■平原王墓の出土鏡
『魏志倭人伝』に記されている「伊都(いと)国」は現在の「糸島市」の地域にあったと見られている(「糸島」はかつての「怡土(いと)郡」と「志摩(しま)郡」の合併による地名)。
福岡県の糸島市の有田に平原王墓(平原1号墓)がある。
(下図はクリックすると大きくなります)
平原王墓からは、40面の鏡が出土している。
この40面の鏡の鏡種構成(鏡種分布)は、「方格規矩鏡」と「内行花文鏡」とを主軸とするものである。
中国の後漢時代の鏡の鏡種分布[相当上の方にある図( 『洛陽銅鏡』による洛陽地域における後漢時代の鏡の鏡種分布)]や、わが国の庄内様式期の鏡の鏡種分布[少し上の図(寺沢薫氏、奥野正男氏、小山田宏一氏による庄内期の鏡の鏡種分布)]と同様の鏡種分布を示している(下の図と表)

いま、弥生時代・古墳時代を通じて、全国で出土した鏡の大きさの、ランキングベスト10をしらべると、下の右表のようになる。
ベストテンの半数を平原王墓出土鏡が占める。
また、全国における鏡の多数副葬のランキングベスト10を調べると下の左表のようになる。平原王墓は、第2位を示める。

弥生時代の墓としては、突出した位置をしめる墓というべきである。
■平原王墓を卑弥呼の墓とする説
すでに何人かの研究者が、平原王墓を卑弥呼の墓とする説をとなえている。
同志社大学の教授であった考古学者の森浩一氏は、その著『倭人伝を読みなおす』(ちくま新書、筑摩書房、2010年刊)の中で述べている。
「平原古墓は弥生時代後期末の王墓、卑弥呼の在世中かそれに近く各方面からの検討をおこなう必要がある。長方形の周溝墓で盛土はないとはいえ古墳が出現する直前の支配者のの墓である。すでに甕棺ではなく木棺が使われていた。」(同書111ページ)
森浩一氏は、このように、平原王墓を、卑弥呼の在世か、それに近い時期のものとする。
福岡大学の考古学者、小田富士雄氏らも、『倭人伝の国々』(学生社、2000年刊)のなかで、つぎのようにのべている。 「平原(王墓)になると、これはもう邪馬台国の段階に入っています。」
吉野ヶ里遺跡を発掘したことで著名な考古学者、ミスター吉野ヶ里の高島忠平氏は述べる。
「高島:私は、ずばり、卑弥呼の墓は糸島の平原1号墳であっても構わないと考えています。というのは、卑弥呼の墓は邪馬台国にあるとは限らないのです。なぜかというと、卑弥呼は29の国によって、共に立てられた王でありました。そして、巫女と言いますか、巫術に優れた能力を持つ、どこかの国の出身であるということが言えます。ですから、29くらいの国で共立されるわけですけれども、29のどこかの国の出自であろうということであります。」[高島忠平氏 ミスター吉野ヶ里。『季刊邪馬台国』138号、2020年刊、177ページ(パネルディスカッション邪馬台国の今)]
宮崎公立大学の教授であった考古学者、奥野正男氏はのべる。
「平原出土の方格規矩四神鏡が後漢晩期のものであるとすれば、共伴の大形国産鏡の製作年代の上限もまた三世紀代におくことが可能である。この三世紀代はまさに卑弥呼の時代に相当し、一墳墓で副葬された鏡の数においても、日本最大の大形国産鏡という点でも、平原遺跡は日本の古代史上さいしょの女王である卑弥呼の墓にふさわしい。」[奥野正男著『邪馬台国はここだ』(奥野正男著作集I、梓書院、2010年刊)209ページ]
奥野正男氏は、また、「卑弥呼の鏡は後漢鏡、その墓は平原である」(『季刊邪馬台国』第2号、梓書院、1979年刊)という論文も、発表しておられる。
大分県の産婦人科の医師で、大分県考古学会の会員であった中尾七平(なかおしちへい)(1928~2010)の大著に、『「日本書紀」と考古学』(海鳥社、1997年刊)がある。
中尾七平は、この本のなかでのべている。
(1)天照大御神は、卑弥呼である。
(2)卑弥呼の墓は、糸島市の平原王墓である。
(3)邪馬台国は、朝倉市、小郡市、筑紫野市周辺である。
■平原王墓を、天照大御神の墓とする説
平原遺跡を発掘した原田大六氏は、1991年に大著『平原弥生古墳-大日靈貴(おおひるめむち)の墓-』(葦書房刊)をあらわした。
この本の副題の「大日靈貴(おおひるめむち)」は、「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」のことである。原田大六は、平原遺跡の墓を、卑弥呼の時代よりも、すこしまえのものとみて、天照大御神の墓としたのである。
原田大六は、平原遺跡出土の大鏡と、伊勢神宮におさめられた「八咫の鏡」とが寸法・文様において、一致がみられると考えた。
すなわち、次のように考えた。
(1)伊勢神宮におさめられた「八咫(やた)の鏡」は、天照大御神の霊代(たましろ)[神霊の代りとされるもの]である。「八咫の鏡」は、記録からみて、平原遺跡出土ほどの大きさが十分あったと考えられる。(これについてくわしくは、拙著『日本神話120の謎-三種の神器(じんぎ)が語る古代世界-』「勉誠出版、2006年刊」参照。)
(2)平原遺跡出土の大鏡の円周は、ほぼ、八咫(やた)の長さにあたる。
中国の考古学者の王仲殊は、つぎのようにのべる。
「平原王墓出土の大鏡の直径46.5センチに、まさに、後漢時代の二尺にあたる。八寸をもって『咫(し)』とするという確かな記載がある。大銅鏡の直径は二尺で、その円周は、八咫に近くなる。」[原田大六著『平原弥生古墳』(葦書房、1991年刊)、219ページ]
(3)「八咫の鏡」の文様について、「八咫花崎(やたはなさき)八葉形なり」という記録がある。これは、平原遺跡出土の大鏡の、「内行八花文(内むきの八つの円弧)と、八葉座[紐(中央のつまみ)のところの八つの葉の文様]」にあたる。
注:平原の鏡について
下の写真は、平原王墓出土5面の大鏡(直径46.1~46.5cm)のひとつ。日本全国で、ほぼ、5000面のの青銅鏡が出土している。そのうち、直径が大きいもののベスト5が、すべて平原王墓というひとつの墓から出土している。このような墓は、他に存在しない。他に隔絶した状況である。今後も、これをこえる王墓が出現する可能性は、まずない。

原田大六は、のべる。
「神話の高天原の物語りのほとんどは、じつは北部九州の弥生時代の最後の史実によっている。また日本神話の実態を証明してきたのは、ひとえに平原弥生古墳によっている。ではこの古墳に葬むられた人物は神話の中の誰にあたるのであろうか。」
「神明造(しんめいづくり)の殯宮(もがりのみや)で、八咫の鏡を所持し、太陽の妻であり、祭日が神嘗祭に近い日で、神として祭られたというのが、平原弥生古墳の被葬者の本質的性質である。神話ではいうまでもなく、天照大御神に相当する。」
原田大六の、以上に紹介したような説明は、原田大六著の、『平原弥生古墳-大日靈貴(おおひるめむち)の墓-』(葦書房、1991年刊)と、『実在した神話』(学生社、1966年刊)とに、ほぼ同文でのっている。
ただ、原田大六は、さきの引用文中にあるように、平原王墓を、「弥生時代の最後」のころのものとしながら、天照大御神を卑弥呼よりも、時代的に古い人(神)であると考えた。
原田大六のあとをついで、平原王墓の調査を担当した考古学者の国学院大学教授など柳田康雄氏は、その著『伊都国を掘る』(大和書房、2000年刊)のなかで、平原王墓の被葬者を、「三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女(卑弥呼直系で直前の三世紀初頭に埋葬された倭国最高権威にある巫女王となるだろう)」と記している。
柳田康雄氏は、また、報告書『平原遺跡』(前原市教育委員会、2000年刊)のなかで、つぎのように記す。
「これらの(平原王墓の)仿製鏡(ぼうせいきょう)の製作年代は、中国に類似品があるとすれば技術的に後漢以後しか考えられないことから、紀元200年前後の後漢の動乱期であり、中国製品が入手困難な時期に符合する。」
これも、平原王墓の築造時期が、西暦200年以後で、卑弥呼の年代と、比較的近いことをのべているといえるであろう。
ただ、柳田康雄氏は『伊都国を掘る』のなかで、奥野正男氏の、平原王墓を、卑弥呼の墓であるとする説を批判して、つぎのようにのべる。
「最近の調査結果である、奈良県ホケノ山古墳が三世紀前半であることが確認され、三世紀前半が古墳時代に含まれることを裏付けている。」
しかし、この柳田康雄氏の、奥野正男氏説批判は、あたらない。
じつは、奈良県のホケノ山古墳については、炭素14年代測定が、時期をへだてて、二回行なわれている。
はじめは、ホケノ山古墳出土の木棺の炭化した部分についての年代測定である。これは、たしかに、柳田康雄氏ののべるように、三世紀前半以前の古い年代がでている[『ホケノ山古墳調査概報』(学生社、2001年刊)にその要点が紹介されている。]
しかし、この木棺に使用された木材は、古い木材の再利用であったらしい。また炭化した試料は、活性炭的な性質をもち、古い年代がでやすいことが知られている。
その後、2008年に、ホケノ山古墳の、正式のくわしい報告書『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行、2008年)が刊行されている。
そこでは、再利用の可能性のない二本の小枝資料の、炭素14年代測定が行なわれている。そして、四世紀を中心とする新しい年代が得られている。
私は『季刊邪馬台国』144号に、「奈良県桜井茶臼山古墳の被葬者と築造年代」という拙論をのせた。その中に、つぎのような文章を記した。
「【炭素14年代推定法による推定】2008年に奈良県立橿原考古学研究所編集発行の研究成果報告書『ホケノ山古墳の研究』が出ている。その中に、ホケノ山古墳の木槨から出土した「およそ12年輪の小枝」試料二点についての炭素14年代測定法による測定結果がのっている。そこでは、「小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告書にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を一本化して話を簡明化するためである。)
中央値は、西暦364年であった
第430回(2025.5.18)「邪馬台国の会」炭素年代と履歴校正結果の中央値の図(ホケノ山古墳の築造年推定グラフ)参照
この図をご覧いただければ分かるように、ホケノ山古墳の測定値の場合、ふつうの較正曲線によって求めた西暦年代推定値と。中央値で求めた西暦年代とがほとんど正確に一致する。
右のホケノ山古墳の築造年代の推定値の中央値が西暦364年前後、またはそれ以後(小枝の埋められた年代)という数値は、そんなに簡単に、無視したり否定したりできない。そのことを、ここに強調しておきたい。『ホケノ山古墳の研究』は、正式の報告書である。その報告書が告げている年代なのである。
すなわち、もっとも古い発生期の前方後円墳とみられるホケノ山古墳の築造年代でさえ、その中心的な推定年代は、西暦364年ごろとなるのである。
卑弥呼の没年より、百年以上のあとである。
この測定年代は、考古学者の関川尚功(せきがわひさよし)氏、斉藤忠氏、森浩一氏らの説く古墳時代論を支持する。
炭素14年代測定法では、ふつう、まず測定によって、炭素14年代BPといわれるものを求め、上の「炭素年代と履歴校正結果の中央値の図(ホケノ山古墳の築造年推定グラフ)」において、x軸の値を定める。その値をy軸に平行に上にのばし、較正曲線(一種の補正曲線)にぶつかったところで、今度はx軸に平行に左に線を伸ばし、y軸の値を読みとる。
ホケノ山古墳のばあい、炭素14年代BPの加重平均値は1701年であった。
邪馬台国畿内説の方々は、自説にとって不都合なデータなどを簡単に無視する傾向がある。
■伊勢神宮は、なぜ、伊勢にあるのか
-九州と近畿の地名の一致-
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)氏は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。すなわち、下表のような、11組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、
(1)ヤマトを中心としている。
(2)海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩[近畿]となっている。
(3)山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。
これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」

ここで、鏡味完二氏は、福岡県の「志摩」と三重県の「志摩」とを対応させ、福岡県の「怡土(いと)」と三重県の「伊蘇(いそ)」とを対応させる。

『日本書紀』の「仲哀天皇紀」に、「伊覩(いと)[伊都、怡土、伊斗]」は、「伊蘇(いそ)」のなまったものであるとする記事がある。
『和名抄』によれば、現在の三重県の伊勢の国に、「伊蘇郷」があった。現在の伊勢市磯町(いそちょう)である。
つまり、福岡県にも、三重県にも、「伊蘇(いそ)」の地名があった。なお、「伊勢」については、『古代地名大辞典』(角川書店刊)、「伊勢」は、「磯(いそ)の転訛で、海辺の国の意からきたものとも考えられる」と記す。『日本氏族事典』(雄山閣刊)も、「磯部(いそべ)」の項で、「磯部(いそべ)は『古事記』応神天皇段にみえる伊勢部(いせべ)と同一とされ、…」と記す。
福岡県の「怡土」の地に、平原王墓があり、三重県の「伊勢」の地に、伊勢神宮がある。
天照大御神の御魂(みたま)をまつる地(墓)が、福岡県の「伊蘇(いそ)」(怡土)の地にあったので、天昭大御神の御魂代(みたましろ)(八咫の鏡)をまつる地も伊蘇(いそ)[伊勢]と名づけたのであろうか。
なお、九州での比較的小地名が、本州などでの大地名となっているケ-スが多い。
上の表は、そのような例である。
■五尺刀
『魏志倭人伝』に、魏の皇帝が、卑弥呼に与えたものの中に、「五尺刀」二口がある。
「五尺刀」は、長さ120センチほどの長い刀である。銅の長い刀は折れやすいから、「五尺刀」は、鉄の刀とみられる。
長い刀の出土状況は、右の図や下の図のようになっている。
奈良県からは、「弥生時代~古墳時代前期」において、長い刀は出土していない。
右上の図をみれば、長い刀の出土例は、福岡県が、もっとも多い。そして、下の図をみれば、まさに、五尺刀(120センチ)」にふさわしい118.9センチの刀が、全国で、ただ1本、福岡県の前原上町(まえばるかみまち)遺跡だけから出土している。

この遺跡は、平原王墓のある平原遺跡からそれほど離れていない(下の地図参照)。直線距離で、ほぼ3キロメートルていどである。
(下図はクリックすると大きくなります)
この刀は、大型箱式石棺から出土している。
箱式石棺は、北部九州では、棺の様式としては、甕棺の時代のつぎにあらわれるものである。大略庄内様式期、邪馬台国の時代にあたるものといえよう。
もし、この刀が、奈良県から出土したならば、「弥呼の五尺刀」として、大さわぎになりそうなものである。
かりに、畿内説の小山田宏一氏ののべるように、平原王墓出土の三十二面の方格規矩四神鏡が、卑弥呼に与えられた「銅鏡百枚」の一部であるとしよう。すると、福岡県の糸島市前原の地からは、『魏志倭人伝』に記されている「銅鏡百枚」のうち、三十二面が出土し、さらに、「五尺刀」にあたるものも、出土していることになる。
卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」のうち、およそ、その三分の一にあたる鏡が、一つの墓から出土し、さらにその近くから、「五尺刀」にあたるものも出土しているとすれば、それらの鏡の出土した墓を、「卑弥呼の墓」と考えるのは、当然ではないか。
畿内では、そのような墓は、知られていない。
以上に述べたように、畿内説の考古学者、小山田宏一氏の述べているデータと見解に立脚しても、見方を変えれば、容易に、「平原王墓=卑弥呼の墓説」が姿をあらわしてくることになるのである。
しかし、小山田氏は、平原王墓出土の鏡は、畿内から伊都国に送ったものであるという。当時の遺跡からは、鏡も、刀も(刀剣類については、下図参照)、鉄も、畿内にくらべ、九州から、圧倒的に多く出土している。

魏から来たものは、畿内、とくに奈良県まではほとんど行かず、九州内に埋められたと考えるほうが、自然であるようにみえる。
■ここまでのまとめ
[平原王墓が、卑弥呼の墓としてふさわしい要素]
(1)出土鏡の構成(鏡種の分布)は、「方格規矩鏡」と「内行花文鏡」が、出土数の半数以上を占める。これは中国の後漢時代の出土鏡の構成、およびわが国の庄内様式期の時期(卑弥呼、邪馬台国時代にあたるとみられる)の出土鏡の構成と一致する。
(2)葬法は木棺(割竹形木棺)を用いるもので、『魏志倭人伝』の記す「棺あって槨なし」と記述と一致する。
[平原王墓が天照大神の墓としてふさわしい要素」
(1)天照大御神が、瓊瓊杵の尊(ににぎのみこと)に与えたとされる八咫鏡(やたのかがみ)は、伊勢神宮におさめられたが、その鏡についての記録によるとき、大きさ、文様[八咫花崎(やたはなさき)八葉形]が、平原王墓出土鏡と一致する。
(2)平原王墓の存在する場所は「怡土(いと)・志摩(しま)」の地で、これは、伊勢神宮のある「伊勢(いせ)・志摩(しま)」の地と地名が対応している。
数理統計学的年代論、およびパラレル年代法によるとき、卑弥呼の活躍年代と、天照大御神の活躍年代とが、重なることになることについては、「邪馬台国の会」で、すでに述べている。
■考古学者、森浩一氏の見解
同志社大学の教授であった考古学者の森浩一氏は、その著『日本神話の考古学』(朝日新聞社、1993年刊)の中で、森浩一氏は、伊勢神宮におさめられた八咫の鏡と平原王墓出土鏡との関係について、かなりくわしい検討をされている。
森浩一氏の記すところをいくつか拾ってみよう。
「かつて、多くの考古学者たちは、八咫鏡は『記・紀』のうえの問題、さらに天皇家や伊勢神宮の信仰の問題であるとして、考古学とは一線を画して扱おうとしてきた。考古学的にまとめられた銅鏡の書物は多いけれども、そのなかで八咫鏡を積極的に位置づけようとしたためしは、ほとんどなかった。
ところが、1965年の平原古墓の発掘で39面の銅鏡が出土し、そのうち四面が直径46.5センチの同形同大の超大型鏡であることが発表され、事態は急変した。」
「寸法が卜部兼方の推測に近いだけではなく、文様も八花の内行花文鏡であるということが、十三世紀ごろにできたと推定される伊勢神道の基本文献の一つ、『御鎮座伝記』が記す”八頭花崎八葉形”によって、説明され尽くしているとみられるからである。」
「天照大神がニニギノミコトに与えた言葉は、戦前には「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」と教えられたものである。そのいわんとしているものを銅鏡の銘文の変遷に照合すると、「長宜子孫」または「大宜子孫」という句に集約することができる。
それと、説明を延ばしてきたけれども、中国では連弧文鏡と呼んでいる内行花文鏡の内行花文は、花の文様ではなく太陽の輝きをとらえた模様だと推定されており、天照大神そのものにふさわしい。八咫鏡の有力候補が内行花文鏡であるということに、私は知的興奮を覚える。」
「原田氏は、発掘報告書の作成に努力されたけれども、完成を見ずに先年、亡くなられた。だが、関係者の尽力によって、1991年に『平原弥生古墳-大日靈貴(おおひるめむち)の墓-』(葦書房)の大冊が出版された。大日靈貴(おおひるめむち)とは天照大神の別名であり、考古学の報告書としては異色の題名である。
原田氏の報告書では、平原古墓の年代は『二世紀中ごろを下るものではない』と弥生時代後期に位置づけられている。私は、弥生後期のなかにおさまるものとみているが、年代はもう半世紀ないし一世紀ほど下がる可能性も考えている。」(安本注:もう1世紀下がれば、3世紀中頃となり、卑弥呼の時期にかさなる。)
「弥生時代が終わって、前方後円墳が西日本のみならず東日本でも突如として造営される古墳時代になると、”謎の鏡”といわれる三角縁神獣鏡(さんかくえんしんじゅうきょう)が大流行した。謎といわれる理由は、日本の古墳に大量に出土するにもかかわらず、一部の学者が中国製、それも魏の鏡だという仮説を立て、中国に出土しないという事実を、考古学資料によってではなく言葉の操作でカバーしようとしているという点にある。だが考古学の方法に徹すれば謎はどこにもなく、江南系の鏡作り工人の渡来によって、さらに弥生時代の発達していた青銅器生産の技術をも取り入れ、おそらく近畿地方が生産の中心になって大量に製作されたと推定される鏡である。この鏡は直径が22センチ前後で、同時代の中国の尺寸に直せば、ほぼ九寸の大型鏡である。」
「三角縁神獣鏡は、四世紀代に流行した鏡で、弥生時代を含めて日本の古墓・古墳で出土している数千面の鏡のうち、もっとも数の多い種類の鏡である。三角縁神獣鏡が流行している四世紀代には、数は多くはないけれども直径45センチ(山口県柳井茶臼山古墳)や直径40センチ(奈良県柳本大塚古墳)などの超大型鏡、さらに勾玉文鏡[大阪府紫金山(しきんざん)古墳]や家屋文(かおくもん)鏡[奈良県佐味田宝塚(さみたたからづか)古墳]など、日本的な意匠の鏡も作られている。これらは、単に漢式鏡をコピーしたという意味での仿製鏡に含めるには無理がある。つまり、倭鏡技術の最盛期のほぼ終末を飾った遺品であった。」
以上のように見てくると、これまでに知られているすべての古墳の中で、平原王墓は「卑弥呼=天照大御神」の墓として、もともふさわしいものといえる。(=威信財としての墓)
母なる太陽は、天に輝き、地を照らし、日本の歴史に、ずっと光を降りそそいでいる。