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第441回 邪馬台国の会(2026.6.15 開催)
「邪馬台国=高天(たかま)の原説」の検討
・日本神話は、邪馬台国のことを伝えている
・「邪馬台国=高天の原=福岡県朝倉市説」
・朝倉市に安川が流れ、香山がある


 

1.「邪馬台国=高天(たかま)の原説」の検討

■はじめに
『魏志倭人伝』は、日本の古代のことを記した文献である。いっぽう、日本の古代のことを、わが国がわで記した古文献に『古事記』『日本書紀』などがある。
とすれば、『古事記』『日本書紀』の中に、卑弥呼 や 邪馬台国のことが記されているのか否かを検討することから出発するのは、探求の方法として、妥当であると思う。
『古事記』『日本書紀』は 各天皇のことを中核として、記事がまとめられている。

精緻な文献考証によって知られた東大の日本史学者、故坂本太郎教授(1901~1987)は『季刊邪馬台国』の26号(1985年)所載の論文「古代の帝紀は後世の造作ではない」[坂本太郎著作集第二巻『古事記と日本書紀』(吉川弘文館、1988年刊)所収]において、『古事記』『日本書紀』の「帝紀」は古来の伝承を筆録したものとする。
坂本太郎教授は、その根拠を明確に示したうえで述べている。
「古代の歴代の天皇の都の所在地は、後世の人が、頭の中で考えて定めたとしては、不自然である。古伝を伝えたものとみられる。第五代(の天皇)から見える外戚としての豪族が、尾張連(おわりのむらじ)、穂積臣(おづみのおみ)など、天武朝以後、とくに有力になった氏でもないことは、それらが後世的な作為によるものでないことを証する。天皇の姪(めい)とか庶母(ままはは)とかの近親を(天皇の)妃として記して平気なのは、近親との婚姻を不倫とする中国の習俗に無関心であることを示す。これも古伝に忠実であることを証する。帝紀の所伝が、古伝であることは動かない。
坂本太郎教授は、東大の史料編纂所長もされた方で、わが国で、もっとも深く、かつ広く『古事記』『日本書紀』とその関連資料とに目を通した方々の一人とみられる。

白鳥庫吉氏(1865~1942)は、明治期の東京帝国大学(現在の東京大学)を代表する東洋史学者であった。
白鳥氏は、明治四十三年(1910)に発表した論文「倭女王卑弥呼考」のなかで「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」の「卑弥呼(ひみこ)」に関する記事内容と、『古事記』『日本書紀』の「天照大御神(あまてらすおおみかみ)」に関する記事内容とを比較している。
そして、この二つの記事内容について「その状態の酷似すること、何人(なんびと)も之(これ)を否認すること能(あた)はざるべし」と述べている。

白鳥庫吉氏の見解を受けつぎ、それを「邪馬台国東遷説」という形で、大きく発展させたのは、東京帝国大学の哲学者・和辻哲郎(わつじてつろう)氏(1889~1960)であった。
和辻哲郎氏の「邪馬台国東遷説」は、『日本古代文化』(岩波書店、1920年刊)の中にみえる。
「邪馬台国東遷説」というのは、邪馬台国は九州に存在し、のちにその勢力を受けつぐものが東遷して、「大和(やまと)朝廷」になったとする説である。

和辻哲郎氏や、その説を受けつぐ人たちの「邪馬台国東遷説」の要点をまとめれば、次のようになる。
(1)卑弥呼のことが、神話化し、伝承化したものが、天照大御神である。
(2)九州にあった邪馬台国が、本州の大和に移動した。神武天皇の東征伝承は、その間の事情を伝えるものとみられる。
和辻哲郎氏は述べる。
『古事記』『日本書紀』の伝える「神武東征」の物語の、「国家を統一する力が九州から来た」という中核は、否定しがたい伝説に基づくものであろう、と。
(3)九州から大和へ移動した時期は、三世紀の後半から、西暦三〇〇年前後にかけてのころであろう。

1932年(昭和七)に、日本古文書学を確立した東京大学の黒板勝美(くろいたかつみ)氏(1874~1946)の大著『国史の研究各説』の上巻が、岩波書店から刊行されている。これは、当時の官学アカデミーの中心に位置した黒板氏の代表的著作といってよい。
『国史の研究』が刊行された当時、岩波書店は、この本を、「学界の権威として、洛陽の紙価を高からしめたる名著」とし、「最近まで各方面にわたりて学界に提出されし諸問題」を、「一一懸切詳密に提示論評し」、「その拠否を説明取捨し以て学界の指針たらしめ」「宛然(さながら)最近に於(お)ける国史学界進展の総決算たる観を呈している」、そして、「わが国史に就(つ)きての中正なる概念を教示する」もので、一般人士はもちろんのこと、「専門研究者も座右(ざゆう)に備えるべき好伴侶(はんりょ)たるを失わない」と述べている。

黒板勝美氏は『国史大系』などの編集者であり、他説の批判や自説の主張においては、つねにその根拠を、くわしく述べている。岩波書店が述べていることは、当時にあっては、けっして誇大な宣伝ではなかったのである。その説は、当時、学問的考究の上にたつ、穏健中正な見解としてみられていたのである。
黒板氏は、津田左右吉氏の日本神話作為説を、「大胆な前提」から出発した研究とし、それを、「余りに独断に過ぎる嫌(きらい)がある」と批判する。そして、黒板氏は、神話伝説は、むしろ長い年月の間にだんだん作られて来たとする方が妥当であり、はじめはひとつのけし粒であっても、ついに金平糖になるようなものであり、しだいに立派な神話となり伝説となるところにやはり歴史が存在するのではあるまいか、とする。

黒板氏は、『国史の研究各説』上巻の冒頭で、およそ次のように述べて、「国史の出発点を所謂(いわゆる)神代まで遡(さかのぼ)らしめ得る」と説く。
「史前時代と有史時代との境目を明瞭に区別しにくいことは、世界の古い国々みなそうである。その太古における物語は、霊異神怪や荒唐無稽(こうとうむけい)の話に富んでいて、神話や伝説などのなかに歴史がつつまれているといえる。
わが国の神話伝説のなかから、もしわが国のはじまりについての事がらを、おぼろげながらでも知ることができるのであれば、私たちは、国史の出発点を、いわゆる神代まで、さかのぼらしめ得るのであり、神代史の研究が、また重要な意義を占めることになるであろう。
もっとも、神武天皇が始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)という尊称をもち、大和に都をひらいた第一代の天皇であるという古伝説にしたがって、あるいは、わが国の歴史の発展を、神武天皇から説明するにとどめようという人があるかも知れない。しかし、わが国のはじまりが、どのようであったかを、いくぶんでも知ることができるとするならば、従来神代といわれている時代に研究を進めることは、また緊要なことといわなければならない。」
ついで、黒板氏は、天照大御神よりもまえの神々は、皇室の祖先として奉斎(ほうさい)されていないことなどから、実在性はみとめがたいが、天照大御神は、「半ば神話の神、半ば実在の御方」と説く。

「天照大御神は、最初から皇祖として仰がれた方であっだからこそ、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を霊代(たましろ)として、やがて伊勢に奉斎され、今日まで引きつづき皇室の太廟として、とくに厚く祟祀(すうし)されているのである。
元来史話なるものは、截然(せつぜん)と神話に代わるものではなく、その境界は、たがいにいりまじって、両者をはっきりと区別することがむずかしい。これが、天照大御神の半ば神話の神、半ば実在の方として古典に現れる理由である。神話がほどよく史実事象を包んでおり、史的事象がほどよく神話化されている。したがって、須佐(すさ)の男(お)の命に関する古典の記載なども同様であるが、天照大御神の御代に皇室の基礎が定まり、わが国は天照大御神の徳によってはじまったことは、おぼろげながらみとめられなければならない。」

そして、黒板氏は、高天の原を、「地上の何処(どこ)かに之(これ)を擬すべきである」とし、それを、「九州の北部」と考える。
「天孫民族が大和や日向に入る以前、すなわち、いまだあい分かれていない時の地が、いわゆる『高天の原』であるともいえよう。本居宣長が、これを天であると解釈しているのは、『古事記』のできたころ、わが国民が、そのように考えていたとする意味においては妥当であるが、もし、高天の原を、天孫民族の祖国と解すべきであるならば、地上のどこかにこれを擬すべきである。ところで、『旧事本紀』の天孫本紀が古伝であることは、学者の意見の一致しているものであるが、それには、天孫饒速日(にぎはやひ)の命が、高天の原から大和に降臨したと記載されている。これは、のちに神武天皇が大和に入ったさいに、物部氏の祖饒速日の命が、天皇と同族である証拠を示したという『日本書紀』の記事とも一致するものである。このような大和降臨説話の存在は、すくなくとも高天の原をもって大和とする説にとって、大きな打撃であるといわなければならない。それで、高天の原を、海外に擬してもさしつかえないという説がでてきたのであるが、日本語が付近の外国語とまったく系統を異にしている点から、天孫民族がわが国に移住してきたのは非常に太古であったろうといわれる白鳥博士の説をある点までみとめ、また、考古学的にもこの説を支持しうるならば、高天の原国内説は、よほど有力になってくるであろう。もっとも、本居宣長も、すでに『古事記伝』の大八州生成の条で、『すべて神代の故事は多く西になんありける』といっており、暗に九州の一部に高天の原を擬していたように思われる。『日本書紀』の景行天皇紀十二年、仲哀天皇八年の条に、九州の土豪が、三種の神器と同様の鏡、剣、玉の三種の神宝を船中の榊(さかき)の枝に取り掛けて、天皇を奉迎したことがある。神宝が主権者のしるしであり、三種の神器が天孫民族に特有なものであったとすれば、これらの土豪も、あるいは高天の原から分かれた天孫民族の一部であって、景行天皇や仲哀天皇の御代にまで、なお九州の北部に存在していたものではあるまいか。」
さらに、黒板勝美氏は、『国史の研究 総説』(1931年刊)で、「高天の原は、本島のなかの大和にはなかったとする説が有力であるように思われる。」とし、つぎのような点も指摘している。

「『古事記』『日本書紀』にみえる神々を研究し、『延喜式』神名帳を調べて、神代における神々として伝えられる方で、九州北部に鎮座するものの多いのをみれば、その地方が、天孫民族と深い関係をもつことだけは推測されうるように思う。」

・太田亮(あきら)の「高天の原=肥後山門説」
系譜学者として、わが国の氏族についての厖大なデータ[『姓氏家計大辞典』(角川書店刊)]を整理した太田亮(あきら)氏(1884~1956)は、1928(昭和三)年に、『日本古代史新研究』(磯部甲陽堂刊)をあらわした。太田亮氏は、この本のなかで、高天の原論争史上はじめて、「邪馬台国=高天の原説」を、はっきりとうちだした。太田亮氏は、種々の氏族の地域的分布などから、高天の原を邪馬台国であるとし、それを、肥後の菊地郡の山門を中心とする地にあてた。

この太田亮の説を、のちに、「卑弥呼=天照大御神説」を説いた東洋大学の市村其三郎教授は、その著『秘められた古代日本』(1952年、創元社刊)のなかで、「太田亮氏の高天の原肥後説は大分合理的であるように思われる。」と評している。
太田は、その『日本古代史新研究』の第四編、「天神民族の故国」のなかで、およそ、つぎのようにのべる。

「中臣(なかとみ)氏も、大伴(おおとも)氏も、九州発祥の氏であるらしいが、たとえ、そうでないとしても、大和中心の氏族と離れて、九州に一族がある。中央貴族中、天孫とか皇別と称する皇室より分れたという氏族をのぞけば、大多数は、大和と九州とを中心として氏族が分布されている。そのいずれの中心が古いかといえば、私は、九州と答えたい。それは、大伴や中臣や物部の発祥地が、九州らしいというばかりではない。また、宇佐とか、壱岐とか、対馬、松浦とかの古い氏が、天神の子孫であると称しているばかりでもない。
また、高天の原神話が、九州を中心としているばかりでもない。
もし、これらの氏が、はじめから大和を中心として栄えたものならぼ。皇別諸氏のごとく、大和をのみ中心として発展しなければならない。また、近畿の国造、県主というような土地の領主中に一族がなければならない。しかし、事実は、これに反している。よって、ある時代に、これら貴族の中心地が、大和に大移動をしたものであって、それ以前は、九州であったと思うのである。
したがって、天祖の都城は、これを九州にもとめなければならない。すなわち、神武天皇の東征を、史実と考えるのである。九州中において、天祖の都城として、もっとも適当なのは、畿内ヤマトと同じ名をもつ肥の国のヤマトの外にないと思う。高天の原神話は、この地を中心としているらしく考えられ、また、畿内のヤマトは、このヤマトの名を移したと思われる。」

貴族の中心地が、九州から、大和に大移動をしたものであろうということについては、戦後の、地名学者、鏡味完二(かがみかんじ)氏の研究が、おもいおこされる。鏡味氏も、その著『日本の地名』のなかで、九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致しているという、太田亮氏とは異なる見地から、やはり、九州から、近畿への大きな集団の移動のあったことを想定している。ただし、地名の一致からは、大和への移動の時期が不明である。これにたいし、太田氏の氏族の分布による推定では、大和朝廷に記憶がのこりうるころという時間の指定が可能である。

太田亮氏は、また、つぎのようにものべる。
「天神族の祖国は、これを九州に求めるのが、一番おだやかだと思う。そして、それは、沃野の打ちつづく、人の住みやすい地でなければならないと考える。その地は、その後も、自然の破壊がなければ、戸数人口の密な場所に違いないのである(下の地図参照)。こう考えてくると、直感的に、天祖の都は、邪馬台国のような地であったのではないかと思われる。

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私は、この広くもない、日本列島中の九州と畿内に、ヤマトという二つの大きな国のあったことをあやしむ。わが国は、西から東へと開けていったのである。東の大和なる名称は、肥後のヤマトの名が種族の移住とともに、移ったのであろうと考える。つまり、朝廷が、畿内の今の大和の地にうつったのち、天祖の故国なるヤマトなる名称が、帝都所在地の国名として選ばれたと考えざるをえない。
このような考えから、天神の故国を、邪馬台国と思う。それは、氏族分布からみた想像からいっても、高天の原神話中にふくまれた地理的観念からかえりみても、そうであったという感じを、禁じえない。」
「天照大御神」は、「卑弥呼」のことが神話化し、伝承化したものであるとすれば、「天照大御神のいた場所」は、「卑弥呼のいた場所」を、神話化し、伝承化して伝えたものであるということになる。『古事記』などの神話の伝えるところによれば、「天照大御神」のいた場所は「高天(たかま)の原(はら)」とされている。とすれば、「高天の原」は、「邪馬台国」のことを、神話化し、伝承化して伝えたものである、ということになる。
とすれば、「高天の原」のことをさぐれば「邪馬台国」はどこかについて、新しい情報が得られるのではないか。邪馬台国の場所が、わかるのではないか。

「卑弥呼」と「天照大御神」とが、対応するとすれば、

卑弥呼------------------------卑弥呼のいた場所  =邪馬台国
天照大御神------------------天照大御神がいた場所=高天の原

 

■「高天の原」は、どこか
「天照大御神」は、卑弥呼のことが、神話化し、伝承化さたものとする。すると、「天照大御神」のいた「高天(たかま)の原(はら)」は、「邪馬台国」のことが、神話化し、伝承化したものとなる。
『古事記』『日本書紀』は、「高天の原」が、どこにあったとしているのであろうか。
そのことを調べるために、まず、『古事記』の「神話の巻」に記されている地名の統計をとってみる。
すると、下図のグラフようになる。 
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『古事記』神話のなかには、「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはぎはら)」など、現実的な色彩をもつ地名が、122個(地名)ほどあらわれる。そのうちの70個(57パーセント)ほどは、「九州地方(西海道)」と、「山陰地方(山陰道)」との地名である。

『古事記』神話は、端的にいえば、天照大御神を中心とする「高天の原」勢力と、大国主の神(おおくにぬしのかみ)を中心とする「出雲」勢力との争いという形で展開する。「出雲の国譲り」の話が、主要なモチーフとなっている。

上図の地名の統計からみれば、「高天の原」は、どうやら九州方面をさし、『古事記』の神話は、山陰地方の勢力と、九州地方の勢力との争いを伝えているようにみえる。

そして、『古事記』は、たとえば、出雲との国譲りの交渉を、つぎのように記している。「建御雷(たけみかずち)の神と天の鳥船の神(あめのとりふね)の二はしらの神は、出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜(をばま)にくだり到着して、十掬(とつか)の剣を拔いて、さかさまに浪(なみ)のさきに刺(さ)したて、その剣のきっさきに足をくんですわって、大国主の神にたずねてのべられた。……[この二(ふた)はしらの神、出雲(いずも)の国の伊那佐(いなさ)の小浜(をばま)に降り到りて、十掬剣(とつかのつるぎ)を拔きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、その剣の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大国主神(おおくにのかみ)に問ひて言(の)りたまひしく……]」

この文章の中にでてくる「伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)」の伝承地の「稲佐」は、下の地図にみられるように、島根県の出雲大社の近くの地である。
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また、この文章のなかには、高天の原から、出雲方面につかわされた神として、「建御雷の神(たけみかずちのかみ)」と「天の鳥船の神(あめのとりふねのかみ)」の二神の名がみえる。
『古事記』は、「天の鳥船の神」の別名を、「鳥の岩楠船(いわくすぶね)の神(鳥のようにはやい楠製の丈夫な船の神)」ともいうと、記している。
「天の鳥船の神(鳥の石楠船の神)」の名のみえることは、「高天の原」から「出雲方面」に行くのに、「海路」で、船で行ったことを思わせる。

上の地図の島根県の稲佐の地へ、船で行ったとすれば、その出発地は、「九州方面」であったことをうかがわせる。大和から出雲へ、船で行くはずがない。
すなわち、「高天の原」は、「九州方面」にあったことを思わせる。

「高天の原」には、山[天の金山(かなやま)]があり、河[天の安(あめのやす)の河]があり、堅い地面[堅庭(かたにわ)]があり、石[天の堅石(かたしわ)]があり、家があり、田があり、井戸[天の真名井(まない)]がある。高天の原は、いちじるしく地上的な特徴をもっている。
ここで注目されるのは、「高天の原」には、「天の安(あめのやす)の河」という河があった、とされていることである。『古事記』によれば、天照大御神とその弟の須佐の男の命(すさのおのみこと)とは、天の安(あまのやす)の河を中に置いて、うけい(誓約)を行なっている。神々は、天の安の河の河原で、会議をひらいている。天の安の河の河上に天の岩屋(あめのいわや)があった。

ヨーロッパの地名研究を行なって、先史時代の民族の分布を明らかにしたドイツのファスマーはのべている。
「古代住民についてなにもわかっていない地方では、地名研究は水名(水に関係する地名)からはじめるのが方法として正しいと思う。経験からみて、居住地名より意味がはるかに単純なので、水名は解釈しやすいからである。その上、水名は変わりにくく、住民が変わっても水名は変わらないことが多い。」
たとえば、アメリカのばあい、ニューヨーク(イギリスにヨークという都市がある)、ニューハンプシャー州(ハンプシャーは、イギリス南部の地名)、ニュージャージー州(イギリス王室属領に、ジャージー島がある)など、イギリスからもって行った地名がある。

いっぽう、ミシシッピ川の「ミシシッピ」は、アメリカインディアンの言語で、「偉大な川」の意味、コネチカット州の「コネチカット」は、アメリカインディアン語で。「長い川」の意味である。ミシガン州の「ミシガン」は、アメリカインディアン語の、「大きな湖」を意味する語のなまったものである。
水に関する地名は、原住民の語を、比較的よく残している。

北海道の地名の稚内(わっかない)・幌内(ほろない)などの「ない」は、アイヌ語で、「川」の意味であるという。北海道の言語がアイヌ語から日本語に変っても、川の名は、もとのまま残っている。

では、九州に「ヤス」とよばれる河、または、河のほとりの地名で「ヤス」とよばれるところがあるであろうか。
地図をひらいてみよう.たしかに、北九州のほぼ中央部に、「夜須」という地名がある
(下の地図参照)。
(下図はクリックすると大きくなります)
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福岡県朝倉郡に夜須町(やすまち)とよばれる町があった[夜須町は、2005年に、三輪町と合併して、筑前町(ちくぜんまち)となった]。現在の、福岡県朝倉市の近くである。

 

■今も流れる北九州の安川
「夜須町」 の「夜須」は、『日本書紀』の「神功皇后紀」に、「安」と記されている。『万葉集』に「安野(やすのの)」としてでてくる「安」も「夜須町」の地をさす。また、『延喜式』にも、筑前の国夜須郡としてみえているから、かなり古くからの地名であることはたしかである。夜須町の「夜須」は、古くは一般に「安」と書かれ、おそらくは、元明朝の和銅六年(712)の「郡郷の名(地名)は、今後、好ましい漢字二字で表記せよ。」のいわゆる『風土記』撰進の勅以後、「夜須」と書かれるようになったのであろう。朝倉市を流れる筑後川の支流、小石原川は、夜須川とも呼ばれる。

明治・大正時代の大地名学者、吉田東伍氏は、その著『大日本地名辞書』(冨山房刊)のなかで、つぎのようにのべている(原文は文語文)。
「小石原 今小石原村という。秋月の東四里(十六キロ)、両豊(豊前、豊後)の州界(くにざかい)に接近し、夜須川の渡りである。この川を一名小石原川という。秋月に至り、南方に折れ、甘木(現在の朝倉市の地)を過ぎ、ついに筑後川に入る。長さ九里(三十六キロ)。」   
「続風土記にいう。夜須川(一名小石原川。これは吉田東伍の註)は、夏月蛍が多い。楢原(ならばる)の林中に薬師堂がある。東光院と言う。長谷山には昔千手観音堂があって、和州(大和)の長谷になぞらえたが、天正十五年(1587)、秋月家が本郷(朝倉郡)を去り、日州(日向の国)におもむいたとき、その仏像をも、たずさえていったということである。」

「夫婦石 秋月と弥長(いやなが)村との間の夜須河辺にある。大石二つが、あい対している。夏月このあたりは、蛍が多い。」

「弥永(いやなが)のあたりで、夜須川から水苔(みずごけ)俗名川茸(かわたけ)をとって、食料につくる。寿泉苔(じゅせんごけ)また秋月苔といって、本郷(朝倉郡)の名産とす。」

明治初期に、福岡県が編集した『福岡県地理全誌』でも「夜須川」と記されている。
なお、昭和二十九年(1954)に、朝倉郡の二町(甘木・秋月)、八村[安川(やすかわ)・上秋月・立石(たていし)・三奈木(みなぎ)・金川(かながわ)・蜷城(ひなしろ)・福田(ふくだ)・馬田(また)]が合併し、市政をしき、甘木市となるまで、安川村があった。「安川村」の名は、「夜須川」に由来する。2006年に、甘木市は、朝倉町・杷木町と合併し、朝倉市となった。

『明治二十二年(1889)町村合併調書』(『福岡県資料第二輯』)には、つぎのようにある。「安川(小石原)という村名は、人々の希望するところで、合併村の中央を流れ、村内過半その川を引き、用水とする。よって安川村と改称する。」
これでみると、「夜須川」はまた、「安川」とも書かれたことがわかる。

 

■九州と大和の地名の一致
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。
すなわち、下の表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。
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そしてこれらの地名は、いずれも、
(1)ヤマトを中心としている。
(2)海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、
伊勢(いせ)→志摩(近畿)となっている。
(3)山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、
美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。

これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から、近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。

鏡味完二の以上のような指摘は、ひじょうに興味のあるものである。そこで、北九州と奈良県との地図をひらいて、もっとくわしくみてみよう。すると、私たちはさらに興味のあることに気がつく。

それは、夜須の地のまわりと、大和のまわりとに、つぎのようなおどろくほどの地名の一致をみいだすことである。(下の地図参昭)。
(下図はクリックすると大きくなります)
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北部九州[北の笠置山からはじまって、時計の針の方向と逆に一周すれば]
笠置山→春日(かすが)→御笠山→住吉(墨江)神社→平郡(へぐり)→池田→三井→小田→三輪→雲堤(うなで)→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→山田→久留米→三潴(みずま)→香山(高山)→鷹取山→天瀬(あまがせ)→玖珠(くす)→上山田→山田市→田原→笠置山。

畿内[北の笠置(笠置山)からはじまって、同じく時計の針の方向と逆に一周すれば]
笠置(笠置山)→春日(かすが)→三笠山→住吉(墨江)神社→平郡(へぐり)→池田→三井→織田→三輪→雲梯(うなで)→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→山田→久米→水間(みずま)→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬(あまがせ)→国樔(くず)→上山田→山田→田原→笠置山。

どちらにも、北方に、笠置山が存在する。三笠山、あるいは御笠山が存在する。住吉(墨江)神社が存在する。西南方に、三潴(みずま)、あるいは水間(みずま)が存在し、南方から東南方にかけて、鷹取山(高取山)、天瀬(天ヶ瀬)、玖珠(国樔)が存在する。

これら二十四個の地名は、発音がほとんど一致している。二十四個の地の相対的位置も、だいたいおなじである。おどろくほどの一致といってよいであろう。

住吉神社の近くには、草ヶ江(くさがえ)[日下(くさか)]、野方(のかた)[額田(ぬかた)]などの類似地名が存在する。相対的な位置を無視すれば、以上のほかに、奈良、出雲、八幡、芦屋、大津、怡土(または伊都)、那珂(または名賀、那賀)、曽我(蘇我)、広瀬などの地名が、九州と関西の双方にある。また朝倉のあたりに類似地名が集中している。

鏡味完二氏は、著書『日本地名学 科学編』(日本地名学研究所刊)で、「民団が移住する場合には、その地名がもって選ばれた。……日本の地名には割合に同種の古代地名が多く、その多い原因が偶然ではなく、必然に歴史的に順序があって持ち運ばれて来た結果となったものと解せられうる。」という折口信夫の見解を引用し、つぎのように述べている。
「著者はここで、上代の二大文化地域であった、北九州と近畿との間に、地名の相通ずるものが、著しく目立って存在する事実を指摘し、伝うる所の神武天皇御東征の暗示する、民団の大きい移動に、その基因をもとめようと考える。」

 

■より細部での地名の一致
つぎの二つの地図をみくらべていただきたい(下の地図参照)。
(下図はクリックすると大きくなります)441-07

この二つの地図は、北九州と大和との地名の一致を、朝倉市付近と畝火山付近を中心に、ややこまかくみたものである。

どちらにも、加美郷(賀美郷)があり、長谷山があり、三輪があり、朝倉があり、雲提(うなで)郷[雲梯郷]があり、高田がある。そして、
             ↗朝倉↘
加美郷(賀美郷)→長谷山      山田→雲提郷(雲梯郷)→高田
             ↘三輪↗
の相対的位置も、かなりよく一致している。

しかも、これらの地名のほとんどは、千年以上まえまでさかのぼれるのである。
福岡県の「朝倉」の地名と、奈良県の「朝倉」の地名とは、ともに、720年に成立した『日本書紀』に、その名がみえる。

すなわち、福岡県の「朝倉」は、第三十七代の女帝斉明(さいめい)天皇の九州遠征のさいの宮殿「朝倉の橘(たちばな)の広庭(ひろにわ)の宮」のあった場所である。奈良県の「朝倉」は、第二十一代の雄略天皇の「泊瀬(はつせ)の朝倉の宮」のあった場所である。
のちの時代に、斉明天皇が、福岡県の朝倉の地に都(みやこ)をおいたのは、すくなくとも、この地が都をおくのにふさわしいような地であったことを示している。日本語の「みやこ」という語は、「宮(みや)」という語と、場所を意味する「処(こ)」との複合とみられ、天皇の「宮殿のあったところ」から来ている。
なお、天照大御神も斉明天皇も、ともに女性であることも、なにかを暗示するように見える。

また、上の右の地図(朝倉市付近の地名)にみえる「うなで(雲提、雲梯)」という地名は、『和名抄』(931年~938年に成立)にのっている約四千の郷名のうちに、この二つだけが存在している。
よくある地名の、偶然の一致とはいえない。

『古事記』『日本書紀』によれば、第一代の神武天皇に、畝火(うねび)の柏檮原(かしはら)[畝傍の橿原]の宮に皇居を定めたという。そして、第一代神武天皇、第二代綏靖天皇、第三代安寧天皇、第四代懿徳天皇の初期の四代の天皇の陵は、畝火山の近くにあったという。第四代懿徳天皇の皇居と、第八代孝元天皇の皇居と陵墓なども、畝火山の近くにあったという。初期の天皇は、畝火山付近と、密接な関係をもっている。
そして、上の地図(「畝火山付近の地名」と「朝倉市付近の地名」)をみくらべるならば、大和の畝火山の地にあたるところに、北九州では、一ツ木・小田台地と平塚川添遺跡とがある。



■大和川水系と筑後川水系
下の地図をごらんいただきたい。これは、京都大学の上田正昭の著書『大王の世紀』(『日本の歴史2』小学館、1973年刊)から拝借したもので、大和川水系における畿内の古墳群の位置を示したものである(ただし、三輪、朝倉、天の香山などの地名は、私がおぎなった)。
(下図はクリックすると大きくなります)
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さて、この図をみれば、群(グループ)としてみたばあい、大和古墳群や柳本古墳群から、古市(ふるいち)古墳群へ、さらに百舌鳥(もず)古墳群へと、古市古墳から時代が下るにつれ、大和川の川上から川下へと、おりてくる傾向がみとめられる。
これは、ひとつには、時代が下るにつれて、治水などもととのい、より平地にうつることが可能になってきたためとも考えられよう。

もし、北九州から大和への勢力の移動があったとすれば、その原勢力は、九州において、大和川の上流と同じような川の上流にいたことが考えられる。
そして、大和川上流の古式古墳ののこる地域とほぼ同じ位置を、九州最大の川である筑後川の上流においてとるならば、それは朝倉市、夜須町付近となるのである。

上の地図をみくらべるならば、「三輪」「朝倉」「香山」という同一地名が、ほとんど同じような位置にあることがわかる。

筑後川流域の筑紫平野は、現在、九州第一の穀倉地帯である。しかし、現在でも、洪水の多いところである。筑紫平野の生産力をふまえて、都をおくとすれば、それはやはり、この川の下流地域ではなく、上流地帯でなければならない。

 

■大和にも、北九州にもある香山
日本神話にあらわれる地名の「香山(かぐやま)」をとりあげよう。
日本神話に「香山」の名がしばしばあらわれることが、「高天の原=大和説」の、ひとつの根拠となっていた。

さて、古くは、大和の天の香山は、天にある香山がくだってきたものであると考えられていた。
鎌倉時代中期にできた『日本書紀』の注釈書、『釈日本紀』は、『伊予風土記』を引用して、つぎのようにのべている。
「伊予(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊予(いよ)の郡。郡家(こほりのみやけ)[郡役所]より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山(あめやま)と名づくる由(ゆえ)は、倭(やまと)に天香具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に天降(あまくだ)り、片端(かたはし)は此(こ)の土(くに)に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(このもと)なり。」

すなわち、「天の香具山は、天から天(あま)くだるときに、二つにわかれて、ひとつは大和に、ひとつは伊予に天降った。大和にくだったものが、大和の天の香具山であり、伊予にくだったものが、天山である。」という意味内容である[久松濳一校註の日本古典全書『風土記下』(朝日新聞社刊)には、これに近い内容の逸文が大和の国風土記逸文「香山」、阿波の国風土記逸文「アメノモト山」の条にみえている]。
『万葉集』巻三にも、鴨君足人(かものきみたりひと)の「天降(あも)りつく 天の芳来山(かぐやま)[天からくだりついた天の香具山]……」(二五七)という歌がのせられている。同じく巻三には、「天降(あも)りつく 神の香山……」(二六〇)という歌もみえる。

ここで、「天」を、「高天の原」であると考えてみよう。すると、大和にある天の香山は、「高天の原」すなわち、九州にある香山の東にうつった姿であることになる。そして、九州から大和への政治勢力の移動にともない、地名が移った可能性があらわれてくる。

では、北九州に、天の香山にあたるような山があるであろうか。もしあれば、『古事記』神話に五回あらわれる天の香山は、畿内の香山ではなく、北九州の香山をさしている可能性がでてくる。

私は、まえに、『邪馬台国への道』という本のなかで、北九州に、香山は、ないらしいと書いた。ところが、その後、福岡県朝倉郡旧志波村(朝倉市より10キロメートルほど大分県の日田市よりで、あとの下の地図の、高木村の隣村)出身で、現在福岡県の小郡(おごうり)市[朝倉市の西]に住む林国五郎氏から、朝倉市ふきんの地名などを、詳細に検討されたお手紙をいただいた。その中で、林国五郎氏はのべられる。
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「志波村に香山という山はございます。現在は高山(こうやま)と書いていますが、少年の頃、昔は香山と書いていたのだと、古老からよく耳にいたしました。」

私はこの手紙を読んだとき、あっと思った。『万葉集』では、天の香山のことを、「高山」と記しているからである。
たとえば、かの有名な、「香山(かぐやま)は 畝火雄(うねびを)雄(を)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代より斯(か)くにあるらし……」(巻一、十三)の原文は、「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従如此余有良之……」で、「高山」と記しているのである。

『古事記』『日本書紀』は、「かぐやま」を、「香具山」とは記さず、「香山」と記している。私は、「高山」の存在を、地図の上で知っていながら、それを「たかやま」と読んでいたため、「香山」との関係に気がつかなかった。「高山」を「こうやま」とよむのは、重箱よみであるから、これは、あて字と考えられる。

藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)によれば「高」の上古音は、「kɔg」であった。『万葉集』が、「高」を、「カグ」の音にあてているのは、十分理由がある。
そして、さらに、江戸時代前期の元禄十六(1703)年に成立した貝原益軸(篤信、1630~1714)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にあたってしらべてみると、たしかに、「志波村の香山」と記されている。
香山は、夜須町や甘木市の東南にある。戦国時代に、香山に、秋月氏の出城があった。天正九年(1581)のころ、秋月種実が、大友氏との戦いにおいて、八千余人で「香山」に陣取ったことなどが、『筑前国続風土記』に記されている。香山には、現在、「香山城址」の碑が立っている。
林氏は、高山(香山)の比較的近くに、金山という山もあることを指摘されている[『古事記』神話に、「天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて」という記事がある。なお、高山の近くには多多連(たたら)という地名があるのも、おそらくは、製鉄と関係しているのであろう]。

また、『伊予風土記』は、天から山が降(くだ)ったとき、伊予にくだった片端が天山(あめやま)であると記しているが、夜須町の比較的近くには、「天山」という山もある。伊予の天山も、夜須町の近くの天山も、比較的小さな孤立丘である。

 

■『古事記』または『日本書紀』の神話の巻に見える地名で、それと同じ地名が、福岡県または奈良県に存在するもの

・『古事記』では、倉野憲司氏などの『古事記・祝詞』の上巻に出てくる回数は下記である。

A.天安河(あめのやすかは)は7例
B.天香山(あめのかぐやま)は5例
C.天石屋(あめのいはや) は4例
D.天金山(あめのかなやま)は1例

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『日本書紀』では、坂本太郎氏など『日本書紀 上』、小島憲之氏などの『日本書紀 ①』の「巻1(神代上)」「巻2(神代下)」に出てくる回数は下記である。

A.天安河(あめのやすかは)は4例
B.天香山(あめのかぐやま)は4例
C.天石窟(あめのいほや) は8例
D.長田(ながた)     は2例
E.天狭田(あまのさなだ) は2例
F.天高市(あまのたけち) は2例
G.金山(かなやま)    は1例
注:「狭田」を坂本太郎氏などは「さなだ」と読み、小島憲之氏などは「さだ」と読む

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「狭田」を「さだ」と読むと下記の朝倉市東南部の史跡の地図(上の地図とほぼ同じもの)に出てくる。

「金山」の少し左側に「佐田川」がありの近くの「佐田」がある。
また、佐田川の下流に「山田」がある。441-14

この「山田」が、邪馬台国であるとする説がある。[第426回2025年1月26日「卑弥呼の墓を掘る(井上悦文先生)」参照]

『日本書紀』では「天高市(あまのたけち)」が2回出てくるが、『古事記』には出てこない。
同じように、「金山(かなやま)」が1回出てくるが、『古事記』には出てこない。

 

■『古事記』神話にみえる畿内の地名
『古事記』神話にあらわれる畿内十一の地名のうち、六例まで、昔の話ではなく、『古事記』撰録当時存在していた神社について記したものである。そして、神々の行動をいくらかかともなっているようにみえる残りの五例は、すべて「天の香山(かぐやま)」という地名である。神々は、天の香山から、鹿や、波波迦(ははか)「朱桜(かにわさくら)」や、常盤木(ときわぎ)や、ひかげのかずらや、ささの葉をとってきている。この「香山」は、九州に存在し、おそらくは祭事などで重要な位置を占めたものであり、大和の香山は、北九州勢力の大和への進出とともに、名前が移されたものであろう。このように考えれば、『古事記』神話には、古くからの伝えと考えられる畿内の地名は一例もないことになってしまう。

さらに、『筑前国続風土記』によれば、北九州の香山(高山)のある旧志波村のふきんは、「遠市(よおち)の里」とよばれていた。いっぽう、畿内の天の香山は、『延喜式』に十市郡にあると記されていることからわかるように、ふるくは、「十市(とをち)郡」[「とをち」の読みは、『延喜式』による]に属していた。そして、『和名抄』にみえる「美濃国本巣遠市郷」が、藤原宮出土の木簡では、「三野国本須郡十市・・・」となっている例がある。古代においては、「遠市(とおち)」と「十市(とをち)」の音は、等しかったか、または、きわめて近かったと考えられる。

北九州の香山と大和の天の香山とは、その相対的位置からいっても、「遠市」「十市」に存在したことなどからも、たがいに対応しているということができよう[宮崎県西臼杵(うすき)郡の天の香山(かぐやま)は、後世の命名と思われる]。
なお、福岡県朝倉郡の「香山」の頂上には、現在、地元の実業家によって、観音様がたてられている。

 

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コラム---畿内の地名のあらわれる文章
現代語訳
(1)(2)(3)ここに、伊邪那岐の命(いざなぎのみこと)は、「いとしきわが妻を、子ども一人にかえてしまったことよ。」とのべられて、なくなられた伊邪那美の命(いざなみのみこと)のなきがらの、枕もとにはらばい、足もとにはらばってなかれた。そのとき、涙によって成った神は、香具山畝尾木の本に鎮座されていて、泣沢女の神と名づける。

(4) 底筒の男の命(そこつつのおのみこと)、中筒の男の命(なかつつのおのみこと)、上筒の男の命(うわつつのおのみこと)の三柱の神は、墨江(摂津の国、住吉神社)の大神である。

(5)(6)(7)(8)(9) 八百万(やおよろず)の神は、天の安の河原に集まった。そして、高御産巣日(たかみむすひ)の神の子、思金(おもいかね)の神に思わせて、常世(とこよ)の国からきた鶏を集めて鳴かせ、天の安の河の河上から、堅い石をとってきて、天の金山の鉄を取って、鍛冶人(かじびと)の天津麻羅(あまつまら)をまねいて、伊斯許理度売の命(いしこりどめのみこと)に命じて、鏡を作らせた。また、玉祖(たまのおや)の命に命じて、大きな勾玉(まがたま)がたくさんついている玉の緒の珠を作らせた。天の児屋の命(こやねのみこと)と布刀玉の命(ふとだまのみこと)とをめして、天の香具山の真男(まお)鹿の肩の骨を丸抜きにして、天の香具山の朱桜を取って、うらなわせた。天の香具山の枝葉のしげった常盤木(ときわぎ)を根のまま堀りとって、上の枝に大きな勾玉(まがたま)をたくさんつらねた玉をとりつけ、中の枝に八尺鏡(やたかがみ)をとりかけ、下の枝に白い布、麻の布をとりかけた。このさまざまのものは、布刀玉(ふとだま)の命がとりもって神にささげ、天の児屋の命(こやねのみこと)が、祝福の祝詞(のりと)をあげた。天の手力男の命(あめのたじからおのみこと)が、戸のわきに隠れ立ち、天の宇受売の命(うずめのみこと)が、天の香具山のひかげのかずらでたすきをして、まさきのかずらを髪の飾りにし、天の香具山のささの葉を結び束ねて手にもち、天の岩屋戸(いわやと)に空(から)の入れものをうつぶせにしてふみとどろかせ、神懸(かみがか)りして、乳房をあらわにし、裳(も)のひもを陰部に押したれた。ここに、高天の原は鳴り響いて、八百万(やおよろず)の神は、ともに笑った。

(10) この神は、御室山(みもろやま)のうえに鎮座されている神である。
(11) [大山咋(おおやまくい)の神は]葛野(かづの)の松尾神社に鎮座されていて、鳴鏑(なりかぶら)の矢をもつ神である。

 

訓み下し文(岩波文庫本)
(1)(2)(3) ここに伊邪那岐命(いざなぎのみこと)詔(の)りたまひしく、「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹の命(なにものみこと)を、子の一つ木(ひとつけ)に易(か)へつるかも。」と謂(の)りたまひて、すなはち御枕方(みまくらへ)に葡匐(はらば)ひ、御足方(みあとへ)に葡匐(はらば)ひて哭(な)きし時、御涙(みなみだ)に成れる神は、香具山畝尾木の本にまして、泣沢女(なきさはめ)の神と名づく。

(4) 底筒之男命(そこつつのをのみこと)、中筒之男命(なかつつのをのみこと)、上筒之男命(うはつつのをのみこと)、の三柱の神は、墨江の三前(みまえ)の大神なり。

(5)(6)(7)(8)(9) 八百万(やおよろづ)の神は、天の安の河原(はら)に神集(かみつど)ひ集(つど)ひて、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の子、思金神(おもいかみのかみ)に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴島(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天の安の河(あめのやすのかわ)の河上(かわかみ)の天(あめ)の堅石(かたしは)を取り、天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍛人(かぬち)天津麻羅(あまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せて鏡を作らしめ、玉祖命(たまのやのみこと)に科(おほ)せて、八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の珠を作らしめて、天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)を召(め)して、天の香山の真男鹿(まおしか)の肩(かた)を内抜(うちぬ)きに抜きて、天の香山の天(あめ)の朱桜(ははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百箇真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、上枝(ほつえ)に八尺の勾璁の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)の玉を取り著(つ)け、中枝(なかつえ)に八尺鏡(やたかがみ)を取り繋(か)け、下枝(しづえ)に白和幣(しらにきて)、青和幣(あおにきて)を取り垂(し)でて、この種種(くさぐさ)の物は、布刀玉命(ふとたまのみこと)、太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天児屋命(あめのこやねのみこと)、太詔戸言禱(ふとのりとごとほ)き白(まを)して、天手力男神(あめのたぢからをのみこと)、戸の掖(わき)に隠(かく)り立ちて、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天の香山の天の日影(あめのひかげ)を手次(たすき)に繋(か)けて、天の真折(あめのまさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結(ゆ)ひて、天の石屋戸(いはやと)に槽伏(うけふ)せて蹈(ふ)み轟(とどろ)こし、神懸(かみがか)りして、胸乳(むなち)をかき出(い)で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押(お)し垂(た)れき。ここに高天(たかま)の原動(とよ)みて、八百万神(やおよろづのかみ)共(とも)に咲(わら)ひき。

(10) こは御諸山の上(へ)に坐(ま)す神なり。
(11) 葛野の松尾(まつのを)に坐して、鳴鏑(なりかぶら)を用(も)つ神ぞ。

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