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第425回 邪馬台国の会
『季刊邪馬台国』誌(梓書院会長 鈴木比嵯子氏)の三大功績
邪馬台国問題はなぜ解けないか


 

1.『季刊邪馬台国』誌(梓書院会長 鈴木比嵯子氏)の三大功績

■第3回「安本美典賞」贈呈式
第3回目となる「安本美典賞」として、安本美典賞選考委員会代表の内野勝弘会長から梓書院会長 田村明美氏(ペンネーム:鈴木比嵯子)へ表彰状と副賞が謹呈されました

425-01          邪馬台国の会 内野会長、
          梓書院 田村会長、安本先生 425-2

 

 

 

 



  梓書院 田村明美会長の受賞講話

425-03 西南学院大学英文科卒、福岡大学法学部卒、東京書籍九州支社入社、その後福岡で梓書院設立、季刊邪馬台国を創刊(1979年7月)。 東京書籍は教科書関係を扱い、凸版印刷で印刷していた。凸版印刷は当時トップクラスの印刷技術であった。そこで技術を覚え、梓書院設立後は東京に出しても恥ずかしくない印刷物を出版したいと思った。そして、同じ九州出身の野呂邦暢(のろくにのぶ)さんに『季刊邪馬台国』の編集長をお願いした。野呂さんが42歳の若さで亡くなった時、安本先生に編集長を引き受けて頂いた。・・・など

                     梓書院 田村志朗社長挨拶
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会社設立から52年になる。母からバトンタッチして17年になる。 九州に出版社がない中、母は梓書院という出版社を設立した。印刷へのこだわりの例として、活版印刷(字を拾って活字を並べて印刷)時代に、いち早く出版にワープロを導入した。その時編集はワープロがやれても、印刷の方はまだできない。そこで印刷会社を指導してできるようにして行った。・・・など

 

(Ⅰ)奥野正男氏を発掘
■野呂邦暢氏への弔辞(安本『季刊邪馬台国』5号、1980年7月号)

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野呂邦暢さん。生前、私は、あなたに、二度おめにかかりました。あなたにはじめておめにかかったのは、今年(1980年)の4月20日、梓書院ででした。この対談をするためでした。そして、二度目におめにかかったのは、その一週間ほどのちの4月26日、東京神田駿河台の山の上ホテルででした。中央公論社の『歴史と人物』誌のために、古田武彦氏と私とが、論戦を行ない、その司会を、あなたがなさったからです。そして、それから十日ほどのちの、5月7日に、あなたはなくなられました。

その日の朝のテレビのニュースで、あなたの訃報をきいて、私は、愕然としました。なんということでしょう。あなたは、四十二歳の若さです。働きざかりです。日本人。平均寿命からいえば、あと二十年か三十年は、十分活躍できた方でした。

二度ほどあったあなたは、本当に、誠実でおだやかな方でした。私との対談のために、私の著書のほとんどを、前の日に、もう1度よみかえしてきて下さったとのことでした。お忙しいところを、本当に申しわけなく思いました。
正直なところ、私との対談その他のことが、あなたの御健康にさわったのではないかと、私はすこし気にしています。
さいきん、『すばる』7月号にのったあなたの遺稿「足音」を拝読いたしました。この小説の主人公の女性は、心臓がわるく、医師は、二年しかもつまいとのべています。
あなたは、心筋梗塞でなくなられたとのこと。この小説の内容などからすると、あなたは、前から、心臓が、おわるかったのでしょうか。
あなたの作品を、私は、いつも、愛読しておりました。
なにか、水晶のように、すんだ感じの作品でした。
野呂邦暢さん。もう、あなたは、おられないのですね。
お母様の悲しみは、どんなに深かったことでしょう。今は、ただ、あなたが、安らかに眠られるようお祈りするだけです。
生をより充実したものにすること、それが残されたもののつとめであるかとも思いますが、年齢的にも近いあなたが去って、この世が、紙のようにうすくはかなく感じられてなりません。
  6月11日(1980年)[40年以上前]


注:野呂邦暢(のろくにのぶ)(1937-80)
昭和時代後期の小説家。昭和12年9月20日生まれ。各種の職業を転々とし、昭和40年「ある男の故郷」で文学界新人賞佳作に入選。49年自衛隊入隊の体験をえがいた「草のつるぎ」で芥川賞を受賞。昭和55年5月7日死去。42歳。長崎県出身。諌早(いさはや)高卒。本名は納所(のうしょ)邦暢。作品はほかに「鳥たちの河口」「諌早菖蒲日記」など。

 

■奥野正男氏(1931~2020年)を悼(いた)む(安本『季刊邪馬台国』139号)
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今年(2020年)の6月6日に奥野正男氏が亡くなられた。
奥野正男氏は、「邪馬台国=九州説」の雄であったが、本誌『季刊邪馬台国』から登場された方である。これだけでも本誌存在の意義があった、といえるほどである。
本誌の創刊号が出たのは、1979年の7月のことであった。その創刊号で、「創刊号記念論文」を募集した。
この募集には、全国の、ほとんどあらゆる都道府県から応募があった。応募総数237編。
その237編の中で、一頭地を拔く作品が、奥野正男氏の「邪馬台国=九州論 -鉄と鏡による検証-」であった。
この論文は、最優秀作として、本誌の第5号(1980年7月)に掲載されている。
私も、論文選考委員の一人であったが、これは、もう文句なしの第1位の作品であると思った。
本誌第5号の「入選作発表」の文章の中に、次のような文がある。
「【選考の基準】
237編の論文から、入選作を選考するにあたって、次のような基準を定めた。

(1)豊富な客観的「事実」を提出し、それに立脚していること。その結論への賛否はまちまちであるとしても、そこで用いられているデータには、異論の余地がなく、そのデータじたいが「事実」として、大きな価値をもっていること。

(2)視点が明確であること。たとえば、最優秀作の奥野正男氏は、「鉄と鏡」という立脚点に立ち、優秀作の伊勢久信氏は、「韓国古代史」からみるという立場に立つ。そして、みずからの立脚点については、プロ、または、プロたりうる力を示しておられる。

(3)論理が明晰で、無理のないこと。

以上のような基準をもうけたので、基準をかえれば、当然入選作が変ってくる可能性がある。たとえば、「読みものとして読ませる筆力をもっている」というような基準を加え、そこに力点をおけば、順位が、いれかわる可能性もある。しかし、「論文」として、選考に客観性をもたせるとすれば、さきの三つのような基準に立つことは、許されるだろう。

■ずばぬけた力作---奥野正男氏「邪馬台国九州論」
「応募作品237編中の、ずばぬけた力作は、奥野正男氏の『邪馬台国=九州論 -鉄と鏡による検証-』である。邪馬台国研究の、今後のあり方の一つを示している。鉄と鏡とのデータの示し方は、完全にプロである。今日まで、邪馬台国問題に関連して、鉄と鏡のデータ(特に鉄についてのデータ)を、これほど充実した形で示した人はいなかった。そのデータの示し方は、まさに圧倒的である。鉄こそは、弥生後期、すなわち、卑弥呼の時代の遺物として、異論のすくないものである。今後、邪馬台国問題について論ずるさい、奥野正男氏のこの論文をさけて通ることは、できないであろう。現在の邪馬台国に関する諸論考の平均的水準をはるかに抜く秀作と考えられる。」

「邪馬台国問題についての、新しいスターの誕生をよろこびたい。文章にけれん味がないから、大向こうの喝采をねらうよりも、あいつぐ力作の発表により、邪馬台国問題の論壇を制圧して行くことである。今後の活躍を期待したい。」

この論文からはじまって、奥野正男氏の破竹の進撃がはじまる。圧倒的な力作といえる著書を、毎日新聞社、PHP研究所、白水社、新人物往来社などの一流出版社から、次々と出された。
2004年には、旧石器捏造事件を扱った『神々の汚れた手』(梓書院)によって、毎日出版文化賞を受賞された。
そのまえの1981年には、第6回郷土史研究賞特別賞も受賞されている。
また、1994年~2002年には、宮崎公立大学の教授をされている。
『奥野正男著作集』全五巻(梓書院刊)も、刊行されている。
私とは、探求方法も、結論も、かなり近く、同志を失った思いで、哀惜にたえない。
奥野正男氏は、若いときは、苦労をされた方と聞くが、いつもおだやかな、上品な紳士であった。享年八十八歳。
ご冥福をお祈りする。

 

(Ⅱ)毎日出版文化員賞を受賞(2004年)
『季刊邪馬台国』86号(2005年1月) 「編集後記」
●本誌78~81号および83号に連載された奥野正男氏の労作「神々の汚れた手」が、同名の単行本として本年6月、小社より刊行されていたことは、周知のとおりである。各方面からの反響さめやらぬ同書だが、この度、毎日新聞社が文化の振興に寄与することを目的として設けている「毎日出版文化員賞(第58回‥第2部門〔人文・社会〕)」を授与されることが決定し、11月3日付『毎日新聞』紙上にて、全国に向け発表された。

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○旧石器捏造をめぐる、一連のできごとの実像と、真の責任の所在は、未だ、世間一般には浸透していない感がある。それどころか、人々の日々の生活とは直接の関わりがないだけに、社会的に風化してしまう危険すらありうる。しかしながら、本件がはらむ病理を、どこまで浄化できるか否かは、わが国の歴史学の将来と、その精神的健全さのゆくえとに直結しており、そのことは、小誌でも繰り返しのべてきたところである。
それだけに、同書の受賞は、わが国の歴史学界にとって、大変意義深いものであるといえよう。また、同書の初出誌である小誌にとっての、喜びでもある。 (N)

 

(Ⅲ)『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』偽書事件を解明
『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』という文献がある。
この文献は、現代人の、和田喜八郎(1927~1999)という人が製作した厖大な偽書である。
たとえば、インターネットのフリー百科事典の『ウィキベディア(Wikipedia)』で、「和田喜八郎」を引くと、つぎのような、なかなか要領のよい説明がのっている。

この内容については、2022年9月18日の 第403回の「邪馬台国の会」講演内容を参照。

このような話は、ふつうの結婚詐欺などと、構造が、基本的に同じである。
結婚をしたいと思っている女性がいるとする。練達の結婚詐欺師は、女性の結婚をしたいという潜在的願望にたくみによりそう。それにあうように話をもって行く。まったくのつくり話でよいのであるから、自分は、某航空会社のパイロットであるとか医者であるとか、弁護士であるとか、いくらでも、よい条件をそろえることができる。
なお、『東日流外三郡誌』が、偽書であるとを示す本に、次のようなものがある。

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当時、『季刊邪馬台国』52号の特集で取り上げられた「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』」のことが、『毎日新聞』夕刊1993年11月2日刊の記事になっている。更に、『季刊邪馬台国』55号で取り上げられた「徹底追跡第五弾衝撃の新展開!! 偽書『東日流外三郡誌』 古田武彦昭和薬大教授に重大疑惑」のことが、『毎日新聞』夕刊1995年2月14日刊、で記事となっている。
更に週刊誌『サンデー毎日』・『週刊新潮』・NHKの『ナイトジャーナル』でも取り上げられた。

これらのことを『土佐日記』の記述からの文章として掲載した。
(これらは下図参照。下図はクリックすると大きくなります)
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■以前には下記の歴史関係の雑誌があり、よく売れていた。しかし最近、歴史系の雑誌のほとんどが廃刊(休刊)になった。

『歴史読本』(新人物往来社)[2013年休刊]
『歴史と旅』(秋田書店)[2003年休刊]
『歴史と人物』(中央公論社)[1986年休刊]
『東アジアの古代文化』(大和書店)[1986年廃刊]

現在、歴史関係の雑誌はムック本である。
ムックはマガジンとブックを合成した言葉である。ムック本は写真が多く、読みやすいが、深く追及することが無い。

『歴史人』(ABCアーク)
『歴史道』(朝日新聞出版)
『歴史街道』(PHP研究所)

その中で、『季刊邪馬台国』は雑誌として残っている。
『季刊邪馬台国』は志がある。志があればいろいろなことができる。
そして、『季刊邪馬台国』の編集の水準は高い。

2.邪馬台国問題はなぜ解けないか

日本考古学の現状については、すでに、各分野からの多くの批判がみられている。
それは、現在の日本考古学が、世界の考古学の潮流や、現代科学の潮流から、大きく逸脱しているからである。

それをまとめてみよう。
(1)三人の西洋史学者、西洋人史学者の見解。
これについては、前回の 第424回の「邪馬台国の会」でやや詳しく紹介した。
(a)村田数之亮(かずのすけ)氏(大阪大学教授など)の見解。
(b)ジョージ・サンソム氏(スタンフォード大学教授など)の見解。
(c)林健太郎氏(東京大学教授、学長など)の見解。

(2)二人の外国留学の経験のある考古学者の見解。
(a)細谷葵(ほそやあおい)氏(お茶の水女子大学准教授、イギリス、ケンブリッジ大学留学)
細谷葵氏は、「日本考古学における『理論』の欠如」を指摘し、提示されているものは、「説明も議論も伴わないバラバラのデータの山積み」で、これは「日本考古学の独特のあり方」であり、欧米と日本とが、「根本的に異なる原理において進められているということ」を指摘。これも前回の「邪馬台国の会」で紹介した。
細谷葵氏は、つぎのようにも述べる。
「遺物全体の傾向を読み、データを『まとめて』いこうとする欧米的な研究法とは全く性質を異にする。」

(b)竹岡俊樹(としき)氏(旧石器捏造事件を告発された方。フランス、パリ第6大学留学。博士課程修了。博士号を取得)。
竹岡俊樹は、その著『考古学崩壊』(勉誠出版、2014年刊)のなかでのべる。
「80年代に始まるソフトウェア経済(軽薄短小)のなかで、町おこしとマスコミにすり寄って、考古学は学問としての考古学を失った。今はもう、学問としての考古学に期待してくれる『国民』など、どこにもいないのかもしれない。
そして捏浩事件にもみられた『インチキ性』は考古学全体を覆う現象であるという。」

「経済の発展と共に緊急調査は急増していった(費用で示すと、1970年11億円→77年86億円→80年260億円→88年590億円→91年930億円)。そして、1996年に全国で行われた緊急発掘は13000件を超え、発掘調査にかかる費用は97年には1300億円を超え、発掘に携わる専門の職員は99年に7000人に達した。この発掘費用はこの10年でも1兆円を軽く超え、そのほとんどが税金である」

「2兆円の税金をかけて発掘し死蔵されている山なす資料・・・・」

「経済に身を売り、対象とする『国民』を低く見積もることによって学問は崩壊する。学問が崩壊すれば、年間1000億円の発掘のための『消費』の中で、行政職員の上から下まで、大学教師も金銭にまみれる(多くの事例を知っている)。」

(3)外国の科学ジャーナルも、批判している。
毎週木曜日に、イギリスで発行されている国際的な科学ジャーナル『ネイチャー(Nature)』誌は、旧石器捏造事件のさい、「捏造された出土物は、批判の欠如をさし示す(Fake finds reveal critical deficiency)」という文章をのせ、「井の中の蛙(かわず)、大海を知らず」という『荘子』にもとづく日本のことわざの英訳 "a frog in a well that is unaware of the ocean" を引用して、この事件を痛烈に批判している「Cyranoski,D.,Nature,Vol408 2000年11月号)。

そこには、次のような文章がみえる。
「この(旧石器捏造事件の)話は、藤村新一が捏造作業をつづけるのを許した科学文化についての疑問をひきおこした。」

「日本では、人々を直接批判することは、むずかしい。とくに、エスタブリッシュメント(既成の権威、制度、組織)の地位にある人々を直接批判することはむずかしい。なぜなら、批判は個人攻撃とうけとられるからである。
(In Japan, it is hard to criticize people directly, especially those in established positions, because the critique is taken as a personal attack.)

(4)考古学者の中にも、声をあげている人がいる。
同志社大学の教授であった考古学者の森浩一氏(1928~2013)は、述べている。
「ぼくはこれからも本当の学問は町人学者が生みだすだろうとみている。官僚学者からは本当の学問は生まれそうもない。」

「今日の政府がかかえる借金は、国立の研究所などに所属するすごい数の官僚学者の経費も原因となっているだろう。」(以上、『季刊邪馬台国』102号、梓書院、2009年)

「僕の理想では、学問研究は民間(町)人にまかせておけばよい。国家が各種の研究所などを作って、税金で雇った大勢の人を集めておくことは無駄である。そういう所に勤めていると、つい権威におぼれ、研究がおろそかになる。」[『森浩一の考古交友録(朝日新聞出版、2013年)]

(5)周辺の科学者たちも、のべている。
(a)旧石器捏造事件がおきたとき、人類学者で、国立科学博物館人類研究部長(東京大学大学院理学系生物科学専攻教授併任)の馬場悠男(ばばひさお)氏は、のべている。
「私たち理系のサイエンスをやっている者は、 確率統計学などに基づいて『蓋然性が高い』というふうな判断をするわけです。

偉い先生がこう言ったから『ああ、そうでございますか』ということではないのです。ある事実が、いろいろな証拠に基づいて100%ありそうか、50%か、60%かという判断を必ずします。どうも考古学の方はそういう判断に慣れていらっしゃらないので、たとえば一人の人が同じことを何回かやっても、それでいいのだろうと思ってしまいます。今回も、最初は変だと思ったけれども何度も同じような石器が出てくるので信用してしまったというようなことがありました。これは私たち理系のサイエンスをやっていると、まったく言語道断だということになります。」

「経験から見ると、国内外を問わず、何カ所もの自然堆積層から、同じ調査隊が、連続して前期中期旧石器を発掘することは、確率的にほとんどあり得ない(何兆分の1か?)ことは常識である。

だからこそ、私は、東北旧石器文化研究所の発掘に関しては、石器自体に対する疑問や出土状況に対する疑問を別にして、この点だけでも捏造と判断できると確信していたので、以前から、関係者の一部には忠告し、拙著『ホモ・サピエンスはどこから来たか』にも『物証』に重大な疑義があると指摘し、前・中期旧石器発見に関するコメントを求められるたびに、マスコミの多くにもその旨の意見を言ってきた。
しかし、残念ながら、誰もまともに採り上げようとしなかった。とくに、マスコミ関係者の、商売の邪魔をしてもらっては困るという態度には重大な責任がある。」(以上、春成秀爾編『検証・日本の前期旧石器』学生社、2001年)

馬場悠男氏は、またのべる。
「今回の旧石器遺跡捏造事件に関しては、日本の考古学者たちの特殊な状況が遠因であると推察している。すなわち、高齢あるいは著名な権威者に対する過度の追従、科学的批判精神の不足、下部現場担当者と上部機関研究者との二重構造性、確率統計的な蓋然性と再現性に対する認識不足、などである。」

「考古学界全体として、『年功序列と慎み深い意見発表』ということで、先輩の業績にたいしては批判しないわけです。批判すると、「お前は生意気だ」なんてことになって、先輩から恨まれてしまう。うっかり若いうちに批判すると、永久にまともな職に就けない可能性が大いにあったわけです。」

「批判をするかしないかは自由なのですが、今回みたいに、今までの常識とは整合しない『大発見』によって、列車『前・中期旧石器号』が断崖絶壁に向かっている場合には、手をこまねいていてよいのでしょうか。少なくとも列車から降りて、大声で叫ぶ必要があるでしょうし、できればポイントを切り替えるなり、前に出て止める工夫をすべきだろう、と思います。しかし、そういうことをした考古学者はほとんどいませんでした。」

(b)東京大学名誉教授の医学者、黒木登志夫氏は、その著『研究不正』(中公新書、中央公論新社、2016年)で、12年に発覚した、ある麻酔科医のおこした一連の論文捏造事件について、次のように記す。
「学会とジャーナルは積極的に自浄能力を発揮した。特に、日本麻酔科学会の報告書は、今後のお手本になるだろう。」
そして、旧石器捏造事件については、次のように記す。
「日本考古学協会は、検証委員会を立ち上げたが、ねつ造を指摘した竹岡(俊樹)と角張(かくばり)[淳一(じゅんいち)]は検証委員会に呼ばれなかった。ねつ造発見の10日前に発行された岡村道雄の『縄文の生活誌』は、激しい批判にさらされ回収された。しかし、岡村は、責任をとることなく、奈良文化財研究所を経て2008年退官した。」
「SF(藤村新一)のねつ造を許したのは、学界の長老と官僚の権威であった。その権威のもとに、相互批判もなく、閉鎖的で透明性に欠けたコミュニティが形成された。」

考古学界(会)も、マスコミも、考古学を管轄する文化庁も、チェック機能をはたさない。
このような体制は、厖大な人員と資金(税金による)と発言、発表の機会の多いエスタブリッシュメントが、道を誤っていることから生じている。
次回以降の「邪馬台国の会」では、そのようなことを、ややくわしく検討して行きたい。

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