■三兆円という金額
旧石器ねつ造事件の告発者、竹岡俊樹氏は、その著『考古学崩壊』(勉誠出版、2014年刊)の中で、緊急発掘「メモ」参照)に関連して述べる。
「二兆円の税金をかけて発掘し死蔵されている山なす資料……。」
「二兆円と職員たちの努力をどぶに捨てるか……。」
ここに「二兆円」という数字がでてくる。ただ、これは、竹岡俊樹氏の本が刊行された2014年のころまでの金額である。インターネットで、文化庁文化財第二課がまとめている『埋蔵文化財関係統計資料』(令和六年度[2025年3月刊])をみると、緊急発掘調査費用の推移は、下図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)

緊急発掘調査費用の合計で、考古学関係に流れこんでいる金額の合計は、令和五年(2023)までに、ゆうに、3兆円を越えている(3兆2750万円)。
平成九年(1997)度の1321億円をピークとして減ってきているが、それでも、令和五年(2023)で、644億円である。
参考までに、科学研究費(科研費)の予算額の推移を、インターネットによってみると、下図のようになっている。
(下図はクリックすると大きくなります)

科学研究費は、自然科学から社会科学までの分野にわたる学術研究を発展させることを目的とするものである。
少し上の図の緊急発掘調査費用の推移図の金額そのものを、直接比較することの意味には問題があるが、推移の状況 を比較することには、あるていどの意味があるであろう。
平成十年(1998)においては、緊急発掘調査費は、1258億円、科研費は1179億円で、緊急発掘調査費が科研費を上まわっている。その後、緊急発掘調査費用は減少し、科研費は増大する。
令和五年(2023)は、緊急発掘調査費は644億円、科研費3031億円で、緊急発掘費は科研費の約五分の一となっている。
いずれにせよ、そうとうな全額が、考古学の分野に流れこんでいる。
「参考メモ」
緊急調査(きんきゅうちょうさ)
今日の発掘の大部分を占めるもので、開発に伴う工事などにより遺跡が破壊されるおそれがあるとき、こうした工事などに先立って緊急に実施される発掘調査。これには、周知の遺跡に工事などがかかるために実施されるもの(文化財保護法第57条の2、3)と、工事中などに新たに遺跡・遺物が発見されたことによって実施される不時発見に伴うものとがある(この場合は文化財保護法第57条の5、6にしたがい遺跡発見届を提出したのち、第57条の2、3による発掘調査となる)。いずれにせよ、後続する開発行為によって遺跡が失われてしまうために、最低限記録保存だけは行おうというもの。(大塚初重・戸沢充則編『最新日本考古学用語辞典』【柏書房、1996年刊】)
■改善の必要
考古学者の細谷葵氏(女性。1967~2019)は、お茶の水女子大学の特任准教授をされていた方で、若くしてなくなられた。
細谷葵氏は、竹岡俊樹氏と同じく外国留学の経験のある方で、1966年当時に、ケンブリッジ大学留学中に、『理論なき考古学-日本考古学を理解するために』という報告文を発表されている。
この報告文は、1997年に岡山大学名誉教授の考古学者の新納泉(にいろいずみ)氏がインターネットで紹介されている。容易に見ることができる。
細谷葵氏は、この報告文において、「日本考古学における『理論』の欠如」を指摘し、「提示されているものは、説明も議論も伴わないバラバラのデータの山積み」で、これは、「日本考古学の独特のあり方」であり、欧米と日本とが、「根本的に異なる原理において進められているということ」を指摘しておられる。
細谷葵氏のこの指摘は、竹岡俊樹氏の二兆円の税金をかけて発掘し死蔵されている「山なす資料」という指摘と共通するところがある。
東京大学名誉教授の上野千鶴子氏は、その著『情報生産者になる』(筑摩書房新書、2018年刊)の中で、つぎのように述べておられる。
「社会科学は経験科学です。信念や信条にもとづいて、主張を唱えるのではなく、検証可能な事実にもとづいて、根拠のある発見をしなければなりません。わたしはゼミの学生に「しょっちゅう『あんたの信念は聞いていない』と言ってきました。『それは何を根拠に言うの?』とも、しつこいぐらいに聞きました。根拠のない信念はただの思い込み、『偏見』ともいいます。」
科学としての歴史学や考古学もまた、そうでなければならない。
日本の考古学は、いろいろな意味で世界の考古学の中で、かなり特殊な考古学になっている。
個々の遺跡・遺物の詳細な記録に熱心であるが、個々のデータは、みずからの思いつきや、思いこみにあう情報をとりだすための材料となっている。みずからの先入観や思いこみにあうデータをさがしだすことに熱心であって、不都合なデータは無視する傾向が強い。データの示す情報によって「歴史」を「客観的に」「総合的に」構成して行く方法と理論とを発展させていない。
客観的な実在である「過去」を、客観的に探究する形になっていない。客観的に探究する「方法」を開発していない。主観的に「解釈」するものとなっている。
これは、上野千鶴子氏のいう「検証可能な事実にもとづく根拠のある発見」を行なうのとは別のものである。
他の分野の科学者たちの批判の声や、留学経験のある考古学者、竹岡俊樹氏や、細谷葵氏の見解などに、考古学のリーダー諸氏は、もう少し耳をかたむけて欲しい。
考古学は、厖大な資金を費消しながら、社会への見返りがあまりにも少ない。
むしろ、誤った方法と認識とにもとづき、迷路にはいりこみ、大本営発表をくりかえすようになっている。勝っていない戦争で、勝った勝ったと、大本営発表をくりかえし、さらなる戦費を国民に要求したかつての軍部に似てきている。
考古学界(会)は、緊急発掘費用などは、当然与えられるものという一種の既得権にもとづいて、過去に行なってきたことをくりかえすのではなく、外部の有識者などの意見もとりいれ、AIなどを生かして、主要な情報記録の自動化や、有効な情報抽出の効率化などにとりくみ、経費削減をはかって欲しい。
報告書などは、一定の様式というか、パターンを定めることができるはずである。あるていどの自動化は可能なはずである。人員の削減なども検討してみてほしい。
報告書作成後、たとえば十年間、他の論文、研究書などに一度も引用、参照されることのなかった報告書は、どのていどあるのか。そのような報告書の内容分析などを行ない、その種の報告書の作成の簡略化を進めることはできないのか。
「緊急発掘的なものの調査費用などの国際比較」も行なってみるなど、外部からみたワクグミや基準も、検討してみてはどうか。
イタリアなどの古い歴史をもつ国において、緊急発掘の状況や、費用はどうなっているのであろうか。
このような改革は、人員の削減や経費の削減をもたらす。費用や人員の差配権の縮小という痛みをともなう。しかし、日本の考古学は、これまで費用にふさわしい結果を出していない。
莫大な資金を消費しつづけながら、日本の古代を知るための正確で有効な情報をもたらさない。むしろ、根拠のない、誤った情報を、現在もやたらにマスコミに発信しつづけているようにみえる。
社会をミスリードするものであり、社会に被害を与えるものである。日本考古学とは、いつたい何なのか。
二十一世紀のAIやデータサイエンスの時代に、「十九世紀ごろの感覚や方法」でとりくんでいるようにみえる。
現状では、既得権益の上に安住しているとみられても、しかたのないところがある。
改革を、考古学界(会)で行なうことがむずかしければ、管轄官庁の文化庁が、国費を用いて、国家プロジェクトとして行なってはどうか。外部有識者の力をかりて行なえば、数億円ていどの経費で、百億円単位の経費節減をもたらす可能性があるようにみえるが。
NHKをはじめとするマスコミにも、大いに問題がある。
われわれ庶民のばあい、百円、千円、一万円ていどまでのことはよくわかる。日々節約に節約を重ねながら、百万円、一千万円、一億円ていどになると、よくわからなくなり、詐欺話にまきこまれ、退職金や親の遺産を、一挙に失なう、というような話をよくきく。
マスコミ人も、一千万円、一億円ていどのことはよくわかり、自民党の政治資金パーティーのことや、石破首相が十万円ていどの金をくばったことなどは、連日大騒ぎして報道する。
しかし、数百億円、数千億円、数兆円というような話になると、なんのことかよくわからなくなっているのではないか。
日本国民よ、しっかりせよ。日本考古学には、すでに旧石器ねつ造事件で、だまされた経験があるではないか。
旧石器ねつ造事件のばあい多数意見を正しいと思いこんで「宣伝」につとめ失敗したが、また同じことをくりかえしている。
政治家と異なり、わが国の考古学者は、だれ一人責任をとっていない。
マスコミも、藤村新一氏のねつ造石器による五〇万年前、六〇万年前、七〇万年前という年代くりあげ報道で売り上げをのばし、それがねつ造であったとの報道で売り上げをのばし、マッチポンプで売り上げをのばし、被害をうけていない。 かかった費用のツケは、全部国民にまわされている。同じような話に、何回ものるな。追銭を払うな。
思いつき、思いこみにもとづく空想話に、これ以上のるな。
ことの軽重の判断を誤るな。微(び)[細部]にとらわれて著(ちょ)[顕著なもの]を、見失うな。木をみて森を見ず」ということばもあるではないか。
革命家幸徳秋水(こうとくしゅうすい)は、『二十世紀の怪物帝国主義』をあらわした。現代の私たちは「二十一世紀の怪物、日本考古学主義」に対処する必要にせまられている。
マスコミで大きくとりあげられたところには、大きな予算がつく傾向が生じた。考古学研究者は、マスコミにとりあげてもらうことに熱心となり、話題性を求めて、年代などは古い方へ、古い方へひとり歩きする傾向か生じた。
データを全体的にまとめて行く数理統計学の方法などが考古学の分野では、基礎教育として、きちんと導入されていない。そのため、データは、細谷葵氏のいう「とらえどころのない膨大なデータの氾濫」の状態となる。とらえどころのないものは、なんとでも解釈できる。
膨大なデータの中から、あらかじめ、みずからがもっている説に都合のよいものだけをとりだすことに熱心になる。それで自説が「検証」されたと考える。まして、マスコミがとりあげれば、「証明」は完成されたと考える。
ここでは、自説に好都合なものがどの程度あり、不都合なものがどの程度あるかが、客観的に評価されていない。
かくして、強い主張、のためにする言説、そして、「空気」に流されやすくなる。これでは、「検証」にならない。
データから思いつく感想、あるいは、空想が肥大化して行く。古代史が現代人の創作する作り話、あらたな「神話」、あるいは「古代妄想」に近づくことになる。根拠のない主観的な信念を「妄想」という。「妄想」は「妄想欲求」にもとづく。
話題性の提供によって得られた多大な予算は、「多くは死蔵される報告書」の作成のために費消されることとなる。ポイントをきりかえ、もっときちんと検討せよという科学者などの声は、かきけされがちとなる。
かくして、考古学は科学的な根拠にもとづく探究よりも、マスコミ対策のほうに熱心となる。
考古学が、マスコミと密着して、科学ばなれを起こしている。きちんとした根拠を提出しなくてもよいものとなっている。
かくて、質の高い考古学者たちの声は、喧噪の中でかき消されがちとなる。水が低きにつくように低俗化し、しだいに怪物めいた様相をおびてくる。
学問や科学をするのにふさわしい力をもたない人たちのところに、大量の資金を与えるとどうなるか。
資金は、学問や科学を深化させるために用いられず、思いついた、あるいは思いこんだ自説「宣伝」のために用いられることになってしまうのである。
資金をドブに捨てるようなことになってしまう。ドブに捨てるどころか、社会や科学の発展を阻害する方向に使用されてしまうのである。
だれも責任をとらない。とりとめのない話に、これ以上つきあうな。お人よしであるな。二度も三度も同じような話にのるな。立ちあがって抗議せよ。
考古学関係の人も、マスコミ関係の人も、旧石器ねっ造事件のときにそうであったように、科学や学問や、真実を求めることに無関心な人ばかりではないはずだ。そのことを信じよう。
マスコミ便乗主義的な考古学は、かならず破綻する日がくる。
マスコミによって立つものが、マスコミによって滅びることとなる。
とにかく声をあげよう。
■ 「邪馬台国奈良県説」
「邪馬台国畿内説」の論理、方法、根拠
(1)「魏志倭人伝」に記載のないものをとりあげる方法
(2)年代遡上論(年代くり上げ論)。古墳時代のはじまりの年代を、古くもち上げ、卑弥呼の時代には、もう古墳時代が始まったとするような論。
・粉飾発表、粉飾報道
2025年4月23日(水)の『朝日新聞』に「卑弥呼も見た?『繼向犬』復元」という見出しの記事がのっている(下の記事参照)
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奈良県桜井市の纏向遺跡から出土した三世紀前半ごろとみられる「犬の骨」についての記事である。
同様の記事の『毎日新聞』の記事(2025年4月22日)は、「卑弥呼の飼い犬?纏向遺跡から骨」となっていた。
『産経ニュース』(2025年4月22日)では、「『女王・卑弥呼の愛犬』を復元」となっており、「Yahoo!ニュース」では、「卑弥呼もなでた犬?」となっている。
この種の発表・報道が、くりかえされている。
卑弥呼が、奈良県の桜井市の纏向遺跡の地にいたことなどは、なんら証明されていない。この種の記事・発表は、読者を、「パブロフの犬」にするものである。
ロシアのパブロフは、「条件反射」を探究した。
犬の口に肉を入れると唾液を出す。つぎに、肉を与えながらベルを鳴らす。これを何回もくりかえすと、ベルの音を聞いただけで、犬は唾液を流すようになる。
ベルの音と、唾液を出す反応とは、本来無関係のものであるが、条件反射によって、そのつながりが形成される。
卑弥呼と纏向の地とは、本来無関係であっても、何度も報道されると、卑弥呼とのつながりがあるように思えてくる。
記者のほうは、卑弥呼や邪馬台国と結びつけたほうが、みずから書いた記事への注目率が高まることなどもあって、そのような記事になりやすい傾向がある。
発表者のほうは、記事にとりあげてもらうほうが、きちんとした邪馬台国纏向説の論文を発表するよりも手っとりばやいから、とかく、その方法をとりたがる。そしてマスコミがとりあげたならば、それが、自説の「証明」になると考える傾向がある。
チャバネゴキブリの体の一部が出土したという報道
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桃の種が、纒向の地から出土したという報道もあった。
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これらの記事・発表には、つぎのような問題がある。
(1)「犬」「ゴキブリ」「桃の核」、いずれも、「魏志倭人伝」に関連記事がない。出発点である「魏志倭人伝」から離れたところで騒いでいる。
そして、「魏志倭人伝」に記されている事物の出土状態についての検討がおろそかになっている。
(2)「魏志倭人伝」に記されたものを、まずとりあげるべきである、というような基準がないから、とりあげるべきものの選択が恣意的になっている。
ブタの骨のばあいは? ニワトリの骨のばあいは? ハツカネズミの骨のばあいは? というような話になる。
すでにのべたように、「魏志倭人伝」に記載のあるものだけをとりあげれば、「卜骨」において、「鳥取県」が、出土数が断トツのトップである。しかし、そこだけに重点をおいて議論してはいけない。全体の状況をみなければ。
(3)「鉄の鏃」「銅鏡」「勾玉」「箱式石棺」などは、全都道府県についての、どの遺跡からいくつでたか、などを示す総目録的な、立派な本が出ている。それによって、各都道府県のどの県からいくつ出土しているか、などを調べることができる。
「犬の骨」や「ゴキブリ」や「桃の種」などについては、そのような目録集は、でていない。したがって、各都道府県の出土状況についての相互比較ができない。たまたま、奈良県で出土したものをとりあげるというような話になっている。
「桃の核」などでも、岡山県の上東(じょうとう)遺跡からの出土数9608個は、奈良県の纏向遺跡からの出土数2800個の三倍をこえる。
(4)卑弥呼の存在した「三世紀」という年代は、「奈良県」にだけに存在していたのではない。日本列島のどの地にも、等しく存在したのである。
出土しているかどうかは別として、どの地にも、三世紀の遺跡・遺物は、かならず存在しているはずである。
日本で、もっとも古い犬の骨は、神奈川県横須賀市の夏島貝塚から出土した縄文時代の9400年ほど前のものとされている。つまり、全国のどの県にも、犬はいたのである。それを、たまたま、奈良県の纒向遺跡から犬の骨が出土したからといって、「卑弥呼も見た?」「卑弥呼の愛犬」「卑弥呼のなでた犬?」などといって騒ぐのは、方法論的におかしくないか。纒向遺跡の犬の骨の出土年代にも、議論の余地があるようにみえる。
「邪馬台国奈良県説」は、犬の骨だの、ゴキブリだの、変なものを摂取しすぎて、病気になっているのではないか?
そこには、「宣伝」「プロパガンダ」があって、「証明」がない。基本的に、「あらぬところでのカラ騒ぎ法」というべきである。
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・外山滋比古(とやましげひこ)著『思考の生理学』(ちくま文庫、2024年刊)
「インブリーディング(inbreeding)ということばがある。同系繁栄、近親交配、近親結婚のこと。ニワトリでも同じ親から生れたもの同士を交配しつづけていると、たちまち、劣性になってきて、卵もうまなければ、体も小さくて、弱々しいものになる。
人間でも同じことで、近親結婚はおもしろくない遺伝上の問題をおこす。それでどこの国でもごく近い関係にある親族や同族の結婚を禁止している。インブリーディングはそれほど危険なのである。」
「専門が確立すると、ちょうど、軍艦のようなもので、外部との交渉が絶えて、洗練化が進む。人々の関心は中枢部へ向けられる。ちょうど、列車の乗客が、先頭と最後部の車輛に乗りたがらないで、混んでいても、中央のハコに集まるようなものである。
専門分野内における気づかれないインブリーディングがこうしておこる。当然、創造力がおとろえてくる。」
「その傾向は早くから気づかれていたけれども、中央から、はしのハコヘ移ろうというもの好きはすくなかった。まして、ほかの列車へ飛び乗ろうというのは自殺的行為だと見なされる。賢明な人はまん中におさまっているに限る。
そういう常識に挑戦し、学問に新しい風を入れようというのが、インターディシプリナリー(Interdisciplinary)「学際研究」である。中枢部志向の専門家は、どの学問でも周辺領域には近づかない。どの学問でも境界領域はノー・マンズ・ランド(無人地帯、未開発の領域)ときまっている。
そこを開発するには、これまでの学問と学問をへだてていた垣根をとりはらわなくてはならない。そして、生れたのが、インターディシプリナリーである。」
邪馬台国関係の基本文献さえ読まずに、考古学だけで考えようとする。
・目録作成主義の問題点
1960~1970年代にかけて、アメリカの考古学者、ルイス・ビンフォード(Lewis Roberts Binford 1931~2011)は、「新考古学(ニユー・アーケオロジー(new archaeology)」をといた。
ビンフォードはいう。
「従来の考古学は、資料を提供するだけで、科学的な学問とはいいがたい。考古学者は、埋蔵品の目録を作成するよりも、埋蔵品をもとに、古代文化を明らかにすることに、力をそそぐべきである。」(植木武ら訳『過去を探求する』雄山閣、2021年)
どこから、何が出土したかを、正確・詳細に記述し、目録を作成して行けば、おのずから過去が復元できる、ということにはならない。
古代を復元するためには、古代を復元するという明確な目標と、そのための「方法」とを、もたなければならない。
そうでないと、記録することじたいが、目的になってしまう。
あるいは、目録を作成しても、その目録によって、みずからが、あらかじめもっていた「仮説」をうらづける「事実」だけを抽出して行くということになってしまう。
多額の費用をかけて発掘し、記録しても、おそろしく主観的な古代史像が、できあがってしまう。
古代史像を、「客観的に」復元するためには、それなりの「方法」が必要である。
邪馬台国畿内説には、利害関係や生活、ポストなども関係しているとみられる。
・近藤芳郎編『前方後円墳集成』(山川出版社刊)
日本考古学協会は、会員数三千名~四千名の日本で最大会員数の考古学会である。私もその会員の一人である。
日本考古学協会の会員の中には、邪馬台国畿内説の立場の人も、邪馬台国九州説の立場の人もいる。
しかるに日本考古学協会では、 2024年に邪馬台国畿内説の立場の人だけを講師として集め、シンポジウムを開き、それをまとめた冊子や本を刊行している。
あたかも日本考古学会の会長以下の幹部は日本考古学会としては、これで行きましょうと音頭をとっているように見える。
なぜ、こんなことがおきるのか。
かつて、旧石器ねつ造事件が起きたさい、読売新聞の記者であった、ジャーナリストの矢澤高太郎氏は、つぎのように述べている。
「新聞やテレビで大きく報道されることによって社会的な関心が高まり、遺跡の生命が守られたケースは多い。しかし同時に弊害もまたさまざまな形で発生した。学者にとっては、地味な論文を発表する以前にマスコミで大々的に取り上げられるほうが知名度も高まり、学界内部での地位も保証される傾向が強まった。一部の学者や行政の発掘担当者はそれに気づき、狡知にたけたマスコミ誘導を行なってくるケースが多々見られるようになってきた。その傾向は[旧石器捏造(ねつぞう)事件の]藤村(新一)氏以外には考古学の”本場”である奈良県を中心とする関西地方に極端に多い。そして、発表という形をとられると、新聞各社の内部にも何をおいても書かざるを得ないような自縄自縛の状況が、いつの間にか出来上がってしまった。そんなマスコミの泣き所を突く誇大、過大な発表は関西一帯では日常化してしまっている。藤村(新一)氏は『事実の捏造』だったが、私はそれを『解釈の捏造』と呼びたい。」[「旧石器発掘捏造”共犯者”の責任を問う」(『中央公論』2002年12月号)。本書の引用文の一部に傍線を引いたのは安本。以下同じ。]
毎週木曜日にイギリスで発行される国際的な科学ジャーナル『ネイチャー(Nature)』は、『毎日新聞』のスク-プのあった2000年の11月5日(日)のつぎのつぎの木曜日の11月16日号に早速この事件をとりあげて論じている。
「この(旧石器ねつ造事件の)話は、藤村新一がねつ造作業をつづけるのを許した科学文化についての疑問をひき起こした。」
「日本では、人を直接批判することはむずかしい。とくに、エスタブリッシュメント(支配階級、既得権益派、社会的に確立した体制がわにある人々)の地位にある人々を直接批判することはむずかしい(ln Japan.it is hard to criticize people directly, especially those in established positions)。なぜなら、批判は、個入攻撃とうけとられるからである。」
「直観が、ときおり、事実をこえて評価される。」
東京大学名誉教授の医学者、黒木登志夫氏は、その著書『研究不正』(中公新書、央公論新社、2016年刊)で2012年に発覚した、ある麻酔科医の起こした一連の論文ねつ造事件についてつぎのように記す。
「学会とジャーナルは積極的に自浄能力を発揮した。特に、日本麻酔科学会の報告書は、今後のお手本になるだろう。」
そして、旧石器ねつ造事件については、つぎのように記す。
「日本考古学協会は、検証委員会を立ち上げたが、ねつ造を指摘した竹岡(俊樹)とと角張(かくばり)[淳一(じゅんいち)]は、検証委員会に呼ばなかった。ねつ造発見の10日前に発行された岡村道雄の『縄文の生活誌』は、激しい批判にさらされ回収された。しかし、岡村は、責任をとることなく、奈良文化財研究所を経て2008年退官した。」
「SF(藤村新一)のねつ造を許しだのは、学界の長老と官僚の権威であった。その権威のもとに、相互批判もなく、閉鎖的で透明性に欠けたコミュニティが形成された。」
宮崎公立大学の教授であった考古学者の奥野正男氏も、毎日出版文化賞を受賞されたその著書『神々の汚れた手』(2004年、梓書院刊)の中で述べている。
「この事件(旧石器ねつ造事件)の本質とは何か。宮城県の地下には数十万年前の旧石器が埋まっているという、まだ発掘で証明されていない岡村(道雄)の予言が、藤村という石器蒐集マニアによって、何十万年も前の地層から、予言通りの『前期旧石器』が次々に発見された。岡付の予言が学問的真実として立証されたという話が事件の本質である。これはものの道理をこえたオカルト話にほかならない。この物語が醸し出すうさん臭さは、考古学協会の検証部会や再調査の場で協会幹部がよってたかって藤村関与遺跡のシロかクロカだけを議論した点にも良く現れていた。協会幹部は大会で『検証に参加すれば説明責任を果たしたと認めてよい』と公言し、宮城・埼玉県など藤村の作為を黙認した行政研究者(地方公務員)の免責も約束した。藤村一人を犯人にまつりあげ断罪する協会幹部の指導は、関係者の『藤村に騙された』という大合唱となり、その後の検証でも関係学者の責任をだれも口にしようとしない、学会・研究団体の倫理的退廃を生みだした。このような学会の実態は国民の考古学不信を大きくするばかりである。」
一人の人を殺す人は、犯罪者として罰せられる。
しかし、百人、千人、万人の人を平気で殺せる人は、英雄としてたたえられ、大国の大統領になれる人である。
十万円を詐欺する人は、犯罪者として罰せられる。
しかし、構造をつくり、十億、百億の金を左右する人は、学会のリーダーとなれる人である。
虚偽の、あるいは、根拠のない情報をマスコミに流し、調査費、給与、研究費などの形で、公金をうけとる。
これは、合法的不正行為、あるいは、特権詐偽(詐欺)一種なのではないか。
ちょうど、アメリカやロシアの大統領が大量の殺人を行っても、(国際法違反といえるが)罰せられることはないのと同じように。
構造をうまく、大規模に利用すれば、罰にとわれることはない。
あなたはこんな社会を、よい社会だと思うのか。(タイは、頭から腐る)
データを集め、記述する。ところまでは客観的である。立派な目録集がいくつも成立している。それらのデータから「歴史」を構築して行く方法が客観化されていない。数学や、統計学、情報科学にたよれるところは、それらにたより、議論や論証を客観化すべきである。
明治維新の前後、いろいろな事物が、大きく変化している。文献を読まず、事物の変化だけを考古学的に観察すれば、西欧の勢力が日本に来て、日本を征服したのであるとする仮説も成立かもしれない。
考古学的資料だけで考えようとするから、判断が主観的になる。議論を客観化する方法を講じ、文献が、存在しているならば、文献と矛盾しない仮説のほうを採択すべきである。(神話、仮説を排除しない)
利害関係にもとづくためであろう。
一つの学会のリーダー諸氏が、これほど非科学的、非学問的になっていくことはめずらしい。私たちはそのことをしっかり認識すべきである。
また、研究不正などにおけるリスク管理において疑問を持たせることが、あまりにも多い。
考古学は、抜本的改革、革命を必要とする時期にきているようにみえる。