邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる
内野9つの仮説
①倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる
②卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃
③長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説
④ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説
⑤狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)
⓺アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期
⑥高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと
⑦記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)
⑧3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大
(1)魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論・年表(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
・邪馬台国時代の統治は祭祀王と統治王の二頭体制であった
・神話時代は祭祀王(女王)の在位は長い(20~30年)
・神話時代は統治王の在位年数 7~10年
・神武天皇は邪馬台国直系・本流ではない。傍流日向王朝の流れで本家・台与の指示で東征したのではない
・ニギハヤヒは本家・台与の指示で東征した本流である
(2)倭国の大乱はなぜ起こったか?
・時期・・190年前後から、北部九州地域。全国的にも地域紛争が広がる(終結・210年卑弥呼15歳を共立)
・対象国・・奴国連合・(玄海海洋国家群奴国、伊都国、末盧国、不弥国、朝倉国)と周辺の邪馬台国連合(邪馬台国、狗奴国、投馬国、後半に出雲国参戦)との戦い
・原因・・タウポ火山の大噴火・気候変動、寒冷化、凶作での黄巾の乱の勃発し後漢王朝が弱体化。凶作、飢饉は日本列島に広がる
奴国、伊都国は中国王朝との交易権を持っていたが、周辺の国の不満が高まり大陸の交易権と土地、食料奪取の争いが始まった
「新羅本記」「十年(193年)六月倭人大饑。来求食者千余人」
混乱は全国的に広がり地域紛争になる。環濠集落、高地性集落が築造
・勝敗・・邪馬台国(イザナギ)、投馬国、狗奴国の勝利。
大陸との利権が奴国連合から邪馬台国に移管
・共立・・30か国がイザナギの子、卑弥呼(天照大御神=投馬国一族の出自)を共立
(3)なぜ卑弥呼に大月氏国王と同等な親魏倭王金印が送られたか?
長里と短里の謎(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
(4)ニニギの天孫降臨神話の疑問点
①なぜ天孫降臨地は出雲(葦原中つ国)でないか?
・記紀・・高天原のアマテラス、高木神(タカミムスビ)は「葦原中つ国」を平定(国譲り)したのでオシホミミに葦原中つ国を治めよと命じたが、出雲ではなく九州南部に降臨
・内野説・・天孫降臨時には出雲の国譲りはしてない。「国譲り」は卑弥呼の死後の後の、豊の国に遷都した台与の時代である。
②なぜ邪馬台国から遠い熊襲の不毛の空地(むなくに)、南九州に天孫降臨させたか?
・記紀・・南九州の高千穂の峰(霧島連峰)に降臨し鹿児島西部の最南端の笠沙の崎に着き宮を築く。
「ここは朝日の直刺す(タダサス)国、夕日の輝る国・・」
・内野説・・狗奴国との戦いで、延岡経由で熊本平野に入り、和平後は延岡に戻り、地元豪族(吾田=延岡)の姫、吾田津媛命(コノハナ)と婚姻、
その地から南へ向かって征服し日向王朝を築く。熊襲の地の平定は6世紀以降(4世紀後半景行天皇時代の九州行幸(戦争)は熊襲の地、入れず)
③オシホミミとニニギは親子か?
・記紀・・オシホミミに天孫降臨の命がでたがニニギが生まれたので願い出、変更した。ニニギは真床追衾(まとこおふすま)に包まって降臨した、
・内野説・・オシホミミ(本家)とニニギは親子でなく兄弟・義弟である(アマテラスの第二世代)天孫降臨伝説は戦争である
幼少では先導(戦争)できず。ニニギは明らかに成人。オシホミミは本家邪馬台国の直系相続者
(5)なぜニニギは天孫降臨したか?=天孫降臨は戦争
内野仮説・・魏志倭人伝の狗奴国記載の240年代後半ごろ
①狗奴国の戦いで邪馬台国は劣勢であった・・熊本北部は鉄器の出土が多い武装強国。 邪馬台国は魏に支援を要請した
②帯方郡から張政が来倭した
③247~8年頃に卑弥呼が死んだ
④張政は狗奴国との講和調整をしたが失敗した・・狗奴国有利の状況
⑤張政は矢部川、筑後川をはさむ交戦状況打破すべく戦略を立案した
⑥投馬国に支援要請をし、狗奴国への起死回生の側面攻撃案を立案
⑦投馬国は日田経由で高千穂に、ニニギ軍は船団で延岡(吾田)に上陸し高千穂で合流
⑧阿蘇山の南側を経由して、熊本、菊池川に侵入し形勢が変化した
⑨ 講和成立し狗奴国王(ヒコミコ)が王となった
⑩ 国乱れて数千人が死亡し30か国が話し合い卑弥呼の一族の台与を共立した
⑪ ニニギは延岡(吾田)で地元の豪族の娘コノハナサクヤ姫(吾田津媛)と婚姻
⑫ その後、ニニギ―ホオリーウガヤフキアエズの兄弟は日向の地を南下して領土を拡大した
「明治7年の明治天皇御裁可で日向三代の陵のすべてが鹿児島県にあるのは政治的結果であった。すべて宮崎県である」
⑬ニニギの子神武は叔父ウガヤとの不和で、新天地大和を少数で大和を目指した
(6)古事記神話は、古い年代から順番に書かれたのではなく同時進行型記述が含む
・古事記神話は、各物語完結型(編年体)でなくパラレル物語進行型(紀伝体的編年体)も含む
・古事記の神話はその構成上、時系列的に物語として記載されているが、歴史上の事実と年代順番は不明である
・実際は時系列ではなくパラレルに重複して進行したとみると魏志倭人伝との流れがうまく説明できる
・天の岩戸は晩年の卑弥呼の死と台与の再生の話(247年)
・スサノオの誓約と高天原追放→出雲征服は若年層時代(10代)日食と卑弥呼の死(53歳)
・出雲の国譲りはニニギの天孫降臨の後の台与の時代である(253年)。ニニギは出雲には天孫降臨できない
・編年代・・起こった出来事を年代順に期していく「年表」型。 紀伝体・・個人や国に関しての情報を纏めて記述
(7)古代天皇の父子継承率の謎 (神話時代から13代成務天皇まで父子直系相続と記載されている)
・出生年や在位年数、父子系譜や事績には創作や不明点があるが天皇名と代数は正しいとみる
・古代は、一夫多妻制の母系社会であり父子継承より、兄弟・異母兄弟・親族の継承が多い。
(弱い基盤での権力闘争、古代の生存年数など)
・父子継承率(安本美典)(安本美典資料より)
・神武~仁徳(93.8%、16人中15人)(記紀の神話では、古代は父子継承として記載・仲哀天皇のみ)
・ 5-8世紀20%
・ 9-12世紀48.5%
・13-16世紀51.7%
・父子継承率(内野試算)記紀では、イザナギからウガヤ、初代神武から13代成務天皇まですべて父子継承になっている
(記紀編纂者は天皇代数をいじらず、寿命の延ばしの操作をした)
・天皇の系譜は第13代成務天皇からは、かなり正確である(成務の後の倭の五王の時代)
・神武-成務(1~13代)は15% (推定) 直接の父子相続は垂仁、成務天皇のみ
・14代仲哀~50代桓武(35代9名)27.0%
・51代平城~88代後嵯峨天皇 55.3%
・119代光格天皇から126代令和天皇まで父子継承である(わずか200年前から)
(8)大和・纒向の3~4世紀の進展状況(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
・纒向は3世紀初めに出現し卑弥呼の時代は小・中集落の後進国であった
・4世紀の崇神、垂仁、景行天皇の纒向時代に大繁栄した
(9)邪馬台国から大和朝廷への拡大図(邪馬台国はその後どうなったか?)
①紀元前10世紀ごろから弥生時代にかけて日本列島に渡来系「農耕・海洋民」が先住縄文人と混合し全国に拡がる
朝鮮南部、九州では後の倭国百余国、三十国となる
②倭国大乱で勝利した女王国の版図と邪馬台国と争った 狗奴国(熊本県北・中部)の位置
③南九州の縄文系倭人、のちの熊・襲
④邪馬台国・傍系・ニニギは狗奴国との争いで天孫降臨し 日向王朝を興し宮崎県南部まで拡がる。日向三代
⑤3世紀末に神武兄弟は日向から東を目指し大和へ大和朝廷の礎を築く「始馭天下之天皇初めて国を治めた天皇スメラミコト)
⓺4世紀前・中の崇神・垂仁・成務天皇時代に畿内及び周辺(吉備・出雲あたりまで含む当時の日本列島の主要部)統合
四道将軍の領土拡大と租税確保と前方後円墳の築造、拡大 大和朝廷の確立。崇神天皇「御肇国天皇」の称号
⑦ 4世紀中(景行・仲哀)には九州中部から関東に及ぶ 大和朝廷ができ、景行時代に九州邪馬台国が併合された
景行天皇・ヤマトタケルの九州統合(九州邪馬台国時代の終焉)
⑧4世紀後半~5世紀神功、応神、仁徳時代の朝鮮半島侵出。 5世紀後半雄略天皇時代に東北から九州まで全国統一
植民地政策、政治、文化、言語の大和化と縄文+弥生+帰化人の列島内混血が進む
大和朝廷の植民地政策で領土が全国に広がり共通言語、宗教、民族、文化が融合したので民族紛争、宗教戦争が少なかった
一方、世界の国々では、現在でも、多くの言語、民族紛争、宗教戦争が起きている