■邪馬台国が福岡県にあった確率、奈良県にあった確率。
『魏志倭人伝』に記されている事物の出土数の多いところが、その多さに比例して、邪馬台国の可能性が大きいという素朴な発想にたつ。その「可能性の大きさ」は、「確率」におきかえられうると考える。
福岡県、佐賀県、長崎県、奈良県にしぼった場合の最終確率の求め方は下の表のようになる。
ベイズの統計学は「原因の確率」を求めるもの。
前の邪馬台国の会[第416回2024年1月27日(土)]の質問から、計算における、「鏡」などの項目で、「勾玉」や「絹」などのように、その項目が0になる場合、その県の最終確率が0になってしまう。これはおかしいのではないか?とあった。
ここで、ホケノ山古墳の2点の小枝試料の炭素14年代測定値では、中央値は、西暦364年になる(第416回の邪馬台国の会)。
また、関川尚功氏は小形丸底土器が出土していることから、これは布留式土器で4世紀の中ごろとなる。更に『魏志倭人伝』から墓は棺あって槨無しとしていることからホケノ山古墳は槨があるので邪馬台国時代では無い。これらの結果からホケノ山からの鏡の出土を0とすると。奈良県の鏡の3個は0となる。
福岡県、佐賀県、長崎県、奈良県、鳥取県をとりあげた場合の最終確率は下の表のようになる。
この結果、県を増やしても、奈良県の鏡を0にしても、福岡県、佐賀県の最終確率の数字は変わらない。
0の代わりに1を入れると、下の表のようになる。
この結果でも、福岡県、佐賀県の最終確率の数字は変わらない。
■「ことば」「情報」「数」とは、どのようなものか
「ことば(言語)」とか、「情報」とか、「数(数字)」とかは、どのようなものであろうか。
スイスの言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure 1857~1913)は、その著『一般言語学講義(Cours de linguistique générale)』のなかで、次のようなことを述べた。
「言語」は、「記号」の体系である。
その「記号」とは、次の二つのものの結合体である。(下図参照)
(1)表現形式
signifiant(シニフィアン)(フランス語の、「意味するもの」の意味。「意昧する」「表現する」という意味の動詞の、現在分詞)。能記(小林英夫)、記号表現(丸山圭三郎)などとも訳される。
(2)意味内容
signifié(シニフィエ)(フランス語の「意味されるもの」の意味。「意味する」「表現する」という意味の動詞の受動態)。所記(小林英夫)や記号内容(丸山圭三郎)などとも訳される。「表現形式」によって、指し示される内容のことである。
「情報」も、基本的には、「ことば(言語)」と同じ構造をもつが、サイエンスの分野では、ふつうの「ことば」にくらべ、「意味内容」が、あいまいさをふくまず、「数(数字)」など、一義的に明確に定められたものであることが多い。
言葉とは表現形式と意味内容の裏と表がでくっ付いたものが、言葉としての単位である。
意味内容という内容にそれに言葉の表現形式である荷札のようなラベルを貼ったのが言葉の本質である。
『意味の意味』(オグデン・リチャーズ共著、石橋幸太郎訳。新泉社、2008年刊。原書は、1923年刊)
これは、言語論の古典的名著とされる。
心像(しんぞう)[image]は思い浮かべたもので、感覚的性質をもつもの。富士山を思い浮かべるとき〈知覚〉ほど生き生きとはしていないが、あの形、峰につもった雪などがあらわれる。これが富士山の〈心像〉である。〈視覚心像〉のほかに、〈聴覚心像〉、〈嗅覚心像〉など、すべての感覚に対応する心像がある。〈表象〉と同じ。〈観念〉は考えられたものであるから、〈心像〉をもつ観念があり、〈心像〉のない観念がある。
子供の方が、心像を浮かべることが強い。
直観像(ちょっかんぞう)[eidetic image]とは10~13歳ごろのコドモに多くみられるもので、思い浮かべたものが外部にあるようにみえる像。'外に見える'という点、すなわち視覚的性質をもち外部に投射される点では、〈知覚〉や〈幻覚〉と同じであるが、'思い浮かべたもの'という主観的なところは〈心像〉や〈表象〉と同じである。
・直観像が強い人がいる。
直観像が強い例として下記の2人がいる
【室伏高信】(むろぶせ こうしん)(1892-1970)大正~昭和時代の評論家。明治25年5月10日生まれ。大正デモクラシーの論者として活躍したが、昭和10年代は「日本評論」主幹をつとめ、ファシズム体制に同調した。戦後公職追放。昭和45年6月28日死去。78歳。神奈川県出身。明大中退。著作に「デモクラシー講話」「文明の没落」など。
話として、ある政治家のところへ行ったところ、ここに会議の議事録がある。メモをとらずに見るだけなら記事にしてもよいと言われた。そうしたら議事録が丸暗記されてそのまま記事になったとのことである。
【谷口雅春】(たにぐち まさはる)(1893-1985)大正~昭和時代の宗教家。明治26年11月22日生まれ。大本教、西田天香(てんこう)の一灯園をへて浅野和三郎の心霊科学研究会に参加。昭和4年「物質はない、実相がある」との神示をうけ、5年雑誌「生長の家」を創刊、病気と人生問題解決をうたい信者をふやす。15年宗教結社生長の家を設立、初代総裁。昭和60年6月17日死去。91歳。兵庫県出身。早大中退。
本名は正治(まさはる)。著作に「生命の実相」など。
◆敵は自分に生長する栄養物を与えてくれる味方である
試験勉強をしなくても、本があたまにそのまま入るほど、直観像がすぐれていたと言われている。
以下は『岩波 心理学小辞典』(宮城音弥編)や『岩波 哲学小辞典』(粟田賢三・古在由重編)から、
概念とは
概念(おおむねおもう)[一般的、辞書にかいてあるような意味]
概念[英・仏concept、独Begriff] 通俗には事物の概略的知識の意味に誤用されることがあるが、概念は、事物の本質的な特徴(→徴表)をとらえる思考考形式である。例えば金属という概念は固体、不透明、光沢、展性、熱・電気の良導体、酸素・塩素・硫黄などとの化学的親和性等を本質的な徴表とする化学元素を指す。こうした徴表の総括を概念の内包という。金属の概念は銅・鉄・金・銀など多くの元素に適用されるが、概念の適用される事物の範囲を概念の外延という。従って概念においては多くの事物に共通な特徴がとりだされ(抽象)、それ以外の性質は度外視(捨象)されている。ただし唯一つの対象にのみ適用されるものもある(→単独概念)。概念は言語とともに発生したもので、言語によって表わされる(→名辞)。概念の構成については類似の事物を比較して共通の特徴をとりだすこととして説明されるのが普通であるが、科学的概念はこのような簡単な手続きでできるものではない。事物の性質の分析、諸性質の相互の連関、作用、他物との相互の関係、作用の研究によって事物の本質がとらえられるのである。
上の金属の例でも直接の知覚でとらえられぬ最後の二つの徴表が重要なのである。資本主義の本質をとらえるにはマルクスの《資本論》が必要であった。また原子の概念のようにまず仮説として提出され、のちに事実によって確証されることもある。科学的概念は研究の成果の総括であって、抽象的ではあるが単なる知覚よりも深く対象をとらえる。概念の内包は研究の進歩によって深まり、対象の発展によって豊かになる。例えば資本主義が帝国主義段階まで発展すれば資本主義の概念もより豊かになる。
上記「概念」のなかで、徴表(ちょうひょう)[英 note, mark,独Merkmal]とは、事物がどのようなものであるかを示し、それを他の事物と区別する性質。属性とよばれることもある。
概念に対し観念がある。
観念(みておもう)[個人的な考え]は心像にちかい。
観念[idea] 思考の対象をいう。日本について思考するとき、われわれは日本という〈観念〉をもつ。[類似のコトバとのちがい]〈心像〉は知覚像のように対象はないが、多かれ少なかれ感覚的性質をもっている(富士山の心像は、あの形、あの頂上の雪の白さなどを示す)。これに対し、観念は、心像の形をとることもあるが、もっと抽象的なことがある。心像をもつ観念があり、心像をもたぬ観念がある。〈概念〉は一般的で論理的なものであるが、観念は考えられたものであり、心理的である(観念を示すⓁideaというコトバは'直接にみる'ことを意味するが、概念Ⓛconceptumは、'つくり上げられた結果'を示す。この語原の差が両者の差にあらわれている).
'各人各様の観念をもつ'というが、'各人各様の概念をもつ'といわぬような点で、両者の区別が明らかとなるであろう。
内包と外延
【内包】(ないほう)〔名〕伝統論理学で、概念が適用されるすべての事物に共通する性質の総体。たとえば「人間」という概念に対して、「理性性」や「動物性」のたぐい。
【外延】(がいえん) 〔名〕(英 extension の訳語)概念が適用される事物の全体の、もとの概念に対する称。たとえば、金属という概念の場合。金、銀、銅、鉄などが、これに当たる。
外延[英・仏 extension, 英 denotation, 独 Umfang] 概念の適用される事物の範囲、たとえば一切の動物は動物という概念の外延。これに対して動物にとって本質的な、あらゆる動物に共通な徴表の総体は、この概念の内包(英 intension, connotation, 独 Inhalt, 仏 compréhension)といわれる。
動物の概念とくらべると脊椎動物の概念は内包が増すかわりに外延が狭くなる。哺乳類はさらに内包を増し外延が狭くなる。概念をこのように上下の系列にならべると、外延と内包の増減はその方向が相反する関係にある。ただし動植物や日常的概念についてはこの関係が成り立つが、科学的概念においては必ずしもそうでない。たとえばエネルギーの概念は熱・電気・運動等のエネルギーが相互に転化しあうことが含まれているから、各エネルギーの概念に比して内包が貧弱だとはいえないのである。
そして、人間が、「とくにその外部世界」を、「知る」「認識する」ことについては、次のような説がある。
(1)外部世界を、「反映」しているのである(反映論)。
(2)外部世界を、「模写」しているのである(模写論)。
(3)外部世界についての、「地図」を作成しているのである(地図論)。
これは、外部世界とは、「外界にあるモノそのもの」で「感覚像、知覚像」
①「心像 イメージ image」 ----- 反映
②「概念」 ----- 模写
③「自然言語による認識地図」 ----- 地図
「位置づけ言語による認識地図」
”本の何ページの何行目に記されている”とか、場所の指定で、邪馬台国はどこに位置づけられるか、などである。
ものが実在しているか?
実在・実在性[英 reality, 独 Realität]とは、原語は実在、実在性の両意味に用いられる。実在性は個人の意識のうちに観念としてあるという意味での観念性に対立する語で、意識から独立に客観的に存在すること。
そして、唯物論と唯心論がある
唯物論[英 materialism]は神にたいする物質の根源性を主張する立場であり、その反対に物質にたいする精神の根源性を主張する観念論に対立する。マテリアリズムという名称は、ヨーロッパでは18世紀に成立したが、観念論と唯物論との対立そのものは哲学史とともに古く、いろいろな形で古代から現代にいたる哲学史全休をつらぬいている。
唯心論[英 spiritualism]は世界の本質と根源を精神的なもの(霊魂・精神・理性・意志など)にもとめ、したがって物質的なものをその現象または仮象とみなす学説。ーーー三界は唯心の所現
人類が滅亡した場合でも、外部世界は実在したと唯物論者は言うが、言葉など概念は人類が創ったものである。その証明する人類が存在しないのにどうして説明できるのか?
そこで、仮説的に外部世界があったとする仮説的実在論となる。
・信念的外部世界実在論→(もの)ーーーーーーマルクス説
・仮設的外部世界実在論→(言語、社会、情報、もの)ーーー安本説
過去においても、外部世界は存在した→それが歴史である
■数・数学とは、何か
(1)「数」や「数式」は、言語の一種である。「表現形式」と「意味内容」とを持つ。
(2)自然言語の上に成立する。
【自然言語】(しぜん げんご)〔名〕社会において自然に発生し、自然に用いられている言語。
【形式言語】(けいしき げんご)〔名〕[英 formal language の訳語]記号や式などによって構成される人工言語。
「ミカン」「クダモノ」ということばが成立していなければ、「ミカン」「クダモノ」を数えることができない。
「数」「数学」は形式言語のうちにはいるといえよう。そして「数」をもたない民族がいる。[ピダハン族(ブラジル、アマゾン川)]
(3)「数(数字)」は、一定の形をそなえたもの、あるいは、測定の方法などによって定義を与えられたものであれば、「魚」であろうと、「エンピツ」であろうと、「時間」であろうと、「距離」であろうと、「温度」であろうと、「ことば」であろうと、「出土数などの頻度」であろうと、「ゲームなどの勝率」であろうと、「確率」であろうと、対象のいかんをとわず、カウントすることができる。(「ことば」のカウント例。授業中にA先生は、「エー」という「ことば」を、何回言ったかなど)
(4)「数(数字)」で表現されたものについては、四則演算をすることが可能である。(A先生が、今日、「エー」といった回数は、昨日にくらべいくつ少なかったか、とか、A先生に、「エー」という回数が多すぎます、と注意したら、回数が5分の1に減った、とか)
四則演算が可能である、ということは、「数学」が、適用できる、ということである。
(5)「数」は、「プラス無限大+∞」から「マイナス無限大-∞」までの値を表記できる。また、0と1の間だけでも無限に小さく分割表記できる。数列。
(6)すでに得られている数学の全体像を、「交通網」になぞられえことができる。
(7)たとえば、「整数」を、旅行の際の「駅」に、なぞらえることができる。
(8)具体的な問題解決のために用いられる数学の諸手法を、「交通手段」になぞらえることができる。ある「前提(公理系)」や「基本データ」の駅から出発し、微分・積分、ベイズの統計学などの「交通手段」を用いれば、ある「結論」という駅やバスストップなどに到着できる。「交通手段」は、飛行機、新幹線にあたるようなものから、バス、自転車、徒歩に当たるようなものまで、さまざまな数学の方法が用意されている。
(9)数学の発展は、交通の整備や、交通手段の進化などになぞらえることができる。
(10)数学そのものの探求や数学を用いての探求は、交通手段を開発することや、地図を作ることや、旅行をすることなどになぞらえることができる。
(11)現代の数学は、巨大な交通網、交通手段を整備した形になっている。
(12)「数」や「数学」は、「位置づけ言語」といいうる。最終結論は「数値」として示され、「プラス無限大」から「マイナス無限大」までの数の列のどこかに「位置づけ」られる。
たとえば、「ベイズの統計学」を用いて、「邪馬台国が福岡県に存在した確率P」を求めれば、その結論Pは、「0=<P=<1」のあいだのどこかに「位置づけ」られる。
(13)「数字」は、「位置づけ言語」であるから、ある特定の家の特定の電話器の位置を、「電話番号」という特定の「数字」で「位置づける」ことができる。(全世界の人に、一連番号を付しても、10個の数字の十桁以内でおまる。)
これを数字以外の言葉で位置付けようとすればどうなるか?
「何区何丁目何番地」というような地域を細分化して行く方法で、ある家の住所を、「位置づける」ことができる。そうして、その地域を、たとえ「a、b、c、・・・」の組みあわせで表記する約束にすれば、数字を用いないで、あなたの家の住所、すなわち、特定の電話機の位置を表記できるであろう。しかし、それは、「数字」を用いる場合に比べればかなり不便なことになる。
ある本の中に書かれている特定の記事の位置を、「何ページの何行目」というように、「数字」で示せば、確実に、その記事の「位置」を指定できる。これも「数字」を用いないで、位置を示そうとすれば、かなりやっかいなことになる。
私たちはなれてしまっているので、そのありがたさを感じなくなっているが、考えてみれば、「数字」は、霊妙ともいえる働きをする「言葉」である。個人の主観的判断ではない。
ものごとを正確に指定位置づけるばあいには、「数字」あるいは「数学」を用いることが便利であ。あるいは必要であるということになる。
■「位置づけ言語」の種類
(1)名義尺度(例:県ごとの鏡の出土数)
分類、カテゴリー分けをする。
内包と外延とによって分類できる。
あるカテゴリーに属するものが、いくつあるかなどを調べることができる。
(2)順序尺度
順位、順序、序列をつける
「兵隊の位」「天皇の代」「声のよい人の順」「いろは順」「アイウエオ順」「a,b,c,順」「1,2,3,順」など。
(3)間隔尺度
間隔がほぼ等しい序列。
摂氏の温度は、序列と間隔とをもつが、0度は、温度が存在しないことを意味しない。
つまり、絶対0点ではない。温度差は意味をもつが(今日は、昨日よりも平均して5度高い、など)、温度同士の比率をとることは意味をもたない(20℃は、は10℃の2倍の温度ではない)。
(4)比率尺度
絶対0点を持つ間隔尺度。
■ヒルベルトの公理論
ヒルベルトはドイツの数学者。ゲッティンゲン大学の教授など。
『ヒルベルト』C.リード著 弥永健一訳、岩波書店、1972年刊、によると、
私講師であった時期に、ヒルベルトはハルレでH・ウィーナーの行なった幾何学の基礎とその構造についての講義に出席した。ケーニヒスベルクへの帰途、ベルリンの駅で、幾何学的実体を扱う際のウィーナーの抽象的視点に影響を受けたヒルベルトは、考え深げにその仲間たちに語っているーーー「点、直線、それに平面というかわりに、いつでもテーブル、椅子それにビール・ジョッキというように言い換えることができなくてはならないのだね。」この日常的な言葉の中に、彼がこれから行なおうとしていた一連の講義の本質がある。
ヒルベル卜の幾何学へのアプローチを理解するために、われわれは数学が、かつてその誕生の時に、一見して自明な命題の数々と、それらから明らかで論理学的な方法によって得られた命題との、どちらかといえば雑然とした集積体であったということを思い起さなければならない。この自明性という基準は、数学的知識の発展過程において、野放図に用いられた。それに続いて、紀元前3世紀に現われたユークリッドという一教師が、当時の知識の一定部分を一つの体系としてまとめ上げたが、彼が用いた形式は、その後数学者たちによって受け継がれることになった。まず、彼は用語---点、直線、平面等々---の定義を与えた。次に、自明性の基準として用いられるべきものとして、誰しもにとってその真実性がまったく明らかであり、証明なしにこれを真実として受け容れるにとができるような、1ダース程の命題をとり上げた。この諸命題は、後に公理と呼ばれるようになったが、この公理と、定義のみを用いて、彼はほとんど、500にものぼる数の幾何学的命題、または定理を導いたのである。これらの諸定理の真実性は多くの場合まったく自明とはいえないものであったが、それらが、すでに真実性を認められた論理学的諸法則に厳密に基づいて、これもまたその真実性を認められた定義と公理から導かれたということによって、それらの真実性もまた保証された。
「私が確信するところによれば、」とヒルベルトは確固とした口調でいった、「すべて科学的思考の対象となる事物は、それに関する理論が展開されるにいたると同時に、公理論的方法論によって扱かわれ得るようになり、それ故数学的研究の対象となります。」
ギリシャ人によって、幾何学はまずいくつかの公理を設定した後に、その上にのって純粋に論理的なプロセスによって進む演繹的な科学であると考えられていた。ユークリッドもヒルベルトも、ともにこのプログラムにのっとって進む。
公理系は完全であること、すなわち、すべての定理はこれらから得られるようなものであること。
公理系は独立なものであること、すなわち、公理系から任意に一個の命題を除いた揚合、もはや証明不可能になるような定理が存在すること。
公理系は無矛盾であること、すなわちそれらから互に相矛盾するような諸定理を証明することが不可能であること。
「数学の有機的一体性は、この科学の分野にとって本質的な性質である。何故ならば、数学こそは自然現象についてのすべての正確な知識の基礎をなすものであるからである。
・ユークリッド幾何学の限界
ユークリッド幾何学以外のリーマン幾何学、ボヤイ=ロバチェンスキーの幾何学も、成り立つ。そこで、ヒルベルトは前提は何でもよい。そこから導き出した仮説を証明すればよいと考えた。
ヒルベルトの考えから導き出されることは、時間と空間の座標軸のなかに、なにが、いつ、どこで(どこに)あったかを定める。
例・邪馬台国問題
統計調査、実験観測などは、外部世界の実在を仮定し、外部世界に問いかける方法である。
■天皇1代の在位年数
ヒルベルトの仮説検証から、『日本書紀』の天皇が実在し、その在位年数が10年だと仮定すると下のグラフが描ける
卑弥呼=天照大御神ということが説明できる。
古代の干支による紀年法がある
60年でひとまわりとして、年が表される。
これも、位置づけであるが、60年で繰り返しになる。
そのため西暦のように数字で表す方が便利である。
(下図はクリックすると大きくなります)
・「数字」「数学」は、人間の「言語」から生まれた新言語の体系である。
それは-∞から+∞までに至る無限にこまかく記述することの可能な数の列のどこかに、あるもの(例えば個人番号、個人の電話番号、確率の値、問題を解いて得た結論、など)を位置づける「位置づけ言語」の体系である。(世界の全人口でも)
そして、数学について著名人の記述がある
①宇宙の原理は数学という言語で記述されている(ガリレオ・ガリレイ)
②経験とは独立した思考の産物であるはずの数学が、物理的実在とこれほどうまく合致するのはなぜか(アルベルト・アインシュタイン)---歴史的実在
③数学が形式論理的な演繹(えんえき)で非常に多くの結論を出せるというのは驚くべきことであって、数学以外のことばだけを使った論理ではそう先へは進めない。はじめからわかっていること、つまり同語反復(トートロジー)以上にはなかなか出られない。ところが数学の場合に驚くべく豊富な結論を生み出すことができるのは、その論理のなかに数学的帰納(きのう)法なるものがふくまれているためでもある。後者は形式論理の単なる繰り返しであるかどうか。ポアンカレ(フランスの数学者)は、ここに一つの大きな飛躍があるとみる。私もたぶんそうだろうと思う。
いかにも普通の形式論理と似た形をしているけれども、やはりちがうのではないか[湯川秀樹『現代の科学Ⅱ』(「世界の名著」第66巻、中央公論社刊)]
このように、数学は人間の主観を排除するのに有効である。
・天皇1代10年説を出す前に古代5人の人物が活躍していた時期を推定した。
安本と筑波大の平山朝治氏が計算したものがある。
先に安本が見出した方法だが、平山氏の計算の方が狭まっている。
そして、崇神天皇の没年の推定値は右の表である。
この表は前の「天皇の代と没年または退位年」の曲線を平山朝治氏は直線、(旧)防衛庁のオペレーションズ・リサーチ(数理的作戦計画法)の研究員であった統計学の専門家で元海上自衛官の吉井孝雄氏は2次曲線、小沢一雅氏は指数曲線、安本は直線と指数曲線との合成として近似させたものである。これらのデータの平均値を求めると、ほぼ372年ごろであり、卑弥呼の没年と100年の違いがある。
最後に、歴史上のことを考えるさいに、「年代」が必要であることは、地図に、緯度や経度が必要であるのにも似ている。緯度や経度は座標を示すもので、「数字」で「位置づけ」を行うものである。年代についても西暦何年という形で、「数字」で、「位置づけ」を行う。
あるいは日本の天皇と中国の皇帝・王と平行させて、同じ「代の数」だけさかのぼるという形で「位置づけ」を行っていく。
場所については、ある県に邪馬台国が存在する「確率」が、どのていど大きいか、という形で、「数字」で、位置づけて行く。
「位置づけ」のためには、できるだけ、「位置づけ」のための用語・方法を洗練させて行く方法を用いる。
補助金や研究費の獲得、生活のため、地域振興のため、など利害関係がからむと、政治的、プロパガンダ的になりやすい。旧石器事件のように、みなでまちがうこととなる。