■ベイズ統計学とはなにか
前々回(第414回講演)から・・
京都大学大学院文学研究科准教授の大塚淳(おおつかじゅん)氏の手になる『統計学を哲学する』名古屋大学出版会、2020年)という本がでている。
この本の序章で、大塚氏は述べる。
「この本は何を目指しているのか。その目論見を一言で表すとしたら、『データサイエンティストのための哲学入門、かつ哲学者のためのデータサイエンス入門』である。ここで『データサイエンス』とは、機械学習研究のような特定の学問分野を指すのではなく、データに基づいて推論や判断を行う科学的/実践的活動全般を意図している。」
そして、さらに述べる。
「現代において統計学は、与えられたデータから科学的な結論を導き出す装置として、特権的な役割を担っている。良かれ悪しかれ、科学的に証明された』ということは、『適切な統計的処理によって結論にお墨付きが与えられた』ということとほとんど同義なこととして扱われている。しかしなぜ、統計学はこのような特権的な機能を果たしうる(あるいは少なくとも、果たすと期待されている)のだろうか。
そこにはもちろん精密な数学的議論が関わっているのであるが、しかしなぜそもそもそうした数学的枠組みが科学的知識を正当化するのか、ということはすぐれて哲学的な問題であるし、また種々の統計的手法は、陰に陽にこうした哲学的直観をその土台に持っているのである。
「例えば、ベイズ統計(今回の大証明1)や検定理論(第414回の中証明2)などといった、各統計的手法の背後にある哲学的直観を押さえておくことは、それぞれの特性を把握し、それらを『腑に落とす』ための一助になるだろう。」
ベイズ統計学の、わが国における第一人者といってよい。松原望氏(東京大学名誉教授)は『文藝春秋』に掲載された文書の中で述べておられる。
「統計学が使われている典型的な例は、世論調査です。選挙予測のように、投票所の出口調査でのデー夕にはばらつきがありますが、その中から規則性や不規則性を見つけ出して、結果を予測するというように、結果に重点が置かれます。
ところが、ベイズ統計学は逆に、結果に対する原因の確率や言明を求める考え方です。十八世紀、イギリスの牧師・数学者だったトーマス・ベイズによって考案されました。」
(いくつかの原因が考えられるとき、どの原因によってその結果がもたらされたものか、その確率を求める。邪馬台国時代の倭人は「鉄の鏃」を用いていた。では、「鉄の鏃」の多く出土する結果がもたらされた地域は、そこに邪馬台国が存在した確率が大きいと考える。)
「各県ごとに、弥生時代後期の遺跡から出土する『鏡』『鉄の鏃』『勾玉』『絹』の数を調べて、その出土する割合をかけあわせれば、県ごとに、邪馬台国が存在した可能性の確率を求めることが可能になります。その意味では、邪馬台国問題は、ベイズ統計学向きの問題なのです。」
「統計学者が、『鉄の鏃』の各県別出土データを見ると、もう邪馬台国についての結論は出ています。畿内説を信じる人にとっては、『奈良県からも鉄の鏃が四個出ているじゃないか』と言いたい気持ちはわかります。しかし、そういう考え方は、科学的かつ客観的にデータを分析する方法ではありません。私たちは、確率的な考え方で日常生活をしています。たとえば、雨が降る確率が『0.05%未満』なのに、長靴を履き、雨合羽を持って外出する人はいません。」(以上『文藝春秋』2013年11月号)
邪馬台国問題の解決に、ベイズ統計学を用いることは、私(安本)がまずその着想を得(え)、邪馬台国問題へのベイズ統計学の適用にあたっては、松原望氏に、長時間の議論検討、ご指導におつきあいいただいた。
邪馬台国論争は『魏志倭人伝』が出発点であり、『魏志倭人伝』に書かれている内容から議論するべきである。そこで、全国から、日本で出土した出土量トップの県とその量とその項目を調べる。[出土数・出土地点は、ほぼ弥生(庄内期を含む)時代のもの]
『魏志倭人伝』の記述から、鉄の鏃、鉄の刀、鏡、勾玉などを見ると、福岡県の出土量が圧倒的に多く、順位が一位となる。(下のグラフ参照)
(下図はクリックすると大きくなります)
邪馬台国問題の解決に、ベイズ統計学を用いた結論は下の表のようになる。
上の表の右は、『魏志倭人伝』に記されており、わが国において比較的出土数の多い「鉄鏃」「鏡」「勾玉[孔青大句珠(こうせいだいこうしゅ)はなはだ青い大きな勾玉]」「絹」の四項目を取り上げ、その出土地数、または出土地数に対して、ベイズの統計学を適用したもの。上の表の左は、邪馬台国の存在した候補地を福岡県と奈良県とに絞り、そのいずれかに邪馬台国があった確率を、ベイズの統計学によって求めた結果である。
■福岡県と奈良県を対象にすれば
いま、話をわかりやすく、簡単にするために、候補地を福岡県と奈良県とに絞った表の数値のもとめ方を説明しよう。
・邪馬台国は、福岡県か奈良県かの、どちらかにあったものとする。
・「鉄鏃」「鏡」「勾玉」の出土数「絹」の出土地点数の多いほどその量に比例して、その県に、邪馬台国が存在した確率は、大きいものとする。
この前提のもとで、簡便な確率計算法である「ベイズの公式」の一つによって、邪馬台国が、福岡県にあった確率と邪馬台国が奈良県あった確率とを求めれば、下の表のようになる。福岡県と奈良県との。二者比較では、邪馬台国が奈良県にあった確率は10万分の1程度である。
「一群の人々」は、目の前におかれ、形をもっている1面の「鏡」については、微細に観察し、記録することができる。しかし、「鏡たち」が示している、直接肉眼で観察できない「確率」のほうは、まったくといってよいほど、目に映らないのである。
タバコのフィルターで、煙の、粒子をとりのぞくばあいを、考えてみよう。
1回フィルターを通すと、煙の粒子が100分の1に減るものとしよう。では、2回フィルターを通すと、粒子は、どれだけに減るか。100分の1の半分の100分の0.5に減るのではない。(100分の1)×(100分の1)で、1万分の1に減るのである。確率は、これと同じで、掛け算で効いてくるものなのである。
「鏡」の出土率において、奈良県社、福岡県の10分の1の量の出土である。「鉄の鏃」の出土率において、奈良県は、福岡県の約100分のIの量の出土である。とすると、このような出土率が、「それぞれの各県に邪馬台国の存在した確率」に比例するとなると、邪馬台国が、奈良県に存在する確率は、およそ、(10分の1)×(100分の1)で、1000分の1となる。邪馬台国が、奈良県に存在した確率は、福岡県に存在する確率の、約1000分の1とみつもられるのである。
このばあい、λ1=10(倍)、λ2=100(倍)とすると、ベイズの公式によるとき、つぎのようになる。
調査項目を、λ1、λ2、λ3、λ4 とふやすごとに、確率がどう変わって行くか(ベイズ更新をするごとに、確率がどう変わって行くか)をみると、下のグラフのようになる。
このような考え方を、「福岡県」と「奈良県」の二県だけででなく、全都道府県にひろげて計算すると、上の方で示した「鏡」「鉄鏃」「絹」「勾玉」の4項目についての表のようになるのである。
ただし、このばあいは、「福岡県」と「奈良県」だけの比較のばあいにくらべ、計算がすこしやっかいになる。
(下図はクリックすると大きくなります)
それについてはあとでのべる。また、次の。拙著をご参照いただきたい。
(1)『データサイエンスが解く邪馬台国』(朝日新書、朝日新聞出版、2021年刊)
(2)『誤りと偽りの考古学纏向』(勉誠出版、2019年刊)
さらに、かなり詳細にしたものに、次のようなものがある。
(1)拙著『邪馬台国は99.9%福岡県にあった -ベースの新統計学による確率計算の衝撃-』(勉誠出版、2015年刊)
(2)『季刊邪馬台国』118号(梓書院、2013年刊)
つぎにベイズ統計学について、イメージ的にご理解していただくための資料をすこしかかげる。
2007年11月24日(土)の『朝日新聞』の朝刊に、つぎのような記事がのっている。
これは一般の読者を対象とした新聞の記事である。
☆『朝日新聞』2007年11月24日(土)be report記事(の一部)
300年後に脚光 ベイズの定理
迷惑メール対策や人工知能・新薬開発・・・
迷惑メール判別フィルター、マーケティング理論、気象予測、人工知能、新薬開発……。最近、こうした分野で必ず聞く名前がある。「ベイズ」。18世紀の数学者トーマス・ベイズのことだ。彼が提唱した確率論「ベイズの定理」は約300年後、応用され、情報処理の土台になる理論として注目されている。(中島鉄郎)
甦る18世紀の確率論
迷惑メールの判別に「ベイズの定理」を応用した振り分け技術が役に立つ-----。02年に米国で専門家が論考を出して以来、ベイズの名前は一般にも知られるようになった。
日本で、この定理の基づく判別フィルターを最初に導入したのはニフティだ。担当した同社のチーフエンジニア工藤隆久さん(37)は03年秋、役員会でのプレゼンテーションの反応を覚えている。
「この迷惑メール対策フィルターは、もともとは18世紀の数学者だったベイズという人が発見した確率の理論ですと説明したら、役員たちから『ほおー』という感嘆の声が上がったんです」
トーマス・ベイズは1702年ごろにロンドンで生まれた。詳細な履歴は不明だが、長老派教会の牧師で、アマチュアの数学者。死後に出された確率論の論文をもとに、後の学者がベイズの定理を完成させ、それをもとにベイズ統計学が生まれた。
統計学の歴史で、ベイズは長く異端とされてきた。ベイズ統計に詳しい上智大の松原望教授(65)は言う。
「例えば、土星の質量。普通の統計学では、それはデータがないかから扱えない。だが、ベイズ統計学では、さまざまな経験や見通しを交え、確率分布で『このくらいから、このくらいの間の重さ』と、『だいたい』のことを言う。現実には一通りしかないものに確率分布があるのはおかしい、科学的態度ではないと批判されてきた」
ベイズの定理はよく簡略化した式を使い、クイズでその原理を説明される。
(箱Aに青玉10個・赤玉30個、箱Bに青玉20個・赤玉20個があった。無作為に箱を選び、一つ取り出したら赤玉たった。この赤玉が箱Aから取り出された確率は?)
まずは推測
箱Aの方を選ぶ割合は半分の50%。だが、「赤玉」という結果を見てから考えると、箱Aを選んだ確率は変わる。箱A(仮説H1)と箱B(仮説H2)からそれぞれ赤玉が取り出される確率(イラストの式で分母にあたる)の中で、箱Aから赤玉が取り出された確率(式で分子)なので、正解は60%に変わる。
新情報(赤玉)によって、過去に起きたこと(箱Aの選択)の確率が修正される。逆に言えば「とりあえず」と原因を確率的に推定すれば、結果がある程度予測できる。(以下略)
ここで取り出した玉についての確率問題ではなく、取り出された箱についての確率問題となっていることに注意。また、さきに紹介した松原望氏の名のでてくることに注意。
■邪馬台国問題にベイズ統計学を適用するためのモデル
『魏志倭人伝』に記されている事物の出土数の多いところが、その多さに比例して、邪馬台国の可能性が大きいという素朴な発想にたつ。その「可能性の大きさ」は、「確率」におきかえられうると考える。
(1)福岡県からは、奈良県の10倍[=30/3 、以下この値をλ(ラムダ)と書く(ここで、ギリシア文字がでてきて数学になれない読者はちょっとびっくりされるかもしれない。この分野では、確率と確率との比、つまり、確率を確率で割ったものを、λであらわすことが多い)]鏡が出土している。つまり、鏡のみを考えれば、福岡県に邪馬台国があった可能性が、奈良県に邪馬台国があった可能性よりも10倍大きい(確率が10倍)。
(2)ベイズの定理の基本式は、事前確率を所与のものとすれば、λのみの関数として表現できる。
つぎに記号を説明したうえ、そのことを記す。
P……確率(可能性の大きさ)、0から1までのあいだの値をとる。
H福岡……邪馬台国が福岡県にあるとする説。[Hはhypothesis(ハイポシシス)
[仮説]の頭文字]。
H奈良……邪馬台国が奈良県にあるとする説。
P (H福岡|鏡)……邪馬台国には、鏡が存在するという条件のもとで、邪馬台国が、福岡県にある確率。
P (H福岡)……邪馬台国が福岡県にあるとする説が成立する事前確率。奈良県説と、とりあえず互角とみて、P(H福岡)=0.5とする。
P (H奈良)……邪馬台国が奈良県にあるとする説が成立する事前確率。とりあえず、P (H奈良)=0.5とする。
P (鏡|H福岡)……福岡県において鏡が存在する確率。
P (鏡|H奈良)……奈良県において鏡が存在する確率。
すると、P (H福岡)=P (H奈良)=0.5であるから、
この最後の式は、λのみの関数になっている。
■統計学や、作戦計画(オペレーションズーリサーチ[OR])の分野に、「探索問題」とか、「索敵問題」とかいわれる問題がある。
「探索問題」や「索敵問題」というのは、つぎのような問題である。
(1)探索問題 2014年3月8日、マレーシア航空機が行方不明になるという事件があった。この種の事件は、これまでにもたびたび起きている。
1966年1月16日に、アメリカのノースカロライナ州のセイモア空軍基地から四つの水爆を積んだジェット爆撃機が、とび立った。ところが、その爆撃機は給油機と接触し、燃料が爆発し、七名の乗務員が命をおとした。乗務員と、水爆と、飛行機の残骸が、空から降りそそいだ。しかし、幸いにして、核爆発はおきなかった。四つの水爆のうち、三つは、事故後に、二十四時間以内に発見された。ただ、最後の一つの水爆がみつからなかった。
大ざっぱにいえば、このようなばあい、爆弾の沈んでいそうな場所をふくむ地域についての確率地図をつくる。海面または海底の地図の上に、メッシユ(網の目)をかぶせる。小さい正方形のグリッド(格子)に分ける。そして、その一つ一つの正方形(セル、網の目)についての情報をデータとしていれる。
そして、爆弾がそのセルに存在する確率を計算する。このようにして、爆弾が沈んでいそうな場所を示す確率地図をつくる。
1968年にも、ソ連とアメリカの潜水艦が、乗組員もろとも、行方不明になっている。
(2)索敵問題 基本的には、探索問題と同じである。ただ逃げまわるターゲットや、人間の操縦で動いている目標物の位置をとらえたり、追跡したりする。
邪馬台国問題は、統計学や確率論の問題としては、ふっうの「探索問題」や「索敵問題」にくらべ、はるかに簡単な問題である。
それは、つぎのような理由による。
(1)「探索問題」では、セル(正方形の網の目)の数は、ふつう一万ヵ所ていどにはなる。セルの数がふえると。確率計算は、急速に面倒なものとなる。邪馬台国問題のばあい、「どの県に邪馬台国はあったか」という形で、「県」を、セルとして用いれば、対象となるセルの数は、50たらずである。電卓によってでも、根気よく計算すれば、計算できるていどの問題である。
(2)「鉄の鏃」「鏡」など、『魏志倭人伝』に記されている事物などの、各県ごとの出土数などを、データとして入れていく。このばあい、「索敵問題」などと違って、遺跡・遺物なとは、動かない。逃げまわらない。
■全国の都道府県を対象にすれば……
ここまでは、話をわかりやすく単純にするために、「福岡県か奈良県か」「九州か近畿か」という形で、候補地を、二分する形で話をすすめてきた。
つぎに、全国の都道府県を対象にし、「どの都道府県に邪馬台国が所在した可能性(確率)が、どのていど大きいか」という形で、探求をすすめてみよう。
まず、つぎのような手つづきで、候補となる都道府県を、ふるいにかけて、しぼった。
(1)データは、「鏡」「鉄鏃」「勾玉」「絹」の四つの出土数、出土地数をもとにする。
(2)すると、「絹」の出土地は、福岡県、佐賀県、長崎県、熊本県、島根県、京都府、奈良県、富山県、石川県の九府県にかぎられ、他の都道府県からは、これまでのところ、まったく出土していない。ベイズ更新を行なうさい、出土数が0(ゼロ)、つまり、出土確率が0であるとすると、そのデータを用いた以後、その都道府県に邪馬台国が所在した確率(事後確率)は、つねに0となってしまう。
したがって、候補地は、さきの九府県にしぼられる。
(3)(2)のふるいでのこった九府県のうち、熊本県、京都府、富山県、石川県の四県からは「ガラス製勾玉・翡翠製勾玉」が出土していない。そこで、この四県を候補からのぞく。すると、候補地は、福岡県、佐賀県、長崎県、島根県、奈良県の五県にしぼられる。
(4)さらに、寺沢薫氏の資料による庄内期の鏡のデータでは、島根県からの鏡の出土数は、0(ゼロ)となっている。そこで、さらにこれをのぞくと、候補地は、福岡県、佐賀県、長崎県、奈良県の四県にしぼられる。
残った四県のうち、三県までが北九州の県であることが、注意をひく。
これら四県の「鏡」「鉄鏃」「勾玉」「絹」の出土数をまとめれば、下の表のようになる。
下の表は、また順次ベイズ更新を行なったさいの確率の変化が、カッコ内に記されているする。
(1)福岡県は、「鏡」→「鉄鏃」→「勾玉」→「絹」とベイズ更新を行なうたびに確率が大きくなる。最終的には、
福岡県に邪馬台国が所在したとみられる確率は、0.998に達する。この0.998という数字は、日本の全都道府県の『魏志倭人伝』記載関係の全考古学的出土データを総合して、ただ一つの代表的数字にまとめあげた統計学的結論といいうるものである。
(2)長崎県と奈良県は、しだいに確率が減少し、勾玉データの段階で、確率はほぼ0(ゼロ)なる。
(3)佐賀県は、最終確率は0.002(千分の二)で、ごくごくわずかに可能性が残される。以上の結果は、なお、多くの検討を必要とすると思われる。しかし、
『魏志倭人伝』に記されているもので、遺跡・遺物として残りうるものを、総合的に検討するばあい、福岡県は、奈良県にくらべ、圧倒的に確率が大きくなる。
この事実を無視してはならないであろう。邪馬台国論争への強い警鐘が、ここからきこえてくるようである。
上の表の結果を得るための方法を計算式の形で示すと話が難しくなる。理解しにくくなると思われる。ただ、計算手つづき(演算の規則、アルゴリズム)の形で示すと、話は至って簡単である。電卓一つ手元にあれば中学生でも計算できる。
(下図はクリックすると大きくなります)
注:「ヘウレーカ!」は「わかったぞ!」で、アルキメデスがアルキメデスの原理を発見した時にさけんだ言葉。
(下図はクリックすると大きくなります)
いま、すでに見てきた福岡県と奈良県との二つだけをとり上げたばあいの比較を「計算手続き1」によって行ってみるよう。すると、上の図の「計算手つづき2」のようになる。
■ホケノ山古墳の築造年代について
だいぶ上の4つ棒グラフを並べたところにある「寺沢薫氏の資料による県別・庄内期の出土数」の、奈良県出土の庄内期の3面の鏡はすべて、ホケノ山古墳から出土したものである。
寺沢薫氏は、ホケノ山古墳を、庄内期、すなわち3世紀の卑弥呼の時代に当たるころの築造とするが、これは重要な疑問がある。
【炭素14年代推定法による推定】2008年に奈良県立橿原考古学研究所編集発行の研究成果報告書『ホケノ山古墳の研究』が出ている。その中に、ホケノ山古墳の木槨から出土した「およそ12年輪の小枝」試料二点についての炭素14年代測定法による測定結果がのっている。そこでは、「小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告晝にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を一本化して話を簡明化するためである。)
・中央値は、西暦364年であった
この年代は、卑弥呼の没年(247年か248年)よりも、百年以上新しい。
寺沢薫氏の土器編年では、ホケノ山古墳の土器年代は、庄内3式期で、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、崇神天皇陵古墳の土器年代は、そのあとの布留0式以降と考えられている。したがって、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、崇神天皇陵古墳の築造年代は、364年以降ごろを中心に考えなければならないことになる。
関川尚功(ひさよし)氏は、ホケノ山古墳からは、布留式土器の指標となる小形丸底土器が出土していることから、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、桜井茶臼山古墳も、布留1式期のものとしておられる。
関川尚功氏は、つぎのようにのべている。
「箸墓古墳とホケノ山古墳とほぼ同時期のもので、布留1式期のものであり、古墳時代前期の前半のもので、四世紀の中ごろ前後の築造とみられる。」(『季刊邪馬台国』102号、2009年刊)
旧石器捏造事件を告発したことで著名な竹岡俊樹氏も、最近刊行された著書『考古学研究法』(雄山間、2023年刊)のなかで、つぎのようにのべておられる。
「高島(忠平、吉野ヶ里遺跡の発掘を行なった)も布留1式に出現する小形丸寇壺が出土していることから、ホケノ山古墳は4世紀後半のものであるとしている。小枝の年代と合致する。」
ホケノ山古墳は、卑弥呼や邪馬台国の庄内様式期にあてるべきでなく、西暦350年以後ごろの、布留式土器の時代のものとすれば、奈良県からは庄内様式の時代の青銅鏡の出土数は一例もないことになってしまう。青銅鏡の出土数を0として、ベイズ統計学によって計算すれば、邪馬台国が奈良県にあった確率は完全に0となる。
さらに次の事実も留意することが必要である。
「魏志倭人伝」に、倭人の墓制について、「棺あってかく槨なし」とある。北部九州で行なわれていた甕棺や箱式石棺は、「棺あって槨なし」にあてはまる。ホケノ山古墳の年代をくりあげて、「魏志倭人伝」の時代に近づけすぎると、ホケノ山古墳には、木槨があり、「魏志倭人伝」の記事と抵触する。「槨」は棺の外ばこのことである。
■絹について
『絹の東伝』[京都工芸繊維大学名誉教授、布目順郎(ぬのめじゅんろう)著]から
絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在等を探る
『魏志』「倭人伝」には、わが国で養蚕が行われ、縑(けん)や緜(めん)[綿(まわた)]を産出していることを記し、さらに、正始四年(243年)に、倭の女王卑弥呼が魏帝斉王(さいおう)に倭錦・絳青(こうせい)の縑・緜衣(綿入れ)・帛(はく)[帛は絹織物の総称としても用いられるが、ここでは白いうすぎぬを指している]などを献上したことや、卑弥呼の死後、壹与(いちよ)の代になってから、魏帝に異文雑錦二〇匹その他を貢(たてまつ)ったことを記している。
壹与貢上の年は記されていないが、250年前後のこととみられる。
邪馬台国の時代は、考古学での弥生時代後期に相当する。そこで、この時代とその前後の時代を通じての絹製品出土地を列記すると、次のようになる。
これらを通観すると、弥生後期の絹製品を出した遺跡もしくは古墳は、すべて北九州にある。したがって、弥生後期に比定される邪馬台国の所在地としては、絹を出した遺跡の現時点での分布からみるかぎり、北九州にあった公算が大きいといえるであろう。
わが国へ伝来した絹文化は、はじめの数百年間、北九州の地で醸成された後、古墳時代前期には本州の近畿地方と日本海沿岸地方にも出現するが、それらは北九州地方から伝播したものと考えられる。
私は、古代日本のシルクロードとして、北九州→瀬戸内海→大和地方のルート(Aルートと仮称する)と、北九州→日本海沿岸→北陸のルート(Bルートと仮称する)の二つを想定したが、それらは絹文化だけの伝播ではなくて、絹文化をもった人の集団の移動ではなかったかと思う。
ここで考えられるのは、邪馬台国の東遷のことである。私は、邪馬台国の東遷はあったと思っている。
東遷に際して、Aコースを行くグループとBコースを行くグループとに分かれたとも考えられるが、Aコースをとったのが邪馬台国のグループであったのに対し、Bコースの方はそれとは別のグループ、つまり、北九州地域にいた別の集団(彼らもまた絹文化の所有者であった)ではなかったかと想像する。
考古学者の森浩一氏は、その著『古代史の窓』(新潮文庫、1998年刊)のなかでのべている。
「ヤマタイ国奈良説をとなえる人が知らぬ顔をしている問題がある。(中略)布目氏(布目順郎、京都工芸繊維大学名誉教授)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次をみると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在等を探る』の項目がある。簡単に言えば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。」
朝日新聞社の柏原精一(かしわばらせいいち)氏もその著『図説・邪馬台国物産帳』(河出書房新社、1993年刊)のなかで下の地図を示したうえでのべる。
(下図はクリックすると大きくなります)
「弥生時代から古墳時代前期までの絹を出土した遺跡の分布図を見てみよう。邪馬台国があった弥生時代後期までの絹は、すべて九州の遺跡からの出土である。近畿地方をはじめとした本州で絹が認められるのは、古墳時代に入ってからのことだ。
ほぼ同じ時代に日本に入ったとみられる稲作文化が、あっという間に東北地方の最北端まで広がったのとは、あまりの違いである。ヤマダワの分布は別に九州に限らないから、気候的な制約は考えにくい。布目さんはつぎのような見解をもっている。」
「中国がそうしたように、養蚕は九州の門外不出の技術だった。少なくともカイコが導入されてから数百年間は九州が日本の絹文化を独占していたのではないか。
『倭人伝』のいうとおりなら、邪馬台国はまさしく絹の国。出土品から見ても、少なくとも当時の九州にはかなり高度化した養蚕文化が存在したことは疑いない。
『発掘調査の進んでいる本州、とくに近畿地方で今後、質的にも量的にも九州を上回るほどの弥生時代の絹が出土することは考えにくい。』そうした立場に立つなら、『絹からみた邪馬台国の所在地推定』の 結論は自明ということになるだろう。」
布目氏の本が刊行されたあとの1988年11月に吉野ヶ里遺跡の現地説明会が行われた。
吉野ヶ里遺跡からも絹が出土した。これも、布目氏ののべている結論をサポートしている。
■勾玉類データ
『魏志倭人伝』は記している。
「孔青大句珠(こうせいだいこうしゅ)[はなはだ青い大きな勾玉(まがたま)]二枚、異文の雑錦二十匹を貢(みつ)ぐ。」
「句」は、「勾」の本字である。L(かぎ)型にまがったものを意味するから、勾玉(まがたま)を意味するものとみてよい。勾玉は、倭国から魏へもたらされたのである。
邪馬台国=畿内説を説いた考古学者の小林行雄でさえ、つぎのようにのべている。
「弥生時代の硬玉製勾玉をみると、その大部分が北九州地方の墓からの発見品であり、そこでは輸入品の銅剣・銅矛などと同様な、財宝的とりあつかいをうけていたことが注意される。」(『古墳の話』岩波新書、岩波書店、1957年刊)
また、寺村光晴氏編の『日本玉作大観』(吉川弘文館、2004年刊)に、つぎのようにのべられている。
「定形勾玉の特徴は、木下尚子(きのしたなおこ)氏(安本注。熊本大学の教授などであった)が述べているがごとく、『極めて強い斉一性をもち、その形式的特徴は明瞭で』あり、弥生中期初頭に玄界灘(げんかいなだ)沿岸の早良(さわら)平野(福岡県)に出現しているが、糸島(いとしま)平野(福岡県)の三雲(みくも)加賀石の前期例も可能性をもっている。中期中ごろから後半になるとその分布範囲が福岡・糸島だけではなく、玄界灘沿岸全域と一部嘉穂(かほ)盆地(福岡県)に及んでいる。
勾玉の材質は、嘉穂(かほ)郡桂川町豆田の例以外が硬玉とガラスであり、その色も硬玉が緑色、ガラスが青緑色であるから色彩的にも規格制が働いていたことがわかる。
弥生中期以前の玉作遺跡は発見されていないが、最初に出現する硬玉勾玉の数例において糸魚川(いといがわ)(新潟県)産硬玉であることが確認されている。」
「少なくとも中期初頭には出現する『極めて強い斉一性』のある定形勾玉の製作地を玄界灘沿岸地域以外に求めることはできない。すなわち、定形勾玉のもつ北部九州連合の『精神的象徴性』に無縁の地域では、製作できない『かたち』であり、政治的最頂位者のみの所有物とされていた。今後、硬玉勾玉の玉作工房が唐津(からつ)[佐賀県]から福岡平野の中で発見されるものと考える。」
なお、木下尚子氏は、硬玉原産地の糸魚川(新潟県)と、勾玉の製作地の福岡県の玄界灘沿岸地域とをつなぐルートとして、日本海を行きかう道を考えておられる。
以上は『魏志倭人伝』に記載のある事物についての考古学的出土データを、網羅的、統一的に検討した結論である。
『魏志倭人伝』を基準とするなら、畿内説を支持するデータは、はなはだ乏しい。にもかかわらず、畿内説を支持する考古学者が相当数存在するのは全く不思議なことである。
東海大学教授(当時、徳島大学助教授)の考古学者、北条芳隆(ほうじょうよしたか)氏は述べている。
「いわゆる邪馬台国がらみでも、(旧石器捏造事件と)同じようなことが起こっている。」
「証明を抜きにして、仮説だけがどんどん上積みされており、マスコミもそれをそのまま報じている。」
「近畿地方では、古い時期の古墳の発掘も多いが、邪馬台国畿内説が調査の大前提になっているために、遺物の解釈が非常に短絡的になってきている。考古学の学問性は今や、がけっ縁(ぷち)まで追いつめられている。」(『朝日新聞』2001年11月1日付夕刊)
はじめに結論があるという「論点先取論法」によって、データを解釈して行くため、「かすったら邪馬台国、風が吹けば畿内説」といわれるような状況となる。
「事実」によっては成立しない説を、宣伝によって成立させる「大本営発表主義」にたよることとなる。
「邪馬台国畿内説」は、旧石器捏造事件とならぶフェイク(偽造)学説となりつつある。
「証明」において、現在、「論証」においては、「数学」が最もすぐれ、「物証」による方法では「裁判」における方法が、最もすぐれているというべきである。
なにごとであれ、もっともすぐれているものを「お手本」にすることは、問題を解決する近道であり、要諦である。
そして邪馬台国問題は、統計学をふくむ現代の数学の応用問題として解ける種類の問題である。
■「卜骨」の場合
ベイズ統計学による結論は、多項目の出土結果の総合にもとづくものである。そのため、今後どこかの県である特定の一項目(たとえば「鉄鏃」)の大量の出土があったとしても、それによって現在ベイズの統計学によって得られた結論が。崩れる可能性は、他の方法によった場合の結論よりかなり小さいはずである。
『魏志倭人伝』は、「(倭人は、)骨を焼いて卜する。そして。吉凶うらなう。」と記す。『古事記』の「上巻」(神話の巻)にも、天照大御神が、天の岩屋(いわや)にかくれたさい、鹿の肩の骨でうらなった話が見える。
「卜骨」の出土数においては、鳥取県が断然他の都道府県を圧する。鳥取県の青谷上寺地遺跡から250点の「卜骨」が出土している。
「卜骨」データだけをとれば邪馬台国が鳥取県にあった確率は85%に達する(下の表参照)。しかし、ベイズ更新をつづけていくと、邪馬台国が鳥取県にあった確率は、0(ゼロ)となる。鳥取県からは「鏡」「勾玉」「絹」などの出土を見ないからである。
奈良県は『魏志倭人伝』に記されている事物の出土状況において、なんら特徴を示す県ではない。「邪馬台国=大和(奈良県)説」を説く考古学者達は、何か夢でも見ているのではないか。