つぎに[図6]のグラフをご覧ください。このグラフは「古事記」の神話にでてくる地名の統計をとったものです。そうすると九州の地名が一番たくさん出てきます。つぎにたくさん出てくるのが出雲の地名です。畿内の地名はごくわずかしか出てきません。そこで「古事記」神話の舞台は主に九州と出雲であるということになります。
津田左右吉さんのいわれるように「古事記」の神話は大和朝廷の役人たちが天皇家の権威をたかめるために、机の上で創作したとすれば、畿内大和の地名が一番たくさん出てきそうなものですが、事実はそうでない。九州の地名が一番たくさんでてくる。
このことは何を意味するか?
大和朝廷の人たちは遠い祖先の人たちが九州にいたんだという伝承、おぼろげな記憶を持っていたのではないかということになります。
「古事記」神話には畿内の地名もいくつか出てきます。しかし、その地名をていねいに調べてみますと、本来の畿内の地名はひとつも出てきません。たとえば、「住吉」という地名が出てきます。
これは昔の「墨江」です。本居宣長は摂津の「住江」、つまり大阪府の「住吉」を考えています。したがって、[図6]のグラフでは「墨江」は畿内の地名としてカウントしました。
しかし、博多のあたりにも、宮崎県にも「住吉(墨江)」神社はあるのです。特にこの住吉神社の成立が、伊邪那伎の命の禊と関係するならば、むしろ宮崎県の地名とすべきでさえある。つまり地名の統計をとると、九州が日本神話の主な舞台になっているということがいえるわけです。
さらにこの神話の内容を見ますと、神話のなかには「天の安川」という川の名が記されており、この「天の安川」において神々が会議を開き、いろいろなことをおこなったと書いてあります。
「地名は言語の化石」といわれるように、古い地名が残りやすいといわれております。九州の地図を見ますと、北九州の中心部の甘木市の近くに、夜須町というところが現在でもあります。そうしてその夜須町あるいは甘木市の近くに小石原川という川が流れています。この川は別名「夜須川」とも呼ばれています。
ごく最近、ここから平塚川添遺跡という大規模な環濠遺跡が出てまいりました。これははたして神話を裏書きするものなのかどうか、検討に値する興味深い問題だと思います。
[図7][図8]の地図をご覧下さい.
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図7]の地図は畿内、大和の地名です。[図8]は北九州の夜須町の地図です。ご覧いただきますとおわかりのように、ほとんど同じ場所に同じような地名があります。
たとえば、北の方に「笠置山」という山があり、「春日」というところがあり、「三笠(御笠)山」というところがあります。あるいは「長谷」であるとか「朝倉」であるとか、ほとんど同じような位置に同じ地名があります。
これはいったい何を意味するのでしょうか?
図7 大和郷のまわりの地名
図8 夜須町のまわりの地名
結論からいえば、これは北九州の邪馬台国勢力が東に移って大和朝廷をたてたさいに、もとの九州の地名を畿内に持っていったんだとわたくしは思います。
イギリスの人たちがアメリカに渡り、たとえば「ニューヨーク」とか「ニューハンプシャー」とかイギリスの地名をたくさん持っていった。それと同じような事情があっただろうと考えます。
畿内の奈良県もこの甘木、朝倉のあたりも、地形が非常に似ていて、大きな川の上流であり、ある程度盆地的になっている。こういうことから、わたくしは甘木、朝倉あたりが邪馬台国の中心地であったと考えます。
[図9]をご覧ください。
これは小山修三さんがつくられた九州地方の人口の分布ですが、筑後川流域の甘木、朝倉を含むあたりが人口の密集地帯であることがおわかりいただけると思います。また、南九州にも人口の密集地帯があることもご注目ください。
それからまた、[図10]に出雲の地図が書かれております。
いずものところに「稲左(伊那佐)の小浜」というところがあり、そこに建御雷(たけみづち)の神と天の鳥船の神という高天原勢力の二柱の神が上陸して、出雲の大国主の命と談判したと「古事記」「日本書紀」には書かれています。
天の鳥船の神は船の擬人化だと考えられます。高天原というのはどこにあったか。高天原が仮に畿内にあったとするならば、畿内から出雲では船では行きません。高天原が九州にあったとするならば、船で行かなければなりません。つまり高天原は九州地方にあったのだろうと考えられるわけです。
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