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Rev2 2025.3.1

第426回 邪馬台国の会(2025.1.26 開催)
卑弥呼の墓を掘る(井上悦文先生)
魏の曹操の墓の発掘と卑弥呼の墓の発掘(安本美典先生)


 

1.卑弥呼の墓を掘る[井上悦文(よしふみ)先生]

福岡県朝倉市山田の「長田大塚(おさだおおつか)古墳」を掘ろう426-01
朝倉山田の長田古墳は径百余歩の卑弥呼の墓に該当する

1.1.朝倉地名の初見と由来
西暦720年に成立した、わが国の代表的歴史書の一つである『日本書紀』の斉明天皇7年の条(西暦661年)には、斉明天皇が百済救済のための新羅・唐の連合軍との戦いに向けて、皇太子中大兄皇子をはじめ一族ならびに文武百官を引き連れて、朝倉の橘の広庭の宮に遷居(遷都)した記事が記されています。

『日本書紀』の同条には、
①「五月(さつき)の乙未(きのとのひつじ)の朔癸卯(みずのとのうのひ)に、天皇、朝倉橘広庭宮に遷(うつ)りて居(おはし)ます。」
②「是の時(とき)に、朝倉(あさくらの)社(やしろ)の木を斮(き)り除(はら)ひて、此(こ)の宮(みや)を作(つく)る故(ゆゑ)に、神(かみ)忿(いか)りて殿(おほとの)を壊(こほ)つ。亦(また)、宮の中(うち)に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。是(これ)に由(よ)りて、大舎人(とねり)及(およ)び諸(もろもろ)の近侍(ちかくはべるひと)、病(や)みて死(まか)れる者(もの)衆(おほ)し。」
③「六月(みなづき)に、伊勢王(いせのおほきみ)、亮(みう)せぬ。秋七月(あきふみづき)の甲午(きのえうま)の朔丁巳(ついたちひのとのみのひ)に、天皇(すめらみこと)、朝倉宮(あさくらのみや)に崩(かむあが)りましぬ。」
④八月(はつき)の甲子(きのえね)の朔(ついたち)に、皇太子(ひつぎのみこ)、天皇の喪(みも)を奉徒(ゐまつ)りて、還(かへ)りて磐瀬宮(いはせのみや)に至(いた)る。是の夕(よひ)に、朝倉山(あさくらのやま)の上(うへ)に、鬼(おに)有(あ)りて、大笠(おほかさ)を着(き)て、喪の儀(よそほひ)を臨(のぞ)み視(み)る。衆(ひとびと)皆(みな)嗟怪(あやし)ぶ。」
⑤「五月二十三日(さつきのはつかあまりみかのひ)、朝倉(あさくら)の朝(みかど)に奉進(たてまつ)る。」
という記事があり、ここに「朝倉山」「朝倉社」「朝倉の朝」「朝倉宮」の表記で「朝倉」地名が登場しています。これが朝倉地名の初見です。

ところが、その後の明治29年4月1日(1896年)の旧朝倉郡(あさくらぐん)の成立までの間の文献(倭名類聚抄・延喜式神名帳・その他)の中には、「朝倉」の文字列での記述は見当たりません。その間に登場するこの地方の名称は、「上座郡」「下座郡」「夜須郡」という文字列での表記で、「上座郡」を「かみつあさくらのこおり」、「下座郡」を「しもつあさくらのこおり」、「夜須郡」を「やすのこおり」と呼びます。
つまり、「朝」と「倉」の二文字を使用した「朝倉(あさくら)」の表記方式は、日本書紀斉明天皇7年の条には登場しますが、それ以後明治までの間には使用されていません。

ところで、古来より、「あさくら」地名由来には、
①「朝闇説」は、東に山脈があり、朝暗いことからこの地名が付いたとの説
②「校倉説」は、削っていない木で作ったことから「木丸殿(このまるでん)」と呼び、校倉造りであったことからこの地名が付いたとの説
③「座説」は、天皇の玉座のことを高御座(たかみくら)と呼ぶことからこの地名が付いたとの説
④「浅谷説」は、「谷」のことを「クラ」と呼ぶことから、桂川の浅い谷のことをさしてこの地名になったとの説
の四つの説があります。

しかし、これらの四説のうち、①の「朝闇説」は、高い山脈にはさまれた狭い渓谷の地ならばともかく、広大な平野の朝倉ではありえない現象であり、②の「校倉説」と③の「座説」と④の「浅谷説」は、斉明天皇の到着時にはすでにそこに「朝倉山」と「朝倉社」が存在していることから、朝倉遷都との順番が逆です。よって、これらの四説は、朝倉地名由来としては誤りの説です。

ところで朝倉地方には、古来より「朝倉山」という名称の山や「朝倉神社」という名の神社はありません。
それなのに、日本書紀には「朝倉山」と「朝倉社」の記述が歴然と記載されて登場することからすれば、朝倉山や朝倉社と誤って記載された、「アサクラ」の呼称と誤りやすいよく似た名称の山と神社が存在するはずです。

ところが朝倉地方には、古来より、さまざまな文献中(延喜式神名帳・筑前国続風土記・朝倉記聞その他)に記載されて登場し、朝倉を代表する特徴的な山、ならびに神社として、「麻氐良山」と「麻氐良布神社」があります。

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漢字の「氐」の字と「久」の字は、文字の成り立ちも異なることから、篆書体、隷書体、行書体、楷書体では全く字形が異なり、一目で別字と判断できます。ところが、草書体の殺字(くずし)は全く同一であり、そのため別字との判断も、また、いずれの文字であるかの判断もできません。

山の名の「麻氐良」の「氐」の字を「久」の字に置換すれば「麻久良」と記したことになります。この「麻久良」と記したものを読みかえれば、その読みは「アサクラ」となります。

この「アサクラ」読みの音に、600年代に出された二つの詔の「好字二文字の詔」によって、地名等には意味の良い漢字二文字で表記することが求められ、それによって、「アサ」の音に「朝」の字が、そして、「クラ」の音に「倉」の字があてはめられて、「朝倉」の文字列の表記になったものと思われます。
このことからすれば、「朝倉」の地名由来は、「麻氐良」の草書殺字の誤読によるものであると思われます。

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1.2.朝倉は天照の国
山の名が「麻氐良」であり、神社の名が「麻氐良布」であり、ともにその読みは「まてら」であることからすれば、当然、神名から山名を付けたと考察すべきであり、よって、「麻氐良」の名称は神名の「麻氐良布」からであると考察すべきです。
漢字の「布」の字と「須」の字は、文字の成り立ちも異なることから、篆書体、隷書体、行書体、楷書体では全く字形が異なり、一目で別字と判断できます。ところが、草書体の殺字(くずし)は全く同一のものがあり、そのため別字との判断も、また、いずれの文字であるかの判断もできません。

神社名の「麻氐良布」の「布」の字を「須」の字に置換すれば「麻氐良須」と記したことになります。

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「麻氐良須」と記したものを音読みで読みかえれば、その読みは「アマテラス」となります。よって、「マテラ神社」の神社名は、わが国の神道の最高神である「天照大御神」の名と同一です。

また、「麻氐良布神社」が、日本で唯一、蛭子をも含めて天照大神の家族全員を祀った珍しい神社であることからも、この神社の元来の名称が「天照神社」であろうことが推察され、よって、朝倉の地名由来が「麻氐良」からであり、その麻氐良は、わが国の神道の最高神である「アマテラス」の呼称の音の借字表記である「麻氐良須」からであることが推察されます。


1.3.天照大神は卑弥呼(日の巫女)
古事記や日本書紀、先代旧事本記その他の文献や神道の祝詞において、天照大神の別称は「日神(ひのかみ)」と「大日孁貴(おおひるめむち)」が使用されています。
古事記や日本書紀、先代旧事本記において、天照大神は、父の伊弉諾尊から、天のことを統べる、つまりは太陽を掌る「太陽神」としての任務を命じられたことが記載されています。

つまりは、天照の役目は「日の巫女」であり、そのことからすれば、天照大神の字(あざな)は「ヒミコ」であった蓋然性があります。
「日神」は太陽神のことであり、また、太陽(天)との交信をする巫女のことであり、つまりは「日の巫女」のことを表現しています。
太陽の巫女つまりは日の巫女のことを漢字表記すれば、「日巫女」であり、その読みは「ヒミコ」です。

ところで、漢字の「霊」「靈」「孁」「灵」「巫」「覡」は、いずれも同一文字の異字体表現です。そしてその音読みは「レイ」であり、訓は「みこ」です。
「孁」の字の訓が「みこ」であることからすれば、「大日孁」の読みは「おおひみこ」であることになります。
よって、「日神子」と「日孁」の読みが「ヒミコ」であることからすれば、つまりは、天照大神の別名は「日巫女(ひみこ)」であることになります。
「日巫女」の読みの「ヒミコ」を、中国の古音韻の音のみで借字表記すれば、「卑弥呼」となります。  


1.4.魏志倭人伝の邪馬台国
女王卑弥呼が都とした「邪馬台国」は、魏志倭人伝には「邪馬壹国」と表記されています。
ところが、この邪馬壹国の表記は、その他の中国の歴史書の「魏略」「魏志」「梁書」「後漢書」その他をもとに分析すれば、他文献ではすべて「臺」の字が使用されていて、「壹」の字が使用されているのは魏志倭人伝だけです。
これらのことから、魏志倭人伝に「邪馬壹国」と記された「邪馬台国」の名は、元来は「耶馬臺国」が正表記であることが推察されます。
「耶馬臺国」の文字列を、中国古音韻の音のみの借字読みで読めば「ヤマダ国」となります。

魏志倭人伝には「邪馬台国は女王の都とする所の名」との記載があり、ここに、邪馬台国は女王の都とする所という記述があります。
これらのことからすれば、斉明天皇が遷都とした「朝倉の山田」は、日の巫女つまり「日巫女(卑弥呼)」である「女王天照」の国の都の「耶馬臺国=ヤマダ国」であった蓋然性が極めて高いことが明らかです。

1.5.卑弥呼の墓と朝倉山田の長田大塚古墳
魏志倭人伝には、女王卑弥呼の墓は「径百歩」と記載されています。ところで、魏の時代の換算の径百歩は、約145メートルです。
朝倉市の山田に、地元では「長田大塚古墳」と呼ばれる謎の円墳(帆立貝型の可能性も)があります。この古墳の元来の基底部は、地元伝承では周辺里道の際までであり、とすれば、その直径は約145メートルほどあることになります。

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現在、日本で最大の円墳は直径105メートルの「丸墓山古墳」と言われています。ところが、この「長田大塚古墳」の大きさが約145メートルであることになれば、この古墳が、「真の日本最大の円墳」であることになります。

ところで、古墳の所在地の「長田」の地名は、古事記や日本書紀、先代旧事本記等によれば、「天照大御神が初めて稲の種をまいた二つの田の名前」の一つとして、「天長田(あまのながた)」と記載されて登場し、また、「天照大御神の御田」と記載されています。
これらのことからすれば、古墳の場所は、天照大神である卑弥呼が都とした耶馬臺国(ヤマダ国)の天照大御神の御田にあることになります。
とすれば斉明天皇は、このことを承知していたことから朝倉の山田に遷都して、天照大神を東の山上に移設して、戦勝祈願と日本の安寧を祈願した蓋然性があります。

2.魏の曹操の墓(曹操高陵)の発掘と卑弥呼の墓の発掘(安本美典先生)

後漢の末期に、曹操が「魏」として中国の北の地域を支配し、魏・呉・蜀の三国時代になって行った。
426-02魏の曹操は鄴(ぎょう)を都とした。

注:鄴
今の河北省邯鄲(かんたん)地区臨漳(りんしょう)県の地にあった都市。春秋時代に斉(せい)の桓(かん)公がはじめて鄴城を築き、これより鄴の名がおこったといわれ、華北が分裂におちいったときにはしばしば割拠政権の国都となった。戦国時代には魏の北部における重要都市であり後漢時代曹操政権の根拠地となり、五胡十六国の時代、後趙国の石勒(せきろく)は、335年に都を襄国(じょうこく)[河北]より鄴にうつし、ほとんど華北全体を征服した。

中国の河北省、河南省、安陽市は下の地図参照。
(下図はクリックすると大きくなります) 426-03

歴史的な都市、西安、洛陽の近くに安陽がある。426-04

上の地図を見ると、河南省の安陽市の右上の方に鄴城がある。ここが魏の曹操の都であった。鄴城は河北省である。そして、鄴の近くを流れる漳河(しょうが)沿いの西の方に曹操高陵がある。曹操高陵は河南省である。

曹操高陵は、長い墓道があり、前室、更に進んで後室がある。その構造図は下の図参照。

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参考文献
(1)河南省文物考古研究所編『曹操高陵 考古発現与研究』(中国・文物出版社、2010年刊)
(2)河南省文物考古研究所編著『曹操墓の真相』(国書刊行会.2011年刊)
(3)白雲翔・潘偉斌・郝本性・張志清著『曹操高陵の発見とその意義』(汲古書院、2011年刊)

そして、前室と後室の大きさは約4m平方の大きさである。(下図参照)

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中国の墓については、 2024年10月27日の第424回の「邪馬台国の会」で、考古学者の石野博信氏の見解。
「『槨』ですけれども、ホケノ山を掘って橿原考古学研究所が木槨と発表したときに、講演会で会場からの質問がありました。『邪馬台国が大和でないことがこれで決まったのですか』という質問でした。
私はそのときにつぎのように答えました。『魏志倭人伝』で『棺ありて槨なし』と書いているときの『槨』は漢墓を参考にしますと、学校の教室くらいの大きさがあります。部屋を三つも四つも連接しているものもあります。それを『木槨』と呼んでおります。魏に使いに行った倭人が倭の墓の構造を説明したか、倭に来た魏の使者が倭人の墓を見て、棺を囲む施設があっても、そんなものは『槨』ではないと思ったのではないか、と。
ホケノ山古墳の木槨は、ニメートル七〇センチ×七メートルですから、そんなものは『槨』とは呼べない。だから『棺ありて槨なし』と言ったのではないか、と考えています。」(『季刊邪馬台国』100号、2008年刊)

石野博信氏の見解に対し、曹操高陵は4m四方程度しかない。教室の大きさにはほど遠い。
(1)中国文献において、教室ほどの大きさのものが、「槨」と記されている事例(根拠)が示されていない。
(2)曹操高陵でも、約4m四方(3.85m×3.82m)ていどのものが「室」と記されている。「槨」とは記されていない。第424回の「邪馬台国の会」で紹介した後漢時代殉人墓の例でも。「室」と「槨」とは、区別されている。

白雲翔、潘偉斌、郝本性、張志清 共著『曹操高陵の発見とその意義』(汲古所員、2011年刊)より、
「後室は四角錘状の天井で、東西長3.82m、南北幅3.85m、墓頂高さ6.5mで、青石で舗装される。後室の後部に近いところで六か所の石葬跡があることから、石棺床が置かれ、その中に木棺を安置したと推測される。頭骨二個体分のほか人骨が後室内に散乱していた。鑑定により五〇歳前後と二〇歳前後の女性の二人とされる。」

「後室は東西長さ3.82m、南北幅3.85mで、四角錘状の天井頂部です。やはり南北に二つの側室をもち、側室南北長さはどちらも3.60m、東西幅1.90mから1.92mで、アーチ状の天井頂部となっています。また、後室でも四壁上に四段の鉄釘列があり、こちらは端部が鈎(かぎ)状になっています。後室の後部床面に六つの痕跡があり、これは石棺床が置かれた痕跡と考えられます。また後室南北の側室では、木棺が残っており、またそこでは鉄製の帳のジョイント部分の部品が出土しています。」

河南省文物考古学研究所編者。渡辺義浩監訳。国書刊行会。2011年刊。78~79ページより
「このことは、木棺の位置も確認できたことを意味する。すなわち、木棺は後室の真ん中に安置されていたのである。後室の前部には有機物の堆積を確認できるが、これは繰り返し破壊された木棺が腐敗した残留物かもしれない。この木棺は、材料はもちろん大きさも、側室の二つの木棺より良質のものであったろう。
この想定は、墓室から出土した釘によって傍証される。
考古隊は墓室内の攪乱土を整理している際、規格の異なる二種の鉄棺釘を発見した。大きいほうは長き20cm以上に達し、短いほうは10cmあまりであった。20cm以上の棺釘は、後室の男性墓主の木棺に用いられたものであろう。このことは木棺の板材の厚さが20cmを超えるものであり、両側室から発見された木棺よりもはるかに厚いことを示している。」

曹操は建安(けんあん)二十三年(218)六月より、自らの陵墓の造営を始めていた。生前に造る墓を「寿陵(じゅりょう)」と呼ぶ。その場所と指定され力「西門豹(せいもんひょう)の祠(ほこら)の西原上」が、鄴(ぎょう)県の西にあることは唐代の地理書『元和郡県図志(げんなぐんけんずし)』にも記されている周知のことであった。西高穴(せいこうけつ)二号墓は、まさしくそのあたりから発見された。

この曹操高陵から、下図のような「魏武王常所用虎大戟」と書いた石稗(せきはい)が前室から出土している。
「魏武王常所用虎大戟」の要訳は、魏の武帝(曹操のこと)が常に用いるところの虎を討つ大戟となる。(戟は下にある注3参照)
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そして、直径21cmの鉄鏡が出土している。これは後で述べる、日田市の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」と同じ直径である。

注1:魏の曹操(そうそう)
155 (永寿元)~220(建安25)三国魏の実際の創立者。後漢の宦官費亭侯曹騰の養子嵩の子。字は孟徳、小字は阿瞞、一名を吉利という。2O歳で孝廉に挙げられ郎となり、黄巾の賊を破って功があった。軍閥董卓が洛陽に入り少帝を廃して献帝をたて専横を行ったので、袁紹ら諸将と連合軍を組織して攻めたが効なく、連合軍が解体したので東郡を根拠に独立し、兗州(えんしゅう)を平定し、黄巾の余衆を破って手中に収めてのち勢力をふるった。たまたま献帝が長安から東走したので、これを許に迎え、天子を擁して群雄に号令し、屯田を興して富国強兵を計った。冀州の袁紹と官渡に戦ってこれを破り、中原統一の基礎ができたかに見えた。しかるに、赤壁の戦いで孫権と劉備の連合軍に敗れたため、天下三分の形勢を生じた。漢の丞相として実権を握り、魏王に封じられ、鄴を都として魏王国の政府をたてた。詩や音楽を愛し建安七子とともに六朝文学のもとを開いた。子の曹丕が漢を奪って魏王朝を立ててから、太祖武皇帝と諡された。参考三国志1;吉川幸次郎 三国志実録(全集7)

注2:曹操高陵
河南省安陽県西高穴(せいこうけつ)村(河南省 安陽 西高穴2号大墓)[曹操墓、曹操高陵、西高穴2号大墓]
発掘した人は潘偉斌(はんいひん)氏他

注3:戟(げき)
戟は戈の一種、戣と同類であろう。程瑤田の「考工創物小記」以来、馬衡の「戈戟之研究」(『考古学論叢』2,1928年刊)にいたるまで、戈の内(ない)に刃のあるものを戟としたが、郭沫若は「説戟」(『股周青銅器銘文研究』1931年刊)において、『周礼』考工記冶氏の文をひき、戟にはかならず刺のあることをといた。その後、河南濬県辛村衛港侯墓、輝県趙固鎮戦国墓などにおいて刺のある実例が出土してその説が確定した。

 

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矛は袋部があり、そこに木の棒を差し込む、戈は戈の柄を木の棒に差し込む。戈と戟の違い、戟は上部に「刺」がある。(下図参照)

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■「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」

日田市の「ダンワラ古墳」から出土した鉄鏡は下記である。この鉄鏡が曹操高陵出土の鉄鏡と同じ直径で、そっくりである。

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朝倉市付近の地図を示すと下の地図となる。

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この地図の右側を少し拡大したものが、下の地図である。

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上の地図の右下のすみに「ダンワラ古墳」が記されている。大分県の日田市の市役所の近くである。この「ダンワラ古墳」については、大塚初重・小林三郎他編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)[下の注参照]に、象嵌があり、赤や青や白の珠(たま)の嵌(は)めこまれた優美華麗な鏡である。

注:ダンワラ古墳
大分県日田市大字日高字東寺、ダンワラと通称する日田盆地南部の丘陵の西裾にあったという。1933年(昭和8)国鉄久大線の敷設工事に伴って発見されたと伝えるこの古墳の実態は現在不詳であるが、工事に際して採集された鏡は、金銀錯の手法で虺龍文等を表現し、随所に珠玉を嵌入した鉄鏡で、本邦唯一の出土例として著名である。同時に鉄刀・轡等が出土したとも伝える。ほかに伝日田市刃連町出土と称する金銀錯鉄帯鉤も共伴遺物とみられている。〔文献〕梅原末治「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」国華853,1963。

上の地図から、この地域は、『古事記』に書かれている神話の時代に関係する地名が多い。
小石原川[安川(やすかわ)と呼ばれていた]、金山(かなやま)、赤谷川、岩屋神社、山田、長田(おさだ)、など。

朝倉市付近の左側を少し拡大したものが、下の地図である。
(下図はクリックすると大きくなります)426-13

平塚川添遺跡があり、遺物もいろいろ出ている。

 

2019年9月6日(金)の『朝日新聞』朝刊に、この鏡に関係する記事が載っている。
「古代中国の? なぜ大分に」と題するもので、中国の三国時代の魏の曹操の墓から出土した鏡と、この「ダンワラ古墳」から出土したといわれる鏡とがきわめてよく似ている、というものである。『朝日新聞』の記事の中に、つぎのような文がある。「2008年に曹操の墓と確認された『曹操高陵』から出土した鉄橋について、河南省文物考古研究員の潘偉斌(はんいひん)研究員が発言。『画像で見る限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。直径も21センチで、ほぼ同じ大きさだ』と興奮気味に語った。」

この鏡について大手前(おおてまえ)大学の教授であった上垣外戸(かみがいと)憲一氏は、その著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)の中で述べている。
「私が写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物は、このようなものだったに違いないと思った遺跡がただ一つある。」
「それが大分県日田のダンワラ古墳出土と伝えられる『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』である。」「纏向遺跡付近から、あれほどの丁寧な発掘作業が行われているのに、魏国の製造を特定できる鏡は、付近の古墳を含めて一つも出土していない。仮に、纏向古墳群の一つ、つまり卑弥呼の没年に近いと思われる纏向石塚、ホケノ山等の古墳から、このような後漢末の製作かと思われる豪華絢爛たる鏡が出ていれば、私もかなり邪馬台国奈良県説に傾くだろう。」

「この『鉄鏡』は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。
つまり、この種の金銀錯鉄鏡は、まさしく邪馬台国の時代、中国の魏と西晋の時期に、中国北方に流行したものなのである。
ダンワラ古墳出土の『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』が、魏あるいは西晋から、卑弥呼あるいは台与に贈られた可能性は、充分にあり得ることだと、私は思う。」

奈良県の纏向あたりから出土すれば、ほとんど間違いなく邪馬台国はここだ、ということになりそうなものが、すでに、福岡県・大分県の地図(上の方に示した「朝倉市南東部の史跡」地図)に示す地域からは、出土しているのである。

 

・地名の移動

2024年7月21日の第422回邪馬台国の会で「福岡県の夜須の地のまわりと、奈良県の大和のまわりとに、おどろくほどの地名の一致をみいだすこと」を、話している。

その中で、
加美郷→長谷山
朝倉→山田→雲梯(うなで)がある。

雲梯は和名抄(わみょうしょう)に二つしかない。それが、北九州と奈良である。
(下図はクリックすると大きくなります) 426-14

・箱式石棺の分布
邪馬台国時代の墓制は箱式石棺であることを2024.6.28の第421回邪馬台国の会で話した。その地図を見ると朝倉市付近は箱式石棺の密集地であり、日田市付近にも広がっている。
(下図はクリックすると大きくなります) 426-15

 

■魏の時代の薄葬
『三国志』の「魏書」の帝紀によれば、曹操は西暦220年にあたる年の正月に死没した。同じ年、220年の10月に曹操の長男の曹丕は、後漢の献帝から、帝位をゆずり受け、魏の国の初代の皇帝の文帝となった。曹丕は、父の曹操に武帝の名を送った。従って曹操の墓は西暦220年前後に築造されたとみられる。曹操の墓から出土した鉄鏡は、後漢の末か、魏の時代のはじめごろに鋳造されたとみられる。
曹操墓出土の鉄鏡と酷似するとされる日田市のダンワラ古墳出土といわれる鉄鏡も、そのころの鋳造物とみられる。卑弥呼または台与に魏から与えられたものとみても年代はあう。
『三国志』の「文帝紀」によれば、魏の第一代皇帝の文帝曹丕は、222年に盗掘されることを避けるために、陵墓がめだたないようにすることを命じた。
曹丕はいう。
「代が変わった後には、その場所をわからなくさせたいと考える。」
「金銀銅鉄を、貯蔵させてはならない。」
「(盗掘という)災難は厚葬と土盛り、植樹に原因がある。」
もし、この曹丕の命令が守られたとすれば、鉄鏡を蔵している曹操高陵は、西暦222年より前に築造されたということになるであろう。
この文帝曹丕の下した「薄葬礼(はくそうれい)」のためであろうか。確実に魏の時代といえる墓、遺跡、出土物はきわめてすくない。

中国の秦・漢時代から南北朝時代までの、洛陽付近での考古学的発掘の、報告書類を集大成したものとして、『洛陽考古集成--秦漢魏晋南北朝巻--』(上・下二巻、中国・北京図書館出版社、2007年刊)が発行されている。                    
また、洛陽付近から出土した鏡をまとめた図録に、『洛鏡銅華』(上・下二冊、中国・科学出版社、2013年刊)がある。この『洛鏡銅華』は、『洛陽銅鏡』と題名を変更して、日本語訳も出ている(岡村秀典監訳、科学出版社東京、2016年刊)。

この『洛陽考古集成』と、『洛鏡銅華』とにより、前者で、確実に「前漢墓」「新墓」「後漢墓」「魏墓」「西晋墓」とされるもの、また後者で確実に「前漢時代」「後漢時代」「魏時代」「西晋時代」の青銅鏡として写真入りでのっている鏡の数を数えると下の表のようになる。

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「中国において発掘されたもので、確実に魏の時代に築造されたと言えるもので、安本が知っている墓は次の二つだけである。

(1)「洛陽曹魏正始八年墓」この墓については、さきにあげた『洛陽考古集成』の864ページ以下に、報告書がのっている。その報告書のなかに、「わが国で発掘されたただ一つの年紀のある曹魏墓」とある。また。「曹魏時期を資料欠少」記されている。正始八は、西暦237年、ほぼ卑弥呼の死亡時。

(2)「魏の曹休の墓」この墓については、あとで紹介。

「魏時代」の存続期間が比較的短かったことを考慮にいれても、「魏時代」の墓や鏡の出土数がすくないことがわかる。
魏の国の存続期間の三分の一以下の新の国の時代さえ、魏の時代よりも多くの出土数をみている。
このことから、魏の時代の遺物の出土数が一般的にすくないことがうかがえる。曹操高陵の発見は、きわめて貴重なものといえる。

 

■曹操高陵と曹休墓
白雲翔・潘偉斌・郝本性・張志清共著『曹操高陵の発見とその意義』(汲古書院、2011年刊)より
三、曹操高陵と曹休墓
曹操高陵は、2009年安陽西高穴村で発見されました。ここまでに見てきた漢代諸侯王墓の発展と比較するならば、やはり諸侯王の葬制に基づくものと分かるでしょう。平面は甲字形を呈しており、スロープ状墓道の双室磚券墓で、墓道・前後室、四つの側室から構成されています。詳しい説明は潘先生のお話しに譲りますが、この墓室構造は、後漢時代の王侯墓に類似しつつも変化が生じており、後漢から魏晋の過渡的特徴をもつといえます。形態の最も近い諸侯王墓は、霊帝熹平三年(174年)死去の中山穆王劉暢夫婦墓であり、西高穴大墓の年代がその年代に近いことを暗示するでしょう。

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曹休墓は2010年洛陽で発見されました(上図参照)。曹休は曹操の族子で魏の征東大将軍で、魏明帝太和二年(228年)に死去しました。墓坑平面は十字形を呈しています。東西全長は50.6m、南北幅21.0m、深さ10.5mで、上口総面積は約五百平方メートルとなっています。墓道・甬道・前室・耳室・北側室・南双側室・後室から構成され、みなアーチ状の天井で、扇形磚を一層横並びに構築しています。甬道・各墓室の間の甬道には楔形の磚を二層縦に並べています。墓道全長は35m、幅5.4m~9mとなっています。邙山陵墓群の墓は、考古探査により、みな甲字形の方坑磚券墓とされています。

発掘された後漢諸侯王墓からみて、後漢帝陵の墓室はおそらく前室を主体とする回廊簒で、それ以下の列侯・公卿大夫が一般に「+」字形・「干」字形の方坑磚券墓で、外回廊がなく、単純な前後室ないし双室墓になります。こういった墓葬は洛陽で非常に多く、中原・華北地域で後漢前期後葉から後漢中・後期にかけて流行しています。後漢後期に至り、これらの墓葬は甬道に一室増え、前中後の三室構造になっていきます。曹休墓の墓葬形態はこの延長にあると考えられ、生前列侯に封ぜられた身分に合致するといえます。曹休は曹操より八年あとに死去し、曹操高陵と比較できる墓葬では最も年代が近く共通点も多いのですが、等級上でやはり差が明らかです。

以上の比較から、曹操墓の年代は曹休蟇の年代に近く、その形態は定県北陵頭の後漢末期劉暢墓に近いといえ、墓葬構造から分析して、西高穴二号大墓の時代的特徴と被葬者の身分は曹操に合致するのであり、出土遺物からみても、被葬者は220年に亡くなった曹操であることは間違いないでしょう。

注:曹休(そう きゅう)[?~228年]
字は文烈(ぶんれつ)。曹操(そうそう)の甥。曹操の挙兵からつき従い、各地を転戦して戦功を立て、中領軍に任ぜられた。魏(ぎ)の文帝(ぶんてい)[曹丕(そうひ)]のとき、孫権(そんけん)征討にあたって征東(せいとう)大将軍に任せられ、戦功により揚州(ようしゅ)牧となった。明帝(めいてい)[曹叡(そうえい)] のとき、長平(ちょうへい)侯に昇進し、呉(ご)将審悳(しんとく)を斬って大司馬となった。のち呉征討のとき、周魴(しゅうほう)のおびき出し作戦にひっかかって潰走し、その後、背中にできた悪性腫瘍のために死んだ。壮(そう)俟と諡(おくりな)された。〈魏・曹休伝〉

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