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第412回 邪馬台国の会
「西晋鏡」は、福岡県を中心に分布する
「邪馬台国北部九州説」六つの証明、その3


 

1.「西晋鏡」は、福岡県を中心に分布する(「西晋鏡」までと「西晋鏡」から)

「西晋鏡」前後の二大激変
西晋鏡は年代論の鍵(法則を見出す方法)
(下図はクリックすると大きくなります)

412-01

・燕の国(?~西暦紀元前222年滅亡)系の鏡
(燕の国は周の時代におきた国)
●「多鈕細文鏡」
「多鈕細文鏡」は、わが国において、最初に出現する青銅鏡である。
12面出土している。
燕の国は、中国の春秋戦国時代の国で、現在の北京付近から遼東半島にわたる地を領した。
「多鈕細文鏡」は、2個または3個の鈕(ちゅう)[つまみ]をもつ。
(下図はクリックすると大きくなります)412-02
(下図はクリックすると大きくなります)412-03


・前漢の国(紀元前206年~紀元後8年)系の鏡
●「草葉(そうよう)文鏡」「星雲文鏡」「異体字銘帯鏡(照明鏡・日光鏡・清白鏡など)」
39面のうち36面(92パーセント)が、北九州から出土している。
元伊勢籠神社に伝えられた鏡の中にある。
(下図はクリックすると大きくなります)
412-04

 

・おもに後漢の国(紀元後23年~紀元後220年)系の鏡
●「雲雷文内行花文鏡(雲雷文連弧文鏡)」
元伊勢籠神社に伝えられた鏡の中にある。
(下図はクリックすると大きくなります)412-05

 

・大略魏の国(西暦220年~265年)のころ、ほぼ邪馬台国の時代に、わが国で作られていたとみられる鏡
●「小形仿製鏡第Ⅱ鏡」
この鏡の出土数は、かなり多い。当時、魏の国では、銅原料が不足していた。仿製鏡(ぼうせいきょう)は中国の鏡を日本で模倣して造った鏡のことを指す。「第Ⅱ型」は、小形仿製鏡の分類型式名の整理番号である。
小型の仿製鏡について、考古学者の森浩一氏はつぎのようにのべる。
「『長宜子孫』(長く子孫によろし)という銘を書きました内行花文鏡が後漢の後半の代表的な鏡ですが、それが北九州での三世紀ごろと推定される墓から点々と出ております。しかし、中国鏡だけではとても、すでに広がりつつあった鏡に対する愛好の風習はまかないきれないとみえまして、北九州の社会では、(中略)邪馬臺国がどこかにあった時代に、直径が8センチ前後の小型の銅鏡を多量に鋳造しています。」(「語りかける出土遺跡」[『邪馬台国のすべて』朝日新聞社刊所収])

合計125面出土
(下図はクリックすると大きくなります)

412-06

 

甕棺または、箱式石棺から出土しているものだけについて、甕棺から出土しているか、箱式石棺から出土しているか、という形で統計をとると、下の表のようになる。
412-07 
この表の補足:「小形仿製鏡第Ⅱ型」についてのデータは、高倉洋彰氏の論文「弥生時代小形仿製鏡について」(『季刊邪馬台国』32号、1987年刊)によった。田尻義了著『弥生時代の青銅器生産体制』(九州大学出版会刊)にのせられている「小形仿製鏡集成表」によらなかった。これは、田尻義了氏の著書では、「石棺」とのみ記されているものが、「箱式石棺」(数枚の板石を組みあわせる)なのか、「箱式石棺以外の石棺」なのか、区別がはっきりしないためである。なお、高倉洋彰氏は、論文「弥生時代小形仿製鏡について」(『考古学雑誌』第70巻、第3号、1985年)でも、『季刊邪馬台国』所載のものと同様の表を示しておられる。ここでは、発表年度の新しい『季刊邪馬台国』のものによった。

この表をみれば、「小形仿製鏡第Ⅱ型」が「甕棺」よりも「箱式石棺」から出土する傾向が強いことは明らかである。
そして、「箱式石棺」が、ほぼ邪馬台国時代の墓制とみられることは、すでに前回(6月の第411回)の邪馬台国の会でのべたところである。412-08

 

・弥生時代の鉄鏃の県別分布
鏡ではないが、これまでの鏡の県別分布と似た県別分布を示すものはすくなくない。
『魏志倭人伝』に倭人は「鉄の鏃(やじり)」を用いると記されている。
弥生時代の「鉄の鏃」について、「鏡」の場合と同じようなグラフを作れば、右図のようになる。
やはり福岡県を中心とするような分布を示す。

 

 

・箱式石棺の県別分布
箱式石棺が、ほぼ邪馬台国時代の墓制であることは、前回(6月の第411回)の邪馬台国の会でのべた。
2015年に、茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博(もぎまさひろ)氏の著書『箱式石棺(付、全国箱式石棺集成表)』(同成社刊)が出版されている。
茂木氏の本の「全国箱式石棺集成表」では、「弥生前期」「弥生中期」「弥生後期」「古墳前期」「古墳中期」「古墳後期」などにわけて統計がとれる形で、データが整理されている。
データ数がかなり多いので、「弥生後期」の箱式石棺について、県別分布を調べれば、下の図のようになる。
広島県からの出土数がめだつが、福岡県がトップであることは、これまでの図で示したところと変わりがない
(下図はクリックすると大きくなります)

412-09

 

・大略西晋時代(265年~316年)にあたるころ、わが国でおこなわれていた鏡
●「位至三公鏡」と「双頭竜鳳文鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」「夔鳳鏡(きほうきょう)」など
西晋時代の代表的な鏡は、「位至三公鏡」である。

「位至三公鏡」と同じく、「いわゆる西晋鏡」ともいえるものに、「蝙蝠(こうもり)鈕座内行花文鏡」「夔鳳鏡(きほうきょう)」などがある。これらの三種の鏡には、つぎのような共通性がある。

(1)中国では、おもに、西晋時代の墓から出土している(いくつかの墓誌が出土しているので、埋納年代がわかる。下の方ににある「洛陽西晋墓出土の鏡の種類」の表、更に下の方にある「洛陽付近出土の「位至三公鏡」」の表など参照)

(2)中国でも、日本でも、これらの三種の鏡は、しばしば、同一の墓、または墓群から出土している。(下の方ににある「洛陽西晋墓出土の鏡の種類」の表を参照)。
「洛陽西晋墓」の出土鏡の状況は、そのような例のひとつである。

(3)わが国で出土する青銅鏡の測定の結果は、「いわゆる西晋鏡」よりも前の時代の鏡では、銅原料に、前漢時代以後すべて中国北部(華北)系の銅原料が用いられていた。それまで、わが国が外交関係をもった中国の王朝は、すべて中国北部に都をもつ王朝であったためとみられる。「いわゆる西晋鏡」の三種の鏡では、共通して、中国南部(華中華南)系の銅原料が用いられている。これは西晋が、280年に、中国南部の呉を滅ぼし、その結果、中国南部の銅が、西晋の都洛陽などに流れ込むようになった結果とみられる。

コラムⅠ
-------------双頭竜鳳文鏡と位至三公鏡---------------
①双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅほうもんきょう)
一つの体躯の両端に竜または鳳凰の頭がついている。これを一単位の文様とするとき、二単位(二体躯分)が、左右に描かれている。
一単位の二つの頭がともに竜頭のこともあれば、一方が竜頭、一方が鳳頭のこともある。「双頭・竜鳳・文鏡」と区切るべきである。
文様の基本は、S字形または逆S字形で、点対称。

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②位至三公鏡(いしさんこうきょう)
位至三公鏡は、「位は三公(最高の位の三つの官職)に至る」という銘のある鏡である。鈕をはさんで、上下に「位至」と「三公」の銘文をいれ、内区を二分する。
左と右とに、双頭の獣の文様を配する。獣の文様は、ほとんど獣にみえないことがある。小形の鏡である。中国では、後漢末にあらわれるが、おもに西晋時代に盛行した。
双頭竜鳳文鏡の系統の鏡である。双頭竜鳳文鏡にくらべ、獣の文様がくずれている。
また、双頭竜鳳文鏡では、主文様の外がわに連弧文があるが、位至三公鏡では、連弧文がないのがふつうである。

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コラムⅡ
-------------「蝙蝠(座内行花文鏡」「夔鳳鏡(きほうきょう)」-------

・蝙蝠鈕座内行花文鏡(こうもりちゅうざないこうかもんきょう)
「蝙蝠鈕座内行花文鏡」と「雲雷文内行花文鏡」(大分上の方にある「雲雷文内行花文鏡」の図を参照)とでは、共通性もある。すなわち、つぎのような共通性である。
(1)ともに「内行花文」をもつ
(2)ともに、しばしば「長宜子孫」などの銘がはいっている。
(3)ともに、鈕(まん中のつまみ)のまわりに、葉の形(スペードの形)または、蝙蝠の形をした文様をもつ。

しかし、つぎのような違いがある。
(1)「雲雷文内行花文鏡」では「雲雷文」と「松葉文」とからなりたつ「雲雷文帯」があるが、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」では、「雲雷文帯」がない。
(2)鈕座のまわりの文様が葉(スペード)の形から、蝙蝠形へ変化している。
(3)弥生時代以前出土の「雲雷文内行花文鏡」の銅原料には、北中国(華北)系銅原料が使用されているが、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」には、南中国(華中・華南)系銅原料が使用されている(鉛同位体の分析による)。
なお、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」では、ほぼかならず、「長宜子孫」などの銘がはいっている。

・夔鳳鏡(きほうきょう)
わが国では、写真のような文様をもつ鏡を、「夔鳳鏡」とよぶ。
「夔鳳鏡」の「夔」は「一本足の怪獣」のことである。むかいあっている二羽の烏が一本足で立っているようにみえることから、この名がある。しかし、中国では、この種の鏡は、「対鳳鏡」などと呼ぶ。 日本と中国とで、命名のしかたがことなっている。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-12

 

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・洛陽西晋墓出土の鏡から位至三公鏡が8面出ている
下の表「洛陽西晋墓出土の鏡の種類」参照。

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このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の『魏武帝の雑物を上(たてまつ)る疏(そ)[意見を述べた上奏分]』によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に ”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。」

当時、魏の領域では、銅材が不足し、日常用いる青銅鏡が、不足がちになっていたとみられる。そのため、魏の時代の墓に、青銅鏡が埋納されることも、すくなかった、とみられる。412-14

 

■中国出土の「位至三公鏡」の年代
上の方にある「コラムⅠ」に、「位至三公鏡」と「双頭竜鳳文鏡」の説明がある。
中国の秦・漢時代から南北朝時代までの、洛陽付近での考古学的発掘の、報告書類を集大成したものとして、『洛陽考古集成-秦漢魏晋南北朝巻-』(上・下、中国・北京図書館出版社、2007年)が発行されている。
また、洛陽付近から出土した鏡をまとめた図録に、『洛鏡銅華』(上・下、中国・科学出版社、2013年、岡村秀典監訳の日本語版は『洛陽銅鏡』)がある。
『洛陽考古集成』『洛鏡銅華』にのせられている「位至三公鏡」の類の鏡のうち、出土地 と出土年のはっきりしているものすべてを、表の形にまとめれば、下の表の洛陽付近出土の「位至三公鏡」のようになる。
なお、『洛鏡銅華』では、魏の時代の鏡の出土が少ない。

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これらは、すべて、洛陽付近から出土したものである。洛陽は、後漢・魏・西晋の時代に都であった。
『洛鏡銅華』には、「位至三公鏡」といえるものが、12面紹介されている。いずれも、「西晋」時代の鏡とされている。
西晋王朝は、これまでも紹介したが西暦265年~316年のあいだつづいた。すなわち、卑弥呼の時代のすぐあとの三世紀後半から四世紀はじめごろに存在した王朝である。

上の表(洛陽付近出土の「位至三公鏡」)をみると、次のようなことが読みとれる。
(1)「位至三公鏡」は、後漢晩期に出現している。

(2)この表の全部で27面の鏡のうち、後漢(25年~220年)時代のものは、1面のみで、魏(220年~265年)や西晋期のものが26面である。圧倒的に、魏や西晋の時代のものが多い。No2~9に記すように、「洛陽晋墓」のばあい、24面の出土鏡のうち、8面は、「位至三公鏡」である。「洛陽晋墓」では、西暦287年(太康8)、295年(元康9)、302年(永寧2)の、三つの墓誌がでていることが注目される。いずれも、西晋時代のもので、西暦300年前後である。

(3)西晋よりもあとの、南北朝時代のものとしては、双頭竜鳳文鏡系の「冝官」銘翼虎文鏡が1面、北朝(386年~581年)の鏡として、洛陽市郊区岳家村から出土している。ただし、これは、出土年がしるされていない(この鏡のことは、『洛鏡銅華』および『洛陽出土銅鏡』に記されている)。

「位至三公鏡」が、主として西晋時代のものであることは、洛陽付近以外から出土した「位至三公鏡」についてもあてはまる。
いま、近藤喬一(たかいち)氏(山口大学教授・考古学者)の論文「西晋の鐃」(『国立歴史民俗博物館研究報告』55集、1993年)にのっている「紀年墓聚成」の表にもとづくとき、年代の確定できる中国出土の「位至三公鏡」は、下の表[(洛陽付近以外)出土の「位至三公鏡」]のとおりである。412-16

この表のものに、上の方の表[洛陽付近出土の「位至三公鏡」]の「洛陽西晋墓」出土の8面の「位至三公鏡」を加えれば、年代のほぼ確定できる12面の「位至三公鏡」のすべてが、西暦285年以後に埋納されたものといえる。すべて、西晋時代のものである。

中国での、このような鏡の年代からみて、わが国から出土する「位至三公鏡」も、そのほとんどは、西暦285年以後ごろ、埋納されたもので、中国と日本との地域差、年代差を考えれば、西暦300年ごろ以後に埋納されたとみるのが穏当である。
そして、その「位至三公鏡」が、わが国においては、北部九州を中心に分布している。

この結果は、中国の西晋王朝と外交関係を持っていたのは北九州勢力であることを示す。

■鏡の「埋納年代」を知る重要な鍵「位至三公鏡」
国立歴史民俗博物館の館長であった考古学者で、亡くなった佐原真(1932~2002)は述べている。
「弥生時代の暦年代に関する鍵は北九州地方がにぎっている。北九州地方の中国・朝鮮関連遺物・遺跡によって暦年代をきめるのが常道である。」(「銅鐸と武器形青銅祭器」『三世紀の考古学』中巻、学生社、1981年)

そのとおりである。
奈良県からは、西暦年数に換算できるような年号を記した土器などは、まったく出土していない。
奈良県からは、弥生時代~庄内期の鏡が、福岡県にくらべ、はるかに、わずかしか出土していない。それにもかかわらず、奈良県の土器編年などをもとに、鏡の年代を考えるのは、非常な無理がある。
遺跡の築造年代や、遺物の「埋納年代」の手がかりを欠いたまま、空想をたくましくすれば、なんでもいえる。

亡くなった考古学者の森浩一氏は、のべている。
「最近は年代が、特に近畿の学者たちの年代が、古いほうに向かって一人歩きしている 傾向がある。」(『季刊邪馬台国』53号、1994年)
中国から出土しない「三角縁神獣鏡」と異なり、「位至三公鏡」などのいわゆる西晋鏡」は、中国からも、わが国からも、相当出土する。
そのため、「位至三公鏡」などは、わが国出土の青銅鏡全体についての「埋納年代」を考える上での、重要な手がかりを与えてくれる。

 

■わが国出土の「位至三公鏡」
わが国から出土した「位至三公鏡」(「双頭竜鳳文鏡」をふくむ)35面の出土地などの一覧表は、先出の拙著『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』(勉誠出版)に示した。  
わが国から出土した「位至三公鏡」については、次のようなことがいえる。
(1)中国で、おもに西晋時代に行なわれた「位至三公鏡」は、わが国では、福岡県・佐賀県を中心とする北部九州から出土している。奈良県からは、確実な出土例がない。

(2)「位至三公鏡」よりも、形式的にまえの時代の鏡(雲雷文「長宜子孫」銘内行花文鏡など。そのなかに、魏代の鏡がふくまれているとみられる)も、北部九州を中心に分布する。

(3)九州出土の「位至三公鏡」は、弥生時代の遺跡から出土しているものがあるが、九州以外の遺跡から出土した「位至三公鏡」は、まず、古墳時代の遺跡から出土している。九州以外の地の「位至三公鏡」は、九州方面からもたらされた伝世鏡(長い間、埋納されずに伝えられてから古墳に副葬された鏡)か、あるいは、踏みかえし鏡(もとの鏡から型をとって鋳型をつくった鏡)であるにしても、九州よりもややのちの時代に埋納された傾向がみてとれる。

(4)これらのことから、魏のあとをうけつぐ西晋の西暦300年ごろまで、鏡の出土分布の中心は一貫して北部九州にあったといえる。

(5)「位至三公鏡」よりも、形式的にも、出土状況も、あとの時代の「三角縁神獣鏡」などは、畿内、とくに奈良県を中心に分布する(「位至三公鏡」は、おもに、庄内式土器の時代の遺物として出土し、「三角縁神獣鏡」は、おもに、そのあとの布留式土器の時代の遺物として出土する)。

(6)「三角縁神獣鏡」は、確実な3世紀の遺跡からの出土例がない。4世紀の遺跡からの出土例がある。

(7)倭国は、西晋王朝と、外交関係があった。『日本書紀』の「神功皇后紀」に引用されているところによれば、西晋の『起居注』(西晋の皇帝の言行などの記録)に、西暦266年に倭の女王が晋に使いをだしたことが記されている(この倭の女王は、卑弥呼のあとをついだ台与であろうといわれている)。『晋書』にも、この年、倭人が来て入貢したことが記されている。[『日本書紀』は、卑弥呼と台与の2人に、神功皇后1人をあてている。これは、比定(ひてい)の誤りとみられている]
倭の使いが、外交関係にあった西晋の国から鏡をもたらしたとすれば、その鏡の中には、「位至三公鏡」がふくまれていた可能性が大きい。
「位至三公鏡」などのこのような傾向からみれば、西暦300年近くまで、中国と外交関係をもった倭は、北部九州に存在していたようにみえる。

これが第3番目の証明である。


■青銅鏡にみられる地殻変動的大激変
「いわゆる西晋鏡」が、中国でおこなわれた(墓に埋納された)時期は、洛陽西晋墓から出た墓誌に記されていた三つの年、大康八年(287)、元康九年(295)、永寧二年(302)や、その他の墓誌に記されている年からわかる。墓誌に記されている年で、現在知られているものはすべて、西晋時代(265~316)のうちの呉の滅亡した280年から、西晋が滅亡した316年のあいだにはいっている(上の方の表の『洛陽銅華』に写真が入っている鏡の数、洛陽付近出土の「位至三公鏡」、中国(洛陽付近以外)出土の「位至三公鏡」など参照)。

したがって、わが国で、「いわゆる西晋鏡」が行われた時期は、中国で行われた時期とほぼ同じか。輸入にともなう時間差を考えれば、そのすこしあとということになろう(285年~320年ごろか)。
わが国で出土する青銅鏡全体にみられる大きな地殻変動が、「いわゆる西晋鏡」が出土する時期をさかいとして起きている。
すなわち、つぎのとおりである。

・地殻変動的大激変の存在
「いわゆる西晋鏡」が行われた時期以前に行われた(埋納された)鏡は、すべて、福岡県を中心とする北部九州を中心として分布する。

それは、時期的にみれば、
(1)中国では、おもに、前漢(紀元前202年~紀元後8年)から、西晋(265年~316年)のころのものとして出土している遺物である。

(2)日本では、おもに、弥生時代・庄内期にかけてのころ、出土している遺物である。

(3)邪馬台国の時代も、この時期のうちに含まれる。このような状況は、邪馬台国が、北部九州にあったことを強く指し示す。

320年~350年ごろに大激変が起きる。以後、鏡などが、奈良県をはじめとする近畿を中心に分布するようになる。
それは、時期的にみれば、つぎのようものである。

(1)中国では、東晋(317年~420年)以後の時代にほぼあたる。

(2)日本では、古墳(前方後円墳)時代、布留式土器以後の時代に、ほぼあたる。

(3)大和朝廷が成立し、発展した時代にあたる。

以下では、その状況をみてみよう。

■大激変以後の状況
・中国長江流域系の鏡(わが国出土のものは、四世紀前半ごろから登場し、おもに、四世紀の遺跡から出土している)
●「画文帯神獣鏡」
「画文帯神獣鏡」は、わが国でも、150面以上出土する。中国中・南部の長江流域系の銅原料と文様をもつ。4世紀前半あるいは中ごろから登場し、おもに4世紀の遺跡から出土している。
中国でも、150面以上出土している。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-17

 

●「三角縁神獣鏡」
鏡の縁の断面が三角形になっている大型の鏡である。三角緑神獣鏡は、中国本土からは1面も出土していない。ただし、神獣の文様、鉛同位体比などは、長江流域系の流れを汲むものである。わが国では、「画文帯神獣鏡」よりも、すこし遅れて登場する。おもに4世紀の遺跡から出土している。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-18

 

・巨大前方後円墳
「巨大前方後円墳」も、「画文帯神獣鏡」や「三角縁神獣鏡」と同じく、奈良県を中心として分布する。また、「画文帯神獣鏡」や「三角縁神獣鏡」は、しばしば、巨大前方後円墳の中から出土している。
下の図に、全長100メートル以上と、全長80メートル以上の「前方後円墳」の県別分布を示した。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-19

古墳時代に出土する多くの遺物、たとえば、竪穴式石室の数なども、「巨大前方後円墳」と同じく、奈良県を中心に分布するとみられる。

 

■鏡が、わが国へ到達した二つのルート
青銅鏡の県別分布の中心が、北部九州の福岡県から、近畿の奈良県へとうつる。
(下図はクリックすると大きくなります)
412-20

日本と国交をもった西晋の国のころまでの鏡などが、すべて福岡県を中心に分布することは、西晋の国のまえの魏の時代の邪馬台国が北部九州にあったことを強くさし示す。
そして、西晋の国の存続期間は、西暦265年~316年である。したがって、わが国において、鏡の世界でのお地殻変動がおきたのは、西晋の国のあとの320年~350年ごろとみられる。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-21

 

「三角縁神獣鏡」は中国では確実な出土例が、まったく存在しない。
(下図はクリックすると大きくなります)

412-22

 

徐苹方氏の見解
中国社会科学院考古研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡(きほうきょう)・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。」(「三角縁神獣鏡の謎」角川書店、1985年刊)

ここは、「三角縁神獣鏡」などが含まれていないことに注意すべきである。

「大激変」は、大きくみれば、日本が国交をもった中国の国が、北中国(華北、西晋の国)から、南中国(華中・華南、東晋の国)に変わったことと対応している。
このことは、邪馬台国勢力の一部勢力、または重要勢力が、かりに東遷したとしても、なお北部九州に残存する勢力が、中国の西晋王朝と外交関係をもち、「いわゆる西晋鏡」を、西晋の時代(呉の滅亡の280年から、西晋の滅亡する316年ごろ)まで、輸入していたことを示している。

すなわち、西晋の時代の前の魏の時代(220~265)のころ、邪馬台国が北部九州に存在していたことを、示している。
鏡の世界にみられる地殻変動的大激変は、以下にのべるような歴史的な事実と呼応しているとみられる。

(1)『晋書』の「帝紀」の「武帝紀」[武帝は西晋の第1代皇帝司馬炎(在位265~290)]に、つぎのような記事がある。
「泰始二年(266)十一月己卯(五日)、倭人が来て方物(その国の産物)を献じた。」
また、『晋書』の「四夷伝」の「倭人条」に、つぎの記事がある。
「(倭人は)泰始(年間)のはじめに、使いをつかわし、訳を重ねて(Aの言語からBの言語へ、Bの言語からCの言語へと、通訳を重ねて)、入貢した(みつぎものをたてまつった)。
さらに、『日本書紀』の「神功皇后紀」の六十六年の条に、晋の起居注(天子の言行録)を引用したつぎの記事がある。
「(西晋の)武帝の泰初(泰始)二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて、みつぎものをたてまつらせた。」(この文の女王を卑弥呼の宗女、台与(とよ)にあてる見解がある。)
このように、倭国は、卑弥呼の没後に、西晋王朝と外交関係をもっていた。

「位至三公鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」などの「いわゆる西晋鏡」はこのような外交関係を通じて、わが国に流入したものであろう。上の方の地図「蝙蝠鈕座内行花文鏡」の分布と地図「位至三公鏡」の分布にみられるように、「位至三公鏡」「蝙蝠鈕座内行花文鏡」などの「いわゆる西晋鏡」の出土状況は、これらの鏡が、西晋の都洛陽から、北部九州にむけて動いているようにみえる。

このことは、280年の呉の滅亡以後の西晋の時代(280~316)まで、邪馬台国の後継勢力が、なお、北九州に存在したことを、強くさし示しているようにみえる。

このように、「いわゆる西晋鏡」は、北部九州に存在した邪馬台国の後継勢力と北中国の洛陽に都をもつ西晋の国との外交関係によって、日本にもたらされた可能性が大きい。

(2)これに対し、「画文帯神獣鏡」は西晋の国のあとの、南中国の建康(南京付近)に都をもつ東晋の国との外交関係によって、古墳時代に、わが国にもたらされた可能性が大きい。
初現の年代、わが国にもたらされた年代は、『いわゆる西晋鏡』の方が古く、『画文帯神獣鏡』のほうが新しいとみられる。
上の方の地図の「画文帯神獣鏡」の分布にみられるように、「画文帯神獣鏡」の出土状況は、東晋の時代(317~420)の四世紀後半ごろに、東晋の銅鉱山のあった鄂城付近から、わが国の、近畿にあった大和朝廷へむけて、鏡が動いているようにみえる。

上の方の地図「位至三公鏡」の分布、「蝙蝠鈕座内行花文鏡」、「画文帯神獣鏡」の分布との鏡の流入ルートの違いが、わが国の青銅鏡の歴史にみられる地殻変動的大激変と、対応しているようにみえる。
中国において、「いわゆる西晋鏡」は、おもに北中国から出土し、洛陽あたりから流出して、わが国の北部九州の福岡県あたりにいたる。
これに対し、「画文帯神獣鏡」は、おもに南中国から出土し、鄂城あたりから流出して、わが国の近畿の奈良県あたりにいたる。
このように、出発地(流出地)も、到達地も、異なるのである。
なお、わが国が、東晋の国と外交関係をもっていたことは、『晋書』の「(東晋の)安帝紀」に、「倭夷が方物を献じた。」とあることや、『南史』の「倭国伝」に「(東晋の)安帝のとき(在位396~418)倭王讃があった。使いを遣わして朝貢した。」とあることなどによってうかがうことができる。

 
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