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Rev4 2024.10.4

第417回 邪馬台国の会
公理論的証明 (証明の論理的構造)
「邪馬台国北部九州説」六つの証明、その6


 

1.「邪馬台国北部九州説」証明の論理的構造

■はじめに
なにごとによらず、ものごとに成功したり、上達したりすることの近道は、その道で成功したり、上達したりしている人の方法のまねをすることである。
吉田兼好も『徒然草』の中で述べている。「先達(せんだつ)はあらまほしきことなり。」
邪馬台国が、九州にあったか、畿内にあったか、などのいわゆる「邪馬台国問題」は、古代史上最大の問題である。そして、それは「証明」を必要とする問題である。
現在、諸科学、諸学問において、「証明」に最も成功しているのは「数学」である。

とすれば、「邪馬台国問題」も、「数学」にならって解けばよいことになる。
そして現代の数学の一分野である「数理統計学(確率論にもとづく統計学)」「データサイエンス」の発展は「邪馬台国問題」「日本語の起源問題」なども数学の応用問題として解ける段階に達している。

前回の1月27日第416回の「邪馬台国の会」では、主に考古学的データによりベイスの統計学を用い、そのことを示した。
今回は、文献学的データも加え、より総合的に「公理論的証明」を行なおうと思う。
ここで「公理論的証明」というのは、「公理主義」にもとづく証明である。
「公理主義」については、『日本国語大辞典』(小学館刊)につぎのように説明されている。
「公理主義(こうりしゅぎ)〔名〕
すべての理論は、基礎となる公理群を出発点とし、厳密な推論によって打ち立てられなければならないという主張。一九世紀末、ドイツの数学者ヒルベルトによって提唱され、実践された。現代の数学はこの立場に立って推進されている。

ヒルベルトの「公理主義」において重要なことは、議論の前提、出発点となる「公理」についての考え方である。
ヒルベルトによれば、「公理」は明確に定義されているものであればよく、確実に正しいといえるものでなくてもよくて、「仮説」で十分であるとされていることである。
「ある仮説によって矛盾なく、すべての観測事実(データ)がうまく説明できるのであれば、もとの仮説をうけいれましょう。」という立場であることである。
「部分知」は必ずしも「全体知」に合致しない。
「公理論的方法」によって、より全体知に達しうるみこみがある。

「公理論的方法」については、すでに2022年8月28日第402回の「邪馬台国の会」の「邪馬台国探求のための哲学と方法」において説明している。

 

■まずその要点を記す。
自然科学の発展とともに、科学方法論自体もしだいに深くたずねられてきた。そして、どのような論理が学問によって望ましい論理であるかということも、明らかになってきている。

「ヒルベルトの方法」以前の「パスカルの方法」を見てみよう。
十七世紀のフランスのパスカルの方法は、その著『幾何学的精神』のなかで述べられている。
パスカルの論理の基準については、埼玉大学の吉田洋一氏、立教大学の赤摂也(せきせつや)氏共著の『数学序説』(培風館刊)にきわめて要領よくまとめられてぃる。以下、両氏の著書により、まずパスカルの基準を紹介しよう。パスカルは、定義にっいて三つの規則をあげている。

(1)それよりもはっきりした用語がないくらい明らかなものは、それを定義しようとしないこと。

(2)いくぶんでも、不明もしくはあいまいなところのある用語は、定義しないままにしておかないこと。

(3)用語を定義するにさいしては、完全に知られているか、または、すでに説明されている言葉のみを用いること。

また公理(議論の出発点、前提)について、二つの規則をあげている。

(1)必要な原理は、それがいかに明晰で明証的(論証や検証によらなくても、それじたいが、直接的に明らかで疑えないもの)であっても、けっして承認されるか否かを、吟味しないままに残さないこと。

(2)それ自体で、完全に明証的なことがらのみを公理として要請すること。

さらに、論証について、三つの規則をあげている。

(1)それを証明するために、より明晰なものをさがしても無駄なほど、それだけで明証的なことがらは、これを論証しようとしないこと。

(2)すこしでも不明なところのある命題は、これを、ことごとく証明すること。そして、その証明にあたっては、きわめて明証的な公理、または、すでに承認されてぃたか、あるいは証明された命題のみを用いること。

(3)定義によって限定された用語のあいまいさによって誤らないために、つねに心の中に定義された名辞の代わりに、定義をおきかえてみること。

パスカルの方法をまとめれば、自明のものを除くすべての「言葉」を「定義」し、また、自明でないすべての「命題」を「証明」しつくすということになるであろう。

 

■ヒルベルトの公理主義
パスカルの基準は、ギリシヤ人が幾何学を建設するのに用いた方法にほかならない。だからこそ、パスカルは、自分の書物を『幾何学的精神』と名づけたのである。
ところで、このような方法論は、自然科学のめざましい進展とともに、さらに洗練されてきている。

幾何学的精神の現代的な形式としては、「公理主義」がある。ある理論において、他の命題の前提となる基本命題の体系(公理系)を明らかにし、その公理系と、特定の推論規則とから、演繹的に理論をくみたてることを、公理的方法、または公理論という。ユークリッドの幾何学は、不完全ではあるにしても、その適例であると考えられる。またパスカルの方法は、公理主義の原初的な形といえよう。

現代の公理主義が、パスカルの説いた方法と異なる点は、主として「公理」についての考え方にある。パスカルにおいては、「公理」は「それ自身で完全に明証的なことがら」で、「万人に承認される明晰なことがら」でなければならないと考えられていた。ところが十九世紀のはじめに、「万人に承認される」とはいえない公理をもとにして、完全に無矛盾な非ユークリッド幾何学が建設されるにおよんで、この「公理」についての考え方は大きくゆらいだ。そしてドイツのヒルベルトは、「公理」はなんら自明の真理である必要はなく、たんに明確に定められた「仮定」で十分であるとしたのである。すなわち、いくつかの「仮定(公理)』をおき、そこから、「形式的に結論をみちびいて、そこに矛盾を生じなければよいとしたのである。

ヒルベルトは、「テーブルと椅子(いす)とコップとを、点と直線と平面との代わりに使っても、やはり幾何学はできるはずだ」とのべたと伝えられている。

ヒルベルトは、数学の基礎として、自分の考えをのべた。しかしその考え方は、やがて自然科学全体に、きわめて広汎な影響をおよぼすこととなった。

ドイツに生まれ、のちアメリカにわたったカルナップ(1891~1970)らは、この方法だけが科学的方法であり、すべての科学は公理論的に構成されるべきであるとして、「公理主義」をとなえた。

「公理主義」については、東京大学の教授であった数学者、小平邦彦(こだいらくにひこ)氏が、『数学のすすめ』(筑摩書房刊)のなかで、おもしろい例をあげている。
「碁盤の上に碁石を並べて行なうゲームに、五目並べがある。四目並べを考えれば、先手必勝でたちまち勝負がついてしまうので全然つまらない。六目並べにすると、いくら続けても永久に勝負がつかないので、やはりつまらない。すなわち、四目並べも六目並べも、五目並べほど面白くない。」

仮説系は、ゲームの規則に相当する。仮説系の内容が、豊富さをもつということは、ゲームがおもしろいものであることを意味する。
ある仮説を設けたならば、非常にたくさんのことが説明できる、というようなことは、結局、新しい、おもしろいゲームを発見するのと同じことである。しかし、そのような新しい、おもしろいゲームを発見するのは容易ではない。仮説系は単なる仮説であって、矛盾を含まないかぎりなんでもよい、とされている。しかし、非常にたくさんのことを説明できるような仮説系を設定することは、きわめてむずかしい。仮説系の選択の自由は、実際上はそれほど多くはない。

小平邦彦氏はのべた。
「コロンブスが新大陸を発見したように、まったく新しいものを発見したい。」

新しい、おもしろいゲーム、新大陸の発見は、すべての科学者の夢である。日本古代史の分野で新しいゲームの発見、新大陸の発見は可能なのであろうか。
現在ヒルベルトの公理主義は、数学者のあいだでは常識化している。そのため、私の邪馬台国や日本語の起源に関する議論について、数学者たちの見解はおおむね好意的であった。
たとえば、先に紹介した『数学序説』の著者、赤摂也(せつや)氏は愛知三郎のペンネームで、つぎのように述べてくださっている。

「最近出た安本美典氏の『新考・邪馬台国への道』は、『邪馬台国問題』の本で、私が本当に面白いと思ったものの一つである。」(『数学セミナー』1977年10月号「邪馬台国」)
また、林知己夫(ちきお)、池田一、森田優三、寺田和夫氏編の『計量的研究 -我が国人文・社会科学研究の最近の動向-』(1974年、南窓社刊)の中で、統計数理研究所所長の林知己夫氏(統計学者)は、拙著を紹介し、つぎのようにのべておられる(「諸分野の展望」の「歴史学」の項)。

「歴史学では近年、日本の古代史をめぐって数理文献学 mathematical text analysis と呼ばれるべき新たな方法が試みられている。これは文献の統計的分析に基づき、仮説の設定、推測、検定を行うものであり、とくに邪馬台国論争にこの方法が応用され興味ある結果がえられた。系譜のみがわかり、活躍の絶対年代が不明な諸天皇の在位時期を、活躍の年数がはっきりしている諸天皇の在位年数から推定した結果、魏志倭人伝にあらわれる卑弥呼は、日本の伝説的女王・天照大御神と一致することが推定された(安本、『邪馬台国への道』1967)。また神武天皇が活躍された時期は三世紀末と推定された(安本、『神武東遷』)。安本はさらに最近『数理歴史学』(1970)の発行により、数理的方法の歴史学への導入について多くの示唆を与えた。この種の研究に対する歴史学者)の評価が定まるにはなお時日を要しようが、注目すべき業績といえよう。」

この『計量的研究』という本は、第二次大戦後わが国の人文・社会科学の諸分野での計量的・数理的方法による研究が、どのような問題に対して、どのような方法で展開され、どのような成果を示したかをまとめたものである。この本は、つぎのような事情で成立している。
すなわち、ユネスコ本部では、人文・社会科学の諸国の研究動向をレヴューする事業を進めていた。
日本ユネスコ国内委員会では、この事業に協力する趣旨で、「人文・社会科学研究主要動向調査」を実施し、その成果を、1973年に、英文報告書として出版した。
この本は、この英文報告書のもとになった和文原稿を土台として成立したものである。
このように、この本は、もともとは、わが国の学界事情の対外紹介を目的とした企画にもとづくものである。

そして、林知己夫は、さらに、行動計量学会の刊行物委員会の委員に私を加えて下さり、その結果、「行動計量学シリーズ」の一冊として、私は、『言語の科学』(朝倉書店刊)を書いた。この『言語の科学』については、東京理科大学教授の数学者、細井勉(つとむ)氏が、次のように書いてくださっている。

「じつは、評者は、以前から、安本氏の著書は、この本に限らず、統計学の入門書、啓蒙書としても素晴らしいものだという、著者が意図していないと思われる面からの評価もしています。そのような本として学生に推薦したりもしています。もちろん、目指している目的から、統計学としては扱う範囲が偏ってはいます。でも、具体的な応用例が、ふつうの統計学の入門書の場合のように付け足し的というのではなくて、本格的なので、その意味でも面白みがあるのです。」(『数学セミナー』1995年12月号、「計量言語学の手法とその成果」)

これに対し、日本史学、考古学関係の方の意見には好意的なものもあったが、かなり批判的なものもあった。
そのような批判的な見解は、ヒルベルト流の公理主義に不案内で、パスカル流の出発点となる前提、公理は、誰が見ても自明で絶対に確実なものでなければならない、と考えるところから来ているものが、少なくなかった。

たとえば、私は、古代の年代論において以下のようなことを考えた。
まず考えたのは卑弥呼の時代は、わが国の『古事記』『日本書紀』の伝える天皇の、どの天皇の時代にあたるのであろうか、ということであった。
そこで、時代別に天皇の平均在位年数を、統計的に調べると、古代にさかのぼるにつれて、しだいに短くなる傾向が、はっきりとみとめられる。そして日本の天皇でも中国の皇帝・王でも、西洋の王でも、一世紀~八世紀の、存在の確実な天皇・皇帝・王の平均的在位年数は約10年程度である。この数値をもとに、天皇の代の数によって推定を行うと、かりに第1代神武天皇以下、すべての天皇が実在したと考えても、第1代神武天皇の在位した時期は、西暦300年前後となる。
つまり大和朝廷の成立は、卑弥呼の時代よりもあとであることになる。
卑弥呼の邪馬台国の時代は『古事記』『日本書紀』の記す神話の時代にあたることになる。

ところで、『古事記』『日本書紀』の神話は、神武天皇の「5代」前の祖先として「天照大御神」という女神がいたことを記している。この「5代」という数をもとにしてさかのぼれば、卑弥呼の時代と天照大御神の時代との年代がちょうど重なることとなる。
とすれば、天照大御神は、卑弥呼の事を、神話的に伝えたものであることが考えられる。
とすれば天照大御神がいた「高天の原(たまのはら)」は、卑弥呼のいた邪馬台国のことを、神話的に伝えたものであることが考えられる。

かくて、邪馬台国について、日本がわの伝えた伝承という形での、新しい情報が得られることになる。
そして「高天の原」は、北部九州の地を舞台としているとみられる根拠がある、---。この仮説は面白いゲームなのではないか。

これに対して安本美典説批判の人々は考える。
神武天皇や天照大神などは、後の時代の大和王権の役人たちが、皇室の尊厳を高めるために作り出した物語である。そのことは、津田左右吉氏などの「文献批判学」によって、すでに明らかにされている事実である。
安本説は、神話と史実を混同するものであって、話にならない。

しかし、このような批判は津田左右吉氏などの説を確実に正しいものと決めてしまっている議論である。
津田左右吉氏の説も、また、一つの「仮説」であることに、気がついていない。
げんに東京大学の文献史学の泰斗(たいと)であった黒板勝美教授は、津田左右吉の日本神話作為説を、「大胆な前提」から出発した研究とし、「余りにも独断に過ぎる嫌(きら)いがある」と批判している(『国史の研究各説』岩波書店刊)。

また、津田左右吉氏の「文献批判学」は、西欧の19世紀の「文献批判学」と、発想を等しくするものであるが、『数理哲学の歴史』(斉藤義一訳、理想社刊)をあらわしたドイツのマルチンは、19世紀的文献批判学を表して、「自己自身に対して無批判な批判」と述べている。
かくて安本説批判の人々は「安本説は津田左右吉氏の議論以前の方法によるもので、話にならない」と考えるのに対し、私の方はそのような批判はヒルベルト以前の、パスカル的方法によるもので、話にならないと考えることとなる。たがいに相手がわの不勉強であると考えることになる。

 

■拙著について、各分野の研究者の見解の、おもなものを、つぎにみておこう。

(1)日本史学者、上田正昭氏(京大教授)の見解
上田正昭氏は、その著『日本の女帝』(講談社現代新書)のなかで、「卑弥呼を特定の人物に比定しょうとするこころみは、『日本書紀』いらい、いろんな人々によって行なわれてきた」、そして、倭迹迹日百襲姫、倭比売命、神功皇后、熊襲の女酋説などがあり、「最近では神話の神、天照大御神ではなかったかとする説も現われている」が、「どの説も決定的な証拠に欠けていて、この人物だと断定することはできない」とのべておられる。また、上田正昭氏は、『論集 日本文化の起源2 日本史』(平凡社刊)の「解説」の「邪馬台国の謎」の章で、「古代史家以外でも安本美典の『邪馬台国への道』(昭和四二年)、松本清張の『古代史疑』(昭和四三年)など、論争に加わった人々は、それぞれ独自の興味ある解釈と方法とによって、新九州説をのべた。」と記しておられる。
どのような説も、それがなりたつかどうかは、可能性の大小の問題で、「決定的な証拠」をもって、「断定する」ことができないのは当然である。それは、邪馬台国についての、すべての説についてあてはまることであるといえよう。したがって、問題は、「断定」できるかどうかではなく、どの説が、どれだけ多くの矛盾をもつか、方法論的な妥当性をもつか、である。
いずれにせよ、上田正昭氏が、私の「卑弥呼=天照大御神」説に、積極的に賛同ではないが、方法が、「独自の興味ある」ものであることは認める、という立場にたっておられるということはいえるであろう。

(2)西洋史学者、林健太郎氏(東大教授、学長)の見解
林健太郎氏は、その著『歴史と体験』(文芸春秋社刊)のなかで、拙著をとりあげ、つぎのようにのべておられる。
「津田(左右吉)の行なった偶像破壊の功績は大きかったが、津田史学およびそれを受けついだ今日の学者たちが、神武天皇の存在やそれ以後の代々の天皇の存在を否定することはこのような伝承の持つ真実性に背を向けた態度であると云わなければならないであろう。神武天皇について記紀が記す個々の物語りが事実でないことは云うまでもないが、『東征』という一つの民族移動が行なわれ、一人のすぐれた指導者の力によって大和国家の基礎が築かれたという大きな歴史的事実は到底否定すべくもない。初期の天皇の在位年数が不当に長く、且つそれが父子相伝の形をとっていることは、もちろん史実と見ることは出来ない。しかし在位年数が長くなったのは聖徳太子の時に採用された讖緯説(しんいせつ)によって建国の年をそれより1260年前と想定した哲学の故であって、それは年数の架空を示すものではあっても伝承された支配者の数が架空であったことを証明するものではない。
それが架空であるならば、かえってもっと数多くの天皇を創作することの方がはるかに自然であったろうという説は正しいであろう。

以上のことは今日の代表的な正統的歴史家坂本太郎氏(日本史学者、東京大学名誉教授、文学博士)の説をのべたに過ぎないのであるが---なお坂本氏は初期八代の天皇が単なる架空でないことの積極的な証拠をもあげている---これとほとんど同様の説が全く異なった学問的基礎を持つ新進学者安本美典氏によっても説かれているのは興味あることである。
私はさきに、かつての史料学の素朴実証主義が持つ欠陥は、それが十九世紀の末に起こった自然科学と人間科学の方法的相違の認識に到達していなかったためであると云った。しかし今日においては、この自然科学と人間科学の方法的相違の強調も、学問の方法論としては古いものとなりつつある。自然科学そのものが、もはやかつての素朴な経験主義による実証を脱却しているのである。

自然科学においても、認識者の主観という契機を捨象することは出来ない。それ故に、あらゆる科学は仮説の設定と事実によるそれのテストという無限の発展の中に成立することになる。これについては今日の科学方法論の問題として別個に論ぜられなければならない。ただここでそれに関連することを云えば、右の安本氏の研究はこのような新しい科学概念から生まれているということが重要である。詳しくは氏の著書を参考されたいが、(中略)氏が(『神武東遷』〔中央公論社刊〕の中で)つぎのように云っていることは大へん示唆的である。
『史的真実と夾雑物を半分ずつふくんでいる史料が十個ある時、曾ての実証主義的文献批判の方法では、このひとつひとつの史料を攻撃して、確実に信用できる史料が一つもないから、そこにこの十個の史料から一つの作意だけを読みとろうとする。しかし新しい科学方法論によれば、一つの史料がある仮説に矛盾するかどうかをしらべ、すくなくとも矛盾しない時には「イエス」の答えを出す。同様の手続きをくりかえして十個の史料から「イエス」の答えが出れば、その仮説を採択し、それを史的真実と認める』(以上大意)

私もこれが今日の史料学の正しいあり方であると思う。曾ての史料学の素朴実証主義は正に『樹を見て森を見ない』危険性を包蔵しているのである。

林健太郎氏は、学園紛争はなやかなりしころ、学生との長時間の団交にあたり、また、自民党の参議院議員などもされたので、右翼的なイメージの強い方である。しかし、もともとは、唯物史観の立場から研究をはじめた方である。第二次大戦後も、しばらくは、左翼的な立場にたっていた方である。左翼思想にも、理解のある方で、また、西洋史学が専門で、その動向に、深い学識をもつ方である。その一端は、「林健太郎氏は語る 戦後日本史学の問題点」(『季刊邪馬台国』21号、1984年刊)と題する対談で、うかがうことができる。

(3)言語学者、柴田武氏(東大教授)の見解
柴田武氏は、さきに紹介した『計量的研究』の中でつぎのようにのべておられる。
「安本(「邪馬台国の位置について」『計量国語学』1966、39、7)は、Content analysis(内容分析)の方法によって古事記を分析し、(a)地名については、九州が最も多く、山陰地方がそれにつぐ、(b)人名については、大国主命と天照大御神が最も多い、(c)葦原中国に関する記述が最も多く、葦原中国=山陰地方と考えて矛盾を来たす文例は一つもない、(d)葦原中国=山陰地方と仮定すれば、高天の原=九州地方が導き出される、のように推論した。さらに、卑弥呼は天照大御神と同一人物である可能性がきわめて大きいことを推論し、天照大御神が活躍した場所は九州であり、高天の原は北九州の甘木市付近ではないかという。高天の原のアマと甘木市のアマとの音形の一致は偶然ではない。甘木市付近の地名と地名間の位置関係はそっくり近畿地方の大和付近の地名のそれと対応するところから、近畿の大和に対応する北九州の地名は夜須町となる。(中略)
安本はこの説を単行本『邪馬台国への道』(1967)で問い、一般の話題となった。安本の推理には、その推理の跡をたどる限り、矛盾はなく、妥当なものである。安本はこれを『数理歴史学』にまで発展させ、同名の単行本を出した。」

(4)考古学者、田辺昭三氏(奈良大学教授)の見解
田辺氏は、その著『増補謎の女王卑弥呼-邪馬台国とその時代-』(徳間書店刊)の中でのべられる。
「『邪馬台国への道』を出版していらい、数理統計学を武器にして邪馬台国論に挑戦している安本は、ひきつづき『卑弥呼の謎』を発表した。安本がこの本のなかで引き出した結論は、卑弥呼=天照大御神説であり、邪馬台国=高天の原=北九州説である。安本は、この本のなかで『日本神話』が一応史実のかなり忠実な反映であるとして、その正当性を繰り返し強調している。そして、『神話』に対するそのような評価が、卑弥呼=天照大御神説や邪馬台国=高天の原=北九州説を導きだす操作の。前提になっているのである。
このような姿勢は、『三国志』と記紀神話とを同列に扱おうとするものであり、先人の研究業績をいまさら引き合いに出すまでもなく、言語道断である。
安本の邪馬台国論は、そのスタートにおいて真実を明らかにする軌道とは別の道をたどったことになり、その前提条件に基本的な誤りがあるとすれば、どれほどに客観性をもつ方法を駆使したところで、正しい結論に到達することはできない。

東京大学の林健太郎氏、柴田武氏は安本の仮説にしたがうとき、矛盾を生ずるか否かという視点から、見解をのべている。これに対し、奈良大学の田辺昭三氏は、安本の議論は出発点がだめであるから、「言語道断」であるという。

私は、みずからの方法の構造を、かなり丁寧に説明したつもりであった。東大の先生がたは、私の議論の本質をつかんだ上で見解を述べている。
田辺昭三氏は、みずからの主張も、また、ある「仮説」に立脚していることに、気がついてないか、認めない。みずからは、確実な根拠にもとづくものと思いこんでいる。

議論の構造をよく検討してほしい。
田辺氏はヒルベルト以前の、パスカル的論理によって議論しているのである。
私のほうから言えば、田辺氏の議論こそ「言語道断」である。「分からず屋!」といいたくなる。

 

■人間の「認識」について
ここで人間の「認識」について考えてみよう。
人間が「特にその外部世界」を「知る」「認識する」ことについては、次のような説がある。
(1)外部世界を「反映」しているのである(反映論)。
(2)外部世界を「模写」しているのである(模写論)。
(3)外部世界についての地図を作成しているのである(地図論)。
私は「認識」を、人間の外部世界に対する積極的な行為であると考えるので、(3)の「地図論」に賛成である。

「地図論」は、おもに、コージプスキーなど、アメリカの一般意味論の学者達によってとなえられた(コージプスキーは、ポーランドの出身)。

「明日の予定を立てる」「設計図を書く」などは、すでにできあがっている世界の「反映」「模写」ではなく、一種の地図を作っているのである。
「こうすればこうなる」は「この道を行けば、この場所(結論)に達する」ことを示している。
数学は、どのような公理(前提、仮説)から、どのような結論に到達しうるかの「認識地図」を、比較的容易に、かつ機械的であるがゆえに客観的に作成しうる方法なのである。

数学は、巨大な構造をもつ。その構造は、舗装された道路や、鉄道網にもたとえられる。
他の方法にくらべ、より早く、迷子にならずに目的地に達する。どの道を通ればどこに行けるか(どのような結論に達するか)を比較的容易に、かつ客観的に知りうる。結論に至る過程(一種の推測過程)は、規則的な演算約束という形で整備されている。そこでは、必要に応じてコンピューターのような超特急列車に乗ることもできる。

本物の地図は五万分の一地図などのように。縮尺率が記されている。数字を使うことによって、はじめて正確な地図が描ける。「角(かど)のガソリンスタンドのところを右にまがって」というような日常言語(自然言語)だけでは正確な地図は描けない。
数学は外部世界の「認識」にあたって、日常言語によるよりも正確な地図を描きうる方法なのである。

わが国で、はじめてノーベル賞を受賞した物理学者の湯川秀樹は、『現代の科学Ⅱ』(「世界の名著」第66巻、中央公論社刊)の中で述べている。
「数学が形式論理的な演繹(えんえき)で非常に多くの結論を出せるというのは驚くべきことであって、数学以外のことばだけを使った論理ではそう先へは進めない。はじめからわかっていること、つまり同語反復(トートロジー)以上にはなかなか出られない。ところが数学の場合に驚くべく豊富な結論を生み出すことができるのは、その論理のなかに数学的帰納(きのう)法なるものがふくまれているためでもある。後者は形式論理の単なる繰り返しであるかどうか。ポアンカレ(フランスの数学者)は、ここに一つの大きな飛躍があるとみる。私もたぶんそうだろうと思う。いかにも普通の形式論理と似た形をしているけれども、やはりちがうのではないか」

数学は人間が用いる言語の一種である。数学は科学の世界の共通言語である。それは外国語を学ぶときと同じように一定の学習を必要とする。

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