる。
古墳時代になって、あれだけ多数の前方後円墳が発掘されながら、それらをふくめても、弥生時代の平原王墓が、鏡の多数副葬のランキングにおいて、なお第二位をしめるのである。
出土する鏡の大きさと数とを総合的にみたばあい、平原王墓は、弥生時代の他の墳墓を超絶している。
今後、副葬されている鏡の質と量とにおいて、平原王墓をこえる墳墓が出現する可能性は、かなり小さいとみるべきである。
■平原王墓の築造年代は、卑弥呼の没年ごろにあうのか
『魏志倭人伝』によれば、倭の女王の卑弥呼は、女王国の南にあった狗奴国(くなこく)の男王と仲がわるかった。正始(せいし)八年(247年)卑弥呼は、帯方郡に使をつかわし、両国が、たがいに攻めあっている状況をのべさせている。
そこで、帯方郡では国境守備の属官の張政らを倭国につかわした。しかし、その使者の張政らが、倭国に到着したときには、卑弥呼は、すでに死んでいたという。
このようなことから、卑弥呼の死亡年は、247年から248年とみられている。
桜井市纒向学研究センター所長の寺沢薫氏は、四〇面の鏡を出土した平原王墓を、畿内の土器のⅥ-1の時期にあて、西暦150年~200年のあいだのころのものとする。
そして、そのあとの庄内様式の土器の時代を、200年をすぎたころから、250年をすぎたころまでにあてる。すなわち、ほぼ、邪馬台国の時代にあてる[寺沢薫著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年刊)]。
寺沢薫氏の見解は、平原王墓の年代を卑弥呼の死亡時期よりも、50年ていどはまえの、二世紀後半にあてる見解である。
つぎに、國學院大学の教授であった考古学者の柳田康雄氏は、その著『伊都国を掘る』(学生社、2000年刊)のなかで、つぎのようにのべる。
「平原王墓の被葬者としては、超大型内行花文八葉鏡=『八咫鏡』とすると、『大柱』と太陽の門としての『鳥居』(太陽信仰)などを総合すると、実在論は別にして、神話のなかの『天照大神』に象徴されるような性格の人物像が浮かび上がり、卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女王となるだろう。」
ここには、「三世紀初頭に埋葬された」とある。この見解は、平原王墓の年代を寺沢薫氏よりもあとのものとみるが、卑弥呼の死亡時期よりも前とみる見解である。
この見解は、平原王墓の被葬者を、天照大御神とし、天照大御神の年代を、卑弥呼よりもまえの時代の人とみた原田大六の見解に近い。
さきに紹介したように、寺沢薫氏は、平原王墓の築造年代を、庄内様式の土器の時代よりもまえの時期にあてる。これに対し考古学者の小山田宏一(こやまだこういち)氏は、平原王墓を「庄内0式~庄内3式」の時期にあてる(小山田宏一 「三世紀の鏡と『おおやまと古墳群』」[伊達宗泰編『古代「おおやまと」を探る』(学生社、2000年刊)所収]。そして、寺沢薫氏は、庄内様式期を、ほぼ邪馬台国の時代にあてる。小山田宏一氏の見解を参考にすれば、平原王墓の時期を邪馬台国の時代にあてることもできることになりそうである。
さらに、寺沢薫氏は、庄内様式期に出土した鏡について下の表のようなデータを示しておられる。
(下図はクリックすると大きくなります)
ただし、上の表において、太ワクの四角でかこんだ「238年、または239年卑弥呼遣使」の文字は、安本が書き加えたものである。
寺沢薫氏は、「庄内様式期」を、西暦200年をすこしすぎたころから、西暦250年をあるていどすぎたころにあてておられる。したがって、土器の「庄内様式期」が、ほぼ、邪馬台国時代にあたるころになる。
寺沢薫氏は、「邪馬台国畿内説」の立場にたつ方であるが、上の表にもとづいて統計をとれば、右の図のようになる。
つまり、「畿内説」の寺沢薫氏の立場にたったとしても、ほぼ邪馬台国時代の鏡として、もっとも出土数の多いのは、「内行花文鏡」と、「方格規矩鏡」である。
そして、前に示した「全国における鏡の多数副葬品のランキングベスト10」の表にみられるように、「平原王墓」から出土している40面の鏡のうち、39面は、「内行花文鏡」と「方格規矩鏡」なのである。
つまり、「平原王墓」から出土している鏡は、上に示した「庄内様式の出土鏡(寺沢薫氏による)の表や、「寺沢薫氏の資料による庄内期の鏡の鏡種」の図にみられる庄内期、邪馬台国時代の鏡とよく一致しているのである。出土している鏡の内容からみれば、「平原王墓」出土の鏡の傾向は、邪馬台国時代の鏡とみても、おかしくないものである。
さらに、大略、邪馬台国時代の鏡とみられる「雲雷文長宜子孫銘内行花文鏡」と重なりあうとみられる鏡や、弥生時代の「方格規矩鏡」について、県別の統計をとれば、下図のようになる。福岡県と佐賀県とから、圧倒的に多くが出土しているのである。
(下図はクリックすると大きくなります)
私は、このようなことなどから、邪馬台国は、北九州にあったと考える。(拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった』参照)。
森浩一は、五世紀の古墳の築造年代についてさえ、つぎのようにのべる。
「古墳やその出土遺物にたいして、たとえば、”五世紀中ごろ”という推定を下す考古学者がいるとしても、それは相対的な年代観にすぎず、その年代の前後に約六〇年の判断誤差をつけるべきだと考えている。」
「畿内の五世紀を例にとっても、なお前後に六〇年程度の判断誤差がいるだろうという私の実感は、そのまま三世紀に適用してもよかろう。しかしその判断誤差は、北九州から遠ざかるにしたがって、年数をふやす必要がある。」(以上、『三世紀の考古学』上巻、1980年刊)
森浩一は、また、つぎのようにものべる。
「考古学が一つの遺跡で割り出せる年代は、時間の幅(ある期間)のなかでしかいえないことが普通である。実在のはっきりしている藤原京のすぐ南にあって、石室に壁画もあり副葬品も多い明日香の高松塚古墳でも、八世紀初頭を中心にして約五十年の幅のなかでしかまだ年代はおさえられていない。」(森浩一著『倭人伝を読みなおす』筑摩書房、2010年刊)
すでに紹介したように、平原王墓を、卑弥呼の墓にあてることも可能であるとする考古学の方方がおられる。また、平原王墓の出土鏡からいっても、邪馬台国時代のものとみるのに無理がない。かつ、遺跡の年代は、あるていどの幅をもってしかいえないものなのである。年代的にみて、平原王墓が、卑弥呼の没年のころと重なりうる可能性は、十分にあるといえよう。
なお、さきに紹介した小山田宏一氏は『シンポジウム三角縁神獣鏡』(学生社、2003年刊)という本のなかで、つぎのようなことを述べておられる。
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「小山田 私は平原が古墳に近接することから、金属原型をつかった製作技術が古墳時代に引き継がれていてもおかしくないと思う。」
「小山田 鏡の製作年代からみて、萩原1号墳墓・ホケノ山墳墓の画文帯同向式神獣鏡、平原墳墓の方格規矩四神鏡などを一応「銅鏡百枚」と推定しています。
福永 平原にたくさんある方格規矩鏡ですか。陶氏作とか。
小山田 そうです。
福永 あそこにはかなり枚数がありますね。百枚のうち、かなり平原が持っている。
小山田 三十何枚行っていますね。
岡村 じゃあ邪馬台国は?(笑)
小山田 鏡分布の中心、儀礼の発信の中心、纏向型前方後円墳の拡散を考えて、邪馬台国は畿内です。伊都国(平原)のところに大量に送らなければいけない事情があったというように想像します。
岡村 では、方格規矩鏡だけを伊都国のほうに?
小山田 そうですね。」
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前のグラフの右図「県別 方格規矩(四神)鏡の出土数」をみれば、庄内様式以前の時期において、奈良県からは、方格規矩四神鏡の出土例がみられていない。
それでも、方格規矩鏡を、畿内から平原に送ったとする小山田宏一氏の議論にはそうとうな無理があると思う。(小山田氏は、畿内に方格規矩鏡は存在したが、ほとんどは伝世し、地中にうめられなかったと考えておられるのかと思われるが。)
ただ、この議論から、小山田宏一氏が平原王墓を卑弥呼の時代以後のものと見ておられることがわかる。卑弥呼がもらった鏡が、平原王墓に埋納されているというのであるから。
■割竹形木棺について
報告書『平原遺跡』によれば、平原1号墳からは、長さ三メートルの「割竹形木棺」が出土している。
「割竹形木棺」について、大塚初重・戸沢充則編『最新考古学用語辞典』(柏書房刊)は、下記のように説明している。
この説明から、つぎの二つのことが言えそうである。
(1)「割竹形木棺」は、おもに、古墳時代の棺の形式である。とすれば、平原王墓の年代は、古墳時代とそれほどはなれていないことを思わせる。
(2)福岡県の平原王墓の木棺の形式が、のちの畿内をはじめとする前方後円墳などから出土する木棺の形式とつながっている。
すでに、第396回[2月27日(日)]の「邪馬台国の会」で説明したところであるが、前方後円墳は、時代が下るにつれ、後円部に比し、前方部が相対的に発達する。
棺の形式について、前方後円墳築造時期との関連を描けば、下図の「棺の形式と前方後円墳の形式」のようになる。
図をみれば、木棺は四世紀の中ごろまでの古墳に多い棺の形式であることがわかる。
(下図はクリックすると大きくなります)
■八咫(やた)の鏡のいれもの[樋代(ひしろ)]
平原遺跡を発掘した原田大六氏は、平原王墓出土の大鏡と、伊勢神宮におさめられた「八咫(やた)の鏡」とが、寸法文様において、一致がみられると考えた。このことは、前の項目の「■原田大六の、「平原王墓=天照大御神の墓」とする説」ですこしのべた。
原田大六氏は、その著、『実在した神話』(学生社、1966年刊)のなかで、およそつぎのようにのべる。
「『延喜式』の『伊勢大神宮式』でも、『皇太神宮儀式帳』でも、容器の内のりが一尺六寸三分(約49センチ)の径を持つと明記している。平原弥生古墳に副葬されていた八咫ある鏡は、径46.5センチであるから、2.5センチの手で持って納める余裕まで持っている。ということは伊勢神宮の『樋代(ひしろ)』の中にすっぽり納まる大きさであるといえる。
文永・弘安年代(1264~1288)の調進として『正中御飾記(しょうちゅうおかざりき)』に記されているのは、樋代の径高各一尺五寸(約46センチ)と記されている。この記載は詳しく記したものでない。しかし大略でも前記の寸法に近いものである。
(下図はクリックすると大きくなります)
つぎに、伊勢神宮の八咫の鏡の形態(文様)についての記録をあたってみよう。伊勢神道の経典である『御鎮座伝記』には『八頭花崎八葉形也(やたはなさきやはのかたちなり)』とある。
この文を『八頭花崎』と『八葉』に分けてみよう。『八頭花崎』とは平原弥生古墳出土の『内行八花文』にあたり、『八葉』はそのまま紐をめぐる『八葉座』に相当するのではあるまいか。(下図参照)
もう少し考えを前進させてみよう。『八頭花崎』の『八頭』は日本語ではヤッガシラと読まれる。同じような頭だけが八個ある状態である。『花崎』とはハナサキで、花弁の先端ということであろう。先端のみの八花弁を『八頭花崎』といったと考えられる。考古学でいう『内行八花文』も、花弁形なら外側に貼り出るのに、内側に向かっているのでつけたまでで、『八頭花崎』も『内行八花文』も、同じ意味であった。
『八葉』の意味は大きい。舶載鏡にしても、現在までに発見されていた仿製鏡にしても、内行花文鏡や方格規矩鏡などの四葉座というのは数多く見受けたが、八葉座というのは、平原弥生古墳の大鏡がはじめての出土である。すると八葉というのは特殊な鏡でなければありえなかったといえる。
わたしは、さきに、平原弥生古墳出土の大鏡を見て、印象にのこる文様は『内行八花文』と『八葉座』であると書いたが、『御鎮座伝記』が「八頭花崎八葉形也」と記したのは、実見した時の強烈な印象を書きしるしたのであろうと思う。」
さきの、原田大六氏の見解について、考古学者の森浩一氏は、その著『日本神話の考古学』(朝日新聞社、1993年刊)のなかで、つぎのようにのべている。
「この文様の構成は『八頭花崎』を内行花文とみて、『八葉』を八葉座にあてることによって、『御鎮座伝記』の八頭花崎八葉形に合致すると、原田氏はみている。きわめて妥当な考えであろう。」平原王墓は、天照大御神と関係があることになる。「八咫の鏡」は、天照大御神の「御霊代(みたましろ)」である。「霊代」は、神や人の霊の代りとして祭るものである。
なお、「八咫の鏡」にいては、拙著『日本神話120の謎』のなかで、ややくわしく考察した。
■伊勢神宮は、なぜ、伊勢にあるのか
九州と大和の地名の一致
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)氏は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。
すなわち、下表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、
(1)ヤマトを中心としている。
(2)海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩(近畿)となっている。
(3)山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。
これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」
ここで、鏡味完二氏は、福岡県の「志摩」と三重県の「志摩」とを対応させ、福岡県の「怡土(いと)」と三重県の「伊蘇(伊勢)」とを対応させる。
『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に「伊覩(いと)[伊都、怡土、伊斗]」は「伊蘇(いそ)」のなまったものであるとする記事がある。
『和名抄』によれば、現在の伊勢市磯町(いそちょう)である。
つまり、福岡県にも、三重県にも、「伊蘇(いそ)」の地名があった。なお、「伊勢」については、『古代地名大辞典』(角川書店刊)に、「伊勢」は、「磯(いそ)の転訛で、海辺の国の意からきたものとも考えられる。」と記す。『日本氏族事典』(雄山閣刊)も、「磯部(いそべ)」の項で、「磯部(いそべ)は『古事記』応神天皇段にみえる伊勢部(いせべ)と同一とされ・・・」と記す。
福岡県の「怡土」の地に、平原王墓があり、三重県の「伊勢」の地に、伊勢神宮がある。
天照大御神の御霊(みたま)をまつる地(墓)が、福岡県の「伊蘇(怡土)の地にあったので、天照大御神の御魂代(みたましろ)[八咫の鏡]をまつる地も伊蘇(伊勢)と名づけたのであろうか。
そして、九州での比較的小地名が、本州などではの大地名になっているケースが多い
志摩郡(九州)→志摩国(本州など)
怡土郡(九州)→伊勢国(本州など)
日田郡(九州)→飛騨国(本州など)
基肄(きい)郡(九州)→紀伊(きい)国(本州など)
球磨(くま)郡(九州)→熊野国(本州など)
(下図はクリックすると大きくなります)
■天皇の宮殿と陵とは、かなり離れているばあいがある
女王の都した場所と、女王の墓のある場所とは、一致するとは、かぎらない。
そのことを示す事例になると思われるのが、下の地図に示す古代天皇の都した場所と、その天皇の陵のある場所との関係である。
(下図はクリックすると大きくなります)
地図の左のほうから説明しよう。
(1)第十六代仁徳天皇の宮殿の「難波(なにわ)の高津宮(たかつのみや)」は、今の大阪市内の大阪城址の付近にあった。
仁徳天皇陵古墳の「百舌鳥野陵(もずののみさざき)」は、大阪府堺市の大仙町にある。宮殿と陵とが、南北に直線距離で、14キロほどへだたっている。
(2)第十五代応神天皇の宮殿の「軽島(かるしま)の明宮(あきらのみや)」は、今の奈良県橿原市の大軽町付近にあった。応神天皇陵については、『古事記』に「河内(かわち)の恵賀(えが)の裳伏(もふし)の岡(おか)にある」と記されている。これは現在の、大阪府羽曳野市(はびきのし)の、「古市古墳群(ふるいちこふんぐん)」のなかにある。直線距離で、20キロ近くへだたっている。
(3)第二十六代継体天皇は、「磐余(いわれ)の玉穂宮(たまほのみや)」で崩去(ほうぎょ)する。磐余の玉穂宮があったのは桜井市の近くである。そして、継体天皇は、「三島の藍野(あいの)の陵(みさざき)」にほうむられる。現在の大阪府茨木市の今城塚古墳が継体天皇の陵とみられている。
宮殿と天皇陵との距離が、かなりはなれている。直線距離で、42キロほどはなれている。
私が、卑弥呼女王の都があったであろうと考える朝倉市と、糸島市の平原王墓の距離に近いていどにはなれている。
(4)第十四代の仲哀天皇の皇后の神功皇后は、『日本書紀』では、天皇なみに、「巻第九」の一巻があてられている。『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』は、神功皇后のことを、「息長帯比売(おきながたらしひめ)の天皇(すめらみこと)」と記す。また、『扶桑略記(ふようりゃっき)』という本は、神功皇后を、第十五代の天皇とし、「神功天皇」「女帝これより始まる。」と記す。
神功皇后の宮殿の、「磐余(いわれ)の若桜宮(わかさくらのみや)」は、現在の、奈良県桜井市中部から橿原市東南部にかけての地にあったとされる。そして、神功皇后陵は、「狭域(さき)の盾列(たたなみ)の陵(みさざき)」とされる。佐紀盾列古墳群のなかにある。奈良県の北部である。
宮殿のあった場所と陵のある場所とが、直線距離で、20キロほどはなれている。
(5)第十代崇神天皇の宮殿は、「磯城(しき)の瑞籬宮(みつかきのみや)」とされている。奈良県桜井市の金屋の地である。崇神天皇の陵は、「山辺(やまべ)の道(みち)の上(うえ)の陵(みさざき)」とされている。これは、現在、奈良県天理市柳本町にある。このばあい、宮殿と陵との距離はかなり近い。直線距離で4キロほどである。
上の地図には、示すことができないが、宮殿と陵とが、かなりはなれている例などがある。つぎのようなものである。
(a)第十四代仲哀天皇は、「筑紫の橿日(かしひ)の宮(みや)」でなくなる。現在の福岡県福岡市の香椎の地である。そして、仲哀天皇の陵は、大阪府の古市古墳群(ふるいちこふんぐん)のなかにある。河内(かわち)の国の長野陵(ながののみさざき)である。現在の藤井寺市の地である。
宮殿の場所と陵の場所とが、直線距離でおよそ、500キロほどはなれている。
(b)第三十七代の斉明天皇は、新羅とあらそった百済を救援するためという特殊事情によるが、現在の福岡県朝倉市の地でなくなった。その地の宮殿を、「橘(たちばな)の広庭(ひろにわ)の宮(みや)」という。
斉明天皇の陵は、奈良県高市郡高取町にある。「小市(おち)の岡上(おかのうえ)の陵(みさざき)」である。
なくなった宮殿の場所と陵の地とは、直線距離で、約500キロはなれている。
(c)第十二代景行天皇の宮殿については、『古事記』は、「纒向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮(みや)」と記す。現在の奈良県桜井市の地である。
『日本書紀』でも、「都を纒向(まきむく)に都をつくる。これを、日代の宮という」と記す。
しかし、『日本書紀』では、近江の国の志賀(しが)の高穴穂の宮に三年」いて、景行天皇は、そこで崩去したと記す。この宮殿は、現在の滋賀県大津市にあった。そして、景行天皇の陵の「山辺(やまべ)の道の上の陵(みさざき)」は、奈良県天理市にある。
『日本書紀』の記述が正しいとすると、景行天皇がなくなった宮殿と、ほうむられた陵とは、直線距離で47キロほどはなれていることになる。
(d)第十三代の成務天皇は、近江(おうみ)の国の「志賀の高穴穂(たかあなほ)の宮(みや)」でなくなる。現在の滋賀県大津市の地である。
成務天皇の陵は、奈良県奈良市の「佐紀盾列(さきたたなみ)古墳群」のなかにある。
宮殿の場所と陵の場所とが、直線距離で、35キロほどはなれている。
(e)第二十一代雄略天皇は「泊瀬(はつせ)の朝倉の宮」におられた。奈良県桜井市の初瀬(はせ)の地である。そして、雄略天皇の陵の「丹比(たじひ)の高鷲(たかわし)の原(はら)の陵(みさざき)」は、大阪府羽曳野市(はびきのし)にある。
宮殿の場所と陵の場所とは、直線距離で約28キロはなれている。
以上とりあげたものと、卑弥呼の墓かとみられる平原王墓のばあいとを、表の形でまとめれば、下表のようになる。表は、宮殿と陵との距離が、大きいものから順にならべた。
このように、天皇の宮殿と陵とが、距離的にはなれている例は、かなりみられる。
卑弥呼の宮殿が、筑後川流域の、たとえば朝倉市にあり、墓が糸島市のあたりにあり、直線距離で47キロほどはなれていても、けっして不自然ではない。
なお、『魏志倭人伝』に、伊都国には、代々王がいて、「みな女王国に統属している。」とある。また、「帯方郡からの使者が、倭と往来するとき、常にとどまる所である。」ともある。
さらに、女王国から北の地には、とくに一人の統率者[一大率(いちだいそつ)]を、(おそらくは、女王が、)置いて諸国をとりしまらせている。その統率者は、つねに伊都国で、諸国を検察し、治政している、とある。
外国(魏の都や帯方郡、韓国など)に、倭王が使を出すとき、帯方郡の使が倭国に行くとき、伊都国の港で文書などをたしかめた上で、女王にさしだした、という。
伊都国は、倭人の国々のなかでも、女王国にとって、特別の地であったようである。
■五尺刀
『魏志倭人伝』に、魏の明帝が、卑弥呼に与えたものの中に、「五尺刀」二口がある。
「五尺刀」は、長さ120センチほどの長い刀である。銅の長い刀は折れやすいから、「五尺刀」は、鉄の刀とみられる。
長い刀の出土状況は、下の図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)
奈良県からは、「弥生時代~古墳時代前期」において、長い刀は出土していない。
上の左図をみれば、長い刀の出土例は、福岡県がもっとも多い。そして、上の右図をみれば、まさに、「五尺刀(120センチ)」にふさわしい118.9センチの刀が、全国で、ただ一本、福岡県の前原上町(まえばるかみちょう)遺跡だけから出土している。この遺跡は、平原王墓のある平原遺跡からそれほど離れていない(下の地図参照)。直線距離で、ほぼ3キロメートル程度である。
(下図はクリックすると大きくなります)
この刀は、大型箱式石棺から出土している。
箱式石棺は、北部九州では、棺の様式としては、甕棺の時代のつぎにあらわれるものであり、大略庄内様式期、邪馬台国の時代にあたるものといえよう。
もし、この刀が、奈良県から出土したならば、「卑弥呼の五尺刀」として、大さわぎになりそうなものである。
かりに、畿内説の小山田宏一氏ののべるように、平原王墓出土の三十二面の方格規矩四神鏡が卑弥呼に与えられた「銅鏡百枚」の一部であるとしよう。すると、福岡県の前原市からは、『魏志倭人伝』に記されている「銅鏡百枚」のうち、三十二面が出土し、さらに、「五尺刀」にあたるものも、出土していることになる。
卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」のうち、およそ、その三分の一にあたる鏡が、一つの墓から出土し、さらにその近くから「五尺刀」にあたるものも出土しているとすれば、それらの鏡の出土した墓を、「卑弥呼の墓」と考えるのは当然ではないか。
畿内では、そのような墓は知られていない。
しかし、小山田氏は、平原王墓出土の鏡は、畿内から伊都国に送ったものであるという。
当時の遺跡からは、鏡も刀も(刀剣類については下図参照)、鉄も畿内にくらべ、九州から、圧倒的に多く出土している。
(下図はクリックすると大きくなります)
魏から来たものは、畿内、とくに奈良県まではほとんど行かず、九州内に埋められたと考えたほうが、自然であるようにみえる。
■伊都国、女王国(邪馬台国)、狗奴国
『魏志倭人伝』は、「女王より以北は、その戸数・道里は略載するを得べし」と記す。『魏志倭人伝』は、また「女王国自り以北には、特に一大率(だいそつ)を置きて、諸国を検察せしめ、諸国之(これ)を畏憚(いたん)す。〔大率は〕常に伊都国(いとこく)に治(ち)す。」と記す。
戸数・道里が略載されているのは、「対馬国」「一支国」「末盧国」「伊都国」「奴国」「不弥国」である。これらは、「女王国の以北」にあったのである。
すなわち、「女王国」は「伊都国」の「南」にあったのである。
『魏志倭人伝』は、また、狗奴国について、つぎのように記す。
「其(そ)の南には狗奴国(くなこく)有り。男子を王と為(な)す。其の官には狗古智卑狗(くこちひこ)有り、女王に属せず。」[その「女王国の」南には狗奴国(くなこく)がある。男を王としている。その官には、狗古智卑狗がおり、女王には従属していない。]
「狗古智卑狗」は、新井白石をはじめ、すでに多くの人の説いているように、肥後の国に「菊池郡」があるので、「菊池彦」とみるのが、もっとも妥当である。
「菊池郡」は『和名抄』に、「久久知」と注がある。『延喜式』も、「くくち」と読んでいる。後世になまって、「きくち」となった(吉田東伍著『大日本地名辞書』)。
「狗古智卑狗」は、「万葉仮名の読み方」で、「くくちひ(甲)こ(甲)」と読め、「菊池彦[くくちひ(甲)こ(甲)]」と、正確に合致する。
百済の肖古王のことを、中国の史書『晋書』は、「余句」と記している。
肖古王の「古(ko)」の音を、「句(音は、kɪuまたはkәu)」で写しているとみられる。音が、すこし違っているが、このていどなら通用の範囲とみられる。
『古代地名大辞典』(角川書店刊)にのっている「くくち」(「きくち」を含む)の地名は、熊本県の「菊池(くくち)郡」と「菊池城(くくちのき)」の二つだけである。古代において、ありふれた地名とは、いえない。
ただし、吉田東伍著の、『大日本地名辞書』(冨山房刊)には、熊本県の「菊池郡」「菊池城」以外に、摂津の国河辺郡(かわのべぐん)(兵庫県)の地名として、「久久知(くくち)」をのせている。
熊本県の地名の方が、大地名である。
東京大学の教授であった古代史家、井上光貞は、その著『日本の歴史I神話から歴史へ』(中央公論社、1965年刊)の中で、次のように述べる。
「この狗奴(くな)国について白鳥(庫吉)氏は、『熊本、球磨(くま)川にその名を残す球磨地方であろう』とした。なぜならウミハラ(海原)がウナバラとなるように、マ行とナ行とは転訛(てんか)しやすいからである。球磨地方はさらに南方と合して『熊襲(くまそ)』の名で知られているが、この地方は筑後山門(やまと)郡のちょうど南にあたる。だから倭人伝をそのままにうけとって、博多方面から南に邪馬台国があり、その南に狗奴国があると読んでもよく筋が通るのである。」
マ行とナ行との転訛例としては、次のようなものがある。
食物の「ニラ」は古代は、「ミラ」といった。巻貝の「ニナ」も古代には、「ミナ」といった。「かいつぶり」のことは、「ミホドリ」とも、「ニホドリ」ともいう。
「任那」は、「ニンナ」と書いて、「ミマナ」と読む。「壬生」は、「ニンブ」と書いて、「ミブ」と読む。「壬生(みぶ)」の人たちは、皇子・皇女の扶養にあたる。
「狗奴国」について、上代文献中の関連地名をあげれば、下表のようになる。
「狗古智卑狗」の関連地名「菊池(くくち)」をあわせて考えるならば、「狗奴国」という地名からは、「邪馬台国=九州説」のほうが有利といえよう。
狗奴国は、熊本県など九州南部にあったとする説は、江戸時代の新井白石以来、明治以後の白鳥庫吉、内藤湖南、井上光貞、小林行雄など、歴代の碩学(せきがく)によってとなえられてきた説である。
古代の郡名以上の大地名で、『魏志倭人伝』の記述に関連するとみられる「くま」と「くくち」との両方が、そろって存在している地域は、「肥後の国(熊本県)」以外に存在していない。
「狗奴国=肥後熊本説」は、他の諸説にくらべ、文献学的、考古学的根拠を、もっとも多くあげることができ、可能性がもっとも大きい説であると考える。
新井白石(1657~1725)は、江戸時代前期~中期の儒者、大学者である。
新井白石は、その著『古史通或問(こしつうわくもん)』(1716年成立。『新井白石全集』第三所収)の中で述べている。
「其(そ)の(女王国の)南に狗奴国ありと見えしは『日本紀』にみえし熊県(クマアガタ)、後に球磨(クマ)とも球麻ともいいて肥後に隷(れい)せし(属する)郡名」
「また其の官に狗古智卑狗ありというは、菊池彦(ククチヒコ)というがごとくにして、即(すなわ)ち今肥後国(ひごのくに)菊池郡をしれる(治める)人に似たれば、・・・・」
なぜ、伊都国に女王の墓をつくったのか・・・・
(1)女王の出身地であった説---高島忠平
(2)交通路の近くにつくり、威信効果を考える。
(3)盗掘などへの防備