・邪馬台国はどのようなところであったのか。
文献学、考古学、地名学、データサイエンスなどによる探究の結果を総合し、「歴史」を復元する。
「卑弥呼」と「天照大御神」とが、対応するとすれば、
卑弥呼…………………卑弥呼のいた場所=邪馬台国
↓ ↓ ↓
天照大御神………天照大御神のいた場所=高天の原(たかまのはら)
かくて、私たちは、『古事記』『日本書紀』に記されている「高天の原伝承」という形で、「邪馬台国」についての多量の神話・伝承的諸情報を得ることができることとなる。
「高天の原はどこか」についても、長い論争の歴史がある。それらについては、拙著『高天の原(たかまのはら)の謎-日本神話と邪馬台国』(講談社現代新書)、『邪馬台国と高天の原伝承』などをご参照いただきたい。
「高天の原はどこか」論争において、とくに有力であったのは、それを北部九州とする説であった。
■「狭田(さだ)」「長田(ながた)」について
下の表にある「狭田(さだ)」「長田(ながた)」とを、とりあげよう。
『日本書紀』にある。天照大神(あまてらすおほみかみ)の「御田(みた)」[所有する田。御料地(ごりょうち)]の名として、「狭田」「長田」とをそれぞれ二回ずつ記す。
(下図はクリックすると大きくなります)
このうち「狭田」については、下の地図の中央から少し左の上部に見られるように「佐田」の地があり、近くを「佐田川」が流れている。
また「長田」については、上の地図の左、八幡宮の上のところに朝倉市山田の字(あざ)「長田」が記されている。この長田の地には、「長田大塚古墳」がある。
地元朝倉市の邪馬台国研究家の井上悦文(よしふみ)氏はこの「長田大塚古墳」を卑弥呼すなわち天照大神の墓である可能性をのべておられる(井上悦文著『卑弥呼の墓は、朝倉の山田にある!』、オフィス201、2024年刊)。
この井上悦文氏の考えには、ある程度の根拠があるとみられる。次のようなものである。
(1)「長田」の地は、第37代の女帝、斉明天皇の宮殿や、陵があったとみられる地のすぐ近くである。斉明天皇が、この地に宮殿をもうけたのは、あるいは、当時、古い時代の天照大神のゆかりの地であるという伝承がなお存在していたためではないか。
注:斉明天皇(さいめいてんのう)
594~661(推古2~斉明7)。第35代皇極天皇(在位642~645)、第37代斉明天皇(在位655~661)。敏達天皇の孫の茅渟王の王女。母は吉備姫王。名は天豊財重日足姫尊、諱は宝。はじめ高向王の室となって漢皇子を生み、のち舒明天皇の皇后となって中大兄皇子(天智天皇)・大海人皇子(天武天皇)を生んだ。舒明天皇死後、即位(皇極天皇)。小墾田宮(おわりだのみや)に住み、のちに飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)に移った。当時蘇我氏の権力は強大をきわめていたが, 645(大化1)中大兄皇子らにより滅ぼされると、翌々日、皇位を軽皇子(孝徳天皇)に譲った。孝徳天皇死後、重祚して斉明天皇となる。皇居は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)。改新後対外問題の困難な時であり、658 ~660( 斉明4~6)阿倍比羅夫を蝦夷征討に派遣するなどして活躍したが、 661百済救の軍を率いて九州朝倉宮に駐留。ここで病死。陵墓は奈良県高市郡越智崗上陵。
(2)この地はまた、「山田」の地である。「山田」は、「邪馬台国」の遺存名ではないか。
「長田大塚古墳」を発掘する動きもあるようなので期待したい。
ただ、「長田大塚古墳」についてはつぎのようなことに留意すべきであるように思える。
(1)「長田大塚古墳」の地からは、葺石(ふきいし)とみられるものが出土している。したがって、これは自然丘ではなく、墳墓とみてよいであろう。
(2)九州の弥生時代の墓とみられるものから、葺石が出土しているものをあまり聞かない。「長田大塚古墳」は、弥生時代の築造物ではなく、卑弥呼の時代よりも百年程度あとの古墳時代の築造物である可能性もある。
(3)ただ、たとえば、もともとこの地に卑弥呼の墓が存在し、その上にのちの時代に古墳が築造された可能性や、この墳墓が、のちの古墳時代の古墳の先駆をなすものである可能性なども考えられよう。
慎重な調査が必要である。
・『魏志倭人伝』に「棺あって槨なし」とある。
頂上からまっすぐ井戸堀り式に掘って、
(a)「竪穴式石室(石槨)」が出てくれば、それは四世紀の墓である。
(b)「箱式石棺」または「木棺」が出てくれば、三世紀邪馬台国時代の墓である可能性が大きい。
■「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」
第385回(2020.1.26)「邪馬台国の会」参照、
上の方の地図「朝倉市南東部の史跡」を、今一度ご覧いただきたい。地図の右下のすみには。「ダンワラ古墳」と記されている。
大分県の日田市の市役所の近くである。
この「ダンワラ古墳」については、大塚初重・小林三郎他編の『日本古墳大辞典』(東京堂出版刊)に下記のように記されている。
注:ダンワラ古墳
大分県日田市大字日高字東寺、ダンワラと通称する日田盆地南部の丘陵の西裾にあったという。1933年(昭和8)国鉄久大線の敷設工事に伴って発見されたと伝えるこの古墳の実態は現在不詳であるが、工事に際して採集された鏡は、金銀錯の手法で虺龍文等を表現し、随所に珠玉を嵌入した鉄鏡で、本邦唯一の出土例として著名である。同時に鉄刀・轡等が出土したとも伝える。ほかに伝日田市刃連町出土と称する金銀錯鉄帯鉤も共伴遺物とみられている。〔文献〕梅原末治「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」国華853、1963。
この「ダンワラ古墳」からは「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」という鉄の鏡が出土したといわれている。
「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、金線・銀線の鍍金(めっき)や象嵌があり、赤や青や白の珠(たま)の嵌(は)めこまれた優美華麗な鏡である。
2019年9月6日(金)の『朝日新聞』朝刊に、この鏡に関する記事が載っている。
「古代中国の鏡? なぜ大分に」と題するもので、中国の三国時代の魏の曹操の墓から出土した鏡とこの「ダンワラ古墳」から出土したと言われる鏡とがきわめてよく似ているというものである。『朝日新聞』の記事の中に、次のような文がある。
「2008年に曹操の墓と確認された『曹操高陵』から出土した鉄鏡について、河南省文物考古研究院の潘偉斌(はんいひん)研究員が発言。『画像でみる限り、文様も装飾も日本の大分県日田市から出土したという鏡に酷似している。直径も21センチでほぼ同じ大きさだ』と興奮気味に語った。」
この鏡について大手前(おおてまえ)大学の教授であった。上垣外(かみがいと)憲一氏は、その著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)の中でのべている。
「私が写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物はこのようなものだったに違いないと思った遺物がただ一つある。」
「それが大分県日田のダンワラ古墳出土と伝えられる『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』である。」
「纏向遺跡付近から、あれほど丁寧な発掘作業を行われているのに、魏国の製造と特定できる鏡は附近の古墳を含めて一つも出土していない。仮に、纏向古墳群の一つ、つまり卑弥呼の没年に近いと思われる、纏向石塚、ホケノ山等の古墳から、このような後漢末の製作かと思われる豪華絢爛たる鏡が出ていれば、私もかなり邪馬台国奈良説に傾くだろう。」
「この『鉄鏡』は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。
つまり、この種の金銀錯鉄鏡は、まさしく邪馬台国の時代、中国の魏と西晋の時期に、中国北方に流行したものなのである。
ダンワラ古墳出土の『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡』が、魏あるいは西晋から、卑弥呼あるいは台与に贈られた可能性は、充分にあり得ることだと、私は思う。」
奈良県の纏向あたりから出土すれば、ほとんど間違いなく邪馬台国はここだということになりそうなものが、すでに福岡県の平塚川添遺跡(少し下の朝倉市における邪馬台国時代の諸遺物の地図参照)に示す地域からは、出土しているのである。
■曹操の没年
曹操は魏の国の、実質的な建国者である。
ただ、曹操は最後まで皇帝にはならなかった。形式上は、後漢の最後の皇帝で、ほとんど名ばかりの皇帝となっていた献帝の臣下として没した。
『三国志』の「魏書」の帝紀によれば、曹操は西暦220年に当たる年の正月に死没した。
同じ年、220年の10月に曹操の長男の曹丕は、後漢の献帝から、帝位を譲り受け、魏の国の初代の皇帝の文帝となった。曹丕は、父の曹操に、武帝の名をおくった。
したがって、曹操の墓は、西暦220年前後に築造されたとみられる。曹操の墓から出土した鉄鏡は後漢の末か、魏の時代のはじめごろに鋳造されたとみられる。
曹操墓出土の鉄鏡と酷似するとされる日田市のダンワラ古墳出土といわれる鉄鏡も、そのころの鋳造物とみられる。卑弥呼、または台与に、魏から与えられたものとみても、年代はあう。
『三国志』の「文帝紀」によれば、魏の第1代皇帝の文帝曹丕は、222年に、盗掘されることをさけるために、陵墓がめだたないようにすることを命じた。
曹丕はいう。
「代が変わった後には、その場所を判らなくさせたいと考える。」
「金銀銅鉄を貯蔵させてはならない。」
「(盗掘という)災難は厚葬と土盛り、植樹に原因がある。」
もし、この曹丕の命令が守られたとすれば、鉄鏡を蔵している曹操高陵は、西暦222年よりまえに築造されたということになるだろう。
この文帝曹丕の下した「薄葬令(はくそうれい)」のためであろうか。確実に魏の時代のものといえる墓、遺跡、出土物はきわめてすくない。
中国の秦・漢時代から南北朝時代までの、洛陽付近での考古学的発掘の、報告書類を集大成したものとして、『洛陽考古集成-秦漢魏晋南北朝巻-』(上・下二巻、中国・北京図書館出版社、2007年刊)が発行されている。
また、洛陽付近から出土した鏡をまとめた図録に、『洛鏡銅華』(上・下二冊、中国・科学出版社、2013年刊)がある。この『洛鏡銅華』は、『洛陽銅鏡』と題名を変更して、日本語訳も出ている(岡村秀典監訳、科学出版社東京、2016年刊)。
この『洛陽考古集成』と『洛鏡銅華』とにより、前者で、確実に「前漢墓」「新墓」「後漢墓」「魏墓」「西晋墓」とされているもの、または後者で確実に、「前漢時代」「後漢時代」「魏時代」「西晋時代」の青銅鏡として写真にのっている鏡の数を数えると下の表のようになる。
「魏時代」の存続期間が比較的短かったことを考慮にいれても、「魏時代」の墓や鏡の出土数がすくないことがわかる。魏の国の存続期間の三分一以下の新の国(元帝皇后の弟の子、王莽)でさえ、魏の時代よりも多くの出土数をみている。このことから魏の時代の遺物の出土数が一般的にすくないことがうかがえる。曹操高陵の発見は、きはめて貴重なものといえる。
■朝倉市西北部の探検
上の方の地図の「朝倉市の東南部と西北部」を。もう一度ご覧いただきたい。
ここまでのところは、この地図のタテの点線の右がわ、つまり東のおもに朝倉市の東南地域の状況についてお話した。(神話時代の地名が多く残っていることなど。)
ここからあとはこの地図の点線の左、すなわち西の、おもに朝倉市の西北地域の状況についてお話しよう。
この地域は朝倉市役所も存在する。
前回7月の第422回の「邪馬台国の会」でも紹介したものであるが(奈良県と地名の一致)、この地域の、ほぼ邪馬台国時代にあたるころの、遺跡・遺物の出土状況を、今一度みてみよう。下の地図「弥生後期と古墳時代前期の朝倉市における箱式石棺の分布」、地図「朝倉市における邪馬台国時代の諸遺物」である。
これらの地図において、「国道322号」は、福岡県北九州市[小倉(こくら)北区]と久留米市とを結ぶ国道である。
また、「朝倉街道(日田街道)」は、もともと、筑前の国博多(福岡)と豊後の国の天領(江戸幕府直轄の領地)日田とを結ぶ街道であった。
(下図はクリックすると大きくなります)
(下図はクリックすると大きくなります)
江戸時代前期の儒者、貝原益軒は、『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』のなかで、当時の「甘木町(現在の朝倉市)」、および、博多から甘木にむかう道(朝倉街道)について、およそ、つぎのようにのべている。
「筑前の国の中で、民家の多いこと、甘木は、早良(さわら)郡の姪浜(めいのはま)につぐ。古くから、毎月九度、ここで市がたつ。それは、今も続いている[『明治十五年字小名調』〔福岡県史資料第七輯〕によるとき、甘木の字(あざ)の名に、「二日町」「四日町」「七日町」「八日町」「つばき」などがあるのは、市のたったなごりと思われる]。筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後の六ヵ国の人がより集まる所で、諸国に通ずる要路である。多くの商人が集まり交易して、その利を得ている。
博多から甘木の間、人馬の往来がつねにたえない。東海道を除いては、この道のように人馬の往来の多い道はない。信濃路、播磨路などは、とうていこれにはおよばない。」
■箱式石棺-「棺あって槨なし」(7とおりの証明)
『魏志倭人伝』は、倭人の墓制について、「棺あって槨なし」と記す。
北九州出土の甕棺や箱式石棺であれば、「棺あって槨なし」の記述に一致する。
のちの時代におこなわれた前方後円墳などの「竪穴式石室」などは、たとえば、近藤義郎編の『前方後円墳集成』(山川出版社刊)などが、「竪穴式石槨」と記すように、棺をおおう「槨」の一種とみるべきである。『魏志倭人伝』の記述と一致しない。
『隋書』「倭国伝」などは、「死者を斂(おさ)むるに棺槨(かんかく)をもってす」と記す。のちの時代のわが国の墓制が『魏志倭人伝』のころと、異なっていたことを示している。
宮崎公立大学の教授であった「邪馬台国=九州説」の考古学者の奥野正男氏は、つぎのようにのべている(以下、傍線をほどこし、その部分を、ゴシックにしたのは安本)。
「いわゆる『倭国の大乱』の終結を二世紀末とする通説にしたがうと、九州北部では、この大乱を転換期として、墓制が甕棺から箱式石棺に移行している。
つまり、この箱式石棺墓(これに土壙墓、石蓋土壙墓などがともなう)を主流とする墓制こそ、邪馬台国がもし畿内にあったとしても、確実にその支配下にあったとみられる九州北部の国々の墓制である。」(『邪馬台国発掘』PHP研究所、1983年刊)
「前代の甕棺墓が衰微し、箱式石棺墓と土壙墓を中心に特定首長の墓が次第に墳丘墓へと移行していく……。」(『邪馬台国の鏡』梓書院、2011年刊)
「邪馬台国=畿内説」の考古学者の白石太一郎氏(当時国立歴史民俗博物館)ものべている。「二世紀後半から三世紀、すなわち弥生後期になると、支石墓はみられなくなり、北九州でもしだいに甕棺が姿を消し、かわって箱式石棺、土壙墓、石蓋土壙墓、木棺墓が普遍化する。ことに弥生前・中期には箱式石棺がほとんどみられなかった福岡、佐賀県の甕棺の盛行地域にも箱式石棺がみられるようになる。」
森浩一氏ものべている。「九州地方でも弥生文化が最初に形成された北九州地方を中心にみると、(弥生時代の)前期には、土壙墓、木棺墓、箱式石棺墓が営まれていたのが、前期の後半から中期にかけて大型の甕棺墓が異常に発達し、さらに後期になるとふたたび土壙墓墓、木棺墓、箱式石棺墓が数多くいとなまれるようになるのである。」(以上、「墓と墓地」森浩一編『三世紀の遺跡と遺物』[学生社、1981年刊]所収)
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コラム1「箱式石棺」について
「箱式石棺」については、たとえば、斎藤忠著『日本考古学用語辞典』(学生社、2004年刊)の、「箱式石棺」の項に、つぎのように記されている(全文ではなく、一部)。
「箱式石棺(はこしきせっかん)遺骸を埋葬する施設をいう。主として弥生時代から古墳時代に発達した。箱形組合石棺・組合式箱形石棺・箱形組合式石棺などともいわれているが、同じ構造のものである。自然に裂き剥がれ易い緑泥片岩・安山岩・頁岩(けつがん)等の石を利用して扁平な板状の石材となし、側壁と小口とに組み合わせて箱形につくるもので、底板もあり、蓋石も設けられていることが多い。
組み合わせであるので、あらかじめ棺をつくり遺骸を納めてはこんだものでなく、箱形の土壙(墓あな)を掘り、その壁面にぴったりするように、底石と側壁・小口とを構成し、遺骸を納め蓋石(ふたいし)をかぶせたものである。底石のないものもあり、側壁も幾枚か並列したものもあり、蓋石のないものもある。弥生時代のものにもみられ、ことに北九州に例が多い。」
〇甲元真之・山崎純男氏
「(甕棺墓は)弥生時代の中頃になると、熊本県北部にまで分布するようになりますが、弥生時代の後期(紀元後二世紀)に入るとほとんど姿を消すようになってゆきます。」(『弥生時代の知識』東京美術刊)
〇浜石哲也氏(福岡市埋蔵文化財センター)金印奴国から邪馬台国へ
「甕棺墓の形成時に比べ、その終焉はきわめて唐突な感がある。弥生時代の後期初頭に甕棺墓は激減し、前半にはほとんど消滅してしまう。」(福岡市立歴史資料館編集・発行『早良王墓とその時代』)
〇柳田康雄氏(福岡県教育庁文化課)
「(弥生)後期中頃になると土器棺である甕棺墓が姿を消し、箱式石棺や土壙墓に後漢鏡が副葬されるようになり……。」(「三・四世紀の土器と鏡」『森貞次郎博士古稀記念古文化論集』)
〇原田大六氏
「北部九州の弥生墳墓のひとつである甕棺は、後期後半頃から急速に姿を消し始める。」(『邪馬台国論争』三一書房刊)
「筑前中牟田遺跡(福岡県夜須町)は弥生中期の甕棺墓地上に、小盛土をして箱式石棺を埋没していたと言われ箱式石棺が甕棺よりも後出的であったことを示す好例である。(『日本国家の起源 上』三一書房刊)
〇森貞次郎氏
「甕棺墓の衰退期 弥生後期の中ごろになると、甕棺墓の制度は衰退期にはいる。
後期にはいって甕棺の墓制に替わってしだいに盛行するのは、組み合わせ箱式石棺墓や、土壙墓・石蓋土壙墓であり、……。」(『古代の日本3 九州』角川書店刊)
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茨城大学名誉教授の考古学者、茂木雅博(もぎまさひろ)氏の『箱式石棺(付・全国箱式石棺集成表)』(同成社、2015年刊)という大著が刊行されている。
茂木雅博氏の『箱式石棺』にのせられている「全国箱式石棺集成表」にもとづき、北九州の地図の上に、弥生時代の箱式石棺の分布をプロットすれば、下の地図のようになる。
箱式石棺の分布の中心地は、福岡県の朝倉市、小郡市(おごうりし)のあたりから、佐賀県の三養基郡(みやきぐん)のみやき町、神埼郡の吉野ヶ里町、神埼市にかけての筑後川の上、中流域にある。この地域に、箱式石棺の密集地帯がある。
『魏志倭人伝』の記す「女王の都するところ」、邪馬台国の戸数は「七万余戸」である。この戸数は、とても、現在の朝倉市の範囲内だけにはおさまりきれない。「七万余戸」は、一戸の人数を四人とみても、28万人以上である。これに対し、朝倉市の人口は2016年2月末現在で、55,199人となっている。
したがって、卑弥呼の宮殿のあった場所は、朝倉市と考えるとしても、『魏志倭人伝』の邪馬台国「七万余戸」は、筑後川の全流域ていどの広い範囲を考えなければならない。
いま、茂木雅博氏の『箱式石棺』により、九州本島において箱式石棺の出土数の多い「市と町」との、ベスト10を、グラフに示すと、下図の左ようになる。
上の地図には、このような数値も、カッコのなかに示されている。
県別出土状況
茂木雅博氏の『箱式石棺』により、箱式石棺の、県別の出土状況をみると、下図の右のようになる。
弥生時代のばあい、この図に示した以外の都道府県からは、箱式石棺は、出土していない。
この図をみれば、広島県、山口県などの中国地方からも箱式石棺が、かなり出土していることがわかる。
(下図はクリックすると大きくなります)
■石包丁、石斧の分布
弥生文化は、農耕文化であった。したがって、農具の分布は、人口の分布と重なった可能性がある。
弥生式文化にともなう農具の一つに、石包丁がある。稲などの穀物の穂をつむのに用いた。
石包丁は、大陸系磨製石器の一種である(右図参照)。長方形、楕円形、または、半月形をした扁平な石器で、一方の長い辺に刃がついている。一個または二個の孔があり、これにひもをとおして指にかけ、穂をつむのに用いる。明治時代に、調理用のナイフと誤認されたため石包丁とよばれる。
下の地図は、石包丁、石斧などの分布を示す(夕刊フクニチ新聞社刊『奴国展』より。なお、この『奴国展』の本は、1972年4月28日から5月4日まで、福岡市の岩田屋でひらかれた「奴国展」のさいに作成された資料である)。
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コラム2 朝倉市と奈良県
当時、海岸近くは洪水や津波などのおそれもありあり、必ずしも多くの人が居住するための適地ではなかったとみられ。
福岡県の朝倉市も、奈良県も、内陸部の平野で似たような条件の場所とみられる。
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■矛
『魏志倭人伝』に、「(倭人は)兵(器)には、矛・盾・木弓を用う。」と記している。これは、「鉄の矛」と明記されているわけではない。
ただ、邪馬台国時代の矛が、「鉄の矛」であることについては、すでに何人かの研究者がのべている。
たとえば、邪馬台国畿内説の考古学者、佐原真氏は、大阪文化財センターの考古学者、坪井清足(つぼいきよたり)氏などとの討論のなかでのべている。
「
佐原―邪馬台国の時代には、矛はもう鉄矛ですね。
坪井―鉄になっていると思います。
佐原―鉄矛に違いないと思います。」(『邪馬台国が見える!』日本放送出版協会刊)
また、邪馬台国九州説の考古学者の、奥野正男氏ものべている。
「弥生後期の実用の矛はすでに青銅製から鉄製に変わっており、このほか鉄剣・鉄戈なども用いられていた。
鉄矛の総出土数は(甕棺などから出土したものを含めて)十六本で、すべて九州北部から出ている。」『邪馬台国はやっぱりここだった』毎日新聞社刊)
広島大学の川越哲志の編集した『弥生時代鉄器総覧』(広島大学文学部考古学研究室、2000年刊)によるとき、福岡県と奈良県の、弥生時代の「鉄の矛」の出土状況は、右の表のようになっている。
いま、福岡県の朝倉市、岡山県の倉敷市、奈良県の桜井市の三つの市をとりあげ、出土頻度の多い「鉄の武器」をとりあげ、その出土状況をみてみる。すると、下の表のようになる
纏向遺跡は奈良県の桜井市にある。岡山県の倉敷市には、盾築遺跡がある。
下の表にみられるように、「鉄の武器」の出土総数は、福岡県朝倉市のばあい、三十五例に達する。
岡山県倉敷市でも、十三例になる。
ところが、奈良県の桜井市のばあい。出土例が、一例もない。
この地には、とくに「鉄の武器」を使用していた伝統があったようにはみえない。
纏向に、女王卑弥呼の居処、宮室があったのならば、それを守っていた兵士たちの武器も、出土してよさそうなものである。しかるに、それが、一つもでてこないのは、どうしたわけか。纏向には、卑弥呼の居処などは、なかったのではないか。
「鉄の武器」の出土量はあきらかに、福岡県が最大で、そこから、奈良県の方向にむかって、すくなくなっている。その逆ではない。
『魏志倭人伝』に記されている事物の出土状況において、桜井市ていどの特徴を示す市は日本に、いくつも存在している。
客観的に測定すれば、桜井市は、何ら特別の特徴を示していない。
もっとも、つぎのように述べる人も、いるかもしれない。
「これらの表のデータの出所は、2000年に刊行された『弥生時代鉄器総覧』である。その後、全国の各地から、鉄の出土が見られているのではないか。」
そのように述べる方は、鉄の鏃の出土数がいくつ、鉄の刀の出土数がいくつ、というように、具体的に出土数の事例をあげていただきたい。そして、これらの表にみとめられる傾向が、逆転する事実を示すデータを、具体的にお示しいただきたい。
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コラム 「矛」と「戈」
「矛」は両刃(もろは)の剣型の穂に、長い柄をつけた武器。金属の穂の下部に、中空の袋部がついており、そこに柄の木をさしこむ。
「戈(か)」では、鳶口(とびくち)のように、穂と直角に近い形で柄をとりつける。「戈」では茎(なかご)を、柄の木にさしこんで装着する
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『魏志倭人伝』に記されている事物と、それに対応する『古事記』の「上巻」(神話の巻)に記されている事物、そしてまた、当時(弥生時代)の考古学的遺物とを、表の形にまとめれば、下の
『魏志倭人伝』、『古事記』神話、考古学的な事実などにおける事物の一致
のようになる。
この三つ(『魏志倭人伝』、『古事記』神話、考古学的な事実)はかなりよく対応しているようにみえる。
そして、神話の舞台(高天の原)が北部九州とみられること。考古学的遺物も、おもに北部九州から出土していることは、邪馬台国が北部九州に存在したことを指向する。
皇位のシンボルとされる「三種の神器(鏡・剣・玉)」は、弥生時代の族長の墳墓から出土するものにつながる。
『魏志倭人伝』、『古事記』神話、考古学的な事実などにおける事物の一致
①矛・刀・剣
『魏志倭人伝』
〇兵(器)には、矛・楯・木弓を用いる。
〇五尺刀二口をたまう。
〇拝して倭王に仮し、ならびに詔をもたらして刀をたまう。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇天(あめ)の沼矛(ぬほこ)を賜(たま)ひて、言依(ことよ)さし賜(たま)ひき。
〇其(そ)の沼矛(ぬほこ)を指(さ)し下(お)ろして畫(か)きたまへば、……。
〇其(そ)の矛(ほこ)の末(さき)より垂(したた)り落(お)つる塩(しお)、累(かさ)なり積(つ)もりて島(しま)と成(な)りき。
〇御佩(はか)せる十拳剣(とつかつるぎ)を抜(ぬ)きて、其(そ)の子(こ)迦具土神(かぐつちのかみ)の頸(くび)を斬(き)りたまひき。
〇御刀(みはかし)の前(さき)に著(つ)ける血(ち)、……。
〇御刀(みはかし)の本(もと)に著(つ)ける血(ち)も亦(また)、……。
〇御刀(みはかし)の手上(たがみ)に集(あつ)まれる血(ち)、……。
〇八神(やはしら)は、御刀(みはかし)に因(よ)りて生(な)れる神なり。
〇斬りたまひし刀(たち)の名(な)は、天之尾羽張(あめのをはばり)と謂(い)ひ、亦の名(な)は伊都之尾羽張(いつのをはばり)と謂(い)ふ。
〇御佩(はか)せる十拳剣(とつかつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃(に)げ来るを、……。
〇建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)ける十拳剣(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、其の御佩(はか)せる十拳剣(とつかつるぎ)を抜きて、其(そ)の蛇(をろち)を切り散(はふ)りたまひしかば……・。
〇其(そ)の中の尾を切りたまひし時、御刀(みはかし)の刃(は)毀(か)けき。
〇爾に怪(あや)しと思ほして、御刀(みはかし)の前(さき)以(も)ちて刺(さ)し割(さ)きて見たまへば、都牟刈(つむがり)の大刀(たち)在(あ)りき。故(かれ)、此の大刀(たち)を取りて、異(あや)しき物と思ほして、天照大御神(あまてらすおほみかみ)に曰(まを)し上(あ)げたまひき。是(こ)は草那芸(くさなぎ)の大刀(たち)なり。
〇即(すなわ)ち其(そ)の大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と、乃(また)其(そ)の天(あめ)の詔琴(のりごと)を取(と)り持(も)ちて逃(に)げ出(い)でます時、……。
〇其(そ)の汝(いまし)が持てる生大刀(いくたち)・生弓矢(いくゆみや)を以(も)ちて、……。
〇故(かれ)、其(そ)の大刀(たち)・弓(ゆみ)を持ちて、其(そ)の八十神を追ひ避(さ)くる時に、……。
〇大刀(たち)が緒(を)も いまだ解(と)かずて……。
〇御佩(はか)せる十拳剣(とつかつるぎ)を抜きて、喪屋(や)を切(き)り伏(ふ)せ、足(あし)以(も)ちて蹴(く)ゑ離(はな)ち遺(や)りき。
〇其(そ)の持(も)ちて切(き)れる大刀(たち)の名は、大量(おほはかり)と謂(い)ひ、亦(また)の名(な)は神度剣(かむどのつるぎ)と謂(い)ふ。
〇是(これ)を以ちて此の二(ふた)はしらの神、出雲国の伊那佐(いなさ)の小浜(おばま)に降(くだ)り到りて、十掬剣(とつかつるぎ)を抜きて、逆(さかしま)に浪の穂に刺(さ)し立て、其(そ)の剣(つるぎ)の前(さき)に趺(あぐみ)み坐(ま)して、……。
〇故(かれ)、其(そ)の御手を取らしむれば、即ち立氷(たちひ)に取(と)り成し、亦剣刃(つるぎは)に取(と)り成しつ。
〇是(ここ)に其(そ)の遠岐斯八尺(をきしやさか)の勾墺(まがたま)、鏡(かがみ)、乃(また)草那芸剣(くさなぎのつるぎ)、……。
〇故(かれ)爾(ここ)に天忍日命(あめのおしひのみこと)、天津久米命(あまつくめのみこと)の二人、天の石靫(いはゆぎ)を取り負ひ、頭椎(くぶつち)の大刀(たち)を取り佩(は)き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の真鹿児矢(まかこや)を手挟(たばさ)み、御前(みさき)に立ちて仕(つか)へ奉(まつ)りき。
〇「此の口や答へぬ口。」といひて、紐小刀(ひもこがたな)以(も)ちて其(そ)の口を拆(さ)きき。
〇故(かれ)、其(そ)の弟、御佩(みはかし)の十拳剣(とつかつるぎ)を破りて、五百鉤(いほはり)を作りて、償(つぐの)ひたまへども取らず。
〇其(そ)の和邇(わに)返らむとせし時、佩(は)かせる紐小刀(ひもこがたな)を解きて、其の頸に著(つ)けて返したまひき。
[他に「八千矛神(多くの矛を持った神の意)」という神名で、6回あらわれる。]
考古学的・民俗学的な事実
〇銅剣・銅鉾・銅戈の出土例は、九州435例にたいし、近畿16例(杉原荘介著『日本青銅器の研究』)。
〇鉄剣・鉄刀・鉄戈・鉄矛の出土は、福岡県85例にたいし、奈良県1例(川越哲志)。
〇矛をはじめ、銅製利器の分布は、ほとんど北九州に集中している。
〇矛は青銅利器のひとつとして、弥生時代前期(紀元前3世紀)ごろに、大陸から輸入され、中期ごろ(紀元前後)には、わが国でも、さかんに仿製品(模倣品)が造られはじめた。そして、その形態は、しだいに実用品としての機能を失ない、広形になり、後期(3世紀)の邪馬台国時代まで使用された。この形態は、武器としてではなく、祭器として、おそらくは、呪術的なものとして用いられたことをうかがわせる。このことは、『古事記』神話などとつながる内容とをもつように思われる。『古事記』神話では、矛や剣は、ものをうみだす力や、霊力など、呪術的な力をもっものとしてとりあつかわれている。
〇佐賀県三津永田の弥生式後期の甕棺から、50.25cmの素環頭大刀がみいだされ、同様な大刀は、福岡県下の箱式石棺からも出土している。
五尺刀とは、このような素環頭大刀を指すと考えられる。
②鏡
『魏志倭人伝』
〇銅鏡百枚をたまう。
〇詔をもたらして、鏡をたまう。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に科(おほ)せて鏡を作らしめ、……。
〇中枝(なかつえ)に八尺鏡(やたかがみ)を取り繋(か)け、……。
〇天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)、其(そ)の鏡を指(さ)し出(いだ)して、……。
〇是(ここ)に其(そ)の遠岐斯八尺(をきしやさか)の勾璁(まがたま)、鏡(かがみ)、乃(また)草那芸剣(くさなぎのつるぎ)、亦(また)常世思金神(とこよのおもひかねのかみ)、手力男神(たぢからのかみ)、天石門別神(あめのいはとわけのかみ)を副(そ)へ賜ひて、詔(の)りたまひしく、「此れの鏡(かがみ)は専(もは)ら我が御魂(みたま)として、吾(あ)が前(まえ)を拝(いつ)くが如伊都岐奉(ごといつきまつ)れ。……」
考古学的・民俗学的な事実
〇銅鏡の出土は、北九州138例にたいし、近畿6例(杉原荘介著『日本青銅器の研究』)。
③勾玉、真珠、白珠
『魏志倭人伝』
〇真珠・青玉を出す。
〇真珠・鈆丹おのおの五十斤をたまう。
〇白珠五千・孔青大句珠二枚を(朝)貢した。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇御頸珠(みくびたま)の玉の緒母由良邇取(をもゆらにと)り由良迦志(ゆらかし)て、……。
〇其の御頸珠(みくびたま)の名を、御倉板拳之神(みくらたなのかみ)と謂ふ。
〇左右(ひだりみぎ)の御美豆羅(みみづら)にも、亦(また)御𦄡(みかづら)にも、亦左右の御手にも、各(おのおの)八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の球(たま)を纏(ま)き持ちて、……。
〇先(ま)づ建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)ける十拳剣(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、三段(みさだ)に打ち折りて、奴那登母母由良爾(ぬなとももゆらに)天(あめ)の真名井(まない)に振り滌(すす)ぎて、……。
〇天照大御神(あまてらすおほみかみ)の左の御美豆良(みみづら)に纒(ま)かせる八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、奴那登母母由良爾(ぬなとももゆらに)、天(あめ)の真名井(まない)に振(ふ)り滌(すす)ぎて、……。
〇右の御美豆良(みみづら)に纒(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇御𦄡(みかづら)に纒(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇左の御手に纒(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇右の御手に纒(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇玉祖命(たまのやのみこと)に科(おほ)せて、八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)の御須麻流(みすまる)の珠(たま)を作らしめて、……。
〇上枝(ほつえ)に八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の珠(たま)を取(と)り著(つ)け、……。
〇天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 項(うな)がせる 玉の御統(みすまる) 御統(みすまる)に 穴玉はや……。
〇是(ここ)に其(そ)の遠岐斯(をきしに)八尺(やさか)の勾璁(まがたま)、鏡(かがみ)、乃(また)草那芸剣(くさなぎのつるぎ)、……。
〇爾(ここ)に水を飮まさずて、御頸(みくび)の璁(たま)を解きて口に含(ふく)みて、其(そ)の玉器(たまもひ)に唾(つば)き入れたまひき。是(ここ)に其(そ)の璁(たま)、器(もひ)に著(つ)きて、婢璁(まかだちたま)を得離(えはな)たず。故(かれ)、璁(たま)著(つ)ける任(まにま)に豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)に進(たてまつ)りき。爾(ここ)に其(そ)の璁(たま)を見て、婢(まかだち)に問ひて曰ひしく、……。
〇水を飲まさずて、此の璁(たま)を唾(つば)き入れたまひき。
〇「若(も)し其(そ)れ然為(しかし)たまふ事を恨怨(うら)みて攻(せ)め戦(たたか)はば、塩盈珠(しおみつたま)を出して溺らし、若し其(そ)れ愁(うれ)ひ請(もを)さば塩乾珠(しほひるたま)を出して活(い)かし、如此惚(かくなや)まし苦しめたまへ。」と云ひて、塩盈珠(しおみつたま)、塩乾珠(しほひるたま)并(あわ)せて両箇(ふたつ)を授けて、……。
〇攻めむとする時は、塩盈珠(しおみつたま)を出して溺(おぼ)らし、其れ愁ひ請(もを)せば、塩乾珠(しほひるたま)を出して救ひ、……。
〇赤玉(あかだま)は 緒(を)さへ光れど 白玉(しらたま)の 君(きみ)が装(よそひ)し 貴くありけり
[他に「玉祖命(たまのやのみこと)(玉作りの祖先の意)」という名で、3回あらわれる。]
考古学的・民俗学的な事実
〇勾玉は多数出土。青大句珠を、メノウとする見解や、硬玉、ガラス製とする見解などがある。ガラス製の勾玉やガラス製勾玉の鎔范も出土している。
〇白珠は、白味がかった管玉ではないか。この種の管玉は、弥生時代の墓からも、頸飾として相当数発見されている。(斎藤忠氏)
〇硬玉製勾玉・ガラス製勾玉出土数、福岡県29個、奈良県3個
④鉄
『魏志倭人伝』
〇竹の箭(や)は、あるいは鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃。
〇[『魏志韓伝』弁辰の条(くだり)]国、鉄をだす。韓、濊、倭、みなこれをとる。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて、鍜人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて、……。
考古学的・民俗学的な事実
〇鉄鏃の出土は、福岡県398個、奈良県4個(川越哲志氏)
⑤蚕(絹)
『魏志倭人伝』
〇蚕桑(さんそう)(養蚕の桑)をうえ、緝績(しゅうせき)(つむぐこと)し、細紵繰(ちいちょけん)(きぬ)緜(めん)を出す。
〇倭錦(わきん)・絳青縑(こうせいけん)(赤青色の絹布)を上献した。
〇異文雑錦(いもんざつきん)(異国のもようのある絹おりもの)二十匹を(朝)貢した。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇頭(かしら)に蚕(かひこ)生(な)り、……。
⑥織物
『魏志倭人伝』
〇木緜(もめん)をもって頭にかける。
〇紵麻(ちょま)(いちびと麻)をうえ、蚕桑(さんそう)して緝績(しゅうせき)し、細紵(さいちょ)(細い麻糸)、縑緜(けんめん)(糸を併用したおりもの)を(作り)だしている。
〇斑布(はんぷ)[縞(しま)または絣(かすり)の織物]二匹二丈を奉じ到(着し)た。
〇緜衣(めんい)・帛布(はくふ)を上献した。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇天照大御神(あまてらすおほみかみ)、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)して、神御衣(かむみそ)織(お)らしめたまひし時、其(そ)の服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うが)ち、……。
〇天の服織女(はたおりめ)見驚きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死にき。
〇下枝(しづえ)に白丹寸手(しらにきて)[楮の木の皮の繊維で織った木綿(ゆう)]、青丹寸手(あおにきて)(麻の布)を取り垂(し)でて、……。
〇天(あめ)なるや 弟棚機(おとたなばた)の 頂(うな)がせる 玉の御統(みすまる)……。
考古学的・民俗学的な事実
〇登呂(とろ)や唐古(からこ)の遺跡から紡錘車(ぼうすいしゃ)(穴に糸巻棒をさしこんで糸をつむぐ道具)、木製の経巻具(たてまきぐ)、布巻具(ぬのまきぐ)、緯越具(ひこしぐ)、緯打具(よこうちぐ)などが出ている。いざり機(はた)が用いられていたらしい。
⑦髪形
『魏志倭人伝』
〇男子は、みな紒(かい)(髪をわけ糸でむすぶ)を(冠もなく)露(出)している。木緜(もめん)で頭を巻いている。
〇婦人は、被髪屈紒(ひはつくつかい)(たらし髪で、まげの部分を折り曲げている)。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇左の御美豆良(みみづら)に剌(さ)せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱(をばしら)一箇(ひとつ)取(と)り闕(か)きて、……。
〇其の右の御美豆良(みみづら)に剌(さ)せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)を引き闕(か)きて、……。
〇御髪を解きて、御美豆羅(みみづら)に纒(ま)きて、乃(すなは)ち左右(ひだりみぎ)の御美豆羅(みみづら)にも、……。
〇天照大御神(あまてらすおほみかみ)の左の御美豆良(みみづら)に纒(ま)かせる八尺(やさか)の勾總(まがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇右の御美豆良(みみづら)に纒(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、……。
〇爾に速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、乃ち湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に其の童女(をとめ)を取り成(な)して、御美豆良(みみづら)に剌(さ)して、……。
⑧卜占
『魏志倭人伝』
〇骨をやいて卜(ぼく)し、もって吉凶をうらなう。先ず卜(ぼく)するところを告げる。その辞は令亀の法のごとく、火圻(かたく)(火の熱のために生ずるさけめ)をみて、(前)兆(ちょう)をうらなう。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇布斗麻邇爾卜相(ふとまににうらな)ひて、……。
〇天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとだまのみこと)を召(め)して、天(あめ)の香山(かぐやま)の真男鹿(まおしか)の肩(かた)を内抜(うつぬ)きに抜きて、天(あめ)の香山(かぐやま)の天(あめ)の波波迦(ははか)を取りて、占合(うらな)ひ麻迦那波(まかなは)しめて、……。
考古学的・民俗学的な事実
〇鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から350点の卜骨が出土している(全国最大量例)。卜占の風習は、各地でかなり行われていたらしい。
〇伴信友は、上野国甘楽郡一宮の貫前大明神でおこなわれている鹿卜の法をのべている。
⑨葬儀
『魏志倭人伝』
〇停喪(外事をいっさい停止して服喪すること)十余日。その当時は、肉をたべない。喪主は哭泣(こきゅう)し、他人は歌舞飲酒につく。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇是(ここ)に天(あめ)在(な)る天若日子(あめのわかひこ)の父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)乃(また)其(そ)の妻子(めこ)聞きて、降(くだ)り来(き)て哭(な)き悲(かな)しみて、乃(すなわ)ち其処(そこ)に喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはがり)を岐佐理持(きさりもち)と為(し)、鷺(さぎ)を掃持(はきもち)と為(し)、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為(し)、雀(すずめ)を碓女(うすめ)と為(し)、雉(きぎし)を哭女(なきめ)と為(し)、如此(かく)行(おこな)ひ定めて、日八日夜八夜(ひやかよやよ)を遊びき。
考古学的・民俗学的な事実
〇これは、殯(葬送以前に、霊魂の復帰を願って、喪屋等に死体を安置し、種々の儀礼をおこなうこと)の模様をのべたものである。喪主が哭き、他人は歌舞飲酒し遊ぶ(『魏志』と『古事記』神話とは、その内容がよく一致している)のは、死者の霊魂をゆさぶり、その蘇生を念ずる、魂呼ぴの儀礼と考えられる。
⑩(葬儀後の)みそぎ
『魏志倭人伝』
〇澡浴(そうよく)し、そして、練沐(れんもく)[ねりぎぬをきての水浴]のごとくにする。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇[伊邪那美(いざなみ)の神の死後、伊邪那岐(いざなぎ)の神は]「吾(あ)は伊那志許米志許米岐穢(いなしこめしこめききたな)き国に到りて在(あ)り祁理(けり)。故(かれ)、吾(あ)は御身(みみ)の禊(みそ)為(させ)む。」とのりたまひて、竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(をど)の阿波岐原(あはきはら)に到(いた)り坐(ま)して、禊(みそ)ぎ祓(はら)ひたまひき。
〇中つ瀬(せ)に堕(お)り迦豆伎(かづき)て滌(すす)ぎたまふ時、……。水の底(そこ)に滌(すす)ぐ時に、……。中に滌ぐ時に、……。水の上に滌(すす)ぐ時に、……。
〇是(ここ)に左の御目(みめ)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、天照大御神(あまてらすおほみかみ)。次に右の御目(みめ)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、月読命(つくよみのみこと)。次に御鼻(みはな)を洗ひたまふ時に、成れる神の名は、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)。
〇十四柱(とをまりよはしら)の神は、御身(みみ)を滌(すす)ぐに因(よ)りて生(な)れるかみなり。
考古学的・民俗学的な事実
〇沖縄の石垣島では、現在でも、会葬の帰りに、潮水で身を清めて帰宅する風習があるという。
⑪墓
『魏志倭人伝』
〇棺(ひつぎ)あって槨(かく)[そとばこ]がない。土を封じ(高くもりあげ)て冢(つか)をつくる。
〇卑弥呼は死んだ。大いに冢をつくった。径(さしわたし)は百余歩。徇葬(じゅんそう)の奴婢は百余人であった。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇[日子穂穂手見命(ひこほほでみのみこと)の]御陵(みはか)は即(すなわ)ち其(そ)の高千穂の山の西に在(あ)り。
考古学的・民俗学的な事実
〇箱式石棺、甕棺、土壙、木棺もあるが、棺をさらにおおう槨はない。
⑫赤土
『魏志倭人伝』
〇朱丹(赤土、酸化鉄)をその身体にぬることは、(ちょうど)中国(人)が粉(おしろい)を用いるがごどくである。
〇その山には、丹(たん)[あかつち]がある。
〇丹を上献した。
『古事記』神話[表記は岩波版日本古典文学大系により漢字は新漢字とした]
〇是(ここ)に其(そ)の妻、牟久(むく)の木(こ)の実(み)と赤土(はに)とを取りて、其(そ)の夫(ひこぢ)に授けつ。故(かれ)、其(そ)の木(こ)の実(み)を咋(く)ひ破り、赤土(はに)を含(ふふ)みて唾(つば)を出(いだ)したまへぱ、……。(この記事は、赤土を身体にぬることを記すものではないが、赤土が、日常生活のなかにはいりこんでいたことを示している)
考古学的・民俗学的な事実
〇岡山県倉敷市の楯築(たてつき)遺跡から、32~33Kgの朱が出ている(全国最大量例)。楯築遺跡からは、他に、鉄剣、硬玉勾玉、特殊器台、特殊壺などが出土している。