大分県の日田市で見つかったと言われる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」がある。
・日田出土といわれる「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」画像
この「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、最初のディスカッションポイント
(1)「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」の読み方(どこで切れるか)?
「金銀錯・嵌珠・龍文・鉄鏡」と切れると考えられる。
つまり、金銀でメッキをして、珠(たま)をくみこんだ、龍の文様(もんよう)がある鉄鏡といった意味となる。
(2)文様は「虺龍文(きりゅうもん)」か、「夔鳳文(きほうもん)」か、「夔龍文(きりゅうもん)」か?
梅原末治氏は「虺龍文(きりゅうもん)」としている。「虺」は蛇のマムシのことである。中国の学者は「夔鳳文(きほうもん)」としている。岐阜県国府(こくふ)町名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳から出ている鉄鏡の文様は「夔鳳鏡」である。
ここで名張一宮神社古墳についての説明
岐阜一宮神社蔵鉄鏡(当時:岐阜県吉城郡国府町、現在:高山市国府町)この鉄鏡は明治の初めごろ、同神社境内西北にあった古墳が取り壊されたさい、副葬品の直刀・鉄鏃・勾玉・須恵器などとともに神社に寄進され、倉庫に保管されていた。1985年7月、廃寺。調査に訪れた三重大の八賀晋教授により、同年八月には工業用X線撮影で夔鳳鏡とわかった。この直径21.2センチ、厚さ4ミリの鉄鏡には中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」の銘が入っており、鉄製夔鳳鏡として日本で確認されたものとしては初めてのものであった。
さらに同年十月には八賀教授の鑑定により、同時出土の鉄剣のつばに銀の象嵌があることがわかり、この特徴などから、この古墳は七世紀前半頃のものと位置づけられた。
『アサヒグラフ』1985年12月27日号で次のように述べられている。
「本家の中国にもない最大の鉄鏡は直径21センチ」(岐阜県国府(こくふ)町・名張一宮(なばりいちのみや)神社古墳)
二羽の鳥が向かい合っている文様から「夔鳳(きほう)鏡」と呼ばれる鏡が、飛騨高山の北隣の町から見つかった。それも鉄製で、直径21.2センチもあり、これまでみつかった同種の鏡では、最大のものと関心を集めた。
四方を山で囲まれた平地の中に建つ名張一之宮神社が、明治四年に拡張するとき、隣り合った古墳から直刀や銅鈴などとともに出土、宝物として保管されていたが、この七月、廃寺調査に訪れた三重大の八賀晋教授が持ち帰り、工業用エックス線をかけたところ、鉄鏡としては珍しい文様が浮かび上がった。中央の鈕の周囲に「長」「宜」「孫」のめでたい銘が入っている。
夔鳳鏡は、中国の後漢から三国、晋時代(紀元二十五年から三百年ぐらい)に多く用いられたが、ほとんど銅製・わが国でみつかった十二枚も白銅製で、鉄製は初めて。中国でも鉄製はわずか二、三枚で、大きさは16センチが最大だ、という。
八賀教授は、「中国製だと思うが、飛騨の山中までどんなルートをたどったか興味深い。古墳は七世紀ごろのもので、飛騨の匠は、律令完成前から、中央にその技術を認められていた。その技術集団の長に与えられた鏡ではないだろうか」とみている。
日田市出土鏡と岐阜県出土鏡との共通点
①ともに、鉄鏡である。
②面径が21.3センチと21.2センチとかなり近い。
③ともに「長宜子孫」と見られる銘がある。
④ともに四葉座の鈕がある。
鋳造の時期は、かなり近いと見られる。
・夔鳳鏡の説明
「夔」は、山にすみ、竜に似ていて一本足の怪物。「鳳」は、想像上の大きな鳥で、めでたいしるしとしてあらわれるという。「夔鳳」は、本来、一匹の鳳をさす。鈕を中心とした糸巻形[四角凸出(よすみとっしゅつ)の方形]に四葉のついた文様で、四分割されている。
四つの各区に、あい向うおおよそ左右対称のペアの形で、二つの鳥(またはこうもり)を配置している。
日本では、ペアになっている二つの鳥を夔鳳と解釈している。縁には、十六の連弧文がある。
中国では、後漢代から六朝にかけて製作された。
中国社会科学院考古研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる(傍線にしたのは、安本)。
「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・夔鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以下の五種類のものである可能性が強いのです。位至三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸出できなかったものと考えられます。」(『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)
『魏の時代にはいわゆる 位至三公鏡』が新たに出現しております。これは後漢の双頭竜鳳文鏡から変化してできたもので、西晋時代になって特に流行しました。ちなみに、洛陽の西晋時代の墓から出土した沢山の銅鏡のうち、三分の一がこの位至三公鏡でして、数量ではベストワンです。西晋の墓からは、そのほか様々な銅鏡が出土していますが、例えば内行花文鏡・変形獣首鏡・夔鳳鏡・方格規矩鏡・盤竜鏡などは、魏の時代の銅鏡と何ら違いはありません。また洛陽を中心としてその周辺の地点、例えば河南省の陜(せん)県・鄭州市・安陽市・焦作(しょくさく)市・また陜西省の西安などで行なわれた調査発掘の成果によりますと、後漢の末期から魏晋時代にかけての墓から出土します銅鏡は、洛陽出土のものと何ら変わるところがありません。」(以上、『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊)
「曹魏〔三国の魏〕の時代になって尚方工官は回復し、『右尚方』が銅鏡の製作を担当した。鋳造された銅鏡の様式は、すべて後漢以来の旧式鏡で、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡・夔鳳鏡・盤竜鏡・双頭竜鳳文鏡などである・曹魏の時に新しく登場した『位至三公』鏡の花紋は、後漢の双頭竜鳳文鏡を踏襲したものである。西晋の時、この『位至三公』鏡は特に流行した。」(「三国、両晋、南北朝の銅鏡」『三角縁神獣鏡の謎』全日空、1984年刊)
右上の図を見れば、頭が大きく、足のように見えるのは模様だとすれば、一本足では無い。やはり蛇のようだし、マムシとした方が良いようだ。
■日田の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」について、2019年9月6日(金)に宮代栄一氏の朝日新聞記事がある。
(下図はクリックすると大きくなります)
記事補完説明:
・「錯」は金属の上に金属を重ねおいて、メッキすることで、『世界大百科事典』平凡社刊「めっき」の項では、「600年ころの作である飛鳥(あすか)大仏は銅製の仏像に金めっきがされ、その後奈良の大仏その他の仏像もすべて金めっきが施されたが、これらの金めっきの方法は、あらかじめ金を水銀に溶かしたもの[金のアマルガム。これを滅金(めっき)と呼んだ]を塗布して後、加熱して水銀を蒸発させ、金を銅の表面に残したものであった。このような操作のこともめっきと呼び、塗金または鍍金と書いた。また金ぱく(箔)をおいて、熱して固着させる方法は(金着せ)といった。」とある。
・大塚初重編『日本古墳大辞典』東京堂出版で、ダンワラ古墳のことを以下のように掲載している。「大分県日田市大字日高字東寺、ダンワラと通称する日田盆地南部の丘陵の西裾にあったという。 1933年(昭和8)国鉄久大線の敷設工事に伴って発見されたと伝えるこの古墳の実態は現在不詳であるが、工事に際して採集された鏡は、金銀錯の手法で虺龍文等表現し、随所に珠玉を嵌入した鉄鏡で、本邦唯一の出土例として、著名である。同時に鉄刀・轡等が出土したとも伝える。ほかに伝日田市刃連町出土と称する金銀錯鉄帯鉤も共伴遺物とみられている。〔文献〕梅原末治「豊後日田出土の漢金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」国華853、1963。」
・京都大学教授の岡村秀典氏は、「日本では五世紀の大阪百舌鳥大塚古墳・福岡の沖ノ島遺跡のほかに金銀象嵌品が大分ダンワラ古墳出土の竜文鏡や岐阜一の宮神社藏夔鳳鏡にあり、後漢後期から魏晋代のものと考えられる。また唐代のものとして忍冬唐草文のある金銅板を背面に貼った小型の鉄鏡が滋賀県崇福寺塔跡の舎利埋納品にあり、奈良正倉院にも無文の鉄鏡が一面ある。」と『日本考古学辞典』(三省堂、2002年)にて述べられている。
・卑弥呼にふさわしい魏からの贈り物「金銀錯鉄鏡」
大手前大学教授の上垣外憲一(かみがいとけんいち)氏著『古代日本謎の四世紀』(学生社、2011年刊)から、
私は、「親魏倭王」と刻まれた金印でも出ない限り、卑弥呼の墓は確定できない、と書いた。「青龍三年鏡」方格規矩鏡のようなものであれば、百枚の魏鏡をもらった卑弥呼であれば、魏鏡がざくざく三十枚以上でてほしいところである。
ところが、そうした私か写真を最初見た瞬間に、卑弥呼にふさわしい魏皇帝からの贈り物は、このようなものだったに違いないと思った遺物がただ一つある。魏の皇帝から「倭国の主だった皆さん(豪族の長たち)」に送られたのではなく、その上に一段も二段も高く君臨する女王にふさわしいとして、卑弥呼その人に、ただ一つ贈られた、「卑弥呼宛の鏡」にふさわしい鏡が現実に存在するのである。それが、口絵に掲載した大分県日田のダンノワラ古墳出土と伝えられる、「金銀錯嵌(さくがん)珠龍文鉄鏡」である。
この種類の鏡で中国の文献に載るのは魏の曹操が献帝に献上した(太平御覧巻七百十七)と伝えられ、金錯鉄鏡とよばれる大型鏡である。何より、その豪華な材料、そうして皇帝の御物でなければ、とうていこのような優美繊細にして精密な模様を、職人たちが精魂込めて作り上げることがないだろう。その細工の出来ばえが、たとえようもなく素晴らしい。曹操の金錯鉄鏡は「尺二寸」と伝えられ、当時(後漢から三国)の尺度で二十九センチを数える大型のものだった。このダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡は二十ニセンチ、すなわち九寸であり、四分の三の大きさである。そのまま魏の皇帝と、「親魏倭王」の格式の差に対応すると私は思う。
纒向遺跡付近から、あれほど丁寧な発掘作業が行われているのに、我国の製造と特定できる鏡は、付近の古墳を含めて一つも出土していない。仮に、纒向古墳群の一つ、つまり卑弥呼の没年に近いと思われる、纒向石塚、ホケノ山等の古墳から、このような後漢末の製作か、と思われる豪華絢爛たる鏡が出ていれば、私もかなり邪馬台国奈良県説に傾くだろう。
もう少しく考えてみよう。『太平御覧』巻七百十七には、魏武帝、すなわち曹操が献帝に献上した「雑物」の中に、御物[ぎょぶつ](皇帝の持ち物)として、一尺二寸(後漢末から魏の時代の尺で二十九センチ)の金錯鏡があったとしている。
原文を引用すると次の通り。
魏武帝上雑物疏曰御物有尺二寸金錯鏡一枚皇太子雑(用物*)純銀錯七寸鉄鏡四枚貴人至公主九寸鉄鏡四十枚
注:*『格致鏡原』により補う、注:『公主(こうしゅ)』天子の息女。皇女。
皇太子の持ち物としては、七寸の、「純銀錯鉄鏡」が四枚あったということである。これを見ると、皇帝は金錯鏡、皇太子は銀錯鏡であり、金錯の鏡は皇帝の特徴であったことがわかる。さらに皇太子の鏡の大きさは七寸であり、ダンノワラ古墳出土の金銀錯鉄鏡より一段小さい。こうしてみれば、ダンノワラの「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」は、皇太子以上、皇帝以下、すなわち卑弥呼の称号、「親魏倭王」にふさわしい持ち物と格付けすることができる。細工の精妙さは、これ以上考えられないほどであり、皇帝の鏡の細工に等しいものといえる。
この「鉄鏡」は、魏の時代に、中国の南方で呉が成立して魏と対立したために、江南に偏在していた銅資源を北方の魏は使用することができず、鉄鏡を多く作ったこととあわせて考えるならば、この金銀錯鉄鏡が魏の時代に製作された可能性は、かなり高いと見なければならない。
つまり、この種の金銀錯鉄鏡は、まさしく邪馬台国の時代、中国の魏と西晋の時期に、中国北方に流行したものなのである。
ダンノワラ古墳出土の「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が、魏あるいは西晋から、卑弥呼あるいは台与に贈られた可能性は、充分にあり得ることだと、私は思う。
・「洛陽晋墓」のばあい
「洛陽晋墓的発掘」(『考古学報』2、1957年、中国・科学院考古研究所編、中国・科学出版社刊)を参照すると、「洛陽晋墓」のばあいは総数五十四基の墓から、二十四面の銅鏡、七面の鉄鏡が出土している。
そして、杉本憲司・菅谷文則両氏の論文に、洛陽晋墓出土鏡について、右表のような表が示されている(「中国における鏡の出土状況」[森浩一編『鏡』社会思想社、1978年刊所収]参照)。
ここで、この朝日新聞の記事における4つのディスカッションポイントを設ける。
D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定
D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。
D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。
D-4(ディスカッションポイント4)
「出土地について古美術商が言うことは必ずしもあてにならない。・・・」
D-1(ディスカッションポイント1)
1933年の鉄道工事の際に出土したものと推定
・梅原末治氏から
梅原末治氏による発見の状況の記載
「昭和8年(1933)に此の鏡の見出された地は、大分懸(豊後)日田市日高町小字東寺の俗に「ダンワラ」と呼んでいる、國鐵九大線三芳驛の東方約四百米のところである。そこは高い丘陵性の臺地の西の裾で、發見者たる渡邊音吉氏の居宅の背後の一隅に當って(第四圖)、現在削り取られてやゝ崖状を呈し、上邊に三四の横穴の遺存する部分に沿うて、いまは菜圉となってある。幅六米に近い右の地區は鐵道工事の爲に五米程も採土されたところで、その際にたまたま見出されたのであった。實地に就いて渡邊氏から様子を聽き糺すと、當時既に表面に墳丘など全く認められなかったが、もとの地表からかなり下(現在の地面よりやゝ上位)に南北の方向から三十度東に偏位した細長い區劃の形迹が約八米を距てゝ相並んでいて、鏡はその西の一方に遺存したと言う。その状況も氏が古物に興味を持って、工事の際自からそれの顯出に從うたので略ぼ知られるのである。即ち長さ四・五米もあったろうと言う細長いこの部分は、周圍とやゝ土質が違うて、自から所謂古式古墳(竪穴式)の主躰たることを示すもので、鏡はその西邊に近く完形を保って遺存、更に鏡の東北方、長軸に沿うて片側に鐵刀、轡、等の馬鐵槍身が點々と遺存したのであった。するとこれもまた所謂古式古墳に通じて見るところである。序に擧げるが、東方の相似た一つでも、その東邊から碧玉の管玉・水晶の切子玉、玻璃の小玉類が見出されて、いまもその大部分を渡邊氏が保存している。
もと西枕に伸展葬された頭邊に副葬してあった本古鏡をはじめ他の品々に對しでは、氏が保存の上で留意して、手許にとゞめたが、出土を傳え聞いて訪れる好事家に依って、それが鐵器の故でもあったろうが、すべて氏の手から離れて、鏡なり馬具類は日田市の岡田義勇氏の有に歸したとのことである。從うて鏡以外の副葬品に就いても記憶のよい渡邊氏のかたるところに從うと、鐵刀は三つに折れていて、細身のあまり長くない直刀であったと見られ、また轡は丸形の鏡板(鑣)のもので、他に角形をした金属製品を伴うたものであった。最近同じ玉林氏が齎したその馬具の一部と云う雲珠(辻金物)二個は、中央に卷具を嵌め飾ったものである。それ等殊に辻金物の作りより見ると時代は五世紀を遡らないものである。然らば、遺跡の營まれたのはこの馬具から推される時期を遡らず、またその構造副葬品よりして特に有力者のものであったとも考えられないのである。この點からすると中國前漢時代の同種の鏡として優れたものが現實に出土したことは、鏡が造作されて此の國に舶載されてから、異域の珍寶として珍重、久しく傳世したことを物語るものであり、同時に、この優れた遺品の舶載の上に中國文物の傳来の古いことが強くて意識されることである。」
なお、梅原末治は、大正から昭和時代にかけての大考古学者で、『講談社日本人名大辞典』によれば、「【梅原末治(うめはらーすえじ)】(1893-1983)大正~昭和時代の考古学者。明治26年8月13日生まれ。同志社普通学校在学中から京都帝大考古学教室に出入りし、浜田耕作、内藤湖南らに師事。昭和14年京都帝大教授。銅鐸、中国青銅器、古墳などの研究によって東洋考古学の基礎を確立した。38年文化功労者。昭和58年2月19日死去。89歳。大阪出身。著作に「鑑鏡の研究」「考古学六十年」など。」とある。
梅原末治は、多くの発掘出土品の精密な記録を残した人であった。
その梅原末治ですら、梅原末治が伝橿原市出土、大和鳥屋千塚[とりやせんづか](橿原市)出土などのように記して、古代の勾玉として紹介したものの八割以上が、現代技法によって作られたものであるとして、ガラス工芸の専門家の由水常雄(よしみずつねお)氏から、徹底的な批判をあびたことがある(『芸術新潮』1972年1月号、『週刊新潮』1972年1月23日号、由水常雄著『火の贈り物』[せりか書房、1977年刊])。鉛ガラスでなく、ソーダガラスであること、ビール瓶を溶かして作られた独特の色をしているもののあることなどが指摘されている。
・深野秀久「展望(金銀錯嵌珠龍文鏡の周辺)」(『季刊邪馬台国』85号、2004年10月、梓書院刊)
「大分県日田市出土の鉄鏡と帯鉤(たいこう)」
ダンワラ古墳(大分県日田市)出土金銀錯嵌珠竜文鉄鏡、この鉄鏡の出土および発見経緯などは『国華』853号(1963)に梅原末治氏が詳しく述べられている。それによると梅原氏は偶然にこの鉄鏡を奈良の古美術店より入手され、白木原和美氏(熊本大教授)の協力を得て鉄サビなどを取り除き、研磨したところ背面の金銀錯文がその鏡面の半分ほどに遺存していることが確認された。この鉄鏡は1933年国鉄九大線敷設工事にあたり、採土の行なわれた三芳駅東方約450メートルのダンワラ台地裾に存在した竪穴式石槨を主体とした古墳からの出土であったことをつきとめられた。さらに古墳長軸に沿って片側に鉄刀、轡(くつわ)などの馬鉄槍身が点々と遺存していたとのことで、近年日田から買上げられて重文となった金錯鉄帯鉤(きんさくてつたいこう)(大形22.8センチ、小形7.7センチの2品、中国の漢代の鉄製品で腰帯の留金具)もダンワラ古墳より出土したものではないかと言われている。
この鉄鏡は鋳鉄製で径21.3センチ、中国鏡としては中等ぐらいよりやや大きく、厚さは2.5ミリの薄い扁平な造りである。
これらから、梅原末治論文を信じるしかないが、国鉄九大線敷設工事で発見されたとする可能性は高いと考えられる。
D-2(ディスカッションポイント2)
中国では後漢末に銅銭が乱造され銅の価値が下がり、鉄鏡の方が貴重品になった。
大阪府立狭山池博物館の西川寿勝先生は何を根拠にこのような意見を述べているのか分からない。この時代は銅材料が不足していたのではないか。以下の記述がある。
■中国北方では、銅原料が不足していた
魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。中国からわが国には、銅原料のはいりにくい時期があった。
このことについて、中国の考古学者、徐苹方氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)という文章のなかで、つぎのようにのべている。
「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけてさらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、金や銀で文様を象嵌しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の『魏武帝の雑物を上(のぼ)すの疏(そ)』(安本註。ここは「上(たてまつ)る疏(そ)」と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に。”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも、鉄鏡はひき続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、すべて鉄鏡が副葬されていました。銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方で極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
魏王朝は、卑弥呼に、240年前後に、銅鏡百枚を贈った。しかし、魏は、それほど長く厖大な量の銅鏡を贈りつづけることができた状況にはなかったようにみえる。
ところが、このころわが国からは、そうとうな量の「小形仿製鏡」「広形銅矛」「広形銅戈」「近畿式銅鐸」「三遠式銅鐸」などの国産青銅器が出土している。そして、それらの銅原材は、鉛の同位体比からみて、中国から輸入したものであるようにみえる。これは、中国の南北がまだ統一されていた後漢の時代に、大量に鋳造された「貨泉」が中国にあり、それを、中国の北方で銅材が不足した時代に、わが国で銅原料として輸入したものではないか。
とすれば、そのような状況は、280年に南方の呉が滅ぶまでつづいたはずである。238年9月に、公孫氏が滅んで倭が魏に通じることができるようになった。そののち、280年に呉が滅びるまでのおよそ40年の期間が、おもに、「貨泉」などが、わが国に輸入された時期にあたるのではないか。
D-3(ディスカッションポイント3)
近畿などの別の土地に当初持ち決まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。
・梅原末治氏の弟子でその後熊本大学教授の白木原好美氏の下記の記事がある
『春の日に』金関恕(ひろし)先生追悼文集、2019年3月刊、白木原好美「漢金銀錯嵌珠龍文鐵鏡」
「鐵銹の研ぎ出しも進み、錯紋を配置する仮の台も出来た頃、研ぎ出し用の磨粉の付着を御覧になった先生(注:梅原末治氏のこと)は、「石灰じゃ、証拠じゃ---」と狂喜され、「未完成です。作業の途中です---」と追い縋る私を無視して、「ようでけた、ようでけた」と呟かれながら持ち去ってしまわれた。これが鏡を目にした最後だが、写真等に依る限り、更に手を加えた様子は全くない。いまだに未完成のままである。
其の後、鏡の重文指定を知って仰天した。当時の考古の領城は略々プロトヒストリであり。編年は鑑鏡に拠った。従って鏡については皆相当の見識を持っており、例の鏡を一見すれば異常を感じる事を私は信じて疑わなかった。現に別府大学の賀川氏など、日田市出土と称する金銀錯の帯鉤などを紹介する傍、該鏡については誤認であると公言されていた。」
「その後、九州博物館がとんでも無いことを始めた。あの鏡を中心に置き、邪馬台国那辺と問いかけながら展覧会を始めた。心ある研究者は色めき立って私に詰め寄り始めた。私は進退に窮した。」
「当時一連の遺物の物流の小拠点が、日田市と鹿児島方面の二ヶ所に在る事を察知していた。」
この白木原氏の文章は、「日田出土鏡説」に対し、「中国での盗掘鏡輸入説」と「中国での捏造品輸入説」を示唆した。
しかし、梅原末治論文に関連したその後のパネルディスカッションから、渡邊音吉氏の発言がまったくのでたらめとも思えない。
・インターネット『西日本新聞』2016年3月10日(木)朝刊(日田、久珠版)より
2016年3月6日(日)
「渡辺(音吉)氏の次女京子さんも、パネルディスカッションに参加し、梅原(末治)氏が自宅を訪ねてきた様子を紹介。」
この当時は高橋忠平氏は日田の鏡としていた。
・その後の経緯
2019年12月16日(月)
九州国立博物館での検討会で高島忠平氏は日田の鏡では無いとした。
[広瀬七郎氏(渡辺音吉氏の甥で高校の校長だった)のお話]
「この鏡が、日田から出土したという確証はない。現在、当時のことを知っている人は誰も生存していない。
真相は、永遠にわからないのではないか。(広瀬七郎氏は、高島忠平氏の最近の説についてはご存じであった。)
もし、この鏡が、日田から出土したとすれば、その情報などは、坂梨清氏を通じて、関西の骨董品業の人、さらには、梅原末治氏に達したのではないか。」
・この鉄鏡に対する見解
1933年(昭和8年)この鏡が出現。
1962年(昭和37年)7月3日梅原末治氏、この鏡を奈良の古美術商玉林善太郎氏から購入。
1962年と1963年の間に梅原末治氏は渡邊音吉氏宅を訪問調査。(天理大学参考館で、白木原好美教授が、表面の研ぎ出し?論文では「月余にわたる白木原君の協力」)
1963年(昭和38年)4月1日『国華』発行、梅原末治氏、この鏡についての論文を発表。
梅原末治氏が、話を創作したとすれば、出土地を畿内に設定したほうが、畿内派にとって、好都合であったはず。なぜ九州の日田にしたのか。
この鏡が、たとえば奈良県から出土したとすれば、「邪馬台国=奈良県説」にとって大変有利になる。
また、梅原末治論文発表時、渡邊音吉氏は存命中で、しっかりしていた。梅原論文発表後、多くのマスコミや、研究者が、この地をおとずれたようである。
もし、梅原論文が虚構の話であるとすれば、渡邊音吉氏は、質問に対して、返答に困ったはず。(「金銀錯嵌珠鉄鏡出土地の写真」など。)
このように難しい問題ではあるが、この鉄鏡は1933年当時、中国では存在が知られていない。そのような中、「中国での盗掘」と「中国での捏造品」と考えるより、古物商から購入と不明点があるが、日田出土と考えた方が、一番可能性があるように思える。
■九州と大和の地名の一致
わが国の地名学の樹立に大きな貢献をした鏡味完二(かがみかんじ)氏は、その著『日本の地名』(1964年、角川書店刊)のなかで、およそつぎのようなことを指摘している。
「九州と近畿とのあいだで、地名の名づけかたが、じつによく一致している。すなわち、右表のような、十一組の似た地名をとりだすことができる。そしてこれらの地名は、いずれも、
①ヤマトを中心としている。
②海のほうへ、怡土(いと)→志摩(しま)[九州]、伊勢(いせ)→志摩[近畿]となっている。
③山のほうへ、耳納(みのう)→日田(ひた)→熊(くま)[九州]、美濃(みの)→飛騨(ひだ)→熊野(くまの)[近畿]となっている。
これらの対の地名は、位置や地形までがだいたい一致している。
これは、たんに民族の親近ということ以上に、九州から近畿への、大きな集団の移住があったことを思わせる。」
このことは下の地図で、九州の朝倉市付近に耳納(みのう)山があり、その東に日田(ひた)があることで確認できる。そして、岐阜県に美濃(みの)があり、その北東に飛騨(ひだ)があるのと同じである。
そして、両方から鉄鏡が出土している。
(下図はクリックすると大きくなります)
更に、九州の朝倉市付近に遠市の里、岐阜県に遠市の郷がある。
このことは、狭い地域にあった地名が人の移動で、広い地域に移ったことにより、地名間の距離が離れた可能性がある。
これは下記にあるように、香山(かぐやま)でも同じことが言える。
■大和にも、北九州にもある香山(かぐやま)
日本神話に「香山」の名がしばしばあらわれることが、「高天の原=大和説」の、ひとつの根拠となっていた。
さて、古くは、大和の天の香山は、天にある香山がくだってきたものであると考えられていた。
鎌倉時代中期にできた『日本書紀』の注釈書、『釈日本紀』は、『伊予風土記』を引用して、つぎのようにのべている。
「伊予(いよ)の国の風土記に曰(い)はく、伊予の郡。郡家(こほりのみやけ)[郡役所]より東北のかたに天山(あめやま)あり。天山(あめやま)と名づくる由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天香具山(あめのかぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)れて、片端(かたはし)は倭(やまと)の国に、片端(かたはし)は此(こ)の土(くに) に天降(あまくだ)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)う。本(このもと)なり。」
すなわち、「天の香具山は、天から天(あま)くだるときに、二つにわかれて、ひとつは大和に、ひとつは伊予に天降った。大和にくだったものが、大和の天の香具山であり、伊予にくだったものが、天山である。」という意味内容である(久松潜一校註の日本古典全書『風土記下』〔朝日新聞社刊〕には、これに近い内容の逸文が、大和の国風土記逸文「香山」、阿波の国風土記逸文「アメノモト山」の条にみえている)。
『万葉集』巻三にも、鴨君足人(かものきみたりひと)の「天降(あも)りつく 天の芳来山(かぐやま)[天からくだりついた天の香具山]……」(257)という歌がのせられている。同じく巻三には「天降(あも)りつく 神の香山……」(260)という歌もみえる。
ここで、「天」を、「高天の原」であると考えてみよう。すると、大和にある天の香山は「高天の原」すなわち、九州にある香山の東にうつった姿であることになる。そして、九州から大和への政治勢力の移動にともない、地名が移った可能性があらわれてくる。
では、北九州に、天の香山にあたるような山があるであろうか。もしあれば、『古事記』神話に五回あらわれる天の香山は、畿内の香山ではなく、北九州の香山をさしている可能性がでてくる。
私は、まえに、『邪馬台国への道』という本のなかで、北九州に、香山はないらしいと書いた。ところが、その後、福岡県朝倉郡旧志波村(甘木市より十キロメートルほど大分県の日田市よりで、あとで考察する高木村の隣村)出身で、現在福岡県の小郡市(おごおり)[甘木市の西]に住む林国五郎氏から、甘木市ふきんの地名などを、詳細に検討されたお手紙をいただいた。その中で、林国五郎氏はのべられる。
「志波村に香山という山はございます。現在は高山(こうやま)と書いていますが、少年の頃、昔は香山と書いていたのだと、古老からよく耳にいたしました。」
私はこの手紙を読んだとき、あっと思った。『万葉集』では、天の香山のことを、「高山」と記しているからである。
たとえば、かの有名な、「香山(かぐやま)は、畝火雄雄(うねびをを)しと 耳梨(みみなし)と 相(あひ)あらそひき 神代より斯(か)くにあるらし……」(巻一、13)の原文は、「高山波 雲根火雄男志等 耳梨与 相諍競伎 神代従如此余有良之……」で、「高山」と記しているのである。
『古事記』『日本書紀』は、「かぐやま」を、「香具山」とは記さず、「香山」と記している。私は、「高山」の存在を、地図の上で知っていながら、それを「たかやま」と読んでいたため、「香山」との関係に気がつかなかった。「高山」を「こうやま」とよむのは、重箱よみであるから、これは、あて字と考えられる。
藤堂明保編『学研漢和大字典』(学習研究社刊)によれば「高」の上古音は、「kɔg」であった。『万葉集』が、「高」を、「カグ」の音にあてでいるのは、十分理由がある。
そして、さらに、江戸時代前期の元禄十六(1703)年に成立した貝原益軒(篤信、1630~1714)の『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』にあたってしらべてみると、たしかに、「志波村の香山」と記されている。
香山は、夜須町や甘木市の東南にある。戦国時代に、香山に、秋月氏の出城があった。天正九(1581)年のころ、秋月種実が、大友氏との戦いにおいて、八千余人で「香山」に陣取ったことなどが、『筑前国続風土記』に記されている。香山には、現在、「香山城址」の碑が立っている。
林氏は、高山(香山)の比較的近くに、金山という山もあることを指摘されている(『古事記』神話に、「天の金山(かなやま)の鉄(まがね)を取りて」という記事がある。なお、高山の近くには多多連(たたら)という地名があるのも、おそらくは、製鉄と関係しているのであろう)。
また、『伊予風土記』は、天から山が降(くだ)ったとき、伊予にくだった片端が天山(あめやま)であると記しているが、夜須町の比較的近くには、「天山」という山もある。伊予の天山も、夜須町の近くの天山も、比較的小さな孤立丘である。
『古事記』神話にあらわれる畿内の十一例の地名のうち、六例までは、昔の話ではなく、『古事記』撰録当時存在していた神社について記したものである。そして、神々の行動をいくらかともなっているようにみえる残りの五例は、すべて「天の香山(かぐやま)」という地名である。神々は、天の香山から、鹿や、波波迦(ははか)[朱桜(かにわさくら)]や、常磐木(ときわぎ)や、ひかげのかずらや、ささの葉をとってきている。この「香山」は、九州に存在し、おそらくは祭事などで重要な位置を占めたものであり、大和の香山は、北九州勢力の大和への進出とともに、名前が移されたものであろう。このように考えれば、『古事記』神話には、古くからの伝えと考えられる畿内の地名は一例もないことになってしまう。
さらに、『筑前国続風土記』によれば、北九州の香山(高山)のある旧志波村のふきんは、ふるくは、「遠(とほ)市の里」とよばれていた。いっぽう、畿内の天の香山は、『延喜式』に十市郡にあると記されていることからわかるように、ふるくは、「十市(とをち)郡」(「とをち」の読みは『延喜式』による)に属していた。そして、『和名抄』にみえる「美濃国本巣遠市郷」が、藤原宮出土の木簡では、「三野国本須郡十市・・・」となっている例がある。古代においては、「遠市(とほち)」と「十市(とをち)」の音は、等しかったか、または、きわめて近かったと考えられる。
北九州の香山と大和の天の香山とは、その相対的位置からいっても、「遠市」「十市」に存在したことなどからも、たがいに対応しているということができよう[宮崎県臼杵(うすき)郡の天の香山(かぐやま)、後世の命名と思われる]
なお、福岡県朝倉郡の「香山」の頂上には、現在、地元の実業家によって、観音様がたてられている。
・日田と朝倉は近い
日田は北九州の中心地にあると言える。そして、朝倉市にも近い。
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「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が卑弥呼の鏡とすれば、邪馬台国北九州説を強化することになる。