邪馬台国問題を解くのに、一方では日本の『古事記』などに書かれている神話があり、もう一方では『三国志』『後漢書』など中国の文献がある。『日本書紀』の編纂者は卑弥呼を神功皇后にあてはめた。これを皮切りざっと1300年の邪馬台国論争となっている。
第1回目として、纒向学研究センター所長 寺沢薫氏の『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社刊)を取り上げて議論して見る。
考古学者は遺跡遺物については、詳しく調査して記録に残すことに長けている。しかし、これらを全部組み合わせ、歴史を総合的して、歴史の中に位置づけるとなると、途端にこれでいいのかな、ということになる。
寺沢薫氏の本も遺跡遺物について、大変詳しく書いているが、基本的編年は奈良県出土の土器の編年による。しかし奈良県からの土器では、絶対編年の手がかりがない。それに対し、九州では土器と同じ遺跡から中国の鏡(西晋鏡など)が出土している。中国の鏡は中国の墓誌墓誌により編年ができる。
寺沢薫氏略歴
桜井市纒向学研究センター所長。 1950年、東京都生まれ。同志社大学文学部卒業。奈良県立橿原考古学研究所で調査研究部長などを歴任し、2012年より現職。第15回濱田青陵賞受賞。
■庄内様式期の出土鏡につて
寺沢薫氏の資料に弥生時代の「庄内様式期の出土鏡」を網羅的に記録したデータがある。その中で、邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを出した年(238年または239年)が含まれている。
(下図はクリックすると大きくなります)
上の表は綿密に作られている。この表をもとに、県別の庄内期の鏡の出土数のグラフを作成した。これと比較するため、奥野正男氏、小山田宏一氏、樋口隆康氏が出しているデータから同じようなグラフを作成すると下図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)

九州説、畿内説の学者のデータでも、数字に違いがあるが、福岡県が圧倒的に多く、奈良県は少ないという傾向があることが分かる。
寺沢薫氏の上の表では「ホケノ山古墳」を250年ごろにしているが、樫原考古学研究所研究成果 第10冊『ホケノ山古墳の研究』では、
「小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告書にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を一本化して話を簡明化するためである。)
・中央値は、西暦364年であった
このホケノ山古墳の西暦364年という数値は、「数理統計学的年代論」による崇神天皇の「活躍年代」の推定値368年と、4年しか異ならない。
寺沢薫氏の土器編年では、ホケノ山古墳の土器年代は、庄内3式期で、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、崇神天皇陵古墳の土器年代は、そのあとの布留0式以降と考えられている。したがって、箸墓古墳、桜井茶臼山古墳、崇神天皇陵古墳の築造年代は、364年以降ごろを中心に考えなければならないことになる。
関川尚功(ひさよし)氏は、ホケノ山古墳からは、布留式土器の指標となる小形丸底土器が出土していることから、ホケノ山古墳も、箸墓古墳も、桜井茶臼山古墳も、布留1式期のものとしておられる。そして、崇神天皇陵古墳を、それよりも、やや新しいか、としておられる。
このように、寺沢薫氏の年代と100年近くの差が出ている。
■ホケノ山古墳(5つの疑問点)
ホケノ山には以下の疑問点がある。
(a)木槨あり
『魏志倭人伝』に書かれている「棺あって槨なし」に合わない。
(b)小型丸底土器
関川尚功氏などの報告から、ホケノ山古墳から小型丸底土器出土している。これは古墳時代のものである。
下記の『最新 日本考古学用語辞典』柏書房刊参照
小形丸底土器(こがたまるぞこどき)
古墳時代前期に特徴的な小形で丸底壺形の土師器。坩(かん)ともいう。小形器台・鉢とともに古墳時代前期の祭祀と密接にかかわりある器種と考えられ、弥生土器と土師器を区分する基準とみる見解がながらく支持されてきた。布留(ふる)式土器を構成する重要器種であり、九州から関東・東北までの同時期の型式に存在する。
(c)炭素14年代法による年代推定
これは、上の方で示した樫原考古学研究所研究成果 第10冊『ホケノ山古墳の研究』によるホケノ山古墳出土の小枝の炭素14年代法による年代推定である。
(d)「画文帯神獣鏡」の出土
上の表[庄内様式期の出土鏡(寺沢薫氏による)]から、四連:四葉座鈕連弧文鏡、画同:画文帯神獣鏡が出土しており、画文帯神獣鏡は古墳時代の鏡とされている。
(e)「西晋鏡」の年代
西晋鏡は北部九州からの出土で、奈良からは出土していない。
今まで九州説の根拠を8つ話してきた。
(1)距離
『魏志倭人伝』の記述では、邪馬台国までのトータルの距離は一万二千里と書いてあり、松蘆国まで一万里を要したので、残りは三千里である。畿内まで届かない。
(2)狗奴国の位置
伊都国(九州の糸島半島付近)は邪馬台国の北にあり、狗奴国(熊本県付近)は邪馬台国の南にある。このことは邪馬台国が北部九州にあったことを意味する。
(3)鏡
上の寺沢薫氏のグラフから、ホケノ山古墳の鏡が古墳時代とすると、奈良県から出土の庄内期の鏡は0になる。
(4)西晋鏡
西晋時代(265年~316年)は邪馬台国の時代と重なる。「位至三公鏡」など西晋鏡は北部九州を中心に出土し、奈良県からは少ない。
(5)勾玉
圧倒的に北部九州から出土し、奈良県は少ない。
(6)鉄鏃(鉄矛、五尺刀)
圧倒的に北部九州から出土し、奈良県は少ない。
(7)「棺あって槨なし」
北部九州の邪馬台国時代の墓制は箱式石棺であり、「棺あって槨なし」に合致する。
(8)絹
圧倒的に北部九州から出土し、奈良県は少ない。
■『卑弥呼とヤマト王権』における寺沢薫氏の見解
第一章で紹介したように、いままでの編年作業の主要部分をまとめあげた研究書[寺沢、2014年、第二部]があるので、興味のある方はどのようなものか図書館で覗(のぞ)いていただければありかたい。そのうちのごく一部分だけを取り出して批判したり、誤って要約して批判したりする人はあとを絶たないけれど、最終的には自己矛盾をきたしていることが多い。とくに、纒向遺跡が出現する庄内0式期が三世紀の終わり頃になり、箸墓古墳の築造などがピークを迎える布留0式期が四世紀の中頃まで下るなどという年代観は、私には卑弥呼や邪馬台国を北部九州に引きとどめたいがための策略としか思えないのだ。
寺沢薫2014年『弥生時代の年代と交流』古川弘文館
安本注:上の下線部について、根拠が示されていない。
寺沢薫氏は、奈良県立橿原考古学研究所(かつて寺沢薫氏はこの研究所の所員であった)という公的機関が相当な費用をかけて作成したホケノ山古墳についての正式な報告書が示している年代を、なんらの確実な客観的反証を示すことなく、みずからの主観的判断を優先して否定している。
寺沢薫氏は『弥生時代の年代と交流』において、「ちなみに私は、対象とされた二点の小枝とされた試料がなぜ木槨内で採取されたのかの来歴に懸念を持っている。」とのべる。
寺沢氏が「懸念」をもてば、簡単に否定してよいことにはならない。「懸念」は検証しなければならないはずのものである。
現在、ホケノ山古墳についてこの「二点の小枝とされた試料」をこえるほど、確実な年代資料は提出されていない。
寺沢薫氏のデータ[上の方の庄内様式期の出土鏡(寺沢氏による)の表]によるとき、ホケノ山古墳出土鏡の三面を古墳時代のものとして除けば、卑弥呼の時代(庄内様式期)における奈良県の出土鏡数は、完全に0(ゼロ)となる。[ベイズの統計学によるとき、邪馬台国が奈良県に存在した確率は0(ゼロ)になる]
すなわち、寺沢薫氏の示すデータが、寺澤薫氏の出している結論を支持していない。
奈良県立橿原考古学研究所が、その報告書において、寺沢氏が述べるような「邪馬台国を北九州に引き止めたいがための策略」を行っているとは信じがたい。
■炭素14年代測定法
炭素14年代測定法では、その推定や誤差のつけ方などにおいて、統計学や数学が用いられているにもかかわらず、統計学的・数学的議論を行っている日本語文献がほとんどない。私のわかる範囲で、若干そのような議論を行なってみた。(北海道大学の教授であった数学者の吉田知之氏にみていただいたが、だいたいよさそうであるとのことであった。)
その数式をコラムとして、下記に示す。
測定値の平均値と誤差の重みづけについて -統計学などに興味をもつ方に-
2023年2月26日の邪馬台国の会第407回講演で説明した式などを参照
■大激変以後の状況
青銅鏡の歴史において、西暦320~350年ごろに、鏡の分布中心地域が、福岡県など北部九州を中心とする地域から、奈良県など畿内を中心とする地域へと、大変化をするという事実が認められるという「法則」である。以下、略して、「鏡の分布中心地域の大激変が存在するという法則」と呼ぶ。
2021年7月25日の第389回「邪馬台国の会」で説明した「鏡の分布中心地域の大激変の法則」参照
・中国長江流域系の鏡(わが国出土のものは、四世紀前半ごろから登場し、おもに、四世紀の遺跡から出土している)
「画文帯神獣鏡」
「画文帯神獣鏡」は、わが国でも、150面以上出土する。中国中・南部の長江流域系の銅原料と文様をもつ。四世紀前半、あるいは中ごろから登場し、おもに四世紀の遺跡から出土している。(画文帯神獣鏡は下図の右側の鏡)
中国でも、150面以上出土している。
「三角縁神獣鏡」
鏡の縁の断面が三角形になっている大型の鏡である。(三角縁神獣鏡は下図の左側の鏡)
三角縁神獣鏡は、中国本土からは一面も出土していない。ただし、神獣の文様、鉛同位体比などは、長江流域系の流れを汲むものである。わが国では、「画文帯神獣鏡」よりも、すこし遅れて登場する。おもに四世紀の遺跡から出土している。

画文帯神獣鏡の県別の出土数は下のグラフ参照
(下図はクリックすると大きくなります)

三角縁神獣鏡の県別の出土数は下のグラフ参照
(下図はクリックすると大きくなります)

また、「画文帯神獣鏡」や「三角縁神獣鏡」は、しばしば。巨大前方後円墳の中から出土している。
・巨大前方後円墳
「巨大前方後円墳」も、「画文帯神獣鏡」や「三角縁神獣鏡」と同じく、奈良県を中心として分布する。
下のグラフに、全長80メートル以上と、全長100メートル以上の「前方後円墳」の県別分布を示した。
(下図はクリックすると大きくなります)


前方後円墳は時代が後になるほど、後円部に比べ前方部が大きくなる傾向がある。
そして、おなじように時代が後になると、造出しが発達してくる。

「前方部幅墳丘全長比」を縦軸、「前方部幅後円部直径比」を横軸にしたグラフ上に、「画文帯神獣鏡」、「三角縁神獣鏡」が出土した前方後円墳をプロットすると。下のグラフとなる。
「画文帯神獣鏡」出土の古墳群と馬具類・馬形埴輪出土古墳群
(下図はクリックすると大きくなります)

三角縁神獣鏡出土の古墳群と造出しのある古墳群
(下図はクリックすると大きくなります)
画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡の出土している分布、前方後円墳が分布している地域と一致している。
これらのデータは、ホケノ山古墳出土のものを、古墳時代のものであるとして、奈良県の庄内期の鏡の出土数は、0(ゼロ)となってしまうことを示している。
すなわち、寺沢薫氏の。提示しているデータは、寺沢薫氏の議論の結論を完全に否定している。
■「西晋鏡」問題
魏、呉、蜀の三国時代の次が西晋の時代である。
「西晋鏡」は大略西晋(西暦265年~316年)ごろの中国鏡
「位至三公鏡」と「双頭竜鳳文鏡」などがある。
(下図はクリックすると大きくなります)

『洛鏡銅華』(中国・科学出版社、2013年)は、洛陽出土の銅鏡についてまとめている。13面の「位至三公鏡」系の鏡をのせる。そのうち、12面を、西晋時代の鏡とする。
1面の「双頭竜鳳文鏡(そうとうりゅうほうもんきょう)」の類の鏡のみを、大略西晋の時代よりもあとの南北朝時代の北朝(311~619)」のものとする。また、中国では、「洛陽晋墓」から、8面の「位至三公鏡」が出土し、そこから西暦287年、295年、302年にあたる年の墓誌が出土している。他にも、「285年~289年」ごろの年号を記した墓誌とともに出土している「位至三公鏡」が4面ほどある。
いわゆる西晋鏡は位至三公鏡と双頭竜鳳文鏡が代表的だが、夔鳳鏡も西晋鏡に属する。
位至三公鏡、双頭竜鳳文鏡、夔鳳鏡の図は下図参照
(下図はクリックすると大きくなります)

洛陽付近出土の「位至三公鏡」
墓誌とともに出土している「位至三公鏡」は下の表を参照。

285年から289年の西晋時代の位至三公鏡であり、位至三公鏡のほとんどが西晋時代の鏡であることが分かる。
■青銅鏡にみられる地殼変動的大激変のあつた時期
「いわゆる西晋鏡」が、中国で行なわれた(墓に埋納された)時期は、洛陽西晋墓から出た墓誌に記されていた三つの年、大康八年(287)、元康九年(299)、永寧二年(302年)や、その他の墓誌に記されている年からわかる。墓誌に記されている年で、現在知られているものはすべて、西晋時代(265~316)のうちの呉の滅亡した280年から、西晋の滅亡した316年のあいだにはいっている(上の表を参照)。
したがって、わが国で、「いわゆる西晋鏡」が行なわれた時期は、中国で行なわれた時期とほぼ同じか、輸入にともなう時間差を考えて、そのすこしあと、ということになろう(285年~320年ごろか)。
わが国で出土する青銅鏡全体にみられる大きな地殻変動は、「いわゆる西晋鏡」が出土する時期をさかいとして起きている。
すなわち、つぎのとおりでわる。
・地殻変動的大激変の存在
「いわゆる西晋鏡」が行なわれた時期以前に行なわれた(埋納された)鏡は、すべて、福岡県を中心とする北部九州を中心として分布する。
それは、時期的にみれば、 (1)中国では、おもに、前漢(紀元前202年~紀元後8年)から、西晋(265年~316年)のころのものとして出土している遺物である。
(2)日本では、おもに、弥生時代・庄内期にかけてのころ、出土している遺物である。
(3)邪馬台国の時代も、この時期のうちに含まれる。このような状況は、邪馬台国が、北部九州にあったことを強く指し示す。
320年~350年ごろに、大激変が起きる。以後、鏡などが、奈良県をはじめとする近畿を中心に分布するようになる。
それは、時期的にみれば、つぎのようなものである。
(1)中国では、東晋(317年~420年)以後の時代にほぼあたる。
(2)日本では、古墳(前方後円墳)時代、布留式土器以後の時代に、ほぼあたる。
(3)大和朝廷が成立し、発展した時代にあたる。
以下では、その状況をみてみよう。
遺跡・遺物の県別分布において、弥生時代から古墳時代のあいだにおいて、福岡県中心から奈良県中心へという地殻変動的大激変が存在すること、その分水嶺をなすのが、西晋鏡の県別分布であることは、県別統計分布を調べることによって、はじめて明確に示されることである。
この大激変の様態のあり方は、およそ次の三種に分類できる。
[タイプA]
弥生時代(庄内様式期をふくむ)の遺跡からおもに出土し、福岡県を中心に分布し、古墳時代以後は、ほとんど出土しないもの。-----多鈕細文鏡、前漢鏡、後漢鏡、小型仿製鏡第Ⅱ型、西晋鏡など(下の方の「鏡の世界」と「銅鐸の世界」は、「鏡の世界」に統一されたの表を参照)。
[タイプB]
弥生時代(庄内様式期ふくむ)の遺跡からも、古墳時代の遺跡からも出土し、弥生時代の遺跡から出土したものは、福岡県を中心に分布し、古墳時代出土のものは、奈良県を中心に分布するもの。-----「勾玉」「雲雷文内行花文鏡」など。
「勾玉」については、前回の2025年2月15日の邪馬台国の会第427回講演で説明した弥生時代出土と古墳時代出土の勾玉の数参照。
「雲雷文内行花文鏡」は下図を参照。
(下図はクリックすると大きくなります)


グラフから分かるように、弥生時代からも、古墳時代からも出土し、弥生時代は福岡県を中心とし、古墳時代は奈良県を中心としている。
[タイプA]のように北九州と畿内が連続しないものがあり、[タイプB]の勾玉や鏡は連続している。
連続している状況は、日本神話とほぼ一致する。三種の神器のなかに勾玉や鏡がはいり、そして神話の中心は北九州にある。邪馬台国東遷説でも説明できる。
もし、卑弥呼の邪馬台国が、奈良県に存在するなら、その時代の鏡(西晋鏡)が、奈良県から、1面も出土しないのは、おかしな話である。魏の皇帝は、国中の人に知らせよと、詔の中でのべている。(大分上の方にある「寺沢氏の資料による県別・庄内期の鏡の出土数」参照)
卑弥呼・邪馬台国は、奈良県の纏向の地域に存在したと、寺沢氏は述べるが、卑弥呼のことが、『古事記』『日本書紀』の記す伝承の中に、影を落としているかどうかが、よくわからない。
卑弥呼のことは、『古事記』『日本書紀』の中に、なんらかの形で記されているのか否かがよくわからない。
下の表から、鏡は古いものは福岡県を中心に分布し、新しくなると奈良県を中心に分布する。
銅鐸については、古いものは島根県を中心に分布し、新しいものは静岡県を中心に分布する。
(下図はクリックすると大きくなります)

・鏡が、わが国へ到達した2つのルート
青銅鏡の県別分布の中心が、北九州の福岡県から、近畿の奈良県へとうつる。
(下図はクリックすると大きくなります)

日本と国交をもった西晋の国のころまでの鏡などが、すべて福岡県を中心に分布することは、西晋の国のまえの魏の時代の邪馬台国が、北部九州にあったことを、強く示す。
そして、西晋の国の存続期間は、西暦265年~316年である。したがって、わが国において、鏡の世界での地殻大変動がおきたのは、西晋の国のあとの320年~350年ごろとみられる。
画文帯神獣鏡、三角縁神獣鏡になると、奈良県を中心移る。
(下図はクリックすると大きくなります)

[タイプC]
古墳時代の遺跡からおもに出土し、弥生時代の遺跡からは、まず出土しないもの。-----「三角縁神獣鏡」など。
このうち、[タイプA]の「西晋鏡」は、中国でも出土しているので、年代を、かなりなていど確定できる。
天皇1代10年説から、崇神天皇の時代は356年ごろである。前方後円墳の最初のころが崇神天皇の時代である。
(下図はクリックすると大きくなります)

同志社大学の教授であった考古学者の森浩一氏は、記している。
「最近は年代が特に近畿の学者たちの年代が古いほうへ向かって一人歩きをしている傾向がある。」(『季刊邪馬台国』53号、1994年春号)