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Rev2 2024.2.24

第415回 邪馬台国の会
安本先生:新井宏氏の業績
新井先生:鉛同位体比から見た弥生期の実年代など


 

1.新井宏氏の業績 安本美典先生

第2回「安本美典賞」贈呈式

415-20第2回目となる「安本美典賞」として、415-21安本美典賞選考委員会 代表内野 勝弘会長から新井宏先生へ表彰状と副賞が謹呈されました。

 

 

■新井宏氏の業績(安本先生講演)
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2023年に古代史の分野で、著名な方の本が、二冊刊行された。
一冊目は竹岡俊樹『考古学研究法』(雄山閣、2023年刊)である。
この本の下記の記事で新井宏氏の論文を紹介している。

新井宏は、歴博の正式論文「古墳出現期の炭素14年代」『国立歴史民俗博物館研究報告』第163集(春成2011)について、「基礎資料として、肝心な図に土器型式の表示がなく、炭素14年代と土器型式の対比表もない」と批判している[4]。
下図は、新井が報告書の14の「年代較正図」を要約したものである。
(下図はクリックすると大きくなります)415-01


そして、庄内1式、庄内3式、布留0式 布留1式、布留2式の「確からしい推定範囲」を上の図から読み取って下の表を作成する。
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各土器型式の時期はオーバーラップしていて、分離しているとは言えない。
しかも、肝心の布留0式期の炭素14年代のデータには西暦120年から340年までの幅がある(歴博年代は240 - 260年)。

さらに、新井は歴博の2011年の正式報告書にはデータの改変がみられると指摘している。
正式論文で庄内3式期として取り扱われた6件のデータの内、5件は原報告書では庄内3式期とはされてはおらず、また、纒向石塚については、原報告書で庄内1式期から布留0古式期という範囲で示されていた3件を、正式論文では庄内3式期と特定し、その上、原報告書で庄内0式期と特定されていたものまでも、庄内3式期と変えている。
さらに、箸墓年代推定の直接的な根拠とされた東田大塚の6件の資料についても、原報告書では布留0式期から布留1式期と記載されていた自然木、竹皮などを布留1古式期と限定している。もしこの資料が布留0式期とされていたなら、「箸墓築造年代が240年から260年」という結論は出せなかったはずである。

また、概報で取り上げられていた唐古・鍵の布留1期のデータは、正式報告では検討対象からはずされ、年代較正図の提示も行われていない。

さらに、今日まで、土器付着炭化物の炭素年代が樹木と同じように得られるということは検証されていない、と新井は述べている。

土器炭化物とその他の試料を用いたときの違いは、第26~28表(注:この表は省略)のようである[5]
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理由はいまだ明らかではないが、やはり土器付着炭化物の炭素14が他の試料と比べて50~100年古く出ていることが分かる。

[参考文献]
[1]新納 泉 2009 箸墓古墳の炭素14年代考『考古学研究』56 - 2
[2]新井 宏 2008 歴博の炭素14年をめぐる論理矛盾『季刊邪馬台国』第100号
[3]河崎貴一 2009/10/22「朝日新聞がミスリード・箸墓古墳 -奈良-「卑弥呼の墓」にダマされるな」『週刊文春』
[4]新井 宏 2011 箸墓年代の歴博正式論文批判一資料の改変・隠蔽と土器炭化物問題の無視-『季刊邪馬台国』第111号

また、この紹介記事の元は『季刊邪馬台国』111号である。
その内容を以下に示す。
大特集『邪馬台国畿内説』の論理の検討
[第一部]国立歴史民俗博物館グループの2011年報告書の検討
箸墓年代の歴博正式論文批判
-資料の改変・隠蔽と土器炭化物問題の無視-
数理考古学者 前韓国国立慶尚大学招聘教授 新井宏

1はじめに
今年になって国立歴史民俗博物館(歴博)は[古墳出現期の炭素14年代]について正式な論文(以下正式論文)を『国立歴史民俗博物館研究報告』第一六三集に発表した(春成2011)。2009年5月の日本考古学協会発表会において「箸墓は240~260年と捉えるのが合理的」と報告した概報(春成2009)と著者もタイトルも同じものである。

この2009年5月の概報については、学会講演以前にマスコミによって大々的に報じられ、邪馬台国論争と絡んで大波紋を呼んだものであるが、学術発表の内容についても批判が相次いだ(安本2009b、新井2009b、関川2009,白石2009、新納2009)。

そもそも、弥生末期から古墳初期の時期は、炭素14年代の較正曲線に「平坦部」や「うねり」があり、原理的に80年以下の精度で求めることなどできないはずなのに、ピンポイントに西暦240~260年と報告したからである。

「歴博のアイディアは、炭素年のデータを時系列的に、庄内1→庄内2→庄内3→布留0→布留1→布留2と配列し、較正曲線の谷部分(西暦270年)の前後に布留0式期と布留1式期を振り分けて配置し、グラフの表示によって箸墓古墳の年代を西暦240~260年と挟み込むものであった。確かに、グラフだけを見ると、誰でも歴博の結論はきわめて整然としているかのように感じられた。
しかし、内容をチェックすると、グラフの横軸、すなわち較正年代は「型式の範囲内であれば、較正曲線に合う形」に任意にプロットしているし、土器形式判定の一部も原報告から変えられているし、不都合なデータはプロットされていないなど、恣意的な取り扱いが多く、学術報告としての要件をまったく満たしていないのである。

炭素14年代の測定結果など、ほんの「さしみのツマ」、あるいは「小道具」としてしか使われていないのである。
いわば「始めに結論ありき」の議論である。
そういえば、概報の一年前にも歴博は考古学協会総会において、データも不完備の状態で、異なった解析手法を採りながら、結論は「箸墓古墳の布留0式は三世紀中頃と考えるのが合理的である」としていた(藤尾2008)。これにも厳しい批判が相次いだ(簸田2008、新井2008b)」

以上によって、正式論文の主要部分において、「明快な表示」の意図的な欠如があり、データの土器型式期の「改変」や「隠蔽」があったことを説明した。

「3土器付着炭化物の炭素年代の問題
土器付着炭化物の炭素年代が古くでていることについては、再三再四警告してきている。それにもかかわらず今回も同じことを書かなければならないのは、筆者にとっても食傷気味であり、しいて言えば苦痛である。しかし、歴博の論文構成上の基本的な問題点を指摘するばかりでは、結論が「明らかに間違っている」ことについて十分説明したことにはならない。やはり、土器炭化物の問題を避けては通れない。」

「歴博のように、考古学を研究する公共機関であるならば、如何にしたら土器付着炭化物から信頼できる炭素年代を得ることができるかの基礎研究こそ優先させるべきである。膨大な費用をかけて、炭素年代を測定しても、結果的に使えないデータばかりであれば、まったく有害無益なのである。」

2023年2月26日(日)の第407回邪馬台国の会の、
・炭素14年代法はどこまで信頼できるのか
で、木本博(きもとひろし)氏『邪馬台国への”道”が分かった』(新潮社年刊)
でも同じような内容の話を紹介した。

また、費用対効果のバランスが悪すぎるでも紹介した。
詳細掲載省略

 

もう一つの本は寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新書)である。
この本の中で新井宏氏の論文が引用されている。
「公表された鉛同位体比の測定データを詳細に再検討した新井宏氏は、領域Kには領域Eとのオーバーラップが認められることを指摘し、朝鮮系青銅器には雲南(うんなん)省の鉛をふくむ商周青銅器のリサイクル品が数多く存在することが原因ではないかと想定した。さらに肝心の三角縁神獣鏡が属する領域Eには、遼寧省や河北省の鉛鉱山、朝鮮半島の全州(チョンジュン)鉱山、そして日本の岐阜県神岡(かみおか)鉱山の鉛までがふくまれるという[新井、2007年]。」

参考文献
新井宏2007年『理系の視点からみた「考古学」の論争点』大和書房

 

■三角縁神獣鏡について
大阪府茨木市にある前方後円墳、紫金山(しきんざん)古墳は、「4世紀中ごろから後半ごろの築造」(『日本古墳大辞典』東京堂出版)と考えられている。
ここからは、直径35.7センチの、下の写真のような大鏡が出土している。この鏡は、まわりに、わが国の勾玉がずらりと並べられて刻まれている。だれがみても日本で作られた「倭鏡」である。
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この紫金山古墳からは、「三角縁神獣鏡」が10面出土している。
考古学者の森浩一によれば、紫金山古墳出土の三角縁神獣鏡は、鈕の孔が、「全て鋳放(いばな)し(鋳たままで、仕上げをしていないもの)」で、「鈕の孔が全く塞がっているのが」あったという(森浩一「魏鏡と『倭人伝』への認識をぼくが深めていった遍歴」[『季刊邪馬台国』110号、梓書院、2011年])。

つまり、鈕が、鋳造したままで、中には、鋳物の土が詰まったものがあったというのである。また、いっしょにでた大型の鏡も、「鈕の孔が鋳放し」であったという。

森浩一は、そこで述べている。
「中国の皇帝などが周辺の国の人、王などに鏡を与えるときは、必ず紐のところにその王の身分を示す色の組紐を通してあります。だから『倭人伝』のところにも、卑弥呼に与えた印は、『金印紫綬』と書いてあるでしょう。金印も同じように紐をつけます。紫色の組紐。紐は腐ってくるから、よく鏡だけ発掘品に並べてあるけれど、組紐というものとセットで、ある意味では組紐のほうがものずごく重要だったですね。紫綬。だから、もしも本当に三角縁神獣鏡というものが魏の皇帝が大量生産で卑弥呼の使いにやった鏡とすれば、紫綬を通すところの、鈕の孔はきれいに造りあげて、そこには何色かの組紐がつけてあってしかるべきなのです。」

森浩一が述べていることと、ほぼ同じ趣旨のことを奈良県立橿原考古学研究所の所長であった菅谷文則(すがやふみのり)も述べている。
「鏡そのものを見てみますと、三角縁神獣鏡と、いま言われております長宜子孫銘の内行花文鏡でありますとか、それより後の画文帯神獣鏡 --三国時代の画文帯神獣鏡でありますが-- を見ましても、最大の違いはどこにあるかと申しますと、三角縁神獣鏡の鈕の鋳浚(いさらえ)[安本注 鋳型で鋳た製品の仕上げ加工]が非常に不十分であるということであります。紐と申しますのは、円形の鏡の裏、普通われわれ博物館ではそれを表として見ておるわけですが、鏡の裏に穴があるわけであります。そこに紐なり、リボンなりを通して使用に便利なようにしているわけであります。有名な椿井大塚山からでました多数の三角縁神獣鏡のうちの一面は、鈕の穴がつぶれております。そのつぶれておるのは錆(さび)でつぶれたという見方もできるようなつぶれ方なんでありますが、ともかくつぶれております。

それから鋳張(いばり)[安本注 鋳型の合わせ目などに、溶けた金属が流れこみ、そのまま凝固してできたものなど。製品にとって本来必要ではない。仕上げのさいとりのぞくべきもの]ができるわけですが、私が実見しました三角縁神獣鏡のうち七、八割ほどは鋳浚が完全にされていないわけです。だから、ぎざぎざがあるわけです。非常に極端に申しますと、そこにリボン状の房を通しますとほどなく破れてしまいます。その点、画文帯神獣鏡等々はその鋳浚が非常に丁寧にされておりまして、長期間の使用に耐えるように、言い換えれば日常使用に耐えるようにつくられていると考えてよいわけであります。

その点、三角縁神獣鏡は長期間の使用に耐えることを目的にしているのではないと考えてはどうだろうかと、さきの論文で提言しています。だから、これはお墓に入れるために日本で独自にでき上がった鏡の一つのジャンルなんではないだろうかと。その点、中国で長く伝わっております鏡の系譜とは、その鈕の鋳浚という一点だけでもって違うんではないだろうかと。」(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館編『三世紀の九州と近畿』[河出書房新社、1986年])

数理考古学者の新井宏氏(韓国国立慶尚大学校招聘教授など歴任)も述べる。
「三角縁神獣鏡で鈕孔を加工しないまま放置している例の多いことにも通じ、粗製鏡であったことを意味している。これらが共に仿製三角縁神獣鏡と舶載三角縁神獣鏡に共通する製法技法であることにも注目する必要がある。」

「最初から『葬式の花輪』のように使い捨てにする認識があったのではなかろうか。そうであれば、わざわざ中国から輸入する必要性はますます少なくなる。」(新井宏氏の論文「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡」[『古代の鏡と東アジア』学生社、2011年刊所収])
「三角縁神獣鏡」は、わが国で古墳築造時に、その古墳の比較的近くで鋳造されたとみられる根拠が、それぞれ別の人によって、別の根拠によって主張されている。

この問題は、すこし、説明を必要とする。
そこで、次に、項をわけて説明する。

■「三角縁神獣鏡」の、「古墳築造時鋳造説」
「三角縁神獣鏡」は、わが国で古墳築造時に、その古墳の比較的近くで鋳造されたとする見解は、私の知るところ、次の三つである。
(1)鈴木勉氏の見解
(2)新井宏氏の見解
(3)私(安本美典)の見解

まず、(1)の鈴木勉氏の見解は、鏡の鋳造技術面から見た発言である。
奈良県立橿原考古学研究所共同研究員で、工芸文化研究所所長の鈴木勉氏は、その著『三角縁神獣鏡・同笵(型)鏡論の向こうに』(雄山閣、2016年)の中で、次のように述べている。

「三角縁神獣鏡の仕上げ加工痕が、出土古墳によって異なる、つまり、仕上げ加工技術が出土古墳ごとにまとまりを見せる。このことは鏡作りの工人らが出土古墳近くの各地に定住していたか、あるいは移動型の工人集団が各地の政権からの依頼を受けて各地へ赴いて製作にあたったか、を考えることになる。」

「椿井大塚山古墳の『研削』鏡16面は、どれも同じ目の砥石を使って仕上げ加工されたことが分かる。湯迫車塚(ゆばくるまづか)古墳の3面の『研削』鏡には同じ細かい目の砥石が使われたことがわかり、佐味田宝塚古墳の3面の『研削』鏡にも同レベルの細かい目の砥石が使われたことが分かる。」

仕上げ加工の方法は、同范(型)鏡群よりも、出土古墳によって規定されている。

「三角縁神獣鏡」は、わが国で古墳築造時に、その古墳の比較的近くで鋳造されたとみられる根拠が、それぞれ別の人によって、別の根拠によって主張されている。
三角縁神獣鏡製作の仕上げのさいの加工の技術が、出土古墳ごとにまとまりを見せる、というのである。
つまり、仕上げ加工の方法は、同范(型)鏡(工場でつくられた製品のように、同じ文様、同じ型式の鏡)でも、出土古墳が異なっていれば違いがあり、同じ古墳から出土した鏡は、異種の鏡でも、同じであるというのである。

また、数理考古学者の新井宏氏は、鏡の原料の銅にふくまれる鉛の同位体比について調べ、鈴木勉氏とまったく違う方法・根拠により、鈴木勉氏とほぼ近い結論を述べておられる(新井宏氏の見解は、『古代の鏡と東アジア』、[学生社、2011年]に収められた論文「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡」に述べられている)。

新井宏氏は述べる。
「鉛同位体比の分析結果が複製鏡の存在をきわめて強く示唆する事例があるので、まずそれらを紹介したい。それは、同一遺跡から出土した鏡の中に、中国での流行時期も流行地域も異なるにもかかわらず、鉛同位体比が(同一の鏡のように)一致している事例が数多くあることである。「他人の空似」とばかりは言えないのである。それらを整理して下表に示す。」

415-05


■コピー鏡を作るさいの面径の変化に着目
私も鈴木勉氏や新井宏氏と、ほぼ同じ結論に到っている。ただ、そのような結論を導き出す方法、根拠は両氏とは、また異なる。
私の方法は、鏡のコピー鏡(同笵鏡、同型鏡、踏み返し鏡などといわれるもの)を鋳造するさいに、収縮や、拡大現象がおき、もとの鏡(原鏡、原型など)にくらべ、条件により、コピー鏡の面径が、大きくなったり、小さくなったりすることがあることに着目するものである。

「三角縁神獣鏡」には、コピー鏡が多いが、そして、同一古墳から、コピー鏡が数面出土することがあるが、ある鏡の、同一古墳から出土したコピー鏡では、面径が一致する傾向がみられ、異なる古墳から出土したコピー鏡のあいだでは、古墳ごとに面径が異なる傾向がみられる。このことに着目した議論である。

なお、さきに紹介した『古代の鏡と東アジア』のなかの、菅谷文則氏の論文、「三角縁神獣鏡-国産説の立場から」のなかで、菅谷文則氏が、つぎのようにのべておられることは、やや注目すべきことのように思える。

「洛陽の鏡を調査しましたが、洛陽は、後漢、魏、西晋の首都でした。首都の墓を見ていくと、面白いことに多くの鏡を見たもののなかに、方格規矩鳥文鏡、方格規矩四神鏡などたくさんありましたが、大事なことは、同紋様の鏡は一枚も無い。洛陽の中で同じ鏡、同型にしろ、同范にしろ同じものは無かった。洛陽の鏡というのは、上は大臣から下は役人までの墓を中国では無作為に発掘しており、そこから出土した鏡です。

確実なことは言えませんが、同じ型や同じ范で作られた鏡は、洛陽には無いということです。それはどういうことかと言うと、洛陽の鏡を作る人たちは、同じ型のもの、同じ紋様のものを作って、それを皇帝から土産だと送って朝貢国に贈るという思想はまったく無かった、ということです。つまり、洛陽では、皇帝から鏡をもらうとか、皇帝の工房で同じような似たものを、できるだけ同じ紋様、でぎるだけ同じ文章(銘文)を持つ鏡を、さらに同じ直径のものを作って皇帝から臣下に配るということはなかったようです。

また、町で作っている鏡屋さんも、同じものを作って渡すこともなかった。これは洛陽の調査を数年繰り返した結果、確信を持って言える当たり前のことです。これは状況証拠にしか過ぎませんが、大変なことだと思います。同じ大小、図文のものを大量に作る、という思想は鏡ではなかったということです。」

・新井宏氏著『理系の視点からみた「考古学」の論争点』の「プロローグ」から
藤原正彦氏はベストセラー『国家と品格』の中で、数学者としての観点から、「長い論理は危うい」「短い論理は深みに達しない」と述べている。筆者なりに三角縁神獣鏡に例を採っていえば、「風が吹けば桶屋がもうかる」式の長い論理によって魏鏡であることを説明する議論がある一方で「なぜ三角縁神獣鏡が中国から出土しないか」との問いかけに「特鋳説」で答え、その「特鋳説」の論拠はと問われて「中国から出土しないから」と答えるような短い論理もある。確かに、いずれも危うい。
理系の視点からいえば、これらの論理展開の問題点についても書いてみたい。しかし、不十分とはいえ、既に問題指摘も多くあるので、それは筆者の役割とはいえないだろう。筆者の特徴はあくまでデータに基づく議論、それも数値データに基づく推論にあると自認している。現場操業データや実験データを見て、問題点を発見するのは、技術者、研究者の最も重要な能力であり、その点ではいささか自負しているものがあるからである。  
したがって、筆者の主張は、主観的な思考を排し、基礎的な姿値データに基づき展開したものである。

2.鉛同位体比から見た弥生期の実年代 新井宏先生

■新井宏(あらいひろし)先生略歴
415-231937年東京都生まれ。1960年東京工業大学物理卒業。日本金属工業常務取締役を経て、現在、韓国国立慶尚大学招聘教授(2001年~)工学博士。専門は金属考古学・古代計量史。
著書『まぼろしの古代尺』(吉川弘文館)、『金属を通して歴史を観る』(「バウンダリ刊長期連載」
論文◎「鉛同位体比による青銅器の鉛産地をめぐって」『考古学雑誌』 ◎「古墳築造企画と代制・結負制の基準尺度」『考古学雑誌』 ◎「古代日本に間接製鉄法があったか」『ふぇらむ』 ◎「古代結負制の復元と代制の起源」『韓国古代史研究』(韓国語) ◎「日本の古代鉄価とその国際比較」『鉄と鋼』 ◎「日韓古代遺跡における高麗尺検出事例に対する批判的検討」『朝鮮学報』 ◎「鉛同位体比から見た三角縁神獣鏡の製作地」『情報考古学』 ◎「三角縁神獣鏡・泉屋博の解析方法は重大な誤り」『邪馬台国』 ◎「炭素十四による弥生時代遡上論の問題点」『東アジアの古代文化』 ◎「古代東アジアにおける土地計量制度の変遷」『計量史研究』 ◎「鉛同位体比から見て三角縁神獣鏡は非魏鏡」『東アジアの古代文化』 ◎「鉛同位体比から見た弥生期の実年代に関する一試論」『考古学雑誌


2.1 鉛同位体比研究から見て三角縁神獣鏡は魏鏡かそれとも国産鏡か
■鉛同位体比分析
鉛の同位体元素
・天然の放射性元素 U(ウラン)、Th(トリウム)が壊変した落ち着き先は全て鉛である。そのため、鉛は重元素としては異常に存在比が高く、しかも融点が低く(237℃)、製錬が容易なので、古代から多く使われた金属である。

・鉛には質量の異なる4種の同位体があり、地域や鉱山によって差がある。鉱石としては方鉛鉱(PbS)が主体で、青銅器には通常1~10%の合金として含有されている。その同位体は、204Pb、206Pb、207Pb、208Pbの四種類で、地球が出来た時に存在していた鉛を原始鉛と言うが、放射性元素のウランやトリウムが壊変して増え続けている。
   204Pb=始源鉛204Pb
   206Pb=始源鉛206Pb+238U(半減期45億年 )→206Pb
   207Pb=始源鉛207Pb+235U(半減期7億年 )→207Pb
   208Pb=始源鉛208Pb+232Th(半減期140億年)→208Pb
この同位体の比率を利用して、指紋やDNA鑑定のように、青銅器の分類ができる。

・これらの鉛生成過程は地球45.4億年の歴史と関係が深く、最初の頃は、地球化学の研究に用いられた。図示の際に、208Pb/206Pb、207Pb/206Pbの比率でグラフ表示す手法が用いられるので、それを考古学でも準用している。
通常、鉛同位体比は207Pb/206PbをX軸、208Pb/206PbをY軸として、散布図を作成して比較するが、類似性判定の式を定義し、非常に近い関係があると同族、離れた関係にあると、非同族と判定する使い方がある。これが類似係数である。
[注:類似係数について、Webの新井先生の『三角縁神獣鏡の製作地をさぐる』(2005年8月28日)から引用して、AとBの青銅器の類似係数は下記の式となる。
鉛同位体類似係数(%)=
{|(204PbA-204PbB)/(204PbA+204PbB)|
+|(206PbA-206PbB)/(206PbA+206PbB)|
+|(207PbA-207PbB)/(207PbA+207PbB)|
+|(208PbA-208PbB)/(208PbA+208PbB)|}/4×100 ]

■三角縁神獣鏡の原料産地解明と類似性判定
大和柳本天神山古墳出土の鏡で、同じ古墳から出土の中国での製作時期が異なる鏡が日本製の仿製(ぼうせい)鏡とほとんど同一の鉛同位体比を持っている。つまり中国製と仿製鏡とで類似係数が近い。下表参照

415-06

同じように、福岡県藤崎遺跡など仿製鏡と舶載鏡でも類似係数が近い。つまり同一遺跡出土の異履歴鏡が同一成分となっている。

415-07

岡山県の鶴山丸山古墳出土の鉛同位体比を見ると、三角縁神獣鏡も仿製鏡と鉛同位体比が近い。415-08

卑弥呼の時代である景初とか、正始などの年号が入った紀年鏡の同位体比を見ると下表のようになり、

415-09

その紀年鏡の同位体比類似係数をみると下表のようになる。
同型鏡でも鉛同位体比が異なっている場合があり、異なった年号の鏡でも同一の鉛同位体比を持つ。

415-10

そして、紀年鏡を分類するとふたつのグループに分かれる。
Aグループ:正始元年(森尾鏡)、景初四年(辰馬鏡)、青龍三年(大田南鏡)、青龍三年(個人蔵鏡)
Bグループ:正始元年(柴崎鏡)、景初四年(広峰鏡)
このように、年号の異なる鏡が一緒に作られ、同型鏡が別々に作られていた。
また、複製鏡の証拠となるか、年号鏡の年号と製作年は異なる可能性が大である。

このように、同じ年号でグループが異なるということは、三角縁神獣鏡は複製品(模造品)が多いためである。複製品は見た目では分からない。これを見分ける方法が鉛同位体比分析である。

 

■誤っていた「朝鮮半島鉛」定説
東文研が研究を開始して間もなく(1985)、鉛同位体比と鉛産地の関係を示す図が提出され、考古学の定説となっていった。
しかし、この定説は初期データに基づき、考古学系の見解を受入れて作成されたもので、中国のデータを参照していなかった。
そのため、筆者が論文「鉛同位体比による青銅器の鉛産地推定をめぐって」『考古学雑誌』85-2(2000)を発表して、その「朝鮮半島産鉛説」などを完全否定した。その見解は中国からも支持を受けている。
ところが、いったん「定説化」して多くの「解説的な論文」に紹介された名残があって、未だに「誤った定説」に基づく論考があとを絶たない。

下の左のグラフの朝鮮半島鉛鉱石の同位体比から、Aは前漢鏡など華北の鉛、Bは後漢・三国魏など華南の鉛、Cは日本産の鉛、Dは多鈕細文鏡など朝鮮半島の鉛となっている。
これは40年前に出たもので、
「Cは日本産の鉛」で京都より西の鉛とした。神岡鉱山の鉛は古代では使われていないと考えての結果である。しかしよく調べれば神岡鉱山の鉛であることが分かる。

「Dは多鈕細文鏡など朝鮮半島の鉛」としたが、これは間違いで、中国古代の鉛である。
中国古代の戦国七雄の時代に燕(えん)の楽毅(がっき)将軍が斉(せい)の臨淄(りんし)を占領し厖大な宝器を奪取して燕に持ち帰ったものと考えられる。
(下図はクリックすると大きくなります)415-11

現在でも、CとDは誤った状態のままになっているものが多い。

 

■日本の鏡は平原鏡から三角縁神獣鏡へ
王仲珠氏が、三角縁神獣鏡は中国製ではなく呉の工人が日本で製作したものという。従来の研究、鏡の型式、紋様、銘文など、外観的な観察に偏っていて、製作技術や内部組成に目が向けられていなかった。銅鏡はコピー鏡やイミテーション鏡を簡単に作れる。
中国出土鏡には「同型鏡がない」のに日本では三角縁神獣鏡、各種紀年鏡、画文帯神獣鏡、平原出土鏡など「同型鏡ばかり」である。
本稿では、まず大量の同型鏡の多い平原鏡について、国産であることを鉛同位体比などから検証する。その上で、平原鏡と三角縁神獣鏡の関連性について、同型鏡の製造技術面や銘文面から議論し、「平原鏡から三角縁神獣鏡へ」として紹介したい。

平原鏡のほとんどが楽浪鉛を含む
春日市ウトロ勾玉、福岡市井尻ブロンズサビ、福岡県今村清川町古墳倣製鋸歯文鏡の三点は楽浪土城方鉛砿の鉛を含んでいる。
平原弥生古墳の同型鏡21面も全て明瞭に楽浪土城方鉛砿の鉛を含む他に、柳田氏が倣製鏡とした鏡も楽浪鉛を含む線上にある。
しかし、舶載鏡となった二面は楽浪鉛をふくまない。楽浪鏡の大部分を国産鏡と判断する。

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超大型の仿製鏡(例)
・福岡県平原遺跡    内行花文鏡    46.5cm
・山口県柳井茶臼山古墳 単頭双胴怪獣鏡  44.5cm
・奈良県柳本大塚古墳  八弧内行花文鏡  39.7cm
・奈良県下池山古墳   内行花文鏡    37.5cm
・大阪府紫金山古墳   勾玉文鏡     36.9cm
・奈良県日葉酢媛命陵  方格規矩鏡    35.0cm
・奈良県日葉酢媛命陵  内行花文鏡    34.3cm
・奈良県日葉酢媛命陵  内行花文鏡    32.5cm
・千葉県祇園大塚山古墳 画文帯仏獣鏡   30.6cm
・奈良県新山古墳    方格規矩鏡    29.1cm

仿製鏡でも、下図の左の「山口県茶臼山古墳」のように模様がきれい出来ているものがあり、鏡作りの技術が上がってきていることが分かる。

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技術水準の高かった大型仿製鏡
三角縁神獣鏡に先立ち、秀麗な超大型仿製鏡や舶載鏡と見紛う鏡が作られていた。
当時、中国では20cm以上の鏡はほとんど作られていなかったので、30cm以上の大型鏡の製作技術では日本が上だったのではなかろうか。またその頃、中国には同型鏡がなかったので同型鏡製作技術は日本が上だったのではなかろうか。
いつの時代でも製品を多量に作った地域で技術が発展する。
平原弥生古墳の鏡の大部分が仿製鏡と確定すれば、その事実だけでも、三角縁神獣鏡が仿製鏡である可能性が非常に高くなる。

平原鏡から三角縁神獣鏡に銘文を継承している。
平原鏡には方格規矩鏡の標準銘文「寿如金石為国保」をそのまま使用している例が12件あるが「国保」を「相保」と替えている例がある。
後漢鏡を引き継ぐ魏晋鏡には「相保」の使用例がない。
一方、三角縁神獣鏡でも「相保」を使用している例が12面ある。
単純に言えば、三角縁神獣鏡の銘文は平原鏡の銘文を引き継いでいる。

三角縁神獣鏡と比較する魏鏡は?
魏鏡説では三角縁神獣鏡は卑弥呼の鏡(238年)とする。
魏鏡説の岡村秀典氏の分類で漢鏡7期の第3段階の鏡、3世紀前半の斜縁神獣鏡とする。
魏鏡説の福永伸哉氏は、斜縁二神二獣鏡には外周突線があり、魏鏡ととらえている。
斜縁神獣鏡は三角縁神獣鏡と類似性の高い鏡種で、流行地は、楽浪、渤海沿岸などの説がある。
つまり、三角縁神獣鏡との比較で斜縁二神二獣鏡ほど適したものはない

岡村秀典氏の漢鏡編年から
漢鏡6期(AD100~AD160)
  方格規矩四神鏡(Ⅵ,Ⅶ)細線式獣帯鏡(Ⅴ,Ⅵ)
  浮彫式獣帯鏡(Ⅲ)盤龍鏡(Ⅲ)四葉座内行花文鏡(Ⅴ)
  蝙蝠座内行花文鏡(Ⅰ,Ⅱ)円座内行花文鏡(Ⅲ)
  双頭龍文鏡
漢鏡7期(AD160~)
  上方作系浮彫式獣帯鏡 飛禽鏡 画像鏡 獣帯鏡
  夔鳳鏡 獣首鏡 画文帯神獣鏡 斜縁神獣鏡

三角縁神獣鏡に一番近いのが漢鏡7期の斜縁神獣鏡。

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斜縁神獣鏡と三角縁神獣鏡の鉛同位体比

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しかし、斜縁神獣鏡と三角縁神獣鏡の鉛同位体比は近くない。

倭鏡と三角縁神獣鏡の鉛同位体比

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これから三角縁神獣は神岡鉱山の鉛を使っていることが分かる。

東博は日本鉛から神岡鉛を除外
東博は当初から鉛同位体比からA.B,C,Dの区分を求める基本図の日本鉛領域から神岡鉱山の鉛を除いていた。
古墳期には岐阜県あたりの鉱山が開かれているはずがないとの思い込みだったと思う。しかし権威有る東博が日本には三角縁神獣鏡の鉛と一致する鉱山はないと言って居たことは、極めて問題であった。
世界中で三角縁神獣鏡の鉛に最も良く一致するのが神岡(カミオカンデ)鉛なのである。


2.2 炭素14年代研究から見て箸墓古墳や纏向遺跡はAD250年頃かAD300年頃か

歴博の炭素年代により弥生時代は古く遡って来た。
ほんとうに炭素14年代は信用できるか

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歴博の炭素14年代に対する見解
対流圏での大気の混合は早く、地域間の大気中の炭素14濃度の違いは、年平均レベルでは非常に小さいので無視できるとした。
はたして本当か?
理論的な検討ではそんなに簡単に結論つけるのは非常に危険、反例が沢山ある。

どうしてC14で年代が分かるか?
大気中の炭素14はいつも一定(本当は違うが)で、宇宙線で出来るC14と放射崩壊で減る量がほぼ同じ。
光合成で樹木となった炭素14は滅る一方(5730年で半分)なので、樹木や炭の炭素14を測ると、いつ育った木か判る。
以前にはβ(ベータ)線を測って炭素14を測定していたが、最近は微量の試料でもAMS法で手軽に測れる。
炭素14年は1950年を基準にして何年前になるかの計算値である。しかし本当の年代とはズレがあった。それは大気中の炭素14が一定ではなかったからである。
これを修正する方法のひとつが国際較正基準。
そして、国際較正基準による国際較正曲線の補正によって、炭素14年の年代が大きく変わる。

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・炭素14はどこで出来どこで消えるか
炭素14を作る宇宙線強度は、高層で強く地表で弱い。そして、地磁場により高緯度圏で強く、低緯度圏では軽微である。成層圏では、地表面の1.3倍となる。(数1,000年新しい)
大気中と海水では炭酸ガスの交換をしている。その結果、海水に長期間貯蔵された炭酸ガスは炭素14が500年分も少ない。
炭素14は高緯度高層で生まれ、低緯度海洋で消えるので、分布が一様なはずがない。「まぜるのは簡単でない」
海で育つ植物の炭素14年は500年古くでる。
海の近くでは100年古く出る可能性は理論的な予測だが、弥生前期・早期の遺跡は海岸ばかりだ。

大気上層と地上の炭素14比の比較
成層圏の炭素14比は地上の1.3倍で、炭素14年が2400年も新しい。
相馬上空(1,400m)   炭素14比が3.6%高い、炭素14年で290年新しい
名古屋上空(8,800m)  炭素14比が7.8%高い、炭素14年で620年新しい
標高が1,000m上がると、100年ほど新しい炭素年になる。したがって、高標高地の樹木年輪による国際較正標準は要注意

・土器付着炭化物の汚染問題
炭素14年代が古くでる理由としては、地域差ばかりでなく、試料の汚染問題がある。それは土器付着炭化物の炭素14年代が古くでているからである。
「論より証拠」に、同一遺跡で同一時期(地層)から出土した遺物で土器付着炭化物と「種子など」の炭素14年代を比較すると24件全てが100年単位で土器付着炭化物の方が古くでている。

「弥生遡上論」から考古学界が学ばなければならないことは数多くあるが、総括すれば、土器付着炭化物試料の汚染問題とその除去問題である。
もはや「土器付着炭化物の炭素14年代が古くでているか否か」を議論している段階ではない。
土器付着炭化物が本質的に微細粒かつ多孔質で比表面積が極めて大きく、汚染の比率も大きくなり、これが種実や漆、木材などと本質的に異なるところである。
土壌中には古い炭素を持つ「腐植酸」がある。この腐植酸には、フミン酸(アルカリに溶けるが酸には溶けない)、フルボ酸(アルカリにも酸にも溶ける)の他にヒューミンと言うアルカリにも酸にも溶けない物質がある。
いずれも、他の物質にくっつき易い性質を持つ。

・アルカリ処理による影響(山本2004)
アルカリ処理を行っていなかった19点について処理を行ったところ15点は溶解してしまった。4点は炭素年代が平均135年も新しくなった。
歴博から「土器付着炭化物の半数以上は、アルカリ処理によって殆ど溶解した」とある。

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歴博のアルカリ処理
土器付着物については…………前処理後の重量は、平均して10パーセント程度で……(重量的に)測定できる試料は半分程度である。
そのため、歴博におけるアルカリ処理の濃度は1モルのNaOH溶液でなく0.1モルを使っている。
これでは、正しい炭素14年代を保証することなどできるはずがない。本来ならば、付着炭化物こそ、より強力なアルカリ処理を必要としているはずなのに、本末転倒である。
条件の良い時にのみ正しい値が出ているのであって、その条件が判らないかぎり、参考資料にしかなり得ない。

 

・歴博の「弥生開始500年遡上論」
2003.5歴博は「弥生開始500年遡上論」を新聞に発表した。
「日本考古学協会」の研究会の一週間前であった。
最も肝要な試料の遺跡地名や炭素年代測定値は、雀居12次遺跡以外の梅白、橋本一丁田遺跡については、試料提供者側の報告が済んでいないことから伏せられていた。
夜臼Ⅱa期(弥生早期後半)の多くがBC800年をはさむ年代に集中したので、より古い夜臼I期ならBC10世紀になる。
2004.4 非公式に『季刊考古学』論文発表、データ公開
2005.4 やっと公式報告書
弥生早期のデータは前10世紀には一件もなかったが、前10世紀説を訂正しない。

 

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