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第440回 邪馬台国の会(2026.5.24 開催)
「邪馬台国問題」は、なぜ解けないか
代表的「邪馬台国畿内説」の検討(6)
前回までの大まかな復習
纏向学研究センター所長寺沢薫氏の「議論の方法」の研究


 

1.前回までの大まかな復習

■天皇や世界の王の平均在位年数
たびたび紹介しているが、下図の右上のグラフは日本の天皇の平均在位年数を示したもので、400年ごとにまとめると、古い時代になるほど天皇の平均在位年数が短くなることが分かる。そして下の3つのグラフから、中国、西洋、更に世界の王の平均在位年数を示すと、日本の天皇の平均在位年数と同じような傾向があることが分かる。
5~8世紀の天皇の平均在位年数は10.88年である。
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■那珂通世氏の『上世年紀考』
天皇の平均治世年数などにもとづく古代年代論を、はじめて、系統的に論じたのは、明治代の那珂通世(なかみちよ)氏(1851~1908)であった。
那珂通世氏は、東洋史学者である。日本で、最初に「東洋史」の名称を用いた。
那珂通世氏の『上世年紀考』は、科学的年代論、統計学的年代論、文献学的年代論の幕あけをつげるものであった。
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同志社大学の教授などであった古代史学者、三品彰英(みしなあきひで)氏によれば、「(那珂)博士のこの優れた論説(『上世年紀考』など)は当時年なお若き明治の学界に一大反響を呼び、一時この道の学徒にして年代論を口にせざるものなき活況を呈した」という。
明治という時代を考えるとき、那珂通世氏はおそるべき知性のもち主であった。その論考は、その後長く、強い影響を残した。
『日本書紀』の記す年代を、国家も、一般の人も、そのまま認めていた時代に、那珂通世氏は、きちんとした根拠をあげ、整然とした論証により、『日本書紀』の記す神武天皇の時代などは、六六〇年ほどの年代の延長があると、大胆に述べた。
つまり、『日本書紀』が、神武天皇の即位年を、西暦紀元前六六〇年と記しているのを、那珂通世氏は、神武天皇は、西暦紀元元年前後の人であろうとしたのである。


■卑弥呼は、だれか
「魏志倭人伝」の伝える「卑弥呼」を、『古事記』『日本書紀』の伝える天皇の系譜の上に位置づけると、どうなるであろうか。卑弥呼はどの天皇の時代の人なのであろうか。
卑弥呼を「わが古代史上のスフィンクス」と呼んだ笠井新也氏は述べている。
「邪馬台国と卑弥呼とは、『魏志倭人伝』中のもっとも重要な二つの名で、しかも、もっとも密接な関係をもつものである。そのいずれか一方さえ解決を得れば、他はおのずから帰着点を見出すべきものである。すなわち、邪馬台国はどこであるかという問題さえ解決すれば、卑弥呼が九州の女酋であるか、あるいは、大和朝廷に関係のある女性であるかの問題は、おのずから解決する。また、卑弥呼が何者であるかという問題さえ解決すれば、邪馬台国が畿内にあるか九州にあるかは、おのずから決するのである。したがって、私は、この二つのうち、解決の容易なものから手をつけて、これを究明し、その他へ考えおよぶのが、怜悧な研究法であろうと思う。」(『考古学雑誌』第十二巻第七号所載「邪馬台国は大和である」、1922年刊)

卑弥呼はだれか、卑弥呼はどの天皇の時代の人なのか、についてのおもな説としては、つぎの五つがある。
(1)卑弥呼=神功皇后(じんぐうこうごう)説
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后である。(「三韓征伐」で知られる。)『古事記』は、神功皇后を第9代開化天皇の五世の孫と記す。卑弥呼に神功皇后をあてる説は、『日本書紀』において示されている。
『神皇正統記』をあらわした南北朝時代の北畠親房(きたばたけちかふさ)や、『異称日本伝』をあらわした江戸元禄時代の国学者、松下見林(まつしたけんりん)も、『日本書紀』の記述をうけて、神功皇后を卑弥呼にあてている。明治以後の学者でも、小中村義象(こなかむらよしかた)氏、森清人氏など、「卑弥呼=神功皇后説」をとった学者は、かならずしも少なくない。

(2)卑弥呼=倭姫(やまとひめ)説
倭姫は、第11代垂仁天皇の皇女で、第12代景行天皇の皇妹である。
景行天皇のころに活動した人である。「卑弥呼=倭姫説」は、明治のすえに、京都大学 の東洋文学者、内藤湖南(こなん)[虎次郎]氏がとなえた。現代でも、坂田隆氏などは、「卑弥呼=倭姫説」をとっている。

(3)卑弥呼=倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)説
倭迹迹日百襲姫は、第7代孝霊天皇の皇女である。第10代崇神天皇のころに活躍したとされている。
「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫」は、大正時代に、徳島県の旧制脇町中学校(現・県立脇町高等学校)の国漢地歴の教諭であった、笠井新也氏がはじめてとなえた。現代でも、歴史学者の肥後和男氏、和歌森太郎氏、考古学者の原田大六氏、その他、『日本誕生の謎』を書いた井上赳夫氏、『倭日の国』を書いた熊本大学の藤芳義男氏など、「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」をとる研究者は少なくない。

(4)卑弥呼=天照大御神説
天照大御神は、天皇家の祖先神、皇祖神である。卑弥呼は、第1代神武天皇より五代まえと伝えられる天照大御神にあたるとする説である。
この説は、いずれも東京大学の教授であった白鳥庫吉氏、和辻哲郎氏が示唆し、その後、栗山周一氏が明確な形で主張し、林屋友次郎氏、飯島忠夫氏、和田清氏、市村其三郎氏、安本美典、鯨清氏、平山朝治氏などによってうけつがれている。
この説に立つとき、邪馬台国は、九州にあったことになり、のち西暦三〇〇年前後の人と推定される神武天皇の時代に、東遷したことになる。いわゆる「邪馬台国東遷説」を主張することになる。

(5)卑弥呼=九州の女酋説
魏へ使をつかわしたのは、大和朝廷とは関係のない九州の女酋であるとする説である。この説は、江戸時代に、本居宣長が説き、その後、鶴峰戊申(つるみねしげのぶ)、星野恒(ひさし)氏、吉田東伍氏などによってうけつがれた。鶴峰戊申の「襲国偽僭(ぎせん)説」や古田武彦氏の「九州王朝説」は、「女酋」を「女王」に格上げするもので、「卑弥呼=九州の女酋説」の発展形といえる。

(6)卑弥呼は不明とする説
『古事記』『日本書紀』は、八世紀に成立したものである。卑弥呼は、三世紀に存在した人である。その間に、五百年ちかいへだたりがある。『古事記』『日本書紀』の伝える初期の諸天皇には、実在の疑われる人もあり、『古事記』『日本書紀』によっては、卑弥呼や邪馬台国は、さぐれないとする立場である。津田左右吉氏が、このような考え方を、体系的にまとめ、現在、この立場に立つ人は多い。

以上のうち、(1)の「卑弥呼=神功皇后説」、(2)の「卑弥呼=倭姫説」、(3)の「卑弥呼=倭迹迹日百襲姫説」は、だいたい、「邪馬台国=大和説」となる。(4)の「卑弥呼=天照大御神説」、(5)の「卑弥呼=九州の女酋説」は、「邪馬台国=九州説」となる。
また、(1)(2)(3)(4)は、卑弥呼を、皇室の系譜のうちから求められるとする説であり、
(5)(6)は、皇室の系譜のうちに求められないとする説である。

■考古学者、寺沢薫氏の土器による編年
寺沢薫氏は、つぎのようにのべる。
「それでは、この(箸墓古墳の)『布留0式』という時期は実年代上いつ頃と考えたらよいのだろうか。
正直なところ、現在考古学の相対年代(土器の様式や型式)を実年代におきかえる作業は至難の技である。
ほとんど正確な数値を期待することは現状では不可能といってもいい。
しかし、そうもいってはおれない。私は、制作年代のわかりやすい後漢式鏡などの中国製品の日本への流入時期などを参考に、弥生時代の終わり(弥生第4-2様式)を西暦三世紀の第1四半期のなかに、また、日本での最初期の須恵器生産の開始を朝鮮半島での状況や文献記事を参考にして西暦四〇〇年を前後する時期で考え、これを基点として、この間の時間を土器様式の数で機械的に按分する方法をとっている。つまり、それは一八〇~二〇〇年を九つの小様式で割ることになり、一様式約二〇年、ほぼ一世代で土器様式が変わっていく計算になるわけだ」{寺沢薫『箸中山古墳(箸墓)』[石野博信編『大和・纒向遺跡』(学生社、2005年刊所収)]。ただし、傍線にしたのは、安本}
ここで、注意すべきことは、「布留0式」とか、「布留0式新相」「布留0式古相」などの土器様式を設定して考えるのは、寺沢薫氏説にもとづくものであることである。

ここに、いくつもの問題がある。
つぎのような諸問題である。
(1)『魏志倭人伝』には、日本の土器のことなど、もちろん記されていない。また、土器に西暦年数に換算できるような年号が記されている例があるわけでもない。
これは、中国のばあい、墓から年号の書かれた墓誌とともに、鏡が出土しているのと、事情が大いに異なる(たとえば、洛陽晋墓のばあいの「位至三公鏡」など)。
土器による編年では、大まかなことしかいえない。

(2)たとえば、時代のくだる奈良時代において、土器の様式の編年を客観的に定めることができるが、一様式の存在期間がどの程度であるかなどの、客観的にたしかめることのできるデータ例が示されていない。

「一様式二〇年」というような計算では、ともすれば、「様式」の数をふやすことによって、土器などの年代を、古くさかのぼらせることにつながる。寺沢氏は庄内式と布留1式とのあいだに「布留0式」という様式を定め、その「布留0式」をさらに、「布留0式新相」と「布留0式古相」とにわける。
しかし、このような細分化には批判もみられる。
たとえば、当時奈良県立橿原考古学研究所の調査研究部長であった河上邦彦氏は、のべる[河上邦彦氏は、のち、神戸山手(こうべやまて)大学教授]。
「うちの寺沢薫さんがやっているなかで、結局、布留0式だとか、布留1式だという言い方をしますが、あれの設定にはやはり問題があるわけですね。弥生の、たとえば畿内第1様式みたいなものは、一つでだいたい100年ぐらいあるわけでしょう。結局、100年もあるから、全部の器形が変わるということがあり得るんですが、ところが、彼らがやっているのは、同じ器形がだいぶ長い間続く。そのなかで何パーセントこの器形があり、この器形が何パーセントぐらいあったときを布留0式と言おうみたいな条件です。そうしたら、すべての材料があるときにはそのパーセントが出せますけれども、二~三点しかないようなものでパーセントを出したってしょうがない。感覚論で言っているだけみたいになる。これは納得いく材料にはなりません。」
布留0だ、布留1だという編年とその設定がだめだと言っているだけです。」[以上、「緊急鼎談 黒塚古墳発掘の意味」(『東アジアの古代文化』1998年春・95号)]

考古学の分野では、客観的な基準にもとづいて追跡調査できるようなデータが示されておらず、著名な学者が述べているからという理由だけで結論が通っているような例が、あまりにも多い。外界に問いかけて、客観的に検証する手がかりが、示されていない。寺沢氏の主観的な判断に従って伸縮自在となる。

歴史上のことを考えるさいに、「年代」が必要であることは、地図に、緯度や経度が必要であるのにも似ている。「年代」は、歴史を構成する脊柱(せきちゅう)である。
「歴史を構成する」とは、天皇や事件、遺跡、遺物を、「年代」という太い一次元の座標軸上に、統一的に位置づける作業であるともいえる。

・卑弥呼=天照大御神説は天皇一代十年説から説明すると分かり易い。
下図において、確実な歴史的事実の自然な延長上に「A」のポイントがある。
これが、神武天皇の5代前の天照大御神となる。
440-02

統計学の需要予測の手法から年代の区間推定を行うと下記のようになる。
440-03

中国の皇帝の順位と日本の天皇の年代を1代並べて、表記したものである。
中国は南朝宋8代順帝と第21第雄略天皇(倭王武)を出発点としている。
(下図はクリックすると大きくなります)433-04

 

2.纏向学研究センター所長寺沢薫氏の「議論の方法」の研究

(意味不明も文章の泥沼の中から、結論が出てくる)
■寺沢薫氏の議論には、つぎのような傾向がある。
(1)重要な論点についての議論で、寺沢薫氏の文章は、何度読んでも、文章の意味が、理解できないことが多い。
しかし、寺沢薫氏の文章では、結論だけは、きわめてはっきり記されていることが多い。なぜ、その結論がでてくるのかが、理解できない。

(2)寺澤薫氏が示している事実やデータからは、寺沢氏の述べる結論は出てこないはずであることがしばしばである。

(3)寺沢氏の述べる結論についての反証、または矛盾点とみられる事実やデータについては、寺沢氏は、無視または、きわめて簡単に、言葉だけの議論で否定する傾向がある。矛盾点などを無視してよいのであれば、どんな議論でも成立する。

(4)基本的に、主観にもとづく解釈論であって、客観的な推論とはいえないことがしばしばである。

以上のような問題点があるにもかかわらず、寺沢氏が述べているからという理由で、寺沢氏の述べる結論だけが、喧伝されるっていることが少なくない。

以下、具体的例を挙げる
以下の文例は、寺沢薫著『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書、中央公論新社、2023年刊)による。

寺沢薫氏はのべる。
「これを今日の考古学のデータと解釈に照らし合わせて言いかえると、次のようになる。二世紀初め頃に誕生した倭国(イト倭国)はイト国を盟主とし、その範囲は北部九州を中心に四国南西部までをふくめた地域だった。しかし二世紀末の政治的混迷のなかで各地の首長たちよる会盟が執りおこなわれ、その結果、三世紀初め、北部九州を遠く離れた奈良盆地東南部のヤマト国に新たな王都(纒向遺跡)が建設された。列島規模の広がりをもち、従来の体制を大きく転換した倭国(新生倭国)が誕生した。こうして部族的国家連合は混乱と女王共立というハードルを越えて、ついに「王国」という国家段階に達した、というのが私の描くストーリーなのである。

三世紀初め、この国はイト倭国体制から新生倭国体制へと大きく舵を切った。同じ「倭国」という名称であっても、歴史的国家形態からいえば、それは部族的国家連合の段階から王国という段階への飛躍であった。それに応じて倭国の王都も、イト国の三雲・井原遺跡群からヤマト国の纒向遺跡へと、一気に東遷したのである。
しかもこの二つの倭国には、決定的な違いがあった。つまり、イト倭国の王都が置かれていたイ卜国はまさに倭国の盟主国であったが、新大王都が置かれたヤマト国は、けっして新しい倭国の盟主国ではなかったということである。」(84ページ以下)

寺沢氏は、この文章の中で、「イト国からヤマト国へと一気に東遷した」と記す。では、その東遷の主体となった政治勢力(氏族など)は、何なのか。
(1)イト王国系の氏族なのか。
(2)イト王国系以外の氏族なのか。

私は、拙著『日本の建国』(勉誠出版刊)のなかで、初期の天皇の后妃について、くわしく分析した。
初期の天皇の后妃は、たとえば、下の表のようになっている。

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以下、拙著『日本の建国』では、第42代文武天皇までの后妃を示す。
これらの后妃の出自をまとめれば、下表のようになる。
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上の表により、后妃を出自別に分類すれば、下表のようになる。
440-06この表などをみれば、つぎのようなことがいえる。
「第9代開化天皇以前の天皇の后妃においては、大国主の命系・饒速日の命系の人が多い。それ以後では、神武天皇系、つまり、皇族同士の結婚が多くなるのである。

『古事記』『日本書紀』は、皇族同士の結婚が多くなった時代に成立したものである。
もし、初期の天皇の皇妃についての記述が机上の創作であるとすれば、なんのために、大国主の命系や饒速日の命系の后妃を記さなければならないのか。
このことは、初期の大和朝廷が、すでに現地勢力となっていた大国主の命系氏族や饒速日の命系氏族と神武天皇系氏族との連合の上に、大和朝廷が成立したことを示している。
たとえば、上の表(歴代天皇の后妃の出自)に、第2代綏靖天皇の皇妃の名として、「師木(しき)の県主[磯城(しき)の県主]」系の「河俣(かわまた)比売[川派媛(かわまたひめ)]」の名がみえる。
「磯城の県主」が饒速日の命系の氏族であることは、たとえば、『日本古代氏族人名辞典』(坂本太郎他監修、吉川弘文館刊)に、つぎのように記されているとおりである。(これについては、拙著『日本の建国』のなかで、さらにくわしく検討している)。

注:磯城県主(しきのあがたぬし)
大和国磯城地方出身の豪族。志貴・師木にも作る。天武十二年(683)十月、連の姓を賜わる。磯城の氏名は大和国磯城[のちの城上郡(奈良県桜井市北部と天理市の一部など)・城下郡(奈良県磯城郡の大半と天理市の一部)]の地名に由来し、この地には志貴御県坐神社(しきのみあがたにますじんじゃ)[奈良県桜井市金屋]が鎮座する。磯城県主の祖については、『新撰姓氏録』大和国神別に、神饒速日(かんにぎはやひ)命の孫日子湯支命(ひこゆきのみこと)とするが、『先代旧事本紀』天孫本紀では、饒速日命の七世孫建新川命(たけにいかわのみこと)とも、建新川命の兄十市根命(とおちねのみこと)の子物部印岐美(いなきみ)連公ともする。また『日本書紀』には、神武天皇東征の時に活躍した弟磯城(おとしき)を磯城県主としたとある。なお、『古事記』『日本書紀』には、同氏の女性が綏靖(すいぜい)から孝安(こうあん)までの歴代天皇の皇妃となったという伝承がみえる。

寺沢薫氏のいう「イト国」なるものは、『日本書紀』に見える氏族名「伊覩県主(いとのあがたぬし)」と、関係があるのか、ないのか。
もし、関係があるとすれば「磯城(しき)[師木]県主」系の女性についての后妃伝承は存在しても「伊覩県主」系の女性についての后妃伝承は、存在しないのはなぜなのか。
また「磯城県主」の祖とされている饒速日の命についての東遷伝承は存在するのに、「伊覩県主」の祖についての東遷伝承は存在しないのはなぜなのか。

もし「イト国」が「伊覩県主」という氏族と関係がないとすれば、寺沢薫氏のいう「一気に東遷」を行った勢力の主体は、のちのどのような氏族と関係するのか。
寺沢薫氏のような仮説を考えるよりも、后妃伝承も東遷伝承も存在するのであるから、饒速日命や神武天皇などによって代表させる氏族、部族集団を考える方が、よほど自然ではないか。

「東遷」にあたって、「イト国」 を強調する必要が、どこにあるのか。
寺沢薫氏のいう「各地の首長たちによる会盟」「部族的国家連合」の主体は何なのか。 これも伝承が存在するのであるから、天皇家という氏族の祖とされる神武天皇や物部氏の祖とされる饒速日の命などによって代表される氏族、部族的勢力を考えればすむことではないか。なんのために、「東遷」を考えるのにあたって「イト国」をとくに考慮する必要があるのか。

「県主(あがたぬし)」の「姓(かばね)」は「国造(くにのみやつこ)」にくらべ、比較的古い時代に存在した豪族に与えられたもので、下の表に示すように、「筑紫」(9例)と「倭」(9例)とに、この称号をもつ氏族が多い。「河内」(6例」、「肥」(5例)などがこれにつぐ。
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考古学者の森浩一は、その著『敗者の古代史』(中経出版、2013年刊)のなかでのべる。
「饒速日命(にぎはやひのみこと)と長髄彦(ながすねひこ)は、記紀の「神武東遷」の説話に河内平野や奈良盆地の先住の支配者として登場する。神武軍に対して防戦の末、饒速日が舅(しゅうと)の長髄彦を殺して帰順するのが『日本書紀(にほんしょき)』の筋書きだが、金鵄(きんし)が神武軍に加勢するような戦いの記述は鵜呑(うの)みにしがたい。饒速日は物部(もののべ)氏の祖とされる。『先代旧事本紀(せんだいくじほんき)』の記事やゆかりの古社の存在からみて、饒速日こそ北部九州から東遷を実行した人物であり、その伝承を取り込んで神武東遷の逸話が成立したことがうかがえる。」

注:森浩一(1928~2013)同志社大学教授など

また、谷川健一(たにがわけんいち)は、その著『隠された物部王国「日本(ひのもと)」』(情報センター出版局、2008年刊)のなかでのべる。
「『日本書紀』によりますと、神武が東征した先には、『饒速日(ニギハヤヒ)』と『長髄彦(ナガスネヒコ)』に率いられた強力な連合軍が待ち受けていました。彼らは河内・大和の先住豪族でした。」
「私は、東遷と降臨は大いに関係があると考えています。それが『日本書紀』や『旧事本紀』の神武東征説話のなかに反映されている。すなわち、神武帝の東征に先立ってニギハヤヒが『天磐船(あまのいわふね)』に乗って国の中央に降臨したことを認めている。このニギハヤヒの東遷は、物部氏の東遷という史実を指しているものと私は受け取っております。物部氏の出身は、現在の福岡県直方市(のおがたし)、もしくは鞍乎郡(くらてぐん)あたりのようです。

物部氏の(九州での)勢力の基盤と『邪馬台国』の領域とがほぼ重なりあっていることが、確認されるのです。

注:谷川健一(1921~2013)『太陽』初代編集長、民俗学者、近畿大学教授など

古代史家の鳥越憲三郎も、その著『弥生の王国』(中公新書、中央公論社、1994年刊)のなかでのべる。
物部一族はもと(福岡県の)鞍手郡を中心とした地域に居住し、そこから主力が河内・大和へ向けて移動したことが確かである。」

注:鳥越憲三郎(1914~2007)大阪教育大学教授など

精緻な文献考証によって知られた東大の故坂本太郎教授は、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は古来の伝承を筆録したものとする。
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえでのべている。
「古代と歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代(の天皇)から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりのむらじ)穂積臣(ほづみのおみ)など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものではないことを証する。天皇の姪とか庶毋(ままはは)とかの近親を(天皇の)妃と記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも古伝に忠実であることを証する。帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。」
「疑いは学問を進歩させるきっかけにはなるが、いつまでもそれにとりつかれているのは、救いがたい迷いだということも忘れてはなるまい。」(『季刊邪馬台国』26号、1985年)

注:坂本太郎(1901~1987)日本史学者 東京帝大教授、東大資料編纂所長


寺沢薫氏は、文献に記されている古伝承を無視して、勝手に自分なりのストーリーを作っている。そこでは「東遷」ということばが使われているが、「東遷」を行ったものの主体がよくわからない。

寺沢薫氏は『卑弥呼とヤマト王権』の中で、また述べる。
「纒向の地がこの国の初期の天皇の都宮が置かれた場所として伝承されてきたという歴史的重要性を挙げよう。
『日本書紀』には第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁(すいにん)天皇の纒向珠城宮(たまきのみや)、第12代景行天皇の纏向日代(ひしろ)宮とあり、『古事記』では、御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)[崇神天皇]の師木水垣宮(しきみずがきのみや)、伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりひこいさちのみこと)[垂仁天皇]の師木玉垣宮(しきたまがきのみや)、大帯日子淤斯呂和気天皇(おおたらしひこおしろわけのすめらみこと)[景行天皇]の纏向日代宮と書く。纏向は師木(磯城)に包括される地域であるから、垂仁の纒向珠城宮が師木玉垣宮であるならば、崇神の磯城瑞籬宮は纒向水垣宮であったとも考えられる。」(95・96ページ)

この説明は、要領よくまとめられている。
しかしこれは、第10代崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇のころの話である。
そして、この資料の上の方にに示した私の年代論、パラレル年代推定法によれば、「崇神天皇から景行天皇」は、4世紀の後半、「371年~400年」ごろの話である。
卑弥呼が死亡した時期よりも、120年ていどは、あとの時代の話である。寺沢氏はその時期を、卑弥呼の時代に近づけて考えておられる。

『魏志倭人伝』には、「纏向」の地名はでてこない。
また、ここにしばしばでてくる「磯城(師木)」の地も「県主]はすでにの述べたように。饒速日の命系の氏族であり、「伊覩(いと)の県主」とは結びつかない。初期の天皇の后妃も多くは、饒速日の命系であり、「伊覩の県主」とは、結びつかない。
寺沢氏は、みずから述べるストーリーのほうを、『古事記』『日本書紀』の伝える古伝承よりも、優先して考えておられる。

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☆ストーリーは、とくに矛盾がなければ、文献にしたがって考えるべきである。
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『古事記』『日本書紀』などには、饒速日の命の東遷伝承は記されているが、伊覩の県主などと関係した氏族の東遷伝承は、みられないのである。
また、饒速日の命の子孫は、その後も、物部氏などとして、大いに活躍するが、「イト」と関係した氏族が、その後の中央政界で、とくに活躍した事実は、みとめられない。
「東遷」に、「イト」は、関係していたのであろうか?

 

■両系相続
古代においては、ある貴種の人が、ある土地にはいり、その土地の主権者(支配者)の娘と結婚し、そのあいだに生まれた子が、その土地と人民についての主権をうけつぐというパターンが、きわめてしばしばくりかえされている。このようなパターンを「両系相続」という(「双系相続」ともいう)。結果的に、このような「両系相続」「女性中継(なかつ)ぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン」を通じて、その貴種の系統が、勢力をひろげていくのである。

奈良時代に成立した文献には、「言向(ことむ)け和(やは)す」という語が、しばしばでてくる。
「言向け和す」は、「征服する」「服従帰属させる」「平定する」という意味であるが、もともとは、「言葉で説得して従わせる」「言葉で静め和らげる」という意味である。
この「言向け和す」ための手段として、古代では、「両系相続」による婚姻政略が、よく用いられる。「征服する」ばあいに、相手を絶滅させる方法をとらないことが多いのである。
両系相続パターンは、次の「ノート」にまとめたようなものである。

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ノート
両系相続パターン---女性中継ぎによる支配権の継承、貴種への帰属パターン
身分の高い、ある貴種の人(皇子など)が、出身地以外の土地にはいる。そして、その土地の豪族・主権者の娘と結婚する。そのあいだに生まれた男子が、やがて、その土地と人民の主権者になる。

このパターンを通じて、その土地の勢力は、貴種がわの勢力に、くみいれられていく。
貴種の一族は、支配権のおよぶ範囲をひろげていく。
古代においては、神話時代以来、このパターンが、じつにしばしばみえる。
たとえば、次のようなものである。
(1)『古事記』によるとき、九州出身らしい伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)が、出雲出身らしい伊邪那美の命(いざなみのみこと)と結婚する。[古代の女性は、しばしば出身地に墓がつくられる。伊邪那美の命は、出雲(いずも)の国と伯岐(ほうき)の国とのさかいの比婆の山にほうむられている。]
そして、伊邪那岐の命と伊邪那美の命とのあいだに生まれた須佐の男の命(すさのおのみこと)は、出雲方面の主権者となっている。

(2)大国主の神は、須佐の男の命の娘の須勢理毘売(すせりびめ)と結ばれる。そして、須佐の男の命の政治的支配権のシンボルである大刀(たち)と弓矢と琴とをうばって、二人でかけおちをする。このようにして、大国主の神は、出雲の国の主権者となる。
大国主の神は、多くの地の女性と結ばれることによって、支配権をひろげていったとみられる節(ふし)がある。

(3)天皇家も、しばしばこの方法をとって支配権をひろげていった。
第9代開化天皇の皇子の日子坐の王(ひこいますのおおきみ)は、天の御影(あまのみかげ)の神の娘の水依比売(みずよりひめ)と結婚する。そのあいだに生まれた水穂の真若の王(みずほのまわかのおおきみ)が、近つ淡海(ちかつおうみ)の安の国造の祖となっている。

なお、大正~昭和時代の女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)は『母系制の研究』(全集 第1巻、理論社、1966年刊など)をあらわした。高群逸枝は、一対の夫婦のあいだに生まれた子どもは、父方親族の一員であるとともに、母方親族の一員である資格をもっていたとのべる。この考え方によれば、ある人物や氏族の「祖先」は、ある特定の男性に収斂(しゅうれん)するのではなく、父系と母系の複数の祖先に拡散していくことになる。高群逸枝は、多くの事例をあげて論じている。

たとえば、『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』の「山城国神別(やましろのくにしんべつ)」に、次のような記事がある。
「秦忌寸(はたのいみき)は、神饒速日の命(かむにぎはやひのみこと)の後裔である。」
秦忌寸は、秦の始皇帝の子孫で、本来、渡来系の氏族とされている。その渡来系の氏族が、饒速日の命の子孫で、「神別」氏族(神々の子孫と称した氏族)とされているのは、一見矛盾である。
これは、父系相続のみを考えるから、奇異な印象を与えるのである。
たとえば、神饒速日の命の子孫の男性が、秦忌寸出身の女性と結ばれ、(当時は、一般に男性の通い婚であった)その子が、その女性のもとで育てられ、秦忌寸氏の土地、人民の支配権をうけついだような種類の、両系相続があったとすれば、説明がつく。饒速日の命の子孫でありながら、渡来系の氏族の長であるということがおきるのである。

『新撰姓氏録』をみれば、このような事例は、かなりあげることができる。
ふつう私たちは、ある祖先からはじまって、子孫の数がふえて行く図式を考える。
しかし、父系、母系の両方を考える両系相続では、むしろ、さかのぼるにつれて、先祖の数がふえて行く図式が考えられる。

小説家の陳舜臣の『中国の歴史』(平凡社刊)に、次のような文章がある。
「春秋時代もけっこう戦争は多かったのですが、完全亡国はあんがいすくなかったようです。完全に国をほろぼすと、祭祀をうけない祖神が祟(たた)るとおそれられました。だから、周は殷(いん)をほろぼしても、殷の後裔(こうえい)を宋(そう)に封じて、祭祀をつづけさせたのです。春秋時代、虢(かく)という国が晋にほろぼされましたが、これも完全亡国ではなく、小虢と呼ばれる小国が存在を許されています。

『古事記』『日本書紀』によれば、崇神天皇の時代に、流行病がはやり、大国主の神の子孫の意富多多泥古(おおたたねこ)をさがしだして祖神を祭らせたという話がみえる。
これは、周が殷をほろぼしても、殷王朝の子孫に、祖神を祭らせたのと同じような考え方によるのであろう。
かっての大和の国の地もふくめた土地の支配者、大国主の神のたたりをおそれたものであろう。
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私は以下のように考える。
出雲の国から、大和の国にわたるかなり広い範囲(それは、銅鐸の分布範囲とも、ほぼ重なるが)の、もともとの政治的主権者、支配者は、国譲りをするまで、大国主の命であった。その名のとおり、大きな国の主権者であった。

考古学者の森浩一は、『銅鐸』(学生社、1994年刊)のなかでのべている。
「鳥居竜蔵先生が、古い時代に銅鐸についていい論文をいくつかお書きになっていますね。
大正二年(1913)の『銅鐸考』、大正七年(1918)の『有史以前の日本』で銅鐸のことについてふれておられるんですが、大正十二年(1923)に『人類学雑誌』通刊432号で『我が国の銅鐸は何民族が残した物か』という重要な論文を書いておられます。
この時に、そのころ銅鐸を遺した民族について言われていたいろいろな説を批判して、だめなものはだめだと否定されたんです。たとえば、『扶桑略記』にある阿育王の宝塔説は無理だとか、平田篤胤が『弘仁歴運記考』の中で言っている、天孫以前の大国主の系統の集団が遺(のこ)した説を否定している。だが、ぼくはこの説はおもしろいと思っているんです。」
森浩一の発言の意味は、「平田篤胤の、銅鐸を遺した民族は、大国主の命の系統の集団とする説は面白いと思う。」ということであろう。
『古事記』の神代の巻では、八千矛の神(やちほこのかみ)[大国主の神の別名]が、地方に行くことを、「幸行」(天子が外出すること)と記し、八千矛の神の正妻の須勢理毗売の命(すせりびめのみこと)を、「后(きさき)」とも記している。天皇あつかいの表記である。また、『出雲国風土記』では、大国主の神の子の阿遅須枳高日子の命(あじすきたかひこのみこと)に関係して、「阿遅須枳高日子の命の后(きさき)、天の御梶日女の命(あめのみかじひめのみこと)」とあり、ここでも、「后」の文字がつかわれている。
大国主の神は、統治権を皇孫にゆずるまでは、かなり広い地域の、天皇的存在だったようにみえる。

「県(あがた)」は「吾(あ)が田(た)」で、大和朝廷の直轄領を意味するとする説がある。
「国造(くにのみやつこ)」に先行する大和朝廷の初期の支配地を指すとはいえるであろう。
その大和朝廷の初期の支配地が、九州と近畿とに集中している。
この事実は大和朝廷が成立してから、筑紫などを 服属させたと考えるよりも、伝承もあるのであるから、九州勢力が、近畿を服属させたと考える方が妥当であろう。
日本の歴史を大きくみるとき、文化や政治勢力は、西から東へと及んできているのである(『魏志倭人伝』に「租賦を収む」とある。租税制度があったのである)。

東京大学教授 であった 日本史家の井上光貞氏は、「邪馬台国東遷説」について、次のように述べる。
388-11
「……もっと自然なのは、邪馬台国東遷なのである。もちろん邪馬台国東遷説も、可能性のある一つの仮説にすぎないが、『北九州の弥生式文化と大和の古墳文化の連続性』、また『大和の弥生式文化を代表する銅鐸と古墳文化の非連続性』という中山(平次郎)氏や和辻(哲郎)氏の提起した問題は、依然として説得力をもつと考えられる。また、邪馬台国は、その女王壱与(いよ)が266年に晋(しん)に遣使した後、歴史の上から姿を消してしまった。いっぽう畿内の銅鐸も、二、三世紀の弥生後期にもっとも盛大となり、しかも突如としてその伝統を絶った。そして三世紀末、おそくとも四世紀はじめごろから古墳文化が畿内に発達して全国をおおっていくのである。邪馬台国東遷説は、この時間的な関係からみても、きわめて有力であるといってよいであろう。」(以上、井上光貞著『日本の歴史Ⅰ 神話から歴史へ』中央公論社、1965年刊)

私もその通りであると思う。
「東遷」という事実そのものは、寺沢薫氏も認めておられる。「東遷」は議論の前提として良いのではないか。
問題は、その「東遷」を行った勢力の主体は何か。どのような氏族などであったかである。
現代人が現代人の感覚や常識などにもとづいて、古代についてのストーリーを構成してはならないのである。
文献その他の資料(民俗学的な資料など)にもとづいて、実証的にストーリーを構成する必要がある。
『古事記』『日本書紀』は、物部氏の祖の饒速日の命の東遷伝承や、皇室の祖の神武天皇の東遷伝承を記すが、イト国の東遷、イト国王あるいはそれうけつぐ勢力の何という人、あるいは氏族が東遷したのかなどは、記すところがない。


■寺沢薫氏の「卑弥呼は、邪馬台国の女王ではない説」
寺沢薫氏は『卑弥呼とヤマト王権』の中でのべる。
(1)「『魏志』倭人伝全文を読めば、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとはどこにも書かれていないことがわかる。卑弥呼は「倭王」として五か所、「倭女王」として三か所、たんに「女王」として五か所に出てくる。しかし「邪馬台国女王」とは一度も書かれていない。」(281ページ)

(2)「「女王国」は五か所、「倭国」は三か所、「倭地」は二か所、「倭種」と「倭人」はそれぞれ一か所に出てくるけれど、「邪馬台国」はたった一か所にしか出てこない。しかもそれは「女王之所都(女王の都する所)」、つまり女王卑弥呼が居処としている場所(国)を示しているにすぎないのだ。卑弥呼政権が出先機関を置いた「伊都国」でさえ、かなり詳しい説明とともに二度出てくるにもかかわらず。」(182ページ)

(3)「ここでの『女王国』は、女王卑弥呼が支配する倭国全体ではなく、女王卑弥呼が大王都を置いた地理上の場所(ヤマト国=邪馬台国)を指している。」(282ページ)

(4)「卑弥呼は倭国の女王なのであって、邪馬台国の女王ではない。この当たり前のことか見過ごされていたために、邪馬台国と倭国とは切り離されて理解されてきた。」(283ページ)

(5)「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。確実なのは倭の女王、倭国女王ということだ。邪馬台国とは領域としてのヤマト国のことであり、ヤマト王権(新生倭国)の大王都が置かれた場所(国名)でしかない。」(414ページ)

読者は、これらの寺沢薫氏の文章が、おわかりであろうか。私は何度読んでもよくわからない。
寺沢薫氏は、「卑弥呼は倭国の女王などであって、邪馬台国の女王ではない。」と記す。しかし、私は、「卑弥呼は倭国の女王なのであり、かつ、邪馬台国の女王でもある。」と考える。
寺沢薫氏は、「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。」とのべる。
しかし、私は、「卑弥呼が邪馬台国の女王である。」ことは、中国の史書に明記されていると考える。
寺澤薫氏のさきの文例の(3)が記すように、「女王国」が、「女王卑弥呼が都を置いた 邪馬台国を指す」のなら、邪馬台国の女王は、当然、卑弥呼であると考えるべきである。卑弥呼以外のだれが、邪馬台国の王であったと考えるのか(国王は、都をおいた地の王である)
邪馬台国は、たんに卑弥呼の「居所」のあった場所ではない。戸数七万余戸を有する大国であった。
『魏志倭人伝』は次のように記す。
「(帯方(たいほう)郡より女王国に至るまで、一万二千余里なり。」
同じ内容を、『後漢書』の「倭伝」は、つぎのように記す。
「大倭王は邪馬台国に居(すまい)す。楽浪郡の徼(さかい)は、その国を去ること万二千里。」

『後漢書』の撰者の范曄(はんよう)は『魏志倭人伝』の「女王国」を「邪馬台国」と解している。
このばあいの「女王」は、卑弥呼をさすから、邪馬台国の女王は、卑弥呼であることになる。
なお、日本語の「みやこ」という語と中国語の「都」という語とは、すこし意味が異なる。
日本語の「みやこ」は、「宮処(みやこ)」で、天皇や大王の宮殿のあるところの意味であろうと考えられる。
中国語の「都(と)」は、人々の集まる街で、首都機能をもつところなどをさす。
『魏志倭人伝』の「女王の都する所」の「都」は、おそらく、日本語の「みやこ」に、「都」の字をあてたものであろう。

この議論は寺沢薫氏による論敵の頭脳破壊作戦であろうか。
読めば読むほど、頭が混乱し、こちらの頭が悪くなりそうである。
邪馬台国機内説の代表的著作の一つとして、判を重ねているが、読むに値するとは思えない。
卑弥呼は「親魏倭王」であるから、「倭を代表する国の王」であることはたしかである。しかし「卑弥呼が、邪馬台国の女王ではなかった」とも、中国の史書には書かれていないのである。

 

■「卑弥呼は、誰か」問題に、解答を与えていない
寺沢薫氏の議論では、卑弥呼の姿も、よく見えない。
寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』の中で、つぎのように記す。
「これまで述べてきた論理と史料・資料にもとづいて、二、三世紀史の大枠を組み立てると、女王卑弥呼の居処(政治拠点)が纏向遺跡以外にあったとは考えられない。そして『魏志』倭人伝に、「南至邪馬台国 女王国之所都(南して邪馬台国に至る。女王の都する所なり)」とある以上、纏向遺跡は倭人伝のいう「邪馬台国」の領域内にあったことになる。」(186ページ)

上の方の{寺沢薫氏は『卑弥呼とヤマト王権』の中で、また述べる。 「纒向の地がこの国の初期の天皇の都宮が置かれた場所として伝承されてきたという歴史的重要性を挙げよう。・・・}で述べたように、纏向の地は、第10崇神天皇、第11代垂仁天皇、第12代景行天皇に関係する形で、『古事記』『日本書紀』にでてくる。寺澤薫氏は、これらの天皇の時代を、私の年代論による編年よりも百年以上古くみつもり、卑弥呼の時代に近づけて考えておられるようである。
しかし、これらの天皇の時代は、『古事記』『日本書紀』では、崇神天皇の時代における四道将軍の派遣、景行天皇の時代における日本武の尊(やまとたけるのみこと)の活動など、そうとうくわしく歴史的記述が行われている時代にはいっている。
もし、卑弥呼がこれらの天皇の時代に近い人であるならば、卑弥呼のその片鱗ていどのものは、『古事記』『日本書紀』に記されていてよさそうである。
しかし、寺沢氏の著書では、その片鱗ていどのものを求める作業は行われていないようにみえる。
寺沢薫氏はつぎのように記す。
「いまのところ、卑弥呼がイト国の王様に連なる女性だった可能性も排除できないというにとどまるのである。」
しかし、「イト国の王統に連なる女性」と見られる人についての記述は、崇神、垂仁、景行三天皇の時代前後の『古事記』『日本書紀』の記述の中にはみられない。
寺沢薫氏は、「卑弥呼はだれか」問題については、明確な解答を与えていない、といってよいであろう。

また、上の方の「■卑弥呼は、だれか」の項で紹介した笠井新也氏は、つぎのように述べている。
「思うに、『魏志倭人伝』における邪馬台国と卑弥呼との関係は、たがいに密接不離の関係にあり、これが研究は両々あいまち、あい援(たす)けて、初めて完全な解決に到達するものである。その一方が解決されたかに見えても、他方が解決しない以上、それは真の解決とは言いがたいのである。たとえば錠と鍵との関係のごとく、両者相契合(けいごう)[割符(わりふ)の合うように合うこと]して始めてそれぞれ正しい錠であり、正しい鍵であることが決定されるのである。」[「卑弥呼の冢墓と箸墓」『考古学雑誌』32-7、(1942年7月)]

笠井新也氏流にいえば、寺沢薫氏は、邪馬台国問題の「真の解決」にむけての手がかり、または仮説を、提出していないようにみえる。

 

■「棺あって槨なし」記述の重要性
『魏志倭人伝』は、倭人の葬法について、つぎのように記す。
「その死するや、棺ありて槨(棺の外箱)なし。」
この記述は、邪馬台国問題に関して、つぎの二つの点からみてきわめて重要である。
(1)「棺ありて槨なし」の記述にあてはまるのは、弥生時代後期において、福岡県の朝倉市を中心に分布する「箱式石棺」である。この時期奈良県からは、箱式石棺は出土していない。
「箱式石棺」情報をいれて、「箱式石棺」「鉄鏃」「銅鏡」「勾玉」「絹」「卜骨」の、「魏志倭人伝」に記載のある六項目についての出土情報にもとづいて確率計算すれば、邪馬台国が福岡県に存在した確率は、ほぼ百パーセント(確率1)となり、邪馬台国が、福岡県以外に存在した確率は、ほぼ0パーセント(確率0)となる(ベイズの統計学による。下表、下図参照)。

(下図はクリックすると大きくなります)440-08

つまり「邪馬台国はどこに存在したか」という長年追究されてきた問題は、「魏志倭人伝」に記載されている事物の考古学的出土情報の面からは、解決しえたことになる。   

(2)「古墳の発生時期の年代遡上論(年代くりあげ論)」は成立しえないことになる。
私は『季刊邪馬台国』146号に、拙論「『勾玉』が証明する邪馬台国北部九州説」をのせ、そこで、約二万個の勾玉の出土状況にもとづき、邪馬台国問題について論じた。そこでは、瀧音大(たきおとはじめ)氏の著書『原始・古代における勾玉の研究』(雄山閣刊)にもとづき、勾玉の各都道府県別の出土数を示した(下参照)。
(下図はクリックすると大きくなります)
440-09

上の図をみれば、勾玉は、弥生時代においては、福岡県を中心に分布しており、古墳時代においては、奈良県を中心に分布している。
このような、時代による分布の傾向の違いは、勾玉ばかりではなく、銅鏡や鉄製品などにおいてもみられる。
そのため、弥生時代の出土データにもとづけば、邪馬台国北部九州説が成立し、古墳時代の出土データにもとづけば、邪馬台国畿内説が成立しうるようにもみえる。

このようなことから、最近、邪馬台国畿内説を支持する考古学研究者のあいだで、邪馬台国の時代は、すでに古墳時代にはいっていたのであるとする「古墳の発生時期の年代遡上論」がさかんである。
「棺あって槨なし」は、このような「年代遡上論」に対する強力な反証の一つになるとみられる。
というのは、もっとも古い発生期の古墳とみられる奈良県の纏向古墳群の中の「ホケノ山古墳」でさえ、「木槨」をもっているからである。
「ホケノ山古墳」が、「木槨」をもっていたことは、『ホケノ山古墳調査概報』(奈良県立橿原考古学研究所編、学生社、2001年刊)に、つぎのように、記されているとおりである。
「ホケノ山古墳の中心部は(中略)『石囲い木槨』である。『石囲い木槨』はわが国で初めて確認された構造の埋葬施設で、木材で構築した木槨部分と、その周囲に石を積み上げて構築した石槨部分からなる二重構造をもつ。」

また、「木槨木棺墓がみつかった」「栗石積みの石囲いに覆われた木槨と木棺があった」とも記す。
2008年に刊行された『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集発行)でも「木槨の形状・構造」「石槨の形状・構造」などの小見出しのもとに、ホケノ山古墳の「木槨」「石槨」のことが、かなりくわしく記されている。
寺沢薫氏は、その著『卑弥呼とヤマト王権』(中央公論新社、2023年刊)の中で、つぎのように記す。
「(ホケノ山古墳の)木槨(もっかく)を囲む石囲いは定形型の石槨(せっかく)の祖型とみることもできる」(同書、50ページ。つまり、ホケノ山古墳の木槨以後、定形型の石槨が行なわれる、と記している。引用文中に傍線を引いたのは安本。

寺沢氏は、その著『弥生時代の年代と交流』(吉川弘文館、2014年刊)において、「弥生~古墳時代初頭における中国鏡の出土状況」についての表を示している。
その表の中でも、「奈良・ホケノ山古墳石覆木槨」と記す(同書、334ページ)。
寺沢薫氏は、邪馬台国は、奈良県の纏向の地にあったとし、ホケノ山古墳を、卑弥呼の時代のころに、築造されたものとする。
しかし、ホケノ山古墳に「木槨」があったのでは、「魏志倭人伝」の記述とあわない。寺沢薫氏が示しているデータが、寺沢薫氏の述べている説の結論を支持していない。
ホケノ山古墳の存在した時期、または場所、あるいは、その双方が、邪馬台国のものとは異なるのではないか。

 

■簡単な「証明」
考古学的なデータによっても、寺沢薫氏の説が成立しないことの、もとも簡単な「証明」は、つぎのようなものである。
いま、「福岡県」と「奈良県」とだけを対比して考える。
邪馬台国は、「福岡県」か「奈良県」か、どちらにあったものと考える。
すなわち。つぎの二つを、「対立仮説」と考える。
[仮説A]邪馬台国は福岡県に存在した。
[仮設B]邪馬台国は奈良県に存在した。
『魏志倭人伝』に記されている事物のうち、寺沢薫氏が提示、または容認してるデータとして、「鏡」と「鉄」とがある。
いま、「鏡」と「鉄鏃」との出土数を表示すれば、下表のようになる。

すなわち、「鏡」については、「福岡県」は、「奈良県」の10倍、「鉄鏃」については、99.5倍(約百倍)出土している。
このデータをもとに、ベイズの公式によって、「邪馬台国が福岡県にあった確率」を計算すれば、「0.999(≒1-1/10×1/99.5)」となる。

「邪馬台国が奈良県にあった確率は「0.001(≒1/10×1/99.5)」となる。
440-10
明らかに、[仮説A]を採択すべきであるということになる。
寺沢薫氏が、提示または容認したデータが、寺沢薫氏の結論の「奈良県説(纏向説)」を否定している。
調査対象県を、全都道府県にひろげ、調査項目を、「鏡」「勾玉」「絹」「卜骨」「箱式石棺」の六項目にひろげても上の方の表(箱式石棺をとりあげたばあいの最終確率)で示したように、その結果はほとんど変わらない。というよりも、「邪馬台国が福岡県にあった確率」がさらに「1」に近づいて行く。

寺沢薫氏の行っておられることは、考古学的な材料を用いて、「ストーリー(物語)作る」ことである。
科学的・学問的な「証明」とは別種のものである。
寺沢氏の用いたような方法によれば、たとえば、「明治維新」では、分物が一気に西欧化しているから、これは「西欧列強が、日本を征服したのである」というようなストーリーも考えられるであろう。
全体を考慮せず不都合なデータなどを無視すればさまざまなストーリーが成立する。
主観的な判断によって、ストーリーを作り、それをことばによる解釈によって強く主張する、という方法ではなく、データにもとづき、帰納的、全体的、客観的、機械的に結論を出していくことが必要である。

「寺沢薫氏の説」は、「纏向邪馬台国説」を成立させるために現代人である寺沢薫氏がつくりだした創作ストーリーである。
一口でいえば、それは、現代人が造り出した「あらたな神話」といってよい。
それは、『古事記』『日本書紀』の伝える神話をこえる内容をもつものではない。

・結局、「卑弥呼とヤマト王権」との関係がよくわからない。
・ホケノ山古墳の築造年代を誤っているとみられる。

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