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Rev2 2025.3.1 |
第426回 邪馬台国の会(2025.1.26 開催)
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1.卑弥呼の墓を掘る[井上悦文(よしふみ)先生] |
福岡県朝倉市山田の「長田大塚(おさだおおつか)古墳」を掘ろう 1.1.朝倉地名の初見と由来 『日本書紀』の同条には、 ところが、その後の明治29年4月1日(1896年)の旧朝倉郡(あさくらぐん)の成立までの間の文献(倭名類聚抄・延喜式神名帳・その他)の中には、「朝倉」の文字列での記述は見当たりません。その間に登場するこの地方の名称は、「上座郡」「下座郡」「夜須郡」という文字列での表記で、「上座郡」を「かみつあさくらのこおり」、「下座郡」を「しもつあさくらのこおり」、「夜須郡」を「やすのこおり」と呼びます。 ところで、古来より、「あさくら」地名由来には、 しかし、これらの四説のうち、①の「朝闇説」は、高い山脈にはさまれた狭い渓谷の地ならばともかく、広大な平野の朝倉ではありえない現象であり、②の「校倉説」と③の「座説」と④の「浅谷説」は、斉明天皇の到着時にはすでにそこに「朝倉山」と「朝倉社」が存在していることから、朝倉遷都との順番が逆です。よって、これらの四説は、朝倉地名由来としては誤りの説です。 ところで朝倉地方には、古来より「朝倉山」という名称の山や「朝倉神社」という名の神社はありません。 ところが朝倉地方には、古来より、さまざまな文献中(延喜式神名帳・筑前国続風土記・朝倉記聞その他)に記載されて登場し、朝倉を代表する特徴的な山、ならびに神社として、「麻氐良山」と「麻氐良布神社」があります。 漢字の「氐」の字と「久」の字は、文字の成り立ちも異なることから、篆書体、隷書体、行書体、楷書体では全く字形が異なり、一目で別字と判断できます。ところが、草書体の殺字(くずし)は全く同一であり、そのため別字との判断も、また、いずれの文字であるかの判断もできません。 山の名の「麻氐良」の「氐」の字を「久」の字に置換すれば「麻久良」と記したことになります。この「麻久良」と記したものを読みかえれば、その読みは「アサクラ」となります。 この「アサクラ」読みの音に、600年代に出された二つの詔の「好字二文字の詔」によって、地名等には意味の良い漢字二文字で表記することが求められ、それによって、「アサ」の音に「朝」の字が、そして、「クラ」の音に「倉」の字があてはめられて、「朝倉」の文字列の表記になったものと思われます。
神社名の「麻氐良布」の「布」の字を「須」の字に置換すれば「麻氐良須」と記したことになります。
「麻氐良須」と記したものを音読みで読みかえれば、その読みは「アマテラス」となります。よって、「マテラ神社」の神社名は、わが国の神道の最高神である「天照大御神」の名と同一です。
つまりは、天照の役目は「日の巫女」であり、そのことからすれば、天照大神の字(あざな)は「ヒミコ」であった蓋然性があります。 ところで、漢字の「霊」「靈」「孁」「灵」「巫」「覡」は、いずれも同一文字の異字体表現です。そしてその音読みは「レイ」であり、訓は「みこ」です。
魏志倭人伝には「邪馬台国は女王の都とする所の名」との記載があり、ここに、邪馬台国は女王の都とする所という記述があります。 1.5.卑弥呼の墓と朝倉山田の長田大塚古墳 現在、日本で最大の円墳は直径105メートルの「丸墓山古墳」と言われています。ところが、この「長田大塚古墳」の大きさが約145メートルであることになれば、この古墳が、「真の日本最大の円墳」であることになります。 ところで、古墳の所在地の「長田」の地名は、古事記や日本書紀、先代旧事本記等によれば、「天照大御神が初めて稲の種をまいた二つの田の名前」の一つとして、「天長田(あまのながた)」と記載されて登場し、また、「天照大御神の御田」と記載されています。 |
2.魏の曹操の墓(曹操高陵)の発掘と卑弥呼の墓の発掘(安本美典先生) |
後漢の末期に、曹操が「魏」として中国の北の地域を支配し、魏・呉・蜀の三国時代になって行った。 注:鄴 中国の河北省、河南省、安陽市は下の地図参照。 歴史的な都市、西安、洛陽の近くに安陽がある。 上の地図を見ると、河南省の安陽市の右上の方に鄴城がある。ここが魏の曹操の都であった。鄴城は河北省である。そして、鄴の近くを流れる漳河(しょうが)沿いの西の方に曹操高陵がある。曹操高陵は河南省である。 曹操高陵は、長い墓道があり、前室、更に進んで後室がある。その構造図は下の図参照。 参考文献 そして、前室と後室の大きさは約4m平方の大きさである。(下図参照)
石野博信氏の見解に対し、曹操高陵は4m四方程度しかない。教室の大きさにはほど遠い。 白雲翔、潘偉斌、郝本性、張志清 共著『曹操高陵の発見とその意義』(汲古所員、2011年刊)より、 「後室は東西長さ3.82m、南北幅3.85mで、四角錘状の天井頂部です。やはり南北に二つの側室をもち、側室南北長さはどちらも3.60m、東西幅1.90mから1.92mで、アーチ状の天井頂部となっています。また、後室でも四壁上に四段の鉄釘列があり、こちらは端部が鈎(かぎ)状になっています。後室の後部床面に六つの痕跡があり、これは石棺床が置かれた痕跡と考えられます。また後室南北の側室では、木棺が残っており、またそこでは鉄製の帳のジョイント部分の部品が出土しています。」 河南省文物考古学研究所編者。渡辺義浩監訳。国書刊行会。2011年刊。78~79ページより 曹操は建安(けんあん)二十三年(218)六月より、自らの陵墓の造営を始めていた。生前に造る墓を「寿陵(じゅりょう)」と呼ぶ。その場所と指定され力「西門豹(せいもんひょう)の祠(ほこら)の西原上」が、鄴(ぎょう)県の西にあることは唐代の地理書『元和郡県図志(げんなぐんけんずし)』にも記されている周知のことであった。西高穴(せいこうけつ)二号墓は、まさしくそのあたりから発見された。 この曹操高陵から、下図のような「魏武王常所用虎大戟」と書いた石稗(せきはい)が前室から出土している。 そして、直径21cmの鉄鏡が出土している。これは後で述べる、日田市の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」と同じ直径である。 注1:魏の曹操(そうそう) 注2:曹操高陵 注3:戟(げき)
矛は袋部があり、そこに木の棒を差し込む、戈は戈の柄を木の棒に差し込む。戈と戟の違い、戟は上部に「刺」がある。(下図参照)
■「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」 日田市の「ダンワラ古墳」から出土した鉄鏡は下記である。この鉄鏡が曹操高陵出土の鉄鏡と同じ直径で、そっくりである。
朝倉市付近の地図を示すと下の地図となる。
この地図の右側を少し拡大したものが、下の地図である。 上の地図の右下のすみに「ダンワラ古墳」が記されている。大分県の日田市の市役所の近くである。この「ダンワラ古墳」については、大塚初重・小林三郎他編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)[下の注参照]に、象嵌があり、赤や青や白の珠(たま)の嵌(は)めこまれた優美華麗な鏡である。 注:ダンワラ古墳 上の地図から、この地域は、『古事記』に書かれている神話の時代に関係する地名が多い。 朝倉市付近の左側を少し拡大したものが、下の地図である。 平塚川添遺跡があり、遺物もいろいろ出ている。
2019年9月6日(金)の『朝日新聞』朝刊に、この鏡に関係する記事が載っている。 この鏡について大手前(おおてまえ)大学の教授であった上垣外戸(かみがいと)憲一氏は、その著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)の中で述べている。 「この『鉄鏡』は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。 奈良県の纏向あたりから出土すれば、ほとんど間違いなく邪馬台国はここだ、ということになりそうなものが、すでに、福岡県・大分県の地図(上の方に示した「朝倉市南東部の史跡」地図)に示す地域からは、出土しているのである。
・地名の移動 2024年7月21日の第422回邪馬台国の会で「福岡県の夜須の地のまわりと、奈良県の大和のまわりとに、おどろくほどの地名の一致をみいだすこと」を、話している。 その中で、 雲梯は和名抄(わみょうしょう)に二つしかない。それが、北九州と奈良である。 ・箱式石棺の分布
■魏の時代の薄葬 中国の秦・漢時代から南北朝時代までの、洛陽付近での考古学的発掘の、報告書類を集大成したものとして、『洛陽考古集成--秦漢魏晋南北朝巻--』(上・下二巻、中国・北京図書館出版社、2007年刊)が発行されている。 この『洛陽考古集成』と、『洛鏡銅華』とにより、前者で、確実に「前漢墓」「新墓」「後漢墓」「魏墓」「西晋墓」とされるもの、また後者で確実に「前漢時代」「後漢時代」「魏時代」「西晋時代」の青銅鏡として写真入りでのっている鏡の数を数えると下の表のようになる。 「中国において発掘されたもので、確実に魏の時代に築造されたと言えるもので、安本が知っている墓は次の二つだけである。 (1)「洛陽曹魏正始八年墓」この墓については、さきにあげた『洛陽考古集成』の864ページ以下に、報告書がのっている。その報告書のなかに、「わが国で発掘されたただ一つの年紀のある曹魏墓」とある。また。「曹魏時期を資料欠少」記されている。正始八は、西暦237年、ほぼ卑弥呼の死亡時。 (2)「魏の曹休の墓」この墓については、あとで紹介。
■曹操高陵と曹休墓
発掘された後漢諸侯王墓からみて、後漢帝陵の墓室はおそらく前室を主体とする回廊簒で、それ以下の列侯・公卿大夫が一般に「+」字形・「干」字形の方坑磚券墓で、外回廊がなく、単純な前後室ないし双室墓になります。こういった墓葬は洛陽で非常に多く、中原・華北地域で後漢前期後葉から後漢中・後期にかけて流行しています。後漢後期に至り、これらの墓葬は甬道に一室増え、前中後の三室構造になっていきます。曹休墓の墓葬形態はこの延長にあると考えられ、生前列侯に封ぜられた身分に合致するといえます。曹休は曹操より八年あとに死去し、曹操高陵と比較できる墓葬では最も年代が近く共通点も多いのですが、等級上でやはり差が明らかです。 注:曹休(そう きゅう)[?~228年] |
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