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第424回 邪馬台国の会
「邪馬台国北部九州説」七番目の証明
邪馬台国問題は、なぜ解けないか(病根の所在)


 

1.「邪馬台国北部九州説」七番目の証明

「棺あって槨なし」による証明の詳論

「棺あって、槨なし」問題については、前回の9月の第423回の「邪馬台国の会」で取り上げた。この問題は「邪馬台国北九州説」の第7の証明としてもよいように思えてきたので、今回すこしくわしくのべる。

■「棺あって槨なし」が示す年代
『魏志倭人伝』には、倭人の墓制が記されている。そこには「棺あって槨なし」とある。
北部九州の「甕棺」や「箝式石棺」、あるいは「木棺直葬」などは、「棺あって槨なし」の記述に合致する。
ホケノ山古墳からは、木槨が出土している。これは『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致しない。ホケノ山古墳の、槨のある墓制は、時代的に、邪馬台国よりものちの時代の墓制ではないか。

庄内3式期といわれるホケノ山古墳の「木槨」をとりあげる。
まず、下の図と下の写真をご覧いただきたい。424-01


424-02

この図と写真のホケノ山古墳の「木槨」は、『魏志倭人伝』の記述にあわない。

奈良県立橿原考古学研究所編『ホケノ山古墳 調査概報』(学生社、2001年刊)によれば、ホケノ山古墳においては、「木槨(もっかく)木棺墓がみつかった」「木の枠で囲った部屋があり、その中心に木棺があった」「栗石積みの石囲いに覆われた木槨と木棺があった」という。
『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は「棺(かん)あって槨(かく)なし」と記されている。
ホケノ山古墳では、木槨の中に木棺があり、『魏志倭人伝』の記述にあわない。    

『三国志』の筆者は、葬制には関心をもっていた。つぎのように各国ごとに、いちいち書き分けている。(「倭人伝」以外は、棺のある記述になっていない。)

『韓伝』……「槨(外箱)ありて棺(内棺)なし。」

『夫余伝』……「厚葬(贅沢な埋葬)にして、槨ありて棺なし。」

『高句麗伝』……「厚く葬り、金銀財幣、送死に尽くす(葬式に使い果たす)。石を積みて封(塚)となし、松柏を列(なら)べ種(う)う。」(この記述は高句麗の積石塚とあう。) 

『東沃沮(とうよくそ)伝』……「大木の槨を作る。長さ十余丈。一頭(片方の端)を開きて戸を作る。新(あら)たに死するものは、皆これに埋め、わずかに形を覆(おお)わしむ(土で死体を隠す)。」「皮肉尽きれば、すなわち骨を取りて、槨中に置く。」

『倭人伝』……「棺あって槨なし。土を封じて冢(つか)を作る。喪(なきがら)を停(とど)むること十余日(もがりを行なう)。」

このように、倭人の葬制が「韓」「夫余」「高句麗」「東沃沮」のいずれとも異なっていることを記している。

日本で「もがり(死者を埋葬する前に、しばらく遺体を棺に納めて弔うこと)」が行なわれたことは、『古事記』『日本書紀』に記述がみえるし、沖永良部島では明治のころまで行なわれていた(斎藤忠『古典と考古学』学生社、1988年刊)
畿内のばあい、「木槨木棺墓(たとえばホケノ山古墳)」も「竪穴式(たてあなしき)石室墓(たとえば桜井茶臼山古墳)」も、時代のくだる「横穴式石室墓」も、一貫して『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわない。
邪馬台国がかりに畿内にあったとすれば、魏の使いはそれらの葬制を見聞きせずに記したのであろうか。
時代のくだった『隋書倭国伝』は、「死者を歛(おさ)めるに棺槨(かんかく)をもってする。」と記す。隋の使いが畿内に行ったことは、『日本書紀』に記されている。西暦600年ごろ、日本の墓には棺槨があったのだ。中国人の弁別記述は鋭い。

いっぽう、九州の福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、40面の鏡が出土している。平原遺跡では、土擴(墓穴)のなかに割竹形木棺(丸太を縦二つに割り、それぞれの内部をくりぬいて、一方を蓋(ふた)、一方を身とした木棺。断面は円形)が出土した。
平原遺跡の割竹形木棺は、幅1.1メートル、長さ3メートル。ここでは、「木の枠で囲った部屋」などはない。『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述に合致している。
平原遺跡の時期は、1998年度の調査で周溝から古式土師器(はじき)が出土し、また出土した瑪瑙(めのう)管玉、鉄器などから、「弥生終末から庄内式(時代)に限定される」(柳田康雄「平原王墓の性格」『東アジアの古代文化』大和書房、1999年春・99号)。これこそ、三世紀の邪馬台国時代に相当するといえよう。また、平原遺跡出土の仿製鏡の製作年代は、西暦200年ごろと考えられている(前原市文化財報告書の『平原遺跡』、[前原市教育委員会、2000年刊])。

北部九州で大量に発見される「甕棺(かめかん)墓」や「箱式石棺墓」なども一貫して、「棺あって槨なし」の記述に合致するといえよう
九州では、古墳時代初頭の土師器の出土した福岡県福岡市の那珂八幡古墳なども、割竹形木棺が直葬されていた。
九州でも時代が下り、竪穴式石室や横穴式石室が行なわれるようになると、「棺と槨」とがある状態となる。このことは、「棺と槨」とがある葬制は時代がやや下るのではないかという疑いをもたせる。

 

■中国の「槨」は棺の外箱である
以上述べてきたような疑問を、2008年6月22日の第270回「邪馬台国の会」に考古学者石野博信氏をお招きして、討論会「邪馬台国は畿内か九州か」を開いたさい、私は石野氏にぶつけてみた。
石野氏の答えは、つぎのようなものであった。
「『槨』ですけれども、ホケノ山を掘って橿原考古学研究所が木槨と発表したときに、講演会で会場からの質問がありました。『邪馬台国が大和でないことがこれで決まったのですか』という質問でした。
私はそのときにつぎのように答えました『魏志倭人伝』で『棺ありて槨なし』と書いているときの『槨』は漢墓を参考にしますと、学校の教室くらいの大きさがあります。部屋を三つも四つ連接しているものもあります(注:文献的根拠は? そのような史料にであったことがない。ほんとうなのか?思い付きではないのか?)。それを『木槨』と呼んでおります。魏に使いに行った倭人が倭の墓の構造を説明したか、倭に来た魏の使者が倭人の墓を見て、棺を囲む施設があっても、そんなものは『槨』ではないと思ったのではないか、と。
ホケノ山古墳の木槨は、2メートル70センチ×7メートルですから、そんなものは『槨』とは呼べない。だから『棺ありて槨なし』と言ったのではないか、と考えています。」(『季刊邪馬台国』100号、2008年刊)

石野氏にやや近い見解を、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏や、考古学者の萩原儀征(はぎはらよしゆき)氏も述べている。石野博信編『大和・纏向遺跡』(学生社、2005年刊)に、つぎのような座談会記録が載っている。出席者は石野氏のほか、寺沢薫、橋本輝彦、萩原儀征の三氏である。やや長い引用になるが、紹介してみたい。
「寺沢 卑弥呼の墓は『棺ありて槨なし』で考えるでしょう。
石野 そうそう。だから、ホケノ山古墳の石囲い木槨が新聞に載ったときに問い合わせがあった。『魏志倭人伝』では邪馬台国の葬法は『「棺ありて槨なし」だから、邪馬台国は大和じゃないということがわかったのですか』という質問でした。
寺沢 あの『棺ありて槨なし』の『槨なし』というのは、中国人的な目で見た槨がないということですね。
だから、卑弥呼が大和にいたという前提で物を言えば(注:前提にもとづく、ことばによる解釈)の、逆にホケノ山のものは『槨』じゃないのでしょうね(笑)。
石野 中国の槨は学校の教室かそれ以上の大きな部屋だからね
寺沢 ぼくは日本のこの時期の木槨というのは土留めだと思っているから(注:著名な考古学者の説?)。
橋本 『槨』という用語をわれわれが使ったから、一般の人が誤解しちゃったのかもしれないですね。
石野 竪穴式石槨なんて言うのも恥ずかしいよ。むしろ今の日本語だったら石室、木室でいいだろうと思う。
寺沢 でも中国でいう室は、あとで追葬可能な機能をもった構造の大きさですから、どちらかといえばやっぱりあれは槨なんでしょうね
萩原 二重木棺みたいなものですね
橋本 中国人が見るとちゃんちゃらおかしかった、ということなのでしょうけれどもね。」

2008年6月22日の「邪馬台国の会」では、時間切れで「槨」の問題について、それ以上、石野博信氏と討論できなかった。いつか石野氏とさらに議論を重ねる日がくればと願っている。
石野氏は「槨」を「学校の教室くらいの大きさがあります」「中国の槨は学校の教室かそれ以上の部屋」と述べている
しかし、そのような大きなものがあるとしても(注:本当にあるのか)、それは中国の「槨」の本質なのだろうか。

 

■『中国古典』の「槨」の記述
まず、『三国志』の範囲でみてみる。『三国志』の「文帝紀」に、つぎのような文がある。
棺槨(内棺と外棺)は、骨を朽ちさせ、衣衾(いきん)[衣服と褥(しとね)]は肉を朽ちさせるだけのもので充分と考える。」(世界古典文学全巣『三国志I』筑摩書房、1977年刊)
この文で『三国志I』の翻訳者は、「棺槨」を「内棺と外棺」と訳している。要するに「槨」は。「外棺」で、「大きな部屋」のようにはみえない

藤堂明保編の『学研漢和大字典』(学習研究社、1980年刊)にも、「椁(=槨)」は「うわひつぎ。棺を入れる外箱。外棺」とある。
(注:いづれも室ではない)

諸橋轍次編の『大漢和辞典』(大修館書店、1960年刊)でも、「ひつぎ。うわひつぎ。棺を納める外ばこ」とある。

(注:確実な魏の時代の墓で、発掘されて知られているものは、一例のみ)
『後漢書』の「孝明(こうめい)帝紀」(第二代明帝の紀)につぎのようにある。
「帝、初め寿陵(じゅりょう)(生前に建てておく墓)を作るや、制して水を流さしむるのみにして、石槨(せきかく)の広さは一丈二尺、長さは二丈五尺、墳を起つる得ること無からしむ。」
後漢時代の一尺は23センチほど。一丈は2.3メートルほどである。石槨の幅一丈二尺は2.8メートルほど、長さ二丈五尺は5.75メートルほどである。ホケノ山古墳の木槨、2.7メートル×7メートよりも小さい後漢の帝王の「槨」でも、学校の教室ほどはないようにみえる
(注:分かり易く書き直すと、明帝は2.8m(幅)×5.75m(長さ)=16.1m↑2
ホケノ山は2.7m(幅)×7m(長さ)=18.9m↑2)

中国の周の末から秦・漢時代の儒者の古代の礼についての説を集めた『礼記(らいき)』の「檀弓(だんぐう)編」の「上」にはつぎのようにある。
「天子の棺は四重。(中略)もっとも外側に柏(ひのき)の椁(槨)をかぶせる。これは柏の根もとの部分でつくり、槨の長さは六尺(約1.35メートル)である。」
「斉の国子高がいった。衣服が死者を包み、棺が衣服を収め、椁が棺を収め、墓土が椁を収める。」
ここでは、「棺が衣服を収める」のと同じように、「椁が棺を収める」ものであるといっている。長さ六尺(約1.35メートル)では、ホケノ山古墳の木槨、長さ7メートルほどよりも、かなり小さい。

さらに『晋書』の第三十三の、「王祥伝(おうしょうでん)」(二十四孝の一人。継母につかえて孝であったことでしられる)などでも、王祥は、子孫に遺訓をのこし、「槨は棺を容(い)るるを取れ(槨取容棺)」と述べている。「槨」は「棺」が、はいるていどのものを用いよ、と述べているのである。

■現代中国考古学者の「槨」の記述
現代の中国の考古学者も、槨を教室のように大きなものとは、考えていないようである。現代中国で出ている『文物』という雑誌の1973年、第2期に洛陽の、東関の地で出た後漢時代の墓についての報告がのっている。
そこに、出土した墓の「室」と「槨」と「棺」についての、下の資料のような記述がある。

424-03

これを、私なりに、日本語に訳したものを、下の資料に示しておく。

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資料『文物』記載の「資料1」の文章の日本語訳(傍線は、安本)

墓の中から三つが、ともに見いだされた。後の中から二つ、南耳(耳のようにつきでた室)から一つの計三つである。人骨とそれをおいた台は、すべて、すでに朽ちそこなわれていた。
後室の中の二つのは、南北にならべておかれていた。頭を西にし、足を東にしていた。南がわのの外にがあった。棺の壁と槨の壁とのあいだのへだたりは三センチほどであったはすでにくさりくずれて灰になっていた。のほうは、かえって、保存がよく、比較的安全といってよいほど、ととのっていた。ただ、の蓋(ふた)は、盗掘者によって、打ちこわされていた。は、長方形をしており、底部の中ほどが内むきにくぼんでいた。前後の両端は円い孤になっていた。角(かど)のところは、およそみな、内がわは円く、外がわは方形になっていた。槨の長さは2.6メートル、幅は1メートル、高さは0.5メートルであったの蓋(ふた)の厚さは2センチ。のつくりは、相当に堅くしっかりしており、きちんとしていた。槨と璧とをくっつけ縫ったあとは、見出すことはむずかしかった。この一つの遺体については、特別あつかいしているようにみえた。の外は、布でつつみ封じ、漆(うるし)の朱(あか)い絵がかかれていた。ただ、脱落がかなりはなはだしかった。えがかれている紋様や飾りは、はっきりしていない。重さは、一般の木槨にくらべ、軽いものであった。槨内の木は、すでに朽ちていた。ただ、(中の棺を守るべき)はかえって、このように久しくよくたもたれていた。が堅くしっかりしていることと、防腐性が比較的高かったことを示していた。これは、特種な材料を用いて加工し、作ったものであることを示していた。

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ここでは上の図のような墓の図が掲載されている。「室」と「槨」と「棺」とは区別され、「槨」については、つぎのように記されている。

槨の長さは、2.6メートル、幅1メートル、高さは0.5メートルであった
「棺の壁と槨の壁とのあいだのへだたりは、3センチメートルほどであった。」
このていどが、帝王でない人の墓の「槨」の大きさではないか。
これらにくらべれば、ホケノ山古墳の木槨は、十分立派な木槨のようにみえる。
ホケノ山古墳の木槨は、『魏志倭人伝』の記す「棺あって槨なし」の記述とあわない。
槨のあるホケノ山古墳は、時代的に、『魏志倭人伝』の時代、邪馬台国時代よりも後のもののようにみえる。
とすれば、ホケノ山古墳よりも、さらに新しいかとみられる箸墓古墳は、当然、ホケノ山古墳よりも時代が下るとみられる。(注:すなわち「槨」がある時代)

後漢の孝明帝などの中国「槨」と日本のホケノ山古墳の「槨」の大きさを比較すると下の表のようになる。
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日本の古墳の「槨」は後漢時代の中国の皇帝の「槨」の大きさとさほど変わらない。



ここで、桜井茶臼山古墳は、鏡の副葬枚数が全国で1番である。御間城姫の墓ではないかと思われ、崇神・垂仁天皇の時代的にと考えられる。

 

 

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桜井茶臼山古墳は石槨の長さが6.7メートルである。
石室の写真がある。

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桜井茶臼山古墳は、 纒向古墳群に属する古墳、または、その近くの古墳で、あるいは、纒向古墳群と関係があるとみられる古墳で、これまでに発掘された古墳からはことごとく、石槨(竪穴式石室)、または木槨が出土している。
これは、『魏志倭人伝』に記されている倭人の葬制の、「棺あって槨なし」とあわない。
纒向古墳群は、『魏志倭人伝』の記す国々とは、時代、あるいは、場所を異にするのではないか。おそらくは、時代も場所も異なっているのであろう。
また、これらの諸古墳は、崇神朝~景行朝と、おぼろげな関連がうかがわれる。
畿内の諸古墳の築造年代をくりあげていけば、その墓制には、棺と槨とがあり、『魏志倭人伝』の「棺あって槨なし」の記述にあわなくなる。諸古墳の年代をさげれば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」などは、なりたたなくなる。

奈良大学教授であった考古学者の水野正好(みずのまさよし)氏(邪馬台国畿内説)は、黒塚古墳の被葬者を崇神天皇の妃(みめ)大海媛(おおしあまひめ)などであろうとする。(『卑弥呼の鏡』毎日新聞社、1998年刊)。黒塚古墳のすぐ西、JR柳本駅に接して、「大海(おおかい)」の地名があるからである。

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・黒塚古墳、日葉酢媛陵古墳についての資料
大塚初重・小林三郎編『続日本古墳大辞典』(東京堂出版、2002年刊)
黒塚古墳 くろづかこふん
大和古墳群に含まれる古墳の一つで、奈良県天理市柳本町字クロツカにある。全長約130m、後円部径約72m、同高さ約11m、前方部高さ約6mの西面する前方後円墳である。1961~99年(昭和36~平成11)まで4次にわたる発掘調査が行われた。橿原考古学研究所・天理市教育委員会を主体とする大和古墳群調査委員会による97・98年(平成9 ・10)の調査では後円部の竪穴式石室が発掘調査された。
石室は墳丘主軸に直交して南北に設けられ、南北17m以上、東西15m以上の大規模な墓壙の西辺には、石室構築と付随する儀礼に関わる切り通し状の作業道が付属する。また、作業道の埋没後には、それと重複して石組み暗渠による排水溝が設けられる。竪穴式石室は下部を川原石、上部を大阪府柏原市に産出する芝山玄武岩・春日山安山岩板石小口積で構築し、内法長さ約8.3m、北端幅約1.3m、南端幅約0.9m、高さ1.7mを測る

大塚初重・小林三郎 他編『日本古墳大辞典』(東京堂出版、1989年刊)
日葉酢媛陵古墳 ひばすひめりょうこふん
奈良県奈良市山陵町御陵前にある前方後円墳。佐紀陵山古墳ともいう。佐紀盾列古墳群西群中の1基で、前方部を南に向けている。梅原末治の手許に残された1916年(大正5)の発掘復旧工事の際の記録によって、その概略を知ることができる。主軸全長206m, 後円部径130m、高さ18m、前方部幅89m、高さ12.3mを測る。墳丘は3段築成で、3区に区切られて水位を異にする周堀をめぐらせている。葺石と埴輪も存在がしられ、きぬがさ・盾・家形埴輪や鰭付円筒埴輪が出土している。後円部中央に、墳丘主軸に平行して、竪穴式石室が存在する。石室は内法長8.55m、幅1.09m、高さ1.48mを測り、東西の側壁は扁平な割石を小口積みにしているが、南北の側壁には2m以上板石を各1枚用い、底部にも切石を敷いた特異な構造のものである。

「槨」問題から言えることは、
「私の説(考え)はこうである」という「説」を出すまえに、「事実は、こうである」というデータを出さなくては。
とかく、考古学関係の方の議論は、ファクトチェックがゆるく、ある立場に立つ「解釈」になる傾向があるようにみえる。

2013年になくなった考古学者の森浩一氏は、つぎのようにのべている。
「僕は纒向遺跡で大型建物の跡が見つかった時、最初に頭に浮んだのは記紀が記録する初期ヤマト政権の三代にわたる大王の宮である。これから検討するのが学問の進め方の常道である。ところが卑弥呼の都説だけで報道し、まずやるべき検討がなおざりになされている。これは桜井市にとっては惜しいことである。」(「纒向を探究するさいの心構え」[『大美和』123号、2012年7月刊」、なお、森浩一のこの文章は、『季刊邪馬台国』117号、2013年4月号にも、転載されている。)

 

■箸墓古墳は、「竪穴式石槨」をもっている?
2012年9月12日(水)夕刊の大阪本社版の『朝日新聞』夕刊に、箸墓古墳についての記事がのっている。
内容は、朝日新聞が情報公開請求で、宮内庁から入手した資料で明らかになった古墳の構造についてのものである。
その記事のなかで興味をひくのは、下の図に示したものである。これは、「宮内庁の公開資料を元に作製」された「箸墓古墳後円部頂の想像図(イメージ)」である。

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この図のどこが、興味をひくか。
それは、古墳の埋納部が、「竪穴式石室」のなかに、棺が納められている形に描かれている点である。
「竪穴式石室」は、考古学者によっては、「竪穴式石槨」ともよばれる。たとえば、岡山大学の教授であった考古学者の近藤義郎(こんどうよしろう)の編集した『前方後円墳集成』(山川出版社刊)では、「竪穴式石室」のことは、すべて、「竪穴式石槨」と記されている。
『魏志倭人伝』は、倭人の葬制を記し、「棺あって槨なし」とある。
箸墓古墳に、「石槨」があったのでは、『魏志倭人伝』に記されている「棺あって槨なし」にあわない
一部の人がいうような、「箸墓古墳=卑弥呼の墓説」は、成立しないことになる。
箸墓古墳は、邪馬台国のものとは、時代、または場所が異なるのではないか。あるいは時代も、場所も異なるのではないか。

もちろん、箸墓古墳は、現在、発掘されていない。上の図は、あくまで、「想像図」にとどまるものであろう。

しかし、この記事のなかにも、「竪穴式石室が盗掘された時に転落した石材だろう」などの文がある。
上の図を作成した人は、宮内庁の公開資料をもとにするとき、「竪穴式石槨」を考えるのが妥当であると考えて、上の図を描いたとみられる。
この記事に関連した記事は、東京本社版にものっていた。しかし、そこには、上の図はのっていない。「卑弥呼説の古墳、石覆う」という見出しで、「卑弥呼説」をやや強調するものとなっていた
箸墓古墳は、「竪穴式石槨」をもったものと考えるのが、妥当だとみられる根拠がある。
というのは、箸墓古墳となんらかの関連がうかがえる古墳で、これまでに発掘された古墳は、ことごとく、「石槨(竪穴式石室)」、または「木槨」をもっているからである。

・ホケノ山古墳は4世紀中の時代である。
【炭素14年代推定法による推定】2008年に奈良県立橿原考古学研究所編集発行の研究成果報告書『ホケノ山古墳の研究』が出ている。その中に、ホケノ山古墳の木槨から出土した「およそ12年輪の小枝」試料二点についての炭素14年代測定法による測定結果がのっている。そこでは、「小枝については古木効果(年代が古く出る効果)が低いと考えられるため有効であろうと考えられる」と記されている。
測定は、自然科学分析専門の株式会社パレオ・ラボによって行なわれている。
そこで、私(安本)は、この報告書にのっている数値にもとづき、二点の小枝試料の炭素14年代BP(最終の西暦年にもとづく年代推定値を算出する途中段階の年代値)について、単位時間に計数されるカウント数にもとづく加重平均を算出し、それを、同じくパレオ・ラボに依頼し、最終の西暦年数推定値の分布の中央値(中位数、メディアン)を算出してもらった。(加重平均を算出したのは、年代推定の誤差の幅を小さくするためと、数値を一本化して話を簡明化するためである。)
中央値は、西暦364年であった


・前方後円墳は時代が後になるに従って、後円部の大きさに比べて前方部が大きくなる。
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下の図から、箸墓古墳は崇神天皇陵古墳より前方部が発達していて、新しいことが分かる。

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これを全体に示すと下の図のようになる。
(下図はクリックすると大きくなります)424-13

 

ローマ数字は円筒埴輪の時代変化を示したもので、
Ⅰ式は古く、Ⅴ式は新しい、これによって天皇陵は発掘できなくても。円筒埴輪から時代が推定できる。
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日本の古墳の「槨」は後漢時代の中国の皇帝の「槨」の大きさとさほど変わらない。

 

 

 


これをプロットすると下図のようになる。

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これは、崇神天皇、垂仁天皇の時代である。記紀の系図で示すと下記となる。
(下図はクリックすると大きくなります)424-16

 

徳島大学の教授であった考古学者の東潮(あずまうしお)氏は、その著『邪馬台国の考古学』(角川学芸出版、2012年刊)の中で、「(倭の)棺はあるが槨はない」についてふれ、つぎのようにのべる。

「東夷伝の棺槨の構造、陳寿の認識はさまざまで、墓葬観念にもちがいがある。したがって棺槨の有無などの表現は絶対的なものではない。」
自説にあうものは極力協調し、あわないものは、簡単に無視、または軽視する典型的な論法である。
東潮氏は、陳寿がこまかく、書きわけている墓制のちがいなどの記述を簡単に一蹴する。しかし、東潮氏のように、畿内の諸古墳などの年代をくりあげていけば、その墓制には、棺・槨があり、『魏志倭人伝』の記述にあわなくなるのは、あきらかである。

2.邪馬台国問題は、なぜ解けないか

病根の所在

「邪馬台国論争」は、いま、いかなる状況にあるのか。それを考えてみよう。

「情報」というものの一般的性質について、考えてみる。ひとつの例として、下のような簡単な連立方程式を考える。
x+y=3
3x-y=1

この連立方程式を解けば、もちろん、x=1で、y=2である。
ここで、この連立方程式は、なぜ、解けたのであろうか。それは、解をうるために十分なだけの「情報」が与えられていたからである。すなわち、xとyとの二つの値をうるために、二つの式が与えられていたからである。
では「情報」が十分に与えられていないばあいは、どうなるであろうか。たとえば、下のように、たった一つの式しか与えられていないばあいは、どうなるであろうか。
x+y=1

このばあいは、もちろん、解は「不定」となる。x=1、y=0もまた、与えられた式を満足ずるという意味で、「正解」であり、x=0、y=1もまた、与えられた式を満足するという意味で「正解」である。
ここから、「情報」というものは、一般に、つぎの性質をもっていることがうかがわれよう。

(1)十分な情報が与えられているばあいは、解は、一意的に定まる。

(2)情報が不足しているばあいは、解は、「不定」となる。すなわち、無数の「正解」が存在しうることになる。問題が解けない「不能」になるのではなく、「不定」となるのである。

(3)情報がまったく与えられていないばあいは、問題そのものが成立しない。

「邪馬台国論争」はつぎのどの状況にあるのであろうか。
(A)情報が決定的に不足していて、問題そのものが成立しない。

(B)情報が不足しており、解は「不定」となる。すなわち、無数の「正解」が存在しうる。(それにもって行く)

(C)情報は解をうるために十分に与えられているのであるが、どの解も、どこか矛盾を生じ、解くことは「不能」な状況にある。このばあいは、「解けないこと」「不能であること」じたいが、証明されなければならない。
そのような証明が、きちんと行われた例はない。

(D)問題は、例えば「邪馬台国は北部九州に存在した」という形ですでに解けているのであるが、解くのに、数学などを用いているので、数学という言語を、忌避する人たちには、うけいれられない。あるいは「邪馬台国は畿内にあった」という前提にたつ人たちにはうけいれられない。

以上のようなことを、よく検討しておかないと、すでに解けているものが解けていないことにされたり、解けていないものが解けていることにされたりすることになる。議論が混乱する。

邪馬台国問題は、「解けない」問題ではなく、なにが「解けた」という状況をさすのか、それをわかっていただかなければならない状況にあるようにみえる。

すなわち、私は邪馬台国論争は、先に述べた(D)の状況にあると考える。

考古学関係の方は、すでに、「棺あって槨なし」問題でみたように、文献的事実は、それが事実であっても、言葉による記述は言葉による「解釈」しだいで、なんとでもなるとする方が多い。つまり、「文献軽視」の傾向が強い。文献的記述との矛盾を「解釈」によって矛盾としない傾向がかなり強い。

しかし、邪馬台国問題は、もともと文献における記述から出発している。文献記述と、矛盾する理論や学説よりも、文献記述とも矛盾しない理論や学説のほうがよりよいことはあきらかである。
文献記述との矛盾をみとめないことにすると、制約条件がすくなくなり、「正解」の範囲がひろがる。「論点先取」的議論(さきに答えをきめておいて主張される議論)でも成立しうることとなる。
学説(仮説)というものは、いくつかのチェックポイント(関所)を通り抜けることによって確実性が高まる。
関所を簡単に通り抜けることができるようにすれば、思いこみに基づく説であっても成立しうることとなる。
これも正解、あれも正解、あとは宣伝合戦ということになる。
すると、考古学のように、それで生計をたてている人が多い方が、有利ということになる。
なぜ、このような状況となったのか、
それを、以下で考えてみよう。

日本の考古学は、独自な傾向を発達させ、世界基準の考古学とかけはなれている。世界基準の考古学は、ギリシャ・ローマの考古学や『聖書』の考古学が母体となっている。その考古学は神話・伝承といったものにみちびかれたものであった。しかし、日本の考古学では神話・伝承を排除する傾向が強い。
考古栄えて記紀滅ぶ。

一連の問題を考えるにあたって、まず検討しなければならないことは、「世界基準の考古学、文献学、そして歴史学」と、「わが国で現在、かなり発言力をもつ一群の学者、研究者の主張する考古学、文献学、そして歴史学」とは、その意味内容に、かなり大きなへだたりがあり、ほとんど異質のものといってよいほどのものであることである。そこには、「地動説」と「天動説」との対立に近い、といってもよいほどの対立がみられる。
とくに、日本の考古学は、世界基準の考古学との乖離(かいり)がいちじるしい。

日本考古学は、独自で特異な傾向を発達させ、世界基準の考古学とは異質のもので、孤立したものとなっている。
すなわち、つぎのような傾向である。

(A)文献資料を用いない。『魏志倭人伝』はわが国の古代のことを記した文献である。わが国には、わが国の古代のことを記した文献として、『古事記』『日本書紀』をはじめとする諸文献がある。
当然、『魏志倭人伝』を理解するためには『古事記』『日本書紀』などを参照してよさそうなものである。しかし、これらの文献を用いるのは、ほとんどタブーのようにさえなっている。
これらの文献の記述は、信用できないものである、とする。

いっぽう、現在の世界で基準となっている「考古学」は、ギリシャ、ローマの考古学や、『聖書』の考古学などが母体となったものである。その考古学は、神話、伝承といったものにみちびかれて成立したものであった。このことを忘れてはならない。

(B)総合の論理と方法とを発展させていない。(A)で、のべたこととも関係するが、「歴史」を復元するには、文献学、考古学、言語学、民俗学などによる諸成果を組みあわせ、相互にチェックし、「総合」する必要がある。とくに、「文献学」と「考古学」とは、「歴史」を復元させるための、大きな両輪である。
ところが、日本考古学には唯我独尊的な傾向があり、「文献」を用いようとしないので、そのような「総合的考察」が、行われない。
考古学だけで、「歴史」を復元するのは、もともと無理がある。

また、考古学の分野の中でも、個々の遺物や遺跡を、できるだけ詳細に記述する「記述考古学」や出土品などの目録をつくる「目録考古学」の傾向が強い。
現代の統計学は、データにもとづく総合的判断をもたらすもので、科学的諸分野の共通言語をとも言えるものである。しかし、考古学の分野では、基礎的な統計学の教育が行われるという伝統もない。

考古学者の細谷葵(ほそやあおい)氏(女性。1967~2019)は、お茶の水女子大学の特任准教授をされていた方で、若くしてなくなられた。

細谷葵氏は、外国留学の経験のある方で。1966年当時、ケンブリッジ大学留学中に、『理論なき考古学-日本考古学を理解するために』という報告文を発表されている。
この報告文は、1997年に、岡山大学名誉教授の考古学者の。新納泉(にいろいずみ)氏がインターネットで紹介されている。容易に見ることができる。
細谷葵氏はこの報告文において、「日本考古学における『理論』の欠如」を指摘し、「提示されているものは、説明も議論も伴わないバラバラのデータの山積み」で、これは「日本考古学の独特のあり方」であり、欧米と日本とが、「根本的に異なる原理において進められているということ」を指摘しておられる。
細谷葵氏は、さらにつぎのように述べる。
「遺物全体の傾向を読み、データを『まとめて』いこうとする欧米的な研究法とは全く性質を異にする。」

(C)属人主義的傾向が強い
考古学だけでは、確実に言えることはすくない。
遺物や遺跡などの資料に基づいて何らかの結論を出すばあいに、遺跡や遺物の、たとえば統計学的分析にもとづいて、客観的に結論を出すのではなく、社会的な地位をもつ「偉い」学者などによる「判断」や「説」にもとづいているばあいが多い。ある説の根拠をたずねて行くと、結局は、他のだれかの「説」であることが多い。考古学や文献学のデータの分析から得られる結果そのものではないことが多い。
「判断」や「説」には、「主観」がはいっていることがあり、かならずしも、客観的に確実とはいえない。
たんなる「思いつき」のような「意見」「解釈」であることもすくなくない。
個人を信用する度合いが強いから、「神の手」などにもとづく旧石器捏造事件はおきた。
考古学学者の中には、「考古学的にはこれが正しいのです」というような表現で、自説を強く主張する人がすくなくない。それは、しばしば唯我独尊傾向にもとづく「ひとりよがり」になっている。
考古学ほど、大きな失敗を重ねている学問分野は他にすくないことを反省すべきである。
まず(A)の、古文献を用いることをタブーとする傾向について検討する。
「歴史」は、基本的に「言語」である。

猫は、観察力や記憶力などを持っていても、「歴史」を知ることはできない。百年前のことを知ることはできない。
猫は「言語」をもっていないからである。
人間が、「歴史」を知ることができるのは、「歴史」は基本的に「言語」であるからである。

英語で、「ヒストリイ(history)」といえば、まず、「歴史」のことである。ただ、英語の「ヒストリィ」は、「物語」という意味ももっている。フランス語で、英語の「ヒストリイ」と語源を等しくすることばは「イストワール(histoire)」である。フランス語の「イストワール」は、おもに、「物語」という意味である。これらの言葉は、ギリシヤ語やラテン語の「ヒストリア(historia)」からきている。
「ヒストリア」には、「歴史」の意味も、「物語」の意味もあった。
ドイツ語でも、「ゲシヒテ(Geschichte)ということばは、「歴史」という意味でもあり、「物語」という意味でもある。
「歴史」は、きちんとした根拠にもとづき、物語としでの統一性をもっていなければならない。

言語情報を排して、「歴史」は成立しえない。出来事や遺物を、年代という時間の軸の上にならべることによって、「歴史」も、「物語」も成立する。
たとえ、神話・伝説といえども、古代を復元するためのヒントとなる情報が含まれていないか、検討をしてみる必要がある。これは頭から神話・伝説を信じることと同じではない。
神話・伝承のなかに、検討すべき仮説をさぐるのである。

世界基準の考古学
たとえば、『世界考古学事典 上』(平凡社)で、「シュリーマン」の項を引くと、つぎのように記されている。
「(シュリーマンは、)ホロメスの世界は虚構ではなく、実在したことを明らかにした。彼の研究が契機となって、それまで別々の学問とされていた先史学と古典考古学とは、考古学という一つの学問体系に統一される機運が生じた。」

シュリーマンは、神話伝説で語られてきた古代ギリシャ文明が、考古学の対象となりうるものであることを示した。
世界基準の「考古学」を知るために、まず、三人の、西洋史学者、西洋人史学者の見解を紹介しておこう。

(1)村田数之亮(かずのすけ)氏の見解
シュリーマン著の『古代への情熱--シュリーマン自伝--』(岩波書店、1954年刊)の訳者であり、『沈黙の世界史3 ギリシア 英雄伝説を掘る』(新潮社、1969年刊)の著者であり、C・W・ツェーラムの名著『神・墓・学者』(中央公論社、1962年刊)の訳者であり、エーゲ文明の研究者であった村田数之亮(かずのすけ)氏は、かつて、私が拙著を贈呈したさいに、お手紙を下さった。そのなかで、つぎのようにのべておられる。

「なぜ、わが国では、伝承がすべて虚構だとしりぞけられるのかと、ギリシアのばあいとくらべて、その拒否反応というか潔癖というか、そんなものの強さが、私には異常なような気がしております。ギリシアのばあいとは、伝承の成立が異なるにしてもなぜ伝承のなかになにか真なるものを探ろうとする態度が認められないのかと、日ごろ感じておりました。」
村田数之亮氏は、その著『英雄伝説を掘る』の中で記している。
「伝説(伝承)というものには、なんらかの真実があることを、つまり、伝説にたいする正しい態度を後世に教えた点にこそシュリーマンの直観の意義を認めたいのである。」

(2)サンソム卿の見解
イギリスの外交官で、長く日本に滞在し日本研究家となり、アメリカのコロンビア大学やスタンフォード大学の教授となった人に、サンソムという人がいる。
この人の著書に、『日本史(A History of Japan)』という本がある。
東京大学の教授であった日本史家の坂本太郎氏は、「『サンソム卿の日本史』第一巻を読んで」(坂本太郎著作集第十一巻『歴史と人物』〔吉川弘文館、1989年刊〕373ページ以下)という文章で、サンソムの『日本史』第一巻の、要領のよい紹介をしておられる。つぎのようなものである。

「かつて英国の駐日商務参事官として永らく日本に在留し、いまはアメリカのスタンフォード大学にいられるジョージ・サンソム卿が畢生の著述として、『日本史』三巻を計画し、その第一巻を出版されたことは、かねて聞き及んでいたが、このたびその書物を読む機会に恵まれた。
サンソム卿は、サトウ、アストンなどと続く英国における日本学の伝統をうけついだ真摯な学者で、世界史的な見地から日本の歴史、文化を論ぜられた著書はすでに幾つか公にされており、全世界に令名の高い日本学者である。いま、『日本史』第一巻を読んで、日本に対する理解の深さ、比較史的な視野の広さ、対象把握の的確さに、感嘆の思を深くしたが、わけても私の感銘の禁じ得なかったものが一つある。それは、戦後の新しい日本の歴史叙述、歴史認識に対する鋭い警告と考えられる数々の叙述をしていることである。以下、その二、三の例をあげよう。
周知のように、戦後のわが史学界は、古代史の叙述において、神経質に過ぎるくらい、神話・伝説を排除し、考古学の成果ばかりに依存して、古代史の骨格を作り上げた。科学主義に徹するとき、一応このような立場は支持されようが、しかし考古学だけで歴史は成り立たない。しいていえば、歴史の骸骨はできるかもしれない。けれど、血肉の通った歴史は生れてこない。神話・伝説を毛ぎらいした歴史は、まさに角をためて牛を殺した愚者のたとえにぴったりだと、私は思っていたのである。」

神武東征、日本武尊の遠征などの物語は、こまかに委曲を叙述して、それが歴史事実の反映であることをみとめる。九州にあつた邪馬台国の勢力が東に進んで、畿内の大和の勢力となった。その東遷の事実が、神武天皇東征の物語となって伝えられたというのである。神代の物語も、『国民、その風俗、信仰』の条で、こまかに取り上げられ、日本歴史を動かした基底の力がそこにあることに注意する。要するに、神話・伝説はおちなく紹介され、合理的に解釈せられて古代史の初めを飾っているのである。」

このように、サンソム卿は、邪馬台国東遷説の立場をとり、神武東征の時期が、邪馬台国の時代のあとであるとするのである
なお、坂本太郎氏は、東大の史料編纂所の所長をされた方である。わが国において、『古事記』『日本書紀』をはじめとする古文献・諸史料に、もっとも広く、かつ深く目を通された方の一人といってよい。

(3)林健太郎氏の見解
西洋史学者で、東京大学の学長もされた林健太郎教授は、その著『歴史と体験』(文藝春秋社、1974年刊)の中で、拙著の『神武東遷 数理文献学的アプローチ』(中央公論社、中公新書、1968年刊)をとりあげ、その方法論の大略を紹介されたのち、つぎのように述べておられる。
「私もこれが今日の史料学の正しいあり方であると思う。かつての史料学の素朴実証主義は正に『樹を見て森を見ない』危険性を包蔵しているのである。」
素朴実証主義的文献批判学は、かつて、十九世紀に、西欧において盛んであった文献学である。

わが国において、素朴実証主義的文献批判学の立場をとった学者の代表的人物が、早稲田大学の教授などであった津田左右吉(つだそうきち)氏(1873~1961年)である。
林健太郎氏は、学園紛争はなやかなりしころ、学生との長時間の団交にあたり、また、自民党の参議院議員などもされたので、右翼的なイメージの強い方である。しかし、もともとは、唯物史観の立場から研究をはじめた方である。第二次大戦後も、しばらくは、左翼的な立場にたっていた方である。左翼思想にも、理解のある方で、また、西洋史学が専門で、その動向に、深い学識をもつ方である。その一端は、「林健太郎氏は語る 戦後日本史学の問題点」(『季刊邪馬台国』21号、1984年刊)と題する対談で、うかがうことができる。
林健太郎氏は、この対談のなかで、シュリーマンのトロヤの発掘、エバンスのクレタ島のクノッソスの発掘、『聖書』と考古学との関係などを、ややくわしく紹介しておられる。
そして、林健太郎氏はのべる。
「戦前津田史学に対しても批判的な見解がありましたし、別の角度からの研究もありました。しかしそれが、敗戦後極端なもとの素朴実証主義へ逆もどりした。」
村田数之亮氏、林健太郎氏の二人の西洋史学者は、戦後日本の史学のあり方を、「異常」で、「極端」と述べているのである。

424-17

「考古栄えて記紀滅ぶ」ということばがある。
極端な見解でも、多数意見になると、それが自然な見解のように見えてしまうものである。しかし、「旧石器捏造(ねつぞう)事件」などは、日本考古学が、「みんなで間違える」体質をもっていることを、極端な形で示している。
ただ、考古学者でも、同志社大学の教授であった森浩一氏は、のべている。

「後藤(守一)先生は「三種の神器の考古学的検討」という論文を雑誌『アントロポス』に発表し、翌年には『日本古代史の考古学的検討』(山岡書店)という冊子風の単行本にその論文を収めた。先生の知識の豊かなことや自由な発想に、当時十八歳の僕は驚嘆した。もちろん先生の勇気にも感心した。
僕は考古学だけでは歴史にせまれないことを、この本によってさらに痛感した。神話をも含め『古事記』や『日本書紀』からも信頼できる文献資料を見いだし、考古学資料と総合した時に初めて本当の歴史は描ける。」(『森浩一の考古交友録』朝日新聞社、2013年刊、137ページ)
424-18


注:森浩一(1928~2013)は昭和後期-平成時代の考古学者。昭和3年7月17日生まれ。23年同志社大在学中に学生考古学研究会(のち古代学研究会)を設立し、翌年雑誌「古代学研究」を創刊。47年同志社大教授。考古学と歴史学をむすびつける古代学の確立をめざす。大阪出身。著作に。「古墳の発掘」「巨大古墳の世紀」「考古学と古代日本」、編著に「日本の古代」など。


私は、森浩一を、全体をよく見る幅の広い考古学者であったと思う。
私は、神話・伝説を信じましょう、とのべているのではない。
神話、伝承は、古代史解明の重要な手がかり、古代史の大すじについての重要な「仮説」をもたらす宝庫であることをのべているのである。
神話・伝承は、史実が核になっていることがある。神話・伝承にもとづいて「仮説」をたて、そこに史実の核が含まれているか否かを、「検証」して行きましょう、とのべているのである。
シュリーマンは、「発掘」によって、神話・伝説のなかの「史実」を「検出」した。「検出」の方法は、「発掘」以外にも、さまざまなものがある。中国の文献や資料(墓誌など)に記されている年代、統計学的推定論(確率論にもとづくもの)、鏡の銅にふくまれている鉛の同位体比分析、・・・・など。それらによって、「史実」を「検出」して行きましょう、とのべているのである。

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