■『邪馬台国への”道”が分かった』[京大工.SE 木本博(きもとひろし)著 新潮社2022年刊]P377から
本来は文献学者が解決すべき問題だったのですが、それができなかったために考古学者の参入を誘引し、多くの学者に無駄な努力をさせてしまいました。
それでも、参入初期の考古学者には、文献を尊重する態度があったと考えられます。つまり、有史時代の歴史の解明には、考古学は文献学を補助する立場である、という自覚があったと思われるのですが、最近の考古学者にはその意識が薄れているように思われます。
文献学者と同様に、考古学者の場合も初期の学者とその後の学者では目的や視点がすり替わっているように思われます。そのために考古学は迷走を繰り返してきたのですが、今度は近頃の考古学で起きた出来事を見ていくことにします。
そこで特筆すべきことは、何と言っても旧石器捏造事件(きゅうせっきねつぞうじけん)でしょう。
旧石器時代ですから文献とはまるで関係のない時代の話ですが、これはゴッドハンド(神の手)と呼ばれた藤村新一氏が、事前に古い地層に石器を埋め込み、それを自分で掘りだすという自作自演の遺跡捏造事件でした。この捏造によって、日本の旧石器時代は70万年前まで遡ることになり、特に東北地方で発掘狂騒曲が鳴り響いていました。ところが、二十世紀がまさに終わろうとしていた平成12年(2000)11月5日の毎日新聞朝刊に、藤村氏が石器を埋め込んでいる現場をとらえた衝撃写真が掲載され、捏造が明るみに出ます。これで発掘狂騒曲は突然の終焉を迎えます。捏造遺跡を載せた中学高校の検定済み歴史教科書はボツとなり、日本の考古学は世界中に大恥を晒すことになりました。
当然、日本考古学協会は調査委員会を立ち上げ、藤村氏が関わった遺跡のすべてを捏造と断定し、対策を講じました。これによって発掘現場の透明性は一変し、今では捏造は不可能とされています。
このような不祥事が起きた場合は、外部の第三者に調査を委ねるのが常道です。しかし、考古学協会は身内の考古学者で調査委員会を構成しました。そのため、学会の上層に位置する学者たちの意識改革には踏み込めずに終わってしまったようです。
当時の考古学者は、一介の石器愛好家に過ぎなかった藤村氏のこんな単純な捏造を見抜けなかったばかりか、例えば千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の元館長の佐原真氏(1932~2002)は、藤村氏の発掘成果を自身の著書で盛んに紹介しています。
佐原氏が奈良国立文化財研究所埋蔵文化財センター長時代の1987年に著した『大系日本の歴史1日本人の誕生』[小学館]の14~17頁で、後に藤村氏による捏造と判明する遺跡に関して、「馬場壇(ばばだん)A遺跡の金字塔」と題して次のように書いています。
「1986年(昭和61)8月のある夕べ、仙台湾の東、宮戸島の宿で夕食をとっていた。発掘にあたっている学生諸君といっしょで華やいだ雰囲気である。たまたま隣にすわっていた環境生化学の中野益男(なかのますお)氏が、私に、「馬場壇A遺跡の石器からシカと、イノシシに似ている脂肪酸が出ましたよ」とささやく。ゾッとするほどの緊張におそわれた。そして、この「イノシシに似ているもの」が、二日後に、ナウマンゾウと呼ぼれるゾウと判明することになる。(中略)私たちが宮戸島の晩餐で現生動物ではイノシシにいちばん近いと聞いた動物の正体が、脂肪酸組成でナウマンゾウと一致することを電話で知らせる中野氏も、奈良でそれを受ける私も感激でふるえんばかりであった」。
と、このように感動体験を語り、1994年の『発掘を科学する』[岩波新書]では中野益男氏の「脂肪酸が示す世界」という文章を掲載しています。今では、中野氏が検出したというナウマンゾウの脂肪酸は、藤村の手脂(てあぶら)だったのだろう、ということになっているそうです。なお、この引用文の中略部分の中で、北海道十勝支庁広尾郡にあった忠類村(ちゅうるいむら)[現在は中川郡幕別町(まくべつちょう)の一部]で1969年にナウマンゾウの全骨格が見つかり、牙と肋骨の問に液状の脂肪酸がビーカー一杯分ほど残っていたことが紹介されています。
また、1999年の『大昔の美に想う』[新潮社]では、60万年前とされた宮城県上高森(かみたかもり)遺跡で藤村氏が掘り出した石器を口絵に使い、「日本最古の美意識」と題して次のように解説しています。
「浅くくぼめた穴に美しい石が並んでいます。赤い鉄石英(てつせきえい)、緑の碧玉(へきぎょく)、半透明の緑の玉髄(ぎょくずい)製の石の刃物(石器)五つをTの字に並べ、珪質頁岩(けいしつけいがん)の靴ベラ型石器十個でUの字に囲んでいます。六十万年前の高森原人は、私たちに共通する美意識をもっていました。美しさに感動する心の歴史は古いのです。
これを見出した藤村新一さんらは、T字の五つを男の性器、U字の十個をそれをつつみこむ女切性器と解読しました」。
残念ながら、その写真は大人の事情でお見せできませんが、私にはどこがTで、どこがUか分かりませんでした。しかし、いくらナンでも、こんなに下品で強烈なオヤジギャグは私には思いつけません。藤村氏に脱帽です。それにしても、考古学ではこのような下ネ夕学説を時おり見かけますが、これは欲求不満のモヤモヤを募らせたオヤジ学者の妄想説だと思います。今ならセクハラで訴えられそうですが、それをそのまま紹介し、しかも「日本最古の美意識」と解説している佐原氏の審美眼もスゴすぎます。
もう一つ例を挙げると、捏造発覚の4か月前(2000年7月)に出版された『要説日本歴史』[東京創元社]で、佐原氏は第一章「日本列島のあけぼの」を執筆し、ここでも、日本には60万年前に原人がいた、と解説しています。
なお、佐原氏は、分かりやすく考古学を語って人気を博し、吉野ヶ里遺跡の保存にも尽力し、実に多方面で活躍された方です。引用した文章から、佐原氏が無類の善人であることが分がります。しかし、そこには研究者に必要な客観性と論理性は感じられず、伝聞を鵜呑みにして極めて情緒的かつ短絡的に結論を出しています。原因分析の立場からは、非常に残念に思います。しかし当時は、日本の旧石器時代がどんどん古くなっていくことが、不思議とは思われなかった時代です。後に捏造と断定される遺跡は教科書にも記載されるほど定説化しており、学会だけでなく遺跡の地元にもそれを期待する雰囲気があったと聞きます。佐原氏は善人ゆえに、雰囲気に流されやすい人だったのでしょう。
前節の文献学でも定説の怪しさと危うさを指摘しましたが、定説とは、学会の権威者や世相が醸(かも)し出す感覚的で非論理的な雰囲気から生まれ、皆がそれに違和感を感じなくなっていくうちに、皆をマンドコントロールする掟として成長していく物のようです。
佐原氏は奈良国立文化財研究所から歴博に移り、1993年から副館長、1997年からは館長に就任します。佐原氏は国立の研究機関の要職を歴任するわけですが、佐原氏のように藤村氏を称賛する学者がほとんどだった中で、捏造発覚以前から、藤村氏らの旧石器遺跡に対して疑問を呈した真っ当な研究者も、ごくわずかながらいました。
しかし、考古学会の大物が捏造遺跡を称賛し続けたことで、正しい批判者が学会内でどのような立場に置かれたかは、門外漢の私にも容易に想像できます。
また、歴博は佐原氏を始め畿内説の考古学者が集まる東の牙城で、歴博は旧石器捏造事件発覚から1年も経たない平成21年(2009)5月28日に、邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡(まきむくいせき)内にある箸墓(はしはか)古墳の築造年代が、「卑弥呼の死亡年代と一致した」と発表します。
笠井新也の「箸墓=卑弥呼の墓」説を新しい手段で補強したわけですが、新しい手段とは炭素14年代法です。歴博は出土した土器に付着していた炭化物をこの方法で測定し、箸墓古墳の築造年代を240~260年としたのです。本当なら卑弥呼の死亡年代と重なりますが、これには九州説論者だけでなく、畿内説の研究者からも批判や疑問の声が相次ぎました。
炭素14年代法について詳しくは書けませんが、これは遺跡から出た炭化物などの遺物に残存する放射性炭素の数を測定して、遺物が何年前の物かを判定するものです。
炭素は普通、陽子6個と中性子6個の原子核を持ち、その原子量は12です。しかし、自然界には中性子の数が異なる原子量13と14の同位体がわずかに存在します。このうち、原子量14(陽子6個、中性子8個)のものはベ-タ線(電子)を放出して窒素(陽子7個、中性子7個)に変化していくので、放射性炭素と呼ばれ14Cと表記します。遺物の元となった動植物は、生存時には二酸化炭素(CO2)の形で当時の大気中の14C濃度と同じだけ14Cを体内に取り込んでいますが、死んだら14Cの吸収は止まり、14Cは時間とともに減少していきます。14Cの半減期は約5730年なので、遺物の14C数が分かれば、その動植物が死んだ年(生存時期)が現在より何年前だったか(BP年代:Before Presentの略)が分かるという仕組みです。
しかし、大気中の14C濃度は常に一定しているわけではありません。14Cは大気に宇宙線が作用して生成されるものなので、太陽の黒点活動の影響を受けます。つまり、過去の14C濃度は年によって変化しているので、BP年代を較正(こうせい)(補正)曲線というものに当てはめて実年代(暦年代)を求める必要があります。このため、歴博は土器編年を基にした較正曲線を作成し、実年代を240~260年としたのです。
歴博の発表内容は同年6月8日の毎日新聞夕刊が、「波紋を呼ぶ歴博発表」と題して分かりやすく解説しています。その記事に示された較正曲線(下図参照)から歴博発表の実年代(240~260年)を求めるには、BP年代は1800年であったと考えられます。
ところが、BP1800年が示す実年代は歴博発表の三世紀中頃だけではなく、三世紀末から四世紀初め頃にもあります。しかし、そちらは無視されているので、歴博の発表は恣意的ではないか、という批判が噴出するのは当然でした。
しかも、歴博はそれに先立つ平成15年(2003)に、やはり炭素14年代法によって、弥生時代の開始年代を従来説より500年繰り上げて前十世紀とする説を発表していました。さらに、平成27年(2015)には稲作開始年代がさらに500年遡るという説を発表しました。弥生時代の始まりは、歴博によって10年余りの間に1000年も古くされたのです。
歴博は古代の年代をひたすら古くしようとしますが、これは手段が手埋めから炭素14年代法に変わっただけで、旧石器捏造事件と同じ病根から発した現象ではないでしょうか?
しかも、稲作年代遡及説において主導的役割を果たしたと自認する歴博の教授兼副館長氏は、2015年出版の著書の中で、炭素14年代法について次のように説明しています。
「どうして炭化物を測定すると年代が分かるのだろうか。難しいが少しおつきあい願いたい。生物は呼吸したり栄養を摂取する(食事)際、外界から二酸化炭素という形で炭素を取り入れている。炭素の中には化学的性質を異にする三つの炭素[同位体(どういたい)という]がある。炭素12・13・14である。これらは電子の数が異なっており、順に六・七・八個の電子をもっている」(藤尾慎一郎著『弥生時代の歴史』「講談社現代新書」6頁。太文字筆者)
高校の物理を普通に学習した人なら、この文章には二つの誤りがあることに容易に気づくでしょう。
同位体の化学的性質は同じで、異なるのは中性子の数です。
注:このページ下部のコラム2「炭素14年代測定法の基本原理」参照
同位体の性質も理解していない人物が、一般の国民にはブラックボックスの炭素14年代法を用いて弥生時代をひたすら古くし、箸墓古墳の年代も卑弥呼の死亡年に届かせようとしているのです。私はこれを読んだ時、目の前にスダレ状の黒い線がかかるのが見えました。すぐに正気に戻りましたが、滅多なことでは怒らない私も思わず、「金返せ!」と怒鳴ってしまいました。しかし、冷静にこの文章を読むと、「難しいが少しおつきあい願いたい」とわれわれ一般人を笑わせてくれているので、これは副館長氏一流のギャグだったようです。
ところで、歴博は佐倉城趾の一角にありますが、ここには「城壁の中の懲りない面々」が集まり、邪馬台国研究の邪魔大国として君臨しているのです。
……失礼しました。このオヤジギャグのために、歴博について長々と引っ張ってきたのですが、先に藤村氏の強烈なギャグを紹介したので、こちらがつまらなくなってしまいました。
しかし、「箸墓=卑弥呼の墓」説は所詮、畿内説という親ガメの上に乗った子ガメ孫ガメに過ぎません。親ガメがコケたら子ガメも孫ガメもコケます。そもそも、卑弥呼の墓を前方後円墳と思い込むのは考古学者の職業病が生み出した妄想で、実にお粗末なガク説でした。
以上が、 木本博(きもとひろし)氏の本からの抜粋。
ここで、炭素14年代測定法では、その年代推定や誤差のつけ方などにおいて、統計学や数学が用いられいるにもかかわらず、統計学的、数学的議論を行っている日本語文献が、意外にすくない。私のわかる範囲で、若干そのような議論を行っておく。(北海道大学の教授であった数学者、吉田知行氏の「だいたいよさそうである」とのご意見を頂いた。)
注:このページ下部のコラム1「測定値の平均値と誤差の重みづけについて -統計学などに興味をもつ方に-」参照
■費用対効果のバランスが悪すぎる
この研究費について、数理考古学者の新井宏氏は、『東アジアの古代文化』2008年春・135号に掲載された論文「炭素年による弥生時代遡上論の問題点(再論)」のなかで、つぎのようにのべている。
「歴博は平成十六年から二十年の五年間にわたり、総額四億二千万円の『学術創成研究費』を得て、『弥生農耕の起源と東アジア-炭素年代測定による高精度編年体系の構築-』の研究を推進している。
一般の科学研究補助金が古代史と考古学を合わせても年間四億五千万円程度なのと比較すれば、極めて重要視されている研究である。」
また歴博研究グループの西本豊弘氏の名で発行されている『弥生農耕の起源と東アジア-炭素14年代測定による高精度編年体系の構築-』(平成16年度~平成20年度 文部科学省・科学研究費補助金学術創成研究費研究成果報告書、2009年刊)に、下の表のような形で研究経費がのっている。
合計で、5憶4千万円をこえる。だが、歴博年代論の精度は、統計学的年代論などの精度にくらべて、あまりにも低い。
そのため、「歴史」に関係する事象の客観的解明のためではなく、あらかじめもたれているかたよった見方の宣伝のために、炭素14年代法の名が用いられ、公金が費消されているようにみえる。国費の浪費権を与えているようなものである。
遺跡の緊急調査とそのトリアージ(重要度による振分け)なし、執筆者以外だれも読まない報告書、考古学者の数、それに対し小中学校の教員不足である。
同志社大学の教授であった考古学者の森浩一(1928~2013)は述べている。
「ぼくはこれからも本当の学問は町人学者が生みだすだろうとみている。官僚学者からは本当の学問は生まれそうもない。」
「今日の政府がかかえる借金は、国立の研究所などに所属するすごい数の官僚学者の経費も原因となっているだろう。」(以上、『季刊邪馬台国』102号、梓書院、2009年)
「僕の理想では、学問研究は民間(町)人にまかせておけばよい。国家が各種の研究所などを作って、税金で雇った大勢の人を集めておくことは無駄である。そういう所に勤めていると、つい権威におぼれ、研究がおろそかになる。」(『森浩一の考古交友録』[朝日新聞出版、2013年]
これは率直にして、かつ、きわめて深刻な意見である。森浩一は、見聞きした経験にもとづく本音を述べている。
以下、私が拙著『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』(宝島社新書)の中で述べている文章。
「箸墓は卑弥呼の墓である。つい最近、こんな説が新聞やテレビのニュースで大々的に報道されるや、大騒動(もはや話題となっているなどというレベルではない)となり、それはいまも続いている。
いったいなぜ、こんな大騒動か起きたのだろうか。
千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館[平川南(みなみ)館長。以下、歴博と略す]の研究グループが、「炭素14年代測定法」という「科学的な方法」を用いて、奈良県桜井市にある箸墓古墳が、ほぼ邪馬台国の女王卑弥呼が死んだとされる西暦240~260年ごろに築造されたことが推定できた、と発表した。
ところが、このような「推定」が科学的には成立しえないとするデータや根拠が、他の研究機関や研究者から、同じく炭素14年代測定法を用いて、すでにいくつも報告されている。ただそのような報告は、マスメディアで報じられていないだけである。
いま、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」という仮説を「歴博仮説」と呼ぶことにしよう。すると、歴博仮説は成立しえないという、歴博仮説に対する明確といってよい反証が、いくつも挙げられる。どうも他の機関や研究者が、歴博の研究グループの一連の炭素14年代測定法の研究結果に対して、有力な反証や批判を提出するたびに、この種の騒動が意図的に引き起こされているようにみえる。(注:旧石器捏造造事件も同じ)
歴博の研究グループは、反証や批判が報告されると、その反証を押し潰すためにマスメディアを巧みに動員しているのではないか? 歴博仮説にとって有利な結果がまたも得られました、と大報道に持ち込むことによって批判や反証を封じようとしているのではないか? こんな疑念が研究者たちの間で広がり、波紋は大きくなりつつある。
マスメディアでの華やかな大宣伝のすぐあと、2009年5月31日、早稲田大学で歴博の研究グループは、「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」説を強い確信の言葉とともに述べた(発表者は春成秀爾氏を中心とするメンバーである)。
ところが、その発表の司会者で、日本考古学協会理事の北條芳隆東海大学教授が、そのとき、報道関係者に次のような「異例の呼びかけ」を行ったことを、『毎日新聞』が報じている。
「会場の雰囲気でお察しいただきたいが、(歴博の発表が)考古学協会で共通認識になっているのではありません」(『毎日新聞』6月8日付夕刊)
そして、北條教授はその後、白身のヤフーのブログで次のように記している。
「私がなぜ歴博グループによる先日の発表を信用しえないと確信するに至ったのか。その理由を説明することにします」
「問題は非常に深刻であることを日本考古学協会ないし考古学研究会の場を通して発表したいと思います」
「彼らの基本戦略があれだけの批判を受けたにもかかわらず、いっさいの改善がみられないことを意味すると判断せざるをえません」
「歴博発表」は信用できない、これは事情をよく知る学者、研究者たちの間で広がりはじめている共通認識のようにみえる。
それは、歴博研究グループが発表した際の会場の雰囲気や、続出した質問などからもうかがえる。ここで、「続出」という言葉を用いたが、これは私の判断ではなく、『毎日新聞』も「会場からはデータの信頼度に関し、質問が続出した」と報じている(2009年6月1日付)。
「旧石器捏造事件」(2000年11月5日、『毎日新聞』が旧石器の捏造をスクープした)が起きた際、国士舘大学イラク古代文化研究所の大沼克彦教授は、強い言葉でこう警告している。
「私はマスコミのあり方に異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には研究者の意図的な 報告を十分な吟味もせずに無批判に、センセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率至上主義に起因するのだろうが、きわめて危険な傾向である」(立花隆編著『「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』朝日新聞社、2001年刊)
この言葉は、ほぼそのまま、今回の騒動にもあてはまる。「年代捏造」という、第二の旧石器捏造事件であるといえるのではあるまいか。
マスメディアは、論理的な検証の報道よりも、「箸墓は卑弥呼の墓である」などというセンセーショナルにみえるものに飛びつきがちである。そしてマスメディアで大きく報道されると、一般の人は思わず、「そうか、邪馬台国は畿内で決まりか」と信じてしまう。マスメディアが歴博に踊らされているという構造、状況は、旧石器捏造事件とよく似ており、同じような失敗、そして予想もできないような展開がまた繰り返されようとしているように思える。私たちは、再現性のないデータ(他の人がたどったのでは同じ結果の得られないもの)による、虚説の流行を許してはならない。
宮城県栗原市の築館の上高森(かみたかもり)遺跡が六十万年前、埼玉県秩父市の小鹿坂(おがさか)遺跡が約五十万年前の前期旧石器時代の遺跡と報道したのは、ついこの間のマスメディアであった。
しかし、それらは「空中楼閣」であった。藤村新一氏らの「発見」する旧石器に対する小田静夫氏、竹岡俊樹氏ら考古学者の疑問の声を、事前にまったく取り上げなかったのも、マスメディアであった。わずかに『毎日新聞』のみがこの少数派に耳を貸し、検証した。
私たちは、ついこの間起きた事件も教訓にしないようであってはならない!」
以上『「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く!』から。
■古墳時代の年代論に、炭素14年代法は役立ちうるのか
『季刊邪馬台国』111号、梓書院、2011年刊 「箸墓年代の歴博正式論文批判」新井宏氏による。
「この2009年5月の概報については、学会講演以前にマスコミによって大々的に報じられ、邪馬台国論争と絡んで大波紋を呼んだものであるが、学術発表の内容についても批判が相次いだ(安本2009b、新井2009b、関川2009、白石2009、新納2009)。
そもそも、弥生末期から古墳初期の時期は、炭素14年代の較正曲線に「平坦部」や「うねり」があり、原理的に八十年以下の精度で求めることなどできないはずなのに、ピンポイントに西暦240~260年と報告したからである。」
「内容をチェックすると、グラフの横軸、すなわち較正年代は「型式の範囲内であれば、較正曲線に合う形」に任意にプロットしているし、土器形式判定の一部も原報告から変えられているし、不都合なデータはプロットされていないなど、恣意的な取り扱いが多く、学術報告としての条件をまったく満たしていないのである。」
「炭素14年代の測定結果など、ほんの「さしみのツマ」、あるいは「小道具」としてしか使われていないのである。いわば「始めに結論ありき」の議論である。」
「土器付着炭化物の炭素年代が古くでていることについては、再三再四警告してきている。それにもかかわらず今回も同じことを書かなければならないのは、筆者にとっても食傷気味であり、しいて言えば苦痛である。」
「歴博のように、考古学を研究する公共機関であるならば、如何にしたら土器付着炭化物から信頼できる炭素年代を得ることができるかの基礎研究こそ優先させるべきである。膨大な費用をかけて、炭素年代を測定しても、結果的に使えないデータばかりであれば、まったく有害無益なのである。
■炭素14年代測定法の問題点
(1)最終の西暦年推定値の分布幅が大きい
試料数をふやしたり、あるいは、カウント数(放射性炭素14の数を直接計測する。その数)をふやすなどして、年代推定の途中段階の炭素14年代BPの誤差(分布の幅)を小さくしても、較正曲線のゆれのために、最終の西暦年数の推定値の分布の幅がひろがり、較正後の西暦年数の誤差は、容易には小さくならない。
たとえば、『国立歴史民俗博物館研究報告』の第163集(2011年刊)をみると、合計で10例の「布留1式期の土器付着炭化物」の測定値がのっている。その10例の測定値のカウント数による加重平均を(私が)算出すると、1762±9となる。全体の計測数が大きく増加するので、およそ1700年以上昔の話で、炭素14年代BPの値の誤差は、わずかに、9年である。2倍の幅(プラスマイナス合計で36年の幅)の中に、全体の95%がはいることになる(下の図の縦軸の分布)。
ところが、これを較正すると下の図の横軸の分布のようになるのである。つまり、西暦年数の推定値の分布(横軸の値)で、約95パーセントをおさめさせようとすると、その幅は、西暦245年から337年まで、およそ90年ていどにひろがるのである。
私のばあい、BP年代の加重平均をとり、測定値を安定させるようにしたうえで(BP年代の誤差の大きさが小さくなるようにしたうえで)、較正をし、議論をしようとしているが、歴博研究グループは、個々の測定値を出したままなので、きわめて統一性に欠けている。バラバラの年代データであるので、横軸の幅は、100年代以上に、容易にひろがる。
大金を費消し、とにかく数多く測定し、バラバラのデータの中から、みずからがあらかじめもっている仮設にあう年代をとりだし、マスコミ発表を行っているようにみえる。
以上みてきたように、炭素14年代測定法によるとき、最終の西暦年の推定値の分布の幅は、一般にかなり広い。
なお、私のばあいデータをさまざまな形で分類し(土器付着炭化物か、桃核か、庄内様式期のものか、布留式土器の時代のものか、など)、分類グループの加重平均を私の方で算出し、較正は、株式会社パレオ・ラボ(下の図参照)に依頼した。また、測定年代の西暦年の大略の代表値としては、分布の中央値(メディアン)を用いることとし、その算出も、パレオ・ラボに依頼した。
分布の中央値は下のグラフ参照。
(2)「土器付着炭化物」は年代が古くでる
歴博研究グループは、主として、土器に付着する炭化物[焦(こ)げ、煤(すす)]によって、炭素14年代測定を行っている。しかし同じ遺跡から出土したものでも、「土器付着炭化物」は、クルミや桃の核(種の固い部分)にくらべて、年代がかなり古くでる傾向があることが知られている(下の表参照)
箸墓古墳の築造年代も「土器付着炭化物」で測定すれば3世紀となるが、桃の核で測定すれば、4世紀となり、卑弥呼以後のもとなる。
(3)同じ遺跡から出土した同一土器年代の「土器付着炭化物」の炭素14年代測定値が、大きく異なることがある
下の二つの表をご覧いただきたい。その差は、測定誤差の範囲をこえている。
測定誤差40年などの2倍の範囲をとっても、たがいに重ならない。あきらかに、統計学的に意味のある差(有意義)がみとめられる。
このようなことがあるため、個々のデータのままでは、見通しが悪くなり、ともすれば、研究者が、あらかじめもっている仮設にとって、つごうのよいデータだけをとりあげがちとなる。
また、下の表二つを見くらべるならば、「土器付着炭化物」の炭素14年代測定値によるばあい、「布留0式古相」と「布留1式期」との土器年代の違い(「布留0式古相」→「布留0式新相」→「布留1式期」)を検出できていないようにみえる。
(4)土器編年の年代差を弁別しえない例について
以上は、個々の試料の例であるが、個々の試料の例ばかりでなく、試料グループとしてみても、「土器付着炭化物」では、土器編年による相対年代を弁別しえないことがある。
いま、「布留1式期」と「布留2式期」とをとりあげ、その「土器付着炭化物」による測定値を比較してみよう。
『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集には、総数で10例の「布留1式期の土器付着炭化物」と、3例の「布留2式期の土器付着炭化物」についての「炭素14年代測定値」がのっている。グループとしての比較を行うために、それぞれの「カウント数」にもとづく加重平均を算出すると、下の表のようになる。
上の表をみると、つぎのようなことがわかる。
(a)炭素14年代BPでは、年代の古いはずの「布留1式期」の年代が新しくなり、年代が新しいはずの「布留2式期」のほうが、古くなっている。
つまり土器編年による年代順と炭素14年代BPとの順が逆転している。
(b)較正後の西暦年数の中央値は、ともに298年で、たまたまぴったり一致している。また、布留2式の年代が西暦298年を中心とする年代になるのは、歴博研究グループが依拠する寺沢薫氏の編年代とあっていない。古くなりすぎている(寺沢薫氏の4世紀編年年代については、下の右表の寺沢薫氏による編年参照)。
このように、「土器付着炭化物」による炭素14年代測定値では、土器編年による年代差をまったく弁別しえていない。
(5)庄内式土器の年代が古くなりすぎる
歴博研究グループが、箸墓古墳の年代をもとめたのと同じく、「土器付着炭化物」によって、庄内式土器の年代を求めると、その値が、考古学者たちが、ふつうに考えている年代よりも100年ていど、古くなりすぎるようにみえる。
『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集には、総数で10例の「庄内式期の土器付着炭化物」についての炭素14年代測定値がのっている。
その10例について、カウント数にもとづく加重平均を算出すると、1916±8となる。これを較正して西暦年数の分布を求め、さらに代表値として中央値を求めると、西暦115年となる。この値は古すぎるようにみえる。ほとんどの考古学者が、みとめることが困難な年代であろう。考古学者は、庄内式の時期を西暦200年以後と考えているからである(下の二つの表参照。なおこれらの表において、「庄内式」という語と「200[年]」「300[年]」という数字を、四角でかこんだのは安本)。
歴史民俗博物館の研究グループは、土器様式の記述において、寺沢薫氏の理論にもとづくものを用いているが、寺沢氏じしん、庄内様式期の年代を、西暦200年以後としているのである(下の右表参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
(6)下の年代データからのつみあげが示されていない
なんらかの理由により、炭素14年代測定法以外のデータにより、たとえば古墳築造年代などが、ほぼはっきりしているものがある。
たとえば、銘文のある鉄剣を出土した埼玉(さきたま)稲荷山古墳(埼玉県)や、継体天皇の真陵とみられる今城(いましろ)塚古墳(大阪府)などである。
そのような古墳から出土した土器などについて、歴博研究グループの方法を適用したばあいに、正しい年代がえられるというようなデータのつみあげが欲しい。そのようなチェックデータが示されないまま、これは、炭素14年代測定法で測定した結果であるから信じてくださいといわれても困る。
数理考古学者の新井宏氏は、その著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房、2007年刊)のなかで、中国のほぼ年代が確定している陵墓などから出土している遺物について、炭素14年代測定データの結果を示している遺物について、炭素14年代測定データの結果を示し、年代が、平均で200年以上古くでていることなどを示しておられる(いずれも、西暦紀元前の遺跡から出土した遺物)。
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以上のようにみてくると、歴博研究グループの炭素14年代測定法は、個々バラバラのデータをとりあつかい、みずからが望む任意の年代をとり出すことのできる方法となっているようにみえる。
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■正しい推定年代を得るには、・・・・
では、炭素14年代法によったのでは、正しい推定値はえられないのであろうか。
そんなことはない。正しく用いれば、正しい推定年代が得られるようにみえる。
以下では、そのような例を示そう。
以下では、年代が古く出がちな「土器付着炭化物」以外の、信頼できるとみられるデータを用いる。
そのようなデータは、いずれも奈良県立橿原考古学研究所から出ている『箸墓古墳周辺の調査』と『ホケノ山古墳の研究』とにのっている。
寺沢薫氏によれば、ホケノ山古墳は、庄内様式期の築造であるという。箸墓古墳は布留0式期の築造であるという。ホケノ山古墳のほうが時代的が古く、箸墓古墳のほうが、年代的が新しいことになる。
ところが、ホケノ山古墳から出土した小枝試料、箸墓古墳から出土した桃核試料についての、炭素14年代測定法による年代測定値は、この寺沢薫説を支持していない。データを示せば、下の表のようになる。
この表をみれば、二つの古墳の築造年代の推定値は、ホケノ山古墳が大略西暦369年前後、箸墓古墳が大略西暦298年前後となっている。寺沢薫氏の説とは逆に、ホケノ山古墳の築造年代のほうが新しくなっている。
そして、ともに、卑弥呼の時代よりも、50年~100年あとの時代となっている。
ただ、ホケノ山古墳からは、布留式土器の指標とされる小形丸底土器が出土している。
このようなことから、橿原考古学研究所の所員であった考古学者の関川尚功氏はホケノ山古墳も箸墓古墳も布留1式期の築造とする。
関川尚功説にしたがえば、寺沢薫説にしたがったばあいの矛盾はきえる。
ホケノ山古墳出のおよそ12年輪の小枝試料(2例)、箸墓古墳出土の布留0式期古相からの桃核試料(2例)、箸墓古墳出土の布留1式期の桃核試料(1例)をすべて、布留1式期のものとみて、これらの加重平均を算出すれば、下の表のようになる。
築造年代推定値の中央値は西暦364年である。いっぽう、『日本書紀』によれば、箸墓古墳は、第10代崇神天皇の時代に築造された、と記されている。
これまで、「邪馬台国の会」でしばしば述べてきたように、古代天皇の1代平均在位年数にもとずく推定法によるばあい、崇神天皇の活躍年代の推定値が、西暦356年を中心とする年代となる。
この値は、さきの箸墓古墳の築造時期364年と8年ほどの違いがあるが、かなり近い値ということができよう。
また、東大の考古学者、斉藤忠氏や関川尚功氏が、箸墓古墳の築造年月を、西暦350年ごろ以降としておられるのと合致している。
以上から、すくなくとも、箸墓古墳の築造年代についての歴博研究グループの出した推定値が、炭素14年代測定法にもとづく唯一の答えでないことは、ご理解いただけるであろう。歴博研究グループは、箸墓古墳の築造年代を、ほぼ100年は、古くみつもりすぎているようである。
■灌漑式水田稲作(弥生稲作)は、ほんとうに、紀元前10世紀後半まで、さかのぼるのか?(歴博研究グループ説)
前の方で示した「土器付着炭化物は、クルミ・桃核などより、年代がどれだけ古くでるか」の表を、今一度ご覧頂きたい。
「土器付着炭化物」で測定した推定年代と、「クルミ・桃核」で測定した推定年代との中央値の差は、年代がさかのぼるほど大きくなる傾向がみとめられる。
この表のNo5の北海道江別(えべつ)市の対雁(ついかり)遺跡に着目してみよう、
(1)「土器付着炭化物」で測定したばあいの推定年代中央値・・・紀元前1091年
(海洋リザーバ効果はみられない)(この値は、紀元前10世紀にかなり近い)
(2)「クルミ」で測定したばあいの推定年代中央値・・・紀元前455年
(1)(2)の差は、636年。弥生稲作の起源も、歴博説より636年以上さげなければ、いけないのではないか。(長江下流域の呉越の紛争と滅亡のころ、その流民が、日本に水田稲作を伝えたとする説あり。)
そして、呉の滅亡BC.473年、越の滅亡BC.334年である。「倭は、呉の太伯の後」(『魏略』)の記述がある。これは、呉越の戦いのころと関係があるのか?
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コラム1
測定値の平均値と誤差の重みづけについて -統計学などに興味をもつ方に-
いま、かりに、炭素14年代測定法により、同じような二つの試料を同じような条件で測定した結果、炭素14年代BPとして、1710±20(年)と、1730±30(年)との、二つの値が得られたものとしよう。
この二つをまとめて表現したいときにはどうしたらよいであろうか。
単純に考えれば、1710と1730との平均をとって、1720 そして20と30との平均をとって、25 よって、
1720±25(年)
としたいところである。
しかし、じつは二つをまとめれば、計測数が多くなったことになり±α(アルファ)などの誤差は、もとの±20と±30のいずれよりも小さくなる。
また、1710と1730も、測定を行なったときの計測数(計数、カウント数。測定装置を一定時間稼動させて、炭素14の原子の数を計った値)が異なっており、そのカウント数を考慮したうえで、カウント数による重みをつけて、加重平均を求めたほうがよい。
そしてカウント数がどれだけであったかは、±αの誤差の大きさにより、求めることができる。
誤差の絶対値のαは、カウント数が大きくなれば小さくなり、カウント数が小さくなれば、大きくなる。
たとえば、名古屋大学年代測定資料研究センターの中村俊夫(なかむらとしお)氏の文章「放射線炭素法」(長友恒人編『考古学のための年代測定法入門』〔古今書院刊〕、所収)のなかに表1のような表(統計誤差とそれを達成するに必要な14Cの総計数)がのっている。
表1の下の[安本註]に記したように誤差の絶対値をα、カウント数をnとすれば、つぎの式がなりたつ。
表2のようなモデルケースのばあい、カウント数を考慮すれば全休の平均値1710年につく誤差は、プラスマイナス22年となる。
同様にして、表3、纏向古墳群の「桃核」または「桃核型の若い年代を示すもの」について、誤差を求めれば、プラスマイナス10年(計算の結果は、9.96年)となる。
炭素14年BPにつく誤差
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・コラム2
炭素14年代測定法の基本原理
炭素の同位体の炭素12・13・14は電子の数は6個で変わらない。変わるのは中性子の数で、6個、7個、8個である。
炭素はとこにでも存在する。現在、環境汚染が問題になっている炭酸ガスは炭素と酸素の化合物であるし砂糖は炭素と酸素と水素の化合物である。動植物の構成要素であり、エネルギー源である炭水化物も、炭素と酸素と水素からなる。タンパク質を構成するアミノ酸も炭素をもつ。
形は異なるが、石炭もダイヤモンドも炭素の塊といえる。炭素をもたない生物はいない。
炭素原子の粒(つぶ)も、ほかの原子の粒と同じように原子核と電子とからなる。
わかりやすいのは、原子核と電子とを、太陽とその周りを巡る惑星にたとえる太陽系原子模型である(下の図参照)。
原子核は、太陽のように原子の粒の中核をなす。原子核は陽子と中性子とが結合してできている。
ところが、炭素としての性質はまったく変わらないのに、原子核を構成する中性子の数の多い炭素と少ない炭素とがある。
そのため、原子の粒の重さ(正確には質量数)の異なる炭素がある。炭素の大部分、およそ99%を占めるのは、重さ「12」(陽子6個、中性子6個)の炭素である。炭素全体の1%ほどを占めるのが、重さ(陽子6個、中性子7)の炭素である。そして、ほんのごくわずか、炭素12の一兆分の一ほどを占めるのが、重さ「陽子6個中性子8個)の炭素である。
重さの異なる原子を、同位体という。重さ12、13、14の炭素は、炭素の同位体である。以下、これらを「炭素12」「炭素13」「炭素14」と呼ぶ。
この三つの炭素のうち、炭素14だけは放射線[β(ベータ)線]を出して壊れていく。そして、別の物質の窒素に変わってしまう。炭素14が壊れて窒素になっていく速さは、その炭素がおかれた環境に関係なくほぼ一定である。およそ5730年で、元の量の半分になる。放射性元素の原子数が、崩壊により半分に減るまでの時間を「半減期」という。
炭素14の半減期は、5730年である。5730年たったのちに、さらに5730年たてば元の量の半分の半分で、四分の一になる。さらに5730年たてば元の量の八分の一になる。
したがって、元の炭素14の量がわかっていて、現在の炭素14の量がわかれば、その間に経過した時間を求めることができる。
しかし、地球上のすべての炭素14がこのような経過をたどれば、やがて地球上から炭素14がなくなってしまうはずである。
ところが、たえず新しい炭素14が作られ、補給されている。地球の大気圏の上層で、宇宙から放射線(宇宙線)が降り注ぎ、その働きで地球の大気中で、新しい炭素14が作られている。
炭素14の崩壊する速さと作られる速さとは、だいたいはバランスがとれている。そのため大気中の炭素14がなくなることはない。ただ、大気中の炭素14の量(正確には濃度)は一定ではないことが明らかになっている。
植物は光合成(こうごうせい)を行なう。光のエネルギーを用いて、二酸化炭素(炭酸ガス)と水分を取りいれ、無機物から有機化合物を合成している。かくて、大気中の炭素14は、植物に固定される。
動物は植物を食べる。あるいは、植物を食べた動物を食べる。
生物が生きているとき、生物中の炭素14の量は、大気中の炭素14の量と同じである。
生物が死ぬと、新しい炭素は取り入れられなくなる。炭素14も取り入れられなくなる。死体中の炭素14は崩壊していくだけである。
したがって、現在残っている炭素14の量を測れば、そこから、その生物が死んだ年代、つまり、生物が新しい炭素を取り入れなくなった年代を求めることができる。
もし、大気中の炭素14の量(濃度)がいつも一定なら、現在生きている生物の炭素14の量と生物遺存体の炭素14の量とを比較すると、その生物が死んでから現在までの経過年数を、原理的には知ることができることになる。しかし、過去の大気中の炭素14の量は一定ではない。
生物が死んだときに、もともとあった炭素14の量がはっきりとはわからないのである。もしそれがわかれば、現在残っている量から、崩壊して失われた量を求めることができ、それに対応する経過年数を求めることができる。
大気中の炭素14の量(濃度)が一定ではない。したがって、もともとあった炭素14の量が正確にはわからないので、樹木の年輪の測定で得られた年代によって、ズレを修正する。この修正を較正(こうせい)[calibration(キャリブレーション)]という。
樹木は毎年、年輪を刻んでいく。その年輪にはその年の大気中に含まれていた炭素14と同じだけの量の炭素14が固定されていく。
年輪年代学を併用すれば、西暦何年に刻まれた年輪か(暦年代・実年代)を決定することができる。その年輪層に含まれている炭素14の量を測定することによって、炭素14の量と暦年代・実年代との関係が求められる。
過去の大気中の炭素の量(濃度)が一定であったという仮定のもとで、一応の年代「炭素14年代BP」といわれる値を、求め、さらに、それを、暦年代・実年代に換算修正していく。
「炭素14年代BP」の「BPには、「Before Present」(現在以前)の略とも、「Before Physics」(物理年以前)の略ともいわれ、1950年を基準とし、そこから何年さかのぼるかを、示す値である。
炭素14の量の測定には、誤差を伴う。また、炭素14の量で測定された年代(炭素14年代BP)と、暦年代・実年代との関係は、簡単な直線や曲線で表されるものではなく、凸凹(でこぼこ)をもち、波を打つような曲線である。
この凸凹の変動は、地磁気の変動、太陽活動、環境中の炭素循環の変化などに結びつけて説明されている。
なお、炭素14年代BPを求めるのに、炭素14年代の半減期として、5730年ではなく、5568年を用いることになっている。これは、かつて、半減期は5568±30(年)と考えられていた時代があったためである。その後、より正確には、5730±30(年)であることがわかった。5568年としていた時代のデータの蓄積もあり、5730年に変更すると、議論に混乱を生じるので、5568年を用いるのである。
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