TOP>活動記録>講演会>第413回 一覧 次回 前回 戻る  


Rev2 2023.10.29

第413回 邪馬台国の会
魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論
暴走する邪馬台国論争


 

1.魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論 会長 内野勝弘

邪馬台国時代100年を俯瞰してみれば日本古代の全体像が見えてくる

内野9つの仮説

倭国大乱の原因・・(タウポ火山大噴火181年→気候変動→黄巾の乱184年) 黄巾の乱が倭国の乱190年前後につながる

卑弥呼の年齢を推理・・通説は180年に15歳で共立248年没83歳だが、210年15歳共立 魏への使節44歳 死53歳頃

長里・短里説は司馬懿への忖度から・・洛陽から大月氏国16000里、洛陽から邪馬台国まで17000里と5倍引き延ばし説

ニニギ天孫降臨物語は狗奴国の戦いが神話化・・不毛の地、南薩摩へ降臨への疑問と日向・延岡経由の戦略的側面攻撃説

狗奴国は熊本県北・中部に位置する・・筑後平野の南、球磨川の北の熊本平野に存在し、九州南部は異種(後の熊襲)

アマテラス(卑弥呼)スサノオの誓約と天岩戸は30年の差・・誓約[うけい](出産)は高天原建国期で日食神話は晩年の死の時期

高天原神話、出雲神話、日向神話は順番完結ではない・・同時並行型神話で、出雲の国譲りは台与の時代のできごと

記紀の父子継承率100%は疑問・・古代天皇の父子継承率は10%前後、神話からの父子継承は垂仁天皇、成務天皇(13代)

3世紀の「大和・纒向」時代は後進国、4世紀に大発展した・・崇神、垂仁、景行の纒向時代に領土拡大


(1)魏志倭人伝・考古学・記紀神話から読み解く邪馬台国時代の年代論・年表(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)413-01


・邪馬台国時代の統治は祭祀王と統治王の二頭体制であった
・神話時代は祭祀王(女王)の在位は長い(20~30年)
・神話時代は統治王の在位年数 7~10年
・神武天皇は邪馬台国直系・本流ではない。傍流日向王朝の流れで本家・台与の指示で東征したのではない
・ニギハヤヒは本家・台与の指示で東征した本流である


(2)倭国の大乱はなぜ起こったか?
時期・・190年前後から、北部九州地域。全国的にも地域紛争が広がる(終結・210年卑弥呼15歳を共立)      

対象国・・奴国連合・(玄海海洋国家群奴国、伊都国、末盧国、不弥国、朝倉国)と周辺の邪馬台国連合(邪馬台国、狗奴国、投馬国、後半に出雲国参戦)との戦い

原因・・タウポ火山の大噴火・気候変動、寒冷化、凶作での黄巾の乱の勃発し後漢王朝が弱体化。凶作、飢饉は日本列島に広がる
奴国、伊都国は中国王朝との交易権を持っていたが、周辺の国の不満が高まり大陸の交易権と土地、食料奪取の争いが始まった
  「新羅本記」「十年(193年)六月倭人大饑。来求食者千余人」
  混乱は全国的に広がり地域紛争になる。環濠集落、高地性集落が築造

勝敗・・邪馬台国(イザナギ)、投馬国、狗奴国の勝利。
     大陸との利権が奴国連合から邪馬台国に移管

共立・・30か国がイザナギの子、卑弥呼(天照大御神=投馬国一族の出自)を共立


(3)なぜ卑弥呼に大月氏国王と同等な親魏倭王金印が送られたか? 長里と短里の謎(下図参照)
(下図はクリックすると大きくなります)413-02


(4)ニニギの天孫降臨神話の疑問点
①なぜ天孫降臨地は出雲(葦原中つ国)でないか?
・記紀・・高天原のアマテラス、高木神(タカミムスビ)は「葦原中つ国」を平定(国譲り)したのでオシホミミに葦原中つ国を治めよと命じたが、出雲ではなく九州南部に降臨

・内野説・・天孫降臨時には出雲の国譲りはしてない。「国譲り」は卑弥呼の死後の後の、豊の国に遷都した台与の時代である。

②なぜ邪馬台国から遠い熊襲の不毛の空地(むなくに)、南九州に天孫降臨させたか?
・記紀・・南九州の高千穂の峰(霧島連峰)に降臨し鹿児島西部の最南端の笠沙の崎に着き宮を築く。
「ここは朝日の直刺す(タダサス)国、夕日の輝る国・・」

・内野説・・狗奴国との戦いで、延岡経由で熊本平野に入り、和平後は延岡に戻り、地元豪族(吾田=延岡)の姫、吾田津媛命(コノハナ)と婚姻、
その地から南へ向かって征服し日向王朝を築く。熊襲の地の平定は6世紀以降(4世紀後半景行天皇時代の九州行幸(戦争)は熊襲の地、入れず)

③オシホミミとニニギは親子か?
・記紀・・オシホミミに天孫降臨の命がでたがニニギが生まれたので願い出、変更した。ニニギは真床追衾(まとこおふすま)に包まって降臨した、

・内野説・・オシホミミ(本家)とニニギは親子でなく兄弟・義弟である(アマテラスの第二世代)天孫降臨伝説は戦争である
幼少では先導(戦争)できず。ニニギは明らかに成人。オシホミミは本家邪馬台国の直系相続者


(5)なぜニニギは天孫降臨したか?=天孫降臨は戦争
内野仮説・・魏志倭人伝の狗奴国記載の240年代後半ごろ

狗奴国の戦いで邪馬台国は劣勢であった・・熊本北部は鉄器の出土が多い武装強国。 邪馬台国は魏に支援を要請した

②帯方郡から張政が来倭した

③247~8年頃に卑弥呼が死んだ

④張政は狗奴国との講和調整をしたが失敗した・・狗奴国有利の状況

張政は矢部川、筑後川をはさむ交戦状況打破すべく戦略を立案した

⑥投馬国に支援要請をし、狗奴国への起死回生の側面攻撃案を立案

⑦投馬国は日田経由で高千穂に、ニニギ軍は船団で延岡(吾田)に上陸し高千穂で合流

⑧阿蘇山の南側を経由して、熊本、菊池川に侵入し形勢が変化した

⑨ 講和成立し狗奴国王(ヒコミコ)が王となった

⑩ 国乱れて数千人が死亡し30か国が話し合い卑弥呼の一族の台与を共立した

⑪ ニニギは延岡(吾田)で地元の豪族の娘コノハナサクヤ姫(吾田津媛)と婚姻

⑫ その後、ニニギ―ホオリーウガヤフキアエズの兄弟は日向の地を南下して領土を拡大した
「明治7年の明治天皇御裁可で日向三代の陵のすべてが鹿児島県にあるのは政治的結果であった。すべて宮崎県である」

⑬ニニギの子神武は叔父ウガヤとの不和で、新天地大和を少数で大和を目指した


(6)古事記神話は、古い年代から順番に書かれたのではなく同時進行型記述が含む
古事記神話は、各物語完結型(編年体)でなくパラレル物語進行型(紀伝体的編年体)も含む

・古事記の神話はその構成上、時系列的に物語として記載されているが、歴史上の事実と年代順番は不明である

実際は時系列ではなくパラレルに重複して進行したとみると魏志倭人伝との流れがうまく説明できる

天の岩戸は晩年の卑弥呼の死と台与の再生の話(247年)

・スサノオの誓約と高天原追放→出雲征服は若年層時代(10代)日食と卑弥呼の死(53歳)

・出雲の国譲りはニニギの天孫降臨の後の台与の時代である(253年)。ニニギは出雲には天孫降臨できない

編年代・・起こった出来事を年代順に期していく「年表」型。 紀伝体・・個人や国に関しての情報を纏めて記述


(7)古代天皇の父子継承率の謎 (神話時代から13代成務天皇まで父子直系相続と記載されている)
・出生年や在位年数、父子系譜や事績には創作や不明点があるが天皇名と代数は正しいとみる

・古代は、一夫多妻制の母系社会であり父子継承より、兄弟・異母兄弟・親族の継承が多い。
(弱い基盤での権力闘争、古代の生存年数など)

・父子継承率(安本美典)(安本美典資料より)

    ・神武~仁徳(93.8%、16人中15人)(記紀の神話では、古代は父子継承として記載・仲哀天皇のみ)
    ・ 5-8世紀20%
    ・ 9-12世紀48.5%
    ・13-16世紀51.7% 

・父子継承率(内野試算)記紀では、イザナギからウガヤ、初代神武から13代成務天皇まですべて父子継承になっている
(記紀編纂者は天皇代数をいじらず、寿命の延ばしの操作をした)

・天皇の系譜は第13代成務天皇からは、かなり正確である(成務の後の倭の五王の時代)

・神武-成務(1~13代)は15% (推定) 直接の父子相続は垂仁、成務天皇のみ  

・14代仲哀~50代桓武(35代9名)27.0%

・51代平城~88代後嵯峨天皇 55.3%

・119代光格天皇から126代令和天皇まで父子継承である(わずか200年前から)


(8)大和・纒向の3~4世紀の進展状況(下図参照)

(下図はクリックすると大きくなります)

413-03
413-04

・纒向は3世紀初めに出現し卑弥呼の時代は小・中集落の後進国であった

・4世紀の崇神、垂仁、景行天皇の纒向時代に大繁栄した


(9)邪馬台国から大和朝廷への拡大図(邪馬台国はその後どうなったか?)

413-05

①紀元前10世紀ごろから弥生時代にかけて日本列島に渡来系「農耕・海洋民」が先住縄文人と混合し全国に拡がる
朝鮮南部、九州では後の倭国百余国、三十国となる

②倭国大乱で勝利した女王国の版図と邪馬台国と争った 狗奴国(熊本県北・中部)の位置

③南九州の縄文系倭人、のちの熊・襲

④邪馬台国・傍系・ニニギは狗奴国との争いで天孫降臨し 日向王朝を興し宮崎県南部まで拡がる。日向三代

⑤3世紀末に神武兄弟は日向から東を目指し大和へ大和朝廷の礎を築く「始馭天下之天皇初めて国を治めた天皇スメラミコト)

⓺4世紀前・中の崇神・垂仁・成務天皇時代に畿内及び周辺(吉備・出雲あたりまで含む当時の日本列島の主要部)統合
四道将軍の領土拡大と租税確保と前方後円墳の築造、拡大 大和朝廷の確立。崇神天皇「御肇国天皇」の称号

⑦ 4世紀中(景行・仲哀)には九州中部から関東に及ぶ 大和朝廷ができ、景行時代に九州邪馬台国が併合された
景行天皇・ヤマトタケルの九州統合(九州邪馬台国時代の終焉)

⑧4世紀後半~5世紀神功、応神、仁徳時代の朝鮮半島侵出。 5世紀後半雄略天皇時代に東北から九州まで全国統一
植民地政策、政治、文化、言語の大和化と縄文+弥生+帰化人の列島内混血が進む
大和朝廷の植民地政策で領土が全国に広がり共通言語、宗教、民族、文化が融合したので民族紛争、宗教戦争が少なかった
一方、世界の国々では、現在でも、多くの言語、民族紛争、宗教戦争が起きている

 

2.暴走する邪馬台国論争 主宰 安本美典

■筑波大学名誉教授中川八洋著『神武天皇実在論』の論評

今年(2023年)3月に刊行された『神武天皇実在論』(中川八洋著 ヒカルランド刊)がある。
413-06

中川八洋(なかがわやつひろ)氏略歴
1945年生。東京大学工学部航空学科宇宙工学コース卒、スタンフォード大学政治学科大学院修了。筑波大学教授。定年退官2008年。専門は国際政治学および英米系政治哲学・憲法思想ほか。皇位継承学に関連する著作には、『皇統断絶』『女性天皇は皇室廃絶』『悠仁〈天皇〉と皇室典範』『天皇「退位」式は皇統断絶』『徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇』等がある。英米系政治哲学の教科書『正統の哲学異端の思想』『保守主義の哲学』は、皇位継承学の基礎として必携。現在:筑波大学名誉教授

この本の中で、筑波大学名誉教授の中川八洋(なかがわやつひろ)氏は、東京大学の教授であった日本史家井上光貞(いのうえみつさだ)氏の著書『神話から歴史へ』(中央公論社刊)をとりあげ、つぎのようにのべる(文章の一部に傍線を引いたのは安本)。

狡猾で悪辣な人格の”過激共産革命家”の井上光貞の”赤い歴史改竄”の手口
話を井上光貞に戻す。邪馬台国(九州)説など噴飯物で、学問的に決して成立しないのは小学生でもわかる。九州には、それらしき場所も遺跡も発見されていない。『魏志倭人伝』は「邪馬台国は大和国」と断じており、読むに悩む箇所は一つも見当たらない。そこで、正気も良心もないダーティー一路の井上光貞は、あらん限りの真赤な嘘をデッチアゲた
その一つが、”大和説の巨頭”和辻哲郎が31歳のときの「九州説」を、二頁にわたって延々と引用し絶讃する(注6、284~5頁)。学説は、文系理系を問わず、全世界共通に最終のをもってその学者の説とする。和辻は『日本古代文化』の1920年初版を、50歳になった1939年、改稿し百八十度逆の「大和説」に転向(注7)。これは、1951年の再版でも同じ。
井上光貞が、『神話から歴史へ』で、『日本古代文化』を引用し和辻哲郎の邪馬台国論を論じる場合、1951年版を使うこと以外、学界では許されない。が、凶悪な共産革命家の井上光貞には良心がなく、恥じることなく学界のルーツを全面無視。」
(安本注。本や論文の価値は、その本や論文じたいにある。本や論文執筆時の筆者の年齢によるのではない。データ、証拠、論証などの面から検証が行われ、後世の人によって評価が定まる。)

「もう一つ。前述した榎一雄の妄想的法螺話「伊都国が日本の中心」に基づく、行程を大改竄するトンデモ曲読を、井上はこれまた二頁半も使って紹介している(注6、260~2頁)。だが、榎の大改竄に従えば、投馬国(出雲)。の方が、(水行十日の)邪馬台国(大和)より、水行二十日だから)、起点のはるか遠くに位置し、辻褄が合わなくなる。しかし、”大嘘つきの赤いペテン師”井上光貞は、「榎一雄の解釈に従えば。邪馬台国は筑後川の山門郡、投馬国は宮崎県の西都原あたりだ」と開き直って無反省(注6、266~7頁)。井上光貞の鉄面皮は日本一
「魏の使節団は、「呼子→伊都国」から”大和朝廷の都”までのルートを、図1と確定した。魏の皇帝に報告するルートの探索だから、『魏志倭人伝』の行程記述は真剣一色。」
「一方、井上光貞は、邪馬台国の都に行くルートは九州をぐるりと時計回りに一周して、「伊都国から宮崎県の西都原に行き、それから筑後川の下流域(=邪馬台国の都)に戻る」と主張する。これではお笑い芸人の悪ふざけよりひどい。井上光貞とは、歴史学者としては完全な狂人。共産党員、共産主義者は人類史上最も凶悪な狂人ルソーやレーニンを礼拝する狂気のカルト邪教信者。”狂人”井上光貞もその一人。

井上光貞が好例だが、邪馬台国《九州》説で、論理破綻していないのは一つもない。邪馬台国《東遷》説に至っては、論理破綻以前。二歳幼児の戯れに等しい。」

”日本の敵”の中に、偽装”民族系”の林房雄や、擬装”非左翼”の安本美典(安本注。なぜ、私が「日本の敵」なのか?その証明は?)がいるのを忘れてはならない。」
天皇制廃止一色の井上光貞は日本共産党員。安本美典は共産党員・南博の愛弟子(安本注。事実無根のデタラメ)。安本美典は”歴史捏造病の重症者”で「卑弥呼は天照大神」だと吹聴したり、高天原・日向三代・初期天皇の歴史を、四百年分ばっさり抹殺。・・・」

(安本注。私は「高天原」「日向三代」「初期天皇」などを抹殺などしていない。この三つのそれぞれについて、くわしく考察した本を出している。)

以上の中川氏の文章は、モラルハラスメント(倫理や道徳に反する嫌がらせ)の文例集のような文体と、いえまいか。
「本来の姿からかけ離れたイメージ形成を意図するレッテル貼りの文体」ともいえそうである。
レッテルを貼って、そのレッテルをあやつることによって、相手のイメージを自分の意のままにとりあつかいたい、という意図のようなものを感じる。

中川氏は、また述べる。
「安本美典の神武実在論は、スターリン狂(安本注。なんでここにスターリンがでてくる?)の赤色を無色透明化した高度擬装の極左
413-07

ここでは、右の表の右欄の掉尾(とうび)にある安本美典を取り上げる。狡猾な安本美典は、天皇制廃止(安本注。?)を目的として反語的に「神武天皇は実在する」を主張する詐言本『神武東遷』(1968年、中公新書)を書いた。彼は、神武天皇の「東遷」時期を、歴史事実より三百年ほど遅らせ、神武天皇を抹殺し(安本注。そんなことはしていない)、三百年間の天皇史=日本史の抹殺を図る
さらに、荒唐無稽”お笑い大嘘”「高天原が邪馬台国」「天照大神が卑弥呼」など、超・破茶滅茶を大パレードさせ、日本の古代史を徹底破壊する。次に、この”お笑い大嘘”がバレないよう、神式天皇が実在するかに見せる舞台装置もつくる。安本美典の著作を読む読者をして「神武天皇実在論がこんな破茶滅茶奇論狂説でしか証明できないなら、神武天皇は実在しないな」と、神武天皇実在を否定する方向に誘導するためである。(安本注。勝手な解釈、曲解)

「なお、安本美典の専門は心理学。博士号も心理学。彼の心理学の指導教官は、札付き共産党活動家・南博(コーネル大学Ph.D' 心理学)(安本注。事実無根のデタラメ)。心理学に長けた安本美典にとり、邪馬台国≪九州≫説のキャンペーンは、日本人読者騙しの心理学実験。安本美典の作品が、マルクス・レーニン主義の語彙を余り使わない(隠す)肝心深さも、読者騙しが目的だからだ。
歴史学では、天皇が崩御された年を「崩年」とする。が、共産党は1960年頃からこれを「没年」に改竄した。また、天皇の「譲位」「崩御」を、共産党はルイ十六世国王のギロチン崇拝から「退位」に改竄した。安本はこれを用いている(注1)。また、皇室もしくは天皇・皇族のことを、安本美典は共産党語「天皇家一族」と言う(注2)。さらに、天皇の崩御時のご年齢を正しくは「宝算」「聖寿」と言い、正語「宝算」しか叩き込まれていない私の世代より、さらに十歳以上も年上なのに、安本美典は共産党語「寿命」「享年」を使う(注2)。」
安本が共産党党員である証拠(安本注。事実無根)」

「が、これらは、安本美典が”隠れ共産党員″だと断じる証拠としては弱い。この故、安本美典はノンポリと目され、彼の下にかなりの数のファンが集結し、機関誌『季刊 邪馬台国』まで出せる人気ぶりを発揮。共産党語を少しに限定する安本美典の商売感覚は一流。
が安本美典は、読者騙しトリックや思想本籍を自らバラす、大ミスを犯した。”真赤な嘘”「神武天皇は実在しない」を古代史学界や小中高の学校教科書の絶対的な記述にした、”日本の古代史を破壊尽くした赤い悪魔”津田左右吉を絶賛するという大ミス。(安本注。絶賛などしていない。批判している)
「津田の(神武天皇ほか第九代までの天皇は創くり話)説は、それなりに十分な論理的根拠を持つものであった」「(私・安本美典は)津田左右吉の学問的成果を摂取しながら、今一度、現代の科学的方法論の立場から見直し洗練する」(注3、丸カッコ内中川)。
「神武天皇は実在しない」「高天原の話など、子供騙しのお伽噺」と嘲笑する津田左右吉の説を正しいとしながら(安本注。正しいなどとしていない)、それと百八十度逆の「神武天皇は実在する」「天照大神こそ『魏志倭人伝』の卑弥呼だ」を、安本は何冊も本を出してまでなぜ主張するのか。安本の本心が、「神武天皇は実在しない」「天照大神に、いかほどの歴史的事実もない」と考えているからだ(安本注。曲解、勝手な解釈)
安本美典は低学歴の京都大学文学部(心理学科)卒だから低いIQが特徴。」

「安本美典を研究する者などいないだろうが、奇矯な人物が現れるかもしれないので、助言しておく。邪馬台国論だけで約八十冊にもなる。」 
「安本美典の八十冊すべて、記紀を全破壊する爆発物。狂気の噴煙を上げる狂書。」

以上、『神武天皇実在論』から。

東大定年後も、おだやかにすごされた井上光貞氏が「狂人」とよばれるほど、精神に異常をきたされたとことは、100パーセントありえない。そのような人を「狂人」よばわりする中川八洋氏の精神状態のほうがよほど異常である。

安本美典は、「共産党員」で、「指導教官は、共産党活動家・南博などというのは全く根拠のないデタラメである。フェイクの情報である。私は共産党員ではない。また南博氏は一橋大学の教授で私は京都大学の卒業。大学の場所が違う。私の指導教官は京大の園原太郎教授である。

中川氏は、ふつうの市民生活を送っているはずの安本を「日本の敵」などという。
中川氏は、いつ、「日本」を代表し、代弁できる立場になったのか?

例をあげて、中川氏の不当な論法に反論して行こう。
「いかなる職業集団にも、知能検査を行うと、知的優秀者が、かならず存在する」というのは心理学における有名なテーゼである。
単調な仕事をくりかえす労働者の中にも、農業従事者の中にも、知能検査をおこなってみれば、かならず知的能力の高い人たちが存在する。
吉川英治氏は尋常高等小学校の中退者である。松本清張氏最終学歴は尋常高等小学校卒業である。中川八洋氏が、歯牙にもかけない低学歴の人たちといえよう。
しかし、吉川英治氏や松本清張氏は中川八洋氏がおよびもつかないような名声を博した。一世を風靡し、時代を画した。この人たちを、「低いIQ」といえるのか。
吉川英治氏や松本清張氏は「低学歴」という何百万人もの母集団から選びぬかれ、人の心のこまやかな機微をつかみうる点において、中川八洋氏などが思いもおよばない能力をもっていたからである。

吉川英治氏も松本清張氏も、その広く深い学識からみて、条件さえあたえられていれば、大学に進みうる能力を、十二分にもった人たちとみられる。家庭の条件とか、住んでいる場所からくる制約などのためにその人の能力にふさわしい学歴をえられないケースは多い。
吉川英治氏、松本清張氏においての、その「学歴の低さ」は、軽蔑の対象とされるべきものではない。よくその条件でと、畏敬の対象とされるべきものである。

人をその業績で判断せず。みずからを、なんらか理由をつけて高みにおき、他に軽蔑のことばをあびせる。これはふつうの教養をもつ人のすべきことではない。

中川八洋氏にいわせれば。高校中退という「低学歴」の将棋の藤井聡太氏は、たとえ、名人上手に買っても、「大変勉強になりました。」といって頭をさげている。その様子などをみれば、中川氏は、この世において、何を学んだのだろうと思う。

いっぽう、インターネットのアマゾンの読者書き込み欄などは、ボクシングなどを見るのと同じ感覚で、過激な発言を応援する人などもでてくる。すると支持されたと思い、表現がますます過激となる。
かくて無用に人と社会とを傷つけ、混乱させることとなる。書いていることに、フェイク(虚報)がはいってくるからだ。
歯止めのない自由空間では、フェイクにも表現の自由が与えられる。
これでは進化がない。行きつまる。

私は、中川氏に強くいいたい。
「中川氏がどんな人生を歩もうと、基本的には、中川氏の自由である。ただ、普通に頑張っている人の足を引っ張るのだけはやめてほしい。」

「データや 証拠 や 論証に基づいて」主義ではなく、「あの肩書きの人が言ったから」「あの立場の人が言ったから」の「属人主義」になれば。検証が抜けるのみで、みんなでまちがえるようなことになる。
しっかりと、データや証拠や論証を確認する習慣を身につけよう。

  TOP>活動記録>講演会>第413回 一覧 上へ 次回 前回 戻る